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  • 百尺

    2011.12.15 晴れ

    今朝はStrawberry Switchbladeから”Since Yesterday”でお目覚め。80’sのコンビレーション・アルバムで耳にされた方もいらっしゃるのでは。冒頭のイントロって日本の曲でも「うまく」利用されているような気がしないでもry

    アルバイトの資料入力、F社のサイトの改編、M先生のサイトをリニューアルが重なっていくぶんタイトな感じ。タブレットとスマートフォンから閲覧はデフォルトになりそう。

    第六十二候、くまあなにこもる。ヨーロッパ人に生まれたら春菊を食べなくてすんだかもしれない。美味いという人はいらっしゃるし、鍋のあしらいにかかせないと鼻息が荒い人もいらっしゃる。私はダメだ。

    “リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間” 高野 登, “帝国ホテル 伝統のおもてなし” 川名 幸夫, 帝国ホテル ホテル事業統括部, “9割がバイトでも最高のスタッフに育つ ディズニーの教え方” 福島 文二郎 などサービス系を代表するビジネス本。

    現場の各スタッフが、ひとつの局面を判断して行動する。不思議です。各人が個別に判断する。バラバラなコトをしでかしかねない。なのにバラバラにならず個別の行動がうまくまとまって、「感動のサービス」や「ホスピタリティ」と評される。

    3.11、ディズニーランドのスタッフは備蓄の物品を配布した。園内の人を適確に案内して混乱を抑えたと聞いた。マニュアルどおりの行動だったのだろうか?

    リッツ・カールトンのワオ・ストーリーの事例を読む。個別の判断と行動がそろっている。そろっているけれど画一的じゃない。各自のユニークと組織のユニバーサルがリンクしている。

    どうして「個別に判断」して「全体の視野にたって行動」できるのだろう?

    共通点は、「考え方」の共有だと思う。根本的な考え方だ。ヒトやコトに対してどう考えるか。その道筋と基準がはっきりしてわかりやすいと想像する。はっきりしてわかりやすく表現できるまで議論を緻密に積み重ねてきただろうし、道筋と基準を書き換えるためにいまでも議論を重ねていると想像する。

    経営者や幹部だけが「考え方」を共有していない。あまねく共有できる表現が求められる。徹底的に共有する。

    考え方の共有は意味の共有ではない。TwitterやFacebook、メールを携帯端末から利用できるようになって、「意味」は迅速に伝達される。迅速に伝達された結果、携帯端末には「意味」が記載された大量のテキストが流れ込んできた。大量の意味テキストは業務に支障をきたしている(欧州最大のIT企業、社内電子メールを廃止 « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム)。

    意味を関係者に伝達したらホウレンソウが完了して、考え方が共有できたと錯覚する。行動の「予定」や「結果」を伝達しても考え方は理解されない。

    正法眼蔵随聞記 六 二十一 古人の云く百尺の竿頭に更に一歩を進むべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.393

    自分を離れるお話。まず自分とか、名誉とか、利益とか離れなければ、いくら出家して過酷な修行を積んでも無駄な時間をすごすだけだとおっしゃる。まず自分を離れよと。

    道心して僧になる。いつしか指導者になる。すると仏になろうと思わないで、自分の位が高いこと、寺での地位が高いことを分かってもらおうと思ってしまうようになる。ありがたがられ供養されることを望んでしまう。

    他方、そういうものに執着しないでただひたすら自分の身のために仏道を本気でやっている人がいる。これは一見すると、ほんとうの仏道修行者かと思われるが、そうではない。結局は、「自分」のことを考えている。

    まだまだ「自分を離れる」がわからない。とんでもなく難しい。

  • 春秋

    2011.12.08 曇

    今朝は畠山美由紀から”Diving into your mind”で一日がスタート。いいよなぁ。来年2月のBIG CAT行きたいなぁ、”輝く月が照らす夜”もよいんだなぁ、歌声にうっとりしてまうんだなぁ、だなぁ、なぁ、あ。

    二十四節気、大雪。太陽の黄経が255度。冬の到来。大野の里芋と大根の煮物が美味い。当たらない役者を大根役者。鶏肉胸と蓮根の胡椒焼きもよい感じ。蓮根がそろそろ旬か。

    ラジオからは“MISIAの森 Forest Covers” MISIAのアルバムプロモーション。すごい。カラオケにならない。カバーなのにオリジナルのよう。聞き惚れる。このアルバムのセットリストをホールで聴きたい。

    朝日新聞のウェブサイトをチェック。日課になった。12/8現在、震災死者1万5841人、不明3493人。情報元は警察庁。警察庁は被害状況をウェブサイトでPDF配信している。両者に敬意を表する。夕食、手を合わせる。罹災した方々、復興にあたっている方々、死者と不明者、原発の処理にあたってくださっている方々、自衛隊の方々へ祈る。続けなければならないと思っていたら習慣になった。習慣のメタ認知。

