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  • 単語は意味、言葉はイメージ

    2013.04.11 曇時々雨 風強し

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=r4z_lsaSNG0]

    クラムボン ナイトクルージング でスタート。大好きなアーティストの曲をお気に入りのアーティストが歌う。やわらかい歌声で。これでスタートするより、これで一日を終わった方がふさわしいかもしれないけれど、茫々と音と声を聴きたい時もある。

    第十四候、鴻雁北。なぎさ公園の芝桜がそろそろ見頃かなぁと思えば、もうすぐ初鰹かともあり、ツツジが咲いてる、ってさえずりを目にしてギョッとしたり、一気に暖かくなれば気の早い実家の藤棚が目を覚ますかもワクワクしつつ、とはいえ、実家の藤棚の満開を一度も目にしていないので今年こそ見に行くかと思い、見られるときには見ておかないと思うことがそろそろ増えはじめ、会いたい人に会っておくべきとも思い、想いめぐる寒の戻り。

    ある日、SNSのコメントからはじまり交信が少しずつ育てられ、やがて声を耳にするまでにいたる。偶然。不思議だろうな。10年前ならリンクしない時空。

    文字が映し出す生活は、「すべて」からは足りなくて、想像力が足りないピースを補う。想像力は誤解や錯覚を含み、誤解や錯覚を含んだまま想像は願望の方向へ自然と足は向かう。

    SNSはヒトに「物語」を与えた。 “のめりこませる技術 ─誰が物語を操るのか” フランク・ローズ が語るとおりフィクションの濃度が濃くなり、広告との境界線がぼやけてきたとき、いままで主役を担ってきた物語を操る装置に違和感を覚えはじめる。

    脚本や台本がある予定調和の物語はすばらしいけれど、SNSが伝えるぶつ切りの細切れのとぎれとぎれの生活が「物語」へ変わってきた。予定調和のない一回の舞台。生活のなかで見つけたことをなにげくなくさえずる一言が胸に迫り、誰かが撮った写真が記憶に残り、撮影した動画に心が揺さぶられたりする。

    予定調和の物語とは異なって尺は短く生活の隙間しか見られないけど、それで充分かもしれない。

    自分を振り返れば、料理を手伝うようになって、外食はめっきり減り、作るが「物語」になり、誰かがアップしている料理の「物語」を目にする機会が増えた。番組で紹介されるグルメ情報を巧みに表現してあっても、それは物語風にしか見えず、美味そうに感じない。そこに欠けているのは何だろう?

    Ume tree
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    もう一つ。SNSは言葉をもたらした。言葉から距離を置きたいけれど、SNSは膨大な量の言葉を日々生成している。多くの人が共通のイメージを持つ単語がある。絶望もそのひとつと思う。

    多くの人が共通のイメージを持つ単語に異なるイメージを与える。それは言葉がなせる表現と思う。

    気をつけなければならない。単語のひとつひとつを自らつないで自分だけの世界で通用するイメージを形成したとき、そのイメージが他者とかけ離れているかもしれない。かけ離れているのにうっかりその単語を他者の文脈のなかで使ってしまったら完璧な誤解を与えてしまう。

    他者からどう思われようが自分の文脈のなかで自分が持つイメージのまま単語をつなげていけばよいんだけど、伝達できても伝わらないだろう。協力して何かを成し遂げる状況ならば関係に支障をきたす。

    単語の意味はひとつ、または複数ある。それは辞書で定義されている範疇である。単語がつらなり形作られる「言葉」には辞書の意味からイメージへ置き換えられる。

    相手が抱いているイメージを慎重に丁寧に確かめながらやりとりしないで、自分のイメージのまま「言葉」を話す。案外、そんな無謀なふるまいで成立しているのが日常であり、誤解や錯覚したままコトをすすめたほうがうまくいったりするからおもしろい。

  • あとから発見がない

    2012.07.23 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=N6-0aquSvXk]

    今朝は Maia Hirasawa Boom! でスタート。人と交わらずひとりで過ごすのを楽しみつつ、ときに恐怖がおそいかかり、得体の知れない心象に怯え、精神は犯され、また気分は高揚する我は世界をBoom! してしまえ。

    フレームワークが決まったM先生のサイトをバリバリ作成。ページを制作してはMac, Windows, iPad, iPod Touch(スマートフォン代替)でチェック。表示を微修正。画像を補正。それを終日くり返す。

    夏バテかな。食欲が右肩下がり。“続・体脂肪計タニタの社員食堂” タニタ のようなごはんを食べても夜半に目が覚める。ランチはお茶碗一杯とおかず一品とレタス少々で満腹。朝・昼・夜のごはんを食べたら消化するためにエネルギーがけっこう消費されているっぽい。胃が奮闘している感覚が身体に残り続ける。昼食をぬこうか。

    お腹がすく感覚が少なくなった。悪い兆候。秋冬、お腹がすいてごはんを食べる、目が覚めたらすでにお腹がすいている、そんな感覚が僕にとっての正常なリズム。

    週末、たまにコーヒーを断つ。午後、頭が痛い。夕方、ぼぉっとして何をするのもままならず。作業に集中できない。コーヒー断ちを味わっているんだからガマン。それにしてもひどい中毒だ。中毒? 依存症? 医学的には同じなのかな?

