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  • 手を替え品を替え連続を引き千切る

    2012.09.04 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=9_5_AD9wXuY]

    今朝は The beach boys – Kokomo でスタート。とりあえずこの曲を聴かなかったら夏は終わらない、と思う。もう完璧にすりこまれて、この曲を聴いたらCocktailを猛烈に飲みたくなる。スクリュードライバー(なんつぅテンプレート)で….orz 映画、何十回観たやろ。

    M先生のWP製作の沼にはまって出てくるのに丸一日かかった。それでもはまってよかった。いまここで想定している設計に近づけた。さて再スタートして、淡々と製作。画像の取り扱いはやっぱり悩む。

    本屋で “夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)” 村上 春樹 を購入。単行本で読むつもりが、積ん読本を読んでいたら文庫が出版された。積ん読のままで終わりそうな本もある。処分すればよいのに背表紙のタイトルがどうしても気になって目につく書架へ収めておきたい本ってあるな。

    ヨーロッパの景色をネットや映像で眺めていたら、電線の少ない景色がうらやましく思う。空が見えやすい。ところでヨーロッパの人々は、建物や都市、街並みついてどんな感覚を持っているだろう? ガマンして高い建物を建てない? もし法律で規制されているとしたら、その規制が解除されたら、NYや東京のような高い建物を建設するかな。

    大都市で建設される高層ビルと古くから受け継がれてきたヨーロッパの街並み。二つを支える技術に違いがあるとしたら専門家の方々の話にふれてみたい。勝手なイメージを描くとしたら、前者は最先端の技術、後者は昔から継承してきた技術かな。非論理的も甚だしいけど。後者の技術にも最先端はあるはず。

    破壊と創造によって進化してきた街並み、継承と手入れが整えた街並み。不思議。思考の暴挙に出てみよう。街並みを二分してしまう。日本の街並みをどちらかに分類した。両方の街並みのコンテンツは魅力的だ。なのに、東京のような先進的なイメージもヨーロッパのような伝統的なイメージもあてはめられない街並みがでてくる。

    たぶん二つの街並みの集合がまじわる点。駅前は都市化されているけど、少し離れたら昔のままの風景。でも昔のままの風景も守られておらず、手を加えようと試みて失敗した跡が点在している風景。保守されてこなかった場所。そんな地域の街並みがあると思う。

    どこもかしこも観光地である必要はない。便利で住みやすい地したいと願う。願いは東京や大都市の街並みがつくり、希望を持った他は公平を追い求めて東京や大都市の風景を獲得する。公平は、土着の風土や文化が持っていた「連続」を断ち切った。

    公平を追い求められず、耐えてきた地域もある。それが、いま、人々の耳目を引く。「連続」が断ち切られず、細く弱々しく守ってきた街並みが人を集める。

    自宅の周辺を散歩して、あと少しガマンしていたらと思う。高層マンションをガマンして、中古の(街)家を修繕して住むような方向、使い回す習慣、不便を受け入れるあり方、とかがあって、あと少しガマンできていたら20年後の街並みは、「耐えてきた」物質が持つ生命力を表現しているかしら、と期待して想像する。

    100年後、高層マンションを容易に破壊できる技術が開発されていたとして、もし、破壊されずに残っていたら、“アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))” フィリップ・K・ディック の「キップルに埋め尽くされたビル」があちこちにあるかもって脳裏に描いたら震えた。

  • 資料はabilityとpresentation

    2012.05.24 晴れ

    今朝は フラワーカンパニーズ – 深夜高速 でスタート。これはヘビーローテーション中のヘビーローテーション。頭がおかしくなってきたら何度も何度も聴く。精神が腐敗してきたときに聴く。ひとりで爆発する。歌詞にある「よかった」と思えるような生活ではないけれど、いつかよかったと思えることが終着駅。ちなみにこれ、Vo.鈴木圭介の顔面から血が流れています(たぶん)。

    院内の資料作成は、単純な入力作業と受けとめられがちだ。スタッフは指示されたとおりに入力する。あるいは決まった事柄を入力する。完成させた資料を出力する。資料を整理整頓する。はじめは業務に使っている。使いながら違和感が生じる。しかし、違和感を吟味して資料を修正しない。時間と機会がない。やがてほんのわずかな違和感が現場に蓄積されていく。飽和状態の違和感はやがて資料を死蔵する。

    なぜだろう? 習慣になっていないからか? 資料を業務に役立てるシステムが構築されていないから? 習慣は必須としても、システムと習慣が解決できない要素を含んでいるのでは、と以前から疑っていた。

