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  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • 他者から託された脚本が日々の営み

    他者から託された脚本が日々の営み

    2013.05.01 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=yWCE_hUj7h4]

    →Pia-no-jaC← – 台風 でスタート。昨年、知ってすっかりはまってしまったインストゥルメンタルユニット。ライヴに行ってみたい。部屋でアルバム流していてもゾクゾクするんだから、ライヴなら…..なんて言わずもがな。

    長い年月、たくさんのひとが通り過ぎていく。時に立ち止まり、時に寄り添い、駆け抜ける、気づかなかったり、あらゆる方へ通り過ぎる。

    日々の営みとは、通り過ぎてゆくひとから脚本を託されて自分の台詞を書き込み、私の舞台を最後の最後までみてくれていたひとを探す(文法と時制がおかしいと思うけど)、コトかな。探し続ける。私と最後の最後までみてくれたいたひとの間に広がる時空に囚われずに。ひょっとしたら遠い場所にいるかもしれず、とても近い所かもしれない。

    もうひとつ、誰かの舞台を最後の最後まで私がみる。こちらは日々の営みの彩りを豊かにしてくれる、滋味にあふれる。

    なにかをつくるとき、ぼぉっとする時間がいる。ぼぉっとしているようで実はしていないみたい。何も浮かばなくても机の上に座るのも大切なんだけど、フライパンで炒めものしているときや、散歩しているとき、写真を撮っているとき、トイレのなか、とかで、集中しているようで集中していない、片手間になっちゃいけないんだけど、ついついなってしまうような時間と空間にいると、頭の片隅で置いているコンテンツにまつわるアイデアの輪郭がハッキリしてくる。

    いまだとあるコンテンツを頭の片隅に置いている。待合室にディスプレイするコンテンツとウェブサイトの内容。ウェブサイトと待合室とチェアの3点を連動させるコンテンツを試みている。

    3点が重複している情報としない情報、3点の情報が見られる場所や雰囲気などを想像しながらスライドの順番やウェブサイトに書く文句、写真を練っている。

    頭のなかで浮かんだイメージをタイプしていく。もちろんうまくいかない。頭のなかのぼけた輪郭を書くことでハッキリさせていくと「言葉」で理解していても身体は追いつかない。

    タイプするだけして、またぼぉっとする時間と場所をつくり、タイプした情報を編集する。それの繰り返し。

  • 自覚知覚無自覚

    2013.03.20 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=0yBnIUX0QAE]

    今朝は Toploader – Dancing in The Moonlight でスタート。この曲、オリジナルを含めてカバは全部好き。どのカバーだったか忘れたけど、高校生のとき、手をつないで踊った。ぎこちなくて、はずかしくて、でも、その時見えた月夜の景色が美しかったはずで、なんだかわくわくして。

    第十候、雀始巣。新玉葱を買いサラダで。辛みが弱くシャキシャキ。口中が奏でる音を耳の中にインポート、顎の感覚を噛みしめる。彼岸の入り、日の出と日の入りの出番の長さが入れかわり、三寒四温と別れを告げるくらいに春の長雨と挨拶するのかなって思ったりしながらさえずる。

    午前中、’ment’ について徒然。今度、スタッフひとりひとりに個人面談の結果を伝える。過去10年のなかでもっとも厳しい内容を各自に伝える、と前回のミーティングで伝達した。そのまま伝えたが、語の定義が異なっている。厳しい、というのは、状態ではなく、内容である。

    そのときが来て差し向かえに座ったとき、言い方はやわらかいく笑顔だろう。でも、内容は激烈だと想像する。

    「自覚」である。

    自分の「状態」を自覚する行為はとても辛い。他の人が自覚についてどう思っているか知らないが、僕は辛い。ネガティブなほうを認めたくない。そもネガティブではなく、あくまで結果の差異でしかない。だけど、差異は、長所や短所、良い悪いで判定してしまいがちで、その判定に従えば、短所や悪いのイメージから顔をそむける。

