年: 2013年

  • [Review]: マイナス50℃の世界

    ヤクート自治共和国(現サハ共和国)から一通の手紙が、米原万里さんのもとへ届く。

    「お元気ですか。こちらはもうすっかり暖かくなりました。外の気温はマイナス二一度。暑いほどです」

    返事を書いた。

    「東京は春だというのにまだまだ寒く、きょうの気温はプラス二一度です」

    ユーモアと飾り気のない文体が心をわしづかみ、文字を追う速度が恨めしく、めくる手が急き立てる。なのに手は行ったり来たり。

    マイナス50℃の世界 は、私を戸惑わせる。同じ惑星でないような奇妙な感覚。イメージの輪郭を描けない、想像の外側に在る世界。

    サハ共和国の面積は日本の八倍、人口は約95万人。取材へ出発する前、防寒着のテストを三度もやっている。改良が加えられた防寒着を機内で着込み、マイナス三九度のアナウンスを聞いて、「軽い、軽い」と平気な顔で機外へ踏み出す。

    瞬間、鼻毛や鼻の中の水分が凍った。

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  • こなす

    こなす

    2013.12.23 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=J-G37rsYL80]

    I Wanna Dance with Somebody (Who Loves Me) – Whitney Houston の Glee版。Harry Shum, Jr. と Heather Morris のダンスに目を奪われ、このダンスを見たとき、もし踊れたらいまのこわれゆくはがれていく気持ちを表せるかもって夢想したりして、すべては自分のありようなんだけどね。GLEE Cast Members-Single Ladies Dance! の Chris Colfer もチャーミング。

    第六十四候、乃東生。草木が枯れ果てる季節、靫草は芽を吹きはじめる。太陽は季節より一足違いの旅する天体、摂理はそう知らせ、夜はふたたび身を縮めてゆく、少しずつ、気配を感じさせないはやさで。

    旬の魚は河豚。大阪ではテツ。干した鰭を火であぶって陶器にいれて熱燗をとくとくついでやる。

    お世話になっている先生がご馳走してくださる鰭酒は美味く、熱すぎて触れない熱燗より熱い話を肴に呑むから逸品である。

    暮らしにきわめて上等な情趣をもたらすのが、微妙な心情にふれる方と交わす美酒とひとり酒だと思う。

    蓮根が好物。灰桜色の蓮根を少し厚めに切り、酢水に浸して水気を取って、素焼きする。焦げ目がついた蓮根に塩胡椒、クレイジーソルト、辛子はそのときどき。

    着るが、着こなせない。使うが使いこなせない。別腹ならはいりそうなのに、どうやら着る、使うだけでお腹いっぱいだ。

    モデルがファストファッションを軽やかに羽織って履いて公衆の耳目をひく、ような着こなしに縁遠く、洒落っ気は一切ないが、自分だけのけったいな規準がある着こなし。そんな着方を着こなしと私は勝手に描く。

    一着だけあった。すっかり色落ちしてもとの藍の濃度がわからない上着。

    冬の間、いつも着るから襤褸である。だけどひとたび纏えば私の身体の寸法をはかるテーラーのように寸分違わぬ適合した服に化ける。そのたびにほくそ笑む。

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  • 一瞬

    紅葉
    FUJIFILM X-E1 XF35mm F1.4 R

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  • リアルな偶像

    リアルな偶像

    2013.12.19 小雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6QEPrDBMqJ0]

    Robert Miles – Children でスタート。疾走感と焦燥感が混じり合って常態が異体をパージするイメージがいつもある。

    胃痛が続く。過去の痛みのデータベースを参照してみるがエラーが返される。見つからないと。できるだけ鳥瞰できそうな視座から身体と心情を観察する。記録に残すために。はじめての痛み。それが身体であれば恐怖、心の痛みならば破壊が他動する。

