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  • さえずりからくどくど書くへ

    2013.06.11 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=7PJk-u3pSYY]

    Brian Hyland – Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka Dot Bikini でスタート。ラジオで耳にしてひさしぶりぃー。20代のヘビロテはこのへん。あとロカビリーとか。10代で80年代の洋楽に傾倒してそのまま遡っちゃったわけです。ぐんぐんと。

    今年に入って Twitter の投稿回数が微増した。変化を認識。ブログの更新頻度が低下。数年前のピーク時からは減りつつあったとしてもさらに減った。理由ははっきりしない。体感はある。

    さえずりで満足してるっぽい。この日記と違って Twitter では屁理屈をこねてるわけじゃない。頭に浮かんだ言葉を出力するか、滋賀県のトピックスをリンクするか、ここの過去の記録を編集している程度。「出力」したって行為に安住している。

    ひとつだけ継続しているさえずりといえば、琵琶湖の水位。毎朝チェックしてさえずる。これはもうへんな習慣みたいになった。気づいたら続けていて、案外おもしろい。

    あかんあかん。薄々そう感じている。自分の気持ちを自分で繕ってやりすごす。まさに昨日書いた「人は最初に自分に嘘をつく」日々。誰かがさえずる切れ味鋭い140文字を目にしたら、どれだけくどくど書いても140文字でぴしゃっと言い表せなければ、駄文にすらならないなぁ、と自嘲して時に自慰したり。

    Twitterとここでシニシズムにふるまうつもりはない。熱情と冷静を両極に置いて斟酌したい。営みを眺めたい。ユニークな視座に立つ140文字を自分はさえずれない。その点を素直に認めて、自分の日々をもう一度くどくど書きたくなった。

    ここへアクセスしてくださっているユーザはほぼ検索エンジンを経由して、読みたい情報だけ拾い読みしてまた別の場所へ移動している。一期一会と言いたいところ、そんな高尚な事柄でもなくすっと行き違うぐらいで受けとめている。

    なので、「書かなければならない」わけなく、自分のペースで書けばよいし、いつでもやめたらと思うけど、またちょっと違う気持ちも芽生えている。

    PVを稼がなければならないブログではないし、行き違っていく方に「はじめまして」の挨拶ぐらいで軽く流してもらって、これだけくどくど書く人もいるんですよ、と視認してもらえたらうれしい。

    琵琶湖

    自分に合うプラットフォームで自由に往来して、時々、ちょっと落ち着かないアウェーで微少の衒いを引き連れて散歩するぐらいが心身に合っていそう。半年近くさえずりのボリュームを変更してわかったこと。だからネットで活躍していらっしゃるライタの方々を仰ぐ。さえずるわ、メルマガ書くわ、あっちでも書いてるわ、って本業とはいえ、膨大なアウトプットなわけで。

    好き放題書き散らかしているのにそれなりに時間はかかるから、どこか削ろう。制約。自分の営みと時間の組み合わせを再考する。枠組を設定して削り、組み替えると身体が違和感を覚える。その違和感が次へ進む方角を示してくれているようで心地よい。

    違和感を抱えて気持ちを整理整頓する。通り過ぎていく人、立ち止まる人、自分が誰かの場所を通り抜けるたり、滞在したいコトがわかってくる。

    折に触れて制約と拡張の棚卸し、衣替えは必要だね。

  • 中庸から両極へ

    中庸から両極へ

    2013.04.30 雨のち曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=fIf9sKuny38]

    奇妙礼太郎 – 君が誰かの彼女になりくさっても でスタート。CDで聴いてもぐっとくるのに、ライヴで聴いたもんだから、もう壊れた、完璧に壊れた、いくつになっても僕には忘れられない感情であり、若い時とは異なる好きがあり、好きはいくつにも変種して、多様化していき、オトナなスキもあったり、日々の営みわずかに足りないぐらいの満たされたように走り出す。

    早朝から強い雨。穀雨、実りをもたらす雨と思えば、と思っても、やっぱりこの雨のなか歩くのはいやだし、こんな朝早い時間から駅とは反対の方向へ歩いて行く人たちの目的地はあそこであったら、他人の営みの一瞬を切り取って想像してみる。

    第十八候、牡丹華。冬が去り、光と影、夕暮れのグラデーションを眺めているとのびやかだ。葉の色が変わっていく様を認識できないのに、稜線の質感がなんとなく力強く見え、色彩が豊かに見えるのも正常に錯覚しているからと自覚する。

    先日、代々木公園で撮影した花の写真をアップした。名前を尋ねられた。わからなくて恥ずかしかった。知識を持ち、堅牢な思想を持ち合わせたい願望から花をさらりと答えられる行動様式へ気持ちは移ろう。洗練、が僕に問いかける。そう感じるようになった。