    そのイメージって、世間がなんとなく抱いている偶像でしかない。

    琵琶湖 湖畔

    伝える私も自覚しなければならない。客観はない。面談の内容を冷静に吟味したところで、いくつもの仮説を構築したところで、それらは私の「視点」から発生した発想にすぎない。

    発想がもたらした「差異」を伝えるとき、よほど強く自覚していないと、「私と違うからおかしい」というニュアンスが言外に含まれてモノを言う。

    よほどの強い自覚である。言葉で書けば虚しくなる短い一言。

    たとえ虚しいくらい短い一言を自覚してもニュアンスは含まれている。ならば自覚は? となる。宵越しの銭を持たないと言いながら金のことばかり気にしているようなものだ。

    午前中、”ment” と 自覚について思い回す。言葉が足りなければ辞書を引き、言葉を探し、意味を考え、頭のなかで形を整えていく。日ごろ体験している出来事から ‘ment’ を抜き出し、それを言葉にして頭のなかで自問自答する。

    自覚。たったひとつの単語だけで、果てを自ら設定しなければいつまでも堂々巡りする。

  • simplicity は simple と違うよね

    2012.12.12 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=y8AWFf7EAc4]

    今朝は Jeff Buckley – Hallelujah でスタート。この歌を聴くとき、泣きたくなったり昔を偲んだり。誰かの顔を思い出したり、思い出したい出来事を思い出せなくて寂しくなるとか。大切な想いをココロにインストールして穏やかな精神のソフトウェアを開発したり。ホントに好きな曲だ。

    フリーランスになって9年目が終わろうとしている。来年は10年目。昔から区切りは気にならない。自分自身の何周年に関心はない。ただ何年やってきたかだけ数えておく。次に履歴書を書かなければならないときがやってきたときにいつでも思い出せるようにしたいから。

    10年一昔、40歳になってこの表現を味わえるようになった。頭は関心はないと言っても身体は何か区切りをつけたがっているのかしら。このところ、また一段と物を処分している。ウェブサービスを解約したり、身辺整理が加速している。

    このブログのサーバも引っ越したいので調べている最中。

    いまの仕事をやっている間はこのドメインで書くけれど、廃業したらアーカイブを残して別のドメインへ移行して書くつもり。ただそのときになって自分の気持ちに素直に従うからどうなるか予断を許さない。

    20代や30代のころ、自宅のPCが増えていき6,7台あった。少ないとおっしゃる人もいるだろう。PCの組み立てと環境設定が楽しかったのでパーツを買い替えて余ったパーツでまた1台組み立てた。おかげでパーツを交換するたびに台数が増えた。

    3,4年前から物を減らすようになった。手始めに書架の本を処分した。数百冊処分して、これから新書と文庫をまた数百冊捨てるか、裁断の外注に出そうか思案している。裁断してもらったらスキャナで読みこんでiPadに保存しておくのもよいから。

    PCも廃棄してきた。先日、最後の最後まで残った愛機の電源をついに落とした。10年以上使い続けてきた。よく動いてくれた。おつかれさま。ディスプレイとあわせて近々処分する。

    いずれ仕事用のMacBook Proとファイルサーバー1台の体制へ移行したい。ソフトウェアもクラウド系へ移行しつつある。手元にソフトのCDを置きたくない。もうたくさんのソフトをインストールしたくない。

    近江神宮

    スーツは1着だけ置いて、残りは捨てた。洋服は2年以上着なかったものを捨て始めている。なんでこんなにたくさんのカバンがあるんだ?って感じで靴もひょっとしたら2足で足りるかもとか、いやいやそれはちょっととかで駆け引きしている。