    エラーが発生したとき、それに関与した組織や人の胆力と知性はリカバリーから推し量れる。リカバリーの過程の言動を気をつけて見る。いままでもエラーが発生していたはず。なにも今回だけが大事ではない。にもかかわらずなぜこんな大事になってしまい、しかも致命傷かもしれない事態へ発展したのか。

    いままでいきあたりばったりで処置して、なしくずしに前例を踏襲して、時間の経過とともに忘れ去られるのを待ち、結局どこからもチェックされなかった。外部が責め立て、騒ぎ立てるからではない。組織や人の胆力と知性がゼロに等しかった。いままでそれでやってこれた。幸運。ほんとに運がよかったんだ。でも一回のエラーをリカバリーできず、致命傷になってしまうケースだってあるはず。

    その「あるはず」を想定して鍛錬と修養を積み重ねなかった。「あるはず」なんて「ない」と信じていた。

    ハインリッヒの法則がすべての分野に適用できると思っていない。ただレトリックとしてあてはめてみたくなる。1:29:300の比率。よくできている。

    僕がものを書くとき、書き出す前に「これからこんなことを書こう」ということについてけっして明確なプランがあるわけじゃない。ほとんどの場合はキーワードだけしかない。何となく、このキーワードを白い紙に書きつけたら、後が続きそうな気がする。だから、とりあえず書いてみる。書いてみて、よくあることですけれど、かなり書き進んだ後になって、「あ、これは違う。こんなことが言いたいんじゃないんだ」と全部消してしまうことがあります。逆に、書いているうちに「自分でも思ってもいなかったこと」がどんどん湧き出てきて、なんでこんなことを思いつくんだろうと不思議に思いながらも、どんどん書き進むうちに長いものができあがる。読み返してみると、「なるほどこういう考え方があるのか」と。“街場の文体論” 内田樹 P.200

    いまのこの日記がそうかな。たいてい即興で書く。とりあえず書く。書いてみてなんとなく描いてたイメージに近いテキストで終わることもあるが、たいていはよくわからないまま書き終える。あとから読み返す。変だ、なるほどやら判定する。自己陶酔しているか、読んでくれる方々と対話したくて書いているか、当時を思い返しても判然としない。だけど確実にいえる。モノローグの文章は読者に開かれていない。だからおもしろくないし、後から発見がない。

    誰かとのおしゃべりもこれに似ている。書き言葉みたいに消せないけれど。しゃべっていたら、ふとリアルタイムで「あっ、こんなこと考えていたのか」って思う。あとから脳内再生して認識するときもある。なにが触媒となってそんな考えを抽斗にしまっていたか自分でもわからない。萌芽の時期も認識していない。

    誰かといっしょでなくちゃいけない。誰かとしゃべっているとき、突然、その瞬間がやってくる。あとから、やっぱり違うって考え直すときも。

    ただ、消せない。それが誰かを傷つけているかもしれない。「あっ、こんなこと思っていたのか」と発話の後からたとえリアルタイムで知覚したとしても、なかなかリカバリーできないんじゃないかしら。だから「沈黙」ってとても貴重な発話だって感じるこの頃。

  • 平凡

    2012.02.29 晴れ

    今朝は”平凡 DEMO SESSION 20110817 馬場俊英×須藤晃”でスタート。この曲、大好きです。ホント、好き。歌詞が好き、ビートも好き、声も好き。僕にしかできないこと、なんてないですよ。僕はそう思っています。いつでも消えます。

    今朝、久しぶりにテレビをつけた。朝に限らずラジオが生活のメディアとして定着している。テレビの音声が数十分ほど聞こえてきたところで消してしまった。たとえ受動的で消極的な受信であったとしても”アレ”を毎日感受していたら間接体験の共有でイライラするんじゃないかしら。テレビっこだった10年以上前、異様に感じなかった。自分の生活とは関係ない言葉からずいぶん刺激をうけていたんだな。“共同幻想” の心髄。

    K先生のサイトの修正とC社のメンテナンス。データベースのゴミの整理やウェブサイトの表示の速度改善など。あとどうしてもWPのバージョンをアップグレードできない原因を調査。まだわからず。ちょっと困った。

    まっすぐ歌うボーカリストが多い理由 というエントリーを読む。そういうものなんでしょうか。ライブハウスへ足を運ぶようになって収録曲より確実に勃起するし、アレンジもライブナンバのほうがグッドジョブと感じます。反対のアーティストっていらっしゃるのか? 以前、弟が春○秋○(by ラッパー?!さん)の生歌を聴いて椅子から転げ落ちたとあくまで主観的な感想を述べていたがそういう事例もそこここにあるのでしょう。

    違う現象だけど写真については実感。女性向け雑誌の表紙を「ほんとう」だと思って読んでいる人はいない、化粧品のポスタの前で「ああなる」と思ってみる人はいない。現実の体型や皮膚が雑誌の写真みたいだったらそこらじゅう「美しい」人であふれかえる。以前、英国広告基準局はさる女優の広告を「誤解を招く」として規制したらしいが、それも茶番になっちゃう。

    PhotoshopのチュートリアルをYouTubeや画像で紹介している。なにがほんとうかわからない。みごとな職人芸。ボディラインは一手間でウェスト70cmを56cmに変更できるし、バーチャルにはシミやシワはありませんからリアルな美容整形は真っ青。

