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  • カジュアルな敬語

    2013.07.25 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Ma_3cfd85ew]

    中山うり – 夕焼け空に摩天楼 でスタート。ライヴへ行ってみたいなぁ。月とラクダの夢を見た、は好きだしコレも好き。歌詞が映像的。言葉を映像的に表現する人は美しい。歌詞、詩、小説、とにかく言葉の配列が私の脳をハッキングして映像を再生してくれる。そんな表現はどれも好き。

    なんで書いてるのかしら? わからない。なのに書く、左から右へ文字は現れ、右から左へ消える。なるべく短くを意識も長い長い。一読、削り落とす、Delete。

    7月のアップはやや多め。書くことがない。わけではなく、ある。それらは頭の洗濯機が回している手垢の付いた単語たち。まだ脱水してない、干してない。

    里の家にある二槽式なら濡れた単語を一回取り出して、無理矢理つなげて文章を生成できるかも。二槽式ではない縦穴の頭の中でぐるぐる回って乾きを待ってる。

    仮想と空想を巡る錯覚で汚れた単語を書き出せば、自分だけ理解できる。数年前からここは日記。自分が理解できればそれでよいはず。なのに「まとめなければならない」切迫感と「理解してもらいたい」共感が向き合って肩をふれあって踊っている。

    「公開」だから?

    ほとんどが自分語り。ネットで最も忌み嫌われることだし、「誰か」を別に気にしなくてもよい。

    誰と話しているかわからないけれど、確実に誰かと話して錯覚の汚れを落とせない単語を乾燥させて文章の竿へ干す。

    デージー

    お気に入り。素敵。心からそう思う。おじさんにだけにあらず、老若男女問わず。私もそんな風に振る舞えるよう努めているが、ぎこちない。水曜日、高校球児から道を尋ねられたときも互いに敬語だった。やっぱりぎこちなかった。難しいね。

    カジュアルな敬語。”型通り”に意識を奪われてしまった敬語と対極に位置するイメージ。上辺をなでる敬語はくだらない。年上年下、関係ない。最適な距離感を探していますという信号を他者へ送信する。健全な戸惑いの意思表示。自分が培ってきた敬意をつめて。

    好き嫌いはある。嫌いの守備範囲が広い点を母から指摘されて委細承知。敬語を使いたくない、あるいは使ったとしても、二度と会いたくない系敬語を駆使したい、のに語彙がない自分にイライラ。

    万人にカジュアルな敬語を使えるほど心はまだ熟成していない。むずかしいね、無理な話だし、まぁそれでもOKかな、と。

    好き嫌いをなくす修練と感情の喪失はコインの裏表。強く意識すれば、感情は無関心無機質になり、かといって好悪の温度が砂漠気候だったら住めない。バランス、と独りごちたくなるけれど、バランスじゃない。いっそのこと裏と表を引きはがして両極へ持っていけば、って思念が浮遊する近頃。

    そういえば、道を尋ねられるのと出口調査の打率が高い。4割どころの騒ぎじゃないよ。この間の参院選の期日前投票では、読売新聞の出口調査を記入した。

    何をもっとも重視するか、みたいな質問があり、一つだけ選んでくださいとあった。珍しいな、ひとつだけって。東日本大震災復興に即○、選挙後、調査結果を知りたいと思ってサイトを検索したがどうやら見当たらない。関西の人が何を重視して投票したのか。そこを知りたい。

  • 球体の中、現在位置をロスト

    2013.07.22 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=PELmKSt0p0g]

    松井くんと上田くんとサヨナラバイバイズ でスタート。来月、梅田クワトロのライブ、ワンダフルボーイズ / 奇妙礼太郎トラベルスイング楽団 / 松井くんと上田くんとサヨナラバイバイズ へ行く予定、そろそろ学習しようかと。深いのぉ、広いわぁ、その前の曽我部恵一BAND / 奇妙礼太郎トラベルスイング楽団も梯子しょーかなー、的トランス。

