タグ: book

  • 投げつける

    蓮

    考えるものは、そういった類のものであって、言葉ではもちろん、絵でも表現が難しい。模型を作ることもできないだろう。だからこそ、頭の中で取り扱われるのだ。それでも、いずれは頭の外に出さなくてはならない。そのときには、やむをえず次元を下げ、ほんの一部分が投影されることになる。そして、適当な近い意味を現有の言葉の中から見つけて、受け手の想像力に期待しつつ、投げつけるしかない。受け取れる者は限られている。世界に何人いるだろう。

    『ηなのに夢のよう』 P.13

  • 誰が食べた?

    住まいは田舎がいい、森と日溜まりでひと寝入り、飛ぶ鳥、稲と日照り、まだ独りもいいが、家内はいます

    『虚空の逆マトリクス(INVERSE OF VOID MATRIX)』 P.234

    (さらに…)

  • 一身独立して一国独立する

    自宅で育てている花

    貧富・強弱の有様は天然の約束にあらず、人の勉と不勉とによりて移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。わが日本国人も今より学問に志し気力を慥かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことにあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり。

    『学問のすすめ』 福沢 諭吉

    (さらに…)

  • にこやかにしなやかに

    ロベリア

    私のしなければならないことは、私の心にかかることだけであって、人の思わくではない。[…..]この世では、世間の考えに従って生活することは容易であり、また孤独のとき自分自身の考えに従って生活することも容易である。しかし偉人とは群衆のただ中に在ってもいかにもにこやかに孤独のときの独立を保持し得る人のことである。

    『精神について (エマソン名著選)』 ラルフ・ウォルドー エマソン P.48

  • 服が僕を着る

    ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

    教師も看護婦も、教育や看護の現場でまさに他者へかかわっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの<わたし>の自己同一性を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話をしてあげる」という意識がこっそり忍び込んできて、じぶんは生徒や患者という他者たちの関係をもたなくても<わたし>でありうるという錯覚にとらわれてしまう。そしてそのとき、<わたし>の経験から他者が遠のいていく。

    『ちぐはぐな身体―ファッションって何?』 P.133

    なんだか同じ服を着ている人に遭遇した気分。あの奇妙な気持ちは何だろう。どこからやってくるのか。街の中でばったりしたら、ばつが悪いかのような雰囲気。お互い知らないのに。だけど、小さじ一杯ぐらいの安堵がのっている。

    自分の行動の意味を他者に知ってもらう。行動の意味が他者に及ぼす効果を、今度は自分が認識する。自分から放たれた意味は、他者へよりすがり、やがて自分へ帰ってくる。その認識が欠落すると、疲れるのかな、と思う。自分が自分から最も遠ざかる瞬間。「今、ここにいる」ことが、誰かにとって意味を持つと感じられるか。分岐点に立つ。

    分岐点から「感じられない」方角へ歩いてしまう。それが、「こっそり」かってどきんとした。ほんと、こっそりだ。さらに忍び込んでくる。忍び込んでるよ、って誰かが助け船を出してくれないと気づかないかもしれない。でも、面と向かって口にしてもらう機会は少ない。面と向かって口にしてもらう機会が欲しい、だから、ダブダブの服や奇抜な服を着てみたくなる。「似合ってないってハッキリ言って」と無言で叫んで。

  • 読書離れの活字返り

    いつものことだけど、こういう調査は話半分で受け止めている。それでも納得。

    本を「読んでいない」と回答した人(248人)に読まなかった理由を聞いたところ、1位は「読む時間がなかったから」で44.0%、以下「読みたい本がなかったから」(33.5%)、「本よりテレビやラジオ、インターネットの方が面白いから」(26.6%)、「本を読むのが嫌いだから」(14.1%)、「本を読まなくても困らないから」(13.7%)だった。年代別で見ると、20代と40代は「読む時間がなかったから」という理由が多く、50代は「本よりテレビやラジオ、インターネットの方が面白いから」の回答が目立った。

    via: Business Media 誠:30代以上で“読書離れ”の兆し——その理由は?