    昨今では歯科医院のウェブサイトに掲載されている症例にも禁断の職人芸がほどこされているらしいと見聞する。そのうちバーチャルでは歯の着色は存在しないし、歯肉は同色になるかもしれない。

    批判ではない。バーチャルには人間の欲望が組み込まれていると思う。だから歯は真っ白で皮膚にはシミシワひとつなく、ウエストは56-58cmでバストは86-90cmのC-Dで腹筋はちょっぴり割れて、顎のラインはシャープ、手の指はほそく、目は….となる。

    そして欲望が倫理感と折り合いがつけば、身体にマイクロチップをインプラントして送受信できるようして携帯電話は不必要になるし、自分の健康状態をサーバにリアルタイム送信して 必要な処置を24時間施してもらえるようになる。SFではない。ほんとうにおもしろいSFはフィクションではなく裏付けされたテクノロジーと厳密なロジックを構築している、と思う。二つの要素がしっかりしているから、読めば「何か考えさせられる」んだと思う。

    利便性を追求すればヒトはいずれ己の肉体の「効率化」に到達するんじゃないかな。必要最小限の労力で最大限の利益を得るように考える。他者へ向かった行動はすでにそうなりつつある。自己へ向かうかどうかだ。向かうかどうかは古代から受け継いでいる人の尊厳と倫理感の対処に論点はうつる。技術は先行しているだろう。

    昨年から無意識と意識の相対から弁証して超越したくて、意識が無意識について、無意識が意識ついて意識していると錯覚しているつもりで、そうなってメディアが紹介している断片化された運動をひとつひとつ拾い集めて全部やろうとすれば一日の半分は運動しているんじゃないだろうか、や、メディアが紹介している断片化された適正な食事をひとつひとつ拾い集めたら低カロリーな腹十二分目になりそうで、人間の意識の欲望ってすばらしいなと感じる次第。

  • コミュニケーションはごみ箱へ捨てました

    2012.02.16 晴れ

    本日はサスケ “青いベンチ”でスタート。この曲は好きすぎだなぁ。もう歌詞のような想いをあの人へ届けられないから、あの「感情」への強烈な懐古が身体に保存されているんでしょうね。刹那ではなく、最後はひとりであると強く強く思います。

    目が充血状態でアルバイトの資料を入力。なんとか見えてきた。終わらせられそう(結局、終わらせられた)。そういえば個人事業主の所得税確定申告の受付が始まった。自分の申告は気楽である。あとは決算仕訳を調整したらおしまい。来週早々に提出できるでしょう。算出された所得の現実を直視したくありませんが (>_<)

    “岩波講座 哲学〈1〉いま“哲学する”ことへ” 岩波書店 の「経験批判としての臨床哲学」を読み終えて、F先生からご教授いただいた 。やっぱり精神現象学の序論だけでも読まないと文脈を掘り下げられない。 “精神の現象学序論―学問的認識について” G.W.F.ヘーゲル を購入。自分なりになんとか解釈を切り取らないと「経験批判としての臨床哲学」を読み込めない。

    16:00前に出発。大阪駅で下車。大阪マルビルのスタバでフレッツ・スポットへ接続してみる。前回同様快適。いまのところ外出時はフレッツ・スポット環境で間に合いそうであるが、いずれWiMAXも視野にはいってくるな。ポストPC時代の「常時接続」の意味は変容している。コンテンツの提供の仕方、すなわちメディアを変えなければならない。すでにウェブサービスを利用するのにブラウザを起動させる時間が減っている早期の適応者もいるでしょう。

    19:00からF先生とミーティング。予防システムと院内の啓蒙用のシステムについて議論。方向が定まったので来週から週一ペースで伺って具現化へ動き出す。抽象概念や経営理念、目標や目的の議論を積み重ねるのはやぶさかではない。しかし、「カタチ」に変換できなければ画餅である。画餅に満足してきた人々を何度も目にしてきた。たくさんの本を読んでたくさんのハウツーをまねて「カタチ」にする。そういう手法を以前は批判していたけどいまはどうでもよい。その人がやりたければやればよいと思う。それで成功したケースはある。私はその「領域」にコミットメントしないだけ。

    デザインの根本はカタチを体感してもらい、体験から経験に変換させる「行為」にあると思っている。

    21:00前に終了。スタッフのI氏がお腹が空いたとおっしゃったので食事へ行くことに。先生はご帰宅なさらなければならないもようでお別れして入店。入店先はWi-Fiが使えたのでFacebookにチェック・インを残した。念のために先生に報告という意味で。

    I氏とミーティングでだしてくださるコーヒーについて論じる。コーヒーを題材に「コミュニケーション」を議論する。コミュニケーションはごみ箱に捨てたので、コミュニケーションを使わずに「コミュニケーション」を定義しようと問題点を俎上に載せる。

    「それはコミュニケーションの問題ですね」というフレーズはなにも問題を提議していない。論理循環している。“残像に口紅を (中公文庫)” 筒井 康隆 はそのフレーズの陳腐を実験していると思う。

    I氏が送信した「言葉」を私は受信する。正確に受信していない。証明するために「言葉」の意図はいくつあるか述べていただいた。3つあった。私はそのうちの1つを感受して「言葉」を復元して解釈した。残りの2つを感受していなかった。送信された「言葉」をすべて受信していたが、残りの2つ感受していなかったから「言葉」を完全に復元できず解釈から漏れた。

    わずか数十個から構成された単語群の文章をI氏が送信した。私が受信して送信者の意図を内包した情報を完璧に解読しようとすれば、送信にかかった時間より数倍の時間が必要である。さらにひとりではできない。ひとつひとつ相手に確認しなければならない。ならば現場で交信している情報の意味を復元しようとしたら膨大な時間が必要である。そんな時間を他者と共有できない。たぶん不可能だ。

    他者は11次元から言葉を発信しているかもしれない。他方、私はそれを理解するために次元を落とす。受信は私の「フレーム」に依存する。私の3次元の世界であり、ならば残りの8次元はどうなるのか?