    そう疑っている自分の認知を検証する。眺望点が変わったからだろう。デザインを少しでも学んだからだ。会計事務所にお世話になっていたとき、「資料作成の能力と発表」を思いつかなかった。考えなかった。

    昔、“A4・1枚究極の企画書―伝わる!通る!夢が叶う!” 富田 眞司 のような、要は「A41枚にまとめなさい」系が流行した。いまも使われているかもしれない。現状を知らない。その系の本を数冊読んだ。それから自分の提案書で実践してみたら成功率はわずかに上昇した。成功率の上昇よりある傾向に驚いた。目を通してくれるようになった。

    資料を作成するとき、レイアウトやフォントの設定、図形、UIやUX、表現方法など「見た目と内容」を設計しなければならない。設計に必要な要素を考慮する。要素を抽出してアイデアを練り上げる。資料作成のアイデアからアイデアを実現する設計へ。

    そしてもっとも難しいのは削ること。

    たとえばスタッフは指示されたとおりに入力する。ソフトはMicrosoft Wordとしたら、まずソフトの使用方法を知らない。知っていても必要最小限の機能で入力する。設計がおぼつかない。さらに削ることを意識してい入力しない。しない、のではなく、できない。そんな手間暇かけることは本業ではない、という実情もある。

    資料作成のマネジメントは、基準・分析・判断・決断から構成される。使いやすい道具を使ってこの4つの工程を手際よくすすめる。入力ソフトを習熟しなければならない理由はここにある。

    全員が視認できる明確な変化よりも取るに足りない要素を改善する行為がabilityとpresentationを求める。小さな要素を積み重ねと、積み重ねられた要素が更新する環境。トイレを自主的に毎日掃除していた人がある日いなくなったとき、その人が現場に与えていた影響を認識する。

    トレイは掃除のアイコンだからわざと事例にしただけで、どんな事象でもあてはまると思う。同時に自主的を逆手にとって自己評価を高めようとする行為は一定の割合で発生する。集団の規模を問わず発生する事象だ。成員は事象の影響を最小におさえる。方策を実行して制御する。

  • リマーク

    2012.04.19 くもりのち雨

    今朝は Steps – 5, 6, 7, 8 でスタート。こういうクラブ系ミュージックはたまーに聴きます。昔はよく聴いていましたが。そういえばクラブからもずいぶん足が遠のきました、というかもうお邪魔するような歳でもないか。

    影響をまったく受けないと措定できる人は、私にとってその人は存在しているのか? —の設問が浮かび上がって、設問の地点で止まっている。そこから論理を展開できない。単語をひねり出して思考を重ねたいし知を展望したい。なのにわからない。単語を見つけようと辞書をめくる。

    物質的には存在して自分の視覚は認識していると了解している。でもなにやら釈然としない。あらぬ方向へ進めるか。通り過ぎていく人は存在しないと仮説を立てたらどうだろうか、とも思う。前提が間違っているかぁ。影響を受けるか否かで存在するものと立てたらむちゃくちゃか。考えろ、と自分へ命令するが、“リマーク 1997-2007” 池田 晶子 のように思考を展開できない。焦燥感がつのっていく。

    目に青葉 山ホトトギス 初鰹。イオンで鰹を見る。もう、か。はやくないか。いや、はやくないか、と言っている自分に、「じゃぁ、初鰹の時季って知っているのか?」とどこからか聞こえる。知らない。そういうのを知ったかぶりと言うんだよ。基準を知らない、あるいは持ち合わせていないのに、「比較」を表現するなんて知ったかだよね。

    大豆が高騰しているらしい。ニュースで読む。世界的に大豆の在庫が減少している。中国の需要拡大。米国の大豆生産の減少。複数の要因。米国では大豆の作付けが減っている。かわりにバイオエタノールに使われるトウモロコシの作付けが増えている。日本国内の大豆の総需要に対する自給率は5-6%らしい(カロリーベースやらあるので自分にはよくわかりません)。ということは90%以上輸入であるから、高騰の影響がこれからあらわれる。

    ハンス・ロスリング:地球規模の人口増加について | Video on TED.com の非常にユニークな回答を見ると、生活水準を引き上げることによって食料の問題は解決されるか知りたい。安全な農作物を比較的安価で安定的に世界中から輸入できるシステムを商社が構築できれば、自給率の定義は書き換えられそうか。そのシステムを構築するために必要な国力を算出するための縦軸と横軸はなんだろう。水栽培が可能な農作物専用の高層ビルは何階建てで何棟あれば、自給率は改善されるか、そういった技術とデータも知りたいな。