    少し前までそんな自分はいなかった。いま心の中で立ち現れている。

    五感がインストールする花や雲や月、光と影、色の固有名詞を知らなくても生活できる。銀行の手続き、電車の乗り方、人との会話の仕方、それらを知らなければ生活に支障をきたすだろう(困らない人もたくさんいる)。生活に支障をきたす知識を軽んずるのではない。生活の質感を自ら書き換えようとしたらブッキッシュはそれほどいらない。

    ブッキッシュの知識を使いこなす知性を備えられない言い訳かな。たぶん、そう。言い訳。

    ソメイヨシノ
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    「誰が言ったか」より「何を言ったか」のテンプレートも吟味しなおしている。自分の行動規準だけど、これを他者に押しつけないし、近ごろは、「誰」にも目を向ける。万が一、運よく僕が人格と意見を切り離すことが、’そのとき’にできたとしても、それを相手が望んでいなければ、あなたとわたしの空間はゆがんだままだ。

    (不特定多数の)あなたは人格と意見を切り離すよう期待していないだろうし、僕も切り離されたらへんな気持ちだ、やっぱり。意見が批評されたとき、その場で感情をオフして意見を述べ続けらとしても、あとから自分のなかのオフされた感情と向き合い処理するのは自分だ。

    人格と意見が切り離された空間の居心地の良さや拡張性の高さを体験したとき、錯覚する。意見を切り取って語彙を駆使して思考を純粋(そんなことがあるか知らないけど便宜上)に交わらせる行為と錯覚する。その行為が崇高であり、何かにつながっていきそうな高揚感を知覚する。その知覚がもたらす錯覚は「生身」をいつしか忘れる。生身を忘れたとき、両極にあるどちらかの片側に経っている。そして中庸をめざす。

    いまの僕は中庸への関心が薄くなった。いらない。両極に立ちたい。心身は私ひとつだけど、「コト」の両極へ立つ視座をつかみたい。

    人格と意見が切り離させる視座とゆさぶられる感情と素直に営んでいる視座、の共存と対立。自己のなかで時に共存し、時に対立する。共存と対立を超越しない。ずっとずっと共存と対立させたままから眺望する風景。どんな風景が見えるだろう、破綻しても、それを見てみたい。

  • 語彙を食べて知識をダイエットする

    2013.04.14 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Nv-HdZmmIsE]

    ザ・コレクターズ – 世界を止めて でスタート。関西のライブでこれを聴けるとやっぱり嬉しい。ヘビーローテーションの時代へ一気にトリップして過去とまぐあい、現在の分岐点、「もしも」はどこにあるのかややアンニュイで、箱のなかでビールをぐびぐび。

    それなりに「スペース」はできちゃったけど、自分的にはほどほどスペースあるほうがカラダゆらゆらできるから楽しい。今回のライブもよかったー。

    金曜日に資料が届いたので入力に追われる週末。入力違いに周囲を払って集中する。常時接続人間から常時非接続人間へ、とさえずった。

    さらに………. 常時非接続のなかにいたら、顔から太陽よりも熱そうなものがでるぐらい恥ずかしい言葉が生成されて、それらを捨てたらあかんし、丁寧に育て、心の 抽斗へしまい込み、気持ちの衣替えとあわせて時々ドキドキしながら贈り届けたいんやなって感じたミナミのライブ 、とさえずる。

    言葉が生成される。ただしまだ自分だけが理解している状態。もしくは言葉はばらばらになっていて、頭のなかのイメージに合わせられるような言葉をばらばらのなかから拾い集めている状態。誰かに届けられる形になっていない。

    あることを説明するとき、語彙を駆使して相手に理解してもらえるよう努める。語彙を組み立てても説明できないときがある。

    組み立て方を変えるが相手も私も頷けない。語彙の組み立て方が間違っている。語彙が足りない。新しい朝、ならぬ、新しい「語彙」を獲得して新しい「組み立て」を発見しなければならないと思う。

    コレを書いているコトがそう。意味不明なままキーボードを叩いている。浮かんだ単語をつなぎ合わせているだけ。頭のなかにある映像や残像、画像、単語などが、どんな過程を経てひとつの意志、意見に形成されていくか、を説明できない。

    大阪城

    ワカラナイを伝達する難しさは、このへんにあるんじゃないかな? 誰かと話しているとき、プログラムのエラーと同じように伝達してくれたらありがたい。あっ、わかってもらえなかった、ってはっきりする。目の前の人がいかなる理路を辿って会話を理解しているかなんてわかるわけがない。