    紙を用意。真ん中に点。私。10cm左直線上にA, 同じく10cm右直線上にB。昨今の言説は、AかB のどちらかになっていく、と説く。二極化とかいう。

    真ん中の私はどちらかを選択すべき。Aの10cmを歩くか、Bの10cmか。人生を問うたり、国を問う、そう問われているんだって。ほんとかしら。

    すっきりわかりやすく説明するための方便か修辞だよね。語っている、主張しているご本人も極論の信奉者ではないでしょうし。

    AからBを弧で描く。ちょうど真ん中の私にコンパスの先端を刺し、AからBへくるっと描くみたいに。私とAとBを結ぶ半円。

    生活はこんなふうに階調に溢れているはず。AかBではない。点ではない。白か黒ではない。白と黒の階調、灰色すら判別できない幽玄の色彩が半円のなかにある。

    そして、否。半円ではない。半円を縦に反転させよう。もしくはBからAへ下半分の弧を描く。そうすれば円。円の中の私。白から黒への階調にあらず。よろずの色の階調が円を彩る。円の中心に私はあり、時々円の端っこに移って隠れたくなれば、円の外側へ出たくてもどかしくなり、生活の階調を日々塗りかえる。

    さらに、否。円ではない。中心の私を上下前後に伸ばせば、立体。球だ。座標軸。地図を見るとき、現在位置に迷うみたいに私の現在位置を見失う。そんなときがある。誰にだってあるかどうか知らないけれど。

    球体の中の私、現在位置を常に把持できるって流れ星を見つけるよりも案外難しいかも。

    mont-bellの帽子

    “想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎 の最後のメッセージを思い出す。

    チンパンジーとヒトの遺伝子配列は約98.8%同じ。現生生物では最も人間に近縁な種の一つ。長年、チンパンジーを観察している先生が辿り着いた思索。

    行間はチンパンジーに対する深い敬愛と尊敬の念が込められているかのよう。その書籍の終わり、チンパンジーと人間の違いを述べていらっしゃる。

    それが絶望と希望。

    チンパンジーはいまここの世界だけを生きている。絶望しない。重傷を負ったチンパンジーが、生きる気力をなくしてしまいそうな怪我なのにわんぱく盛りに遊ぶ姿。目の前だけの世界。

    対して人間は絶望する。なぜなら「想像するちから」があるから。「想像するちから」は希望をもたらす。希望に対して先生の強い期待が伺える。

    月曜日の朝、新聞社のサイトへアクセスして選挙の結果を確認。戸惑いと把握できない気持ちが渦巻いた朝。

    (子供を授からなかった自分が書くのは失礼かもしれないけれど)いまの子供たち、これから生まれてくる子供たちの「想像するちから」を信じている。

  • いろいろな待つ、待つの多彩

    いろいろな待つ、待つの多彩

    2013.07.16 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=A3GS8yfXYBI]

    The Collectors – ザ・バラッド・オブ・ロンサム・ジョージ でスタート。大好きで好きすぎな曲。音も歌詞も。幾重の出来事が本当の記憶と嘘の記憶の間に挟まれて、取り出そうとしたら絡み合って、切なくて、揺れ動き、いつも現実を教えてくれるのにふらりぶらりさらりふわり虚構の遊戯空間へ誘ってくれる。

    この間のライブで区切りをつけようとして、ついたつもりがついてなくて、煙草をやめたときのように、気合い入れて句読点を打つより打つか打たないかすらわからなく、胸奥が日常にすっかり溶けて、たわいない言葉への疼きを見失っていくような溶暗があってるのかも

    “今日という日は贈りもの (角川文庫)” ナンシー ウッド, フランク ハウエル を読む。ナンシー・ウッドの書籍は “今日は死ぬのにもってこいの日” 以来。積ん読に鎮座していた。

    背表紙と目が合った。時機が合ったかな、手に取る。ぱらぱらめくる。読みたい気持ちを確かめる。

    一月から十二月までの散文。ネイティブアメリカンの教え。一月の冒頭、「一月に月が通るのは孤独という道」にいきなり唸った。何度も書いてきた「孤独」に抱くイメージ。否定や寂寥のイメージはない。ワクワク、ザワザワ。

    毎日はそれに先立つ日々と後に続く日々が組み合う、無限のパズルの一部。恐怖を捨て去ることを学ばなければ、この無限のパズルは解けない。恐怖を捨て去るとき、パズルはぴたりと合う。百万の断片は最終的にはたった一つ —– 経験の旅。独りの旅。

