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  • 年齢・職業・地位を捨象したら誰ですか?

    2013.09.25 晴れ

    [youtube:https://www.youtube.com/watch?v=xEdDefBW16c]

    Nabowa – きょうの空 でスタート。お気に入りのインスト。ここ数ヶ月のヘビロテ。いつ頃からか、インストの比率が上昇気味。なぜかわかんないけど、音だけって心地よいね。

    二十四節気、秋分、秋の彼岸の中日。第四十六候、雷乃収声。50年、100年後に「暑さ寒さも彼岸まで」があるかしらと彼岸花のプログラムに見惚れるあちらこちら、鱗の空。旬の野菜は舞茸。人々の群舞や蝶が舞うやら、見つけた人が舞い上がったなどの名前の由来とか。優れたバイプレイヤーと思っているけれど、ほんまに美味しい舞茸を食べたことないから、食せば主役でしょうの空想。

    三脱の教えという。「江戸しぐさ 三脱」とGoogleで検索したら約 70,300 件 (0.34 秒)がヒットする。

    属性を取り払って目の前の人と向き合う。耳にすれば、目にすれば、あたまりまえだと感じられても、我が事として引き受けているかと問われたら返答に窮する。

    素敵な人の特徴は言葉の遣い方。年上や年下を区分しないで接し、言葉の遣い方が丁寧だ。丁寧は敬語の意味じゃない。たぶん語感と語勢。人に対する「区分」を捨てている、あるいははじめからないのか、言葉の遣い方が柔らかい。尖った言葉が放たれても突き刺さない。

    対照的に誰にでもエレガントな敬語を話す方がいらっしゃる。それもとても素敵だ。かたい敬語にあらず、隣の県をまたぐような距離感の丁寧語でもない。適切な距離感を探りながら滑らかな言葉を使う。絶妙な距離感が設定されても敬語の質感は変わらない。機械がしゃべっているんじゃない、生身の人間が綴る誠実な語彙の塊。

    どちらの方であっても、所作と言葉の遣い方に触れたとき、皮膚がピリピリしてざわざわする。軽いけど深い興奮が体液といっしょに出てきそうだ。

    そういう方々は三脱なんてわざわざ学習しないんだろね。あるいは過酷なご苦労を重ね、迷い、躊躇い、考え倦ね、試行錯誤の末に身につけた独学の三脱なのかしら、とも想像する。

    フリーランスになって外側を観察したら、先輩が後輩へ口を開くときの語感と語勢が気になるようになった。先輩後輩だけに限らない。会社にお世話になっていたとき、自分もああだったんだと今になって恥ずかしくなる。

    先輩は後輩にマウントをしかけていそうな語気を感じる。”後輩”のラベルを貼って、自分の優位を無意識に語気に含んでいるかのよう。

    投射は私だけだろうと認識している。自分の感覚を誰かに押しつけないし話さない。そう感じる自分の理路を検証して間違っていれば修正する。その繰り返し。

    自分にとって都合よく錯覚できるのは幸せだ。他人に迷惑をかけない範囲で。

    日常を書いて送って下さるメールを読んで、メールの中身とはまったく関係ないことを錯覚する。メールの内容を翻訳すれば「大丈夫?」と気にかけてくださっていると錯覚できれば、それだけでずんと響く。

    もうありえないぐらい自己都合な錯覚なんだけど、迷惑さえかけなければ、そんな錯覚がおだやかな夜をもたらしてくれる。

    自分で自分の存在を知覚するのは大切。その大切から対極にあるもうひとつの大切。見えない他者の眼差しが私の存在をプッシュ通知してくれる喜び。孤立は体感させない。

    「つながり」はわからない致命的な欠陥が自分にある。それを認めてからインストールできた誰かと私の存在の感受。

  • 迷路の扉を開く、彷徨、狂う方向感覚

    2013.08.05 晴れのち夕立 京都駅浸水

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=cYF0qU5WSew]

    Feist – Mushaboom でスタート。Feist が琴線に触れる。思い当たる。古いアルバムをめくっているような尻の穴から入って鼻腔からにゅるっと出て来そうでむず痒い、痒い。

    目が覚めてカーテンを開ける。陽射しも起きたばかりか。昨日までと違う質感が身体を縦断した。気になって調べる。04:40頃の日の出から毎日1分刻みで遅くなり、今日の日の出は05:09だった。

