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  • 歯亡び舌存す

    2009.06.20 曇り

    朝、F社のページ制作リサーチ。use+ableなページを作成したい。とっかかりを見つけるため、収集。案外、ネットの外側にころがっているからカメラやメモを手放せない。

    昼前にジムへ。少し込んでいた。相変わらず彼女は来た。たぶん毎週土曜日来ている。だいたい12時過ぎにやってきてトレッドミル、筋トレ、ストレッチで帰る。パターン化しているのにミステリアス。他者にミステリアスと映った方が生存しやすい。

    昼食は趙さん。焼きそば定食を頂戴する。ほんとうまかった。何を食べてもはずれがない。はずれどころか全部おいしい。うれしい。常連さんで満席。誰かが6月のはじめ休んでいたねと尋ねた。その時食べそびれたので興味津々耳を傾けていたら、中国に帰国していたのこと。なるほど。

    帰宅したら『考えなしの行動?』 ジェーン・フルトン・スーリ, IDEO が到着。やった。必読の書籍。ただ出版社を調べて近所で入荷されるかどうか、どれぐらい出荷されるか不安だったのでAmazonで予約していた。原書は、Thoughtless Acts?: Observations on Intuitive Design

    帰宅後イオンヘ。20日だったのを忘れていた。最低限の買い物だけすませて引き上げる。5%オフの代償に普段より高い商品を購入したら本末転倒。

    夕食はしめ鯖と湯葉。しめ鯖と湯葉をごはんといっしょに海苔と巻いて食べた。なかなかよい感じ。ちょっと野菜が足りなかったか。

    デジタルデータのクラッシュは予測できない。兆候を察知できたとしても、破壊の日時を断定できない。兆候があるだけ吉。突然やってくる。デジタルデータへのアプローチ。設計。データを死守すべきか否か。そしてシステムを迅速に復旧させるには。組織の規模と用途によって選択する設計と手段。最適化。システムが日常に組み込まれた時から発生するバグ。自己組織化。

    夜は久しぶりにTVの前に2時間座った。渡辺謙さんの平塚八兵衛氏を演じたドラマ。歴代の法務大臣がサインしなかった死刑判決。昔なら許されて今なら許されぬ手段。おもしろかった。明日も続きがあるらしい。

  • どこにいる

    琵琶湖

    現実は、おれの気高い性格にとってあまりにもとげとげしいのだが、ーそれでもおれは、青灰色の大鳥となってわが奥方の館にいて、天井の刳り型めがけて飛び立ったり、夕闇のなかで翼を引きずったりしていた。

    『ランボー全詩集』 アルチュール ランボー P.376 イリュミナシオン ボトム

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  • 試食と窃盗

    2009.05.10 晴れ

    午前中、仕事。捗った。明日(05/11)には完成させられそう。おにぎりを作ってGIOSで出発。近江大橋付近で食べた。外で喰べるおにぎりはどうして美味いのか?

    そのあと近江神宮まで行き帰宅。イオンへ。買い物客の中に挙動不審な40-50代の女性がいた。買い物かごには何も入っていない。試食をしていた。その行動に吃驚。

    パン、ピザ、ハム、シュウマイなどをさも買うそぶりをみせて巧妙に試食していた。一ヶ所で立ち止まらずぐるぐるまわりながら何度も試食。

    あの試食と窃盗の違いは何だろう? たぶん晩ご飯を食べに来たと推察。それぐらいの量を明らかにたべていた。ちょっと目を離したスキに女性を見失った。

    次に見つけた時、女性は手ぶらで出口の方角へ歩いていた。

  • 生活保護を打ち切っておいて着服

    これもちまたを賑わしている社保庁の年金横領と同じなんでしょうねぇ。ひねくれた見方をすれば、「あっ、この一件だけデス」なんてとてもとても….. 😳

    生活保護費計3117万円を着服したとして、福岡市は12日、市城南区保健福祉センター保護課に勤務していた石井博行主査(55)を懲戒免職処分にした。11日には詐欺の疑いで福岡県警に告訴している。生活保護費の支給を打ち切らなければならないケースについて事務処理をせず、支給を継続しているように装う手口で着服を繰り返していたという。

    via: 生活保護費3千万円着服 福岡市職員

    にしても、監査体制というかオンラインのシステム制御というか、そのあたりの管理体制に首をかしげます。こうも簡単な手口で着服できるのかと思うと。

    現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書)

    現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護(ちくま新書(659))

  • いかなることばをもってしても

    絶対忘れたくないから備忘。

    交際していた男性とも、このカフェで知り合った。事件の10日ほど前、磯谷さんは名古屋市中区の名古屋城の夏祭りへ2人で行き、夜空のペルセウス座流星群を眺めた。その時、浴衣姿で幸せいっぱいにほほ笑む磯谷さんに男性がシャッターを切った写真は、磯谷さんが撮った生前の最後の写真とみられる。

