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  • 折り目

    2013.08.27 晴れ

    Stevie Wonder – A Place In The Sun を聴く。気持ちが枯れそうなとき、この歌を聴く。歌詞の陽射しを浴びて根が腐っていないか確かめる。少し腐りかけている。自分でなんとかメンテナンスしないと。閉じるべきときは閉じ、正体の知れない心がひたひた押し寄せてくる。逆らいたいのに逆らえない恐怖。自分が踏み出せばよい。

    K先生のページ制作。制作してずいぶん経ったサイトへ写真を掲載するのって難しい。いまのスタイルに合わせると、据わりが悪い。かといってサイトに合わせたら、デバイス環境がちらりよぎり、不便じゃないかしら、と。

    本に折り目をつけて読む。何度も読み返す。折り目をつけた心の接点を探す。折り目の動機を確かめられるときもあれば、不明のままもある。残像があり実像がない紙の上、安堵と探究が入り乱れる。私の感性は少し衰えたところで留まっていた安堵。新しく折り目をつける探究。いつしか折り目のページが折られていない紙をしのぐ。本を立てて上から覗けば隙間。折り目がつくった過去と現在。それが自分かもしれない。その時々で折り目をつける。折り返せない印をつける。

    本に折り目をつけないで読む。どうしてもそうしたくなる本がある。何度も読み返す。読み返す度に心の接点は異動する。襞に這い込んだ言葉は、通り過ぎようとしたら必ず引き留めて、肺腑を抉る。残像がなく実像がある字面語感。不安がさまよう。抉られなかった思いの集積を収める心の位相はどこだろう、と。折り目を確かめられない戸惑い。それが他者かもしれない。折り目をつけないのではなく、つけられない。隙間ができない過去と現在。その隙間にほんのわずかだけでも埋めてほしい我が儘な願い。

    石畳

    孟軻は「道は近きにあり、然るに、これを遠きに求む。事は易きにあり、然るに、これを難きに求む。」と残した。

    頷く自分と抗う自分。道がなければ? それとも道がないと思い込んでいるだけ?

    漫ろに書く文章。言葉は残像であり、実像になれない。なれないと言い切る羞恥。自分の非力を恥じるより言い切りたい欲求が、いまは支配している。

    果てのない想像がひとつの現実のなかで馥郁と辺りに散っていく。

  • 【備忘】埒外

    2013.08.25 雨のちくもり

    http://www.youtube.com/watch?v=jTPD6cPym_M

    ソウル・フラワー・ユニオン – 平和に生きる権利 でスタート。「静かに暮らし 生きる権利を」静かに失われつつ、あるいは奪われつつあるのだとしら抵抗するよ。ファンクにロックにアイスピックみたいに。無力でもやるよ。

    憤慨の備忘。ここに書いたところで、と承知している。もしも数年後までここが残っていたら、と思ったので。支離滅裂を記録する。

    スーパや駅前の駐輪、帰宅しないゴミは一定数の存在を誇示している。それらは理解の埒外だ。こちらは強烈な不快を浴びせられても認識しなければならない。

    今回は一定数でなく、マジョリティだ。構造は同じ。理解の埒外にある存在。

    文部科学省が発表した「体力・スポーツに関する世論調査」を目にした。憤怒。怒りが通り越すことはまったくなかった。オリンピックなどの国際大会を国内で開催することに、「好ましい」と「どちらかといえば好ましい」を合わせた回答は計92.0%。なんや、この数字。

    アンケートは質問と手法と母集団によって、結果は変わる。今回も疑った。冷静になろうとしてもダメだった。理解の埒外の存在に苛立った。

    東京2020オリンピックに反対だ。反対の理由をくどくど書かない。復興と原発。

    そして、未来は音楽、映画、演劇、舞踊、工芸、絵画、詩歌、文物など、もっともっといろんなことで満ちてほしい。

    紫陽花

    (さらに…)

  • 理想は思想

    2013.06.20 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=37zfqCBvE2c]

    caravan – TRIPPIN’ LIFE でスタート。ふらりぶらりふわり出かけたくなるとき。出かけたくなる距離が伸びていき、お出かけから旅へ質感が衣替えするとき。音が契機か気分が誘うかわからないけれど、耳に流しておきたい一曲。