    物理法則をわずかでも感じられたせいか、ちょっぴりの嬉しいが一日の始まり。気づくの遅かったかもしれない。でも自分を楽しませるには充分だ。

    どうにもならないことが五臓六腑にしみる。このしみるは染みる、沁みる、滲みる、のどれだろう。どうにもならないことだと頭がわかっていても身体は拒む。理解と拒絶のクレバスに落ちないために梯子をかけようとして足掻く。

    相手がいて成立することや独りでも成り立つこと。両者を仕訳できず混合した事象と混濁した思考が昏迷して、どうにもならないことをどうにかする迷路の扉を開く、彷徨、狂う方向感覚。

    朱と青

    ETV特集『人を動かす絵 田中泯 画家ベーコンを踊る、でフランシス・ベーコンの絵を目にした。日曜美術館の「恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン」と「浜田知明」の回をまた視聴する。

    絵画と版画。二人の表現が私の中で重なる。交錯、重層的。ざわざわする感じ。

    肉体から体を引く。歪形の肉。ざわざわさせる。言葉にできない、してはならない痼り。

    『初年兵哀歌』シリーズ。目をそむけてはいけない光と影の二次元。ベーコンが描く口の叫び。見る側が勝手に相貌を補正する。

    身体があることがあたりまえであり、動いている身体は音楽を聴くよりも日常に溶け込んでいる。絵画と版画が表現する喪失した身体は私の視覚を刺激して、五感の輪郭をひろげる。あたりまえが壊れる。

    壊れたあたりまえをこれから繕う。繕いから生まれる。

  • カジュアルな敬語

    2013.07.25 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Ma_3cfd85ew]

    中山うり – 夕焼け空に摩天楼 でスタート。ライヴへ行ってみたいなぁ。月とラクダの夢を見た、は好きだしコレも好き。歌詞が映像的。言葉を映像的に表現する人は美しい。歌詞、詩、小説、とにかく言葉の配列が私の脳をハッキングして映像を再生してくれる。そんな表現はどれも好き。

    なんで書いてるのかしら? わからない。なのに書く、左から右へ文字は現れ、右から左へ消える。なるべく短くを意識も長い長い。一読、削り落とす、Delete。

    7月のアップはやや多め。書くことがない。わけではなく、ある。それらは頭の洗濯機が回している手垢の付いた単語たち。まだ脱水してない、干してない。

    里の家にある二槽式なら濡れた単語を一回取り出して、無理矢理つなげて文章を生成できるかも。二槽式ではない縦穴の頭の中でぐるぐる回って乾きを待ってる。

    仮想と空想を巡る錯覚で汚れた単語を書き出せば、自分だけ理解できる。数年前からここは日記。自分が理解できればそれでよいはず。なのに「まとめなければならない」切迫感と「理解してもらいたい」共感が向き合って肩をふれあって踊っている。

    「公開」だから?

    ほとんどが自分語り。ネットで最も忌み嫌われることだし、「誰か」を別に気にしなくてもよい。

    誰と話しているかわからないけれど、確実に誰かと話して錯覚の汚れを落とせない単語を乾燥させて文章の竿へ干す。

    デージー

    お気に入り。素敵。心からそう思う。おじさんにだけにあらず、老若男女問わず。私もそんな風に振る舞えるよう努めているが、ぎこちない。水曜日、高校球児から道を尋ねられたときも互いに敬語だった。やっぱりぎこちなかった。難しいね。

    カジュアルな敬語。”型通り”に意識を奪われてしまった敬語と対極に位置するイメージ。上辺をなでる敬語はくだらない。年上年下、関係ない。最適な距離感を探していますという信号を他者へ送信する。健全な戸惑いの意思表示。自分が培ってきた敬意をつめて。

    好き嫌いはある。嫌いの守備範囲が広い点を母から指摘されて委細承知。敬語を使いたくない、あるいは使ったとしても、二度と会いたくない系敬語を駆使したい、のに語彙がない自分にイライラ。

    万人にカジュアルな敬語を使えるほど心はまだ熟成していない。むずかしいね、無理な話だし、まぁそれでもOKかな、と。

    好き嫌いをなくす修練と感情の喪失はコインの裏表。強く意識すれば、感情は無関心無機質になり、かといって好悪の温度が砂漠気候だったら住めない。バランス、と独りごちたくなるけれど、バランスじゃない。いっそのこと裏と表を引きはがして両極へ持っていけば、って思念が浮遊する近頃。

