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  • 選び選ばれ、気儘か確信、天秤何を測る

    2013.07.26 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=lKXFLNizOoI]

    Drakskipを聴く。北欧の民謡はローテーションのひとつ。好み。民謡と言ってよいのやらわかんない。ただ聴いてるだけ、水たまりより浅い音楽の造詣。んなわけで、とにかくそれっぽく聞こえる音、あっ、なんか北欧っぽいなって音、”それっぽい”や”北欧っぽい”のって? って突っ込まれたら小林薫の笑顔を返してやる。

    昼下がり、メッセ着信。ディスプレイが相手の方の心情を映し出す。言葉だけの双方向通信。日本語は1文字に2バイトを要する。2バイト言語は想像力の問題用紙を私に渡す。答案用紙はない。

    できるだけ短く返信。聴くは見るに置き換えられる。耳を傾けている信号を送信する。左から右へ。[入力中]の表示と消滅。文字と時間が流れる。

    出力と入力に比例して声の一回性を痛感。

    相手は”いま”を私へ伝達してご自身の気持ちを探っていらっしゃるかも。わからない。かんたんに決めつけたくない。「かもしれない」の付箋を貼る。

    選び、選ばれる。たまたま私のアイコンをクリックした。それもわからない。独りごちる。

    選びー選ばれる。気まぐれであっても、確信であっても、偶然でも、如何なる様態であれ、選びー選ばれることによって互いに持っている天秤を己の中で釣り合わせようとする。選び=選ばれる。平行だから釣り合ってるわけじゃない。

    左に役割、右に存在。あるいは、何か。

    京都市立美術館

    “乗り越える”や”頑張る”。私が自分自身に使っても、誰かに投擲しない。いつ頃からかそう感じる。

    頑張るの代わりに”グッドラック”を中井久夫先生から剽窃する。同じく森博嗣先生からは乗り越えるの代わりに”最適の健闘”を拝借。なぜ最善ではなく最適? 『スカイ・クロラ』シリーズを読んだときから剥がせない疑問。

    ずいぶん前に”成長”がリスト入り。私のイメージは右肩上がり、もしくは「しなければならない」的ひとつの方向しかない圧迫感。使わなくなった。代わりに進化、たまに成熟。

    これらは自己満足。他者が使っているからって過剰反応しない。淡々、飄々と受けとめる。

    誰かに投擲する言葉はほんのちょっぴり臆病なぐらいがほろよいでよいんじゃないかしら。ノンアルコールじゃ物足りない、かといってモルトをストレートで飲むのは心の性器を見せられるぐらいでないときつすぎる。

  • 単語は意味、言葉はイメージ

    2013.04.11 曇時々雨 風強し

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=r4z_lsaSNG0]

    クラムボン ナイトクルージング でスタート。大好きなアーティストの曲をお気に入りのアーティストが歌う。やわらかい歌声で。これでスタートするより、これで一日を終わった方がふさわしいかもしれないけれど、茫々と音と声を聴きたい時もある。

    第十四候、鴻雁北。なぎさ公園の芝桜がそろそろ見頃かなぁと思えば、もうすぐ初鰹かともあり、ツツジが咲いてる、ってさえずりを目にしてギョッとしたり、一気に暖かくなれば気の早い実家の藤棚が目を覚ますかもワクワクしつつ、とはいえ、実家の藤棚の満開を一度も目にしていないので今年こそ見に行くかと思い、見られるときには見ておかないと思うことがそろそろ増えはじめ、会いたい人に会っておくべきとも思い、想いめぐる寒の戻り。

    ある日、SNSのコメントからはじまり交信が少しずつ育てられ、やがて声を耳にするまでにいたる。偶然。不思議だろうな。10年前ならリンクしない時空。

    文字が映し出す生活は、「すべて」からは足りなくて、想像力が足りないピースを補う。想像力は誤解や錯覚を含み、誤解や錯覚を含んだまま想像は願望の方向へ自然と足は向かう。

    SNSはヒトに「物語」を与えた。 “のめりこませる技術 ─誰が物語を操るのか” フランク・ローズ が語るとおりフィクションの濃度が濃くなり、広告との境界線がぼやけてきたとき、いままで主役を担ってきた物語を操る装置に違和感を覚えはじめる。

    脚本や台本がある予定調和の物語はすばらしいけれど、SNSが伝えるぶつ切りの細切れのとぎれとぎれの生活が「物語」へ変わってきた。予定調和のない一回の舞台。生活のなかで見つけたことをなにげくなくさえずる一言が胸に迫り、誰かが撮った写真が記憶に残り、撮影した動画に心が揺さぶられたりする。

    予定調和の物語とは異なって尺は短く生活の隙間しか見られないけど、それで充分かもしれない。

    自分を振り返れば、料理を手伝うようになって、外食はめっきり減り、作るが「物語」になり、誰かがアップしている料理の「物語」を目にする機会が増えた。番組で紹介されるグルメ情報を巧みに表現してあっても、それは物語風にしか見えず、美味そうに感じない。そこに欠けているのは何だろう?