    6月に入って右足親指の痺れを知覚した。ごくわずかの違和感から痺れをはっきり感じて、以降これを書いているいままで続いている。寝ている時以外はずっと痺れている。足が地面に接地するとき、右足と異なる感覚。なんだか薄い膜に包まれて地面に着地する。

    そうこうしていたら先週から右手の親指が痺れ始めた。はじめはスマートフォンを触っているときの違和感。右手の親指でタップやスライドしたら、足と同じく直接的な接触感がない。薄い膜を一枚覆って触っているみたい。

    で、今週の月曜日、右手首から肘にかけて表面側(専門用語を知らない)が痺れだした。これを入力している今も痺れている。

    いずれの痺れも激痛ではない。手足の親指はじーんとして鈍い痛みといえないような感覚。肘にかけての痺れはピリピリに近いか。痛みの表現は難しいな。

    困った。身体というより、仕事していても痺れが意識をもぎとっていくし、少し入力したら右手親指と手首から上の痺れがピリピリするのでままならない。

    こういうとき検索しない。体の違和感や病気について検索しないようにしている。医療は非常に高度な専門領域。素人が診断できるわけがない。そんな自己判定は己を危うくするだけだと思っている。

    検索するなら専門家に診断してもらって説明を受けてから。説明の理解を深めるため、知識を学ぶため、または専門家の方々へなるべく効率的かつ効果的に質問するために検索する。「何を調べなければならないか」が判明していれば検索しやすくなる。「何を検索するかはっきりしない」検索は、自分を誤った判断へ導きかねない。

    琵琶湖 MICHIGAN

    原稿を書き起こすために録音した会話を再生。自分の声としゃべり方を耳にする。苦行。いちばん嫌な作業だ。自分の声が気持ち悪くてしょうがない。発話している時の声は気にしていないが、録音された声は心底嫌い。昔から変わらない感情。

    我慢しながら聴く。テクニカルな点に集中した。口語と文語の違いが浮き上がる。明確な差異。口語と文語はそれぞれの特性を持つ。

    口語はランダムであり、曖昧な表現を視覚情報(身ぶり、手振り、表情など)が補完する。補完とは、置き換えれば、勝手な解釈といえる。文語はシーケンシャルであり、曖昧な要素や文脈を「言葉」でさらに補う。よって情報量が増加しやすい。

    両方の特性を考慮して、原稿を読む人への伝送損失を軽減させる文章を書きたい。口語ならではの雰囲気を残したい。それが難しい。文意の構成、文体の技巧、語彙の範囲が問われる。

    視覚が勝手に解釈した情報を補正していくプロセス。それが会話の醍醐味だろう。時間をかけて補正する。補正するはずの会話の最中、視覚はさらに自分の「側」へ勝手に解釈する。たぶんそんな果てもない円環が繰り返される。

    私から見た「都合」と相手から見た「都合」があり、互いが自己都合によって了解できるまで、願わくば自己都合から離れて自己と他者の「中間都合」の合意にまで根気よく補正できたら理想かもしれない。否、理想はないかな。理想は危険な思想。

  • 中庸から両極へ

    中庸から両極へ

    2013.04.30 雨のち曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=fIf9sKuny38]

    奇妙礼太郎 – 君が誰かの彼女になりくさっても でスタート。CDで聴いてもぐっとくるのに、ライヴで聴いたもんだから、もう壊れた、完璧に壊れた、いくつになっても僕には忘れられない感情であり、若い時とは異なる好きがあり、好きはいくつにも変種して、多様化していき、オトナなスキもあったり、日々の営みわずかに足りないぐらいの満たされたように走り出す。

    早朝から強い雨。穀雨、実りをもたらす雨と思えば、と思っても、やっぱりこの雨のなか歩くのはいやだし、こんな朝早い時間から駅とは反対の方向へ歩いて行く人たちの目的地はあそこであったら、他人の営みの一瞬を切り取って想像してみる。

    第十八候、牡丹華。冬が去り、光と影、夕暮れのグラデーションを眺めているとのびやかだ。葉の色が変わっていく様を認識できないのに、稜線の質感がなんとなく力強く見え、色彩が豊かに見えるのも正常に錯覚しているからと自覚する。