    お腹が空かない。腹筋が終わった後の張りに痛みを加えたような感覚である。空腹があたりまえではないことを教えてくれる。

    お昼、突然、卵焼きを食べたくなった。冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルの縁でコツンと叩く、亜麻色の砂糖を少し、醤油は勘所、めんつゆを数滴、お水はシングルショット未満、菜箸を立てくるり、黄身の輪郭がゆらり、箸の速度が逓増して、揺るぎない物理法則に従ったボウルは一瞬の万華鏡である。

    銅の焼き器を取り出し火を入れる。阿列布油をひいて少し待てば、注いだ分量より多い油があらわれる。四方に焼き付いた油がとけるからか、発生した刹那の現象をじっと見つめる。

    煙の立ち始めた銅の上に一滴を垂らして線香花火ならば、鬱金色の液体を流し込む。奥から手前へくるくる手繰りよせ、ふたたび流し込むこと四度、液体は固体へ変わりゆく最中、膨らんだ数個のボコボコを箸でつつく、破る。

    最後の巻き、集中、慎重にしっかりと。銅から皿へ引っ越す、湯気が立ち、焼けた匂い。

    会社勤めしていた頃、「F*jin*さんってどんな店でも”ごちそうさま”か”おおきに”って声かけて店出はりますね」と後輩から指摘された。

    以前、「ブーツ、ええ感じですね」とある方から言われた。綺麗と伝えたかったわけではなさそうだが、ニュアンスを掬い取れた(と思う)。気づいていらっしゃるご様子である。

    両方とも一回だけの体験である。後にも先にもない。無意識にやっていることを他者が指摘したとき、意識が前景化されて記憶を彫る。強く残った。

    見ている人がおり、感じる人がいる。それだけのこと。十人十色の視線があり、ある種の様態は十人すべての視線を集め、反対に、一人だけが注ぐ視線がある。感性か関心か何かに刺激された眼差し。

    優劣、善悪、好悪などではない。自分の重心がどの系におかれているか。

    一人だけの視線を注げるような系に私は置きたい。系への見方をかえれば意固地、わがままである。それでよいと思える踏ん切りはつけられた。ならば、使い古した常套句、「わかるひとに、きづくひとに」をもっと使い古して使いこなせるようになりたい。頭を液体に。

    ( りんごです。ふくしまけんからはこんでいただきました。はこをあけたときのかおりがあじにつながっています。ほどよいあまさでちょっぴりのすっぱさ。りんごはだいすきです。まいにちたべたいぐらいです、へんでしょ。 )

    りんご

    効率が高く、高回転数は安住である。馴化は快適を与え涵養を奪う。自分の重心はその系に置かれていない。

    「大事」を贈与してくださる中身は、たくさんの無駄を包括している。無駄を否定の意図で使わない。自分の語彙はそうあっても他者は違うかもしれない。配線がきれいにとりまとめられた誰も見ない箇所、ひょんなことから誰かが内部をのぞいたときにはじめてわかる。

    進化は時に人の心を閉ざす。いったん閉じた精神が熟成する時間。

    目まぐるしく変化する時勢になじまないマイナな感覚だとしても重心を置く。正しく釣り合うことがバランスではない。

    わかろうとしなければ認識できない、体感できない、理屈では説明できない惹かれる事象に触れたい。ある点を越えた事象に触れるには、境界の彼岸を自分で探さなければならない。百貨をそろえた店がプッシュ通知する陳列からは見つけられないように。

    それは検索しても見つからない。偶然がもたらす契機に反応できたら展開される理解。

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  • 不愉快と不快が惑わす

    不愉快と不快が惑わす

    2013.12.08 晴れ

    二十四節気、大雪。太陽の黄経は255度。冬の到来。第六十一候、閉塞成冬。トルクが細そうな雲。シフトが重いせいかな、流れない。太陽は琵琶湖を覗けなくてもどかしさげに雲間から一筋を射す。

