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  • 魔笛、私的、素敵

    2013.08.08 晴れのち驟雨 試練

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6AumI68kFAM]

    Indigo Jam Unit – Phoenix でスタート。懐かしくなる。どの記憶にもリンクしていない曲なのに、脳のなかのホムンクルスがそこら中の抽斗を開けたがる。無を拒んで有を絶叫。記憶と現在の並行。

    ウェブ制作。アルバイトの資料がそろそろ届きそう。備えて制作の手をやや早めたら昼前に届いた。週末の到着を想定してたからちょっとびっくり。

    週末から月曜日あたりまでに仕上げよう。来週は別のサイトをやりたいし。周りが夏季休暇へ突入するからどこへも伺わなくてよくなるときに籠もって煮詰めたい。

    先月からあるブログを追いかけている。ライタの方らしい。内容と文体、表現に身を乗り出し、魅せられて過去のテキストを遡る。貪り喰う。

    tweetもつい口元がゆるむ。ユーモアと茶目っ気、時々のエロ。エロの湿り気と乾きの配分が絶妙だ。

    何が違う? 自分と。

    やっぱり感じ方じゃないかな。自分にはない感度、自分にはない視座、素敵な感じ方。

    少しでもああいう感じ方ができるようがむしゃらに、少しでもああいう文章を書けるようトレーニングしなくちゃ。

    薔薇

    液晶に映し出される数々の作品と解説を視聴していたら、作品は教えてくれる。見た気になったらだめ、感じたつもりでいたらあかん、て。

    眼前だよね。そう思う。自戒。

    手に触れられるほど近くで作品と空気と全身がまぐあってこそなんだ。実寸。実物。実見、生身。

    液晶の映像から体験を入力したら私は錆びていく。知識は話し上手で知恵は聞き上手、と誰かが言った。言い得て妙。

    それらは錯覚じゃない。錯覚に好意的な文脈を持っているから”錯覚”と言いたくないな。液晶の体験は想像を機能させる土壌だとしても痩せてるだろう。生の体験は想像力を育む豊穣な土壌。

    「見てこい」「やってみろ」と言うのは自分だけにして。それは他者への暴力だ。

    流転と時機。「したい」から”い”が消去されるまでの感覚時間は十人十色。待っていたり、すぐだったり、徒然をくぐり抜けて。

    待ち侘びて生き急いでつんのめり佇む。

    散歩に出たら自然と人工の生演奏。自分が感じられないだけ。

    他者の他者をもう一度。

    浴びよう、浴びせよう。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • たとえ相手が怒りの起点でも最後は自分への怒り

    2013.06.03 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=x1oMPNya0cI]

    ソウル・フラワー・ユニオン – 風の市 でスタート。高揚させてくれる音ってあるよなぁ。歌詞は切なくても音が軽やかだったり。反対に歌詞は顔を上げて見据えているのになぜだか音はやや抑え気味みたいなのも。音楽って不思議だ。

    怒り、について考え続けている。怒りの根本や怒りの脳研究について一冊読んでみたくなる。主観を掘り下げられても何か足りない。

    幾つもの怒りがある。状況によって怒りの濃度や種類は異なる。激怒、憤怒、立腹…. 漢字もいろいろ。ニュアンスを広げたら、嘆息や嗤笑にも怒りの匂い成分が入っていそう。

    誰かが起点になって怒りを誘発したら、当初の怒りは相手にむけられたものだ。でも、私の場合、その怒りは直に収まり、どちらかというと自分に対する怒りが長く続く。

    相手に頼ってしまったがゆえに、自分の描いていたとおりにならなかった腹立ち。もし、自分の想定しているイメージにコトを近づけたいなら、相手に頼るべき点をもっと絞らなければならない。自分がコントロールできたであろう範囲を自分がサボったから招いた結果に対して我に呆れている。

    信用、という言葉は健康的なイメージを従えている。そういったイメージを払拭してシンプルに使うとしたら、相手を信用した自分に対する怒り。

    皇子が丘公園

    もう一つ気づいてほしいのは、自分の周囲の環境が悪いのは、これまでに自分が手を打ってこなかったからだ、ということ。だから、すぐに手を打っても、それが改善されるのは、ずっとさきのことになる。この種の挙動は、「社会」でも「他者」でも同様だし、もちろん「自分」についても当てはまることである。