    世間は忘年会シーズン。クライアントからのお誘いはお断りしている。だから実感がない。子供がいらっしゃる家庭イベントはない。四季を実感しても時季のイベントがもたらす生活の抑揚はない。一年が平坦に過ぎていく。

    30代最後の年。想像していたより落ち着いて静かである。20代最後は得体のしれない焦りがあった。恐怖みたいな感覚も残っていた。10年経ってなくなった。感覚は鈍く、感度が低くなったということ。

    子供のころ湯豆腐ってわけがわからなかった。湯豆腐だけじゃない。素材を味わう料理はたいていものたりなかった。なにがおいしいのって。味付けば薄いし色は地味だ。なのにいまでは湯豆腐を食べたらほっこり。匂いのある食べ物も食べられるようになった。春菊は苦手だけど。嗅覚が鈍くなったとひきかえに素材を味わえるようになったらしい。否、ただ食べるから食の周辺を楽しめるようになってきたのかね。

    運よく迎えられるとしたら次の10年、どんなものを味わえるようになるか。大晦日までにめちゃくちゃうまいウィスキーを味わえたらよい締めくくりを迎えられそうだ。

    正法眼蔵随聞記 六 十九 春秋に云く

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.388

    六 十九は慶安本、流布本ともにない。長円寺本だけ存在する。正直、何を言っているのかさっぱり理解できない。どこかに解説があれば読んでみたい。

    さっぱり理解できないのはこれだけではない。ほんとんどの段を理解していない。

    仮にわかったとしても、「わかった」と思ったその瞬間に失敗する。

  • 善縁

    2011.12.01 曇

    http://www.youtube.com/watch?v=r4p8qxGbpOk

    師走がスタート。今朝はThe BeatlesからAll You Need is Loveでお目覚め。落ち込みかけているのでのんびり聞く。

    12:00からM先生のミーティングへ出席。いつもは19:00スタート。今回ははじめての試み。来週は忘年会で私は欠席、なので年内はあと1回。じっくり考えて答えを出そう。Sさんに申し訳ない結果になるかもしれないけれど。判断ってほんと難しいね。

    13:00に終了。お腹がグゥグゥ鳴っている。心斎橋までがんばれ。ロッテリアでランチ&アップルストアのGenius Barへ。MacBook Pro 15inch(Late 2006)の左ファンの調子がおかしいので症状を説明する。

    症状を説明している単語のチョイスを聞いて「あぁこの人は、ry」とスタッフさんは察してくださったご様子。スムーズに修理決定。ハードウェア診断の結果、バッテリーが経年劣化しているのであわせて交換してもらうことに(バッテリーの料金はアップルの電話サポートで聞いたときと違った。確か以前にTweetしたと思う)。

    直営店のGenius Barとアップルの電話サポートって対応が違うなぁ。気のせいかしら。検索してその理由を最近知った。なるほど、そういうことなのね、納得。これからはGenius Barへ持ち込みます、なるべく。

    書店で“暇と退屈の倫理学” 國分 功一郎 を購入して読み始める。そうか、暇と退屈は違う、確かにね。言葉の意味を吟味して定義を書き換えていく思考を体感。体感してもできない。これが”差”だよなぁ。同世代として理解できる文体。とんがっている文体。

    19:00からF先生のミーティング。先生曰く、濃密な議論でしたとこと。ただし、しんどいですよね。K先生がおっしゃるとおりです。いま議論していることを文章に出力しなければならないとしたらむずかしい。Tさんのおっしゃる点も共感できます。Tさんにとっては未体験の思考領域かもしれない。

    自分の知性をフルスロットルさせる感覚がもたらす高揚感と疲労感は尋常じゃない。知性にかかる負荷と向き合えたら次のステージがやってくる。そのステージは技術と表現の拡張をもたらす。技術の箱の体積は増加して密度が高くなる。表現のバリエーションが富む。そんなふうに私は考えています。

    人の好悪を選ばない、意見の正邪好悪を選ばない。ゼロベースに近づいていく、他者の具体的な視点を抽象的な視座へ昇華させる認識と実践の試行錯誤。結果に対する全体の省察。

    1時間超のミーティング。F先生を観察していて”凄み”に圧倒された。

    正法眼蔵随聞記 六 十五 人の心元より善悪なし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.377

    善縁にあえば心は善くなるし、悪縁に近づけば心も悪くなる。人の心ははじめから善悪があるわけではない。人の心はどこまでも人の言葉によって左右されるものだと思う、とおっしゃる。

    リーダーのたちいふるまいが書かれている。そう読んだ。

    リーダーがあるべき姿、ありたい姿、あってほしい姿を自律的に示せなかったら? まわりは魅了されるだろうか? リーダーは学びに飢えているだろうか?