    ペダンチックな言葉遊びでオナニーしたいからあたりまえのことをさもありなんふうに書いただけ。あたりまえのできごとは私をきちんと絶望をもたらしてくれる。あたりまえはすばらしい。

    早退した私に、同僚が「昨日はなんで帰ったの?」と尋ねたとき、私は「電車で」と回答する。こんな送受信があたりまえに発生している。

  • 揀択

    2011.12.06 曇

    夢の中にあの人がでてきたので、今朝はまきちゃんぐの “愛と星” でお目覚め。久しぶりって夢のなかでハグして “笑って踏んで泣きながら壊して愛して憎んで” ね、どうしてますか?

    “暇と退屈の倫理学” 國分 功一郎 を読了。ため息。脳裏によぎる言葉。

    難しいことをわかりにくく書くのは簡単である、難しいことをわかりやすく書くのは難しく、簡単なことを難しく書くのはバカである。誰が最初に表明したか知らない。骨格は変わらず外形を変えてメディアに現れるフレーズ。

    私はバカであると再認識。再認識をもたらしてくれた価値ある一冊。簡単なことを難しく書くのは、「賢い」にあこがれるから。難しい事柄を平明に語る視座と思考にアクセスしてみたい。

    せめて簡単なことを難解風に書いたら難しいことを考えている似而非を体験できるかもしれないと目論んで書き続ける。

    いつになったら自分のことをバカと認められるか。「バカだよ」とやや微笑んで、相手が受けとめる反応を気にしないでさらりと衒いなく口にする。それがいつ訪れるか。というよりも、自分が無へいつ近づけるか?

    相手が理解していないから伝わっていないと思う。そうかな。伝えていないかもしれない。伝え方(=メディア)がおかしいのではく、伝える中身(=コンテンツ)が壊れているかもしれない。

    よしもとばなな先生の小説を読むたびにどうしてそんなふうに表現できるんだろうって思う。難しい単語はない(あるいはほとんどない)。読み方と感じ方は読者の人数と等しいと感じる。

    ひとりで書いたコンテンツが、受信する人の五感と思考を刺激するってすごいな。五感と思考は「たまたまその時に居合わせる環境」にたよっている。だから数年後に読み返せばまた「たまたまその時に居合わせる環境」によって読み方や感じ方は変わる。

    一回受信して一読してゴミ箱へ捨てられるコンテンツより一回受信して一読して保存されてふと読み返されるコンテンツを作りたい。そんな文章を書けるようになりたいな。

    正法眼蔵随聞記 六 十八 大恵禅師の云く

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.386

    「至道かたき事なし、但揀択を嫌ふ。」と『信心銘』は言う。是をとり、非をすて、善をとり、悪をきらうという差別の心をやめれば、ただちに真実をそのままに受け取ることができる。

    自分を離れないからえりきらいする心を持つ。

    「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ – Chikirinの日記 入ったとしたら、「えりきらいする心」が問われる。

    「あいつは○○だ」と言う前に強く自制していったん飲み込む。「○○だ」と言おうとする自分は、相性がよくて気に入っているから持ち上げていないか、ふるまいが気に入らないから非難していないか、を吟味したいな。

    吟味するには自分を離れなければならない。

  • 善巧

    2011.11.15 曇時々晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=kEogJacjLTE]

    今朝のお目覚めThe BeatlesのナンバからLet It Be、破綻に向かうバンドと修復不可能になりつつあるメンバのいがみ合い、そんななかから紡ぎ出された曲を聴きながら、やることしっかりやればよいなって感じで一日がスタート。

    第五十六候、地始凍。地面の土が凍てつく朝、といわれてもコンクリートの道路ではお目にかかれない言葉。夜間が冷えてきた。長期予報は暖冬だった。ところがラニーニャが発生したから、寒さ厳しい冬の恐れがあるらしい。1年で2度目の発生は珍しいとの由。

    牡蠣と柿が並ぶ。”R”のつかない月は牡蠣を食べないという。なら今の牡蠣は美味しいか? 微妙。料理の仕方によるかな。近ごろのスーパーは、フルーツの商品名に糖度を記載している。親切になったのか、楽しみを奪っているのか、小馬鹿にしているか。どれなんだろうか、迷う。

    まぁ、あの数値のおかげで、自分の味覚センサは鈍くなった。知らず知らず先入観をもって食べている。先日、”15″と書かれた柿を食べたらぜんぜん甘くなく、中身はスカスカだった。東京スカイツリーぐらいの高低差がある残念無念茫然自失の感情が朝から食卓を包み込んでくれた。ほのぼのした朝が殺伐した雰囲気になったのでイオンに感謝した。