    “自分探しと楽しさについて (集英社新書)” 森 博嗣 P.140

    再読。「自分」にも当てはまる。手を打ってこなかった。相手の成長(苦手、正直意味がわからない)へ関与したい欲求があったはず。欲求はやがて支配と通底する。

    相手のふるまいが私の心象とずれる。心象にそぐわないふるまいを受ける。現実と心象のずれを知覚する。知覚は支配の基底に到達して怒りのボタンを押す。ずれをずれのまま処理する機能が発育されていない。なんのために先人の知識をインストールしているか、己の未熟を味わう。

    幼すぎる自分。未熟。他者へ関わるのは他者の成長や進化に手をさしのべることではない。他者をそっくりそのまま他者として受け入れ、どこまで輪郭を広げても理解できない他者の有り様と向き合い自分の中でほぐしていくことだと思う。

    自分の「色」に染めるような気持ちを微塵も持ってはならない。微塵はいずれ塊になり怒りの核に居座る。そうなれば私の進化を妨げる。

  • 眼と笑顔

    眼と笑顔

    2013.06.01 晴れ

    [youtube:http://youtu.be/mW1uRZtc5TU]

    PUSHIM – a song dedicated でスタート。巻く?! というか米語みたいな発音の歌い方って苦手なんだけど、これはまったく別物。歌詞と歌、両方が大好き。「君一人、この僕は 安らぎさえも手渡せないけど 力の限り この場所で 歌い続け 君に届け」の気持ち、ってあるよね。自分は言葉しか出力できない。その言葉ですら拙い。でも、辛くなったときはいつでも書いておいでよ、こっちもなんとか言葉にするから。どんな内容でも目にするのは嬉しいから、って気持ちへのアンサーソング。

    第二十四候、麦秋至。「秋」を使う表現の深さ。深いけれど、実物の風景を目にしてこそ、その深さに感情の液体が注ぎ込まれる。そうでないかぎり、その深さは空っぽであり言葉の観念で言い表しているしかない。気をつけないと。

    旬のさかなは蝦蛄とのこと。日生で一度食べてみたい。美味しいらしい。蝦蛄の寿司が好物である。日生では牡蠣も食べてみたい。青春18きっぷで行かなくちゃって思い続けて数年経過。だめなんだよ、思い続けても。重い腰をあげて行かなくては。生き急ぐぐらいでちょうどよいんだ。何がおこるかわからないんだから。

    shadow
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    先日、中川敬さんのミニライブ(@三井寺観月舞台)で、眼と笑顔の力を体感した。主観以外なにものでもないんだけど、「眼と笑顔」の二つなんだね、人間を基底する要素って。

    眼を見た時、怖かった。久しぶりに身震いした。でも、その怖さは人を刺すものではなく、いろんなコトを経験した人の底知れない深みみたいなものを表現する優しい怖さ。

    「目が笑っていない」というのに二つあるんじゃないかって近ごろ感じる。ひとつは、ニヒリズムの笑み。冷笑したら自分が嫌われると自覚している人がひた隠しにして笑う。眼の運動量はゼロの笑み。

    もうひとつは、露わにできるすべての感情を混ぜ合わせた、優しさと悲しみと尊さが絶妙な均衡を保っている笑み。眼の運動量は最大なんだけど、感性が乏しい私には笑っていないように見える笑み。諦観に近づきつつある笑み。

    中川さんが舞台で笑ったとき、とてもとても羨ましかった。こんな素敵な笑顔のできる人間になりたいって心底感じた。どうやったらあんな笑顔になれるのか。体験と経験? 感情の爆発? 想像力?

    体重計にのったら、54.2kg, 8.9%。たぶん嘘だろう。そんな感じがしないでもない身体。なにもしていないのに痩せていくというのは、自分のなかの何かを削り落としている。それが必要なものでないことを願う。

  • 下降線

    2012.09.24 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=zKVq-P3z5Vg]

    今朝は Phil Collins – One More Night でスタート。記憶がもっともよかった青年時代と80年代の音楽は相性がよいせいか、この曲を聴くと当時の情景がよみがえってくる。忘れられない人と強くリンクする。

    午前中、M先生のウェブサイトを作成。午後からA先生のウェブサイトのリニューアルについてコンセプトを捻出。keynoteで前回のミーティングの単語を思い出し書き出していく。書き出した単語とその時の雰囲気を脳裏に再生して、印象の強い単語をピックアップ。単語からページを作成するイメージを描く。