    尊敬する作家の先生が書いていらっしゃった。うろ覚えだけど。「勉強しなさい」という親が勉強していないのにどうして子どもは勉強するだろうか、と。親が大人を楽しんでいないのに子供は大人に憧れるだろうか、と。

    自己評価が高く他者評価が低いという人のことをなんというか。それ自体に関心はない。自己評価が高く他者評価が低いことを自分自身が認識していない己に常におびえる。おびえすぎれば自己憐憫である。はざまでいつもゆらいでいられるか。いられなければとてもとてもコワイ。

    自分は勉強しているけれど他人は勉強していないという思い込みは、その人のふとしたときにもれる言葉からかぎとれる。ということは自分もそんな汚臭を他者へ発している。

  • 時光

    2011.11.22 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=mM0-ZU8njdo

    Puff Daddy and Faith Evans featuring 112のI’ll Be Missing Youでお目覚め。ふっと頭によぎってアーカイブから検索して探して流す。1997年、何も思い出せない。がむしゃらに働いた日々が音楽とリンク。思い出したくても思い出せない曲もあるから困った。

    二十四節気、小雪。太陽の黄経が240度。第五十八候、虹蔵不見。昼が短くなった、まだなる。陽射しは物憂げで柔らかい。

    前の晩につくったいなり寿司でランチ。ほおばりながら母親のつくってくれておいなりさんを思い出そうとがんばる。どんな味だったかなあ、もう少し酢がきいていたよな、えっとたしかニンジンがはいっていた、ような、あれ、形はたしかもう少し丸かった、とか。

    1997年か1998年、「あんた、まずいものには手をつけないから」って先輩のSさんから言われた。飲んでいるときだったはず。誰といっしょにいたかまで覚えていない。何も思い出せないのに言葉は刻まれていた。Sさん、よく見てたよ、ホント。無意識の行動って気をつけられないね。

    うまいまずいは自分だけの感覚。他者と共有できるんだろうか? 母親の料理とお弁当がこの感覚を育てたってことは間違いなさそうだ。

    ひとつひとつの食べ物にうまいまずいとか濃い薄い、甘い辛いって感じる。ひとつひとつに反応していたらたいへんだから黙々と食べているけれど、無意識では感じながら食べているんだろう。脳に障害が残って嗅覚が著しく低下した人から話を伺ったとき、無意識では感じながら食べていられるありがたみを実感した。

    他者の不幸や困った体験にふれて比べて実感する感性。比較して自分の状況を確認する日々。そうでしか実感できない感性や感情でもきちんと手入れしておかなくちゃいけないなと思う。

    比べなくてもよい感覚はいつ訪れるんだろうってふと思う。基準を捨てられることへの恐怖と期待。

    19:00からF先生と院内システムの打ち合わせ。大阪駅で途中下車。“動きが心をつくる──身体心理学への招待 (講談社現代新書)” 春木 豊 を購入。著者が述べているウェルビーイングになるほど。からだの「手入れ」は大事。

    先生は「結論から述べよ」とスタッフにおっしゃった。私に対する忠言だ。そう受けとめた。回りくどい自分の話し方を振り返る。21:00前に終了。

    正法眼蔵随聞記 六 九 古人多くは云く光陰虚しく度る事なかれ

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.355

    絶望か希望か、どちらでもないか。わからないけれどわからないけれど、達観した無を感じる。自分に対する過剰な評価も過小な評価もない。ひょっとして自分ってからっぽなのかなあ。空。

    主君や父母も自分に悟りを与えることはできないし、父母妻子の愛情も自分の苦しみを救えない。財宝は死をのがれさせてくれない。そして、この言葉、「世人終に我レをたすくる事なし」だと。

    結局は自分なんだけど、そこにすれた感じや投げやりなニュアンスはない。自分を救うのは自分、とかでもない。自分であることをさぼるな、ってしかれてしまった感じかな。

  • 悪口

    2011.11.18 曇のち夜半雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=d5YWiyrWavs]

    今朝はSuperflyからAIN’T NO CRYBABYでお目覚め、一日がスタート。身が引き締まる声。室内の寒さを吹き飛ばす。

    第五十七候、金盞香。疲れたら山芋をすりおろして食べる。効くのかどうか知らない。言い伝えを疑わず、儀式みたい。習慣っておもしろい。

    Googleで「人格 性格」と入力した。続けて「 違い」が自動的に表示された。親切だ。人格と性格について専門家の解説を聴きたい。人格攻撃というけれど性格攻撃といわない。人格障害はあっても性格障害といわない(私の周りでのお話)。人格は攻撃の対象であり障害を被るが、性格はそうではないらしい。

    あなたの長所と短所について教えてください。そう問われたらどう答える? 長所は腹七分目で食べています、短所は禿げてます、と答えよう。そういうことじゃない、おちょくっているのか、と逆鱗に触れる。