    旬の魚は金目鯛。生物学上は鯛と別種であるのに鯛の字をつける諧謔。好物であるがそうそう食べられない。旬の野菜は白菜。白菜とキャベツが好き。

    金曜日にアルバイトの資料が到着して日曜日の夜までかかりきり。何十時間座っていたか、腰と肩を板金しなくちゃいけないような凸凹感。

    日の出まえの深閑。

    右手足の痺れと友達になって頭痛も仲間にまぜてくれって訴え続ける。で、なぜだか胃も仲間になりたいような鈍い痛み。「なにもなかった」ことがあたりまえではなかったと認識させてくれるいまの身体。ただ昔よりは身体と会話できている感じ。

    よくわからない小さな何かが不愉快と不快のボタンを押す。たぶんきっかけはあるんだろう。識別しないだけか、したくないだけか。とにかく「何か」があり、激しい好悪を持つ癖が不愉快や不快の誘因ではない。虚仮にされたという自分側だけにある誤解が回路を形成してボタンを作成してスイッチさせる。「何か」は役目を終えたら何処かへ消える。残るは不。ずっと残る。

    惑わされる自分を観察すれば、自分と向き合えていない情況が発露する。まだまだだ。

    ( みかんです。ちかごろのみかんはあまいんです。むかしのみかんのもうすこしすっぱかったようにおもいます。すこしすっぱいぐらいがすきなんで、あますぎるとちょっとへんなかんじがします。てにね、においがつくんですよ。 )

    みかん

    事物に匂いがあるように言葉にもある。同じ匂いだなって知覚する瞬間。単語の選択や文脈をつくる方向が似ていたり、あるいはまったく異なるのに言葉を紡ぐ前の感覚がひょっとしたらすり合わせられそうな予感があったり、そういう「匂い」がある。

    激しい好悪を精確に把持しつつ、情感を研ぐために目を向ける方角を定めない。受信の範囲は無理して広げて深める。受信の方位は四方すべて。矛盾である。矛盾が”ほんとう”を涵養してくれる。

    そのなかから同じ匂いの言葉を交わせる人とずっと同じ感の言の葉を拾いたい。心地よい緊張感が好きだ。それがなければ自分は怠けるだろうし馴化する。

    ずっと続けたいからこそぎりぎりの線上を丁寧に息継ぎして深く呼吸しながら果ての域で棲息したい。

    自分の五感への信頼と懐疑を並立させる。

    12月の初旬、(衒いなく使えるようになるまで何度でも使う単語である)孤独について腰を据えて向き合っていない私を自覚できた。

    不愉快と不快が自覚をもたらしてくれた。だったらその不愉快と不快も受け入れないとね。時間をかけて溶かそう。

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  • 悠久と今

    悠久と今

    2013.11.30 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=mUe4w4lP9e0]

    fox capture plan / Hyperballad でスタート。お気に入りの instrumental で、散歩で立ち寄る公園の遊具に誰もいないときこっそり入り込んでこの曲を聴いてしっぽり。

    午前中、請求書の準備や雑務を片付ける。BGMは “Fool on the planet” the pillows 、Funny Bunny が好き。早く片付いたので詩集をぱらぱら。詩集は暮らしの合間に収まる場所を知っているかのように、時間と空白の継ぎ目にページをめくらせてくれる。

    12時30分すぎに神戸へ向かう。赤黄茶緑の山並み。14:00に到着。滋賀、京都、大阪、兵庫。四つの県を90分ほどで移動する。この感覚をうっかり他の鉄道で適用させたら吃驚。広さが違うんだから。頭で了解しているけれど、身体がついていかない。

    本屋さんと文房具屋さんへ。好みの品が陳列されている文房具屋さん。財布をコインロッカーに預けたくなる。ビゴの店のサンライズでおやつ。15:00から打ち合わせ。17:40に終了。

    終わり際、「故意がどうかわかりませんが、先生とこのホームページはブランドっぽいですよ、って患者さんがおっしゃってくださったんです」と先生が嬉しそうに話してくださった。弾む、オーシャンゼリゼ、まるく。

    先生と私がめざしてきた形ができあがった感覚はあっても感触はなかなか得られなかった。来院者の方々が評価してくださってこそ、感覚があっても感触がなかったもどかしさから少し解放される。