    「読書離れの兆し」はいつ頃から使われているのか? テレビとラジオを視聴してインターネットに勤しむ本を読まないらしい50代の人たちが、「オレたちの若い頃から言われてたことだ」なんて一笑に付しているんじゃないかしら。

    読書離れが兆しであろうがなかろうが、どうでもいい話。メディアが増えて淘汰されたからだし、一ヶ月に費やす本代からすれば雑誌の休刊が相次ぐのも推して知るべし。書店に並ぶ本を眺めていると、読みたくなくなる。1ページに3分かかったとして、300ページの本なら15時間(あってる?)。1日1時間としたら、月に2冊の読書量。年間24冊、今36歳で80歳まで生きられたら、1,000冊ほどしか読めない。もちろん、そんなスローペースで読むないってツッコミはあるし、本なんて最後まで読まなくたっていいなんてアドバイスもあり、オレは年間にして数百冊読む、今まで数万冊を読んだ人もいるだろう、と推察する。それでも、年間に出版される本をすべて読めない。読む必要もない。

    読む必要もないのに読むのは、海水浴に行くようなもの。ただし、最近は海に溺れそうになりがち。読書をすれば知識がふえて、知ったことになる(らしい)。情報を知った行為に満足する。いやいや、数万単位の本を読んでないからだよ、という人がいて、それを越えれば、もう別人、「えっ、何でこんなことも知らないの」と思うようになる、と反論する人はいる、と当て推量。

    僕は本を読まない人に理由を尋ねたことはない。関心もない。本を読む人からは理由を聞いた記憶はある。なかでも、「考える」がキーワード。だけど、ほんとうに考えるのか。自分を参照すると、書いた内容に触れた経験を考えたと誤解している、と自覚するときもしばしば。だから、「読書離れ」がネタで登場するときは微笑むけど、善悪で語れると辟易する。

    読書離れといっても、今の10代や20代の人たちは、僕以上に活字を目にしているだろう。先祖返りならぬ活字返り。ケータイメールやケータイSNS、ケータイ小説やケータイ漫画などなど、いまやケータイは24時間肌身離さず持っているメディアになりつつある。読書は紙媒体という概念を持つ人がそんな姿を見て、「読んでない」と映るのかもしれない。

    若い人たちはケータイというメディアのなかにあるコンテンツから、日常を感じとり、相手を想像し、「考えて」いるかもしれない。読書をするよりも語感を磨いているかもしれない。誤用を気にせず、自分たちの棲む領域で思い通りに表現している、と想像する。

    とにかく、長くない人生、読めない本のほうが多く、読めないどころか存在すら知らない本が99%。「何を読むか」ではなく、「何を読まないか」、「そもそもなぜ読むの?」と考える機会が、世の中の問題にぶつかったとき、「そもそもこれは何の問題なのか?」に気づく視点を養っている。

    それにしても、300人の回答に反応する自分が卑しいな:sad:

  • そのままで結構です

    そのままで結構です

    心臓を貫かれて

    こんな書店があったらいいな。

    • 文庫本を買ったら何も言わずにそのまま渡してくれる(もしくは一言声をかける「このままでよろしいですか?」)
    • ベストセラーが平積みされていない
    • 可もなく不可もなしじゃなく、思い切り偏在している(主語はジャンルです)

    たとえば一冊の文庫本をレジへ持って行く。店員に渡すと、「○○円です」と言って、そのまま袋に入れる。時には、紙のカバーをかける(最近はなくなってきた)。いつも決まって言う文句は、「そのままで結構です」。だけど、これでは足りないときも。店員はカバーをいらないと判断して袋に入れようとする。「それもいりません」と伝える。「そのままで結構です」では伝わらないと思い、「何もいりません」と言うときも(なんだかおかしな言い回しだなぁと思いつつ)。カバーや袋を用意する動作に遭遇するたび、「カバーや袋を必要とする人がまだ多いのかな」と疑問が浮かぶ。

    カバーと袋の有無を尋ねるように心がけている人とそうでない人の違いかと思う(身の回りのごくわずかな書店だけの話)。些細な違いだけど、何か大切な要素が含まれているようでついつい観察してしまう。その観察結果から推察した錯覚。

    委託販売制が主流だから書店は場所を貸している。売れなければ返品すればいい(参照: 本の返品4割 ムダ減らせ 小学館、同一書籍で併用制 販売方法は店が選択 (1/2ページ) – MSN産経ニュース)。ベストセラーはどんどん平積みされ、過去の名作(メジャーという意味じゃなく)は書棚に並んでいない。ステレオ的なポップで目を引き、企画モノ(夏休みに読みたいシリーズや読書感想文とか)で名作(メジャーという意味)を買ってもらおうと頑張っている。それらを眺めると、本の「中身」を売っているのではなく、本を売っているのだなと納得。

    どちらでもない

    自分の身の回りに目をむけると、生活の大半がRSSみたいになっている。四方八方から飛び込んでくる情報を受けて、それを返す能力は伸びる。返す能力とは、「知っている」という状態。たくさんの情報を知っている。他方、目を養うことが疎かになっている。自分で問題を考えて、自分で探す力を失ってしまったようで怖い。

    本屋は偶然の出会いがあるから素敵だ。ランダムな意識からシークエンスな状態へ自分を近づける。はじめから読みたい本があるのならAmazonで注文すればいい。と、かつては考えていた。少し立ち止まってみよう。そもそもなぜ読むのか。多読はうんざりだ。「はじめから読みたい本」と書いたけど、なぜ「はじめから読みたい本」と言えるのか。「知っている」という状態から開放されるには? RSSな生活から脱獄するには?

