年: 2008年

  • そしてそれ以上のことではない

    行動のなか以外に現実はない。

    “シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)” (竹内 薫, 竹内 さなみ) P.74

    素敵だ。ジャン=ポール・サルトルという哲学者の言葉との由。外連味のない表現、洗練された言葉は一切の無駄がない。そして、言葉ではない。表現の前に跪き茫然自失とする。「行動」の意味は? 「現実」の意味は? そこまで掘り下げていない自分。

    かつてないぐらいの渇き。躰が欲する渇き。渇きを癒すために五感を研ぎ澄ましたい、なんて欲求が湧く。コップの表面張力みたいだ。こぼれないでと祈る。いつまでもたっても渇きはいやされないでほしいと願う矛盾。新しいことをやるためにやめる。時間が生み出す不安な余裕。その揺らぎがたまらなく面白い。

    同じくサルトルの表現。

    君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ。

    “シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)” (竹内 薫, 竹内 さなみ) P.77

    自由? 選ぶ? 創る? 意味。

    縛られた選べない自由より、解き放たれた選べる不自由でありたい。創りたい。創るぞ。そして、他者へ感謝。

    [ad#ad-1]

  • 待ちきれない人たち

    死なないでいる理由 (角川文庫)

    すいぶん前のことだが、ゴリラの生態研究で長らくアフリカに渡っていた友人が、久しぶりに日本に帰ってきて、こんなふうに話してくれたことがある。アフリカのことではなく日本のことだ。街にファーストフード・ショップがずいぶん増えていて、そこで食べている人たちを見ていると、つい、人間はサルに退化しつつあるのではないかとおもうというのである。

    “死なないでいる理由 (角川文庫)” (鷲田 清一) P.36

    人間は食べられる以上の餌を獲得すると、みなで分けて食べる習慣を身につけた。共食。一方、サルは餌を見つけても、その場で、自分が食べられる分だけ食べる。ファーストフード・ショップで金とバーガーを交換。ひとりで席につき食べる。

    今日はイオンでお買い物。普段なら午前の早い時間に行くけど、事情があって14:00頃に行った。案の定、それなりに混んでいた。レジは行列。狭い店内にカートを押す人たち。思うようにすれ違えずみんなの表情が曇る。カートに子供をのせる人や小さいカートより大きいカートを押す人たち。それぞれの事情が交錯していた。

    かごを持って歩き出し、野菜の値段を見て目を丸くした。高い。お客さま感謝デーに行ってしまった(5%OFFと宣言して総じて価格を上げる)自分に怒りつつ、それでも普段より、さらに5%OFFの値付けより上がっていたので驚いた。やるなぁって感じ。商売上手。年末年始の運送費は特別料金なのかな?

    莫迦らしい、よって必要最低限の野菜と食料だけカゴへ入れてレジへ。

    レジは砂糖みたいだった。アリの行列。少しでも早いところへとすれ違えない通路を滑走する人、人、人。父親に1番から18番まで確認させたり、どこのレジが二人体制かと見に行ったり。レジの導線には奉仕品と書いた商品が置いてある。狭い通路がさらに狭くなる。歩行の快適性と導線の寸断を天秤にかけたとき、イオンの店長は後者を選択した模様。どれだけ’印象が悪くなっても気にしなくてよいのだろう。掲示板へ苦情を申し立てられても、一円でも売ろうとする精神に敬服した。

    僕は待ち人が少ないレジへ。もちろん一人体制。だからみんな並ばない。進まない。後ろの人たちはイラついている。後ろを振り向くと、首をキリンみたいに伸ばして前方を見る人たち。思わず笑いそうになったので、他のレジを見回すと、子供の頃にやった格好をしていた。少しでも身長を高く測定してもらおうとする仕草。笑いそうだ。だけど、10分も並ぶと阿鼻叫喚の様相へ。罵詈雑言の囁き声。

    僕から二人ぐらい前の女性が「マイカゴ」を持っていた。大量の商品。その女性は、「これはここに入れて」とレジの女性へ指示する。どうやら、商品が自分の思い通りに収まらないと気に入らないらしい。後ろの人たちは、我慢の限界か。

