年: 2011年

  • 高飛車よりも歩でありたい

    2011.12.30 晴れ

    生活に弾力や抑揚がないので平常運転。クライアントのアクセスログを分析。アクセスログはサイトの事実を提示している。そこからサイトの不備を洗い出して対策を立案しないといけない。この作業が厳しい。仮説の塀を慎重に歩く。先走ると妄想の側へ転がり落ちる。

    先日、高飛車であることを自覚するには何を気をつけたらよいか考えた。高飛車を自覚するのにもっとも必要な意識は何か? 言葉遣いかな。無知の知か。

    違うなぁ。言葉遣いは必要条件? ではある(用法を間違えていたらはずかしい)。ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)をクリアしていていても居丈高である。適切な敬語 (講談社学術文庫)を選択しても嫌悪感をいだかせることもある。なぜだろう?

    自分が中心なんだろうな。推測に推察を重ねて臆測の推理。

    他方で私が高飛車と受け止める。だったら影響を受けずにスルーしたらよいのにとも思う。よしんば周りも高飛車だと感じたら、私見は客観性を高める。そうであってもスルーしたらよいだけなんだ。高飛車だと判断したがるのは、私が相手に執着しているか関心をいだいているから、影響を受ける。

    自分を捨てられていない。もっと言葉そのものだけに意識を集中させて判断しなければならない。評価しなくてもよい人を評価したがるから高飛車と感じて動揺してしまう。そんなふうに自己分析した。

  • やっぱりとたとえばが多いです

    2011.12.27 曇

    今朝はLMFAOの”Party Rock Anthem ft. Lauren Bennett, GoonRock”でスタート。ラジオで1日1回は流れてたって書いたら大げさなぐらいよく聴きました。

    05:40起床。前日に続き室内は寒い。室温11℃、外気温2℃。DUO 3.0を聴く。これがいったい何に役立つかわからないまま勉強するって苦行だなぁ。そう思う。英単語ですらそう思うんだから以下ry

    26日の月曜日、F先生と打ち合わせしている時、私が話している内容を自分の耳で聞いて耳障りなしゃべり方していると自覚した。「やっぱり」と「たとえば」が多い。リアルタイムで認識しているのに使い続けてしまう。「テンプレート」化されたしゃべり方。口癖とはちょっと意味合いが異なると思う。

    この話法を修正せんとあかん。余計な単語を挿入しすぎ。削り落として最小限の語彙でひとつのセンテンスにひとつのメッセージを伝達できるようになりたい。センテンスとセンテンスを意識しよう。

    15:00から京都駅でC社のH氏と打ち合わせ。興味深いお話をいくつも伺う。情報量のボリュームが小さい私は、ボリュームの大きいH氏へ何を提供しなければならないか? それが課題。17:30前に終了。

    辺境ラジオのPodcastを聴く。「機嫌がよい自分を自分でつくりあげる」くだりに納得した。機嫌が悪い人が増えているんじゃないか? なぜか?

    「自分の世話をきっちりできない人は機嫌が悪い」というお話を自分にあてはめる。機嫌悪いが外へ向かうと指摘する。自分で自分の手入れを怠り、自らの環境の原因は外部にあると思って外部を攻撃する。

    規則正しい生活がなぜ大切か? 健康のためじゃない。お話からそう思った。健康が先にあり、それへ向かうために規則正しい生活を送るのでない。自分の心のバランスを最適な状態へ維持させるためだ。自分で自分の機嫌をよくするため。

    ほんと、自分の足元をもっとよくみないとね。

  • 嘘くさいといわれます

    2011.12.26 曇時々雪

    https://www.youtube.com/watch?v=AzYMw3EIr3k

    今朝はケツメイシの”トモダチ”でスタート。トモダチがいない私。歌詞をうらやましく思い、年月の経つほどじわっとくるふしぎな曲。

    寒い!! 今朝は久しぶりに寒くて目が覚めた。時計をみたら4:30すぎ。室温は11℃。どこなんだここは。今冬の寒い日、被災地がよぎる。厳しい寒さだろうなぁ。でも、その思いの襞には「比べる」がまぎれこんでいやしないかドキッとする。