    もう一回、文房具屋さんへ。自分への褒美。クリップとリングとエンベロープレターファイル。リングにクリップをとおしてレターファイルをぶら下げてみたくて。中に入れる手紙なんてない。ただぶらさげてみたかっただけなんだ。とっても贅沢した気分。

    立ち食い蕎麦でかきあげそば。もうそこまでの無愛想はむしろ愛嬌があるご主人。

    ( しかです。へたでごめんなさい。めをとじちゃってるしね。ちゃいろいせなかにしろいてんてんがあります。ひとをおそれないのでかわいいやらこまったやらです。めがちょっとこわいです、わたしには(-_-;) )

    鹿

    SWITCHインタビュー 達人達(たち)「内田樹×観世清和」 の観世清和さんのお話しに圧倒された。観阿弥が生誕して680年、世阿弥が生誕して650年。足利義政から拝領した法被が画面に映る。観世清和さんは袖を通して舞ったとのこと!! 保管するものじゃありませんのでと衒いなくおっしゃった声色に鳥肌が立った。法被には金糸の蜻蛉。蜻蛉の謂われを説明してくださった。

    後で調べたら「萌葱地菱蜻蛉法被」とあった。

    舞っている最中から金糸がほろほろ落ちていくらしい。凄まじいね。

    番組の終わりに、これまでの650年からこれからの650年考えると口にされ、650年後の金糸はどうなっているんだろうと話された。もう650年継ぐために自分は何をすべきか。

    この視点なんだ。自分には纏えないけれど学びたい。ものづくりの方々が持っていらっしゃる視野。自分たちがいなくなったあとの世界を想像しながらいまを大切に刻む、いまに励む。もちろん650年後を具体的に描けるわけではありません、みたいなことをおっしゃっていたけど、単に「650年」の言葉遊びじゃない気骨、気品。

    目の前にあるものが継がれた時間を思い巡らすための深呼吸。知るための希求。

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  • 黙考が招く恐怖と熱情が生む歓喜

    黙考が招く恐怖と熱情が生む歓喜

    2013.11.29 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=97zLUn0iKAI]

    中納良恵 + ASA-CHANG – 北風小僧の寒太郎 でスタート。冬が好き。凜と隙の空気。情景の色彩は少しずつ薄くなり、寂寥に潜む力強さをどこでいつ発見できるか楽しみ。

    5時すぎに起きる。寒い。布団離脱の難易度が高い。今朝の関西はここ最近では一番の冷え込みとのこと。大阪では11月の初雪。24年ぶり。24年前も11月29日、奇遇。

    太陽は出勤の準備もしてなさそうな気配の暗さ。

    楕円を描かない彗星がやってきてるときぐらい法則を破って、「今朝は早出しました」って日の出しないかしらとぶるぶる、エスプレッソ用に焙煎された甘い香りの豆を野菜室から取り出し、2杯掬ってミルへカラカラ落としたら左手でぐるぐる回して人工の音だけの空間に珈琲と白湯の分の湯気が立つ。

    「自分のことをわからないんだから他者を理解できないんだけど」と書いての違和感。「理解」はできる(かも)。理解は私の側にあるから。

    精一杯の想像がもたらしてくれる理解。たとえ理解の基準が自分の観測にあって、自分の情感と道理との対比から形づくられたとしても、想像がもたらしてくれる理解はある。

    一方で妄想する。ひとが他者を完璧に「わかる」能力を身につけていたら想像力という代え難い能力を喪失していたかもしれないって。

    他人の作品の一部を己の作品へ引用したり盗作と揶揄されても、蠱惑的な言葉と激烈な映像の世界を描いた怪物は「どんな鳥だって想像力より高く飛ぶことはできないだろう」と言った。