    そういえば、道を尋ねられるのと出口調査の打率が高い。4割どころの騒ぎじゃないよ。この間の参院選の期日前投票では、読売新聞の出口調査を記入した。

    何をもっとも重視するか、みたいな質問があり、一つだけ選んでくださいとあった。珍しいな、ひとつだけって。東日本大震災復興に即○、選挙後、調査結果を知りたいと思ってサイトを検索したがどうやら見当たらない。関西の人が何を重視して投票したのか。そこを知りたい。

  • 球体の中、現在位置をロスト

    2013.07.22 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=PELmKSt0p0g]

    松井くんと上田くんとサヨナラバイバイズ でスタート。来月、梅田クワトロのライブ、ワンダフルボーイズ / 奇妙礼太郎トラベルスイング楽団 / 松井くんと上田くんとサヨナラバイバイズ へ行く予定、そろそろ学習しようかと。深いのぉ、広いわぁ、その前の曽我部恵一BAND / 奇妙礼太郎トラベルスイング楽団も梯子しょーかなー、的トランス。

    紙を用意。真ん中に点。私。10cm左直線上にA, 同じく10cm右直線上にB。昨今の言説は、AかB のどちらかになっていく、と説く。二極化とかいう。

    真ん中の私はどちらかを選択すべき。Aの10cmを歩くか、Bの10cmか。人生を問うたり、国を問う、そう問われているんだって。ほんとかしら。

    すっきりわかりやすく説明するための方便か修辞だよね。語っている、主張しているご本人も極論の信奉者ではないでしょうし。

    AからBを弧で描く。ちょうど真ん中の私にコンパスの先端を刺し、AからBへくるっと描くみたいに。私とAとBを結ぶ半円。

    生活はこんなふうに階調に溢れているはず。AかBではない。点ではない。白か黒ではない。白と黒の階調、灰色すら判別できない幽玄の色彩が半円のなかにある。

    そして、否。半円ではない。半円を縦に反転させよう。もしくはBからAへ下半分の弧を描く。そうすれば円。円の中の私。白から黒への階調にあらず。よろずの色の階調が円を彩る。円の中心に私はあり、時々円の端っこに移って隠れたくなれば、円の外側へ出たくてもどかしくなり、生活の階調を日々塗りかえる。

    さらに、否。円ではない。中心の私を上下前後に伸ばせば、立体。球だ。座標軸。地図を見るとき、現在位置に迷うみたいに私の現在位置を見失う。そんなときがある。誰にだってあるかどうか知らないけれど。

    球体の中の私、現在位置を常に把持できるって流れ星を見つけるよりも案外難しいかも。

    mont-bellの帽子

    “想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎 の最後のメッセージを思い出す。

    チンパンジーとヒトの遺伝子配列は約98.8%同じ。現生生物では最も人間に近縁な種の一つ。長年、チンパンジーを観察している先生が辿り着いた思索。

    行間はチンパンジーに対する深い敬愛と尊敬の念が込められているかのよう。その書籍の終わり、チンパンジーと人間の違いを述べていらっしゃる。

    それが絶望と希望。

    チンパンジーはいまここの世界だけを生きている。絶望しない。重傷を負ったチンパンジーが、生きる気力をなくしてしまいそうな怪我なのにわんぱく盛りに遊ぶ姿。目の前だけの世界。

    対して人間は絶望する。なぜなら「想像するちから」があるから。「想像するちから」は希望をもたらす。希望に対して先生の強い期待が伺える。

    月曜日の朝、新聞社のサイトへアクセスして選挙の結果を確認。戸惑いと把握できない気持ちが渦巻いた朝。

    (子供を授からなかった自分が書くのは失礼かもしれないけれど)いまの子供たち、これから生まれてくる子供たちの「想像するちから」を信じている。

  • 甘えとふがいないが混じった定期便

    2013.07.18 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Xgv-U7dhHe4]

    bibio – the ephemeral bluebell でスタート。既出。インストが好き。『Vignetting The Compost』のなかでいちばんのお気に入り。原っぱゴロリ転がって風に包まれる空や湖岸をGIOSで走っている音や雑踏のなかで想い歩く姿が脳内スクリーンに流れる。