    衒いなく「被災地は辛いだろうね」と言える心構えはどこにある?って自分に問いかけて向き合う。それが自分にできることかなと思い始めた。

    VitaCraftのフライパンで野菜を蒸す。サツマイモ、ニンジン、レンコン、パプリカ、ブロッコリー、エリンギなどなど。蒸している間、焦げてないかドキドキしながら待つ。蓋を開けて確かめたい。ガマンガマン。フライパンの音に耳を集中して頃合を見はからって蓋を開けたとき、立ち上る蒸気とジュウーの音が一気にお腹をぐぅとうならせる。

    ちょっとしたことで脳の認識に変化が生じる。料理とお皿のペアは固定されやすい。この料理にはこのお皿、あの料理にはあの器。蒸した野菜をお皿に盛りつける。定番の皿にあらず。それだけでごはんの質感が変化する。日常から非のニュアンスがこめられる。認識が揺さぶられる「あの感覚」がおもしろい。

    思い込みは自覚してはじめて「思い込み」が立ち現れる。身体を動かし認識をゆさぶって思い込みを自分に気づかせる。考えるより先に、道路でかがめば子供の目線が疑似体験できる。その瞬間、タバコのCMの意味を理解できる。背中を曲げて下を向いて歩けば街は障害物であふれている。

    16:00すぎに出発。大阪駅で途中下車。本屋に立ち寄る。19:00からF先生と打ち合わせ。Tさんが参加。20:45に終了。その後、ふぐちりとひれ酒で一年の心の垢を落とす。

    3人でほくほくしながらのふぐちりは、「自分のルールは破るためにある」価値でした。

    自意識過剰の己を自覚して身体の芯から喜びを味わう。天の邪鬼の私へ「忘年会」と称して声をかければ断るかもしれない、だからさりげなく「ちょっとだけ軽くいきませんか?」と院長先生はお声をかけてくださったのでは、と認識している。

    認識が間違っていても、そう受けとめて飲むひれ酒はとてもとても美味しかった。嬉しさをストレートに表現したらTさんはニヤッと笑って「ウソくさい」って盛り上げてくださった。嘘くさいって。ありがとう、Tさん(笑)

    評価に対する私見が中途半端でした。「評価」は型版になったと思います。与えられた型版にしたがって他人の言動を記号化する。型版をつくるところからはじめられない。そんなのんびりしたことは言ってられない。とにかく評価しなければならない、って雰囲気が至る所にある。そういう雰囲気に違和感を持っています。点数をつけたり数値を算出する定量化の作業が評価だとラベルされている印象です。

    事実を観察して様態を分析して「他者の視点」をありのまま提示する。観察と分析と視点の提示の作業が評価であり、評価によいわるいはないと考えています。過激かもしれませんが、評価するか、しないかしかありません。評価の俎上に載せられること、それ自体が大切だと感じます。「常に自分の土台を壊して漸進している人」は、評価の俎上に載せられます。さる先生がおっしゃる「バカの定義にあてはまる人」は評価の俎上に載せられません。

    あら、こうやって書いているけれど、自分の意見がまったくまとまっていないのを自己認識しました。もっと考えて適確に伝えられるようにします。うん、確かに嘘くさい….. 🙁

  • 和気藹々と沈みゆく

    2011.12.24 晴れ

    今朝はMIHO FUKUHARAから”Get Up! feat. AKIKO WADA”でお目覚め。パワフルな歌声で寒さを吹き飛ばす。

    第三は至る所にある。気づかない。たまたま見なくなったから第三の眺望点に立った。他のコトについては、「範囲」の中に立っている。だから第一か第二かで物事を判別する。調子がよいと周りに感謝する。調子がわるいと愚痴をもらす。調子の「範囲」からよいかわるいかを判定する。