    ワカラナイを伝達してほしくても、何がワカラナイかワカラナイ、ではなく「私がワカッテイル点を他者はワカッテイナイと認識している」事象もある、と推量する。

    私が理解している点を、他者は「あなたは理解していない」と認識している。そういうとき、「ほんとう」に理解していない、みたいなコメントが付与される。この「ほんとう」がホントやっかいだ。

    他者に対して私と同じ理路を辿って理解してほしいって期待はない。まったくない。どうにかこうにかして他者が持つ自身の理路を辿って、私が希望する着地点、待ち合わせ場所の「近く」まで到達してくれないかなって淡い気持ちを抱いている。限りなく淡い気持ち。

    自分の知識を増量させたい動機で語彙を獲得するより、他者の理路を知りたい動機で語彙を獲得するほうが、語彙の拡張性が高い、みたいな印象があり、使い回しがきくと思う。

  • 基本はふたつの性質を備えている

    2013.02.18 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=xzrC72Xv6pE]

    今朝は、Regina Spektor – Us でスタート。(500)日のサマーのサントラで聴いて知った。シンガーソングライター兼ピアニスト。映画とともにすっかりお気に入りで、ちなみに映画のヒロイン、Zooey Deschanel の姉は Emily Deschanel で、大好きなドラマ BONES の主人公。

    二十四節気、雨水。太陽の黄経は330度。第四候、土脉潤起。春を待つ雨。寒さと相まって、肌がキリキリ。もう三寒四温かしら。そもいつを指す言葉か。ブルブルふるわせてホームで列車を待つ。

    目の前の比叡山は幽雅な霧をまとっている。絵心があればなぁとも、望遠でカリっと撮影できる腕があればやら思いつつ、なんとか記憶に残そうと必死、忘れるでしょう、嘆息。

    仕事している姿をフォトグラファの方に撮影してもらう機会があり、そのとき300mmの単焦点をD4に装着して構えさせてもらった。撮影してよいよって言われたのでお言葉に甘えてレリーズしたら、すべてが異次元の世界だった。

    300mmの単焦点の手持ちなんて、僕の腕だと確実に手ぶれする。なのに数枚は手ぶれ補正が効いてピントがあっていた。AFの速度。構えた瞬間に合焦していた。まさに構えた瞬間。自分のカメラと比べるとしたら(否、比べられるシロモノではないですが)、自転車とF1ぐらい違う。徒歩とF1か。

    次に手ぶれ補正が効かないMFだけのレンズで撮影させてもらった。すべてのカットのピントがあわない。はずかしい。まったく合わない、合わない。合っても手ぶれする。要するに、もっとも基本的な動作を習得していない。いままで道具の性能に甘えていたわけだ。

    同一の構造が他のコトにおいて僕に当てはめられる。

    基本や型がある。一連の動作や行動は一般化された手順を持つ。慣習から生成された手順や外国から輸入されたプロトコルなど、言葉や図に記録される。なかには口伝もあるかもしれない。基本や型を知らずに我流で押し通せられるとしたら、それは一握りの異才だけだろう。異才を除けば、守・破・離の行程をたどって我が生育されていく。

    基本や型があっての話だ。かつ、それがどこにあり、いかなる系を構成しているかを外部へ明示できてこそだと思う。どこからどこまでを学べば、「基本」であるかを認識できなければ、基本の「迷宮」から出られなくなる。

    悩ましい。基本は二つの性質を備えている。業界や業種の中で成立する技術の基本。もうひとつは立ち居振る舞いの中で成立する基本。前者は学校や現場で学べるが、後者はどこで学べるか。後者に「範囲」はあるだろうか?

    後者の基本を教えている「基本」が我流であってもおかしくない。

    琵琶湖 Lake Biwa

    12:00前に出発して大阪へ。F先生のミーティングに参加。ミーティングの形式が変わった。形式の変更は全体に影響を与える。影響を受容して変化していく過程を観察しなければならない。

    15:00に終了。

    こうやって文章を書いていて、ますます陳腐になってきたって実感する。昔の記録を読み返すと、はるかにしっかりしたテキストを書いている。

    ひとつは読書の量と質が低下したからだと分析している。読書をしなければ自ら考えて書けないわけじゃない。昔のテキストは、読書している最中に触発された意見を書いているはずで、誰かからのアイデアを剽窃している。無から有を創造できない。完璧な独自のテキストはない(と思う)。そう思っているからアイデアを剽窃して自ら加工したテキストを否定しない。

    自慰するとしたら、読書の質と量が低下したいまのほうが悩み悶える機会がふえた。そして、言葉の語彙の質感と量の限界が、自ら考える限度の境界線であると認識できつつあり、その状況を打破したいから、「言葉」を学びたい気持ちが強くなってきた。その基本が辞書と文法のような感触がある。