    こうやって捨てていくとき、たくさんのことがわかってきた。興味深い感情を体験できた。いままでとは異なる眺望点へ行けた。

    だからといって物を大切する、よい物を長く、みたいな変身は起きない。 “シンプルに生きる―変哲のないものに喜びをみつけ、味わう” ドミニック ローホー の気持ちはまったくない。よいものを買っても手入れしなければ長く使えないし、道具の本質を味わえる感性をまとっていないのに「物」を所有していもしょうがない。

    なかでも自分の中での発見は、simplicity は simple の差違だ。まだうまく説明できない。

    シンプルになれてもsimplicityに届かない。精神と肉体のsimplicityは異なる次元の様式。ただ物をどんどん捨てればsimplicityにはなれない。粗食がsimplicityをもたらすわけでもない。物が手元からなくなりスッキリするのはシンプルにすぎない。

    両者の差違を頭の片隅に置くようになってから周りの景色はゆっくりと変わりつつある。周りからはいってくる声も変わり、解釈も変化してきた。

    この変化の結果を自分が認識できるようになるまで何年かかるかわからない。その期間に突入したんだなってことだけはわかりはじめた。とてもわくわくしている。

  • おそろしいほど変わっていない

    2012.12.05 曇

    http://www.youtube.com/watch?v=qNGnGdk_Hss

    今朝は 見田村千晴 – 青 でスタート。この歌もラジオから流れてくる。ちょくちょく耳にする。

    寒気がやってきた。夜が長い。目が覚めたときは暗く、朝食を終えたころに光は部屋へ差し込む。曇の日はそれも望めず薄暗い。毎朝、あるものを撮っているが、この時期は難儀する。自然光が弱いから自分の上では思うように撮れない。

    月曜日、F先生にお目にかかって来期の診療体制や労務関係を打ち合わせした。自分の対話能力が低下している。薄々頭で感じはじめていたことを身体も感じられるようになった。先生に申し訳なく、どうしたものかと帰りの車中で反省。テーマをロジカルに展開できない。知識が不足しているからか、着眼点が拙いか、あるいはロジカルシンキングの能力不足か、まったく異なる事由か。問題を設定することは難しい。

    予想外のことがおこらないように予想する。屁理屈でもこの能力を鍛錬しなければこの先はない。いまもついつい自分の都合のよいように予想する。予想の持ちネタが少ない。進行中の結果が予想と違ったら差異にうろたえる。

    数年前に“知識デザイン企業” 紺野 登 を読んだとき、PDCAのサイクルからHPRFをぼくは表現した(PDCAからHPRF | THINKSELL)。個人の判断が重要だ。個人の判断は、身勝手な行為に直結しない。全体と個の関係を観察する能力が仮説から実践のプロセスで求められる。目標の到達点から目的の到達点へ置き換え、計画と実行を分離させない。

    35歳ごろからの5年の記録を読んでいると、周りの話を聴かなくなった。そう自己評価する。過去に積み重ねてきた自分の知識が、周りの話を遮断する。「もう知っている」「自分には関係がない」「いや、それは違う」など様々な感情と土台の知識が強くリンクして、他者からの入力を拒む。

    進化のために変わらなければならない点を変えず、変えてはいけない点を変える。そんなことが知らず知らず起きている。自分でやっていることなのに知らず知らずはおかしいはずだけど、存外、自分のやっていることほど正しいと錯覚する。

    若いころ、年長者の人がどうしてあんな嬉しそうに話をするんだろう? って不思議だった。その不思議な領域に僕は足を踏み入れている気配を感じる。

    自分の体験を参照する。積み重ねてきた知識を他人に披露するときの自己陶酔感に浸っている。自分の知識は有用であり、目の前にいる人の知識は無用である。自分が優位であると疑わない。このゆるぎない思いこそ自分の知性が不調の証。知性の不調を認識できず、他人に知識を開陳する高揚感をただただ味わう。

    「常に自分を疑っている」との言葉ほど疑わしいことはない。そう感じるようになった。なぜならその言葉の頻度が高くなればなるほど、変容していない。

    おそろしいほど変わっていない。

  • いつかは破綻する

    2012.10.16 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=CB4EgdpYlnk]