    M先生の課題。PCとは? という情報はSEO的には必須だ。それらは歯科学のユニバーサル情報である。SEO的にはユニバーサル情報を大量かつHTMLの規則にそって掲載すれば検索エンジンとの親和性は向上する。それによって順位の向上を見込める。だが、それらの情報がユーザの行動につながるわけではない。ユーザが足を運びたくなるのは、ユニバーサル情報をバックボーンにしたユニークな情報とオリジナルのコンテンツだ。ここをつなげるのがウェブサイトの設計。それが難しい。

  • 私は評価に飢えている

    2012.03.20 晴れ

    今朝はつじあやの “愛する人へ”でスタート。絶賛、粉モン警報中。食べとうてたまらん。

    週末、O先生とメールでウェブサイトについて議論。午前中、最後の結論と実行策を書いて送信。先生は多忙を通り越して異次元へ突入していらっしゃる。週末は時間をなんとか確保していただけるみたい。いつも週末にメールでコンタクトをとってくださる。今回も丁々発止でわたりあう。

    客観を保持して冷静に書いたつもりでもフランクの度はすぎてしまっている。最後のメールで、フランクの度がすぎていればご指摘くださいと書いた。ご指摘いただければありがたいと。

    最後の返信を読む。私が先生に言いたいことを言えなくなったら先生と私の関係は終わっているよ、と先生は書いてくださった。週末の労が報われて目頭が熱くなった。

    私はO先生に申し上げたいことを率直に素直にいつも申し上げる。反論も含め度を超した批判を書き連ねるときもしばしば。私の慇懃無礼をお構いなしに先生は議論を冷静に積み重ねる。

    拝顔するのは年に数回。一度も会わなかった年もあった。メールでのやりとり。お会いしたらすぐ本題。メールでも同じ。「お世話になります」の次に「あの件ですが….」とスタート。最後は「では終わりましょう」でお別れする。回りくどいことは言わない、外形的な内容を書かない。

    感情は優先順位の最下位へ置かれる。それが暗黙の前提。感情がコンテクストを邪魔しない。感情は控えめに装いじっとしている。プライベートな近況報告はなし。まるで互いに関心を持っていないかのよう。食事も終始仕事の話に没頭する。まるでTEDのプレゼンのようだ。

    先生のスタンスはシンプル。いかにオープンで私と接するか。私の意見、とりわけ反対の意見をくみ出すために徹頭徹尾オープンマインドを保持していらっしゃる。その立ち居振る舞いに魅せられる。感服の至り。

    先生の返信を読み、私は評価に飢えている、と感じた。自分を捨てられない。もっと空白をつくらなければ。私は空白をつくり他者は空白をうめる。外部評価が私の空白を書き換える。それが理想である。ほど遠い。

    内部評価や自己評価との差異を確認したいから外部評価の言葉を求めている。動機は自慰である。外部評価はそういう存在ではない。外部評価は己を慰撫したり卑下するツールではない。事実が記載された他者の積み木である。その積み木をありのまま眺められる空白の自分を形成しなければならない。

    12:00前に大阪へ出発。目的地一駅手前で下車して徒歩。13:30からF先生のミーティング。15:00終了。沈思黙考。自分が認識したズレを修正すべき否か迷う。保留した。終了後、約3km徒歩。私用をすませてデザインの探索。大阪駅で甘党まえだのみたらし団子を購入して帰宅。

    大阪駅の周辺をながめると、巷でいわれる卑下が不思議に思える。卑下も自慢の中という。物質は豊かである。大津から大阪へ移動したら物量に圧倒される。反対に売れるんだろうか、と心配してしまう。余計なお世話なのに。物質を享受する側の設定に問題が発生しているのかな。そのあたりはわからない。

    成長、という表現は使い勝手がよい。よいから使うし使われる。大阪駅の光景は使い勝手のよさを表現している。

  • KAO

    2012.03.07 晴れ

    昨日の続き。F先生のシステムに必要な資料作成の準備。文字情報を視覚化して使い勝手がよいドキュメントにまとめたい。それにはドキュメントのフォーマットが鍵。手順・内容・連係の俯瞰に対する耐性が高いフォーマットを練らないとね。