    事件を知らない男性は25日、食事の待ち合わせ場所で、磯谷さんが現れるのを待ち続けた。携帯電話に連絡したが、応答するはずもなく、23日の電話が最後の会話となった。取材に応じた男性は「『食事が楽しみ』とうれしそうに話していたのに」と大粒の涙を流し、深くうなだれた後は言葉を継ぐことが出来なかった。

    via: [愛知女性殺害]被害者、事件翌日に交際男性と食事の約束

  • メディアが警察に沈黙する不気味な仕組み

    第一報が報じられてから新聞各社のサイトを訪問している。が、あまりの沈黙ぶりに悪寒する。私は、一報にふれたとき、「何かが破裂した」と感じた。まれに襲われる。破綻した感覚。今まで暗黙の上に成り立っていた社会の約束事がやぶられたと感じるときに襲われる。自分の思い過ごしであるのは十分承知している。

    警視庁は21日、立川署地域課の友野秀和巡査長(40)=東京都あきる野市瀬戸岡=が、国分寺市東元町にある知人女性(32)のアパートで、拳銃(けんじゅう)で胸を撃って自殺したと発表した。女性も胸と腹を3発撃たれ、死亡。友野巡査長は勤務中に行方が分からなくなり、発見時も制服姿で、拳銃は友野巡査長に支給されたものだった。女性は立川市内の飲食店勤務とみられる。警視庁は無理心中とみて、動機などを調べている。

    via: 無理心中か 警視庁巡査長が知人女性を射殺後、拳銃自殺

    しかし、だと思う。

    日本は銃規制された社会(もちろん闇では大量に流通している)であり、一般市民は入手しづらい。賛否の議論はあるだろうけど、自衛の武器を放棄している。そのなかで、唯一、公権力から承認されて武器を所有するのが警察官のはずだ。その警察官が武器を行使した。殺人として。公務でもなんでもない。単に己の欲望のために、公務中に国民を守る武器を行使して市民を殺した。今、流れている報道では、弾は床にめりこんでいたという。相手の女性を寝かせ、上から胸と腹を撃ち、その弾が貫通したことを意味する。

    無理心中か?と推測し、自殺したからとりたてる必要がないとの判断か。いまだに肩書きで記されている。他の殺人であれば容疑者呼ばわりにもかかわらず。だとしたら、焦点はそこではないと私は思う。人を殺せる武器を所有した権力が平然と人を殺した。それを論じるメディアは本邦にいない。

    事件が発生したとき、メディアは警察と検察から情報を取得する(参照: 官僚とメディア)。だから、その両者に対して「貸し」をつくっておくというスタンスはひとつの戦術かもしれない。あるいは、両者を刺激して今後の報道に支障がきたすとまずいからという配慮か。

    が、そのいずれも、己の保身でしかない。この事件を堂々と追求して、権力が武器を所有する意味を問わずして報道の責務を果たしているといえるのか。翌日の社説はどこもとりあげていない。

    その沈黙に背筋が凍る。

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  • 打落水狗

    正直震え上がる。叩くだけ叩け、「何が問題なのかなんて議論するのはオレたちの仕事じゃねぇ」と言わんばかりに叩く。その結果、グッドウィルは全介護事業を売却するよう検討しはじめた。で、引受先はワタミで、その引き受け内容に開いた口がふさがらなかった。

    すでに売却交渉は本格化。ワタミには先週末、複数の証券会社からコムスンの有料老人ホーム受け入れの打診があり「すべて引き受けたい」(渡辺美樹社長)。在宅介護など老人ホーム以外は「大手がやるべきではない」と否定的だ。

    「老人ホーム以外は大手がやるべきだ」とコメントしているが、裏を返せば、「おしいところだけオレによこせ」と翻訳される。介護事業は、国が「儲かる(かもしれない)ぞぉ」と声をあげ、民間を我先へと参入させた。

    しかし、蓋を開けてみると、意外や意外でそれほどではなかったとわかってきた。特に、訪問看護は、「犬の散歩に連れってほしい」とか「しゃべり相手になってほしい」といったサービス外のニーズが多く、そこに時間を割くと労働集約型産業は利益がふっとぶ。

    軽くネットで調べた程度で恐縮ですが、コムスンもたしか訪問介護事業の赤字を老人ホーム(施設事業)の黒字で賄っているかと。

    加えて24時間サービスは引き受けを検討している企業は辞退する方向だろうし、企業によっては、「地方は勘弁」と心中穏やかでない。

    いつも拝読して知見を与えていただき感謝している極東ブログさんのコムスン不正問題メモに以下のメモがある。

    逆にコムスンはなぜ全国展開を志向していたのかという疑問が沸いてくるし、ちょっと考えると、不正をすればなんと かなると思っていたということなのだろうか。そうかもしれない。そのあたりがわからない。あるいは、ある程度の不正は不利益地域展開とのバーターだったん じゃないだろうか。そして、厚労省もそのあたりは阿吽で認めていたんじゃないだろうか。