    長所と短所。ひとつの事実に付随している行動パターンにすぎない、と私は思う。コインの表と裏だ。みんな一枚のコインを持っている。目の前にいる人のコインは私に対してどちらを向けているか? 長所が向けられているときもあれば、短所が向けれられているときもある。

    長所と短所は等しい関係だ。そう認識している。なのに長所はプラス、短所はマイナスのイメージを持つ。倫理や常識やらが持ち込まれるからだ。一枚のコインは分けられる。長所は1万円に、短所は1円に。10人中9人は1万円を選ぶ(はず)。

    倫理や道徳や常識という価値判断の基準が、長所と短所を優劣と好悪の対象に変えてしまう。愚かなことである。そう理解している。していても、人の短所を垣間見たときのドロッとして湿った気分はコントロールしづらい。あれ、どうして短所と判定してしまうんだろう?

    問題が起きる。原因がシステムやプロトコルのエラーではなく、当人の長所と短所だとしたら。はたして問題かな? 問題の原因は当人の言動だと10人中10人が認定する。そして言動の根本は当人の人格か性格に起因しているとしたら、それは問題に設定できるだろうか? くわえて当人自身が己の「行為」と「言葉」について自己認識できていないとしたら? 問題の前提が存在しない。

    私にも自分で認識していない長所と欠点がある(はず)。周りの人は見て見ぬふりをしているか、嫌な思いをさせている。運が良ければ誰かが忠告してくださる。それでも認識できずに改善できない「行為」と「言葉」はある。

    人の振り見て我が振り直せ。では人の振りが想像を絶していて、理解不能であり想像の埒外だったら、我が振りを直せるだろうか。そんなふうに考える。自分の持っている「短所」のコインが、満場一致の致命的な欠陥だとしたら…….。とてもこわい。だけどそれはあり得るんだ。

    16:00前に出発して大阪駅で途中下車。パソコン工房でHDDの価格を見て度肝を抜かれた。世界がリンクしている実感。頼むからいまHDDは壊れないでほしい。ただひたすら祈る。19:00からM先生のミーティング。20:00終了。困惑の連続。

    正法眼蔵随聞記 六 七 ふるく云く、君子の力牛に勝れたり

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.349

    悪口をもて人を云ヒ、怒目をもて人を見る事なかれ、とおっしゃる。他者より知識がすぐれていても議論すべきでないし、口ぎたなく人をののしってもいけない。怒った目で人を見てはいけない。

    さらに最後の一文にまいった。誤読しているかもしれない。いまの世間の人は財宝をたくさん与えて恩を施しても、怒りをあらわにして口ぎたなく非難すれば必ず手向かう心をおこす、と。非難と悪口は自らの評価をおとしめる。他者にかなりのストレスを与える。

    そしてもっとも恐ろしい点は、非難と悪口を言っている自分を私自身が認識していないこと。こう書いていても、自分が悪口を言っている自覚がないと想像しただけでゾッとする。

  • 身も蓋もない話をできる人がひとりいたら贅沢だろう

    “ほんとう”をことばのオブラートで包んでそっと差し上げて、相手がオブラートをとかして”ほんとう”に気づいてくれるまで待つ、って優しくて成熟したふるまいのようにみえるかもしれないけれど、それは逃避であって、ことばのオブラートに包み込まれたときから”ほんとう”ではなくなる。

    <恐怖していると言うのですね。ですが、恐怖と自己愛はその根が似通っているのではないでしょうか? 両方に共通するものは、自分自身への過剰な関心と絶対視です。<<私>>は、多くの物語から恐怖と、恐怖する人間の行動パターンの資料を集めました。結果として見えてきたのは、恐怖する人間が自分勝手になり、自己の保全を最上位に置くようになることでした。恐怖する人間からは外界が消失して、第一基準が自分自身になります。それは、自己愛のもっとも深い陶酔と極めて似通っていると思えるのです>

    “あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)” 長谷 敏司 P.251

    “ほんとう”ってうっかりすれば身も蓋もない事象であって、それを説明するためのことばの量は思っているより少ないと思う。

    大乗は空であり、生活の中で大乗でいられる虚構をつかみとろうした人は、天に向かって吐いたツバのゆくえを体感している。それがわからない人は、他者に向けて矢を放つ。その人にとって、放った矢は二度と自分のもとへもどってこない。

    他者に向けて放った矢が、やがて自分の胸を突き刺し自分を殺してしまうから、大乗になんてなれるわけないし、なりたくない。他者に放った矢で自分を殺せる人は、”ほんとう”をすくいとっている。

    周りで起こっていることは複雑だから、膨大な情報量を記述しなければならない。記述された膨大な情報量をいちいち読んでいられないから、ぼくは相手の表情から何かを感じとる。