    朝から右親指と右腕と右唇がまた少し。うーん。

    13:30に京都。H氏と打ち合わせ。あっ、降りたの久しぶり。改札抜けたの何時以来だろ。記憶の抽斗を開けようにもどこに仕舞ったか思い出せない。祇園祭山鉾巡行が終わった翌日の京都。

    近況や現状を伺う。聞き役、90%。お伝えしたのはひとつ。やわらかい着眼。仕事の領域へ合焦する思考の構図をずらす。ためらいと不安。

    リンクしてないと見えてしまう様態に潜んでいる「見えていない」「感じられていない」「聞こえていない」コトやモノ。それらが、仕事の輪郭を描いてくれる。

    16:00前に終了。大阪へ移動。次の予定まで大阪マルビルの下で読書。

    19:00からF先生とミーティング。最寄り駅二駅手前で降りて歩く、35分。汗だく。マゾか、罵りながら大腿筋のために歩く。

    私見を率直に話す。失礼な物言いだと自覚。伝えなければならないって直感した。先生の孤独の隣に立ってられるまで立つ。

    21:30終了。乗り換えの大阪駅で夕食、野菜ジュース。

    パン屋さん

    帰りの車中、睡魔が編集された記憶を思い出す。10代の半ば、友達と一晩中しゃべってほっつき歩いて初の朝帰り。母は何も言わなかった。なんで怒らへんの? への返事。

    「母さんの役目は、ちょっとでええから社会に役立てる人間に育てて送り出すことやから、朝帰りも必要なんやと思うわ」

    一言一句正確に覚えていない。そういう風に言われたことだけを編集して覚えている。

    ほんのわずかでも役立っているか、自問。一人での仕事を言い訳にしてはいけない。けど、ときおりの不安。稼いでいない、社会の役に立てていない。一方で好き勝手にやってる気儘。自暴自棄ではなく、甘えとふがいないが混じった定期便。二つの分量を少しずつ減らしていけたらね。

    不安はここだけに吐露。自家中毒を起こさないように自身と向き合う。

    このままやっていけるかどうかわからない。終わってもおかしくない。悲観しない。心中のデスクトップに貼り付ける。わずかでも誰かの役に立てるように。

    幸か不幸か職種への執着はなく、あるのは役に立ちたい懇望、ね。

  • いろいろな待つ、待つの多彩

    いろいろな待つ、待つの多彩

    2013.07.16 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=A3GS8yfXYBI]

    The Collectors – ザ・バラッド・オブ・ロンサム・ジョージ でスタート。大好きで好きすぎな曲。音も歌詞も。幾重の出来事が本当の記憶と嘘の記憶の間に挟まれて、取り出そうとしたら絡み合って、切なくて、揺れ動き、いつも現実を教えてくれるのにふらりぶらりさらりふわり虚構の遊戯空間へ誘ってくれる。

    この間のライブで区切りをつけようとして、ついたつもりがついてなくて、煙草をやめたときのように、気合い入れて句読点を打つより打つか打たないかすらわからなく、胸奥が日常にすっかり溶けて、たわいない言葉への疼きを見失っていくような溶暗があってるのかも

    “今日という日は贈りもの (角川文庫)” ナンシー ウッド, フランク ハウエル を読む。ナンシー・ウッドの書籍は “今日は死ぬのにもってこいの日” 以来。積ん読に鎮座していた。

    背表紙と目が合った。時機が合ったかな、手に取る。ぱらぱらめくる。読みたい気持ちを確かめる。

    一月から十二月までの散文。ネイティブアメリカンの教え。一月の冒頭、「一月に月が通るのは孤独という道」にいきなり唸った。何度も書いてきた「孤独」に抱くイメージ。否定や寂寥のイメージはない。ワクワク、ザワザワ。

    毎日はそれに先立つ日々と後に続く日々が組み合う、無限のパズルの一部。恐怖を捨て去ることを学ばなければ、この無限のパズルは解けない。恐怖を捨て去るとき、パズルはぴたりと合う。百万の断片は最終的にはたった一つ —– 経験の旅。独りの旅。