    Ume tree
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    もう一つ。SNSは言葉をもたらした。言葉から距離を置きたいけれど、SNSは膨大な量の言葉を日々生成している。多くの人が共通のイメージを持つ単語がある。絶望もそのひとつと思う。

    多くの人が共通のイメージを持つ単語に異なるイメージを与える。それは言葉がなせる表現と思う。

    気をつけなければならない。単語のひとつひとつを自らつないで自分だけの世界で通用するイメージを形成したとき、そのイメージが他者とかけ離れているかもしれない。かけ離れているのにうっかりその単語を他者の文脈のなかで使ってしまったら完璧な誤解を与えてしまう。

    他者からどう思われようが自分の文脈のなかで自分が持つイメージのまま単語をつなげていけばよいんだけど、伝達できても伝わらないだろう。協力して何かを成し遂げる状況ならば関係に支障をきたす。

    単語の意味はひとつ、または複数ある。それは辞書で定義されている範疇である。単語がつらなり形作られる「言葉」には辞書の意味からイメージへ置き換えられる。

    相手が抱いているイメージを慎重に丁寧に確かめながらやりとりしないで、自分のイメージのまま「言葉」を話す。案外、そんな無謀なふるまいで成立しているのが日常であり、誤解や錯覚したままコトをすすめたほうがうまくいったりするからおもしろい。

  • 経験を説明する「経験」はいつになったら経験できるだろう

    経験を説明する「経験」はいつになったら経験できるだろう

    2013.04.08 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=lWUKZstGg6M]

    Ego-Wrappin’ – Calling Me でスタート。SNSと音楽は相性がよいような。音楽好きな 人が多い。ディープ。新時代の幕開け、というか、ライブの幕開け、というか、ライブ行きたくて行きたくてたまらなくなるようなさえずりやテキストが巷に溢れていて、うっかりすればほんとに一般の人?!って思うぐらいディープ、ディープ。

    社会に出て10年も経てば、情報と経験が身につく。その情報と経験は、「一日早く生まれただけ」である点を吟味されない。その機会は訪れない。

    私自身に照らし合わせれば、何ごとも経験と思いつつも、年数を積み重ねられれば体験できるコトは「経験」ではないと感じる。私自身が「経験」できたことってなんだろうなぁと不安に陥る。

    自分がやっていることは、後からやってくる人が同じ年数、もしくはもっと短い年数で体得でき、それらを積み重ねても体験のコトを「拡張」できない。

    情報も同じ。年数を積み重ねた情報は、「知っている状態」を把持しているにすぎず、かつては重宝されていた。いまは「知っている状態」がSNSやブログに代替されつつある。

    10年の社会人が新人を教えるとき、共通の構造が垣間見られる。知識と経験のショートカット。同じ作業をこなすとき、前者は30分、後者は60分を要するとしたら、「年数を積み重ねた情報と経験」は30分の「差」の何割を占めるだろうか?

    10年の側は、1年目から10年目までの「コト」をショートカットする。記憶と体にショートカットを作っている。アイコン。デスクトップに貼り付けて、自分の作業へ瞬時にたどり着ける。

    頭は誤解する。大げさに言えば、1年目から出来ていたように記憶を改変する(そんなわけないけど頭は都合よく解釈しかねない)。身体能力の高い運動を見て、自分も若いときはあれぐらい体が動いていたと記憶を模造する。そんなに早く走ってないし、高く飛べていなかったのに、自分の記憶と体験は自分の思うがままに作り替えられる。

    模造された記憶は言葉をかんたんに生成される。本人にとって模造された記憶はウソではないから他者からすればやっかいかもしれない。

    他方、新人はショートカットできない。そもそも「フォルダの構造」を理解できない。ExplorerやFinderを持っていない。

    ここの「差異」を年数に置換して待てない。待てない。待てないどころか、気をつけなければならない点が多々ある。多々を書けば「暗い」話になり、愚痴へ発展する。暗い話や愚痴をスマートに書ける知恵と技術を身につけていないので控えないと失礼極まりない。