    第三の視点は、素直と天の邪鬼のグラデーションかもしれない。そんなふうに感じる。物事を素直に観察する。観察と分析と論理が導き出した事実に対して、ひねくれた解釈を加えて近未来を予測する。

    素直な観察と天の邪鬼の予測がユニークな視点をもたらす。

    iPadの環境を熱心に構築している。Twitter, Facebook, RSS, ブログ、メール、読書(一部)、文書作成、マインドマップなどをもうiPadでやってしまおうかと。ほんとに便利だ。

    外出中はiPadからVPNで自宅のMacかWindowsにアクセスしてファイルを操作できる。サーバのちょっとしたメンテやログをチェックする。

    こういうときの自分をなるべく意識して観察する。もう一人の自分を背後につくって眺めるとういやつだ。「環境構築」が好きなんだな。道具を使って身の回りの環境をスタイルに合わせて最適化していく「作業」を楽しんでいる。

    環境が安定したら、新しい環境を受け入れにくくなる。Mac OS X (10..6.8)から10.7.2へのアップグレードをなるべく遅らせたかった。億劫だった。安定している環境が、アップグレードによって不安定になるかもしれない。不安で面倒。

    まるで「自分」のよう。

    アップグレードしたら個々のアプリ-ケーションにエラーが発生する。前にできたことができなくなった。そんな不具合をひとつひとつ対処して解決していかなければならない。

    安定した環境から新しい環境へ自分を導く。新しい環境は自分のなかにいくつものエラーを発生させる。そのエラーの「問題」を発見して、対策を実行して、安定をめざす。紆余曲折試行錯誤。

    安定したOSと使い慣れたアプリケーションは、和気藹々として扱いやすい。効率が多少わるくても目をつぶればやっていける。だけど、OSやアプリ-ケーションのサポートはいつか終わる。

    新しいOSは革新的な機能を持っている。使いこなせるようになるまで時間がかかる。つらい。だけど使いこなせるようになったとき漸進したライフスタイルが待っている。

    サポートが切れるまで使う。判断である。Mac OS X Server 10.5.8を使っていて感じる。

    和気藹々と沈みゆく。

  • 宣言すればやってくる 知足からほど遠し

    2011.12.22 薄曇り

    今朝はBen E.King “Stand by me”でスタート。River Phoenixの”My Own Private Idaho”がお気に入り。

    冬至。5:30前に目が覚めて暗闇を楽しむ。ここ一週間、夜の長さを実感。理想は4:00ぐらいの起床。となると21:00から22:00が就寝時間になりそう。実行できない、難しい。

    第六十四候、乃東生。太陽はこれから力を取り戻して春の陽射しへ再生する一方で、草木は枯れていく。冬枯れと再生の狭間。“今日は死ぬのにもってこいの日” ナンシー・ウッド は、冬が春の訪れに必要な季節であり、円環の意識を描いている。

    近ごろ風邪を引いてないといえば風邪がやってくる。今年はカレンダを入手していないといえばあちこちからカレンダがやってくる。宣言すればやってくる。

    スマートフォンがある世界とない世界のどちらかを選べと問いかけられたら躊躇なく前者を選ぶと書いたのにスマートフォンを持っていない。持つならBlackBerry Bold 9780。車を買うならMINI Cooperだと公言していて、LEAFが2ドアだったらLEAFがよいなぁと思っているのに車を持っていない。

    必要ないから持たないと書けば潔い。現実の部屋は必要のないものであふれている。

    自分の環境を適確に分析して最適なモノを選び出して買う。可能だろうか? 能動的な買い物よりも受動的な買い物が多い。目に触れさせられたモノを買っている。

    数年前に読みあさったマーケティング本は、テレビが「演出」して消費者の目に触れさせて買い物へ誘導する「仕組み」を説明している。小物や服装、車、キッチン用品。さりげなく配置して目に触れさせて刺激する。