    16:00すぎに京都へ出発。京都駅下車。目的地まで徒歩。約30分。途中、5分だけHDDとメモリの価格をチェック。2TBのHDDが4本欲しいけど買い時でないなぁ。メモリも8GB×2の16GBがほしいところ。ふーむ。

    17:00からM先生と打ち合わせ。ウェブサイト・パンフレット・コンテンツについて。議論のテーマを設定できたが論点を定めにくかった。さしずめ構図が決まらない感じかな。だからピントをあわせられない。実現不可能も含めた空想からアプローチしてドメインを定めていきそのなかからポイントを探し出す方法やピンポイントを徹底的に検証する方法がある。フレーム問題。

    18:30から移動してお食事へ。お食事のあと河原町五条へ河岸を移してシングルモルトを嗜む。先生にごちそうになってばかりで恐縮だけど、おっしゃっていただいたようにアイデアを絞り出してお返ししたい。

    個性は他者評価だと僕は想定している。自己評価に個性をカウントしない。個性の定義を想像しにくい。ひょっとしてこれも共同幻想の一種かもしれない。時代の趨勢が個性の定義を書き換えているだろうし、現象や事象や物質に対して個性であると賛同する人々の言動、それ自体が個別性に富んでいる。

    ただ個性であると賛同される「何か」は、たいてい共通の「構造」を持っている。そこがおもしろい。個別性に富んでいる「大勢」が評価した個性的なお店を見ると、他のお店でも同じ構造を採用している。前者は個性で後者は没個性。両者の差異は構造の表現であり、前者が巧みに表現しているから個性的と評価され、後者の表現が下手だから没個性的と認識される。

    どなたかが指摘していたように自分の部屋の壁にうんこを塗りたくる人が「個性」であるかもしれない。そういう行為を「大勢」は個性と評価しない。

    矛盾しているのを承知で感じる。大勢が個性と評価する対象は受け入れられやすい環境になった。反面、少数が個性と評価する対象は受け入れられにくくなっていると思う。後者は個性より特異または怪異として感受され、奇異の感を抱かれる。後者の評価を見直す機運は喫茶店や飲食店などで見受けられる。観光地は仕掛けたりしている。「仕掛け」がうまくいった現象はレトロやアンティークや温故知新と評され耳目を集める。

    そんなことが頭に浮かぶ。そして「個性」とは異なる位相で「続ける」と個性の連関に関心が移っていく。はたして連関しているんだろうか。

  • 平凡

    2012.02.29 晴れ

    今朝は”平凡 DEMO SESSION 20110817 馬場俊英×須藤晃”でスタート。この曲、大好きです。ホント、好き。歌詞が好き、ビートも好き、声も好き。僕にしかできないこと、なんてないですよ。僕はそう思っています。いつでも消えます。

    今朝、久しぶりにテレビをつけた。朝に限らずラジオが生活のメディアとして定着している。テレビの音声が数十分ほど聞こえてきたところで消してしまった。たとえ受動的で消極的な受信であったとしても”アレ”を毎日感受していたら間接体験の共有でイライラするんじゃないかしら。テレビっこだった10年以上前、異様に感じなかった。自分の生活とは関係ない言葉からずいぶん刺激をうけていたんだな。“共同幻想” の心髄。

    K先生のサイトの修正とC社のメンテナンス。データベースのゴミの整理やウェブサイトの表示の速度改善など。あとどうしてもWPのバージョンをアップグレードできない原因を調査。まだわからず。ちょっと困った。

    まっすぐ歌うボーカリストが多い理由 というエントリーを読む。そういうものなんでしょうか。ライブハウスへ足を運ぶようになって収録曲より確実に勃起するし、アレンジもライブナンバのほうがグッドジョブと感じます。反対のアーティストっていらっしゃるのか? 以前、弟が春○秋○(by ラッパー?!さん)の生歌を聴いて椅子から転げ落ちたとあくまで主観的な感想を述べていたがそういう事例もそこここにあるのでしょう。

    違う現象だけど写真については実感。女性向け雑誌の表紙を「ほんとう」だと思って読んでいる人はいない、化粧品のポスタの前で「ああなる」と思ってみる人はいない。現実の体型や皮膚が雑誌の写真みたいだったらそこらじゅう「美しい」人であふれかえる。以前、英国広告基準局はさる女優の広告を「誤解を招く」として規制したらしいが、それも茶番になっちゃう。

    PhotoshopのチュートリアルをYouTubeや画像で紹介している。なにがほんとうかわからない。みごとな職人芸。ボディラインは一手間でウェスト70cmを56cmに変更できるし、バーチャルにはシミやシワはありませんからリアルな美容整形は真っ青。