    相手を見ずに声だけに集中して聴く。ぼくは視覚情報にかなり依存している。

    梅田の地下街を歩いて、正面からやってくる人とすれちがうとき、相手の目や顔を見ずに足元だけを見ていれば、ぶつからない。

    “ほんとう”に気づくために見なければならない”こと”を見ず、見たいものだけを選んで見ている。あるいは無意識に受動的に見ている。

    この先ぼくがしなければならない”こと”を、思い悩む必要もなく、ごく短い単語で記述できるし、実際やってみたら、身も蓋もない話になる。その身も蓋もない話を自分ひとりで受けとめられないから、「何か」へ逃げ込む。

    身も蓋もないってとても大切なやすらぎだと思う。たぶん、きわめて激しくて、気持ちはゆさぶられ、嫌な思いもしなければならないかもしれないけれど、<私>を育てるためには欠かせない肥料なんだと思う。

    でも、その肥料はひとりでまけない。

    身も蓋もない話をできる人が、ひとりいたら贅沢だろう。だけど、その贅沢はなんとしてでも手に入れたいね。いつ手に入れられるだろう。決まっているのにどこかにいるかわからない。

    You are everythingなんて身も蓋もない気持ちだよ。

    この気持ちをオブラートに包まずに”そのまま”脳へ直接的に伝達できるぐらい、「交われる」人がいたら、生活は甘美で戦慄するだろう。

  • 頭燃

    2011.09.08 はれ

    大阪と滋賀、どっちに住みたいですか? と聞かれたら鎌倉と答えよう。

    先日、K先生といっしょに食事をしていたら、「いつ大阪へ帰ってくるのですか?」とのご質問。先生から年に2回はたずねられているかも。はやく大阪へ帰ってきてほしいと酒の席でおっしゃっている。

    空が高い。 雲がない。月は半月からすこしだけふっくらしている。来週は満月。誰かと酒でも呑みたい気分。

    雲がある空とない空、どっちが好き? 朝夕は涼しくなった。10月14日、15日の枚岡祭りにむけて感じる朝のはじまり。毎年、書いている。鼻の奥で、あの、なんだかよくわからない乾いた空気の匂いがして、半袖だとちょっとひんやりしてさらっとした感じの空気が腕や顔を包み込む。

    祭りまでの朝が好き。今年はなんと金曜日と土曜日。行きたいなぁ。ほんと、すごいよ。地元に残った悪ガキたちはもう40歳。みんな、何してるかなぁ。

    二十四節気、白露。露はまだかな。せめて言葉から涼をとりたい。第四十三候、草露白。露をみて物語を読み取り、風流を感じられるようになりたいとも思い、露をみて生成される摂理を説けるようにもなりたい。両方ともまだほど遠い。

    16:00すぎに出発。19:00からF先生とミーティング。患者の診療進捗管理のデータベースを作成したので最終の打ち合わせ。あとは在庫管理。それに自由診療のシステム再構築。

    大阪駅で途中下車。桜橋口の改札をぬけてディアモールへ向かって歩くとき、大半の足は家路に向かう。あるいはお店。このなかに孤独の人は何人いて、孤立の人は何人いるかな。たまにみかける通行人の数をかぞえるみたいにカチカチ押せたら心は休まるかもしれない。

    孤独はひとりじゃなく、孤独と孤独はリンクできる。誰かが誰かの孤独へよりそえる。となりに座ってしゃべっているよりも二人で黙って大阪城から見える景色を飽きもせずずっと眺めているほうが静かで心地よい。あの人のように。

    孤立はひとりだ。孤立と孤立はリンク切れで、アクセスしたら404のエラーが返される。ページが見つかりませんって。ページってその人のこと。誰かが誰かの孤立へよりそえない。

    孤独と孤立は違うと思う。孤独へは、自ら踏み入れる。そこは静かで安らかでやわらかい。自分を律することができるようになれたらさらに心地よい場所だろなって想像してみたり。

    孤立は、知らず知らずに誘われている。結局は自分が招いた結果なんだけど。気づいたときには、真っ暗で見えなくて、どこにいるかもわからない。孤立は無援と化学反応する。

    自分にとって心地よいサウンドだけを聴けたらよいね。それって「聴けたら」ではなく「聞き分けている」んだな。iPod Touchから流れるアルバムは、私の耳に残る曲と残らない曲にわかれる。残る曲は好みであり、そうやって自分の好みを強化していき、ますます意固地になる。

    聞き分けている。受け入れることと受け入れないことを仕分けしている。たとえ周りが身を砕いて話そうが、心の中は予定調和で満たされている。

    正法眼蔵随聞記 四 一 学道の人身心を放下して

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.235

    「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入ルベシ」。「思い切る」に尺度はなくて、ひとそれぞれの思い切りがあるんだろうけど、四の一の「思い切る」は、心身ともに「思い」を「切る」とおっしゃっていそうだ。

    なにもかも捨てる。思うから一歩が踏みとどまる。あと一歩踏み込めば死ぬかもしれない場所にいるとき、思いがあるからますますしがみつく。なにもかも捨て去り、いっそ「ままよ」のほうがつつがない。