    イオンが朝7時から開店するようになった。今夏、試験的に店舗運営した結果、業績が好調で客の評判もよかったらしい。確かに朝イチの魚は新鮮に見える。先日、あかむつを購入した。小ぶりだったけど4匹で398円。煮付けにして食べたらとても美味しかった。これは朝イチの恩恵かもしれない。

    野菜はそうはいかない。たぶんね。各地から仕入れているから、食べごろより少し前に流通しはじめる。メリットがあるとしたら、やたらめったらいじくられていない点ぐらいか。やっぱり地産地消できる売場から購入した野菜に見劣りする。

    秋桜

    リズムが下降線気味。持ちこたえられるか。いまの調子や周囲への不満を誰かにしゃべらなくなった。昔、あれだけ愚痴っていた自分と比べたら天と地の差。この日記を書いているおかげかもしれない。とはいっても、何でもかんでもここに書いてない。違うかな、「関係」がめっきり減った分、ストレスがなくなったからかもしれない。ストレスと引き替えに誰かとしゃべったり、わいわいするのが苦手になってきた。

    ネットのブログで、脳は孤独へ好むとらしい話を読んだ。ホントかな? 直感的にはウソではって思うがわからない。 “孤独の科学—人はなぜ寂しくなるのか” ウィリアム・パトリック, ジョン・T・カシオポ を買ってみようかしら。好んで孤独になりたいと思わないけれど、ひとりは楽しい。対人への耐性は弱くなった。自覚している。

    誰かと向き合ってしゃべらなければならないとき、パニックにはならないが、時に捨て鉢になっているかもしれない。他者評価をほんの少しだけでも伺いながら接したほうがよさそうだ。

    ひとりの時間が長くなって、会話が理解しにくくなってきた。どうして、そんなことを….と戸惑う機会が増えた。「そんなこと」は私に向けられたのか、私以外の人にも向けられているか、の判別をつけられない。判別をつけられないから、前者に遭遇すると、「私にそれを発しなくてもOKなのに」と思い、聞き流すか、回答するかにためらう。そのへんをやや気にしすぎか。アンテナの受信感度が強くなってしまうと疲れる。

    こういうときは空を見て近所を歩くにかぎる。花鳥風月の花と風は感じられるようになりつつあるので、楽しめるコンテンツは外にたくさんある。

  • 目が無言葉を送信したら受け手は言葉なしでは目を読みとれない

    2012.09.10 曇

    今朝は ティーナ・カリーナ – あんた でスタート。ラジオで知った曲。関西弁ラブソング。僕の中では、この歌い手さんのような「歌い方」と「曲のリズム」にはパターンがあり、「ドストライク」という脳内カテゴリーに分類されます。はじめて聴いたときからど真ん中やや低めでズドンとキマした。

    アルバイトの資料が到着したので入力。日曜日からスタートして没頭。なんとか今日中に終わらせたくて根を詰めて入力したら肩と腰がバキバキになってしまった。夜、入念にストレッチ。

    高倉健さんのインタビュー番組を録画。とても楽しみ。健さんの映画はほとんど観ないし知らない。なのに大好き。『夜叉』って映画を21,22歳ごろだったかにテレビでみたとき(リアルタイムじゃなくて)、顔の表情に魅せられた。セリフではなく、顔や仕草で表現しているって感じた。ほんと、スゴイ!って思った。

    それから健さんが大好きになった。

    「目」の表情はあるかもしれない。健さんだけにはそう思う。目が表現する。目が語りかける。言葉はない。目を見つめる受け手はいかようにも「信号」を受けとめられる。目から受信する「表現の小包」は「いま・ここ」の文脈によってかわる。ある人は怒りと、別の人は憎しみと、慈しみ、悲しみ。

    矛盾がある。送信者の言葉なき表現の小包を受信した受け手は「言葉なし」では表現を理解できない。その小包を開けて、「中身」を確認するのは言葉だ。受け手が豊穣な言葉と感性を持っていれば、「中身」の色空間の座標軸は広がる。反対に貧弱であれば色空間の座標軸は縮む。ひょっとしたら万に一つ「4色型色覚」の受け手もいる。