    気持ちや心を「わかる」とたやすく使いたくない。「わかる」をついつい発話するが、発話に緊張していたら何も伝えられなくなる。

    黙考が招く恐怖と熱情が生む歓喜を両極に抱える。慎重と大胆を混ぜない。両方を対極に置いて共存させる。

    ( まつぼっくりです。きからじめんにおちたらかさがひらきます。こんなかたちになるんです。ははがひろってきたみたいです。”じっか”にはうえきがたっくさんあります。うえきや、じかうえのきとずっとしゃべっていてもあきないらしいです。 )

    まつぼっくり

    屋久島の森は花崗岩の上に黒土が堆積されてできたんだって。1400万年。簡単に壊せる能力を持った愚昧が地上にいる。

    膨大な年月をかけて創造する事物に対して破壊は一瞬。

    いまの為政者はじっくり物事をつくりあげて次へ引き継いでもらう知性より、一瞬で破壊できる暗愚を選んだみたいだ。破壊の時間単位は短くて速い。

    11月にクリスマスとお正月をいっしょに陳列して、正月に冬の見切り品を販売して、それが終わればチョコレートを販売する「速度」を歓迎する感覚が選び出した鵺を退治したい。

    破壊は耳目を引く。創造は静かに淡々と進む。まるで”それ”がはじめからあったかのような心地よさを与えてくれ、滋味深い味わいを醸すものづくりは、ゆっくりなんだ。

    ある日、突然、桜の花が満開になるわけじゃない。でも満開になるぐらいにようやく認識するのだとしたら、その自分の感覚を補修するのが先だろうと思う。

  • 深く小さな点

    2013.11.29 薄曇り 寒いです

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=tYvm9Xynwzc]

    清水アツシ – 愛しのサマンサ でスタート、ではなく、ラジオで奇妙さんとサンデーカミデさんが紹介した曲をリピート。いい声だなぁ。声は身体を象り想像の根源なんだ。一人のなかに声の階調があり、自身も聞き覚えなかった声がある。声は感覚ではなく感触であってほしい。触れらないもどかしさが存在を渇望する。

    奇妙くんとサンデーカミデさんが東の地でラジオに出演するので、11:00すぎにサイマルラジオをセットする。ありがたい環境だ。一昔前なら必ず行くと決めている地のラジオを耳にするなんてできなかっただろう。隣県の局すら聴けなかった。すばらしい時代。

    サイマルラジオを聴くと、関西の番組ですら「おぉ、そんなんあるんか」と吃驚する。いわんや足を運んだことのない地はまったくわからない。「その町の名前はそのままあなたの顔になる」ように聴き、己の想像の果ての先にある描けない風景や暮らしを自分の住む場所と並べる。マラソン中継に映る「どこも同じような風景」じゃないんだ。

    正午、番組スタート。ラジオで聞こえる二人の声はハモってるかのよう。心地よい。唯一無二の声が共演すると無限大を奏でるらしい。羨ましい。まったりしたしゃべり、つっこみ、奇妙さんの奇妙なコメントにカミデさんがかぶせるスイングが底冷えの部屋をあっためた。

    ライヴで一曲。”天王寺ガール“がいつものようにアレンジされていた。はじめて聴いたアレンジ。素敵、素敵、震えた。ゆったり、うっとり、しっとり。天才じゃないんだ。「天才」がかんたんに入力できるようになったテキストの世界、お二人は天才を飛び越える、軽く。天才は複数、お二人は単数な不比等。

    たぶん、いや確実に自分だけのアンテナなら受信できなかった奇妙さんとサンデーカミデさん。番組を最後まで聴き終えた後、サンデーカミデさんのCDを聴きながら、紹介してくださった方へ改めて感謝。

    番組のほっこり感が好き。高い声のDJさんやスタッフさんはどんな方々かしら。

    ( えんぴつです。もうひとつはえんぴつけずりです。えんぴつがすきでつかっています。えんぴつには”かたさ”や”いろ”があります。ふしぎですね。どうしてかけるの? なにからできているの? ってしつもんされたら、まだうまくこたえられません。そういうしくみをべんきょうしたいんです。 )