    「度世の業より始メて、一身の活計に至ルまで、何にも捨テ得ぬなり」とつづく。無理だよ。それを捨てなさいと。

    思い切られないし、何もかも捨てられない。それでいいんじゃない。それが人で、そんな人もあってもよいかなぁって。そんなふうに思えてきた。ただ、「それ」が甘えになってしまうし、逃げてしまっている。甘えること、逃げていること、をきちんとみずから認識できたらね。

    何もかも捨てるってとても難しいんだろうけど、自分の状態を正確に冷静にみずから認識するのもミッションインポッシブルに近いと思う。

  • 光陰

    2011.08.17 晴れときどき雨

    プリュスさんのタルトケーキ

    ども、禿なので白髪はないですが白い鼻毛がある”中の人”です。

    早朝から夕方まで緊急車両のサイレンを何度も聞いた一日だった。朝から卵焼きをつくる。奥深い。卵焼きをつくれるようになってそう感じる。つくっている間、ほんとに何も考えていない自分を実感する。目の前の卵が化学反応していく様子だけを見つめている。

    奥深いと感じる度に、F先生とご一緒したイタリア料理店のご主人が語ってくれたペペロンチーノのお話を思い出す。ペペロンチーノを同業者と語ると激論がかわされる。シンプルがそなえる力。と書きつつ、こみいった料理をつくられないくせにもうシンプルなものの奥深さを感じる自分は嘘くさいなぁと自嘲気味。

    毎日卵焼きをつくっている人の動作を想像する。卵を割って焼き終えるまでの動作は、卵焼きに欠かせない動作である。寸分の狂いもないなめらかな動き。その動きを身につけられてから思い巡らせるであろう味付けについて私は悩む。なめらかな動作を身につけられていないのに味付けやおもてなしや合わせものを思い浮かべる。基本をおろそかにして応用へあこがれる。

    同じ仕事を10年も続けると課題を解決するためのアプローチは洗練される。10年の間に蓄積された知識はネットワークを形成して関連づけられている。関連づけられた知識群はネットワークの部分である。同時に群のひとつひとつは全体として機能する。全体と全体がリンクして「全体」が構造化される。ネットワークは複雑化され構造化され、全体のリンクの強度が増す。

    複雑化され構造化されリンク強度の増したネットワークから課題を解決する方略を短時間で探索する。それが10年(あるいは20年、30年)続けてきた人の「直感」だと考える。

    卵焼きに欠かせない動作は単調だ(と勝手に判断してしまう)。単調だから苦しい。飽きる。それよりも味付けに使う材料や配分、おもてなしの方法、あわせものを考えるほうが変化があっておもしろい。さらに奥深さを研究して言葉で表現できればおもしろい。誘惑は陥穽を用意して私を待ち構えている。

    直感を備えられるようなった人は後から続く者にも直感が備わっていてほしいと願う。10年かけて構築した知識群のネットワークが1年や2年で形成されないと理解している。理解していても卵焼きに必須の動作を教えずに味付けを説きたくなる。説く自分に酔う。単調は指導者と学習者の双方から邪魔者扱いされる。

    「直感」はトップダウンとボトムダウンの両極から鍛えられる。卵焼きという全体の課題に解決するための道筋を計画して、課題を下位レベルの問題(火力、時間、道具の使い方など)に分割する。トップダウンは全体を鳥瞰する。分割された複数の問題を解決して回答を下から積み上げていく。ボトムアップはひとつひとつの問題を解決する。解決する過程は、自分の内側にある知識と外側のどこかにある資源をひとつにあわせて適切に利用する能力を求める。

    正法眼蔵随聞記 三 十四 学人は必ずしも死ぬべき事を思ふべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.207

    4行。人が死ぬという道理を言わなくてもわかっているはずなのに4行で説く。人が死ぬという道理を死ぬという言葉で考えてしまう。たぶんそれは愚かな行為なんだと思う。そんな道理を言葉で考える「時間」すらあっというまに過ぎ去っていく。

    「しばらく先づ光陰を徒ラにすぐさじと思うて、無用の事をなして徒ラに時をすぐさで、詮ある事をなして時をすぐすべきなり」の無用とはなんだろう? 自分にとって有用であっても他者には無用、そんな無用ではないような感じがする。無用と詮ある事の仕分けはいらないと思う。「関係」を持たなくなったらしなければならないことはほんのわずかなのかもしれない。「関係」は事を生み、事をつなげる。関係に無をつける行為は無用なのかな。