    “子供の科学 2012年 10月号 [雑誌]” 誠文堂新光社 を近所の書店で購入。近所の書店は半年1回ぐらいのペースでディスプレイを模様替えする。いまやちくま学芸文庫や講談社学術文庫は置いていない。売れ筋や人気がありそうなジャンルを増やす。スタッフの方々の苦難が伺える。「買う」と決めている本を店舗で購入する利点が僕にはなくなりつつある。

    装丁やジャケットに魅せられて買う人や紙の質感に惚れて買う人もいると思う。「本」を愛する人たちの指向はあるはず。僕はそれらに興味や関心がないから、とにかく「中身」をダウンロードできればそれでよい。

    本やCD・DVDなどのすべてをファイルサーバやiPadに保存したら、自分の感覚がどんなふうに変わるか体感してみたい。むなしさを感じるだろうか? 背表紙が持つ「文字」の圧力を感じなくなったとき、僕のなかでどんな変化がおきるだろう。

    本の中身がデジタルデータになったとき、いつか本の中身を時系列に配置していくれたり、登場人物を空中のディスプレイに描写してくれるようなサービスが開発されるだろうか?

    たとえば、“竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)” 司馬 遼太郎“翔ぶが如く〈1〉 (文春文庫)” 司馬 遼太郎 をデジタル化したとき、それらの年表を空間に表示して「交差」する出来事や人物を解説したり、とか。

    いまのパーソナルコンピュータの用途が書き換えられるとしたら、ディスプレイ+キーボード+マウス+パソコンからの脱却だろう。専用のツールを目に装着すれば、「空間」に様々な情報が表示され、携帯のアドレスから「誰か」を指定して、「話し言葉」をそのまま送信してくれる。

    そんな環境がやってきたとき、「本」の表現は変わるか? 「文字」と「映像」の中間ぐらいに位置しそうだ。じゃぁ、映画やドラマとどう違うの? って疑問があって、そこが次世代の「本」を埋める「空白」かなって布団でまどろむ。

  • どちらでもよい、ワクワクするほうを選ぶ

    2012.08.30 晴れ時々雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=FAlZyajmcIM]

    今朝は The Offspring – Cruising California (Bumpin’ In My Trunk) でスタート。ナニ系か知らないけど、けっこう好きなリズム。ダンスしたい。気がふれそうなときに鼓膜を痛める覚悟のヘッドフォンで聴くと7次元へぶっとべそう。

    午前中、M先生のWP製作。11:00前に切り上げ奈良へ。A先生のご自宅へ伺う。Macの設定と操作方法やアプリケーションの使い方など、PC講習会みたいなことを承る。

    人に何かを教えるって難しい。その人にとって “「わかる」ということの意味 新版 (子どもと教育)” 佐伯 胖 は何かを探りながら教える。たとえば、Macの場合、標準のブラウザはSafariだけど、Safariの操作方法を熱心に教えるより、Windowsで使っているブラウザを聞いて、それとの違いややりたいことなどからはいってもらうときもある。先生の場合、「Windowsの場合….」と比較しながらすすめたら、案外すんなりさわっていただけるようになった。

    もうひとつ、「自分が知りたいことを的確に質問する」ことはやっかいで、頭のなかで「こうしたい」と映像やぼんやりしたイメージがあっても、それらを頭の中から僕は直接取り出せないから、言葉に変換してもらわなければならない。その変換作業は思いの外タイヘンだ。

    最後、なにより、さわってワクワクしてもらわなくちゃいけない。これからずっとさわりつづけてもらうからには、「こんなこともしたい! あれもしたい!」って次から次へとやりたいアイデアが浮かぶような楽しさを体験してもらう。そして、iPhoneやiPad, Macを連動させたら、自分のライフスタイルが変容するイメージを持ってもらう。

    こう書いたらなにやらMacを礼讃しているけれど、正直、拘泥しない。WindowsでもLinuxでもよい。要は、自分のライフスタイルのなかにガジェットを組み込んでコンテンツを体験するとき、ナニを使えばワクワクできるか、って点を大切にしたい。

    MacBook Pro lifestyle Chage

    結局、21:00まえまで先生とワイワイガヤガヤやって、奥様と3人で食事へ。1時間ちょっとの食事だったけど、濃密なお話しを交わせた。また料理が絶品でいつもの2.5倍は食べた。お腹がパンパン。10:30すぎの列車に乗って帰宅。