    “今日という日は贈りもの (角川文庫)” ナンシー ウッド, フランク ハウエル P.16

    ほんのちょっぴり嬉しいような。修辞の感性が合っているかも、どこかで大丈夫と囁いてもらったみたいな。語感のピースが語彙のパズルにはまった。

    たった一つ。

    渇望している自分。なにかわからないけれど、「たったひとつ」を探究している、したい。

    たとえことば遊戯と揶揄されても、「たったひとつ」の語感と五感を響き合えるような方々と出会えるように心身を纏める。

    young leaves
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    少し前、M先生からご連絡を頂戴する。久しぶりのお電話。仕事は半端のまま。こちらからは連絡しなかった。臑に傷を持っているようで、気持ちのしこりがどこかにあった。先生から近況を伺い嬉しくなった。

    M先生の連絡を受けて浮かぶ。見えない、聞こえない、(仮想現実で)つながっていない。

    一昔前ならあたりまえだった。「待つ」という行為に様々な情感が込められた。待つ、の多彩。昨今、見えなくても、聞こえなくても、見えている、聞こえる、ような気になれる。

    仮想現実で目にした、「このつながりは本当に大切か?」の言葉。

    肯定も否定もしない。仮想現実はいまや拡張された現実だろうし、それぞれがそれぞれの大切なつながりをそれぞれに保っている。願っている。素敵だ。

    ただ、一昔前ならあたりまえだったことがあたりまえでなくなったとき、忘れてしまいそうなコトがあるはずで、その「コト」を疎かにしたくない。

    あたりまえを感じられなくなる瞬間、感性はシャットダウン。再起動しない。

  • ズレを強制的に修正しない

    2013.06.09 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=M6liO88pir4]

    FreeTEMPO – Sky High でスタート。仕事中、FreeTEMPOをたびたび流す。柔らかい陽射しが部屋に闖入してきたらとりわけ流したくなる。聞き流したいのに、ちょっと気持ちがほどけるから音へ引き寄せられてHHKBのタイプ音がノイズ。両手をとめたい、BGMなのに仕事が捗らないとか(笑)

    土・日、本を読んだ。寝食忘れて、とはいかずしっかり覚えていたけれど、それ以外はずっと文字を追いかけた。腰痛が集中をさまたげる。Twitter や Instagram や アーティストやショップのFB告知をちょいちょい のぞく。また文字を追う。追いつけない言葉を捕まえようとつんのめり転びながら読む。

    本をむさぼりたい。年に数回やってくる衝動。これがやってきたら待ってましたとほくそ笑み、書架からいつもより厚めの認知系や認識論、言語系の書籍をめくる、めくる、パラパラ漫画。最近は違う。そういった書籍に手をのばさない。今回は久しぶりに再読(再々読、もっと?!)ばっかり。

    小説と詩集。年代の古いものから読む、読む。読んで積む。土曜日の朝から読み始めて、日曜日の夕方、あっ!! っと声を出してしまった。

    変化。

    あたりまえなのに驚いた。文体や表現の方法が変わってる。比喩の使い方や言葉のつなぎ方、情景の描写、それらがかわっている。

    分析したくない。意気込みもない。いまの気持ちで読んでみたかった。自分の気持ちを代弁してくれるような、空白として残しておけないスペースにはめこむピースを求めるような淡い期待は残していた。

    ビル

    仕事の話を別の何かに置き換えて解釈してもらう。相手が興味を持っていることや相手の仕事の分野に置き換える。もし自分なら写真に置換してもらえると理路の扉が開く。

    歯科医院のスタッフと話すとき、美容院や化粧の話に置き換えたりする、毎回ではないけれど。まったく存じ上げないので話がちぐはぐでつじつまが合わない。それでよいと思っている。ふつうは反対だ。

    アナロジーやレトリックは、物事の解釈を手助けしなければならない。せめて解釈のフレームを拡張する一助にしてもらわないと、戯れ言であり、おまけにまったく笑えない知ったかになってしまう。

    なのになぜよいのか、を問われたらうまく説明できない。とにかく目の前の人はとんでもなくズレたことを話している、という感覚を立ち上げてもらえたら話を進めやすい。

    たぶん、自分が「ズレ」に執着しているからだ。チームを外から眺める。そこで感じることはズレ。個と個のズレ、複数と個のズレ、チームと個のズレ、いろんな「ズレ」が隠れている。みんなそれぞれの思いや感情、そしてさささやかな論理を持ち寄ってモノやコトを調理する。時に思うように調理できないモノがあり、コトが起きる。それらはキッチンの奥へしまわれてしまう。