    “今日という日は贈りもの (角川文庫)” ナンシー ウッド, フランク ハウエル P.16

    ほんのちょっぴり嬉しいような。修辞の感性が合っているかも、どこかで大丈夫と囁いてもらったみたいな。語感のピースが語彙のパズルにはまった。

    たった一つ。

    渇望している自分。なにかわからないけれど、「たったひとつ」を探究している、したい。

    たとえことば遊戯と揶揄されても、「たったひとつ」の語感と五感を響き合えるような方々と出会えるように心身を纏める。

    young leaves
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    少し前、M先生からご連絡を頂戴する。久しぶりのお電話。仕事は半端のまま。こちらからは連絡しなかった。臑に傷を持っているようで、気持ちのしこりがどこかにあった。先生から近況を伺い嬉しくなった。

    M先生の連絡を受けて浮かぶ。見えない、聞こえない、(仮想現実で)つながっていない。

    一昔前ならあたりまえだった。「待つ」という行為に様々な情感が込められた。待つ、の多彩。昨今、見えなくても、聞こえなくても、見えている、聞こえる、ような気になれる。

    仮想現実で目にした、「このつながりは本当に大切か?」の言葉。

    肯定も否定もしない。仮想現実はいまや拡張された現実だろうし、それぞれがそれぞれの大切なつながりをそれぞれに保っている。願っている。素敵だ。

    ただ、一昔前ならあたりまえだったことがあたりまえでなくなったとき、忘れてしまいそうなコトがあるはずで、その「コト」を疎かにしたくない。

    あたりまえを感じられなくなる瞬間、感性はシャットダウン。再起動しない。

  • 嫉妬はとろり、焼き餅はさらり

    嫉妬はとろり、焼き餅はさらり

    2013.07.10 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=nsyK9_iaCoA]

    Hot 8 Brass Band – Ghost Town でスタート。すっかりお気に入り。07/09(火)、スカパラのUst配信(ライブ生中継)を視聴。その場にいてこそのライブ、でも視聴できる時代になった歓喜。Hot 8 Brass Band のライブを見たいなぁ。

    08:00すぎに大阪へ出発。2ヶ月ほど前から毎水曜日、大阪へ行くようになった。F先生とスタッフとでミーティング。ふだん乗らない時間帯。ラッシュアワーは己の役目をこなしてあと少しで一息つけそうな時間帯。それでもいつも乗る列車と比べてたら乗客は多い。人のふるまいや車内の匂い、風景が異なる。

    スマートフォンな人、新聞な人、読書な人、化粧な人、スヤスヤの人、不慣れな人、人、人々。一目でわかる動きと裏腹の心。車内を見回してたまーに浮沈する心思。乗客が沈黙した言葉の総数や脳裏に描いた映像の総量はどれぐらいあるのやら、この車内のなかは何色あるかな、など。

    もっぱら読書。文字との相性がさっぱりだめなら車窓と空想、徒然。

    大阪環状線に乗り換え。最寄り駅ひとつ手前の駅で降りる。いつものように歩く、歩く。駅を降りた途端、出番待ちしていた汗が勢いよくステージにあがる。待ちかねていたらしい。徒歩20分、汗感覚40分、空想60分。

    F先生とのミーティング。メタメッセージを一つ二つ発信。伝達できても伝わっているかどうかわからない。それでよい。自分の意思に従ってタイミングを計って口にした。無理矢理結びつけたちぐはぐなしゃべりは、わざとらしさと仲良くミーティングの空中を散歩した。しゃべりながらそれに気づいた。けど、もうそれでもよいやって感じ。

    Lake Biwa
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    俳優の対談映像で耳にしたことを反芻する。嫉妬のような気持ちについて。

    共演者と熱演できたとき、一体感のような信頼感らしき感覚が生まれる。毎回誰とでも生まれるわけじゃない。身体感覚が共鳴して感じる、と女性がしゃべっていた。

    制作が終わって、共演者が別の作品で誰かと演じている姿を目にする。身体から伝わってくる「何か」を見る。彼女との共演よりさらに強そうな一体感、信頼感、あの感覚を彼女は感じ取る。

    そしたら嫉妬みたいなのを覚えるそうだ。3人での対談、残りの男性二人は同時に「わかる!」と膝を打っていた。

    “嫉妬みたいな”質感を対談から掬い取れないけれど、皮膚でわかったような。わからないような、わかるわけないような、わかりたいような。わかるとわからないを鉢で擂りつぶしたくなった。