    僕は、周りをぼおっと観察していた。意識してぼぉっとすればするほど自分の時間と周りの時間がずれていくように感じた。

    もう待てないんだ。

    そう、待てない。コンビニエンスストアやファーストフードで待てない。待つ必要もない。待てるのはバーゲンと新装開店。

    あたりまえ。待つほうがおかしい。待たせるなんて何事。元旦からイオンはやっている。なのに待つ。そこには待てない人の感情が充満する。

    携帯電話は待ち合わせ場所と待ち合わせ時間を取り去った。きれいに。

    待つ。じりじりすぎていく時間。待つは消える。

    待たなくてもいい時間、待たなくてもいい場所を選ぶという自責はない。それでいいんだ、と。ぼぉと待っている自分のなかで、つながった。「待つ」と「弱さ」。

    「人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている」。十七世紀の思想家、パスカルのこの言葉をくりかえし噛みしめておきたい。

    “死なないでいる理由 (角川文庫)” (鷲田 清一) P.39

    [ad#ad-1]

  • [Review]: かけがえのなもの

    かけがえのないもの (新潮文庫)

    ハンス・セリエというオーストリア生まれの医者がいます。[…]この人はウィーン生まれで、お父さんはオーストリアの貴族でした。しかし第一次世界大戦が起こってオーストリア・ハンガリー帝国が分解してしまいます。今の小さなオーストリアになってしまった。セリエのお父さんは、先祖代々持っていた財産を失いました。亡くなるときに息子に言った言葉が、「財産というのは自分の身についたものだけだ」です。それはお金でもないし、先祖代々の土地でもない。戦争があればなくなってしまう。しかし、もし財産というものがあるとしたら、それはお墓に持っていけるものだ、と。

    “かけがえのないもの (新潮文庫)” (養老 孟司) P.162

    レンタルが流行っているらしい。バッグやドレスのレンタル。ブランド商品。車の共有やヒッチハイクのウェブサービスが登場した。背景は節約との由。皮肉だなと思った。物を買うお金を所有していないけれど、所有欲を満たしたい。それが端を発して、「ほんとうに持つ意味があるのか」を自問する。「持たない」意味に気づく。

    あたりまえだけれど、お金や土地、家を墓へ持っていけない。にもかかわらず、あたりまえと受け止めていない。相続はある。そういうものだ。だけど、それすらも「制度」が当然かのように錯覚しているから存在する。

    激動なんて言葉がふさわしくない社会変革を経験した人たちは、定常をどこかで疑っている。ある日、突然、制度が終了する。人生ゲームの始めに戻るなんて生やさしいぐらいに。昨日までの現在と今日の現在が断絶される。通用しない。あるのは予定のない現在。それが未来。修羅場をくぐった人の物腰。そういう人たちは豊かになっても、「食うこと」を忘れない。いかなる時代でも人間がすることは何かを考える。それを身につけた人は食えると。それが「自分の身についたもの」。かけがえのない財産。

    かけがえのないという意味を個性と変換したらややこしい。脳内変換した人は、周囲の認識をスルーして自分のやりたいことを主張する。あるいは自分のやることが「正しい」と誤解している。

    「何かをするより先にあるもの」ばかり気にして、「何かをひたすら繰り返す」ことを見ていない。他者にもまれ、周りがおのずと認めてくれたときに現れる幻想を追いかけない。その幻想が個性だ、と僕は思う。

    ひたすら”しびと”ばかりを腑分けしてきた先生を周りは認知した。それを個性と勝手にラベルした。当人にとってはどうでもよい話だ。だけど、そのどうでもよい話を先に拘泥してしまう。何より優先して。

    言葉で考えるから。言葉で切り分けたいから。言葉で知りたいから。知れば得たと氷解できるから。

    最初の紙に従って行くと、トイレです。おしっこをとられる。次の紙を見ると今度は血液検査。三人くらい看護師さんがいて血液を採る。次はレントゲン。その次が胃カメラ。胃が悪いと余計なことを言ったので、薬を飲まされたり、注射をされたりしてゲエゲエ言いながらカメラを飲む。検査が全部終わったら午後になってしまいました。二人で顔を見合わせて、「丈夫でないと病院なんかこれないな」。
    医者は何も言わない。「一週間たったら検査の結果が出るからまた来てください」でおしまいです。
    一週間たって病院へ行くと、私の顔をちらっと見て誰だか確認したあと、ずっと検査結果表の紙を見ているわけです。愕然として「ああこの紙が俺の身体なんだ」と悟りました。