    ホント、よい経験だった。

    Macに対する僕の使い方と他者の使い方は異なっている点を再確認できたし、操作方法ひとつとっても、「あるひとつの動作」をアウトプットするためのアプローチが複数ある場合、僕と他者のアプローチは違う。どのアプローチを選んでも最後のアウトプットは同じ。だけど何が使いやすいかは人それぞれ。

    また、Macに対する着想やアイデアも違う。あっ、そうか、そんな感じでファイルを管理するか、と新鮮だったし、そこでそうパッドを動かすか、とか、何に疑問を持っているかとか、ホント、「認識」と「デザイン」の勉強になった。

    人に何かを教えるのは苦手。今日みたいな経験が苦手を克服してくれたらな。

  • 冷や汗脂汗発汗焦る

    2012.08.10 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=iPUmE-tne5U]

    今朝は Katrina & The Waves – Walking On Sunshine でスタート。Michael J. Fox の The Secret of My Success(1987) の挿入歌ですね。この映画、何度も何度も見ました。大好きでね。あのスピード感、実話の要素も組み込んだサクセスストーリーが小気味よくてね。

    10:00に湖南市へ。営業。幹部の前で大失態を演じる。社長からお叱りのお言葉。破談。本来ならかなり凹べき事案だけど、まったくリカバリーできない失態だったので、凹もなにも自分の対人スキルの低下と魯鈍と打ち合わせ能力の皆無を体験できた点を感謝した。よい経験だった。自分でも認識しかけていた「能力のなさ」を外部を通じて自覚できた点はほんとうによかった。

    12:00前に草津駅からKさんに報告。Kさんの顔に泥を塗ってしまったことをお詫び。いったん、自宅へ戻り、M先生のサイト制作の続き。M先生からのメールを拝読して深謝。一日でケチョンケチョンになって、またウキウキするなんて今日ぐらいだろうなぁ、と思いながらTwitterのTLを眺めて絶句。死んだとの記事。なんでこんなに出来事が重なり感情が揺さぶられるのか。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車して “子供の科学 2012年 09月号 [雑誌]” 誠文堂新光社 を購入。いつもと違う本屋で購入しようとしたら勝手わからず店員さんに尋ねる。店員さんは検索システムを駆使してフロアを駆け抜けて持ってきてくれた。気の毒な感じもしたが嬉しかった。「中身」だけを買うならAmazonでよいが、中身+αは書店でないと体験できないかな。そうでもないか。書店が残っていける要素は何かな。

    スタバで休憩してから約3.5kmを歩く。午前中、冷や汗と脂汗をたっぷりかいたので、今度は自然の汗をかきたくなったので。約40分後、最寄り駅のモールへ到着して汗びっちょり。気持ちよかった。AGで身体を拭きリフレッシュ。

    19:00からミーティング。午前中のショックを引きずったまま。自分のコメントがわけわからない。頭で描いている情景と言葉で展開する意見が一致しない。ああ、そういうことを言いたいわけじゃないのに口が勝手にしゃべってあらぬ内容を発話している。それは自覚できた。へんなところで冷静だった。

    ロンドンオリンピックの競技を視聴していたら自分の視点を認識した。純粋にスポーツそのものを楽しんでいない。たとえば選手の出身国や記録、ランクを確認する。選手の属性を気にしている。これはたぶんスポーツだけにとどまらず、他人に対しても適用している構造だと理解した。たぶん、そういう視線で他人を推し量っている自分がとても嫌だから「属性」に対して拘泥したくない強い気持ちを持っている。モニタに映る国旗や国歌に敬意を払いつつも、言葉でまとめられない違和感もあり、両価的なもやもやした何かを抱えて視聴していた。

    目の前で放映されているスポーツそのものを楽しもうとするとき、選手の国や肌の色、記録は関係ない。ルールを知らなければ何がどうなるかつながらないから勝負を味わう上では知っておいた方がよいだろうけど、それも些末な要素かもしれない。同じものをみていても、僕が視認していない領域や動きについて説明する音が聞こえるとおもしろい。あぁ、他人はそこを視ていたのか、と思う。