    今朝は Bette Midler – The Rose でスタート。定義できない正解のない単語について、「どういう意味で使っているか?」との問いは、するどいように聞こえるが、少し考えれば他者の回答を必要としない自己顕示欲から発せられる究極の閉ざされた質問であるとわかる。「愛とは何ですか? それを理解して使っているのですか?」とあたかも高みから望むように。

    第五十候、菊花開。寒露にはいりさすがに朝晩の冷え込みがはっきり感じられる。気温や天気だけに感覚が奪われてしまうと、感じられる秋の質感は減ると思う。たぶんメディアから距離を置けば自分で秋を見つけるように変わっていくだろう。

    新米が出そろい新豆や天然ものの滑子がならぶ。毎年おなじみの光景があるかと思えば、北海道では鯖が豊漁であり、琵琶湖の鮎の川遡上が激減している。同じものといつものと違うもの。それも人が勝手に見さだめているだけかも。

    近くのスーパーが鍋用ズゴックとうふを販売していて、前を通った瞬間、買い物かごにおさまっていた。ど真ん中世代としては見逃せない逸品である。が、いざ冷蔵庫にしまうと食べるのがしのびない。観賞用にも置けないから困ったが、なんとか鍋用として使って供養してやらねば。ザクに続きよいアイデア、できればドムを期待したい。

    10:30から大阪でミーティング。前回に続き、今回も私が進行と講師を仰せつかる。仰せつかるといっても何も準備していない。そのときの場の雰囲気やスタッフの方々の表情を伺い、みなさんから発せられる意見をつなげていく。ピースを拾い集めてジグソーパズルを完成させるように、みなさんの言葉を拾い集めて一枚の絵にしていく。

    ただ描く絵が決まっていないから、「ピース」が必要か否かがわからない。組織がわからないという沈黙と負荷に耐えられるかどうか。それをずっと観察していた。

    10:30からスタートして12:00すぎに終了して10分ほど、みなさんが余韻に浸っておしゃべりしている姿を観察していた。どこにでもなににでも関係がある。関係の背景に隠れている「 」へ観察から得られた言葉をはめこんでいく。想像力が「 」のなかに言葉をはめこめ、創造力ははめこんだ言葉を壊して書き換える。ふたつの質量の増大が自分のコンテンツだ。

    昼食をとって午後からはiMacの設定。隣でKさんが仕事していた。昔の先輩。久しぶりに基本の仕事をしていらっしゃる姿を拝見して懐かしかった。もう忘れてしまった仕事。

    18:30ごろに設定は終了して先生にひととおり説明して、質問を受けたりしてたら19:30ごろに。そこからKさんと大阪へ移動して食事へ。ずいぶん久しぶりだったせいか、Kさんとの話し込んでしまった。気がつけば23:40をまわっていて、あわてて大阪発野洲行き最終列車へ駆け込む。

    Kさんが最後の最後で僕を叱ってくれたことを忘れない。叱咤激励。僕の弱点とルーズな点をちゃんと見抜いていらっしゃる。それを今回も指摘してくださった。ありがたい。たとえまわりの経営者や先生は僕にたいして同じ気持ちを持っていたとしても、面と向かって指摘して、アドバイスしてくださるのはKさんだけだ。

    僕のやり方はいつかは破綻する。肩書きを捨てていけるとこまでいってみよう。

  • 完成品には何も装着しない

    2012.10.11-14

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=9AEoUa0Hlso]

    今朝は KT Tunstall – Suddenly I See でスタート。一定の間隔で聴きたくなる。軽やかな感じが日の出前の沈黙とアンバランスでおもしろい。

    週末、大津ジャズフェスティバルへ。今年はホールでじっとしていた。初日の Lew Tabackin Trio がクールだった。72歳。舞台の上でsaxophoneとfluteをswingするおじいさんはとってもcoolだった。