    先日、代々木公園で撮影した花の写真をアップした。名前を尋ねられた。わからなくて恥ずかしかった。知識を持ち、堅牢な思想を持ち合わせたい願望から花をさらりと答えられる行動様式へ気持ちは移ろう。洗練、が僕に問いかける。そう感じるようになった。

    少し前までそんな自分はいなかった。いま心の中で立ち現れている。

    五感がインストールする花や雲や月、光と影、色の固有名詞を知らなくても生活できる。銀行の手続き、電車の乗り方、人との会話の仕方、それらを知らなければ生活に支障をきたすだろう(困らない人もたくさんいる)。生活に支障をきたす知識を軽んずるのではない。生活の質感を自ら書き換えようとしたらブッキッシュはそれほどいらない。

    ブッキッシュの知識を使いこなす知性を備えられない言い訳かな。たぶん、そう。言い訳。

    ソメイヨシノ
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    「誰が言ったか」より「何を言ったか」のテンプレートも吟味しなおしている。自分の行動規準だけど、これを他者に押しつけないし、近ごろは、「誰」にも目を向ける。万が一、運よく僕が人格と意見を切り離すことが、’そのとき’にできたとしても、それを相手が望んでいなければ、あなたとわたしの空間はゆがんだままだ。

    (不特定多数の)あなたは人格と意見を切り離すよう期待していないだろうし、僕も切り離されたらへんな気持ちだ、やっぱり。意見が批評されたとき、その場で感情をオフして意見を述べ続けらとしても、あとから自分のなかのオフされた感情と向き合い処理するのは自分だ。

    人格と意見が切り離された空間の居心地の良さや拡張性の高さを体験したとき、錯覚する。意見を切り取って語彙を駆使して思考を純粋(そんなことがあるか知らないけど便宜上)に交わらせる行為と錯覚する。その行為が崇高であり、何かにつながっていきそうな高揚感を知覚する。その知覚がもたらす錯覚は「生身」をいつしか忘れる。生身を忘れたとき、両極にあるどちらかの片側に経っている。そして中庸をめざす。

    いまの僕は中庸への関心が薄くなった。いらない。両極に立ちたい。心身は私ひとつだけど、「コト」の両極へ立つ視座をつかみたい。

    人格と意見が切り離させる視座とゆさぶられる感情と素直に営んでいる視座、の共存と対立。自己のなかで時に共存し、時に対立する。共存と対立を超越しない。ずっとずっと共存と対立させたままから眺望する風景。どんな風景が見えるだろう、破綻しても、それを見てみたい。

  • ラベルが貼ってあれば安心

    2013.04.01 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=VQ3d3KigPQM]

    今朝は The T-Mobile Dance でスタート。Liverpool Street Station で実演された flash mob 、かなり大がかり。かなりお気に入り。公開されているメイキングの歯切れがいい。flash mob に遭遇したことないけれど、コレや Swingle Singers underground tube subway だったら遭遇しても不快感は抱かないかな? わかんないか、遭遇してみないと。

    買い物へ行くとラベルに目がいくようになった。いろんなラベルが食料品に貼られている。安全基準を満たしているマーク、国産、無添加などなど。共通点は安心か。ラベルに関心を持つようになったからか、手にとってラベルのデザインを確認する。色や形状、フォントやら。

    安心したいのは誰だろう? 私か、それとも販売者かメーカか。

    語弊がありそうな表現と断っておくと、世間は「何か」を人間に貼って安心したがっているのではないか。ラベルだ。世間と書けば、ぼかしてしまっているが、ありていに言えば、大人が他者にラベルを貼る。一風かわった人に対して、「脳の機能」や「発達障害」などの名称をつけて分類する。分類すれば、誰が安心するのだろう?

    世間か、分類している私か?