    新しい単語を知り、文法を勉強する。一方で、いまなにげなく使っている単語と単語と語句は最適なのでしょうか? な不安がどんどん押し寄せる。

    自分の語感と語彙をなんとかしたい。あまりにも貧しすぎる。

  • 潮時

    2012.11.21 曇

    K10D

    2006年11月29日の夕方、K10Dを予約していたお店から電話があった。発売日の1日前。「全世界から予想を大幅に上回る注文」があったK10Dは当初の発売日を延期していた。手に入るかどうか。焦りが募り不安の日々。フライングの電話なのにすぐに取りに行きますと行って、家を出た。

    はじめて一眼レフを手にしたときのあの瞬間をいまでも覚えている。K10Dのボディを360度から眺め、持ち手を右に左に変え、持ち方に迷い、ファインダをのぞく。小さな窓から見える映像。興奮と未知。

    あれから6年、K10Dとレンズ一式を売却する準備をはじめた。いまはネットですべて手続きできる。今週末にはお店の人が査定して、いつか誰かの手元に行ってくれたらといまから願う。

    私の力が及ばないと認めなければならないときがある。苦しい体験。できるだけ広く深いと感じられる眺望点から私の努力と能力を眺める。努力していなかったこと、能力がまったく足りなかったこと、比較されること。それらは自身を守ろうとすれば、私を査定される恐怖が身体を蝕む。

    だから潮時の判断をためらう。

    阪神高速道路

    一方で、自分を放棄したらどうなるだろう? 努力してようがしまいが、能力があろうかなかろうか、そのままいまのままいつもの場所へいつもの時間に訪れる。比較の恐怖を捨て、自己評価を停止し、他者評価を吟味しない。

    ひょっとすると幸福かもしれない。わからない。

    何があろうが対象から拒絶されるまで、存在を記号化させて対価をもらいつづける。でも、精神と感情がその行為を阻むかなと想像する。プライドとは、その精神と感情に向き合い続ける我と彼の狭間に隠れているのかもしれない。そして、あるとき何かの契機がプライドを呼び覚ます。

    プライドは潮時の判断へ関与する。

    さらにお金である。生活と切っても切れない物質が私の判断を支配する。

    13:30に烏丸五条でKさんと待ち合わせ。紹介していただいた医院へ営業に伺う。16:00前に終了。久しぶりに「京都らしさ」と「医院」を体験した。会計事務所にお世話になっていたときよく体験した。お金をスマートにクレバに受け取られるようになったとき、あるいは渡せるようになったとき、成熟の過程に足を踏み入れられたのではないか。まだ踏み入れていないからこれもまた空想の言語遊戯。

    16:00から17:00までKさんへ近況報告。前回紹介してくださったお客さんを相談する。先方は発注してくださっているが、私は正式に承っていない。そんなあいまいな関係のなかで忘年会にお誘いいだき恐縮している。が、そういう場を観察するのも判断材料のひとつだ。

    17:30から滋賀県のホテルへ移動。Kさんといっしょにセミナーを受講した。中小企業の経営者や関係者が120名ほど集まり、講師の経営者から「王道の話」を伺い感動した。衒いや奇策はない。すぐに劇的な効果を探したくてもそんなものはない。淡々と「王道」の話を経営者は話し続けた。企業の継続は「王道しかない」と強く実感した。聴講後、短い時間であったがグループに分かれて議論した。

    僕の頭は固まっている。凝り固まっている。意固地になっている感すら認識している。そんな僕の頭を壊してもらえるよい機会だった。やっぱり現場は壮絶だ。経営者は強くてしなやかでたくましい。ひとりのつらさをしっかり抱きしめ噛みしめ守らなければならない社員と歩いている。

  • そのうち「声」そのものを創造しそうだ

    2012.09.06 薄曇りのち雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=-eSN8Cwit_s]

    今朝は Marky Mark And The Funky Bunch – Good Vibrations でスタート。ファンクが好きだからファンク系?!のラップ もお気に入り。これはファンク系っていったら怒られるかなぁ。まぁ、あんまり知ったかするとしっぽを踏んでしまうから自重。

    FM802でHIRO Tさんが、「僕はライブがきちんとできる人でないと評価しない」みたいな主旨をおっしゃっていた。ながらで聞いているから正確に覚えていない。真意はわからない。言葉の上っ面だけつかまえて「うん、そやね」って賛成した。

    HIRO Tさんのもとには膨大な量のデモテープが届くだろうから、なかにはテープのパフォーマンスがよいのにライブはダメ、って人もいるかもしれない。

    身近な体験でいえば、CDやラジオで聴いた曲を口パクなしで聴いたときに椅子からころげおちそうになったことあるし、弟がスマッシュヒットしたラッパーの生演奏を聴いて、もう聴かないってあきれかえっていたのを耳にしたり。