    それを調理しようとしたら、各自の感情スープをたっぷり吸ったべとべとした「何か」を扱わなければならなくなる。誰もそんなものを扱いたくない。誰だってそうだ。私も同じ。

    チームは利害関係を内包している。よかれあしかれ問わず、少々であっても利害関係はインストールされている。利害関係を完璧に除去できない。

    チームの細胞は多様な感情を分裂させながら緻密に機能する。ただ正確に転写しながら分裂していれば問題はないが、しばし突然変異する。ズレが変異させる。暗黙のズレを各自が勝手に解釈してズレたまま転写する。ズレは拡大してチームに今までなかった影響を感染させる。

    そんな動きをこれまでずっと観察していきた。身も蓋もない言い方すれば利害関係もそれほどなく、責任もないから冷たく観察できたのだろう。そういった体験から学んだことはひとつ。

    ズレを強制的に修正しない。

    否、むしろズレたままのほうがしなやかに機能していたり。ズレをズレのまま感じてもらう。ありとあらゆる「置き換え」を試みる。ズレている本人か関係者が興味を持っているコトやモノに焦点を合わせてズレの状態を説明する。

    ズレを自覚する、これが「自分」というものへもっとも耐性をもたらす知覚だと思う。

  • 退化させて正常をとりもどす

    退化させて正常をとりもどす

    2013.05.24 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9VQdupv7GZA]

    同じ シャンゼリゼ はないそうで、ホント、そんな感じ。来月、楽しみだなぁ。関大前なんて受験以来。はやくこないかなぁ、とまだきてほしくないなぁ、が餅つきしている。

    『病の起源 プロローグ 人類進化700万年の宿命』によると、人類の顎は小さくなった。模型を見たら一目瞭然。植物や木の実などを食べていた生活から肉を食べ始めて「やわらかい食べ物」を獲得した進化。

    進化とひきかえに病のリスクを抱えた。プロローグでは、”腰痛” “アレルギー” “糖尿病” “睡眠時無呼吸症候群” を紹介していた。これからのシリーズでは脳卒中や心臓病、鬱病、癌が紹介されるとのこと。

    睡眠時無呼吸症候群。人類の顎は進化によって小さくなったが、舌のサイズは変わっていないらしい。小さくなった顎に舌を収めるために、気道の形態が変化した。舌と気道の位置、形態の変化が睡眠時無呼吸症候群という病のリスクを引き起こした。

    小学四年生の女の子が睡眠時無呼吸症候群を治療していた。顎の大きさを拡大させる矯正治療。矯正器具を装着して半年で6mm広がっていた。舌を収める空間を広げて睡眠時無呼吸症候群を治そうとしていた。

    言葉が印象的だった。

    「ある意味では部分的に退化させる治療、拡大治療は根治治療につながる」

    「現代人の顎をいわばホモ・サピエンスとして正常な状態へ近づける」

    Lake Biwa
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    専門家からの反論や参考情報、他の仮説も紹介してほしいと希望しつつも。限られた時間で「進化と病」と絞ったテーマであるならば、編集が直線的なのも頷ける。鵜呑みにしてはいけないでしょうね。

    それでも、人類の進化と進化にともなうリスクの表裏一体は興味深い。快適な環境を求めて公衆衛生が急速に改善されたたら、アレルギーという病のリスクを抱え、二足歩行と定住生活は腰痛と結びつき、好きなものを好きなだけ食べたい欲望は糖尿病をもたらしている。

    自分の感情が露わになることは正常な反応かもしれない。感情の中でも怒りはやはり気持ち悪い。私の場合、怒りの起点は苛立ち。他人をコントロールできない苛立ちが怒りを誘発する。ひとりで仕事して最も学んだ点は、怒りを捨てる。10年前は考えもしなかった。

    いままで「考える」を見つめてきたつもりだった。ある事柄について、「自分の考え」を考える。仮に隣人と同じ「自分の考え」に辿り着いたとしても、辿り着くまでの過程は異なる。異なるはずなのに同じ「過程」を辿った。先人の「過程」を読んで「自分の考え」のように誤解していた。