    鉛筆と鉛筆削り

    ( つばきのはっぱとかえでのはっぱです。さんぽでつばきをみにいったらありました。つばきがかえでをくるんでいるようでした。きたかぜのかんたろうのしわざか、ようせいのいたずらかしら。とてもきれいでした。 )

    寒椿と楓

    冬至に向かっている実感。日の入りが16:45頃。夜が長い。白湯と珈琲ばかり飲んでいる。白湯がおいしい。そう感じられるのが可笑しくて可笑しくて。なんか自分やない感覚。白湯ばかり飲む自分なんて、たこ焼きのなかに蛸が入ってへんぐらいしんじられへん。

    自分のことをわからないんだから他者を理解できないんだけど、どこか深い「点」に接続できるような誤解を信じて、「点」を探す。

    「神は細部に宿る」のがほんとうだとしたら、自分の探す「点」は唯一の安定かもしれない。その「点」が安定していれば、あとは不安定でよい、そんなイメージ。

    8,670時間ずっとしなやかでおだやかでいられない。8,669時間ゆらいで荒れて切なくてもおかしくない。そういう時、接続できている深い「点」を確かめられたら、残りの時間はmonochromeからvividへ塗り変わる。

    ひとりの深い深い「点」を探すだけで終わってもよいぐらい小さな「点」の感触を求める。その「点」が何なのかわからないもどかしさをひたすら言葉に積み重ねていく。

    わからないままでもよい。探しに行けるだけ幸運だ。

  • 今年の冬は

    2013.11.25 曇のち雨

    [youtube:https://www.youtube.com/watch?v=DczkHPFbrCE]

    ゆず – いつか でスタート。冬が始まる頃にリクエストが増える曲だとか。遠くの友を思った歌だとか。しっかり聴いたことはなかったけど、今年はよく耳にしたからか、心の炬燵にきちんと入り込んでほっこりしてる曲。

    「月と恋は満ちれば欠ける」

    乙と粋。ポルトガルの諺らしいが詳しく知らない。謂れは何だろう。満ちる、欠ける、ものやこと、精神。

    何度か書いた話。8,9年前、桜の木を見ていた。琵琶湖疎水の出発点にある端麗な姿容。そちらの方へ散歩すれば立ち寄ってしばらく見つめる。ここから山の手の三井寺へ向かえば桜の木々がある。春は疎水沿いを淡紅色に染める。それらの木々から少し離れて独りで咲かせる。一本で佇んでいたから惹かれた。

    ある日、散歩の途中で立ち寄っていつものように見つめていたら強い違和感。奇妙な感覚。

    主客が突然変異した。

    「私が桜の木を見る」から「桜の木が私を見ている」へ。反転。いまでも言葉にできない鮮明な質感が身体を刺し、心中から時間の単位をくりぬいた。

    至極の事実を精確に認識した。この桜の木は私が生まれる前からここにいて、私がいなくなった後もここにいる。この事実を認識したときから自分の時間感覚が変容した。

    文字に出力したら主語が変わったにすぎない。けだし頭の理解である。

    身体は理解しない。感じるのみ。「桜の木が私を見ている」が風月も同様に感じさせるようになった。悠久の入口へ立てたような錯覚。

    これも何度か書いた。自分は命を二度救われている。記憶に残らなかった体験と記憶に残った反転が溶け合って「時間」の感覚が更新された。

    ( かきです。わたしがこどものころはたねがありました。いまはたねなしもあります。たねをくちからぴゅっとだすのがすきでいまでもたねがあるほうをこのんでいます。おおむかしはしぶいかきばっかりだったそうです。とつぜんあまいかきがうまれたとか。 )

    富有柿

    ( たくさんのおちばです。おちばがだいすきです。じゅうたんみたいでしょ。いまのときだけみられます。どんなじゅうたんよりもぜいたくだよっておもってさんぽしています。かさかさとおとがなるの。 )

    落葉の絨毯

    二十四節気、小雪。太陽の黄経は240度。はっきり寒さが感じられても本格的な寒さはこれから。第五十八候、虹蔵不見。力強い陽射しはなりをひそめ、柔らかく影を伸ばすしなやかな光が舞台へ躍り出る。