    バスケットボールならボールをさわっている選手以外を視られるけれど、サッカーはボールを中心に眺めている。他の競技でもそんな差異がある。

    同じ時間に同じ場所で同じ動きをしている「コト」をじっとみているからといって、同じ解釈をするとはかぎらない、って当然承知しているのに、なぜだか錯覚してしまって、みんなが同じ解釈をして理解したって了解して、「意志決定」の言葉を省略してしまう。で、結局、何を決めて誰が何して、いつ確認して、事後を検証するかって「運動」の基本を怠っている。そんな気がするな。

  • simplicityは嬉しい

    2012.07.06 雨のち暴風雨と雷

    今朝は Superfly & トータス松本 – STARS でスタート。ラジオでトータス松本さんが志帆さんの才能をべた褒めしてました。歌唱力の違いを見せ付けられて羨ましかったと。プロの羨望のまなざしを浴びるわけだからやっぱりすごいや。

    湿度が高い。部屋のなかでも汗ばむ。曇の天気。賭けて洗濯したら負けた。洗濯物は乾きそうにない。生臭い。部屋干しの機能が組み込まれる昨今の住宅事情に得心。

    紫陽花が綺麗。あともう少しかな。華やかに見えてそろそろシャットダウンの準備にはいっている。草木の緑もいまがピークではと。これからまだまだ鮮やかな緑が映えるかといえば、自然は人の感覚より一足早くシステムを運用しているような印象。

    他者の能力を上手に使って効率よく物事を推進させる行為と他者を巻き込んで物事をすすめる行為は微妙に異なる。前者は合意、賛同、共感などの土台が築かれていて一体感を醸成する。後者の土台はぐらぐらしている。不明瞭な視野のなかで巻き込まれた人のポテンシャルは低下しかねず、最適なパフォーマンスを表出できない。

    両者の差異を明快な論理で記述しなさいってつっこまれたらたじろぐ。正直、体感のレベルである。またその時々のシチュエーションや気持ちによって動きは変わって感じ方もゆれ動く。

    16:00すぎに大阪へ出発。車中、雨が強くなった。大阪駅で途中下車してスタバでこれからのシーンをシミュレーションする。入念に丹念なシミュレーションをくり返すより、何が起きた時に僕の能力はまったく機能しないか、だけを想定する。それ以外の出来事はライブの弾力に従った方がよい。

    最寄り駅でKさんと待ち合わせ。今回ご紹介いただいた先生の医院へ同行していただいた。19:00すぎより三者懇談開始。これまでの経緯やサイトに対する考想や現状の認識を伺う。30分ほど伺ってキーワードを拾えたので、別室へ移動してホワイトボードを使って即興のプレゼンをご覧いただいた。

    先生はプレゼンの結果をFacebookに残してくださった。コメントを拝見すると満足してくださったご様子。”simplicity”との評価を頂戴できてとても嬉しい。

    先生とは再会である。長い年月の間、自分がどう変化したか自覚できないが、少なくとも他人へ迷惑をかけるような仕方の変化はしていなかったようだ。安心である。

    人見知りが激しいので新しい出会いは苦手だ。人見知りの激しさを改善できると思わない。変える・変えないの関心は薄れ、もうどう演じるかだけだ。

    今回の再会も緊張していたら、先生は会うなり「かたいよ」ってつっこんでくださった。拝顔するまえからFacebookでやりとりしていた。やりとりが先生にかたい印象を与えた。人の属性によってしゃべり方を使い分ける己の言動に違和感を覚え、発話方法の調整に疲れるから、敬語をデフォルトにした。すると「(一般論的に)かたくなった」かなという自覚はあった。それを見事にツッコンでいただいて安心した。ちゃんとかたくなっている自分が嬉しかった。

    かたい自分をほぐすのは自分ではない。相手だ。相手に甘えるのではなく、相手と自分を拡張させた空間認識と表現が両者をほぐす。互いが己と他人の境界線を消しゴムで消していく空間の拡張作業を怠れば、硬直したままである。

    20:30ごろに終了。その後、場所を移して3人で懇談。先生は僕を観察していらっしゃった。僕の食卓での作法にややこころよくないと感じていらっしゃったかもしれない。わからない。なにせ食べないから、積極的に肉にもかぶりつかないし。そのへんの作法はいつも悩ましい。Kさんと先生が交換する人材の話題を聴いていた。もう僕は人材に対して叙述できる実務をこなしていない。先輩・後輩・上司がいない。わからないことだらけ。黙って伺う。実務をリアルに経験なさっている方々の言葉はほぐれている。