    ショートカットと待てないが共通の構造、と認識している。

    そして、これが進むと「50,60代のおっさんがえらそうな物言いで買い物する」という構図ができあがる。内側で年数を積み重ねた情報と経験に肩書きを加えた属性が、外側の社会でも通用すると自分に暗示をかけているから、だと推測している。

    そこまで酷くなくても、組織の大小問わず、この構図が見え隠れする。

    「できること」と「できない」ことに距離を測らず、ショートカットを持っている優位性に甘んじ、「できる」側からの視点でしか「できない」ことの所作を推し量れない。それが「年数を積み重ねた情報と経験」の視座で、私はそこに座っているとき、「経験」していない。ショートカット使いまくり状態。

    経験とは、「できること」のショートカットをごみ箱へ捨て、「できない」ことを想像しながらいままで体験していないパターンの所作を試し、いっしょに「できること」を生成していけるとき得られる「できること」の「拡張」なんだ、と推察している。まだわからない。

    「できる」側から「できない」側をのぞくことはできても、「できる」側を捨てて「できない」側をのぞくことは難しい。この難しいコトにあたれるのが、「経験」のイメージかな。まだまだ自分の言葉で説明できない。経験を説明する「経験」ができていない。まだまだ。

  • 潮時

    2012.11.21 曇

    K10D

    2006年11月29日の夕方、K10Dを予約していたお店から電話があった。発売日の1日前。「全世界から予想を大幅に上回る注文」があったK10Dは当初の発売日を延期していた。手に入るかどうか。焦りが募り不安の日々。フライングの電話なのにすぐに取りに行きますと行って、家を出た。

    はじめて一眼レフを手にしたときのあの瞬間をいまでも覚えている。K10Dのボディを360度から眺め、持ち手を右に左に変え、持ち方に迷い、ファインダをのぞく。小さな窓から見える映像。興奮と未知。

    あれから6年、K10Dとレンズ一式を売却する準備をはじめた。いまはネットですべて手続きできる。今週末にはお店の人が査定して、いつか誰かの手元に行ってくれたらといまから願う。

    私の力が及ばないと認めなければならないときがある。苦しい体験。できるだけ広く深いと感じられる眺望点から私の努力と能力を眺める。努力していなかったこと、能力がまったく足りなかったこと、比較されること。それらは自身を守ろうとすれば、私を査定される恐怖が身体を蝕む。

    だから潮時の判断をためらう。

    阪神高速道路

    一方で、自分を放棄したらどうなるだろう? 努力してようがしまいが、能力があろうかなかろうか、そのままいまのままいつもの場所へいつもの時間に訪れる。比較の恐怖を捨て、自己評価を停止し、他者評価を吟味しない。

    ひょっとすると幸福かもしれない。わからない。

    何があろうが対象から拒絶されるまで、存在を記号化させて対価をもらいつづける。でも、精神と感情がその行為を阻むかなと想像する。プライドとは、その精神と感情に向き合い続ける我と彼の狭間に隠れているのかもしれない。そして、あるとき何かの契機がプライドを呼び覚ます。

    プライドは潮時の判断へ関与する。

    さらにお金である。生活と切っても切れない物質が私の判断を支配する。

    13:30に烏丸五条でKさんと待ち合わせ。紹介していただいた医院へ営業に伺う。16:00前に終了。久しぶりに「京都らしさ」と「医院」を体験した。会計事務所にお世話になっていたときよく体験した。お金をスマートにクレバに受け取られるようになったとき、あるいは渡せるようになったとき、成熟の過程に足を踏み入れられたのではないか。まだ踏み入れていないからこれもまた空想の言語遊戯。

    16:00から17:00までKさんへ近況報告。前回紹介してくださったお客さんを相談する。先方は発注してくださっているが、私は正式に承っていない。そんなあいまいな関係のなかで忘年会にお誘いいだき恐縮している。が、そういう場を観察するのも判断材料のひとつだ。

    17:30から滋賀県のホテルへ移動。Kさんといっしょにセミナーを受講した。中小企業の経営者や関係者が120名ほど集まり、講師の経営者から「王道の話」を伺い感動した。衒いや奇策はない。すぐに劇的な効果を探したくてもそんなものはない。淡々と「王道」の話を経営者は話し続けた。企業の継続は「王道しかない」と強く実感した。聴講後、短い時間であったがグループに分かれて議論した。

    僕の頭は固まっている。凝り固まっている。意固地になっている感すら認識している。そんな僕の頭を壊してもらえるよい機会だった。やっぱり現場は壮絶だ。経営者は強くてしなやかでたくましい。ひとりのつらさをしっかり抱きしめ噛みしめ守らなければならない社員と歩いている。