    無用、「無」は難しい。

  • 交衆

    2011.07.22-24 薄曇り 早朝と夜半は涼しい

    自分の遺伝子を解析してもらって口内炎ができないように組み替えてもらえるならお願いしたい。口内炎ができるのはかまわないのです。なにがいやかって口臭。口内炎ができると口臭がひどい。で、またやっかいなのは指摘してもらうまでわからない。自覚はあるのですが。幸い家人が「またできた?」っていつも注意してくれるので助かってます。でもね、その前にしゃべった人は臭かっただろうなあと。かなり凹み。弱気に。正直、話すのがイヤになります。神経質になってガムをかみ、フリスクたべてお腹がシュクシュク。はあぁあぁあぁ。

    MISIAの「SOUL QUEST」リリースを記念したサイト「THIS IS ME」診断してもらう。結果は、「本当のあなたは、全て先手必勝でものごとをすすめられる人、です!」との結果。間違いでござる。すべて後手必敗な私なのであります。

    Amy Jade Winehouseが遺体で発見された。27歳。彼女も27歳の死を迎えた。迎え入れたか、迎えたか、招いたか、歩み寄ったか、どうでもよいんだけど、とにかく27歳の死であったことはたしか。なんだろね、ほんと。偶然も数学的事象だとしたら論文を読んでみたいよ。死ぬから伝説になるのか、伝説になりそうな異才が夭折するから物語が強固になるのか。日曜日のFM80.2で山添まりさんがふれていた。「いやな予感がしていたから27歳をこえてほしかった」と。

    中国で高速鉄道が脱線した。痛ましい事故。冥福をお祈り申し上げる。番組表がひどい。「中国版新幹線」と書いてある。新幹線が事故を起こしていない。明らかな意図を感じる。「中国の脱線事故」に対して溜飲を下げるような文脈がTLやSBMや報道からにじみ出ている。豆腐の絹漉しは好きだが、不満を消すような絹漉しは食べたくない。

    日本でもJR福知山線脱線事故や信楽高原鉄道事故があった。事故原因や安全の仕組みが違うと承知している。事故はどこの国でも起こる。技術を模倣された可能性が高いからといってそれみたことか的気持ちを抑えられない文章はどうかしているでしょう。中国の事故処理も話題になっている。日本の報道を読んでも、「そういう処理の仕方」をなにげなく嗤笑しているみたいで、「そういう処理の仕方をする国とのつきあい方」を真剣に論じる記事は少ないし、企業や政府へ警鐘していない。あざけり笑う(ぼくがそう読みとっているだけだけですが、ということはぼくのなかにもあざけりわらいたい欲求がある)暇があるなら、「どうしてそういう処理の仕方を選択した」かを調べて報じてくれたらよいのにと思う。

    22日の金曜日、19:00からM先生のミーティング。M岡さんが選んでくださった“夢をかなえるゾウ” 水野 敬也の序章をみんなで読む。読書会。おもしろそう。ガネーシャの意味は? 関西人、とくに大阪人は「自分な」と言う。ガネーシャは「自分な」と言う。この自分は「相手」をさす「自分」。ぼくが育った東大阪市の端っこの地域でさらに端っこの大人は「我」を使う。「よぉ、我、おっ、我な」という。この「我」も「相手」をさしている。不思議な表現。二人称を使わない。一人称で私と相手を使い分ける。

    23日の土曜日は大阪をウロウロ。三年と半年が経過したんだねとほんのほんのほんの少しだけ安堵。あと一年半。それも統計の数字と確率でしかなく、実体は存在するか無かのどちらかでしかない。ひさしぶりに大阪駅周辺をウロウロしてずいぶんくたびれた。パーソナルスペースが広くなってしまったから繁華街を歩くと身体をちくちく突き刺されているみたい。反対かなあ。パーソナルスペースが狭くなったからか。あれ、どっちだろ。

    正法眼蔵随聞記 三 五 故建仁寺の僧正の伝をば

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.167

    性格や行動がやや難アリな超一流のパイロットと性格や行動は万人受けするが三流以下のパイロットがいたら、あなたはどちらの飛行機を選ぶだろうか? 不謹慎ながらそんな風に読みとった。

    ひとあたりは大切。大切だからこそひとあたりをみようとする。みようとしてそのひとあたりに惑わされてしまう。ひとあたりが「技術」を隠し、「腕前」を誤魔化す。

    鏡の前で笑う、毎日、毎日、笑顔を練習すれば「つくり笑い」は「ほんとうの笑顔」に変わるかもしれないよなぁって思いながら読みつつ、その笑顔をみて「つくり笑い」か「ほんとうの笑顔」を見分けるのはむずかしくもあり、見分けられるようになりたい自分と「つくり笑い」から「ほんとうの笑顔」をつくりだせる自分、両立させたいと願っておる、ふたつの自分の共通項は狡猾であって、純粋とはかけ離れていて、不純であり、それでも「ひとあたりがよい」似而非に指し示された道を歩くよりは自分で獣道を見抜ける能力を残しておきたいです。たとえ、見抜いて道がはずれて路頭に迷ったとしても。