    いろんな事情や背景があるんだろうね。PCの画面上で「音」をcreativeできる。PCでcreativeしたほうが「ほんとう」の音になり、本人が歌ったり生で演奏した音は、「音源」になり、creativeする側からしたら「源」はなるべく没個性なほうが手を入れやすい。

    写真も似たようなことがおきる。デジタルカメラになって「現像」がなくなったと思いきやそうではない。RAWという形式で撮影して、専用ソフトを使って、自分の思うような画像へ「現像」する。だから、「現像」のもととなる写真はなるべく平凡がよい。白飛びさせず、色を写し取ってくれたらあとはソフト側で編集する。

    なにが「ほんとう」かわからない。

    そんな時勢は、ほんとうをゆらぎさせる。一方で「ほんとう」だと錯覚させてくれたとき、どんどんのめり込んでいける。ライブがおもしろいのは、「ほんとう」だと錯覚させてくれるからだ。CDの音から引き算された「音」があって、同じ曲でもライブで聴くとイメージがまったく異なる曲がある。CDにははいっていない「音」を削ったらとってもステキな曲になっておどろく。反対もある。お気に入りのCDの曲をライブで聴いて、アレ?って感じとか。

    CDの音とライブの音は両方とも「ほんとう」だと僕は思うけど、ひとつのバンドに対して二つの「ほんとう」があったら気持ち悪いので、どっちかが「ほんとう」であると思い込みたい。となると、やっぱり「リアル」でみたモノとコトがほんとうと認識する。

    そうなったら、今度はCDでライブの曲を聴くとどうも違う。盛り上がるか否かじゃなくて、音の質感そのものが違って聞こえてしまう。

    琵琶湖が私を見てる

    フリーランスになって9年経ち、ようやく無謀な立脚点に立てるようになったせいか、組織の常識に遭遇したとき承認と懐疑の両方を吟味できるようになってきた。あいかわらず良い悪いで論じる気はまったくないけれど、組織の中にいる人たちから話を伺ったとき、「組織の中で躍動する意見」だって感じる。

    組織の中には呪縛や制約や関係があり、それらが認識に影響を与えている。それらの要素を前提にしないで、前提を破壊してしたらどうなるだろうって、遠回しに尋ねても、同じ前提にもどってくる。ぼくも「遠回し」にするってことは、目の前にいる人たちとの「関係」に影響を受けている。そんなことを気にしなければ、遠回しに尋ねなくても率直に「それ、通用しないと思います」って述べられるはず。

    CDの音とライブの音は両方とも「ほんとう」だと思うって書いておきながら、CDが売れないのは違法DLだけじゃないって書いたら支離滅裂なんだって承知して、CDのお話しは尻尾を踏むから踏み込みたくなく、なんでCDが売れないを取り上げたかというと、組織の中の人たちの意見が、「CDが売れなくなったのは違法DLのせいだ」や「本を読まない人が増えたから本は売れない」と似た構造だなぁって感じる。

    ひょっとして組織の中が幻想で組織の外が現実かもしれないって、眺望点があるよね。

  • 身体が届かなくても頭は届くから憤慨が充満する

    2012.08.08 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Vro-q83poJI]

    今朝は BARBEE BOYS – なんだったんだ?7DAYS でスタート。はじめて聴いたのは中学? 高校? とにかくたまたま深夜のテレビで流れていたPVを視て、ソッコーでレコードからテープにダビングして聴きまくりました。男性ボーカルの声がとにかくビンビンきてね。

    涼しい朝。立秋だからってきっちりあわせなくても。早朝の涼しさは幻、昼間はうだるような暑さが続くが、湿度は低いかも。湿気が皮膚にまとわりつくような感覚はない。

    TwitterのトレンドやRSSから流れる情報へアクセスしたとき、身の回りで起きた小さな出来事に全力で向かっていく人がいる。全力で向かっていく原動力は怒り? 苛立ち? 僕には小さな出来事だけど、そうでない人はいる。加えて身の回りの「範囲」が変わってきた。数百キロ離れて起きたコトが「身の回り」であり憤怒を露わにして対象へ向かっていく。

    これはネットのなかだけの現象か、そこかしこで起きているか、わからない。ネットのおかげでニュースを見聞するタイムラグは短くなったし、ニュースを伝える距離は伸びた。範囲が広がった。外国語を読めれば海外の事情を察知できる。身体が届かない場所でも頭は届いているから、起きたコトを頭のなかで身体運動に変換して言葉で処理できる。入出力が言葉だから、起きたコトの「よくわからない」を捨象して、「スッキリしている」部分を取り出して処理して呪詛にのせて出力する。