  • 明日になれば昨日何を決めたか忘却の箱

    2012.08.16 曇

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=QPoTGyWT0Cg]

    今朝は Bill Withers – Lean On Me でスタート。iPod TouchにはClub Nouveau版をほりこんである。電車の中でよく聴いている。特に帰りの車中、暗い車窓を眺めて聴くと落ち着く。

    蒸し暑い。空は水をたっぷりふくんだ雑巾でしきつめられたみたいで、神様がぎゅぅっと絞ったらたくさんの雨が降ってきそうなべったりした粒子がまとわりつく。

    会合で議事録を作成する役割を引き受けている。声だけに耳を傾けていると集中する。反面、顔を見ながら話を聴くと、うっかりすれば話の筋を見失う。表情を伺ってしまうからだ。意識が視覚情報に奪われる。

    議事録の作成は「定型」を学習できる。決められたフォーマットはないので、自由に記述していたが、数ヶ月前から自分なりの書式が定着した。反面、「定型」の入力に慣れたら、定型から外れる意見を記録しなくなる可能性がある。定型への馴化がもたらすデメリットだ。

    議事録のデザインは、「あとから読み返したくなるか」と「あとから読み返したときに理解できるか」の2点に絞られる。この2点を議事録の中心概念に置いて入力しているが、なかなか難しい。あとから読み返そうと思えず、また記録を読み返して思い出せないコトを記録している。

    議事録を入力していると、「決める」について考察を迫られる。最大の発見だ。自分の入力がへたである点を差し引かせてもらっても、「何を決めたか」がはっきりしない。「決める」という事象に対して5W1Hを適用させてみると、まったく決められていないこともしばしば起きる。

    「何を決めたか」(=未来)がはっきりしないから、未来が現在に変わったとき、検証できない。現在を検証しないまま過去になったとき、過去のデータをひもとけないのでデータは蓄積されない。データ(数字だけではない)が蓄積されないと、データをノウハウへ転化できず、ある出来事に対してひとつひとつ手探りで向き合わなければならない。

    過去にやっているはずの事柄をもういちどはじめから打ち合わせやったり、過去と別のやり方で実行して失敗してしまうケースがある。

    ある出来事が過去の出来事と類似構造を持っているとき、過去のデータを参照して使えそうな知識と技術は流用して、足りない知識や技術を調達する方法を吟味する、という技術(知識)情報を選別できる。効率化とはこの選別の精度と速度を向上させることだと思う。

    そんなことを考えていると、「決める」の概念と中身は何か? が気になってくる。とても気になる。

    皇子山球場

    100のタスクがあるとき、ひとりの人間が管理するか、5人で20個ずつに分担するか、こんな愚問から出発したら意外な眺望点を獲得できるかもしれない、って議事録を作成しながら感じる。

  • あとから発見がない

    2012.07.23 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=N6-0aquSvXk]

    今朝は Maia Hirasawa Boom! でスタート。人と交わらずひとりで過ごすのを楽しみつつ、ときに恐怖がおそいかかり、得体の知れない心象に怯え、精神は犯され、また気分は高揚する我は世界をBoom! してしまえ。

    フレームワークが決まったM先生のサイトをバリバリ作成。ページを制作してはMac, Windows, iPad, iPod Touch(スマートフォン代替)でチェック。表示を微修正。画像を補正。それを終日くり返す。

    夏バテかな。食欲が右肩下がり。“続・体脂肪計タニタの社員食堂” タニタ のようなごはんを食べても夜半に目が覚める。ランチはお茶碗一杯とおかず一品とレタス少々で満腹。朝・昼・夜のごはんを食べたら消化するためにエネルギーがけっこう消費されているっぽい。胃が奮闘している感覚が身体に残り続ける。昼食をぬこうか。

    お腹がすく感覚が少なくなった。悪い兆候。秋冬、お腹がすいてごはんを食べる、目が覚めたらすでにお腹がすいている、そんな感覚が僕にとっての正常なリズム。

    週末、たまにコーヒーを断つ。午後、頭が痛い。夕方、ぼぉっとして何をするのもままならず。作業に集中できない。コーヒー断ちを味わっているんだからガマン。それにしてもひどい中毒だ。中毒? 依存症? 医学的には同じなのかな?