    私はおかしくない。私は正しい。その私の目には、差し向かいの相手が奇異に映る。何回接しても言動が変わっている。私は定形であり、相手は不定である。不定が間違っている。

    変わった人に対して向き合うより、「何か」を貼る。その「何か」が非科学的な単語だとしっくりこない。なんだか、私の感情から発せられた言葉だと説得力がない。納得できない。だから科学’的’な言葉を探す。私が自分を言い聞かせるのに、感情も非論理的もないはずだが、非は自分にない点を自慰したいために、外部にある言葉を探す。

    便利な時代である。検索すれば、書店に行けば、専門家がわかりやすく「何か」を説明している。それらのなかから、私にとって都合の良い「何か」を選択して、相手に「何か」を貼る。

    買い物のラベルと巷にあふれる「何か」を貼りたがる傾向をむりやりつなげてみたらそんなことが構造化された。

    近江神宮

    13:30からF先生と少し打ち合わせして、そのあと、前回の個人面談の結果を各自に伝える。まずは二人。かなり神経を使っている自分を自覚。

    言葉は凶器、そう自戒している。甚大な打撃をいともたやすく与えられる。物をつかって他人を攻撃したことがないので、どんな気持ちを抱えれば、どんな感情が芽生えたらそれができるのか知らない。言葉でなら知っている。怒りがこみあげればあらん限りの語彙を駆使して痛打できる。

    怒りでなくても、「自分が正しい」という土壌に侮蔑の種子を知らず知らず育てていれば、蔑んだ単語の花をさかせるだろうし、慇懃無礼な枝がすくすくのびる。

    始末の悪いことに、そんな言葉の樹木を育てている己を自覚できない。

    かなり神経を使ってしゃべっていても、やはり凶器をふりかざしている。他方、神経の使い方が頓珍漢だと、私が相手に伝達したい内容がピンぼけしてしまう。

    15:00に終了。くたくた。二人で45分ほどの面談は堪えた。帰りの車中、しゃべった内容を反芻する。いつもの作業。頭のなかで反芻して批判する。「ああいえばよかった」や「しまった」はない。

    「なぜああ言ってしまったか?」

    あのときの感情を想起して自分の動機を深掘りしていく。深掘りの過程で認識できる事柄を批判する。同じ場面はこない。体験できない。具体的な事柄から抽象的な思考へ展開して、頭のなかで「分類」して「構造」化していく。パターンとして認識させ、未来で使える道具をつくる。

  • 基本はふたつの性質を備えている

    2013.02.18 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=xzrC72Xv6pE]

    今朝は、Regina Spektor – Us でスタート。(500)日のサマーのサントラで聴いて知った。シンガーソングライター兼ピアニスト。映画とともにすっかりお気に入りで、ちなみに映画のヒロイン、Zooey Deschanel の姉は Emily Deschanel で、大好きなドラマ BONES の主人公。

    二十四節気、雨水。太陽の黄経は330度。第四候、土脉潤起。春を待つ雨。寒さと相まって、肌がキリキリ。もう三寒四温かしら。そもいつを指す言葉か。ブルブルふるわせてホームで列車を待つ。

    目の前の比叡山は幽雅な霧をまとっている。絵心があればなぁとも、望遠でカリっと撮影できる腕があればやら思いつつ、なんとか記憶に残そうと必死、忘れるでしょう、嘆息。

    仕事している姿をフォトグラファの方に撮影してもらう機会があり、そのとき300mmの単焦点をD4に装着して構えさせてもらった。撮影してよいよって言われたのでお言葉に甘えてレリーズしたら、すべてが異次元の世界だった。

    300mmの単焦点の手持ちなんて、僕の腕だと確実に手ぶれする。なのに数枚は手ぶれ補正が効いてピントがあっていた。AFの速度。構えた瞬間に合焦していた。まさに構えた瞬間。自分のカメラと比べるとしたら(否、比べられるシロモノではないですが)、自転車とF1ぐらい違う。徒歩とF1か。

    次に手ぶれ補正が効かないMFだけのレンズで撮影させてもらった。すべてのカットのピントがあわない。はずかしい。まったく合わない、合わない。合っても手ぶれする。要するに、もっとも基本的な動作を習得していない。いままで道具の性能に甘えていたわけだ。

    同一の構造が他のコトにおいて僕に当てはめられる。

    基本や型がある。一連の動作や行動は一般化された手順を持つ。慣習から生成された手順や外国から輸入されたプロトコルなど、言葉や図に記録される。なかには口伝もあるかもしれない。基本や型を知らずに我流で押し通せられるとしたら、それは一握りの異才だけだろう。異才を除けば、守・破・離の行程をたどって我が生育されていく。

    基本や型があっての話だ。かつ、それがどこにあり、いかなる系を構成しているかを外部へ明示できてこそだと思う。どこからどこまでを学べば、「基本」であるかを認識できなければ、基本の「迷宮」から出られなくなる。

    悩ましい。基本は二つの性質を備えている。業界や業種の中で成立する技術の基本。もうひとつは立ち居振る舞いの中で成立する基本。前者は学校や現場で学べるが、後者はどこで学べるか。後者に「範囲」はあるだろうか?