    ただ、観客のなかには幼稚な人がいた。撮影を明確に禁止していないためか、フラッシュをたいて撮影していた。フラッシュの仕組み(光が届く距離etc)を知らなくても、撮影が礼儀に反する行為と大人は理解できるはず。あちこちからフラッシュが焚かれるたび情けなかった。スマートフォンで動画を撮影する人もちらほら。

    大人とは年齢に関係ない。老人たちが「最近の若者は….」と口にする若者のなかに成熟した大人はいる。そう口にする老人や中年のなかに恥知らず、礼儀知らず、愚かな者はいる。会社の関係を世間に持ち込んでいるかのようにふるまう人もいる。組織のなかで地位についているから、関係の属性が世間でも通用すると思っているらしい。グロテスクな思考である。

    OTSU JAZZ FESTIVAL

    アマゾンから届いた “死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策 を貪り読む。もっと前に読みたかった、と、いまがその時機だ、って思いが交錯した。「観念的な生死観」でしか死を整理していなかったことを恥じる。かといって、いまのところ生命飢餓状態に身をおいているわけではない(と思っている)から、いまだ自分にとって死は「観念的な生死観」の只中だ。どうすればそこから脱却できるか、と思う前に、そもそもそこから脱却しなければならないのか、ともよぎるし、いずれ必ず自分にも生命飢餓状態がやってくる。その時でもよいか、やら思いがちらばっていく。

    瞑想、と書けば大層になってしまうが、なんとなく目が覚めてすぐに半跏趺坐のようなポーズで目をつぶり数分を過ごすようになった。何か思い立ったわけでもなく、日を追うごとに日の出が遅くなり、薄暗いなかで目が覚めたときにできることがないかと思っていたら、目が覚めたら目をつぶるなんて皮肉な話にいきついた。

    26,7歳の頃にも一時期やっていた。今度はいつまで続くか、毎日続けられるかわからないけれど、淡々とできたらよいな。

    何も考えず、目をつぶるでも開けるでもなく、うっすらと暗い部屋のどこにも焦点を定めず「空」の状態でいるなんて無理だなって実感する。空に近づけるとは努々思わない。呼吸に意識を集中している点は20代のころと違う。自分がどんな呼吸をしているか知りたいのでなるべく意識している。となると、呼吸か身体のどこかの部分について思考してしまう。

    週末、iPod touch 5th が到着した。第一印象は薄い、軽い。そして噂どおり初期状態でほんのわずかな傷が二カ所あった。気になる人は即アップルストアに行って交換してもらうだろうけど、僕はこのまま何も装着せずに持つのですぐにアルミの塗装がはげるはずで、気にせずそのまま設定した。

    Steve Jobs がiPhone 4(S)のサイズに執着した(らしい)という話を知っていたが、iPhone 5とほぼ同じサイズになったiPod Touch 5thを持ってみて納得した。僕の手にはほんのわずかに大きい。この「ほんのわずか」がとても大切なんだ。慣れると思う。でも、手にしっくりくるサイズとは異なる。

    フリック入力もほんの少しだけつっかえる。薄くなってわずかに大きくなった分、片手で持ったときの安定感が失われた。まるで「裸」で持つことを前提にしていないような設計である。

    iPod Touch 5th with free engraving

    オンラインストアから注文したのでいつもどおり刻印してもらった。Today is a very good day to Die. (From Many Winters by Nancy Wood) 邦訳 『今日は死ぬのにもってこいの日』。大好きな言葉。そういまこの日記を入力している部屋に入ってくる柔らかい陽射しと空を眺めていると、今日もそんな日であってもよいな。

  • 顔が見える関係に自分を注ぎ込もう

    2012.09.14 雨のち晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Af0p3K42NZw]