    適度な距離感は難しい。二人の間ですら試行錯誤の暗中模索で疑心暗鬼の以心伝心なのに、複数なおいわんや、社会に拡張すればカーネルパニックである。“かくれた次元” エドワード・ホール に掲載された人間同士の距離感を表現した写真は興味深いし、言説は建物と人との距離感、文化に及ぶ。

    スポーツの報道は湿度の高い日を思い出させる。いっそのことなら服のままでも水をかぶったほうが気持ちよいと思えるほど、水分をたっぷり含んだ空気が皮膚にまとわりつく、あの感覚をスポーツの報道から感じ取ってしまう。質問はスポーツそのもののではなく、テクニックでもなく、対戦相手でもなく、人や集団への「思い」へ誘導する。その様が少しだけこわい。

    顔を合わせないけどSNSやチャット、メールがレギュラーな関係は物理的に離れているのに別の距離感が関係の中で営まれている。これを距離感と定めてよいかといわれたら、うーんと返答に困る。相手の「顔」を視認しないし、「身体」の手ざわりはない。かりにチャットで表情を伺えても香りは漂ってこない。こういう関係が維持できるコンテンツはなんだろうか?

  • あとから発見がない

    2012.07.23 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=N6-0aquSvXk]

    今朝は Maia Hirasawa Boom! でスタート。人と交わらずひとりで過ごすのを楽しみつつ、ときに恐怖がおそいかかり、得体の知れない心象に怯え、精神は犯され、また気分は高揚する我は世界をBoom! してしまえ。

    フレームワークが決まったM先生のサイトをバリバリ作成。ページを制作してはMac, Windows, iPad, iPod Touch(スマートフォン代替)でチェック。表示を微修正。画像を補正。それを終日くり返す。

    夏バテかな。食欲が右肩下がり。“続・体脂肪計タニタの社員食堂” タニタ のようなごはんを食べても夜半に目が覚める。ランチはお茶碗一杯とおかず一品とレタス少々で満腹。朝・昼・夜のごはんを食べたら消化するためにエネルギーがけっこう消費されているっぽい。胃が奮闘している感覚が身体に残り続ける。昼食をぬこうか。

    お腹がすく感覚が少なくなった。悪い兆候。秋冬、お腹がすいてごはんを食べる、目が覚めたらすでにお腹がすいている、そんな感覚が僕にとっての正常なリズム。

    週末、たまにコーヒーを断つ。午後、頭が痛い。夕方、ぼぉっとして何をするのもままならず。作業に集中できない。コーヒー断ちを味わっているんだからガマン。それにしてもひどい中毒だ。中毒? 依存症? 医学的には同じなのかな?

    エラーが発生したとき、それに関与した組織や人の胆力と知性はリカバリーから推し量れる。リカバリーの過程の言動を気をつけて見る。いままでもエラーが発生していたはず。なにも今回だけが大事ではない。にもかかわらずなぜこんな大事になってしまい、しかも致命傷かもしれない事態へ発展したのか。

    いままでいきあたりばったりで処置して、なしくずしに前例を踏襲して、時間の経過とともに忘れ去られるのを待ち、結局どこからもチェックされなかった。外部が責め立て、騒ぎ立てるからではない。組織や人の胆力と知性がゼロに等しかった。いままでそれでやってこれた。幸運。ほんとに運がよかったんだ。でも一回のエラーをリカバリーできず、致命傷になってしまうケースだってあるはず。

    その「あるはず」を想定して鍛錬と修養を積み重ねなかった。「あるはず」なんて「ない」と信じていた。

    ハインリッヒの法則がすべての分野に適用できると思っていない。ただレトリックとしてあてはめてみたくなる。1:29:300の比率。よくできている。

    僕がものを書くとき、書き出す前に「これからこんなことを書こう」ということについてけっして明確なプランがあるわけじゃない。ほとんどの場合はキーワードだけしかない。何となく、このキーワードを白い紙に書きつけたら、後が続きそうな気がする。だから、とりあえず書いてみる。書いてみて、よくあることですけれど、かなり書き進んだ後になって、「あ、これは違う。こんなことが言いたいんじゃないんだ」と全部消してしまうことがあります。逆に、書いているうちに「自分でも思ってもいなかったこと」がどんどん湧き出てきて、なんでこんなことを思いつくんだろうと不思議に思いながらも、どんどん書き進むうちに長いものができあがる。読み返してみると、「なるほどこういう考え方があるのか」と。“街場の文体論” 内田樹 P.200