    昨今では歯科医院のウェブサイトに掲載されている症例にも禁断の職人芸がほどこされているらしいと見聞する。そのうちバーチャルでは歯の着色は存在しないし、歯肉は同色になるかもしれない。

    批判ではない。バーチャルには人間の欲望が組み込まれていると思う。だから歯は真っ白で皮膚にはシミシワひとつなく、ウエストは56-58cmでバストは86-90cmのC-Dで腹筋はちょっぴり割れて、顎のラインはシャープ、手の指はほそく、目は….となる。

    そして欲望が倫理感と折り合いがつけば、身体にマイクロチップをインプラントして送受信できるようして携帯電話は不必要になるし、自分の健康状態をサーバにリアルタイム送信して 必要な処置を24時間施してもらえるようになる。SFではない。ほんとうにおもしろいSFはフィクションではなく裏付けされたテクノロジーと厳密なロジックを構築している、と思う。二つの要素がしっかりしているから、読めば「何か考えさせられる」んだと思う。

    利便性を追求すればヒトはいずれ己の肉体の「効率化」に到達するんじゃないかな。必要最小限の労力で最大限の利益を得るように考える。他者へ向かった行動はすでにそうなりつつある。自己へ向かうかどうかだ。向かうかどうかは古代から受け継いでいる人の尊厳と倫理感の対処に論点はうつる。技術は先行しているだろう。

    昨年から無意識と意識の相対から弁証して超越したくて、意識が無意識について、無意識が意識ついて意識していると錯覚しているつもりで、そうなってメディアが紹介している断片化された運動をひとつひとつ拾い集めて全部やろうとすれば一日の半分は運動しているんじゃないだろうか、や、メディアが紹介している断片化された適正な食事をひとつひとつ拾い集めたら低カロリーな腹十二分目になりそうで、人間の意識の欲望ってすばらしいなと感じる次第。

  • コミュニケーションはごみ箱へ捨てました

    2012.02.16 晴れ

    本日はサスケ “青いベンチ”でスタート。この曲は好きすぎだなぁ。もう歌詞のような想いをあの人へ届けられないから、あの「感情」への強烈な懐古が身体に保存されているんでしょうね。刹那ではなく、最後はひとりであると強く強く思います。

    目が充血状態でアルバイトの資料を入力。なんとか見えてきた。終わらせられそう(結局、終わらせられた)。そういえば個人事業主の所得税確定申告の受付が始まった。自分の申告は気楽である。あとは決算仕訳を調整したらおしまい。来週早々に提出できるでしょう。算出された所得の現実を直視したくありませんが (>_<)

    “岩波講座 哲学〈1〉いま“哲学する”ことへ” 岩波書店 の「経験批判としての臨床哲学」を読み終えて、F先生からご教授いただいた 。やっぱり精神現象学の序論だけでも読まないと文脈を掘り下げられない。 “精神の現象学序論―学問的認識について” G.W.F.ヘーゲル を購入。自分なりになんとか解釈を切り取らないと「経験批判としての臨床哲学」を読み込めない。

    16:00前に出発。大阪駅で下車。大阪マルビルのスタバでフレッツ・スポットへ接続してみる。前回同様快適。いまのところ外出時はフレッツ・スポット環境で間に合いそうであるが、いずれWiMAXも視野にはいってくるな。ポストPC時代の「常時接続」の意味は変容している。コンテンツの提供の仕方、すなわちメディアを変えなければならない。すでにウェブサービスを利用するのにブラウザを起動させる時間が減っている早期の適応者もいるでしょう。

    19:00からF先生とミーティング。予防システムと院内の啓蒙用のシステムについて議論。方向が定まったので来週から週一ペースで伺って具現化へ動き出す。抽象概念や経営理念、目標や目的の議論を積み重ねるのはやぶさかではない。しかし、「カタチ」に変換できなければ画餅である。画餅に満足してきた人々を何度も目にしてきた。たくさんの本を読んでたくさんのハウツーをまねて「カタチ」にする。そういう手法を以前は批判していたけどいまはどうでもよい。その人がやりたければやればよいと思う。それで成功したケースはある。私はその「領域」にコミットメントしないだけ。