    今朝は Bonnie Tyle -Total eclipse of the heart でスタート。 Bonnie Tyler といえば holding out for a hero を思い浮かべる。ドラマの主題歌だったからインパクトは強い。なぜかハスキーボイスに引き寄せられる。むかしから声の低い女性が好きで、フェチまでいかないけど、声に拘泥していた時期もあったといまから思えば心当たりアリアリ。

    M社のページ制作を仕上げてアップ。今回はちょっとだけ手間がかかった。こういう手間が心地よい。いつもルーティンからはずれるタスクはよい刺激。

    16:00前に大阪へ。ルーティンになった大阪駅でのFBチェックイン。今日から instagram をはじめたので、ためしに instagram 用に撮影した写真をFBにもアップして大阪駅にチェックイン。丸ビルのスタバでスターバックスカードを購入して読書。18:00から約3km歩く。

    歩くと実感、日の入りが早くなっている。先週よりも薄暗くなった。Dr.Martensのブーツでザッザッってリズムで徒歩。歩く前に雨が降っていた。この間までなら蒸し暑いまま。これも違った。涼しい。まだまだ汗はかくけど歩きやすくなった。

    19:00からM先生のミーティングに参加。20:00に終了。もうひとりの外部の参加者Mさんと対立した雰囲気に。僕の主観であって相手はどう受けとめているかわからない。でも、対立は進化に必要な要素。ただし対立がスタッフを混乱させてはいけない。今回はMさんの進め方にみんなが賛同したのでうまくいった。よかった。

    帰り際、ファシリテーションしていたスタッフがタイムカードを押していたところに声をかけた。ミーティング中、彼女の表情が気になっていた。これは半年前から気になっていた。「あるシチュエーションになったときに起きる表情」が彼女にあって、いずれの表情も共通している。発する言葉や仕草、感情の露呈もかわらない。だから、今日は踏み込んでみようと決めて、「申し訳ないけど、あえて伺いますね」と切り出した。

    10分程度の会話。胸につまっていたコトが彼女を洪水へ巻き込んだらしい。20,30代の僕は崩れていく表情を見たらうろたえていたけど、いまは院長先生と僕の想い、ミーティングで彼女へ問いかける意図や目的、課題、僕が観察している内容などを粛々と伝えた。あとから車中でふりかえったら自己満足しながらしゃべっていた感じだ。

    短い時間で伝わったと思えないし、理解してもらったって安心したら虫がよすぎる。感情を発露していた彼女にしたら感情を僕に表現するほうに力がはいり僕の話は耳に入っても理解まで至っていないと思う。でもそれでよい。とにかくそういう「場」を持てたからスタートラインが少し見えた。

    毎週、お目にかかっても彼女との距離感を測りかねる。わからない。ぴったりの距離は妄想だろう。どのタイミングでどんな言葉をかけるるか。互いのパーソナルスペースが交わる点はどこか。迷いながら距離を設定する。こちらが勝手に設定する距離。

    昨日の先生と奥様との会話でもある。お目にかかっても悩む。顔が見えれば見えるほど「関係」のカタチが識別でき、「関係」の中の自分の位置を探しはじめ関係と位置の距離を想像して自分を制御する。いまの僕は、顔が見える「関係」に心身を注いで正確に反応させなければならない。その訓練をしなければならない時機。

    そう思うと、顔が見えづらい「関係」の距離感を推し量るなんておこがましい。推し量れるはずがない。もっと冷淡にならなければ。”どうでもよい”(単語の使い方は間違っている)という構え方が反応を鍛えるかもしれない。

    顔が見える関係は言葉以外のコトを体感する。顔が見えづらい関係は言葉だけに意識を注ぐ。言葉だけに意識を注いだ時、誤解するし、自己陶酔する。言葉は危なっかしい。言葉を正確に制御できる能力をたずさえていないからだ。言葉の意味だけを取り出せない。何を言ったかより、人と感情に引っ張られる。

    ミーティングから帰りの車中、そんなことを思い浮かべて揺られていた。

  • どちらでもよい、ワクワクするほうを選ぶ

    2012.08.30 晴れ時々雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=FAlZyajmcIM]