    その一歩が「そのままで結構です」。自分から伝える言葉。

  • コンテンツは卵,プロモーションは鶏?!

    コンテンツは卵,プロモーションは鶏?!

    ビッグイシュ

    同誌は、販売者登録しているホームレスが路上で販売。定価は300円で、このうち160円が収入となる仕組み。2003年9月の創刊から6月末までに登録した777人のうち、76人が収入を元手に新たな仕事を見つけた。

    via: FujiSankei Business i. 総合/ホームレス支え5年 「ビッグイシュー」 編集活動軌道に

    先週、四条河原町の交差点で買った。はじめて買ったときの気持ちをいまでも覚えている。

    面映ゆく、欺瞞への自己嫌悪、いったい誰のため何のために買っているのだろうと脳細胞が心にインプットした。イヤだな。やがてそんな気持ちも薄らいでいった。自分のため、読みたいから。じゃぁ、誰が販売しても買うかと自問すれば、答えはわからない。矛盾を理解している。

    たぶん、ホームレスというラベルに興味がなくなり、目の前に読みたい本があり、目の前の人が販売している。太古の「交換」を想像して。自分の持っている物質が貨幣でなければ、もう少し違った感情をアウトプットできるかもしれない。目の前の人は書店の人の数倍もの「ありがとう」を渡す。身体を折り曲げて。イヤって感情を抱えているときは、どこか照れがありつつ嬉しかった。その気持ちが薄らぐにつれ、照れとか嬉しさはなくなり、こちらこそありがとうにかわった。感謝と違う。「自分の読みたい雑誌を書店に行かなくても売ってくれてありがとう」と翻訳した。

    「雑誌を路上販売する文化はなく、ホームレスに近づきたくない人も多い」という苦悩。でも、「なぜ路上販売してくれないのだろう」と疑い、「ホームレスはラベルだろう」と素通りすれば、抵抗はなくなる。むしろ、「路上販売がもっとふえればいいのに」と身の回りの不便を呪う。本屋が大きくなればなるほど探す時間は増え不便になる。本屋は本が売れるから総面積を大きくする。冷徹な司書が一人いればいいのに、PCを並べて検索させる。そのPCの前に人が並ぶ。並ぶというよりも並ばされているみたいだ。

    販売部数は1号当たり約3万部。04年からの3年は年間1000万円前後の赤字が続いた。昨年10月、それまで200円だった定価を300円に引き上げる。懸念した部数減もなく黒字化に成功した。

    via: FujiSankei Business i. 総合/ホームレス支え5年 「ビッグイシュー」 編集活動軌道に

    200円から300円、抜群の経営だと唸った。世に経営の専門用語をまくし立てる人はいる。その人たちは経営の専門用語を発声するのが仕事だ。「100円値上げすればいいじゃないですか」と素直に進言できない。作ること、そしてコンテンツを知らないから。

  • I think about what I must think

    成果を上げられなかったビジネス書

    賃貸生活をしていて一つだけ悩みがある。部屋のなかで増殖する本。バカなお話。買うのをやめればいい。物理的に絶対の空間に収まる量ははじめから決まっている。それに逆らうなら犬を飼うために家を買う、あるいは犬を飼える賃貸に引っ越す。なかにはそういう人もいて書庫を増築したり倉庫を借りたいとか。

    いま、少しずつ部屋を散らかしている。かつて購入したハードカバーのビジネス書を捨てるため。危険水域に達してきた文庫本と差し替え。この作業は一度にやろうとすると疲れる。疲れたくないから少しずつ。本棚や堆く積んだプラスチックBOX、そこかしこで無造作に置いてある本を選別。ずいぶん読んだなぁ。読み方が悪いうえに記憶しようとしない、おまけに理解力が乏しい。だからひとつも身につかなかった。はやい話、それだけ真剣でなかったということ。ビジネス書の内容を体得できなかったけど、一つの法則を確立した。

    (さらに…)

  • 何かのせい

    夏のレプリカ (講談社文庫)

    たとえば、「子供に夢を与える」と言いながら、本当に夢を見る者を徹底的に排斥しようとする社会。集団はいったい何を恐れているのだろう。多くの大人たちは怯えて何もできない。ただ作業をするだけ、子供を育てるだけ。新しい目的に挑戦している者は少数である。それなのに、子供には挑戦させようとする。自分たちにはとうてい消化できないものを子供に与えている。こんな動物は他にいるだろうか? 『夏のレプリカ―REPLACEABLE SUMMER』 P.14-15

    (さらに…)