    O先生の印刷用の症例集を作成している。以前、作成した症例集を刷新。全部で40症例以上ある。illustratorで少しずつ制作。

    先生によると、ずいぶん役立っているらしい。ありがたいとよくおっしゃる。不思議な感覚だ。わざわざ印刷して待合室に置くなんて。だからどういうふうに役立っているのか、先生にお会いしたときお話を伺う。なるほど、そういうものなんだ。人の動きと感情と意思決定のプロセスを再認識。こちらがありがたい。

    はじめとおわりの変化が大きければ大きいほど関心の度合いは高くなる。注意点がひとつ。変化の大きさを最適にデザインする。ダイエット前と後が「あまりに」変わっていたらヘンだろう。昨今のポスターや雑誌はPhotoshopなしでは制作できない(と思っています)。それでも買う人はいる。その場合、「変化があまりに大きく嘘っぽくても買う人」をターゲットにして制作されているから、それはそれでOKなのでしょう。

    記録は、記録する行為そのものと管理がわずらわしいからついつい怠ってしまう。O先生の「記録」を拝見していると、「記録」の持つ力を痛感する。デザインって「記録」が土台かもしれない。

    5W1Hに従って記録する。そのとき、「振り返り方」を吟味しておく。記録をいつどのようなときにアクセスして検証するかの方法を記録する前に吟味しておく。記録は過去と未来をマネジメントする。

    正法眼蔵随聞記 六 四 昔、国皇有り

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫

    とてもおもしろい。見方を変えれば論理的な皮肉が綴られている。皮肉を使って悪事をやめさせ善事を勧める。

    王が何かしようと相談するたびに、臣下は「やりなさい」と進める。その後に「それをやればこうなりましょう」と皮肉な結果を必ず付言する。すると、王は自分のやることが国家にとってよろしくないことだと理解する。

    今回のお話を読んでトップの心構えを学んだ。忠言を述べる臣下が優れている点に異論はない。むしろ王の態度だ。王は忠言を素直に受けとめられるだろうか。自分の行為を冷静に判断して決断できるかが問われる。判断は過去の行動に対して、決断は未来の行動に対して下される意思だと思う。

    そして臣下が忠言を述べる環境。場作り。

  • 寡人

    2011.07.19 雨風強し

    Lotus
    *RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

    マーゴンは意思を持ってるの? 被害をもたらしている。だけど当初予想された進路じゃなかった。列島直撃はまぬがれそう。17,18日あたりの予想は九州から四国に上陸して近畿・東海・関東を縦断しそうだった。勢力から推測して「壊滅的なダメージか」と報道していた。20日の深夜、徳島へ上陸した後、北東へ右旋回して八丈島の方角へ向かおうとしている。その後の予想進路も「意思」を持ってるような、自然のわがままをみせつける。それでも被害は甚大。

    邦楽から洋楽へ。いまは洋楽中心。The Beach Boysを何度もくり返して聴く。夏の日射しはCocktailのサントラと相性がよいと思うんですよ、やっぱり。Preston Smith Oh, I Love You Soを聴くと全裸で砂浜を走りたい。宮古島の。

    第三十三候、鷹乃学習。そろそろ田草取。米作でいちばんつらい仕事だと聞く。今年は肉体的だけでなく精神的な不安もつきまとうかとも思う。

    報道は苦心してる。汚染牛や汚染稲わらと報道していた。名称がかわっていく。いろんな立場の人からの「声」が現場へ届いてるのでしょう。「セシウム汚染: 肉牛・稲わら」とか書きはじめた。牛や稲に対して「汚染」を修飾語として使っていない(連体修飾語でしたっけ?)。配慮といえば聞こえはよい。報道する人たちのメタ認知が欠如している。自分たちの記事がどのような文脈のなかでどのように読まれるかを吟味しない。できない。速報性を重視しているから定型単語を反射的に使う。頭は鍛えられてない。科学を放棄した記事が読まれない本のように新聞社のウェブサイトに積み重ねられ、背表紙だけを見た人たちが表現につられて怒る。

    稲わらや肉、あるいはその他の食物など「汚染」にまつわる報道ばかり。ため息の連続。加害者と被害者の二項対立。そこに政府の失策を重ねて批判するだけ。200km離れた東京で汚染された状況をヒステリックに報じていた。あのヒステリックな状況をふりかえれば、「まさか」や「夢にも思わなかった」という被害者(のように報じられる)コメントを鵜呑みしてよいかな。そんなふうに思う。震災で被災したひとたちの情報があとまわしにされている印象。とても悲しい。冷静に現状を分析して短期・中期・長期に切り分けて必要な物資や設備、資金の投下状況、これから不足するかもしれない物資の予測などを客観的に伝えてほしい。

    “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ の「経験による学習のジレンマ」がおもしろい。

    人間が最高の学習を得られるのは直接の経験からである。試行錯誤を繰り返し、歩くこと、自転車に乗ること、車の運転、ピアノの弾き方を学んでいく。われわれは行動し、その結果を観察し、修正を加えていく。しかし「行動からの学習」に効果があるのは、行動のフィードバックが迅速で明確な場合に限られている。複雑なシステムのなかで行動すると、その結果はすぐに出てこないし、明確でもない。時間的、空間的にかけ離れている場合も多い。これが「経験による学習のジレンマ」を引き起こすのである。経験から学習するのがベストなのだが、ひじょうに重大な決定の結果を、われわれは決して経験できないのだ。では、どうやって学習すればよいのか?