    賛否あるけど、私はこの手の阿吽をハンドリングする力が求められていると思う。あいまいさも時に必要だろうし、今解決できないことは未来の叡智にまかせようぐらいの事なかれ主義もほどよく「折り合い」をつける意味で必要かと。その”ほどよく”がどうも機能していないのでは。その能力が低下したのか、「白」か「黒」かでやりにくくなったのか。

    さらにややこしい事態を招いているのは「頭のいい人たち」だと思う。「利益主義」と口にすれば国民から喝采を浴びるとねらい、水に落ちた犬を叩く、おぼれかけた人を叩く。

    「利益」と「制度」の問題を峻別して論じる「頭」をもっていないが、「頭がいい」から手に負えない。

    民間が参入するかぎり、継続の源泉は「利益」だと私は思う(不正請求はその限りでない)。が、他方、ブロゴスフィアを徘徊していると介護事業に制度の不備が多く潜んでいると愚考する。利益を計上するのが「悪」ではなく、不正請求して利益を計上した原因は何なのか?

    詐欺に近い行為を働いてまで利益を追求した裏側にある企業の「行動」と、現実の「現場」をクールに仕訳したとき、現場と制度の乖離があるのではないか。その乖離を「伝える」のがあなたたちの仕事ではないだろうか(“わかりやすく伝えろ”とまで贅沢言いません)。

    ニュース関連: Google検索

  • [Review]: トラフィック

    トラフィック

    「もっとも印象に残るラストシーンをひとつあげなさい」と問われたら、指折り数えるなかでこの映画がまっさきに折られるだろう。場所はTijuana、夜の公園に照明がともされ、子供たちが野球をしている。ごくごく平凡なラストシーン。でも、2時間以上にわたって観てきた私は、このささやかな情景が特別な未来をもたらす可能性を秘めていることに気づかされる。

    アメリカを揺るがし続けて久しい麻薬犯罪コネクション。そのルートのもとであるメキシコで、組織に翻弄(ほんろう)されながら職務をまっとうしようとする捜査官(ベネチオ・デル・トロ)、アメリカで麻薬ぼく滅に乗り出す国家の責任者(マイケル・ダグラス)と麻薬におぼれるその娘、また夫を救うために麻薬ルートに手を染めざるをえなくなっていく妊娠中の専業主婦(キャサリン=ゼタ・ジョーンズ)などなど、多彩なドラマを同時並行させながら、麻薬戦争の全貌を追うスティーブン・ソダーバーグ監督の問題作。

    『トラフィック』 スティーブン・ソダーバーグ

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  • 親殺害急増の記事に首をかしげる

    asahi.com: 少年の親殺害が急増 家族消去したい衝動か

    未成年者による親の殺害や未遂事件はこの1、2年、急に目立つようになってきた。警察庁のまとめでは、刑事処分対象になる14歳以上の子どもによる実父母の殺害(未遂など含む)は97〜04年までは年3〜9件で1けただったが、05年に17件に急増。06年分は集計中だが、2年連続で2けたに上りそうだ。親への単純な憎しみをもとにしたものより、自分の居場所を取り戻そうと家族や家庭を消し去ろうとする衝動が目立つとの指摘もある。

    時事問題はこっちでとりあげるつもりだったけどリテラシーにからみそうなので。記事を一読して閉口した。97年〜って、恣意的にもほどがある。いまどき、数分ググれば親子間における殺人事件の犯人に対する処分の実情とか昭和48年警察白書親殺し統計がヒットする。前2つは世代問わずの件数、後者は未成年。数値の正誤を検証していない(それを検証するのが本業だろうし)。

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  • 街場のアメリカ論

    街場のアメリカ論街場の現代思想に続き、筆者は同じく内田樹先生。本書の起稿から脱稿までの心中をウェブサイトの日記で書き記されているので、そちらと併読すると舞台の裏側を垣間見るようで面白い。先生はアメリカ論を書くにあたって、「どうして日本はこんな国になってしまったのか?」という問いをたてられた。

    そして、その問いを系譜学的にたどったとき、先生曰く、「(すごく乱暴な)日米関係論の起点的仮説」に至った。それは、日本が1850年代に「国民的な欲望の対象」を中国からアメリカへ無意識的にシフトしたことである。日本にとっての「他者」をそれまでの中国からアメリカに切り替えたことを、当の日本人も気づいていなかったというわけである。