    いまは「自分の考え」というかたちある言葉の塊よりも「自分の考え」に至る「道筋」を意識している。意識しないで考える、という矛盾。教えてもらった言葉。歩いてない「みち」を探す。歩いていない「みち」はたぶんないだろう。あるとしたらよほど「個性的」な言動かと想像する。頼らなければならないときは素直に書架から知識を剽窃させてもらい、「道筋」はなるべく自分でつくっていきたい。

    その視座に立ったとき、人をコントールするなんて愚かな行為は捨てられたはずだ。捨てたはずの怒りの破片は残っていた。怒り、に没入した時点で他者は関係ない。あるのは自分との対峙。

    私がいなくてもコトはすべて最適化されていく。これが前提。この前提から周りへアクセスすれば、怒りは必要ない感情である。

  • 肉体は老い身体と心は進化する

    肉体は老い身体と心は進化する

    2013.05.07 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9cRbRE9sS_s]

    奇妙礼太郎 – California でスタート。ずっと聴いている。今日も舞鶴まで連れて行った。奇妙くんはライブでアレンジするからCDとまったく異なるしそれぞれのライヴでも違う。先日、SNSでトークしながら頷き合っていた。6月のソロライヴ。カフェでのライヴ。いまからドキドキワクワク。

    5月、5月?! 肌寒いより寒い。立夏、暦では夏の始まりだけど、今日の季節は春先へもどりたがっているみたい。人の記憶は過去に遡れても季節は逆再生できず、人の営みも季節と同じく直線と曲線と弧を描きながら漸進していく。

    一本の桜の木。琵琶湖疎水に咲き乱れる桜から意志を持って離れているかのように存在している桜の木。ひとりで見に行っていたのに、今年は見に行かなかった。ものすごい悔やんでいる。久しぶりの大きな大きな後悔。

    来年も見られると思わないようになりつつあり、絶景と観光地に関心は薄れていくが、半径1km内で繰り返されている自然のプログラムを見ておきたいと感じはじめている。あとは、どうしても行っておきたい土地がひとつあり、そこだけは何があっても必ず行くと決めているし、決めているだけではなく、思い立ったらすぐに行かなくちゃいけないよ、と自分に毎日言い聞かせている。

    shrine
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    朝から舞鶴へ。道中、奇妙くんをずっと聴いていた。 “二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)” 谷川 俊太郎 をぱらぱらめくりながら目に入る文字を追いかける。追いかけて、顔をあげて車窓を眺める。詩と車窓を行ったり来たり。山間の緑のグラデーションにフジが単色を彩り、場違いか溶け込んでいるか、自分には見分けがつかない。この情景を言葉にする人はどんな文を綴り、絵にする人は何色で、写真を撮影する人の構図はと空想して、何もしない人は何を感じるのかな、つらつら緑と紫はスライドする。

    15:30すぎに終わり、亀岡まで移動。帰りの道中、仕事と四方山がクロスした会話は車両の進行と合わせるかのように前へ前へ。会話の時間軸は季節と同じく、直線に進み踵を返さない。できごとを語る時制は過去であるけれど、話の意図が向かう時制は未来。

    18:00から久闊を叙する。5人が集まり今と昔を行ったり来たりする。周りの方々の話を伺い、自分の役割を見つめ直す。お相伴に与りながら、成功へ近づきつつある人たちを前にしたときにうろたえる私を認識する。平常心からはまだまだ遠い。

    今より昔を語る質量が増加したとき、人は自分の年齢を数える。もう少し経てばからだの話が質量の中心を占め、病と健康の単語の使用回数が45度以上の直線を描く。

    肉体は老いる。身体と心は進化する。そんなイメージを持っている。年齢より鮮やかに演出するために肉体を手入れする。大事なことだ。ただそれに苦心するあまり、身体と心が退化してしまったとき、動く塊になるかもしれないと怖れている。

  • 中庸から両極へ

    中庸から両極へ

    2013.04.30 雨のち曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=fIf9sKuny38]

    奇妙礼太郎 – 君が誰かの彼女になりくさっても でスタート。CDで聴いてもぐっとくるのに、ライヴで聴いたもんだから、もう壊れた、完璧に壊れた、いくつになっても僕には忘れられない感情であり、若い時とは異なる好きがあり、好きはいくつにも変種して、多様化していき、オトナなスキもあったり、日々の営みわずかに足りないぐらいの満たされたように走り出す。