    晴天の日は減り、一日の中で晴れと曇がせわしなく行き交う。旬の魚は喜知次。キンキの名で売られる。こちらではあまり見かけないような印象だけど大好物。煮つけと辛口のぬる燗があれば極上の時。一度、お造りを食べてみたい。

    頭に浮かぶ文章はすべて駄文。足りないのは駄文を書く平常心。

    もっともっと。

  • 直感は嗅ぎ分け先入観は納得する

    2013.11.20 晴れ時々曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=ak8cs9Xt-5k]

    リクオ – 同じ月を見ている でスタート。いま中川敬さんとツアー中。先日の京都・磔磔のライヴに岸田繁さんがゲスト。垂涎。仕事じゃなかったら絶対行ってたよ。この曲は、詩と詞の共演。朗々と吟じられるように紡がれている詞が詩であり、音色が重なり、空を見上げてふと思う。

    仙台曲がりねぎを視聴して、伝統技法の「やとい」に瞠目。

    葱は湿気に弱い。地下水の水位が高い土地だと根が水に触れて腐ってしまう(らしい)。適さない土地で葱を育てる。6月に種を植えて8月に地面から1本1本引き抜く。引き抜いた葱を斜めに寝かして土をかける。この技法が「やとい」と云われ、寝かした葱は太陽に向かって再びまっすぐ育とうとする。すると葱が曲がる。見事な摂理。

    100年以上前の先人たちが考えて編み出した。試行錯誤されたんだろうか、寝かそうとした着想はどこから得たのか、浮沈する質問。素敵な知恵。

    第五十七候、金盞香。紅葉は晩秋の季語、立冬後は冬紅葉とある。”冬”が前に置かれて紅や黄への心象が変わる。おもしろい。四季の変遷は最盛期より大勢の耳目を集めなくなったわずかな間を好んでいる。枯れたり散ったり、まだ色づく前だったり蕾だったり。

    “失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫)” プルースト を購入したとき “KINFOLK JAPAN EDITION VOLUME ONE (ネコムック)” ネコ・パブリッシング に目がとまった。初見。写真と文章が自分の好み。とはいえ天然素材や自然食などを嗜好しているわけじゃない。ラベリングに以前は閉口した。今はいなしている。

    見られるは磨かれるが、視線の質感を過度に取り込みすぎたら心身は混沌を綴じ込む。見る人は多くても見抜く人は少ないと自分を錯覚させたらいなせるようになった。

    ラベルを貼りたい衝動を私は持っている。内観は衝動を抑制する。目の前の人から属性を捨象する。己の先入観が形になって現れる。

    直感と先入観。直感は当たるが先入観は外れる。そんなイメージ。違うか、当たるというより直感は嗅ぎ分ける。感じること。先入観は言葉に置き換える。言葉が納得させる。了解すること。

    ( よっとです。ちいさくてふたりでのります。かぜとなかよくしながらすすんでいきます。かぜとけんかしたらひっくりかえるのかなぁ。びわこではよくみかけます。もっとおおきなよっとだとうみをわたれるんだそうです。 )

    琵琶湖のヨット

    毎日続けていること。私が行動しているわけではない。見方を変えたら自己満足かもしれない。だけどそう思いたくない。育まれていく情動を実感する。

    散歩で目に「する」ものやことは、目に「したい」ものやことも混じってきた。

    皮肉か、矛盾か、妙か、とにかくわからないことがある。それは自身に向き合う仕方をほんの少しずつわかってくるようになると言葉が減る事実。理由はわからない。

    向き合う仕方は、「わからないことばっかり」と「まずは手足を動かしてから」を教えてくれる。

    言葉が減れば、ここに書けなくなる。無理矢理にでも書きたい。力不足ゆえに”伝える””伝えたい”は埒外である。でも何かの縁があって検索経由でここに立ち寄った時、一瞥を投げてもらえたら、向き合う糧になるんだろうな、きっと。