    デザインの根本はカタチを体感してもらい、体験から経験に変換させる「行為」にあると思っている。

    21:00前に終了。スタッフのI氏がお腹が空いたとおっしゃったので食事へ行くことに。先生はご帰宅なさらなければならないもようでお別れして入店。入店先はWi-Fiが使えたのでFacebookにチェック・インを残した。念のために先生に報告という意味で。

    I氏とミーティングでだしてくださるコーヒーについて論じる。コーヒーを題材に「コミュニケーション」を議論する。コミュニケーションはごみ箱に捨てたので、コミュニケーションを使わずに「コミュニケーション」を定義しようと問題点を俎上に載せる。

    「それはコミュニケーションの問題ですね」というフレーズはなにも問題を提議していない。論理循環している。“残像に口紅を (中公文庫)” 筒井 康隆 はそのフレーズの陳腐を実験していると思う。

    I氏が送信した「言葉」を私は受信する。正確に受信していない。証明するために「言葉」の意図はいくつあるか述べていただいた。3つあった。私はそのうちの1つを感受して「言葉」を復元して解釈した。残りの2つを感受していなかった。送信された「言葉」をすべて受信していたが、残りの2つ感受していなかったから「言葉」を完全に復元できず解釈から漏れた。

    わずか数十個から構成された単語群の文章をI氏が送信した。私が受信して送信者の意図を内包した情報を完璧に解読しようとすれば、送信にかかった時間より数倍の時間が必要である。さらにひとりではできない。ひとつひとつ相手に確認しなければならない。ならば現場で交信している情報の意味を復元しようとしたら膨大な時間が必要である。そんな時間を他者と共有できない。たぶん不可能だ。

    他者は11次元から言葉を発信しているかもしれない。他方、私はそれを理解するために次元を落とす。受信は私の「フレーム」に依存する。私の3次元の世界であり、ならば残りの8次元はどうなるのか?

    ペダンチックな言葉遊びでオナニーしたいからあたりまえのことをさもありなんふうに書いただけ。あたりまえのできごとは私をきちんと絶望をもたらしてくれる。あたりまえはすばらしい。

    早退した私に、同僚が「昨日はなんで帰ったの?」と尋ねたとき、私は「電車で」と回答する。こんな送受信があたりまえに発生している。

  • 非分

    2011.09.26 東京 曇時々雨

    Bar Stone Pauement
    *RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

    06:20すぎ起床。35階のカーテンを開けたらそばにそびえ立つさらに高いマンション。カーテンの開いている部屋の中が見える。新宿方面や東京タワーの付近に高層ビルが立ち並ぶ。見下ろすと昭和から変わっていない家並みが揃っている。

    学生時代に3回、社会人になってから何度か東京へ来た。東京はおもしろいなと思う。はじめは苦手だった。人の密度を基準にしていたから。視点をコンテンツに切り替えたらおもしろく感じはじめた。ほんと、おもしろい。新旧の建築や新しいテクノロジーを体験できるし便利だ。

    ユニークなコンテンツは人を集める。ユニークはメジャになり得るしマイナにとどまることもできる。マイナでユニークなコンテンツは一定数のファンを引きつけて離さない。09.25の日比谷野音のように。

    東京はアウェーだから、異質を気づかせてくれる。夜、ふらりとはいった路地裏の居酒屋で注文したら、周りの人はチラって見てる(ように感じられた、自意識過剰かもしれないけれど)。隣の若い男女は笑っていた。全国から人がやってくる場所ではあるけれど、訛りはまだ珍しい?

    国会議事堂前の手すりは、もともと彩度の低い緑色なのに目の前の手すりは違う。元の色を確かめたければ誰もさわっていない箇所を見ればよい。委員会が開催される部屋か、控え室だったか(忘れた)、それらがある廊下の大理石の壁は、ある高さの部分だけ一直線に変色している。はげている。記者たちが壁にはりつくから腰の位置で壁の質感はかわっている。議員をつかまえてインタビューするために壁にもたれて待つ。はりついて部屋の様子を伺う。

    テレビで見かけるおなじみの光景なのに、ディテールへ視線を移動したとき、「思いもよらない」現象に遭遇できた。

    これが想像力なんだ。説明を聞いてそう感じた。実際に目にふれて理解できた現象を、見ないでも思い描ける人がいると思う。図面とパンフレットと写真から、人のディテールを描いて、周りに与える影響を考える。「思いもよらない」起こっていないコトへディテールを派生させる。それが想像力である。

    私が描いているのは過去の映像の再生にすぎない。過去のデータを取り出して大まかな部分だけ編集して思い描いている。想像力ではない。

    正法眼蔵随聞記 九の(一) 学道の人は先ずすべからく貧なるべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.263