    いまのこの日記がそうかな。たいてい即興で書く。とりあえず書く。書いてみてなんとなく描いてたイメージに近いテキストで終わることもあるが、たいていはよくわからないまま書き終える。あとから読み返す。変だ、なるほどやら判定する。自己陶酔しているか、読んでくれる方々と対話したくて書いているか、当時を思い返しても判然としない。だけど確実にいえる。モノローグの文章は読者に開かれていない。だからおもしろくないし、後から発見がない。

    誰かとのおしゃべりもこれに似ている。書き言葉みたいに消せないけれど。しゃべっていたら、ふとリアルタイムで「あっ、こんなこと考えていたのか」って思う。あとから脳内再生して認識するときもある。なにが触媒となってそんな考えを抽斗にしまっていたか自分でもわからない。萌芽の時期も認識していない。

    誰かといっしょでなくちゃいけない。誰かとしゃべっているとき、突然、その瞬間がやってくる。あとから、やっぱり違うって考え直すときも。

    ただ、消せない。それが誰かを傷つけているかもしれない。「あっ、こんなこと思っていたのか」と発話の後からたとえリアルタイムで知覚したとしても、なかなかリカバリーできないんじゃないかしら。だから「沈黙」ってとても貴重な発話だって感じるこの頃。

  • 内向き

    2012.05.25 雨のち曇

    http://www.youtube.com/watch?v=x1nixzYHDus

    今朝は Beyonce – Single Ladies でスタート。踊られないのに踊りたくなります。歌詞がフランクで好き。Beyonceのようなアイコンって日本だと誰かなぁ。すぐに思いつかない。もし日本人がこういうPVを制作したら違和感あるかも。

    M先生のウェブサイトをWordPressで制作。フレームワークに試行錯誤しながらページを制作。3年後のプラットフォームをを見据えて制作する一方で、もう、ウェブに「見据えて」なんて通用しないぁとも実感。こうやって時間かけて制作するのもたぶんこれで最後だろう。これからは組織の大小問わず、スタートアップが求められるようになるから。

    世間の喧噪を傍観する。文脈や背景を丹念に追跡していないが、印象から解釈すれば、自分が住んでいる国は文明国からほど遠い。民主主義もない。

    歴史のなかでたった一度だけやってくる工業化にともなう成長の機会をものにできたのはすばらしかった。社会は堅牢なハードウェアと高度なシステムによって構築された。だから安心や安全、という眺望点から眺めた国の景色は極めて安定していて住みやすい。ハードウェアとシステムのなかに組み込まれるOSがバージョンアップされていない。ハードウェアとソフトウェアが不均衡なんだ。個の確立と自立という眺望点に立ったら、社会の景色は成熟に至らず幼い。これから熟していく。

    以上が私見。幼稚の集合のなかに僕は含まれている。傍観者であっても無関心ではいられない。もっとタフにならなければと自戒。

    “システムの科学” ハーバート・A. サイモン の電子書籍版を購読。大学のときにサイモンの一部を学んだ。本書を通読した。今となっては筋書きと雰囲気しか覚えていない。再学習したくなった。便利になった。

    文庫やコミックなど大衆受けするジャンルが電子化されている。ありがたい。一方で、絶版になった好著や学術書も少しずつ電子化されてほしい。期待して待っている。

    先日、科学雑誌ニュートンiPad版の年間購読を購入した。中身は紙と違う。紙の雑誌より省略されている。タブレットの特性を発揮させようとする試みに好感がもてた。音声を聴きながら図形を拡大縮小したり回転できるのでおもしろい。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車して本屋へ。科学系の読み物コーナで下品にも立ち読み。目的地まで徒歩。途中でにぎってきたおにぎりを1個食べる。夕食。満腹。

    19:00からM先生のミーティングに参加。ファシリテーションをしながら観察する。3人のスタッフに同じ用紙を配布してミーティングの内容を記録してもらう。僕が記録用紙の書式を決めて事前に作成していた。その記録を持ち帰って僕がタイプする。ならば誰か一人が記録すればよい。そういう意見が出ると想定していた。Sさんが想定していた意見をおっしゃった。

    お断りした。3人で記録してほしい、と指示した。意図は伝えていない。意図を伝えなければならないけれど、意図を伝えてしまうと、先入観を持って記録してしまいかねない。

    終了後、50分間議論した結果を記録した3枚の用紙を受け取った。この3枚は認知や理解に関する情報を含んでいる。これらの分析は骨折りとはいえ、この作業を怠ればミーティングで観察した様態の蓋然性を検証できない。大切な一次資料だ。