    後者の基本を教えている「基本」が我流であってもおかしくない。

    琵琶湖 Lake Biwa

    12:00前に出発して大阪へ。F先生のミーティングに参加。ミーティングの形式が変わった。形式の変更は全体に影響を与える。影響を受容して変化していく過程を観察しなければならない。

    15:00に終了。

    こうやって文章を書いていて、ますます陳腐になってきたって実感する。昔の記録を読み返すと、はるかにしっかりしたテキストを書いている。

    ひとつは読書の量と質が低下したからだと分析している。読書をしなければ自ら考えて書けないわけじゃない。昔のテキストは、読書している最中に触発された意見を書いているはずで、誰かからのアイデアを剽窃している。無から有を創造できない。完璧な独自のテキストはない(と思う)。そう思っているからアイデアを剽窃して自ら加工したテキストを否定しない。

    自慰するとしたら、読書の質と量が低下したいまのほうが悩み悶える機会がふえた。そして、言葉の語彙の質感と量の限界が、自ら考える限度の境界線であると認識できつつあり、その状況を打破したいから、「言葉」を学びたい気持ちが強くなってきた。その基本が辞書と文法のような感触がある。

    新しい単語を知り、文法を勉強する。一方で、いまなにげなく使っている単語と単語と語句は最適なのでしょうか? な不安がどんどん押し寄せる。

    自分の語感と語彙をなんとかしたい。あまりにも貧しすぎる。

  • おそろしいほど変わっていない

    2012.12.05 曇

    http://www.youtube.com/watch?v=qNGnGdk_Hss

    今朝は 見田村千晴 – 青 でスタート。この歌もラジオから流れてくる。ちょくちょく耳にする。

    寒気がやってきた。夜が長い。目が覚めたときは暗く、朝食を終えたころに光は部屋へ差し込む。曇の日はそれも望めず薄暗い。毎朝、あるものを撮っているが、この時期は難儀する。自然光が弱いから自分の上では思うように撮れない。

    月曜日、F先生にお目にかかって来期の診療体制や労務関係を打ち合わせした。自分の対話能力が低下している。薄々頭で感じはじめていたことを身体も感じられるようになった。先生に申し訳なく、どうしたものかと帰りの車中で反省。テーマをロジカルに展開できない。知識が不足しているからか、着眼点が拙いか、あるいはロジカルシンキングの能力不足か、まったく異なる事由か。問題を設定することは難しい。

    予想外のことがおこらないように予想する。屁理屈でもこの能力を鍛錬しなければこの先はない。いまもついつい自分の都合のよいように予想する。予想の持ちネタが少ない。進行中の結果が予想と違ったら差異にうろたえる。

    数年前に“知識デザイン企業” 紺野 登 を読んだとき、PDCAのサイクルからHPRFをぼくは表現した(PDCAからHPRF | THINKSELL)。個人の判断が重要だ。個人の判断は、身勝手な行為に直結しない。全体と個の関係を観察する能力が仮説から実践のプロセスで求められる。目標の到達点から目的の到達点へ置き換え、計画と実行を分離させない。

    35歳ごろからの5年の記録を読んでいると、周りの話を聴かなくなった。そう自己評価する。過去に積み重ねてきた自分の知識が、周りの話を遮断する。「もう知っている」「自分には関係がない」「いや、それは違う」など様々な感情と土台の知識が強くリンクして、他者からの入力を拒む。

    進化のために変わらなければならない点を変えず、変えてはいけない点を変える。そんなことが知らず知らず起きている。自分でやっていることなのに知らず知らずはおかしいはずだけど、存外、自分のやっていることほど正しいと錯覚する。