    早朝から強い雨。穀雨、実りをもたらす雨と思えば、と思っても、やっぱりこの雨のなか歩くのはいやだし、こんな朝早い時間から駅とは反対の方向へ歩いて行く人たちの目的地はあそこであったら、他人の営みの一瞬を切り取って想像してみる。

    第十八候、牡丹華。冬が去り、光と影、夕暮れのグラデーションを眺めているとのびやかだ。葉の色が変わっていく様を認識できないのに、稜線の質感がなんとなく力強く見え、色彩が豊かに見えるのも正常に錯覚しているからと自覚する。

    先日、代々木公園で撮影した花の写真をアップした。名前を尋ねられた。わからなくて恥ずかしかった。知識を持ち、堅牢な思想を持ち合わせたい願望から花をさらりと答えられる行動様式へ気持ちは移ろう。洗練、が僕に問いかける。そう感じるようになった。

    少し前までそんな自分はいなかった。いま心の中で立ち現れている。

    五感がインストールする花や雲や月、光と影、色の固有名詞を知らなくても生活できる。銀行の手続き、電車の乗り方、人との会話の仕方、それらを知らなければ生活に支障をきたすだろう(困らない人もたくさんいる)。生活に支障をきたす知識を軽んずるのではない。生活の質感を自ら書き換えようとしたらブッキッシュはそれほどいらない。

    ブッキッシュの知識を使いこなす知性を備えられない言い訳かな。たぶん、そう。言い訳。

    ソメイヨシノ
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    「誰が言ったか」より「何を言ったか」のテンプレートも吟味しなおしている。自分の行動規準だけど、これを他者に押しつけないし、近ごろは、「誰」にも目を向ける。万が一、運よく僕が人格と意見を切り離すことが、’そのとき’にできたとしても、それを相手が望んでいなければ、あなたとわたしの空間はゆがんだままだ。

    (不特定多数の)あなたは人格と意見を切り離すよう期待していないだろうし、僕も切り離されたらへんな気持ちだ、やっぱり。意見が批評されたとき、その場で感情をオフして意見を述べ続けらとしても、あとから自分のなかのオフされた感情と向き合い処理するのは自分だ。

    人格と意見が切り離された空間の居心地の良さや拡張性の高さを体験したとき、錯覚する。意見を切り取って語彙を駆使して思考を純粋(そんなことがあるか知らないけど便宜上)に交わらせる行為と錯覚する。その行為が崇高であり、何かにつながっていきそうな高揚感を知覚する。その知覚がもたらす錯覚は「生身」をいつしか忘れる。生身を忘れたとき、両極にあるどちらかの片側に経っている。そして中庸をめざす。

    いまの僕は中庸への関心が薄くなった。いらない。両極に立ちたい。心身は私ひとつだけど、「コト」の両極へ立つ視座をつかみたい。

    人格と意見が切り離させる視座とゆさぶられる感情と素直に営んでいる視座、の共存と対立。自己のなかで時に共存し、時に対立する。共存と対立を超越しない。ずっとずっと共存と対立させたままから眺望する風景。どんな風景が見えるだろう、破綻しても、それを見てみたい。

  • 思考と感性よりも、目で見たモノがすべてと思い込む

    2013.04.24 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FcWGdkoo0Fs]

    東京スカパラダイスオーケストラ / Pride Of Lions でスタート。めっちゃすき。日本語訳の歌詞も好き。掃除や洗濯でこれ流すと、体が勝手にスイング、朝からアゲていけそうな錯覚だし、凹んでいるときにながせば、眼瞼の裏にためこんだ水分をからりと流してさっぱりできそうで。

    SNSの環境が日常になったときに、情報は一瞬で伝達される。ボストンマラソンのテロでは、大手のメディアは時速でSNSに遅れをとった。テレビや新聞を中心としたメディアは、速報や即時についてこれからもずっとSNSに追いつけない。追いつく必要もないと思う。

    一方で、Twitterのアカウントがハッキングされてデマが流され株価が一瞬で暴落するようになった。

    バスのなかで障害者の子供と母を罵倒する乗客がいて、その乗客たちを運転手が一喝して降ろさせた、なんてデマが一瞬で「いいね!」されてフィードに流れてくる。

    1999年に購入したマクドナルドのハンバーガーを14年もの間保存し続けるとこうなる(GIGAZINE) – 海外 – livedoor ニュース を目にして、見たモノがすべてを味わった。