    エラーが発生したとき、それに関与した組織や人の胆力と知性はリカバリーから推し量れる。リカバリーの過程の言動を気をつけて見る。いままでもエラーが発生していたはず。なにも今回だけが大事ではない。にもかかわらずなぜこんな大事になってしまい、しかも致命傷かもしれない事態へ発展したのか。

    いままでいきあたりばったりで処置して、なしくずしに前例を踏襲して、時間の経過とともに忘れ去られるのを待ち、結局どこからもチェックされなかった。外部が責め立て、騒ぎ立てるからではない。組織や人の胆力と知性がゼロに等しかった。いままでそれでやってこれた。幸運。ほんとに運がよかったんだ。でも一回のエラーをリカバリーできず、致命傷になってしまうケースだってあるはず。

    その「あるはず」を想定して鍛錬と修養を積み重ねなかった。「あるはず」なんて「ない」と信じていた。

    ハインリッヒの法則がすべての分野に適用できると思っていない。ただレトリックとしてあてはめてみたくなる。1:29:300の比率。よくできている。

    僕がものを書くとき、書き出す前に「これからこんなことを書こう」ということについてけっして明確なプランがあるわけじゃない。ほとんどの場合はキーワードだけしかない。何となく、このキーワードを白い紙に書きつけたら、後が続きそうな気がする。だから、とりあえず書いてみる。書いてみて、よくあることですけれど、かなり書き進んだ後になって、「あ、これは違う。こんなことが言いたいんじゃないんだ」と全部消してしまうことがあります。逆に、書いているうちに「自分でも思ってもいなかったこと」がどんどん湧き出てきて、なんでこんなことを思いつくんだろうと不思議に思いながらも、どんどん書き進むうちに長いものができあがる。読み返してみると、「なるほどこういう考え方があるのか」と。“街場の文体論” 内田樹 P.200

    いまのこの日記がそうかな。たいてい即興で書く。とりあえず書く。書いてみてなんとなく描いてたイメージに近いテキストで終わることもあるが、たいていはよくわからないまま書き終える。あとから読み返す。変だ、なるほどやら判定する。自己陶酔しているか、読んでくれる方々と対話したくて書いているか、当時を思い返しても判然としない。だけど確実にいえる。モノローグの文章は読者に開かれていない。だからおもしろくないし、後から発見がない。

    誰かとのおしゃべりもこれに似ている。書き言葉みたいに消せないけれど。しゃべっていたら、ふとリアルタイムで「あっ、こんなこと考えていたのか」って思う。あとから脳内再生して認識するときもある。なにが触媒となってそんな考えを抽斗にしまっていたか自分でもわからない。萌芽の時期も認識していない。

    誰かといっしょでなくちゃいけない。誰かとしゃべっているとき、突然、その瞬間がやってくる。あとから、やっぱり違うって考え直すときも。

    ただ、消せない。それが誰かを傷つけているかもしれない。「あっ、こんなこと思っていたのか」と発話の後からたとえリアルタイムで知覚したとしても、なかなかリカバリーできないんじゃないかしら。だから「沈黙」ってとても貴重な発話だって感じるこの頃。

  • コミュニケーションはごみ箱へ捨てました

    2012.02.16 晴れ

    本日はサスケ “青いベンチ”でスタート。この曲は好きすぎだなぁ。もう歌詞のような想いをあの人へ届けられないから、あの「感情」への強烈な懐古が身体に保存されているんでしょうね。刹那ではなく、最後はひとりであると強く強く思います。

    目が充血状態でアルバイトの資料を入力。なんとか見えてきた。終わらせられそう(結局、終わらせられた)。そういえば個人事業主の所得税確定申告の受付が始まった。自分の申告は気楽である。あとは決算仕訳を調整したらおしまい。来週早々に提出できるでしょう。算出された所得の現実を直視したくありませんが (>_<)

    “岩波講座 哲学〈1〉いま“哲学する”ことへ” 岩波書店 の「経験批判としての臨床哲学」を読み終えて、F先生からご教授いただいた 。やっぱり精神現象学の序論だけでも読まないと文脈を掘り下げられない。 “精神の現象学序論―学問的認識について” G.W.F.ヘーゲル を購入。自分なりになんとか解釈を切り取らないと「経験批判としての臨床哲学」を読み込めない。

    16:00前に出発。大阪駅で下車。大阪マルビルのスタバでフレッツ・スポットへ接続してみる。前回同様快適。いまのところ外出時はフレッツ・スポット環境で間に合いそうであるが、いずれWiMAXも視野にはいってくるな。ポストPC時代の「常時接続」の意味は変容している。コンテンツの提供の仕方、すなわちメディアを変えなければならない。すでにウェブサービスを利用するのにブラウザを起動させる時間が減っている早期の適応者もいるでしょう。

