タグ: DA40mm

  • 誰がハブ 私が波布 ガブ

    皇子山公園

    shi3zさんの日記は読み応えがある。タイトルは素敵だし、視点がジーニアスで発想がクレイジー。それでいてクールなパッション。日記の評価ですが。

    携帯電話を売ってる人は真面目な人も多いのに、たまにこういう対応をされると本当に業界に失望する。

    ちなみにいわゆるソフトバンクショップというのは、代理店が経営しているのであってソフトバンクが経営しているわけではない。

    彼らはソフトバンクからブランド使用許可をもらって経営している個人事業主に過ぎないのだ。

    だからそれぞれの代理店は独立した会社になっていて、もちろんその中には大きくてきちんとしている会社もあれば小さくてデタラメなところも残念ながらいくつかはあるわけだ。

    via: 謝罪という名の押し売り – Keep Crazy;shi3zの日記

    (さらに…)

  • 上面・評価・弁解

    皇子山公園の桜

    ぼくではなくきみの問題だろう うわさによってきみがぼくを否定にしろ肯定にしろ評価するのは自由だ

    でもぼくの存在にはなんらかわるところはない

    ぼくはぼくだ

    “トーマの心臓 (小学館文庫)” (萩尾 望都) P.165

    口の端よりことばのいずる前にすでに眼は物事を語る

  • 聴視悪し調子割る

    皇子山陸上競技場のしだれ桜

    急げ stand up! line超えればparadise
    目に映る全てのものでWe’ll play
    この瞬間を見渡そう forever
    果てしない水平線を求め FLY OUT! FLY OUT!

    lyric twenty4-7

    世界を切り取れ。堪能せよ。困難を感じよ。視覚のセンス。聴覚のニュアンス。五感のラビリンス。桜と対話しろ。彼らはすでにいた。主語をスイッチしろ。時をとくと味わえ。

  • 同じことを知る人たちはもはやお互いに最良の友ではない

    皇子山公園の梅

    Ralph Waldo Emersonは利己的で対偶。素敵だ。

    白は、混沌の中から発生する生命あるいは情報の原像である。白はあらゆる混沌のから潔癖にのがれきろうとする負のエントロピーの極みである。生命は色として輝くが、白は色をのがれて純粋に混沌の対極に達しようとする志向そのものである。

    “白” (原 研哉) P.11

  • 凡ミス

    あやうく踏みそうになった

    「凡ミスや…..」と僕が言えば、近ごろ相手は一粲するようになった。以前は、「凡ミス」という単語をあてはめなかった。現象的な凡ミスを犯すと、ひどく怒られた。ミスより恐かった。夕食時にお皿の場所を探したり、冷蔵庫にある調味料を見失ったり(というか居場所を知らない)すると、「お客様!」と叱責がとんできた。

    それをどう茶化そうかと考えたあげく、ある日、「凡ミス」という単語が勝手に口から出た。相手は、爆笑した。たぶん、僕の言い方とひどくしょげている様子がおもしろかったんだ。そう解釈した。

    それから我が意を得たりと、僕は「凡ミス」を定着させた。凡ミスはいつしか単語から「共通言語」に変わり、日常会話で使う凡ミスの意味から脱却した。まるで、「凡ミス」は僕の口を衝いて出るのをスタンバイしているようだ。僕もつられていつ使おうかと画策する。「凡ミス」は場をなごます役割を果たしてくれている。

    特定の相手や特定の集団に対して使う「単語」がある。専門用語や難しい単語ではなく、平凡な単語たち。平凡な単語は一期一会のシチュエーションと出会い、突然、意味させる。僕はもうその単語を忘れられない。何となく使ってしまう。カワイイやつに変わる。やがて、単語から符牒へバージョンアップする。

    だけど、気をつけなければならない。「特定」であるがゆえ、平凡な単語は他者を排除しかねない。言葉は武器か凶器か。願わくば前者の比率を上げていきたい。

    [ad#ad-1]

  • neuron in the sky

    皇子山公園の桜

    空を見上げたら蕾はまだなかった。自分の頭の中を見たようで恐かった。

    [ad#ad-1]