    私は本書の中でアメリカの政治、アメリカの文化、アメリカの社会構造を辛辣に批判するけれども、それは「こんなことを言ってもアメリカ人は歯牙にもかけないだろう」という「弱者ゆえの気楽さ」がどこかにあることで成立する種類の辛辣さである(中国や韓国の政治や社会を論じる場合なら、私はもっと慎重になるはずである)。その種の「気楽さ」は私だけでなく、日本人の語るアメリカ論のすべてに伏流している。『街場のアメリカ論』 P.26

    機知に富んだ文体で綴られた内田先生のアメリカ論は、ファースト・フードから映画論、コミック、果ては肥満にまで及び、千里眼を持っているかのようである。以下、愚生の私見を厚顔無恥に晒してみる。

    アメリカは建国以来変わらない国であり、暴論を吐けば、誕生した瞬間から成熟した国家(国民ではない)でなかろうか。その理由は、アメリカの建国過程で産み落とされた風土的奇習から考察してみたからだ。

    風土的奇習とは、アメリカの「統治システム」と「宗教的背景」である。

    アメリカの建国の父たちは、「アメリカが今よりよい国なる」ための制度を整備することより、「アメリカが今より悪い国にならない」ための制度を整備することに腐心したからです。だって、アメリカは理想の国をすでに達成した状態からスタートしたんですから。それ以後、その理想国家をどう「よく改善するか」ということは問題になりません(まだ改善する余地があるということになると、アメリカは理想国家ではなかったということになりますから)。同P.115

    アメリカの統治システムは、「人間はしばしば誤った選択をするから、それがもたらす災禍を最小化する政治システム」だと定義している。このシステムについて矮小化すると、ここ数ヶ月の間で頻発した東証システムの問題や耐震強度偽装問題からも類推できる。ただし、類推できるからといって、日本もこのシステムを構築すべきだというのは短見だと思う。

    またもう一方の「宗教的背景」についても日本との相違がある。

    アメリカにおいて、キリスト教による束縛はたいへんに強いものです。例えば、ブッシュ政権のチェイニー副大統領はユダヤ人です。仮にジョージ・ブッシュが急死した場合、副大統領が大統領の代行を務めるわけですが、そのとき、チィイニーは『聖書』に手を置くことができるのかという問題があります。ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』であって、『新約聖書』をユダヤ人は聖典として認めていません。(中略)これは建国に際して政治的なプロトコルを定めたときに、アメリカにはキリスト教徒しかいなかったから、キリスト教徒以外の宗教信徒を市民として遇する「伝統的に正しい方法」が存在しないということを示しています。同P.205

    この引用について、わたくしは内田先生と少し異なる知見をもっている。アメリカには、「表出しない国教」があり、カトリックもプロテスタントもユダヤ教も包括されていると思う。この国教を前にしてアメリカ市民は、「イエス・キリスト」に”何か”を誓うのではなく、国家が内包化した「神」に誓っている。

    なぜ「個人の信仰」と「国家の信仰」がねじれるように”両立”せざるを得ないかは、わたしにはわからない(ごめんなさい)。勝手に妄想するなら、自然的に発生した国家ではなく、文字どおり「建国」されたそのプロセスと密接しているのではないか。

    だからチェイニー副大統領は目の前に『聖書』があったとしても、それが『旧約聖書』でも『新約聖書』であろうとも厭わず(個人的には認めなくても)、いわば『アメリカの国教の聖書』として手を置くのではないだろうかと想像している。

    厭わず手を置ける行為こそが、大統領就任式における「多民族であっても分裂することなくアメリカは一つである」という意志表示だからだ(まぁ、建前論ですが)。

    そして、(たとえ建前論であっても)統合に執着するアメリカの背景には、多民族国家ゆえに「共通の過去」を持っていない寂寥感があるまいか。過去がないゆえに、「共通の未来」を渇望するのではないか、と激しく本論から逸脱しつつも愚考する。

    もう書評やら愚見やらさっぱり自分でもわからなくなってきたが、強引に元にもどす(ほんと、ここまで読んでもらっている方がいたらごめんさない)。

    アメリカの「統治システム」と「宗教的背景」という風土的奇習とアメリカ文化について、先生はアレクシス・トクヴィルの言説を援用し、ご自身の専門知識をさりげなく披露しながら痛烈に批評していくわけである。

    内田樹先生のアメリカ論を読了して愚生は、アメリカは建国以来変わっていないとあらためて仮定するなら、日本がアメリカを欲望するとき、風土的奇習を冷徹に凝視し、「日本らしさ」を省察しないと、舎利の上にハンバーガーのパンをのっけた奇妙な寿司にならない(今はそんな寿司もまわっているけど)だろうかと、愚考を重ねる。

    追伸
    個人的には、『あとがき』の名文に驚嘆した。先生が本書の読者に想定しているのは誰か?を一読したとき、推理小説の犯人を知るときのドキドキ感に似た感覚に襲われてしまった(笑)