    19:00からF先生とミーティング。予防システムと院内の啓蒙用のシステムについて議論。方向が定まったので来週から週一ペースで伺って具現化へ動き出す。抽象概念や経営理念、目標や目的の議論を積み重ねるのはやぶさかではない。しかし、「カタチ」に変換できなければ画餅である。画餅に満足してきた人々を何度も目にしてきた。たくさんの本を読んでたくさんのハウツーをまねて「カタチ」にする。そういう手法を以前は批判していたけどいまはどうでもよい。その人がやりたければやればよいと思う。それで成功したケースはある。私はその「領域」にコミットメントしないだけ。

    デザインの根本はカタチを体感してもらい、体験から経験に変換させる「行為」にあると思っている。

    21:00前に終了。スタッフのI氏がお腹が空いたとおっしゃったので食事へ行くことに。先生はご帰宅なさらなければならないもようでお別れして入店。入店先はWi-Fiが使えたのでFacebookにチェック・インを残した。念のために先生に報告という意味で。

    I氏とミーティングでだしてくださるコーヒーについて論じる。コーヒーを題材に「コミュニケーション」を議論する。コミュニケーションはごみ箱に捨てたので、コミュニケーションを使わずに「コミュニケーション」を定義しようと問題点を俎上に載せる。

    「それはコミュニケーションの問題ですね」というフレーズはなにも問題を提議していない。論理循環している。“残像に口紅を (中公文庫)” 筒井 康隆 はそのフレーズの陳腐を実験していると思う。

    I氏が送信した「言葉」を私は受信する。正確に受信していない。証明するために「言葉」の意図はいくつあるか述べていただいた。3つあった。私はそのうちの1つを感受して「言葉」を復元して解釈した。残りの2つを感受していなかった。送信された「言葉」をすべて受信していたが、残りの2つ感受していなかったから「言葉」を完全に復元できず解釈から漏れた。

    わずか数十個から構成された単語群の文章をI氏が送信した。私が受信して送信者の意図を内包した情報を完璧に解読しようとすれば、送信にかかった時間より数倍の時間が必要である。さらにひとりではできない。ひとつひとつ相手に確認しなければならない。ならば現場で交信している情報の意味を復元しようとしたら膨大な時間が必要である。そんな時間を他者と共有できない。たぶん不可能だ。

    他者は11次元から言葉を発信しているかもしれない。他方、私はそれを理解するために次元を落とす。受信は私の「フレーム」に依存する。私の3次元の世界であり、ならば残りの8次元はどうなるのか?

    ペダンチックな言葉遊びでオナニーしたいからあたりまえのことをさもありなんふうに書いただけ。あたりまえのできごとは私をきちんと絶望をもたらしてくれる。あたりまえはすばらしい。

    早退した私に、同僚が「昨日はなんで帰ったの?」と尋ねたとき、私は「電車で」と回答する。こんな送受信があたりまえに発生している。

  • 善巧

    2011.11.15 曇時々晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=kEogJacjLTE]

    今朝のお目覚めThe BeatlesのナンバからLet It Be、破綻に向かうバンドと修復不可能になりつつあるメンバのいがみ合い、そんななかから紡ぎ出された曲を聴きながら、やることしっかりやればよいなって感じで一日がスタート。

    第五十六候、地始凍。地面の土が凍てつく朝、といわれてもコンクリートの道路ではお目にかかれない言葉。夜間が冷えてきた。長期予報は暖冬だった。ところがラニーニャが発生したから、寒さ厳しい冬の恐れがあるらしい。1年で2度目の発生は珍しいとの由。

    牡蠣と柿が並ぶ。”R”のつかない月は牡蠣を食べないという。なら今の牡蠣は美味しいか? 微妙。料理の仕方によるかな。近ごろのスーパーは、フルーツの商品名に糖度を記載している。親切になったのか、楽しみを奪っているのか、小馬鹿にしているか。どれなんだろうか、迷う。

    まぁ、あの数値のおかげで、自分の味覚センサは鈍くなった。知らず知らず先入観をもって食べている。先日、”15″と書かれた柿を食べたらぜんぜん甘くなく、中身はスカスカだった。東京スカイツリーぐらいの高低差がある残念無念茫然自失の感情が朝から食卓を包み込んでくれた。ほのぼのした朝が殺伐した雰囲気になったのでイオンに感謝した。

    O先生の印刷用の症例集を作成している。以前、作成した症例集を刷新。全部で40症例以上ある。illustratorで少しずつ制作。

    先生によると、ずいぶん役立っているらしい。ありがたいとよくおっしゃる。不思議な感覚だ。わざわざ印刷して待合室に置くなんて。だからどういうふうに役立っているのか、先生にお会いしたときお話を伺う。なるほど、そういうものなんだ。人の動きと感情と意思決定のプロセスを再認識。こちらがありがたい。