    “かけがえのないもの (新潮文庫)” (養老 孟司) P.106

    数値への信仰。情報への信心。公私の師と尊敬するM先生は口にする。「歯があなたの医院の扉をノックしましたか?」と。そして思う。「物語があなたの医院の扉をノックしましたか?」と。ノックした人は誰か。その誰を査定したい。欲求は言葉を生み出す。いつしか言葉の発掘が目的と化す。合目的的。

    もっと見なければならない。見えていない。

    予定表に記された将来の日付。そこに行動を埋めていく。埋まった将来は未来ではない。それはもう現在。先生が折にふれ使うこの比喩を読んで、「かけがえのないもの」を考える。

    源氏物語にある「それだにいと不定なる世の定めなりや」の不定。そこに身を置く。底知れぬ不安。葛藤。孤独。不定を日常とす。やがて訪れる一瞬の定常。幻覚かもしれない。だけど、その一瞬が、「かけがえのないもの」なんだ、と僕は思う。

    [ad#ad-1]

  • 優れた映像には記憶に残る音楽を

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Jcp7v0uoybc]

    フラッシュダンスのラストシーン。数人の吹き替えが踊っている。その人たちのボディメイクを担当したのは日本人の女性。カオリ・ナラ・ターナー氏。主人公のジェニファー・ビールと同じ肌の色にメイクした逸話は有名。日本人で初めてのハリウッドメークアップ・ユニオンの正式メンバー。ハリウッドのユニオンについてはGoogleにおまけせ。知れば知るほど驚愕。

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=_rCPwhC6R8A]

    ワーキング・ガールの主題歌。アカデミー賞主題歌賞受賞。大好きな映画でもう何十回観たことか。そのたびに発見がある。

    最近、映像と音楽に興味を抱いている。優れた映像は記憶に残る音楽に寄り添っている。映像が強烈だから音楽が記憶に残ったのか、音楽が素敵で映像が洗練されたのか、両者の関係はテミスの像みたいだ。

    言葉は自然を腑分けする。「前提」を考えず、疑いもせず、そのまま受け入れる。にもかかわらず結論を言葉で切り分ける。わからないものを言葉にして安心し、単語に変換できれば胸を撫で下ろす。

    知ったことを得たことと思い込む。

    [ad#ad-1]

  • 一刻も早く倒産してほしい

    田原市にはトヨタの工場があり、今年度に約70億円を見込んでいた法人市民税の大半を失う見通し。田原市の財政を取り上げた12日の番組で、アナウンサーが「道路は穴が開いても放置、河川ははんらんするかもしれない」「小中学校の耐震化工事ができなくなり、市内の小中学生は心配」とコメントした。

    via: asahi.com(朝日新聞社):「税収減り道路の穴放置」報道 TBSが田原市に謝罪 – 社会

    来年には倒産してほしいと切望。

  • 元気な時の光景と病の時の幻想

    2011年にアナログ放送が終了してデジタル放送へ移行する。その頃にはテレビを廃棄しようと決着した(あとは勇気と実行だけ)。そんなくだらない話よりも、2011年頃の仮想は、どのような映像と言語をデジタル信号に変換してくれるのかなと想像する。

    長等公園の裏の山

    ルーブル美術館で世界を観賞したい。マチュピチュでタイムマシンに乗りたい。南極で生命を感じたい。気力と体力、そして好奇心を持っていれば実現できる。もし、それを仮想が完璧に再現できるとしたら、周りは反応するか。

    「所詮、バーチャルだ」「躰がともなっていない」「脳が錯覚する映像にすぎない」

    自然科学の反論もあれば、思想の意見もあると思う。

    いずれも、「元気」を前提にしているだろう。あるいは「元気」を忘れているかも。仮に、もし、大切な人が病に倒れたとき、富士山に登りたいと口したとする。2011年、仮想は現実の映像を完璧に表現できた。今でも目にする、巨大な眼鏡付ヘルメットをかぶったら映像が現れる。否、今いる空間がすべて切り替わる。ルーブル、マチュピチュ、南極に。360度。音。

    そうなった時、富士山に登りたいという希望を叶えるかどうか。そのやりとりを揶揄するか。

    元気か病かによって、現実か仮想を区別する。

    トレッドミルはカロリー消費に貢献するだけ、それ以外何の役にも立たないと誰かが言う。実際やっているけれど、そうだと納得。トレッドミルの上で音楽を聴きながら5km走る行為と公園で風を切る音に耳を傾けながら走る行為、どちらが躰に影響を与えているのか僕は知らない。