    “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ P.235

    ギブソニアンの「直接経験」と関係してきそう。読み直そう。経営者は痛感。「行動からの学習」の効果がある業務と「行動からの学習」の効果を実感できにくい領域。掃除や整理整頓はフィードバックが迅速だから学習効率は高い。課題は継続。ではコミュニケーション能力の向上はどっち? 後者?! コミュニケーション能力の向上って端的にいっても関連する要素が多すぎる。事象が複雑だ。よってフィードバックが遅くなる。結果が出ていたとしても「結果」と認識しにくい。結果が遅れて生まれる。最初に設定した「経験」と「結果」をリンクさせられず学習効果が薄くなる。

    日記なのでこういった分野の記述はここまで。あとはEvernoteにまとめなくっちゃ。

    正法眼蔵随聞記 三 三 唐の太宗の時

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.160

    「寡人仁あツて人に謗ゼられば愁と為すべからず。仁無クして人に褒らればこれヲ愁フべシ」と。なるほどです。自分に仁徳があって悪く言われるなら心配しなくよいけどその反対ならば心配せよ、というわけですね。ぼくはこういう警句を好む。逆説的っていうのかな、あるいは捻くれているというべきか。

    「自分に仁徳がある」という評価は誰の評価だろうか。それが疑問だ。周りの評価だろうか。周りが「あなたは仁徳がある」と評価していれば、誰かが悪くいっても心配しなくてよいかな? でも、その評価はひょっとして後者の「褒めている」のかもしれない。

    ぼくは徳の「評価基準」を問うた。無粋で邪推で外道な発想だけど気にせず問いたい。「徳である」とは誰がどのようにいかなる状態を指して「判断」するのか。

    だからこの説話の最後でこう紹介されている。

    徳の顕ハルルに三重あるべし。先ズは、その人、その道を修するなりと知らるルなり。次には、そノ道を慕ふ者出来る。後にはそノ道を同ジク学し同ジク行ずるなり。是れを道悳の顕ハるると云フなり。

    大企業の創業者と伝道者の関係を思い出す。大企業の創業者にはイズムを慕う者が出てきて、その人が現場で伝道する。伝道者の話を聞き、さらにまたイズムを信奉する人たちが現れ、その円が広がっていく。

    大学の教授と学生の関係。学生が大学教授を慕う。教授の性格や容姿を慕っている可能性はある(あるいは蓋然性が高い)。しかし、そういうふうに思い込んでしまうと、ある瞬間から教授は勘違いして「ハラスメント」を犯してしまう。学生が慕うのは教授本人ではない(レトリックですが)。教授が欲望する先にある「知性」を学生は欲望する。それを「欲望の欲望」と内田樹先生は書いた(参照 [Review]: おじさん的思考)。

    大企業の創業者や大学の教授にだけ適用する構造じゃないと思う。自分にも問われている。

  • 不定

    2011.07.07 雨

    「ごめんなさい。あなたは私の彦星じゃなかったの」と笑顔で彼女は言った。目は”素”であった。地球で起きる事実は神話より奇なり。

    二十四節気、小暑。すでに日は短くなっている。気温と湿度が体感と一致しないように、日の入りも感覚と異なる。暑さはこれから。自然の「遅れ」ですね。第三十一候、温風至。一日雨が降り梅雨らしい天気。それも今日まで? そろそろ梅雨明けかなあ。雲からのぞく日差しは強い。風は熱を帯びて大気は湿っているので不快指数はぐんぐん上昇。

    京都はそろそろ鱧ですかね。鱧もよいけど蛸もよい。生だこのしゃぶしゃぶは美味。それとししとうをつまみに酒を呑めば夏を迎えるに充分。

    午前中、C社のサイト制作。デザインの細かい修正とWPのカスタマイズ。もうこちらでやることは少なくなってきた。原稿待ち。レンタルサーバーの選定も終了。あとはローカル環境から本番環境への移行。緊張。すんなり移行できるかしら。午後からはアルバイトの資料が到着したので没頭。

    夕食は焼きそば。きょうのお料理ビギナーズの「失敗しない焼きそばのつくりかた」を読んだから実践。失敗しなかった。なるほどなぁ。火力と具材の配置と時間。そして一手間。科学的。ただ電子レンジがない家はどうするかな。ぼくの理想は電子レンジよさよなら。

    九州電力のメールを読む。映像や動画を見ていない。評論や解説を読まない。Googleで「九州電力 メール 全文 公開」と検索してメールを読んだ。メールの文章から「焦り」を読みとった。

    九州電力の組織風土を知らないので平均的なイメージをあてはめてみる。「封建的」な「上意下達」の組織なのだろうかと想像してみる。そういった組織での勤続年数が長くなると、「メールが漏洩する可能性」を吟味しなくなる?