    いまのネットは、サクラがバズを展開してバイラルやパブリックリレーションで仕掛けている。度が過ぎて企業がしばしば責められているが、年々巧妙になっている印象がある。料金をもらっているから真剣である。

    見方を変える。

    自分がほしいものを買うより人から羨望のまなざしで見られるモノを買う。そんな「モノ」をたくさん買って自分がほしいものがわかってくる。そんな気づきがあると想像する。たくさん買ってほしいものがわかってくるモノが年収の1%未満なら後悔は少ないかもしれない。車や住宅はたくさん買ってほしいものがわかってくるモノにならないかもしれない。

    むかし、「金は貯めるより使うほうがむずかしい」と経営者から伺った。ほんとにしみじみそうおっしゃった。同じことをビル・ゲイツがインタビューで答えていた。氏によると、「寄付はむずかしい」らしい。財団にはありとあらゆる機関から寄付の申し出がある。そのなかから価値を判断して寄付する。寄付といっても投資のニュアンスだから案件を吟味する感じかな。

    経験も体験もないレイヤの話で実感はない。

    母親がお金をためると父親は棺桶のなかにいれて持って行けないから二人で使おうと言う。二人のやりとりは漫才みたいでおもしろい。両方の言葉に含蓄がある。

    貨幣は幻想、頷く。

  • 無題

    2011.12.21 薄曇り

    正法眼蔵随聞記の引用が終わったので記事のタイトルに悩む。昨日までタイトルを考えなくてよかったのでいきなり書きはじめられた。オープンよりクローズドの質問が答えやすいように制約は思考を柔軟にさせるかもしれない。

    他者を観察する。同時に他者から観察されている。意識は当方から先方への一方向の観察だと思い込む。思い込みがエスカレートしたらクリティカルシンキングから遠ざかる。

    意識は一方通行を好みやすいか? 自分が進む方向から相手がこちらへ向かってきているという理路を辿りにくい。

    気の置けない人や好意を抱いている人に対してつつがなくふるまい抑揚が効いた声で話している。反対の人に対しては目はふさぎがちで声のハリが消える。そんなシーンを見聞する。私が対立軸のフレームを好んで採用しているから、相手のふるまいがあからさまに違っているように私の目に映り、違うなぁと勝手に思い込んでいるだけもある。フレームの数を増やせば、自分の視点を書き換えられる。

    何気なく書いた言葉が相手の癇に触る。裏を返して、相手が何気なく書いた言葉が癪に障ってイライラする。イライラがヘンな感情をブートする。誰もブートした感情をシャットダウンしてくれない。自分で終了しなければならない。はじめからブートさせなければよかったと後悔したら無限ループがスタートしそうだ。

    怒りや苛立ちは物事を解決しない。自分の感情を損なう。損なった感情は「ヘンな記憶」を刻み込む。「ヘンな記憶」は「イヤな記憶」よりも思い出しやすい。ランダムなタイミングで想起する。「あぁ、あのとき……」という言葉がヘンな記憶をイヤな記憶へ改変してなんとか閉じ込めるけれどなかなか封印できない。

    はじめからなにもしなきゃよかったんだ。そういうもの。それがわかっていたのに自己陶酔したいためにやってしまう。やってから思いもよらぬ反応を受けてイラッとする。

    感情がソフトウェアだとしたら、ひとつひとつの「感情」はアプリケーションに見立てる。怒りや苛立ちのアプリケーションをOSからアンインストールして安定させる。

    不正攻撃や不正アクセス(=相手の言葉や相手の態度)に動揺しない。LANやWANで接続されていても「他人(ひと)は他人(ひと)、私は私」なんだ。やっかいなことがひとつ。アプリケーションを削除しすぎたらOSだけになってしまう。だからアンインストールしないでアップデートで対応しなくちゃいけない感情があると思う。