  • 理性的論理的実証的に自己評価

    20081018-IMGP2684.jpg

    理論より腕(現場の経験)、腕(現場の経験)より理論、そして、少しでも学べば私にもできる…..。自己評価を冷静に下さなければならない。それを会話からいつも学ぶ。僕が口にした言葉や行動が他者へ向かい、それが再び自分のもとに帰ってくる。そのとき、自己評価を下す。理性的、論理的、そして実証的に自分へ接近しようと試みる。否、試みようとするフリをしているだけ。実際は恐れている。拒んでいる。いくつかの自分が。それを破壊せねばならない。

    具体的事例から抽象的事象へ全称させ、もう一度、具体的事例へ帰結する。それは会話では難しいのかな、と考える。対話が成立しにくい要因は何か。疎外させる主語は。排除の背景は何か。言葉か。あるいは感情か。関心。関与。興味。嫉妬。

    自分の身近で起きた事例を述べたとして、そこから先へ進む道を開いていけない。それでは紹介にすぎない。親切は紹介を自慢へと変える。

    探求は道を切り開く。道の向こうに次元の跳躍がある。その跳躍は、我が身に潜む自己査定者の査定すら懐疑する力を持つ。自分が知らないことや自分が感じないことを認識するだけでは足りない。そんな認識は簡単。簡単であるがゆえ、事例の贈与と交換で満足する。

    無知や自覚の認識より求められる能力は何か?

    それを理性的、論理的、実証的、そして思いやりをもって僕は自分と対峙しなければならない。それが今の課題。

    [ad#ad-1]

  • 選択する機会

    岐路

    道が一本あれば、行く手は自然にその一つに決まる。選択する機会が失われる。その不自由さに、人は安堵して、歩み続けるだろう。立ち尽くすよりも歩く方が楽だからだ。
    そして、その歩かされている営みを「意志」だと思い込み、その楽しさ加減を、「幸せ」だと錯覚する。

    『恋恋蓮歩の演習―A Sea of Deceits』 P.12

    僕の手帳は真っ白だよ、と伝えたとき、あなたはきょとんとした。数年後、わかったと伝えてきた。真っ白な手帳は自由と孤独。自由と孤独は一対。手帳をめくると白色。その罪悪感はいつしか意志へと変わる。

    ぎっしり詰まった予定を持ち歩く人が、ある日、真っ白になった。恐怖が襲いかかってきた。慌ただしく動き回る周りの視線。突き刺さる。劣等感。

    劣等感を抱く私から解放させる私。意志。

    孤独という自由を、人は恐れ、
    その価値を評価しないよう、
    真の意志の存在を忘れるよう、人は努力する。
    自分たちを拘束する力を「正しい」と呼んで崇めるのだ。

    『恋恋蓮歩の演習―A Sea of Deceits』 P.12

  • 人生のリュックサック

    皇子山公園

    皇子山公園

    すごく素敵な言葉、そして突き刺さる言葉。

  • 関心がない=しない、じゃない

    皇子山公園の紅葉

    「あなたは”それ”に関心を持っているけれど、私は関心がない」と、他者へ向けて発話した瞬間、発話した当人は、探求から遠ざかる。当人が関心を持って欲しいと願う別の”それ”について、他者から関心を持ってもらえない意味を知ろうとしても、「あなたは”それ”に関心を持っているけれど、私は関心がない」と他者から当人へ発話されているから。自分が発話した構造に自分で気づかない。

    自分が提供する価値について考えるとき、自分を除くすべてが提供している価値について、「どうしてあれはあんなに価値を持っているのだろう」と関心を持てなければ、自分の提供する価値を考えられない。私は車やバイクを持っていない。運転しない。服装に頓着しない。だけど、ポルシェやハーレー、H&Mの価値に関心を持ちたいと願う。自動車を買いたい、バイクを買いたい、自転車を買いたい、おしゃれでありたいからじゃない。鉄道が好きだから列車に乗るのじゃない。映画を観る、本を読む、ドラマを観る、景色を眺める、観光へ行く、食事へ行く…..つながっている。

    見えないモノを見ようとしない自分に悔しい。関心を持てない自分に苛立つ。

    自分を除くすべてが提供している価値に惹きつけられる人々がいて、それらの現象の根本を探求して検証するのが「自分を考える」ことだ、と僕は思う。