    若いころ、年長者の人がどうしてあんな嬉しそうに話をするんだろう? って不思議だった。その不思議な領域に僕は足を踏み入れている気配を感じる。

    自分の体験を参照する。積み重ねてきた知識を他人に披露するときの自己陶酔感に浸っている。自分の知識は有用であり、目の前にいる人の知識は無用である。自分が優位であると疑わない。このゆるぎない思いこそ自分の知性が不調の証。知性の不調を認識できず、他人に知識を開陳する高揚感をただただ味わう。

    「常に自分を疑っている」との言葉ほど疑わしいことはない。そう感じるようになった。なぜならその言葉の頻度が高くなればなるほど、変容していない。

    おそろしいほど変わっていない。

  • 早とちり

    2012.12.01 曇時々雨

    今朝は ザ・コレクターズ – 世界を止めて(20周年PV) でスタート。ライブですからね。最近、これはセットリストに加えられないけど、自分のなかでははずせない。

    焦りは、早とちりと浅はかな考えを呼び出し、判断を鈍らせる。今回もそうだった。後悔とは異なる。悔しさに近い感情か。適切に的確に判断を下せないことへの苛立ち。

    難しい。

    自分を冷静に冷徹に評価できるひとはすごい。いつまでたってもできない。フリーランスでやっていく上で致命的なことだ。厳しく自己評価しているつもりでも甘えている。

    twitterのbot? から流れてきた。

    都合よく解釈しないで、この言葉を頼っていこう。

    夕方、梅田CLUB QUATTROへ。移転してから初めて行く。見やすいけれど、好み箱かと聞かれたNoかな。MUSEがやっぱりいいな。20:00すぎに終わって、書店で “無限 その哲学と数学 (講談社学術文庫)” A.W・ムーア を購入。無限についていままで読んできて、まだまだ知りたいから購入したが、中身をパラパラめくってやっぱりくらくらする。

    梅田界隈を久しぶりに散歩して帰宅。

    何が起こるかわからない。もっとしなやかにやわらかく強くならないと。わからないことワクワクして楽しめるようにならないと。もう一度、自戒しておこう。先も後もない。守らなければならない存在だけをしっかり守り、終わるとき、ひとりだけでよいからにっこりしてくれればそれでよい。贅沢である。そんなふうに構えられるように鍛えよう。まだまだ。

  • 淡い期待

    2012.11.26 雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=5Yrt3Pnk9qA]

    今朝は The Dixie Cups – Iko Iko でスタート。この曲、映画で流れていたはず。題名を思い出せない。気持ち悪い。と思ってGoogle先生に質問したら一発回答でした。あぁ、脳をもっと鍛えさせればよかった。辛抱する時間がどんどん短くなる。

    6年前に一眼レフを初めて手にしたとき、すぐ開封してずっと触っていた。説明書を読みながらひとつひとつの動作を確認した。レンズを触るときはおそるおそる、カメラ本体を置くときもおそるおそる。

    10:00すぎに新しいカメラが届いた。荷物を受け取り、部屋に置いて、11:00前に家を出た。大阪駅で途中下車して調べ物。F先生からウェブサイト以外の仕事を依頼される。専門外の仕事を承った。迷惑をかけてはいけない。F先生からの仕事は、歯科の何でも屋さんになってきた。目指していた方向とはいえ、餅は餅屋に任せるべきと理解している。それでもF先生に対してだけはやってみたかった。

    書店で “心と他者 (中公文庫)” 野矢 茂樹 を購入。中身をパラパラめくって、飛び込んでくる単語を見ただけで頭はクラクラ。クラクラしながらでも読んでみたい。

    13:30からF先生のミーティングに参加。徒歩10分ぐらいの距離、あいにくいちばん激しい雨にかちあって、文字どおりずぶ濡れになった。デニムの膝下は洗濯したばかりよりひどい。乾燥させなかったみたいなデニムになった。Dr.Martensのブーツの中がはじめて濡れた。

    ミーティングの最中、周囲の反応を観察する。微表情と態度が現れる。観察しているということは、されている。視点と視線は交錯している。ただし視点はその人だけにしかわからないし、見えない。僕も含めた微表情と態度を、本人自らが気づいているか、否か。そのあたりは判別できない。

    15:00に終了後、15:30から先生と打ち合わせ。いささかしゃべりすぎた。先生の表情を伺う。過去の情感データベースと記憶からいまの表情を照合して、発話の抑揚や内容などの変数を掛け合わせて「自分」のふるまいを査定する。

    ラベンダー

    16:10ごろに終了して、大阪駅へ。HDDを探す。淡い期待を抱いていたらちゃんと裏切られた。ほんとにネットなんだなって思う。在庫を持てない、価格は間接費が含まれる、となれば、実店舗でPCのパーツを販売するメリットは何だろう?