    「中々唐土よりこノ国の人は無理に人を供養じ、非分に人に物を与フる事有ルなり。[…]人皆生分有り。天地之レを授く。我レ走リ求メざれども必ズ有ルなり」を読むと、ちょっとばっかし根拠のない戯れ言が頭によぎる。

    財宝を持つな、資産を貯えるな、この国の人は分不相応に人に物を与えてしまっている、って教えが民の意識の根っこに植え付けられてしまっていたら、平等に対する強い希求や欧米とは異なる路上生活者へのふるまいなんかが納得できる。根拠はまったくない。

    宗教を信じるか信じないかは個人に帰属していて、どちらであっても個人からそれ以上の存在に影響を与えていなと確認している。でもその確認を「信じて」しまっていて、確認は幻想だとわかっている。ほんとうは、どちらであっても、こういった教えが「全体」へ何かしら影響を与えているような気がするな。

  • 質的

    2011.01.05 晴れ時々曇

    今年中に読みたい本に出会った。『データ対話型理論の発見―調査からいかに理論をうみだすか』 バーニー・G. グレイザー, アンセルム・L. ストラウス『エスノグラフィー入門 <現場>を質的研究する』 小田博志

    なぜ読みたいのか? コミュニケーションの「べき論」に疑問を抱いたから。いや、理由になってないよ、全然つながんない。ちゃんと戻ってきますから以下つらつらと。

    一日の現場でコミュニケーションという単語はどれぐらい登場しますか?

    定性的な未解決事項が現場で発生。どうやらプロトコルやルールが間違っていないらしい。そんな時、問題点はコミュニケーションだよって云われる。特に僕のような仕事をしていて助言的役割を演じていると口にしてしまう、さらりと。

    そのコミュニケーションって何だろう?

    ややもすると「コミュケーション」の問題をコミュケーション不足と指摘してトートロジーになっていたり。それでも現場は「べき論」的に理解している。

    取引先との関係が芳しくない。部下のホウレンソウがままならない。同僚同士、先輩と後輩との間で情報がやりとりされない。あちこちで齟齬をきたす。

    それらの現象はコミュニケーションで解説される。

    コミュニケーションの単語が場に出たら解決の糸口はつかめた! って思い違いしちゃう。頭で理解できるから。べき論として。身体はついてこない。実践できない。続かない。続かない、という根本の事象はほったらしになって、またコミュニケーションへと帰ってくる。

    日報や朝礼、会議を利用して伝達する。伝達の形式は成立する。成立したらコミュニケーションは改善される。そして懸案事項は解決される。ホントに? だとしたらボトルネックは伝達の形式だったの?

    「コミュニケーション」を考えるとき、コミュニケーションの語源を辿る。コミュニケーションという単語を使っちゃいけないと思う。僕が先述した「コミュニケーションって何だろう?」「コミュニケーションとは?」なんて問いを立てたらダメなんだ。この問いの立て方そのものが間違っている。

    文脈を少し遡る。

    昨年から認知言語学の本を読み始めた。きっかけは UST で視聴した大学のシンポジウム。冒頭、ARGUMENT IS WAR<議論は戦争である> というメタファーを説明していた。そのスライドが興味深く、出典をネットで調べたら 『レトリックと人生』 ジョージ・レイコフ, マーク・ジョンソン, 渡部 昇一, 楠瀬 淳三, 下谷 和幸 だった。購入して読み始めた。他に『ことばと思考 (岩波新書)』 今井 むつみ『言語・思考・現実 (講談社学術文庫)』 L・ベンジャミン・ウォーフ を読んでいる。あと『認知意味論―言語から見た人間の心』 ジョージ レイコフ にも挑戦したい。

    学問するわけじゃないし(何度もふれているけどそもそも”学問”を知らない)、論考するんじゃない。とにかく知りたい。仕事で実践してみたい。ウェブサイトの制作や打ち合わせで使えると思っている。なので読む。理解したい。何を?