    写真を見て疑ってみること。包装紙とレシートが1999年だとしても、なぜ「中身のハンバーガーまで1999年」と判断できるのか? パンがなぜあんなにふっくらしているのか? 水分は? 黴の発生メカニズムは? などの疑問が浮かぶ。

    「いま」「ここ」で撮影したかどうか判別できない写真であったとしても、見る側は、「いま」「どこ」の視点から視線を送る。何かの記事で読んだが、Facebookでたまたま豪勢な食べ物の写真がアップすると、贅沢な生活しているように人は受けとめたりするようだ。

    タイムラインに流れてきた食べ物の写真へ、「こんな時間に食べたら太るよ」とかのコメントが寄せられている。深夜にアップされていたからだ。

    この感覚が普通なのかもしれない。ウェブサイトの制作でも参考にしなければならない。少数の疑念より多数の誤解が「正解」なら、時にその正解を採用したページを作らなければならない。

    ユキヤナギ

    ネットの情報でも鵜呑みされてしまうんだから、編集されたニュースの映像を見て喜怒哀楽を表現する人は多いだろう。向こうは編集のプロだ。意図や願望、希望や期待をインストールして編集している。一般的にプラスのイメージを伴う単語を使ってみたが、そんな微笑ましい様相ではない編集があっても不思議じゃない。

    そして、何よりも一番恐れているのは、自分だ。「自分はいったん立ち止まって考える」から騙されない、引っかからない、と自覚している時点で、すでに騙されて、引っかかっていると思ったほうがよい、と自戒している。

    「騙されない」「引っかからない」という視座からしか物事を眺めなくなる。

    視座と視点を固定させて、いつのまにか、その定位置にこだわるようになってしまうと、環状線の縦座席で駅弁を食べたら違和感があっても、新幹線の横座席で食べてもおかしくない、と納得してしまう感覚が養われている。なかにはどちらもおかしいと言う人がいたほうが、僕は健全だと思う。

  • 同じ「コト」から差異は生まれる

    2013.04.10 晴れ

    [youtube:http://youtu.be/bG8PTN9MAMg]

    MONGOL800 with SOFFet – ひとりじゃない でスタート。語感とリズムがやわらかく、歌詞はキュンキュン刺さってくる。これ、恋愛じゃなくても、いろんな対象があるんだと思う。ほんと、歌をつくるってすごい。

    ネットで話題になっていた 2013年度入学式 諏訪学長による式辞 を読んだ。うわぁ、これだ!!って感じだ。自分の語彙は少なすぎる。こんなふうに「経験」について語れたら羨ましい。いつも自分の頭の悪さを呪う。こればっかりはどうしようもない。脳みそをこねくり回しても明日からすぐになめらかに思うがままに話せるわけない。頭の悪い自分と気長に付き合っていくしかない。

    私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。

    「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。

    「経験という牢屋」を恐れている。「仕事の作法」が機能している状況に満足する。仕事の作法を培ってきた能力と履き違える。勘違いは傲慢を言動に宿して端々に現れる。

    同じ作業を繰り返す、毎日。とても大切だ。同じ繰り返しから小さな変則を見つけられる。微少の変化。想像すれば、毎日、同じものを食べたら、その日の体調によって味が変わるんじゃないかな。

    同じ「コト」を私に合わせない。私から同じ「コト」に合わせていく。

    同じ「コト」をこなしていても、精度と基準が曖昧ならば、「コト」がおかしいのか、自分が不安定か判別しにくい。料理すればわかる。難しい。レシピが揃っているのに、行程の狂いが、結果の差異を生む。

    苦しみ悩みながら料理家がつぶやいていた。同じ味に料理できるようになっても、今度はレシピを作成するのが難しい、と。各家庭によって使っている器具や火力などが自分の環境と違うから、何に照準を合わせてレシピを作成しようか難しいらしい。

    皇子山公園

    同じ「コト」の繰り返しは難しい。なのに、同じ「コト」に近い状態で安心して「コト」を丁寧に扱わなくなる。「経験の牢屋」に入り、仕事の作法のようなものが有効に機能しているシステムに安住する。