    知らないから想像する。2011年、トレッドミルの上で走っていると、突然、風景が変わる。そこは自分が走りたい場所。四方八方から聞こえる音。映像と喧噪は表現されている。

    その時、僕は何を峻別したらよいのだろう。今からとても楽しみだ。

    [ad#ad-1]

  • 何かを見つけたいなら見るのをやめること

    キャラバン

    単語と単語を合成して修辞の化学式ができあがる。それは言葉遊戯。単語を弄ぶ。修辞を肴に酔う。先人の至言と巧言令色の差異は何か。至言の文字に反応し、巧言令色を嘲笑する。ほんとうは至言と巧言令色を分別しなくてよいはず。読んだと動いたは同等にあらず。「意味」。一体、意味はどこにあるのか。意味は行動に隠れている。能書きをたれずに動け。考える前に走れ。言葉にする前に感じろ。これらは年表に書き記される前からあった。五感を見失う。

    数秒で最適解や経済的合理性のある解を選択できない。そう肌で理解している。肌で理解していても、躰は選択している。なぜだろう。行動する。行動が与えた結果を認識できるか否か。意識の行動ではなく、無意識の過程で計算して計画する。

    計画で安心。言葉遊戯で慢心。

    目に見えないという自己陶酔。疎明。目の前で行動しているならば相手は見ている。相手を見くびるから目に見えないと思い込む。

    わからないなら調べればいい。文字の情報は獲得できる。きちんと分類され整理された文字列。それすらしない。文字の情報は獲得できても、意味を理解できない。言葉の呪縛。行動を制限する。解き放つ。”YES”の直観より”NO”の理由を思いつく。たくさん。

    行動は意味を整理する前のノイズを豊富に含む。誰かが編集した文字列の固まりや映像はノイズが低減されている。あるいはノイズがない。意味を整理する前のノイズ、それらを除去するかどうかの判断。行動の産物。そのプロセスは豊穣な識を含み、滋味あふれる。

    直観は勘じゃない。膨大な事実と数値から導き出される結論。無意識。没我。

    [ad#ad-1]

  • 寸陰の質感

    この間、荷物が届いた。二つあった。一つは母親からで、もう一つは誰だろうと送り状へ目をやった。吃驚した。今年、お世話になったクライアントからだった。ウェブサイトを制作している最中で、諸事情で仮運用中。完成は来年。こんな経験は初めて。少し戸惑いつつ、さっそく開封した。もう一度目を見張った。ヨックモック。大好きなお菓子。大好きを超えている。自制心を停止。ほおっておけば、半日で食べてしまう。

    ヨックモック

    先日、F先生から信楽焼のカップを頂戴した。恐縮した。嬉しかった。こちらがお世話になりっぱなしなのにプレゼントをもらえるなんて。仕事でお返ししたいと誓った。F先生もヨックモックを贈っていただいたクライアントも、そんな気持ちをまったくお持ちでないはず。そう理解しているけど、仕事で満足を超える「何か」を摑んでもらえると、快感だ。廃業するまでこの気持ちを持ち続けたい。

    自分が誰かにプレゼントを贈るプロセスを脳裏に描く。そうすると、喜びは爆発する。なぜなら、たとえコンマ何秒であったとしても、贈りたい人の顔や仕草、声、言葉を頭に思い浮かべるから。寸陰の質感。誰かが僕の質感を描いた(と、都合の良いように解釈する)。それだけで満足。すごく嬉しい。何かをもらえる時、起動するアプリケーションは、たぶん「質感」なんだ、と思う。その質感が「自分」の存在を僕に認識させる。他者から獲得できる知覚。感じる。

    信楽焼のカップ

    信楽焼のカップとヨックモック。とても素敵な年末年始を迎えられる。贅沢だ。なんて贅沢なんだ。

    [ad#ad-1]

  • No Complexity, No Simplicity.