    過剰包装されて届く段ボールの後処理さえ厭わなければ、PCのパーツはいよいよネットで購入なんだといまさら再認識した。

    18:15に京都到着。HDDよりもっと淡い期待を抱いてプラットフォームの全体にぼんやり焦点を合わせる。

    言葉は短い方が読み手の解釈に委ねられ、読み手は自分の物語に置き換えて解釈する。そちらのほうがお互いにとって幸せかもしれない。もちろん伝わらないほうが多くなる。あとは自分との了解である。

  • 潮時

    2012.11.21 曇

    K10D

    2006年11月29日の夕方、K10Dを予約していたお店から電話があった。発売日の1日前。「全世界から予想を大幅に上回る注文」があったK10Dは当初の発売日を延期していた。手に入るかどうか。焦りが募り不安の日々。フライングの電話なのにすぐに取りに行きますと行って、家を出た。

    はじめて一眼レフを手にしたときのあの瞬間をいまでも覚えている。K10Dのボディを360度から眺め、持ち手を右に左に変え、持ち方に迷い、ファインダをのぞく。小さな窓から見える映像。興奮と未知。

    あれから6年、K10Dとレンズ一式を売却する準備をはじめた。いまはネットですべて手続きできる。今週末にはお店の人が査定して、いつか誰かの手元に行ってくれたらといまから願う。

    私の力が及ばないと認めなければならないときがある。苦しい体験。できるだけ広く深いと感じられる眺望点から私の努力と能力を眺める。努力していなかったこと、能力がまったく足りなかったこと、比較されること。それらは自身を守ろうとすれば、私を査定される恐怖が身体を蝕む。

    だから潮時の判断をためらう。

    阪神高速道路

    一方で、自分を放棄したらどうなるだろう? 努力してようがしまいが、能力があろうかなかろうか、そのままいまのままいつもの場所へいつもの時間に訪れる。比較の恐怖を捨て、自己評価を停止し、他者評価を吟味しない。

    ひょっとすると幸福かもしれない。わからない。

    何があろうが対象から拒絶されるまで、存在を記号化させて対価をもらいつづける。でも、精神と感情がその行為を阻むかなと想像する。プライドとは、その精神と感情に向き合い続ける我と彼の狭間に隠れているのかもしれない。そして、あるとき何かの契機がプライドを呼び覚ます。

    プライドは潮時の判断へ関与する。

    さらにお金である。生活と切っても切れない物質が私の判断を支配する。

    13:30に烏丸五条でKさんと待ち合わせ。紹介していただいた医院へ営業に伺う。16:00前に終了。久しぶりに「京都らしさ」と「医院」を体験した。会計事務所にお世話になっていたときよく体験した。お金をスマートにクレバに受け取られるようになったとき、あるいは渡せるようになったとき、成熟の過程に足を踏み入れられたのではないか。まだ踏み入れていないからこれもまた空想の言語遊戯。

    16:00から17:00までKさんへ近況報告。前回紹介してくださったお客さんを相談する。先方は発注してくださっているが、私は正式に承っていない。そんなあいまいな関係のなかで忘年会にお誘いいだき恐縮している。が、そういう場を観察するのも判断材料のひとつだ。

    17:30から滋賀県のホテルへ移動。Kさんといっしょにセミナーを受講した。中小企業の経営者や関係者が120名ほど集まり、講師の経営者から「王道の話」を伺い感動した。衒いや奇策はない。すぐに劇的な効果を探したくてもそんなものはない。淡々と「王道」の話を経営者は話し続けた。企業の継続は「王道しかない」と強く実感した。聴講後、短い時間であったがグループに分かれて議論した。

    僕の頭は固まっている。凝り固まっている。意固地になっている感すら認識している。そんな僕の頭を壊してもらえるよい機会だった。やっぱり現場は壮絶だ。経営者は強くてしなやかでたくましい。ひとりのつらさをしっかり抱きしめ噛みしめ守らなければならない社員と歩いている。