    大企業病は、「大企業だけが蝕まれる病態」のように受けとめられかねない。単なる名称にすぎない。大企業病に対する僕の解釈は、「吟味と検証の基礎である想像力と知力が著しく低下した状態」であって、中小企業や小規模な組織にでもあてはめられる。やせてる人の脂肪は少ないように思われるのと同じ。見た目で判断されやすい。

    ラジオでMISIAの曲が流れてきて気になったのでオフィシャルサイトへアクセスしたら「このページの閲覧にはAdobe Flash Playerが必要です.こちらから最新のプラグインをダウンロードして下さい」と表示されてそこから先へすすめない。

    MacBook Pro Early 2011 17inchにはFlash Playerをインストールしていない。MISIAのサイトについて残念な仕様だなと思う。個人的な感想です。Flashを搭載していないPCでアクセスしたら、「テキスト用」のページへリダイレクトするかリンクで案内してほしい。まぁ、アーティストのサイトにユニバーサルアクセスを求めたらだめだよね。自分の環境を改善すればよいだけ。

    8月は心斎橋クラブクアトロのライブを観に行く。クアトロは8月末をもって閉館。おつかれさまでした。9月は日比谷野音。2ヶ月に1本ぐらいのペースかなあ。

    Amazonから“人が学ぶということ―認知学習論からの視点” 今井 むつみ, 野島 久雄が到着。あわせて“学習する組織――システム思考で未来を創造する” ピーター M センゲ, Peter M. Senge“最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ と読みたいところ。この間読み終えた“かくれた次元” エドワード・ホール はすごくおもしろかった。プロクセミックスが定義されていないので調べてみると、近接学やパーソナルスペースって言葉が関連しているようだ。プロクセミックスの概念は医療の現場では援用されているのかしら。居心地のよい待合室と落ち着かない待合室って無意識に判定しているかもしれない。

    正法眼蔵随聞記 十七 今の世出世間の人

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.144

    うわべの姿の悪いのを見て非難して悪口を言う。対して真実の徳はわからないのにうわべの姿を見てありがたがって供養してそれなりに俗世の福を得る。

    僧にも問われる。自分が世にもまれな道心者だと人に知られたい、また自分の欠点を人に知られたくないと思い、ただ世人にありがたがられようと思う心を戒められるか。

    常に答えを求めようと’「こうですか?」と訊ねる僕に対して「そうでもあるしそうでもない」と返答されてしまう。「こちらの側からみればこうだよね。でもあちらの側からみたらああだよね」ともはぐらかせているようだ。ゆらいでいる。

    絶対ではない。相対でもない。わからない。ふわふわしている。

    「念々に留マラず日々に遷流して、無常迅速なる事、眼前の道理なり。知識経巻の教を待ツベカラず。念々に明日を期スル事なかれ。当日当時許と思ウて、後日は甚だ不定なり、知り難ければ、ただ今日ばかりも身命の在らんほど、」と書く。西洋はcarpe diemやseize the dayと書く。

    ずっとずっと昔から人は「いま、ここ」に魅了されてきたのかなあ。

  • 淫色

    2011.06.30 はれ

    禁断症状である。白い粉を水にとかして3週間に1度、かならず摂取してきた。 前回から1ヶ月以上経過している。ありえない事態だ。身体の震えがとまらない。さいきんは朝からムズムズ。イライラ。まずい。なんとかしなくては。たべたいなあ、豚モダン焼。

    6月の晦日。12月の大晦日と対になる。夏越の祓。さて何を祓いましたか? 祓おうにも何も祓えん。上半期、何をしていたかすでに思い出せず。このままだと下半期も何もしないまま過ぎ去っていきそうだ。せめてコナモン(なんだかアレっぽく)を摂取しよう。

    Facebookのアカウントを取得したが何をしてよいやらわからず。ただわかったことはひとつ。リアルに友人がいない人はSNSでも友人はいないということ。バーチャルだけで有名になるというのはレアケースなのでしょう。

    29,30日とM先生のサイトのアクセスログを解析。昨年の同時期や直近と比較。サイトのコードをすこしいじったり。

    AppleがMobileMeからiCloudへの移行についてFAQを公開した(Apple – MobileMe – MobileMe transition and iCloud)。概要を把握して移行にそなえておこう。めんどくさいけど。

    2012年6月までMobileMeを使えるが、Appleは新サービスを提供すると、旧サービスについて見向きもしなくなる。それとAppleの新サービス開始直後は接続しにくいとか、更新できないやら、不具合が発生しがち。

    なので不測の事態にそなえてデータをバックアップ。それからiDiskのデータをどこかに移動。ローカルに保存するか、よそのクラウドサービスを利用するか。

    それにしても暑い。九州南部で梅雨が明けた。平年より16日、昨年より22日早い。55年についで2番目の早さ。梅雨入り、梅雨明けよ、何をそんなに急いでいる? 近畿もひょっとして明けたのではないかと思うぐらい真夏の日差し。明けた、って宣言したあとに雨が降ったらかっこわるいからもう少し様子見ましょうか、ってノリで発表を遅らせているんじゃなかろうかと勘ぐりたくなるぞ。

    年々、暑さに弱くなっている。暑さ耐性の指数があるとしたら、毎年5%ずつ低下しているような感じ。で、ちょうどあと20年、運よく還暦を迎えられたら暑さ耐性0%になる勘定である。そのときは濁点をぬいた日本語で書くか。

