ラベルが貼ってあれば安心

2013.04.01 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=VQ3d3KigPQM]

今朝は The T-Mobile Dance でスタート。Liverpool Street Station で実演された flash mob 、かなり大がかり。かなりお気に入り。公開されているメイキングの歯切れがいい。flash mob に遭遇したことないけれど、コレや Swingle Singers underground tube subway だったら遭遇しても不快感は抱かないかな? わかんないか、遭遇してみないと。

買い物へ行くとラベルに目がいくようになった。いろんなラベルが食料品に貼られている。安全基準を満たしているマーク、国産、無添加などなど。共通点は安心か。ラベルに関心を持つようになったからか、手にとってラベルのデザインを確認する。色や形状、フォントやら。

安心したいのは誰だろう? 私か、それとも販売者かメーカか。

語弊がありそうな表現と断っておくと、世間は「何か」を人間に貼って安心したがっているのではないか。ラベルだ。世間と書けば、ぼかしてしまっているが、ありていに言えば、大人が他者にラベルを貼る。一風かわった人に対して、「脳の機能」や「発達障害」などの名称をつけて分類する。分類すれば、誰が安心するのだろう?

世間か、分類している私か?

私はおかしくない。私は正しい。その私の目には、差し向かいの相手が奇異に映る。何回接しても言動が変わっている。私は定形であり、相手は不定である。不定が間違っている。

変わった人に対して向き合うより、「何か」を貼る。その「何か」が非科学的な単語だとしっくりこない。なんだか、私の感情から発せられた言葉だと説得力がない。納得できない。だから科学’的’な言葉を探す。私が自分を言い聞かせるのに、感情も非論理的もないはずだが、非は自分にない点を自慰したいために、外部にある言葉を探す。

便利な時代である。検索すれば、書店に行けば、専門家がわかりやすく「何か」を説明している。それらのなかから、私にとって都合の良い「何か」を選択して、相手に「何か」を貼る。

買い物のラベルと巷にあふれる「何か」を貼りたがる傾向をむりやりつなげてみたらそんなことが構造化された。

近江神宮

13:30からF先生と少し打ち合わせして、そのあと、前回の個人面談の結果を各自に伝える。まずは二人。かなり神経を使っている自分を自覚。

言葉は凶器、そう自戒している。甚大な打撃をいともたやすく与えられる。物をつかって他人を攻撃したことがないので、どんな気持ちを抱えれば、どんな感情が芽生えたらそれができるのか知らない。言葉でなら知っている。怒りがこみあげればあらん限りの語彙を駆使して痛打できる。

怒りでなくても、「自分が正しい」という土壌に侮蔑の種子を知らず知らず育てていれば、蔑んだ単語の花をさかせるだろうし、慇懃無礼な枝がすくすくのびる。

始末の悪いことに、そんな言葉の樹木を育てている己を自覚できない。

かなり神経を使ってしゃべっていても、やはり凶器をふりかざしている。他方、神経の使い方が頓珍漢だと、私が相手に伝達したい内容がピンぼけしてしまう。

15:00に終了。くたくた。二人で45分ほどの面談は堪えた。帰りの車中、しゃべった内容を反芻する。いつもの作業。頭のなかで反芻して批判する。「ああいえばよかった」や「しまった」はない。

「なぜああ言ってしまったか?」

あのときの感情を想起して自分の動機を深掘りしていく。深掘りの過程で認識できる事柄を批判する。同じ場面はこない。体験できない。具体的な事柄から抽象的な思考へ展開して、頭のなかで「分類」して「構造」化していく。パターンとして認識させ、未来で使える道具をつくる。