    とはいえ、OSも古いままだと動作保証できなくなる。ソフトウェアも作動しなくなる。アップグレードしなくちゃいけない。成長は嫌いで小学生の書き初めが苦手だった。目標や豊富を書きなさいに戸惑った。いまも変わらず。

    自分のOSをアップグレードして自分のアプリケーションをアップデートする。ダウングレードもあるだろう。感染されていてもおかしくないし、自分も誰かをDoS攻撃している。

    ハードウェアが壊れたおしまい。自明である。手入れしておきたい。“健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体 (角川Oneテーマ21)” 内田 樹, 春日 武彦 という言葉を気に入っている。

  • 最要

    http://www.youtube.com/watch?v=vThD7ot9oII

    今日は決めていました。Janis Joplin – Piece of My Heart [live Woodstock]でスタート。

    正法眼蔵随聞記 六 二十四 学道の最要は坐禅これ第一なり

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.405

    これで終わり。終わりが今日とはうれしい。文庫はボロボロ。これからも読み返す。長いつきあいになる。これからもよろしく。

  • 憍奢

    2011.12.19 晴れ

    今朝の目覚めは音楽ではなく、Google制作のビデオ”Zeitgeist 2011: Year In Review”から。暗闇のなか世界を感じてスタート。

    冬至まであと少し。夜が長い。5時ごろに目を覚ましても真っ暗。いつものように目覚めにお水500mlを飲んで朝の勉強、支度、朝ご飯の用意、結露を拭いて、ひととおりの作業が終わってからミルで豆を挽いて飲むホットは最高だ。

    Windows 7(professional 64bit)をMacBook ProにBootCampでインストール。仮想環境のWindowsより速いからありがたい。起動後の画面に戸惑う。わからない。自分の知識はXPまでだった。

    PDCのSambaへWindows 7をドメイン参加させたい。どうしてもできない。セキュリティのローカルポリシーを設定したみたけどダメ。ネットワークとアカウントの管理方法がよくわからない。

    PDCのSambaを停止してFreeNASのSamba(スタンドアローン)を起動させるとブラウジングできる。ということは、PDC側の設定に問題ありか。

    知識の習得を怠ると、問題を切り分ける能力が確実に低下する。

    国産のきくらげが手に入ったので、豚肉と卵とねぎで炒りつけた。卵をふんわりしあげていったんお皿へ。豚肉の下味は塩と胡椒。少し炒めてお酒で臭みをけしてからキクラゲといっしょにおオイスターソースで味付け。最後に葱と卵をもどしてさっと炒める。まぁまぁのデキ。

    高層ビルのマンションの広告がポストにはいっている。たいへんだなぁ。100〜200年後、どうやって取り壊すんだろうか。破壊の技術が進化してより簡単に取り壊せるとしても、その頃の日本は、東京以外の高層ビルをメンテナンスできるのかな。いくつかの県は、「自然」になっているかもと想像する。東京以外の高層ビルは水栽培の農作物専用建物になってもおかしくない。といっても立脚地は日本人という固定観念だから、それを取り払えばまた異なった風景が頭に浮かぶ。

    時間を基底した創造は、想像の範囲を超えられるだろうか?

    正法眼蔵随聞記 六 二十三 学人各々知るべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.401

    残りあと一つ。最後を前にして二十三は奥が深い。おごり高ぶるなという教え。おごり高ぶるな、というだけだとあたりまえのようであるけれど、ここに書かれた道理を読むと、「親切とは何だろう?」と考え込んでしまった。

    貧しい家の前に車で通り過ぎてはいけないとおっしゃる。自分が正しく知っていることを相手が間違って理解していても、その間違いを言い立ててはいけない。

    本人はおごり高ぶる気持ちを持っていないからといって何の心もなくふるまうと……?