    ほんとは同じ「コト」ではないんだけど、同じ「コト」をこなせているように自分を錯覚させて納得してしまう。微細な変化、微妙な進化、微少の劣化を捉えられない。

    クリエイタは十人十色のリズムを営んでいる。興味深い点がある。十人十色のなかには、規則正しい生活と習慣化されたタスクが創造をもたらす、と指摘する人たちがいる。

    何もできなくても特定の時間帯に毎日3時間座るや、午前中の数時間だけ執筆するとか、就寝と起床の時間が一定しているなど、生活と習慣にまつわるエピソードが多い。

    靴磨きが好きになった。いつからかまったく覚えていない。靴を磨いていると落ち着く。行程が安定しない。どうすれば靴がきれいになるか試行錯誤の連続。あーでもないこーでもないの独り言。コロニルの量や磨き方、磨く手順。手の力の入れ方。まず「同じ」にしていくそのものがわからない。毎回、発見がありとても楽しい。

    同じ「コト」というテーマについて誰かと話すだけでも、思いがけない内容へ発展するのでは?

  • 潮時

    2012.11.21 曇

    K10D

    2006年11月29日の夕方、K10Dを予約していたお店から電話があった。発売日の1日前。「全世界から予想を大幅に上回る注文」があったK10Dは当初の発売日を延期していた。手に入るかどうか。焦りが募り不安の日々。フライングの電話なのにすぐに取りに行きますと行って、家を出た。

    はじめて一眼レフを手にしたときのあの瞬間をいまでも覚えている。K10Dのボディを360度から眺め、持ち手を右に左に変え、持ち方に迷い、ファインダをのぞく。小さな窓から見える映像。興奮と未知。

    あれから6年、K10Dとレンズ一式を売却する準備をはじめた。いまはネットですべて手続きできる。今週末にはお店の人が査定して、いつか誰かの手元に行ってくれたらといまから願う。

    私の力が及ばないと認めなければならないときがある。苦しい体験。できるだけ広く深いと感じられる眺望点から私の努力と能力を眺める。努力していなかったこと、能力がまったく足りなかったこと、比較されること。それらは自身を守ろうとすれば、私を査定される恐怖が身体を蝕む。

    だから潮時の判断をためらう。

    阪神高速道路

    一方で、自分を放棄したらどうなるだろう? 努力してようがしまいが、能力があろうかなかろうか、そのままいまのままいつもの場所へいつもの時間に訪れる。比較の恐怖を捨て、自己評価を停止し、他者評価を吟味しない。

    ひょっとすると幸福かもしれない。わからない。

    何があろうが対象から拒絶されるまで、存在を記号化させて対価をもらいつづける。でも、精神と感情がその行為を阻むかなと想像する。プライドとは、その精神と感情に向き合い続ける我と彼の狭間に隠れているのかもしれない。そして、あるとき何かの契機がプライドを呼び覚ます。

    プライドは潮時の判断へ関与する。

    さらにお金である。生活と切っても切れない物質が私の判断を支配する。

    13:30に烏丸五条でKさんと待ち合わせ。紹介していただいた医院へ営業に伺う。16:00前に終了。久しぶりに「京都らしさ」と「医院」を体験した。会計事務所にお世話になっていたときよく体験した。お金をスマートにクレバに受け取られるようになったとき、あるいは渡せるようになったとき、成熟の過程に足を踏み入れられたのではないか。まだ踏み入れていないからこれもまた空想の言語遊戯。

    16:00から17:00までKさんへ近況報告。前回紹介してくださったお客さんを相談する。先方は発注してくださっているが、私は正式に承っていない。そんなあいまいな関係のなかで忘年会にお誘いいだき恐縮している。が、そういう場を観察するのも判断材料のひとつだ。

    17:30から滋賀県のホテルへ移動。Kさんといっしょにセミナーを受講した。中小企業の経営者や関係者が120名ほど集まり、講師の経営者から「王道の話」を伺い感動した。衒いや奇策はない。すぐに劇的な効果を探したくてもそんなものはない。淡々と「王道」の話を経営者は話し続けた。企業の継続は「王道しかない」と強く実感した。聴講後、短い時間であったがグループに分かれて議論した。

    僕の頭は固まっている。凝り固まっている。意固地になっている感すら認識している。そんな僕の頭を壊してもらえるよい機会だった。やっぱり現場は壮絶だ。経営者は強くてしなやかでたくましい。ひとりのつらさをしっかり抱きしめ噛みしめ守らなければならない社員と歩いている。