    現場を観察していて、「人が現象を認識するとき、言葉と思考が重要な鍵」と再確認したから。言葉と思考より行動の方が大切だと断言するけど、事態を認知していく上で「言語と思考」がやっぱり欠かせない。で、認知言語学の本を読み始めた。

    観察と書いた。認識や認知を自分なりに模索している。観察はキーワードかなと思う。観察には二つある。って独断で想定している。一つは「机の上のオブジェのように、突き放して」観察する(by 茂木健一郎先生 )。もう一つは「論証を持って」観察する。論証は演繹と帰納と仮説推論に分類される。

    以下は僕の思考(なんて大げさすぎるのです、でも何て書けばよいのか見当つきません)の連想ゲームなんだけど、僕の頭の中では「レイコフの認知言語学」と「パースの記号論」がリンクしていて、この二つが観察とくっついて、観察の根幹はアブダクションだよ、みたいな図が描かれている。

    で、この図は空論的理論にするんじゃなく、それぞれの現場からその現場だけにしか適用できない実践的理論をみんなで話し合って実践してほしいって考えています。

    で、その時に必要な手法が、質的研究なわけで、それを Amazon で検索していたら冒頭の二冊と出会ってしまったわけです。ふぅ、ようやく戻ってこれた。

    今日は読書しながらこんなことを思い浮かべていた。自戒なんです、コレは。僕は「コミュニケーション」って魔法の単語をもっともイージーに利用しているから。

  • 眺望

    2010.11.30 曇

    11月最後の日。大切な月は光陰矢のごとし。大切なことを伝えられずに終った。朝の気温が4℃程度、湖北や信楽ではマイナス。暖房器具はない。部屋の温度と布団の温度の差があるからそろそろ起床は気をつけなければならない。

    午前中、O先生のサイト制作。お問い合わせページを制作。PHPでフォームのプログラムを作成してCSS3でルックスを調整する。手間取ったけどなんとか午前中で仕上げられた。動作確認して問題なし。後はペリオの図を制作しないと。

    午後、F社のアクセスログのリポート作成の下準備をしてから散歩へ出た。坂本まで6kmを歩いてみようと思って。結局、1時間40分程度かかった。まあ、いろんな家を見ながら歩いたので。一つの地点へ最短距離をザックザック歩けばもっと早く到着したと思う。

    道中、高台が続き琵琶湖が見渡せた。素敵な光景。歩いたことがなかったのでとても気に入った。なかでも1軒気になった。空き家っぽい。わからない。もし空き家ならどこかの業者さんが扱っているかもしれないな。とても静かな場所なのであんまりウロウロしていると目立ってしまう。完璧に琵琶湖が望める。今日のような曇空でも対岸の三上山が見える。

    鎌倉が大好き。旅行で訪れたときすぐに引っ越したいと切望した。鎌倉でも高台から海を見た。雨だった。海は灰色。見入った。山と海の距離が近く神社仏閣がある。今、こうやって書いていても引っ越したい気持ちが強いなあって自覚できる。

    高台から少しくだったら傾斜を更地にした区画があった。新築の建売住宅。全部で6軒。価格が掲示されていた。1,900万円。3LDKか4LDKかな。琵琶湖が見えるか見えないか微妙な場所。高台から少しくだれば建売や土地はある。高台のほうの新しい家々は建売ではなさそうな感じ。デザインと外観が異なる。

    散歩ではじめて訪れた街ではついつい足を止めてしまう。地域によって雰囲気が異なる。柔らかい感じや近所づきあいがなさそうな区画とか。道路一本隔てるだけでがらりと変わる地域もある。小さな子供たちがいそうな地域と子育てが終わった地域の音は違う。音と風景。すべては勝手な主観の解釈だけど。たとえ6軒でもまとまって売りに出された区画は引っ越してくる住人たちによって地域がつくられる。どんな地域になるだろう。

    日吉大社の紅葉は終わりに向かっていた。終わりでこんなに綺麗とは。比叡山高校のみなさんは毎日この光景の下を歩くよね。羨ましいな。ひょっとしたら気づいていないかもしれない。でも、数年後、数十年後、今見ている光景が過去の記憶と違う質感で現在によみがえってくる時がある。僕は中学3年になる春休みに清水谷高校へ行った。正門の坂道と桜を見てここだと決めた。中学2年の担任の先生に清水谷へ行くと伝えたら失笑された。

    1年後の4月。坂道にいた。桜はすでに散りかけていた。ここだと決めた桜と3年間いっしょだったけど不思議なことに足を止めて桜を観た記憶はない。テニスコートが少し高台になっていたがそこからじっくり風景を眺めた記憶はない。眺めていたのはテニスをしている恋人の姿だけ。その時は気づかない。来年は110周年。

    自分のなかの何かのバランスが崩れると過去の記憶へ逃げ込んでしまう。安定するまでは過去の記憶と過去を偽造した模造記憶が宮殿。