    人は相手の心をコントロールできない。そうわかっているはずなのに、相手の心をコントロールできそうな錯覚を抱いて接する。相手がどう感じるかを予測する行為そのものがコントロールの入口にたっている。

    信頼とは、その錯覚が形成する強い幻想によって構成された現実の関係なんだと思う。

  • 住処

    2011.12.16 晴れ

    19:00からM先生のミーティング。大阪駅で下車。iPadでルート検索。約4kmで47分の表示。本屋によって“アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))” フィリップ・K・ディック“魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)” 西川 アサキを購入して出発。歩く時間は贅沢だ。いまや少しでもはやく目的地へ到着する手段を探す。

    寸暇を惜しんで働く。高度経済成長期とは異なる生産性の向上。寸暇を惜しんで(情報を)集める。寸暇を惜しんでは、ときに我を見失わせてしまう。

    歩けば本を読めない、できることは限られる。そう思っていた。いまは違う。街並みの設計が目に入ってくる。インスピレーションがわく。見ているようで見ていない。歩きながら考える。歩きながら考えがまとまってくるし、考えが拡散して収拾がつかなくなったりする。

    本を読めないし携帯を見ないし音楽を聴かない。削り落とされた状況がもたらす思考の時空。

    道中、50〜60代とおぼしき女性がiPhone 4(s?)のGPSを使って目的地までのマップを見ていた。ステキだ。そういう環境がやってきたんだなぁ。

    先日、M先生のところのYさんがiPhone 4sを購入した。わけがわからないかもと心配そうだった。いくつか質問された。でも、大丈夫って私は思っていた。今日、お会いしたとき、慣れてきましたとおっしゃっていた。そういうもの。「そういうもの」になるデザインとUIでなければ受け入れられない。ほんとにすばらしい環境がやってきている。

    スマートフォンがある世界とない世界のどちらかを選べと問いかけられたら躊躇なく前者を選ぶ。ただし、新しい技術と環境に向き合う「仕方」を自分で獲得しなければならない。さもないと、列車にひかれて死ぬ、階段から落ちて大けがする。時には他者を巻き込む。

    デジタルとアナログ、オートマチックとハンドメイド、技術と自然など、対立させる人はいらっしゃる。耳を傾ける。愚かだと一蹴していた。二項対立の意見を封じ込めない情況は健全、といまは思える。思うが同意しない。ただそれだけのことと納得する。

    「仕方」は自分で獲得して涵養していけばよい。それが自律だと思う。

    19:00からミーティングがスタート。20:00すぎに終了。1年の振り返り。昨年から変化があった部分とない部分。来年の目標設定とその目的。

    一年間、紆余曲折があった。何があれM先生とスタッフのみなさんは、私にとってユニークでオリジナルの存在である。その存在に対する礼節がある。礼節を保ち続けなければならない。他者評価はコントロールできないけれど、自己評価は厳格に運用したい。さもないと礼節を欠く。甘えはかけがえのない存在を損なう。

    「技術」の向上という。具体的に何だろう? 45分の作業を30分に縮める。縮められたら技術の向上だろうか? 技術を向上させようとするとき、どんな問題を設定しなければならないか?

    いま自分がいる地点を知る。現在地。「地図」がなければ現在地を示せない。誰が地図を作成する?

    自分が何を知らないのか、を省察して具体的に言い表し、それらを知るには、どこへ行き、何を手に入れてどのような手順をふめば自分の知らない現象について理解できて体得できるか、が「地図を作成する能力」だと思う。

    地図を作成するには、「用紙を上から眺める自分」がいなければならない。おぼろげであっても「全体」の見取り図を持つことが求められる。

    正法眼蔵随聞記 六 二十二 衣食の事兼ねてより思ひあてがふ事なかれ

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.398

    「雲のごとく定マれる住処もなく、水のごとく流れてゆきてよる所もなきを、僧とは云フなり」とある。乞食する場所についても、もしも食べるものがなくなったときには、あそこで托鉢をしようと思えば、それは前もって心づもりしておくことであり、道理にたがい正しい生き方ではない。