  • 悪事

    2011.07.04 曇のち雨

    MacBook early 2011 17inch

    室内気温30℃。室内湿度70%。体感気温40℃。体感湿度90%。室温計を買ってわかりました。体感センサーはあてにならない。でも体感センサーにひきづられます。ラジオから聞こえる関西電力からのお願い。ココは北朝鮮か(行ったことないけど)。「テレビでエアコンのスイッチを切ってくださいってテロップをだしてくれないか」って何かで読んだけど冗談ですよね? 関西の住民はみんなおこちゃまだからしつけないといけないと思われているのかしら。

    紫陽花が終わりにむかっている。里の母親に紫陽花の色について聞いてみた。何年か前に贈った紫陽花は土を変えるたびに花の色が違うそうだ。そうなのか!

    第三十候、半夏生。この時期は酒肉を禁じ野菜を摂らないなど、物忌みが多かったらしい。何を食べていたんだ? 今の時期の大雨は半夏雨とよばれる。そろそろ紫蘇を食べてさっぱりしたい。ささみを焼いて梅肉と青紫蘇で食べてよし、赤紫蘇の漬物もよい(ただし赤色○号はお断り)。

    終日、MacBook Pro early 2011 17inchのセッティング。ATOKの設定がやりやすくなった。日本語入力システムはATOKを使っている。ATOKに「広辞苑」「明鏡国語辞典」「角川類語新辞典」「共同通信社 記者ハンドブック校正辞書」「ロングマン英英辞典/英和辞典」「ジーニアス英和辞典/和英辞典」を登録してある。だからATOKなしでは文章を入力できない。

    単語登録したユーザー辞書は、Dropboxに登録して他のMacと共有。ATOKをインストールした直後、ユーザー辞書をDropboxに変更すれば、すぐに使える。たとえば、「あいさつ」と入力すれば、「いつもたいへんお世話になります。○○○@仕事場です。」と変換される。「自宅」と入力したら「自宅の住所」に変換とか。共有しているMacと入力変換が統一されて、単語登録はDropbox経由で各Macの辞書が同期される。DropboxのおかげでATOKの作業効率が数倍になった。

    これまでMacBook Pro Late 2006 15inchを使っていた。ディスプレイの解像度はの1440×900。5年前、広いディスプレイだなあって感じた。いまではMacBook Air 13inchと同じ解像度。技術の進歩。そして17inchの1920×1200を体感したら15inchにもどれない。17inchを1時間使って15inchのディスプレイを見たら違和感があった。人間の慣れに驚いた。

    27inch LED Displayを接続すれば解像度は2560×1440だから、17inchを買うなんて酔狂だよ。それならiMac Early 2011 27inchのSSDモデルを購入する。体感速度と作業速度が向上する。17inch ultimate modelでもiMac SSDモデルに勝るわけがない。SSDの速度はMacBook Airで証明済み。解像度も申し分ない。広すぎるぐらいだ(広すぎると事務系ソフトはかえって見にくくなる)。

    どうして17inchを選んだのと聞かれたら、家の中で持ち運べる1920×1200のラップトップが欲しかったって回答しかできない。バカな回答だな。狭小の部屋のなかを3kgもあるラップトップを持ち歩くならiPad 2で充分のはずなのに。我ながらほんもののバカだなあと思う。

    iPad 2を購入して 賢者のアップル美学:夏野剛–「携帯とiPad。それだけで十分」 – CNET Japan に賛成できるようになった。それぞれのスタイルがあるからスマートフォン+ラップトップでもよいと思う。ぼくのスタイルではガラケー+iPad 2で充分ということ。iPhone 4一台で充分って人もいる。

    正法眼蔵随聞記 十五 世人多く善事を成す時は

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.133

    論理学の文章みたいだ(論理学が何か知らないのに使っている)。論理的な文章だ(論理的の意味を知らずに使っている)。

    「世人多く善事を成す時は人に知ラれんと思ひ、悪事を成ス時は人に知ラれじと思ふに依ツて、こノ心冥衆の心にかなはざる依ツて、所作の善事に感応なく、密に作ス所ノ悪事には罰有るなり」の経験から人はよいことをしても御利益はないって思うようになる。逆だ。

    ゴミが落ちている、トイレが汚れている、窓がくもっている、部屋がちらかっている。目についても誰かがやってくれると思う。誰もやらないからルールが定められる。やるべきことに昇格する。「評価」の対象である。「見える」ようにみんなでいっしょにやることは善事にかわる。やがて人に知られたいと思うようになる。

    見えないところでしたことが見えないところで報いられることもあり、見えないところでしたことが見えるところで報いられることもあり、見えるところでしたことが見えるところで報いられることもあり、見えるところでしたことが見えないところで報いられることもある。

    記憶と記録に残らない。見えない。でも「やっている」人がいる。何をやっているかを自分のなかで描けるかどうかを問われている。