    「おはようこさいます。きょうもあついてす。ひわこのすいいはマイナス20cm。はんこはんはふたもたんをたへました」

    ぬぺーってしてぐだぐだっぽくて手応えを感じます。

    正法眼蔵随聞記 十四 世間の男女老少

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.130

    「世間の男女老少、多く雑談の次デ、あるいは交会淫色等の事を談ず」わけです。老いも若きも猥談ですと。教養アリ、身分アリ、立派な人は礼儀をわきまえてふだんは話さない。でもそれほどの人さえ酒に酔えば猥談。

    おもしろい。仏道を学ぶ人は猥談なんて口にしなかったのに昨今の若い人はときどきすると書いてある。困った様子が伝わってくる。興味深い。むかしから若い僧は猥談をしていたが、お年を召して目につきやすくなったのか、あるいは、何かしらの変化があって、若者の猥談がほんとうに増えたのか。

    前者であれば「世代」や「加齢」の視点の研究だし、後者であれば、「時代」の視点の研究。

    最後の一文がライフハックだなあ。はじめから悪いこととわかっていたらなんだ。「悪い」と判断している点はなぜだかわからないけれど、見てしまえば欲しくなる、知ってしまえば気になる、そういった「欲求の起点」ってあると思う。

    はじめからいないと思ったらどうってこともないんだよ、やっぱり。

  • 情見

    2011.06.20 雨のち曇

    またWolfgang’s Vaultを聴いている。マイルス・デイビス、ビル・エヴァンス、ボブ・マーリィ、ジミークリフ、アレサ・フランクリン、ジャニス・ジョップリンなどのライブ音源を試聴できるサイト。専らジャニス・ジョプリンとビル・エヴァンス、たまにジミ・ヘンドリックスをリピート再生。

    異能が奏でる音や歌声を聴いて思う。ひょっとして神はいるんじゃないって((よくわかっていない)不可知論者です)。

    まぁ、毎日、紫陽花を見ていても神はいるんじゃないって思うわけですが。ええ加減です。精緻なプログラム。自分の頭より大きい紫陽花の茎は大丈夫か心配だ。ぼくの頭は大きい部類に入るのにさらに大きいとは。来年も大人の頭大を開花させるの? 昨年はどうだった? 毎年大きさも色も違う紫陽花ってあるのかしらとか。徒然。

    毎日見ているのに成長を認識してない。昨日まで蕾だったのに今日いきなり開花したようにみてしまう。そんな程度でしかみていない。でも、この感覚をなるべく覚えておきたい。広告が似てるから。広告のどのポイントに目がいき、何を認知して記憶に残るか。いまは検索があるから「しつこく」なくてよいしね。GoogleかYahooへ入力してもらえたらOK。

    終日、C社のサイト制作。実務手順の図にかなり悩みました。どうやって見せるか。図の内容とテキストが一致していないなんてもってほか。図とテキストの一致を前提にして一体感を演出するために四苦八苦。配色やフォント、配置、記号、タームの統一などなど。目線を意識的に移動させてたらダメ。

    たとえば名刺のロゴの色とサイトのロゴの色とスーツの社章の色と封筒の社名の色…..がすべて別々だったら気味悪い。冗談とかと思いきや、まわりを見渡せば結構あります。『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)』 ドナルド・A. ノーマン, D.A. ノーマン のドアのアフォーダンス(P.15)や行為の七段階理論(P.78)などは目から鱗。一体感と統一感と微妙なズレ。ぼくはこの三つの要素を組み合わせてサイトを制作していますよ、と言えたらよいのになあっと。

    正法眼蔵随聞記 十 祖席に禅話を覚り得る故実

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.109

    指導者の言葉にしがたって順々にものごとを考えよと。勝手に解釈するな。指導者が「仏はひきがえる」といったら「自分の知識」を捨てて、ひきがえると仏であると信じるのだとおっしゃられても…..。

    さあコマッタ。ドグマという単語を思いついた。辞書を引く。1. 教義、教条 2. 独断、独善的な意見と広辞苑に書いてある。これもコインの表裏と解釈してしまいそうだ。表は教義、裏は独断。投げ上げてくるくる回るコイン。表裏を見分けられるでしょうか。

    十を読んで、そないむちゃくちゃなと思う自分は底が浅すぎるのでしょう。でもそないむちゃくちゃなとつっこみながら何度も読んだ。

    読んで読んで読み返し、十はレトリックかもしれないとも思う。言いたいことは別の場所にある。すなおじゃない読み方しますよ。

    「然ルに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがふ時は、仏とはとこそ有るべけれ、また我が存ずるやうにたがへば、さは有ルまじなんどと言ツ」てウロウロ迷う。なるほど。

    すなおであれば迷うまい。そうぼくは受け止めた。たしかにそうだ。右に矢印が書いてあり右に曲がり左に書いてあれば左に曲がる。迷わない。

    なるほどゴールがあるから迷うかも。自らゴールを定めてゴールまでの道のりを自分で決める。道のりは最適であると信じている。そこから「迷い」が生じるのかもしれない。そんなふうにも感じる。

    そもそもゴールはない。ゴールは自分で定められない。どこへ連れて行かれるかわからないけれど右へ曲がれ、左へ曲がれと教えられたらそれに従う。矢印の意味を自分なりに解釈してはならんっていうわけかな、わからん。

    だけど、「自分の道」はいつどこで開くのか。右に曲がれと書いてあるのを無視するのじゃない。右に曲がれと書くんだ。書くのはいつだろう。