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The past cannot be cured.

ブレイクスルーした彼女は次の無音状態へ向かうだろうか

2013.05.15 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=r8w6HYROFfU]

Def Tech – おんがくMUSIC でスタート。歌詞がよいなぁ。「 音楽がなくても生きていけるけど そんな世界じゃあまりにも寂しいから だから人の心を結ぶのが音楽 その傷ついた心を癒すのも音楽 それぞれの違い乗り越えてゆく音楽 目には見えない偉大な力 それが音楽」だよ、ほんと。音楽のない人生は自分の中にはないな。音楽をやる側にはなれないけれど、音楽を全身と全感にインストール側にはなり続けるよ。

弱り目に祟り目、腰痛に苦しんでいるところに、ミーティングから帰宅して MacBook Pro 15inch を起動したらディスプレイが故障していた。たしかAppleが修理対応する年数をオーバーしているので廃棄処分しなければならない。かなり痛い。マイッタ。いや、もう次を購入する手立てはないですよ、降参。

10:00からミーティング。13:00終了。ひとりのスタッフを新人の頃から存じ上げている。その方から仕事で覚えたことや実行してきた道程を伺う。私はその方を見ていないかった。強く実感できる。見ているようで見ていない。

見たいものしか見ない、見たいものだけで言語を構成して物事を捉えて判断する。怖れていることを、彼女は私に教えてくれる。

突破 — THINKSELLの裏側 で紹介した一節を思い出した。辺境ラジオのブレイクスルーについてのくだり。

無音状態に陥った学生は遠ざかる(名越康文先生)。遠ざかっても学生は講義やゼミに出席している。物理的な距離はまだ近い。ところが発言しない。そんな日が続く。どうして発言しなかったと尋ねると、「いや、意見を言わないほうがよかったかなと思って」との回答。やがて学生は消える。眼前から。物理的な距離が遠くなる。

そして再び目の前に現れた時、学生は次のステージに立っている。コンテンツの質が全く異なるのだ(内田樹先生)。

教師と学生の間には「ベタな等距離」がないように、組織のなかでも「ベタな等距離」はない。互いに距離を測る。数年前まで、私から見えているように誤解していた彼女は、「無音状態」だった。でも、彼女のなかではそうではなく、自分のスタイルを着実に丁寧に作り上げている最中だった。

私から見える、「コンテンツの質が全く異なった」彼女はある日突然目の前に現れたのではなく、漸進していた。私が漸進の過程を見逃していただけ。

しだれ桜

年齢は関係ない。経験年数は考慮に入れても「見る」ことに大きな影響は与えない。彼女のように、見て、学び、考え、動き、振り返り、整えて、修正できる人がいる。

我流、独学は理論に太刀打ちできない点はある。体系化された理論は人へ全体を提示できる。理論はそれ自身に反証の余地を残して、新しい知見へ到達できる枠組と素地を持っている。だから理論は便利なツールだ。

遅くない。いまから後輩へアウトプットしていくなかで、独学と理論のずれを発見して互いに書き換えていけばよいと思う。独学と理論を交換していく更新作業は、拡張された己が浮き上がってくる。己から「見る」他者の視線と他者から「見られる」己の欲望が、己と他の境界線を広げる。

ただし、再び無音状態へ沈み込む時機が必要かもしれない。

今度の無音状態はつらい。なぜなら一人で沈む込めないから。周りがいる。後輩がいる。組織の核になりつつある。自分ひとりで淡々と「無音」へ潜れない。以前と異なる責務がある。

3時間のミーティング、彼女は私の弱点や課題の輪郭をつくってくれた。

いつも抱く恐怖。自分のなかで育てたつもりでいる感性や知識が壊されていく恐怖。同時に、壊されていけば次の創造が待っている期待。恐怖と期待。だからおもしろい。自分をまだまだ拡張できるはず。

拡張するまえに弱り目に祟り目をなんとかしたいけど弱ったままでもよいかと弱気。