    ライブだ。

  • ほしがりませんがまたやってくる

    2012.05.21 晴れ

    今朝は Bibio – The Ephemeral Bluebell でスタート。Stephen Wilkinsonによる懐かしい音に聞こえるし、テクノサウンドでも楽しめる。ヘッドホンで多彩な音を聴きながら、朝日を眺めたくなるようなナンバ。Bibioもマイフェイバリットナンバ。

    M先生のページ作りに四苦八苦していながらF先生の資料作りに悪銭苦闘。テキストを入力してはdeleteボタンを押す。マウスを動かして図を描いてはcommand+zを押す。

    二十四節気、小満。稜線の濃度が高くなる。躍動がはじまる。第二十二候、蚕起食桑。旬は岩魚らしい。釣りをするなら海か山か。どちらもやる人はいらっしゃるだろうけど、僕は山だと思う。静寂のなかでやってみたい。五月は雨も多い。そろそろ梅雨の走りか。荒れた天候があり、たくさんの出来事があったのち、それらは「全体」の記憶の片隅に追いやられつつある。その記憶が取り出されるのはいつごろか。年末か。残酷と不条理は日常生活と隣りあわせ。残酷と不条理に向き合い続けるより忘れるほうにリソースを消費する。そうしないと膨大な情報を処理できない。

    14:00に出発して京都駅へ。C社のH氏と打ち合わせ。ウェブサイトからコンタクトを増やしたい。特殊な業種だから厳しい。承知している。が、なんとかしたい。手探りが続く。情報だ。情報は、文字・音声・音・絵・図・表・写真・映像・数式などの形式を使って表現する。表現方法を組み合わせて適当なペルソナに情報を届けなければならない。17:00前に終了。

    フィードから流れてくるテキストを読んでいると、戦中のメディアは今のような状態だったのかなぁと想像する。ほしがりません何チャラってフレーズが頭に浮かんだ。こわい。手段である節電が、カルト集団のドグマに見える。同調圧力のアイコンだ。村八分。新聞社は、両サイドの「主義者」を刺激するテーマを書くとき、「有識者」に代弁させている。その有識者も、両サイドのどちらかに所属していそうだ。発言の機会が与えられているから持論を存分に展開する。これで新聞社は署名記事を書かなくてすむ。

    TwitterのTLでは、科学・技術・法治・政治の視点から冷静な議論が積み重ねられている。中には感情的なツイートもあるが、議論を構成する母集団が大きくなれば一定の比率で発生する。感情的なツイートは読めるが、発狂しているつぶやきはスルーしている。ただ140字の制限があるから緻密な議論は難しいし継続は期待できない。断片的な議論でもありがたい。巨視的と微視的の意見を拾い集めて自分の思考の種に組み合わせる。

    TwitterのTLを眺めていると、「あっ、この人の感性ってステキだなぁ」って感じる瞬間がある。どういうときか? 単語の選択力にふれたとき。TLに流す単語の選択が最適化されている。

    相手が専門家でないと憶測したら、タームを平易な単語に置き換える。全部置き換えられない。可能なかぎり置換している。修辞や類比を使ってかみくだいて意見を述べていらっしゃる。

    他方、相手を専門家と識別したら、タームを駆使して140字の制限を縦横無尽に駆け抜ける。正直、140字のテキストを読んでも、僕にはわからないが、会話が成立しているぐらいは判定できる。その丁々発止のやりとりがうらやましい。おもしろい。ステキだ。

    だから、これとは反対の人、ちりばめられた覚え立てホヤホヤのタームや知識の卸売りに遭遇すると、僕は文字アクセス機能を低下させる。そういう人の匂いをかぎ分けやすい。なぜなら一昔前の自分だからだ。昔の自分と出会った奇妙な感覚が起動する。

    非科学的なあやしいことを書くと、自分の意見を自分の理路で出力する人の語感は、痕跡を含んでいる(ような気がする)。痕跡は見えない。見えないから聞いている僕の頭のなかで想像が膨らんでいく。想像を膨らませてくれるから、欲望のスイッチがオンになる。この人が探究している「先」を僕も味わってみたい、とソワソワさせる。居ても立っても居られない。

    そういう人とこれからも出会いたい、とワクワクしている。