    嫉妬と焼き餅。嫉妬はとろり、焼き餅はさらり。私の中のイメージ。どろりまでいかないとろり。ざらりではないさらり。

    私は誰かの幸せを望む。幸せ、だと照れが残る、否、大仰すぎる。もっとライトな感じ。誰かが日常を楽しんでいるかなって思い巡らす。そして誰かは日常を楽しむ。私はそれを見聞して充分のはず。

    なのにどこかにある焼き餅。心で餅を焼いて、頭が食べる。誰かの喜びに関わっていない自分、そこに自分がいないコトを知覚するからだろう。願っているのに焼き餅なんて奇妙な感覚。恐ろしいまでの狭小な度量の私。

    おとなげない。子供っぽい、と言えば子供に失礼ですよ。なんで子供っぽいのではない、おとなげない。狭小な度量を広くしたい。それと引き替えに鈍感になるのは御免だ。

    どこまでも願い、いつも願う。お裾分けの喜びと楽しいをこちらも味わい、そこに自分がいないコトを素直に引き受けられるしなやかな心。

    嫉妬も焼き餅も大事。どろりざらりしたものでなければ生活のスパイスになる。自分を健全に進化させる感情のひとつ。少ない感情で心身を安定させるより多彩な情感で不安定なほうを選ぶ。それぐらいでないと誰かを想えない。

  • 方法の修正と主観性の内省の繰り返し

    2013.06.13 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Jxydw8axZD4]

    奇妙礼太郎トラベルスイング楽団 – 君が誰かの彼女になりくさっても でスタート。今週の土曜日、ライヴ。関大って入試の時以来。楽しみを通り越して何でかこっちが緊張している有様。もう一曲目からからだが震えるのわかってるからね。

    朝、WAN側へ接続できなくなった。ルータとモデムを再起動させても不通。ルータのPPPoEにまかせて放置していたら小一時間後に接続できた。速度がどうもおかしい。

    夕方、再起動した。接続不能状態に陥った。完全に不通。まいった。インターネットへ接続できる回線はスマフォ(データ通信専用)だけになった。

    原因を解明しようにもスマフォで調べなければならない。テザリングに切り替えようとして、7GBの制限が頭によぎったので躊躇。

    固定のブロードバンド回線が接続不能になった世界。焦燥にかられて原因を調査。モルトを一杯あおる。落ち着けと。

    自分の気持ちの状態をなるべく「遠く」から眺めるチャンスと視点のチャネルを切り替える。

    スマートフォンに最適化されたサイトが増えていく中で、「見やすさ」はよくなった。一方で「見たくなる」サイトはこれからだ。PCサイトの情報量を減らしただけのサイトが多い。見栄えを整えただけのサイト。

    たとえば申込フォーム。バックアップ用にISPを申し込もうとしたら、スマートフォン用サイトに申し込むフォームを見つけられない。何度も上下にスクロールして、(画像かリンクか判別しにくい)リンクをクリックしてみても見つけられなかった。PCサイトに切り替えて発見した。

    スマートフォンでのサイト閲覧は疲れる。慣れてないからだ。一度で閲覧できる時間の限度は10 – 15分ぐらいだった。慣れれば閲覧時間は伸びるだろう。

    さらにスクロールしやすいから、PCよりも斜め読み、拾い読みする。PCよりも画像に目がいきやすい。

    「そういったコトを感じている」自分を感じながら、原因を調べ続けた。結局、わからずじまいであきらめた。

    びわ湖大津館

    先日、購入した “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 を読み始めた。半分ほど読む。平明に語ってくださっていてありがたい。モラルと脳の相関関係。心理学や行動遺伝学の紹介など。専門的?!な単語や記述は少ない。あってもわからないから気にとめない。

    SFの感覚で読んでいる。楽しむと言ったら語弊があるけれど、いずれのテーマも入口は広く奥行きは果てしなくありそう。22世紀には信頼を高め合うホルモン注射治療が確立されているのかしら、と想像したり。それらの治療が実施されるとしたら、「五つの倫理基準」に照らし合わせて脳はどう処理するの、やら疑問はぷぅっと膨らむ。

    人が合理的な行動を選択しない点や生得的な性格などの記述を読み、脳と遺伝子と倫理の相関関係について関心がより深まった。だからといって「人は生まれながらにして」ではなく、生まれてからの(教育)環境によって形成されていく点も理解できる。