    今朝は The Offspring – Cruising California (Bumpin’ In My Trunk) でスタート。ナニ系か知らないけど、けっこう好きなリズム。ダンスしたい。気がふれそうなときに鼓膜を痛める覚悟のヘッドフォンで聴くと7次元へぶっとべそう。

    午前中、M先生のWP製作。11:00前に切り上げ奈良へ。A先生のご自宅へ伺う。Macの設定と操作方法やアプリケーションの使い方など、PC講習会みたいなことを承る。

    人に何かを教えるって難しい。その人にとって “「わかる」ということの意味 新版 (子どもと教育)” 佐伯 胖 は何かを探りながら教える。たとえば、Macの場合、標準のブラウザはSafariだけど、Safariの操作方法を熱心に教えるより、Windowsで使っているブラウザを聞いて、それとの違いややりたいことなどからはいってもらうときもある。先生の場合、「Windowsの場合….」と比較しながらすすめたら、案外すんなりさわっていただけるようになった。

    もうひとつ、「自分が知りたいことを的確に質問する」ことはやっかいで、頭のなかで「こうしたい」と映像やぼんやりしたイメージがあっても、それらを頭の中から僕は直接取り出せないから、言葉に変換してもらわなければならない。その変換作業は思いの外タイヘンだ。

    最後、なにより、さわってワクワクしてもらわなくちゃいけない。これからずっとさわりつづけてもらうからには、「こんなこともしたい! あれもしたい!」って次から次へとやりたいアイデアが浮かぶような楽しさを体験してもらう。そして、iPhoneやiPad, Macを連動させたら、自分のライフスタイルが変容するイメージを持ってもらう。

    こう書いたらなにやらMacを礼讃しているけれど、正直、拘泥しない。WindowsでもLinuxでもよい。要は、自分のライフスタイルのなかにガジェットを組み込んでコンテンツを体験するとき、ナニを使えばワクワクできるか、って点を大切にしたい。

    MacBook Pro lifestyle Chage

    結局、21:00まえまで先生とワイワイガヤガヤやって、奥様と3人で食事へ。1時間ちょっとの食事だったけど、濃密なお話しを交わせた。また料理が絶品でいつもの2.5倍は食べた。お腹がパンパン。10:30すぎの列車に乗って帰宅。

    ホント、よい経験だった。

    Macに対する僕の使い方と他者の使い方は異なっている点を再確認できたし、操作方法ひとつとっても、「あるひとつの動作」をアウトプットするためのアプローチが複数ある場合、僕と他者のアプローチは違う。どのアプローチを選んでも最後のアウトプットは同じ。だけど何が使いやすいかは人それぞれ。

    また、Macに対する着想やアイデアも違う。あっ、そうか、そんな感じでファイルを管理するか、と新鮮だったし、そこでそうパッドを動かすか、とか、何に疑問を持っているかとか、ホント、「認識」と「デザイン」の勉強になった。

    人に何かを教えるのは苦手。今日みたいな経験が苦手を克服してくれたらな。

  • 彼らにとっては夢が現実

    2012.08.20 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=otJzLb_N1Vs]

    今朝は Houston Person – Jamilah でスタート。朝から American jazz もよいです。寝起きのぼぉっとした頭をスッキリさせてくれる。BGMにはうってつけ。これでブラックコーヒーがあればご満悦。

    午前中、M先生のWP制作。先生から制作の承認をいただいたので淡々とすすめる。ブレークポイントに悩むも表示に気をとられて肝心の中身を巧く表現できなかったら本末転倒。サクっとツルっと制作するリズムとウジウジ悩むポイントをジャグリング。

    午後からF先生の資料制作。矯正歯科の配布用資料。専門用語と表現の案配やいかに。専門用語を多用したら文章を短く端的に書けるが、読んでもすっきりしない。自分が手に持ったとき、あるいは想像する人物が手に持ったとき、どんなテキストが目に飛び込んできたら次へ視線を移すか?