    今回のミーティングを観察していて、先生の傾向を認識した。前から気になっていた。ただ一定の傾向だと特定するまでに至っていない。もっと材料を収集しなければ。

    自分を疑う作業はつらい。でももっとつらいのは、ほんとうに自分を疑っているか、という吟味をできないこと。とことん疑おうとしても自分が出力した「コト・モノ」に対してやっぱり愛着を持つ。だから私見や自説をあらゆる方向へ転換できるしなやかさを身にまとえない。まだまだ自分を疑っていない。自分自身を労っていない。自分自身を真に労りたいなら、もっと自分を疑えるはず、だという感覚だけが残っている。感覚から思考へつなげられていない。

  • 顔サイズの三笠どら焼きは一瞬です

    2012.05.07 晴れ

    今朝は JUJU – 明日がくるなら でスタート。MTV Unpluggedに出演されたそうで。次いで福原美穂さんの出演が決定したとか。日頃耳にしているアーティストが人気企画へ出演されるのを素直に喜んでいます。視たいなぁ。

    二十四節気、立夏。太陽の黄経は45度。暦では夏。第十九候、 蛙始鳴。春分と夏至の中間。梅雨を経て正念場の夏。壮大な社会的試みがはじまるかもしれない。やってみなくちゃわからないからやってみる、ところまできてそうな雰囲気。

    メンデルの法則の礎を食す。ゆで時間を短く。湯煎からあげた緑はあざやか。歯ごたえはしゃきしゃき。母の日のプレゼントはガーベラに。目星をつけていたカラーが連休中に完売。迂闊。里の家の鉢植えや植物をこれ以上増やしてもしょうがない。花屋さんでもやるつもりなのか。それでも好きなものを贈ってあげるのがいちばんかともためらう。今年の藤棚はどれぐらい咲いたんだろう?

    O先生とM先生のサイト制作。O先生のサイトは前回のリニューアルでスマートフォンとiPadに対応済み。ナビゲーションやリッチなUIを実装するか否か。課題。悩みどころ。自分のスキルが課題をクリアできるレベルに到達していない。M先生のサイトはコンテンツの整理。手書きでUIやナビゲーションをあれこれ。リニューアルを見据える。

    夏に備えて自宅のファイルサーバやPC環境を再整備しなければ。計画停電が実施されたらファイルーサーバからデータを取り出せなくなる。停電中のワークスタイルを決めておかないと。急な停電も想定して。ノートのバッテリーは3時間程度は持つ。必要なデータをローカルへ移動させるか。

    停電中、このブログを停止するつもり。自宅でウェブサーバを運用するなんて、メリットはまったくない。惰性と自習で運用している。愚かだと承知してやっているから始末におえない。そろそろVPSに移行してもよいかもしれない。ランニングコストもそっちのほうが安いかも。

    もし賛同していただけるならクライアントのレンタルサーバをVPSに移行してひとつにまとめるのも一考か。ウェブはVPSでメールはGmailで運用してもらう。

    はじめから否定的な見方で文章を読めば、批判的な意見が次々と頭に浮かぶ。浮かぶなかにはバーカやアホみたいな感情論にも満たないファックな雄叫びも含まれる。それらファックを取り除いたとしても意見の中身は批判的である。反対に、はじめから肯定的な見方で文章を読むと、発展的なアイデアが浮かぶ。

    自分の価値観にヒットするかしないかで判断してしまうと、読書傾向は偏るし、嗜好は固定する。これは自分の変容にとってとても危ない兆候と認識している。いまたぶんそういう時なんだろう。

    いままで積み重ねてきた自分の言動を壊したくない。過去の成功体験と積み重ねた言葉と行動の経験を糧に進む道をを決めたい。そいういう欲望にかられている。

    それは真っ当な様に映る。成功体験と積み重ねた言葉と経験が増えれば、選択の判断に要する時間が短くなるから効率がよくなる。甘い誘惑。その先に待っているのは停滞と停止。経験を破壊しなければならない。自分の経験に中指を突き立てないと。

    要は自分の頭がバカなのだ。文章に対して、無意識のうちに価値観を維持して読んでいる。その価値観に反するキーワードがちりばめられていたら批判のスイッチが入る。共感できるキーワードがちりばめられていたら受け入れる。まるで、散歩の途中で外から家々を眺めてあの家は好き、あの家はちょっと苦手、あれは嫌だと言っているみたいに。その家の設計を知らず、それどころか中身すら見ずに外見の印象で判断している。

    批判的なイメージを抱きやすい文章から肯定的な見解や発展的なアイデアを捻出できるか? その反対は可能か? まったく先入観を持たずに素直に読めたらと切望する。書いた人の思考の理路をトレースしたい。まずはトレースのスキル。身につけよう。そのあたりがようやく理解できたようだ。トレースできてからなんだ、自分の思考をアウトプットするのは。オルタナティブやアイデアを出して自問自答しながら吟味するのはトレースの後。