    筆者がおっしゃる「科学と哲学を分離した後遺症」に対する不自然さ、「哲学者は実証科学の方法をもっと知るべきだし、科学者は主観性を真面目に扱うべきだ」(同P.9)に同感。

    実証科学の方法が私の身体の不調を解明し、主観性は身体の不調について抱く感情と向き合う、と思う。

    科学と哲学、あるいは科学か哲学か、の論点に私の関心は薄い。視線は「自分」へ向かっている。私が持つ「自分の謎」について、筆者が指摘されている実証科学の方法と主観性からアプローチしたい。方法がでたらめなら修正して、主観性が偽りなら素直に向き合えるように自問自答する。

    方法の修正と自問自答の繰り返し。

    追伸

    いま(06/14)、この日記をMacから書いてアップするので、解決できた。正確にはしてもらった。NTTの方が修理と交換の二つを作業完了。丁寧でわかりやすく説明してくださり、付加情報を教えてもらって助かった。

  • さえずりからくどくど書くへ

    2013.06.11 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=7PJk-u3pSYY]

    Brian Hyland – Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka Dot Bikini でスタート。ラジオで耳にしてひさしぶりぃー。20代のヘビロテはこのへん。あとロカビリーとか。10代で80年代の洋楽に傾倒してそのまま遡っちゃったわけです。ぐんぐんと。

    今年に入って Twitter の投稿回数が微増した。変化を認識。ブログの更新頻度が低下。数年前のピーク時からは減りつつあったとしてもさらに減った。理由ははっきりしない。体感はある。

    さえずりで満足してるっぽい。この日記と違って Twitter では屁理屈をこねてるわけじゃない。頭に浮かんだ言葉を出力するか、滋賀県のトピックスをリンクするか、ここの過去の記録を編集している程度。「出力」したって行為に安住している。

    ひとつだけ継続しているさえずりといえば、琵琶湖の水位。毎朝チェックしてさえずる。これはもうへんな習慣みたいになった。気づいたら続けていて、案外おもしろい。

    あかんあかん。薄々そう感じている。自分の気持ちを自分で繕ってやりすごす。まさに昨日書いた「人は最初に自分に嘘をつく」日々。誰かがさえずる切れ味鋭い140文字を目にしたら、どれだけくどくど書いても140文字でぴしゃっと言い表せなければ、駄文にすらならないなぁ、と自嘲して時に自慰したり。

    Twitterとここでシニシズムにふるまうつもりはない。熱情と冷静を両極に置いて斟酌したい。営みを眺めたい。ユニークな視座に立つ140文字を自分はさえずれない。その点を素直に認めて、自分の日々をもう一度くどくど書きたくなった。

    ここへアクセスしてくださっているユーザはほぼ検索エンジンを経由して、読みたい情報だけ拾い読みしてまた別の場所へ移動している。一期一会と言いたいところ、そんな高尚な事柄でもなくすっと行き違うぐらいで受けとめている。

    なので、「書かなければならない」わけなく、自分のペースで書けばよいし、いつでもやめたらと思うけど、またちょっと違う気持ちも芽生えている。

    PVを稼がなければならないブログではないし、行き違っていく方に「はじめまして」の挨拶ぐらいで軽く流してもらって、これだけくどくど書く人もいるんですよ、と視認してもらえたらうれしい。

    琵琶湖

    自分に合うプラットフォームで自由に往来して、時々、ちょっと落ち着かないアウェーで微少の衒いを引き連れて散歩するぐらいが心身に合っていそう。半年近くさえずりのボリュームを変更してわかったこと。だからネットで活躍していらっしゃるライタの方々を仰ぐ。さえずるわ、メルマガ書くわ、あっちでも書いてるわ、って本業とはいえ、膨大なアウトプットなわけで。

    好き放題書き散らかしているのにそれなりに時間はかかるから、どこか削ろう。制約。自分の営みと時間の組み合わせを再考する。枠組を設定して削り、組み替えると身体が違和感を覚える。その違和感が次へ進む方角を示してくれているようで心地よい。

