書店で目にしてはじめて買ってみた。楽しく読めた。第1章30代、40代, 第2章50代、60代, 第3章70代と年代別の章立て。各年代の暮らしを紹介している。そらぞらしいコピーやおおげさな文章はなく、暮らしぶりが淡々と書かれている。それを表す写真。読み手の腰をいますぐにでも上げさせそうな「暮らしのヒント」と取材したすべての人へ「同じ質問、それぞれの答え。」が添えられる。”ヒント集”、膝を打つネーミング。読んでも真似できない。同じ道具を買いそろえても暮らしぶりは文のようにならない。”それぞれの答え。”を実践しても感じ入りかたは人それぞれ。
カテゴリー: review
-
[Review]: われらの星からの贈物
言葉のフロッタージュとしての一冊の本を、ずっと心に描いてきた。フロッタージュは、事物に紙を直接あてて、鉛筆などで上から擦って、事物の木目をそのままとりだす表現の方法だ。そのように、言葉に紙を直接にあてて、言葉の木目をそのままに擦りだして、思考のイメージをひろげて、新しいコンテクストをみちびくような一冊の本。
われらの星からの贈物 のあとがき。映像的な、視覚的な、文章の絵画を眺めているかのよう。私の手が鉛筆で木目を擦りだしていく姿を天から見下ろすように、言葉の映像をイメージできた。このあとにつづく「行間と余白」を述べた数行は、それだけで私にとって一冊の本。
-
[Review]: 心臓を貫かれて
僕の兄は罪もない人々を殺した。名前をゲイリー・ギルモアという。彼は現代アメリカにおいて時代を代表する犯罪者として、名を残すことになるだろう。
人は生まれながらにして一定の知識を持っているか、経験がすべての知識を獲得させるのか、生得と経験について専門家たちは論争している。いずれ決着がついて知の体系に組み込まれるとはいえ、人は生まれながらにして暴力をふるうように設定されているんだろうか。それとも経験が暴力を誘発するんだろうか。マイケル・ギルモアが自身の家族を語った物語、暴力は生得か経験か、私のなかではよりいっそう混迷していった。
筆者のマイケル・ギルモアは四人兄弟の末っ子として1951年に生まれた。そのとき父フランク・Srは61歳、母ベッシーは38歳。長兄のフランク(・ジュニア)が1939年に生まれて、順にゲイリー(1940年)、ゲイレンの兄たちがいた。フランクには前の結婚で生まれた息子ロバートがいる。
マイケルは家族に対して「自分だけがその共同体から離されているように」感じ、「愛と絆を必死になって求めるのだけれど、何故かいつもそれを得られずに終わっているように」感じていた。マイケルが生まれた頃からギルモア家の暮らしは漂浪から定着へ変わっていた。なによりマイケルは父親から愛されていた。
マイケルが生まれる前のギルモア家は、父親の暴力と母親の怒りで埋まっていた。
フランクは3人の息子たちに暴力をふるっていた。ゲイリーが何か悪いことをして罰するとき、ジュニアも連座で罰せられた。たとえジュニアは何もしていなくても罰せられた。ベッシーにも暴力がおよんだ。長年にわたって蓄積された暴力は、ベッシーの顔を激しい怒りに変えてゆく。顔にじみ出る怒りは、まるで法則のように子供たちへ向けられる。
-
[Review]: 私たちには物語がある
3万日。一生をたとえた日数だ。
きりとひびきが良いからかしら、82歳は長く感じられる、私には。つまり警句である。「人生は3万日しかない」なんて言われたら、あらそんなにあるのと思いたいものだが。
いつまで生きられるかは…… 承知の上、ただわざわざ口にするまでもなく、野暮というもの。時には黙っていたら、みばのよいこと。
1分間に何頁読めるだろう。それがわかれば、残りの日数を掛け合わせる。読める冊数をはじきだせる。あえて身も蓋もない言い方して冷静を装う。もしも残された日数から読める冊数がわかっても、それを超える本を読みたい。
そして手元に本を積む。どこか隅っこに「未読」が刻まれる。背表紙を目にするたびに後ろめたさと楽しみが混ざり合う。
日ごろ、今しかないと心がけたく過ごしているつもりが、「つもり」のまま露呈する。とんまなことしてるわけだが、著者だって、「すでに亡くなった作家をあまりにも好きな場合、既刊の著作をできるだけ読まないようにする」んだからと慰めた。
一気に読む。著者曰く「感想文集である」本は141冊。私が数え間違えていなければ。うれしくてにくらしい。これから読みたい本があり、未読がふえるじゃない。健全なじれったいって、今のような気持ちだろうか。
-
[Review]: マイナス50℃の世界
ヤクート自治共和国(現サハ共和国)から一通の手紙が、米原万里さんのもとへ届く。
「お元気ですか。こちらはもうすっかり暖かくなりました。外の気温はマイナス二一度。暑いほどです」
返事を書いた。
「東京は春だというのにまだまだ寒く、きょうの気温はプラス二一度です」
ユーモアと飾り気のない文体が心をわしづかみ、文字を追う速度が恨めしく、めくる手が急き立てる。なのに手は行ったり来たり。
マイナス50℃の世界 は、私を戸惑わせる。同じ惑星でないような奇妙な感覚。イメージの輪郭を描けない、想像の外側に在る世界。
サハ共和国の面積は日本の八倍、人口は約95万人。取材へ出発する前、防寒着のテストを三度もやっている。改良が加えられた防寒着を機内で着込み、マイナス三九度のアナウンスを聞いて、「軽い、軽い」と平気な顔で機外へ踏み出す。
瞬間、鼻毛や鼻の中の水分が凍った。
-
[Review]: ビジネス・インサイト
彼らには、ある期を境に前後の事態がまるっきり違ってしまうという創造的瞬間があったこと、そして周囲の者にはしかと見えなかった成功のカギを見きわめたこと、そしてそれについて明確な確信をもちそれの実現のために集中的にみずからの力をそこに傾注し、組織の力を結集させていったこと、そのことを理解したい。
-
[Review]: バカ丁寧化する日本語
当然のことだが、相手のことを考えないとコミュニケーションはとれない。敬語はその最たるものだ。相手のことを考える。すなわち、想像力なくして敬語は使えない。敬語が難しいと思えば、普通の言い方に直してみるといい。敬語という化粧をとると真の姿が見えてきて、おかしな日本語や失礼な表現に気づくことも多い。そうしたら直せばいい。そして、必要なら、改めて挑戦すればよい。
『バカ丁寧化する日本語』(光文社新書) P.216
-
[Review]: 考えなしの行動?
観察をしてみようと一度決心すれば、まったく難しいことではない。ただ、体系的に、そして注意深く観察するには、訓練が必要である。私たちは、あまりに効率良く世間を動き慣れているから、多くの時間を自動航行に任せている。
-
[Review]: 臨床とことば
聴くということはしかし、とてもつもなくむずかしい。語りは語りを求めるひとの前ではこぼれ落ちてこないものだからである。語りはそれをじっくり待つひとの前でかろうじて聞かれる。「言葉が注意をもって聴き取られることが必要なのではない。注意をもって聴く耳があって、はじめて言葉が生まれるのである」と、かつてわたしは書いたことがあるが(『「聴く」ことの力』)、じぶんがどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語りだしたことを言おうとも、そのままそれを受け入れて問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとはじぶんのもつれた想いについて語りださないものだ。