    はじめとおわりの変化が大きければ大きいほど関心の度合いは高くなる。注意点がひとつ。変化の大きさを最適にデザインする。ダイエット前と後が「あまりに」変わっていたらヘンだろう。昨今のポスターや雑誌はPhotoshopなしでは制作できない(と思っています)。それでも買う人はいる。その場合、「変化があまりに大きく嘘っぽくても買う人」をターゲットにして制作されているから、それはそれでOKなのでしょう。

    記録は、記録する行為そのものと管理がわずらわしいからついつい怠ってしまう。O先生の「記録」を拝見していると、「記録」の持つ力を痛感する。デザインって「記録」が土台かもしれない。

    5W1Hに従って記録する。そのとき、「振り返り方」を吟味しておく。記録をいつどのようなときにアクセスして検証するかの方法を記録する前に吟味しておく。記録は過去と未来をマネジメントする。

    正法眼蔵随聞記 六 四 昔、国皇有り

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫

    とてもおもしろい。見方を変えれば論理的な皮肉が綴られている。皮肉を使って悪事をやめさせ善事を勧める。

    王が何かしようと相談するたびに、臣下は「やりなさい」と進める。その後に「それをやればこうなりましょう」と皮肉な結果を必ず付言する。すると、王は自分のやることが国家にとってよろしくないことだと理解する。

    今回のお話を読んでトップの心構えを学んだ。忠言を述べる臣下が優れている点に異論はない。むしろ王の態度だ。王は忠言を素直に受けとめられるだろうか。自分の行為を冷静に判断して決断できるかが問われる。判断は過去の行動に対して、決断は未来の行動に対して下される意思だと思う。

    そして臣下が忠言を述べる環境。場作り。

  • 思惟

    2011.09.29 晴れ時々曇

    葉物野菜が高騰気味。ほうれん草や小松菜が高値水準。台風や豪雨の影響かな、軽く傷んでる。しょうがない。量を減らして値を下げて売るけれど、見た目がスカスカの野菜を手に取ってみたくならず。高値でも適正な量で販売したほうがよいような気がするけれど、やっぱり値段なんでしょうね。

    脳出血リスクを高める虫歯菌が特定される | スラッシュドット・ジャパン サイエンス を読む。

    「わかりやすく伝える」を再考している。先日、『孤高のメス』のDVDを見て、構図を感じた。構図がわかりやすさのポイントかな。

    広告制作やウェブサイトの制作でも通用する。

    「わかりやすさ」と書くと、「では、わかりやすさとは何か?」と定義したくなる。それは一昔前の私。でも、「わかりやすさとは?」とやること自体が「わかりにくく」している。

    『孤高のメス』の構図は二項対立の勧善懲悪。ハッピーエンド。専門用語を控えて、なんとなく耳にしたことがあるような病気がスクリーンに映し出される。物語は具体的で明瞭だから迷うシーンも少なく楽しめる。

    手術シーンでは、何をやっているのか知らない映像があるけれど、物語に影響を与えないから流して見られる。

    一つ一つのシーンは、医療行政、大学病院と地方病院の関係、医療倫理、脳死判定、医師の功名心など、ややこしい背景を隠している。専門家や関係者の方々がご覧になったらもの申したくなる箇所もあるはず。

    それらの背景を分解して要素に分けて構造化して、構造を抽象的な言語に置き直して、普遍的な言説へ思考を展開する行為が、概念化や思想化の作業だ、と想像する。

    概念化や思想化の作業自体をスクリーンで描写してしまうと、人物関係や論理構成の辻褄が合わなくなるし、2時間で判定できる要素でもない。あくまで「物語」に徹している。

    あれだけシンプルな構図をわざと作ったように感じた。複雑にからみあった医療の「問題」をからまったまま描写せずに、「とにかくもっとも伝えたいこと」だけに絞って、そのほかの要素は削ったんじゃないかな。原作を読んでいないから想像として書いているけど。

    シンプルな構図が、かえって背後の複雑な現象をえぐり出す。

    わかりやすいというは、「構図」を明確にして、「もっとも伝えたいこと」に絞って、簡単な単語で伝達する「表現の結果」かなって今はぼんやり考えている。

    わかりやすいように制作するとき、シンプルの意味を取り間違えず、王道しかないと注意している。「釣り」は使わない。釣りと強調の境目をはっきりさせて、強調をコントロールする。