    違和感を抱えて気持ちを整理整頓する。通り過ぎていく人、立ち止まる人、自分が誰かの場所を通り抜けるたり、滞在したいコトがわかってくる。

    折に触れて制約と拡張の棚卸し、衣替えは必要だね。

  • ズレを強制的に修正しない

    2013.06.09 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=M6liO88pir4]

    FreeTEMPO – Sky High でスタート。仕事中、FreeTEMPOをたびたび流す。柔らかい陽射しが部屋に闖入してきたらとりわけ流したくなる。聞き流したいのに、ちょっと気持ちがほどけるから音へ引き寄せられてHHKBのタイプ音がノイズ。両手をとめたい、BGMなのに仕事が捗らないとか(笑)

    土・日、本を読んだ。寝食忘れて、とはいかずしっかり覚えていたけれど、それ以外はずっと文字を追いかけた。腰痛が集中をさまたげる。Twitter や Instagram や アーティストやショップのFB告知をちょいちょい のぞく。また文字を追う。追いつけない言葉を捕まえようとつんのめり転びながら読む。

    本をむさぼりたい。年に数回やってくる衝動。これがやってきたら待ってましたとほくそ笑み、書架からいつもより厚めの認知系や認識論、言語系の書籍をめくる、めくる、パラパラ漫画。最近は違う。そういった書籍に手をのばさない。今回は久しぶりに再読(再々読、もっと?!)ばっかり。

    小説と詩集。年代の古いものから読む、読む。読んで積む。土曜日の朝から読み始めて、日曜日の夕方、あっ!! っと声を出してしまった。

    変化。

    あたりまえなのに驚いた。文体や表現の方法が変わってる。比喩の使い方や言葉のつなぎ方、情景の描写、それらがかわっている。

    分析したくない。意気込みもない。いまの気持ちで読んでみたかった。自分の気持ちを代弁してくれるような、空白として残しておけないスペースにはめこむピースを求めるような淡い期待は残していた。

    ビル

    仕事の話を別の何かに置き換えて解釈してもらう。相手が興味を持っていることや相手の仕事の分野に置き換える。もし自分なら写真に置換してもらえると理路の扉が開く。

    歯科医院のスタッフと話すとき、美容院や化粧の話に置き換えたりする、毎回ではないけれど。まったく存じ上げないので話がちぐはぐでつじつまが合わない。それでよいと思っている。ふつうは反対だ。

    アナロジーやレトリックは、物事の解釈を手助けしなければならない。せめて解釈のフレームを拡張する一助にしてもらわないと、戯れ言であり、おまけにまったく笑えない知ったかになってしまう。

    なのになぜよいのか、を問われたらうまく説明できない。とにかく目の前の人はとんでもなくズレたことを話している、という感覚を立ち上げてもらえたら話を進めやすい。

    たぶん、自分が「ズレ」に執着しているからだ。チームを外から眺める。そこで感じることはズレ。個と個のズレ、複数と個のズレ、チームと個のズレ、いろんな「ズレ」が隠れている。みんなそれぞれの思いや感情、そしてさささやかな論理を持ち寄ってモノやコトを調理する。時に思うように調理できないモノがあり、コトが起きる。それらはキッチンの奥へしまわれてしまう。

    それを調理しようとしたら、各自の感情スープをたっぷり吸ったべとべとした「何か」を扱わなければならなくなる。誰もそんなものを扱いたくない。誰だってそうだ。私も同じ。

    チームは利害関係を内包している。よかれあしかれ問わず、少々であっても利害関係はインストールされている。利害関係を完璧に除去できない。

    チームの細胞は多様な感情を分裂させながら緻密に機能する。ただ正確に転写しながら分裂していれば問題はないが、しばし突然変異する。ズレが変異させる。暗黙のズレを各自が勝手に解釈してズレたまま転写する。ズレは拡大してチームに今までなかった影響を感染させる。

    そんな動きをこれまでずっと観察していきた。身も蓋もない言い方すれば利害関係もそれほどなく、責任もないから冷たく観察できたのだろう。そういった体験から学んだことはひとつ。

    ズレを強制的に修正しない。

    否、むしろズレたままのほうがしなやかに機能していたり。ズレをズレのまま感じてもらう。ありとあらゆる「置き換え」を試みる。ズレている本人か関係者が興味を持っているコトやモノに焦点を合わせてズレの状態を説明する。

    ズレを自覚する、これが「自分」というものへもっとも耐性をもたらす知覚だと思う。