    かといって専門用語をかみ砕いた単語に置き換えると文章の輪郭がぼやけてしまい焦点がさだまらない。ピンぼけの写真になってしまう。帳簿を家計簿、お小遣い帳って置き換えてわかった風でも実は合意形成なされていない、なんてことはしばしば。国家財政をお家の家計簿に例えましょう、ってアレは多分、誤解を多発させていやしまいか、と思う。

    特急列車に乗る前に購入した “その未来はどうなの? (集英社新書)” 橋本 治 を石川県の往復で読了。先生の文体について僕は好意的に受けとめている。意見に対して反論はある。今回も反論しながら読んだ。大抵は具体論に対して反論し、抽象論へは反論できない。

    賛否のジャッジより、先生の着想や発想、問題設定の視野や立脚点を学びたかったので必死で読んだ。巨視的から微視的へ移動させる文体はおもしろい。文意は抽象と具現の境目にありそうだとさぐる。

    さっきまで抽象的な話が展開されていたのに、次の段落では僕の身の回りの出来事が記述されていて、その距離感というか、視野のコントロールのスピードがものすごく速い。そこがたまらない。ずぅっと抽象的な話が続いていたらだんだんついていけなくなるところ、絶妙なタイミングでぎゅっと視野を狭めて具体論へ踏み込み、それが続きそうなところでまたパァっと思考が拡張する。思考の拡張にかかわる時間軸が長い。どこの過去まで遡るの?ってつっこむ。

    大阪へ行くとき、なるべくビッグイシューを買う。ずいぶん前に買った187号を読み返して、MERYL STREEPが演じた『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』についてのスペシャルインタビューの記事が目に止まった。

    「この映画は結局、ある年老いた女性の人生の3日間を描いている。その3日間に女性がするのは、人生の思い出を何とか荷造りすること、そして彼女が生きている瞬間を生きること。過去を生きるのではなく、流し台の前に立って、鳥の声を聞き、子どもたちの声に耳を傾け、今いるまさにその場所で、自分の人生を生きる。私の母のことをいうと、電話で誰か友人の死を知らされる時、母は『まあ、みんな降りていくのね』と言うの。つまりこの世から姿を消すということね。そんなふうに現実と直面する時の平静さが、私にはすごいと思える。もちろん母は悲しみを感じているけれど、生きている。生きられるだけ生きる。そこがおもしろいと思うわ」

    ビッグイシュー日本版 187号 2012.3.15 P.5

    養老孟司先生は自分の死を一人称の死といい、「客観的な一人称の死はない」と書いた(“死の壁 (新潮新書)” 養老 孟司)。一人称の死、という単語を目にしたとき、認知症がよぎった。そしたら先生は別の著(だっと思う)で、認知症は本人の病ではなく、他者の病である、みたいな内容(本文を覚えていない)を書いていらっしゃった。

    私が私であると認知しているかどうか僕は知らないし、疑似体験は難しそうだ。ならば実際に体験したら、その時はすでにこうやって何かを書いて考えられないかもしれない。いろいろ推し量ったところで、患ったらいつの時点からかは定かでなくてもいつかは自分の病でなくなり、他人が世話する事象に変わる。

    先生の文章には、「人間の意識なんて頼りにならない」が同工異曲に現れる。1/3が寝ていて無意識の人間の意識なんてあんまりアテにしないほうがいいよとか。

    意識が私を担保しているなら、寝ている間の私は誰でもないし、案外、夢の中が現実であってもおかしくないなぁと妄想してみたり。

    あの人たちの目に見える風景とそれをどのように受けとめて、理解しているか。自分、についてどんなふうに認知しているか、と無邪気に子どものように笑い、とまどい、いやいやと顔をふり、大人でも子どもみたいな顔つきだと子どもだと思い込んでいる98歳の老人を僕はずっと見ていた。