    「いま、ここ」は言葉でめぐらせても詮無いことかもしれないと感じた。身体しかない。ままよ、とも思わず、瞬間の積み重ねで行を積む。

    ひょっとして「時間」から解放されることが「はじまり」かもしれない。

  • 百尺

    2011.12.15 晴れ

    今朝はStrawberry Switchbladeから”Since Yesterday”でお目覚め。80’sのコンビレーション・アルバムで耳にされた方もいらっしゃるのでは。冒頭のイントロって日本の曲でも「うまく」利用されているような気がしないでもry

    アルバイトの資料入力、F社のサイトの改編、M先生のサイトをリニューアルが重なっていくぶんタイトな感じ。タブレットとスマートフォンから閲覧はデフォルトになりそう。

    第六十二候、くまあなにこもる。ヨーロッパ人に生まれたら春菊を食べなくてすんだかもしれない。美味いという人はいらっしゃるし、鍋のあしらいにかかせないと鼻息が荒い人もいらっしゃる。私はダメだ。

    “リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間” 高野 登, “帝国ホテル 伝統のおもてなし” 川名 幸夫, 帝国ホテル ホテル事業統括部, “9割がバイトでも最高のスタッフに育つ ディズニーの教え方” 福島 文二郎 などサービス系を代表するビジネス本。

    現場の各スタッフが、ひとつの局面を判断して行動する。不思議です。各人が個別に判断する。バラバラなコトをしでかしかねない。なのにバラバラにならず個別の行動がうまくまとまって、「感動のサービス」や「ホスピタリティ」と評される。

    3.11、ディズニーランドのスタッフは備蓄の物品を配布した。園内の人を適確に案内して混乱を抑えたと聞いた。マニュアルどおりの行動だったのだろうか?

    リッツ・カールトンのワオ・ストーリーの事例を読む。個別の判断と行動がそろっている。そろっているけれど画一的じゃない。各自のユニークと組織のユニバーサルがリンクしている。

    どうして「個別に判断」して「全体の視野にたって行動」できるのだろう?

    共通点は、「考え方」の共有だと思う。根本的な考え方だ。ヒトやコトに対してどう考えるか。その道筋と基準がはっきりしてわかりやすいと想像する。はっきりしてわかりやすく表現できるまで議論を緻密に積み重ねてきただろうし、道筋と基準を書き換えるためにいまでも議論を重ねていると想像する。

    経営者や幹部だけが「考え方」を共有していない。あまねく共有できる表現が求められる。徹底的に共有する。

    考え方の共有は意味の共有ではない。TwitterやFacebook、メールを携帯端末から利用できるようになって、「意味」は迅速に伝達される。迅速に伝達された結果、携帯端末には「意味」が記載された大量のテキストが流れ込んできた。大量の意味テキストは業務に支障をきたしている(欧州最大のIT企業、社内電子メールを廃止 « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム)。

    意味を関係者に伝達したらホウレンソウが完了して、考え方が共有できたと錯覚する。行動の「予定」や「結果」を伝達しても考え方は理解されない。

    正法眼蔵随聞記 六 二十一 古人の云く百尺の竿頭に更に一歩を進むべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.393

    自分を離れるお話。まず自分とか、名誉とか、利益とか離れなければ、いくら出家して過酷な修行を積んでも無駄な時間をすごすだけだとおっしゃる。まず自分を離れよと。

    道心して僧になる。いつしか指導者になる。すると仏になろうと思わないで、自分の位が高いこと、寺での地位が高いことを分かってもらおうと思ってしまうようになる。ありがたがられ供養されることを望んでしまう。

    他方、そういうものに執着しないでただひたすら自分の身のために仏道を本気でやっている人がいる。これは一見すると、ほんとうの仏道修行者かと思われるが、そうではない。結局は、「自分」のことを考えている。

    まだまだ「自分を離れる」がわからない。とんでもなく難しい。