    僕は名刺をよくとっかえひっかえする。自分で作った拙い名刺の上、交換する機会はあまりないけど、開業して5年間に4回変えた。今は、英単語を書き込むシート(左側にリングを通す穴があいている)に印刷している。表は「名前」だけ。屋号も書いていない。屋号もそろそろ変えたい、というか、もう必要ないなと感じている。

    名刺の裏に刻んでいる言葉。「No Complexity, No Simplicity.」

    有名な某キャッチからいただいた。知覚できる事象は単純だけど、認識できない複雑や複雑にしたがる人間、単純である現象とか。複雑と単純が融合する矛盾なんて意味をこめて刻んだ。

    ビスポークと呼ばれるオーダーメイドの靴がある。「ビスポーク 山口千尋」とGoogleで検索すればいい。山口千尋氏は茂木健一郎先生に尋ねる。靴を履いている時と裸足の時、どちらが快適かと。もちろん先生の答は裸足。違う。靴を履いている時だ。目から鱗の先生。その瞬間、先生の脳裏に映像が浮かぶ。ヨーロッパのホームパーティの一コマ。

    「裸足で、かかとの部分を誰かに両手でやさしく包んでもらっているところを想像してください。本格的なビスポークの靴は、それくらい快適なのです」

    “脳はもっとあそんでくれる (中公新書ラクレ)” (茂木 健一郎) P.66

    その対価は? 驚くかどうか。僕は、最近、高いなや安いなと感じないよう訓練している。それもあってか息をのむことはなかった。それよりどうしてその対価かを記憶するよう意識している。食料品や日用品でも同じ。

    今日、F先生とミーティングで話していて、ふとこれが頭によぎった。F先生と僕は価値についてよりそえるから苦労しない。仮に近似値を合意できなくても、気が置けない(誤用でないほうの意味)先生だから、かえってそれが楽しい。とはいえ、F先生以外(内側と外側含む)の人たちは異なるだろう。価格の高低に感情を露わにする。医療と価格の距離を直視しない。かまわない、そのかわり、身も蓋もない言い方になるけれど、保険制度が存在する「前提」を忘却している。今ある制度をあたりまえとせずに、一度破壊してゼロベースから枠組みを構築する。いかなる医療行為も無償じゃない。対価。お金は「交換」の役割を果たす手段としてきちんと機能している。交換は、治療のみならず。言葉の交換、礼節の交換、先生への尊敬と感謝の贈与など。

    僕は、ビスポークの価値を理解できていない。先生によると、全身を構成する200余りの骨の1/4が足に集中しているとのこと。貧弱な想像力しか持たない僕は、「足」を包む靴をつくる複雑性を映像と言葉で描けない。つくづくバカだと嘆息するだけ。ため息まじりに左へと目を移す。

    最後に、どうしても残る疑問を山口さんにぶつけた。
    「靴下の厚さによって、履き心地も変わってきますよね。その点はどうなのですか?」
    「簡単です。本当に合う靴を手に入れたら、靴下は一種類に決めて、それしか履いてはいけないのです」

    “脳はもっとあそんでくれる (中公新書ラクレ)” (茂木 健一郎) P.66

    質問が秀逸なら回答は素敵。

    目の前に見える現象は単純、その単純を描いているのは複雑。複雑であればあるほど単純に表現する。その対価は? 高低にあらず。

    それが「あたりまえ」だ、と僕は思う。

    [ad#ad-1]

  • 理性的論理的実証的に自己評価

    20081018-IMGP2684.jpg

    理論より腕(現場の経験)、腕(現場の経験)より理論、そして、少しでも学べば私にもできる…..。自己評価を冷静に下さなければならない。それを会話からいつも学ぶ。僕が口にした言葉や行動が他者へ向かい、それが再び自分のもとに帰ってくる。そのとき、自己評価を下す。理性的、論理的、そして実証的に自分へ接近しようと試みる。否、試みようとするフリをしているだけ。実際は恐れている。拒んでいる。いくつかの自分が。それを破壊せねばならない。

    具体的事例から抽象的事象へ全称させ、もう一度、具体的事例へ帰結する。それは会話では難しいのかな、と考える。対話が成立しにくい要因は何か。疎外させる主語は。排除の背景は何か。言葉か。あるいは感情か。関心。関与。興味。嫉妬。

    自分の身近で起きた事例を述べたとして、そこから先へ進む道を開いていけない。それでは紹介にすぎない。親切は紹介を自慢へと変える。

    探求は道を切り開く。道の向こうに次元の跳躍がある。その跳躍は、我が身に潜む自己査定者の査定すら懐疑する力を持つ。自分が知らないことや自分が感じないことを認識するだけでは足りない。そんな認識は簡単。簡単であるがゆえ、事例の贈与と交換で満足する。

    無知や自覚の認識より求められる能力は何か?

    それを理性的、論理的、実証的、そして思いやりをもって僕は自分と対峙しなければならない。それが今の課題。

    [ad#ad-1]