2013.08.29 晴れ
謎の頭痛が封切り。何度目の上映だろ。記憶を辿ると数年前から始まって、体感的には春と秋の玄関口に立つ頃、ぐわぁ〜と膨れるような感じが続く。一ヶ月ぐらいぐわぁんぐわんと。右足と右手の痺れといっしょにこれからお付き合いしていかなければならないとしたら、麦酒の飲み残しぐらいな物憂げ。
院内資料の仕上げやサイトの更新。ページの文章考えたり、調べ物やら。落ち着きないタスクが動き回る。
自分と自分の奇妙な綱引きがある。なんだろ。やめたいのにやってしまう、ような感覚。左の私は「やめたい」を引き、右の私は「やる」を引く。
別に「やめる」に限定したわけじゃなく、アンビバレントな感情の綱引き。矛盾や自家撞着みたいなカタイ系にあらず、もっとふわっとしているのに気持ちよいわけなく、たっぷたっぷの湿度な空気のくせして一降りこない焦れったさ、いやな気分。
やめたい私とやっている私の綱引きの様子、を眺める視線。その視線の眺望点に立っている人が、私のはずなのに、いつまでたってもその私を捕まえられず尖る。実体がどこにもないのに視点だけがある私。気色と我欲の並列。
「友達が少ないってかっこ悪いんねんけど、なんか自分に安心すんねん」(大宮エリーさん: 一言一句正確ではない)と似た安心かも。
実体があるのは、やめたい私かやっている私。SSサイズは窮屈でMサイズなら妙ちくりん、Sサイズは在庫切れとわかった焦りと諦め。ややこしいのぉ、この同居は。
卑近な例を思い浮かべると、酒と珈琲。やめたいと呑む、飲む。酒と珈琲は、もっとも軽い「度合」にカテゴライズされる綱引きであって、遊んでいるだけなんだろ、たぶん。
嗜好品の綱引きは私だけの場。そこから「度合」の階層が深まり、関係が複雑に組み込まれた階層へ降りたら、どうしてよいかわからない。綱を引いているのか確かめる。さらに関わっているつもりで舞台に立ってみたところ、幕が開いてみたら、誰もいない。あっ、そうなの?! 独りパントマイムのような、独演のサイレントムービーのような階層だったら、綱引きより二個しかない金玉入れを何度もやるようなぐちゃぐちゃ。
それでも自分なんだなぁって。ほんと自分なんだなぁって。
誰かが このちっぽけな 僕を求めてくれたら…
僕はもう、それでいいよ
fra-foa – 『澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。』
峻烈だ。完璧だ。恋愛を歌っているかもしれない。私は恋慕や情愛を超えてインストールした。
ほんとにそうなんだ。これをようやく認められるようになった。いまやバズワードな「承認欲求」や「自己承認」の意味じゃない。小難しい術語やビジネス単語ではない。腹の探り合いじゃない。
「必要です」のシグナル。
「必要です」のシグナルを送信する強度と受信する感度。シンプリシティな一言。人、としてのシンプリシティな叫び。
自分はこの一言を送受信したいんだろうなぁって思う、あの綱引きを見つめる視点の私。受信したい。受信して送り返し続けられたら、それでいいよ。
「必要です」を素直に言える自分にいつか必ず進化したい、「必要です」を正確に受信できる感度を纏いたい。