    正法眼蔵随聞記 四 十 某甲老母現在せり

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.270

    いよいよ四も終わり。あと五と六。ゆっくり読み進める。読んできたページを何度もさかのぼる。四の十を読み、「いかなることであっても、やるのは自分であり、最後は自分で判断しなければならない」と受けとめた。

    「能々思惟すべし、是レ一の道理なり」の言葉。

    自分を偽るのは自分であり、例え偽り続けられたとしても、その自分と最後の最後まで付き合うのは自分だなって、ここ数年強く感じる。

    感情の起伏を抑えて、穏やかに静かにしたい。そう願うだけではダメだから行動しているつもりなんだけどできていない。できないのは自分であり、人と会えば耳障りな甲高い声を張り上げてしまう。制御できていない。制御しているのは自分だから、自分の制御方法に欠陥がある。その欠陥を分析して修正する。

    制御と分析と評価と修正。生活とは4つを衒わず精確にくり返す”コト”、なんだって感じる日々。

  • 昇進

    2011.09.16 くもりのち雨

    ロウキーが沖縄へ接近している。台風の影響か、湿っぽい。ときおり強い風、昼過ぎから雨が降り出した。午後から頭がぼぉっとして、キンキンしてきた。たぶんカフェインのせい。24時間ちかくカフェインを摂取していない。カフェイン断ちを挑戦したときと同じような症状。たばこをやめるより難しい。

    ウェブサイトのテキストの特異点をひとつあげるとしたら、何が思いつく? やっぱり「検索エンジンにヒットしてもらえるように書く」かな。

    街頭のチラシや店舗で受け取る紙媒体などを読むと、訴求したい要素が多すぎるって感じる。配色やフォントはさておき、文章の分量と訴えたいコンテンツのバランスがおかしい。

    “INDIAN CURRY”と刻印された皿とカレー。もし、”INDIAN CURRY”と刻印されていないとしたら?そのかわり「最初の一口は甘いのに食べていけばいくほど辛くなる不思議なカレーで食べたらやみつきになる」ってテキストがお皿のまわりにぐるりと印字されていたら? 食欲がうせるな。

    ウェブサイトのテキストも写真と似ていて、SEOを意識しだすと、一つのコンテンツに多数の要素を盛り込んでしまって、文章の分量が増える。文章の分量と検索エンジンのヒット率は、一概に比例していないみたいだ。

    写真撮影の本には、「被写体を際立たせること」って書いてある。旅先で写真を撮影するとき、アレもコレも構図の中に入れてしまいがち。結果的に何を撮りたかったのかあやふやになってしまう。記念写真は、足までいれるよりも思い切ったバストショットのほうがよいシーンも。風景を撮影する時も、「何を際立たせたいか」で、構図を決める。

    19:00からM先生のミーティング。大阪駅で途中下車して“つぶやきのクリーム The cream of the notes” 森 博嗣 を購入。スタバで“あなたのための物語 (ハヤカワ文庫JA)” 長谷 敏司 を読む。あと少し。ゾクゾク感がとまらない。

    20:00にミーティングは終了。(演じなければならない、演じているはず、演じようとしている)役割は、そろそろ終わりにむかっていると認識する。2009年9月からだから24ヶ月。20%の貢献はできたと自己評価している。高めの評価は30%。どの医院でもどうにもならない要素は20〜30%ぐらいあるから、差し引き40〜60%は貢献しきれなかった。

    正法眼蔵随聞記 四 五 宋土の海門禅師

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.246

    「昇進を望み、物の首となり、長老にならん事をば、古人是レを恥ヂしむ。ただ道ヲ悟らんとのみ思ウて余事有るベカラず」とある。

    道を悟っているといわれる僧であっても、「後堂首座の地位をお許しくださいますように」と海門禅師へ頼みにくる。禅師は涙を流して嘆き悲しんだ。僧は恥じ入り辞退したけど、”あえて任じられた”。後の人のためにこのできごとを記録して自らに恥をかかせて、禅師の言葉を顕彰したかったからだ。

    昇進や出世を望まない。そういうこころは恥である。いまに照らし合わせられるようなテーマじゃない。ひとつ納得できた。「師の言葉を顕彰するために記録して自らに恥をかかせた」という行為。

    自分を捨てよ、という教えなら「恥」も捨てるのかな? 恥はかかえて、そのほかの感情や欲望を捨てよなのかな? いずれによせ、「後の人のために」という気持ちがなければ記録に残せないと思う。これは自利利他なんて行為じゃないと私は解釈している。

    「私は何をしなければならないか」の私をメタ認知した行為ように思えた。それは「誰か」がいなくては認知できない構造なんじゃないかなぁ。