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  • 必要です

    必要です

    2013.08.29 晴れ

    謎の頭痛が封切り。何度目の上映だろ。記憶を辿ると数年前から始まって、体感的には春と秋の玄関口に立つ頃、ぐわぁ〜と膨れるような感じが続く。一ヶ月ぐらいぐわぁんぐわんと。右足と右手の痺れといっしょにこれからお付き合いしていかなければならないとしたら、麦酒の飲み残しぐらいな物憂げ。

    院内資料の仕上げやサイトの更新。ページの文章考えたり、調べ物やら。落ち着きないタスクが動き回る。

    自分と自分の奇妙な綱引きがある。なんだろ。やめたいのにやってしまう、ような感覚。左の私は「やめたい」を引き、右の私は「やる」を引く。

    別に「やめる」に限定したわけじゃなく、アンビバレントな感情の綱引き。矛盾や自家撞着みたいなカタイ系にあらず、もっとふわっとしているのに気持ちよいわけなく、たっぷたっぷの湿度な空気のくせして一降りこない焦れったさ、いやな気分。

    やめたい私とやっている私の綱引きの様子、を眺める視線。その視線の眺望点に立っている人が、私のはずなのに、いつまでたってもその私を捕まえられず尖る。実体がどこにもないのに視点だけがある私。気色と我欲の並列。

    「友達が少ないってかっこ悪いんねんけど、なんか自分に安心すんねん」(大宮エリーさん: 一言一句正確ではない)と似た安心かも。

    実体があるのは、やめたい私かやっている私。SSサイズは窮屈でMサイズなら妙ちくりん、Sサイズは在庫切れとわかった焦りと諦め。ややこしいのぉ、この同居は。

    卑近な例を思い浮かべると、酒と珈琲。やめたいと呑む、飲む。酒と珈琲は、もっとも軽い「度合」にカテゴライズされる綱引きであって、遊んでいるだけなんだろ、たぶん。

    嗜好品の綱引きは私だけの場。そこから「度合」の階層が深まり、関係が複雑に組み込まれた階層へ降りたら、どうしてよいかわからない。綱を引いているのか確かめる。さらに関わっているつもりで舞台に立ってみたところ、幕が開いてみたら、誰もいない。あっ、そうなの?! 独りパントマイムのような、独演のサイレントムービーのような階層だったら、綱引きより二個しかない金玉入れを何度もやるようなぐちゃぐちゃ。

    それでも自分なんだなぁって。ほんと自分なんだなぁって。

    誰かが このちっぽけな 僕を求めてくれたら…

    僕はもう、それでいいよ

    fra-foa – 『澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。』

    峻烈だ。完璧だ。恋愛を歌っているかもしれない。私は恋慕や情愛を超えてインストールした。

    ほんとにそうなんだ。これをようやく認められるようになった。いまやバズワードな「承認欲求」や「自己承認」の意味じゃない。小難しい術語やビジネス単語ではない。腹の探り合いじゃない。

    「必要です」のシグナル。

    「必要です」のシグナルを送信する強度と受信する感度。シンプリシティな一言。人、としてのシンプリシティな叫び。

    自分はこの一言を送受信したいんだろうなぁって思う、あの綱引きを見つめる視点の私。受信したい。受信して送り返し続けられたら、それでいいよ。

    「必要です」を素直に言える自分にいつか必ず進化したい、「必要です」を正確に受信できる感度を纏いたい。

  • 化石を堆積している広大な心の地層

    化石を堆積している広大な心の地層

    2013.08.12 晴れ 凸 2013.08.13 晴れ 凹

    笹川美和 – 笑い でスタート。泣き笑い。「他には愛を学べば良い 悲しみなど学ばずと良い お前の涙あたしが受けよ あたしの笑みをお前に与えよ」の歌詞。自分をどうにかできる私とどうにもできない他者には逕庭があり、そこへこの歌詞を敷き詰めて待つ。いますぐ持ち帰ってもらわなくても、いつか拾ってもらえたらと想いながら待つ。

    08/12 朝一番に入力を終了してデータ送信。郵便局へ立ち寄って散歩。神社まで歩いてお願い事。はやく治りますように。

    自分のことはお願いしないのに、他者のことをお願いする矛盾。矛盾をそのままにしておける鈍さとそのままにしておけない素直が折り重なって心の地層をつくる。

    成熟した人とは、色彩豊かな化石を堆積している広大な心の地層を持っている人だ。きっとそうだと思う。

    神社には境界がある。皮膚感覚にすぎないが、大小の木立は明確な意志を持って辺りの人工音と鎮守の静寂を仕切っているかのよう。

    昼下がりの灼熱のお参り。ポケットに手をやり停止ボタンを押してイヤホンをはずす。誰もいない参道を踏む。足と砂利のサウンド。光と影。見惚れていた。緑樹は分け隔てなく光を通して影を象る。来る光は拒まず去る影は追わず。

    以前は拒まず追わずであったのに、喪失の恐怖は拒まず追わずの質朴を毀す。失うことの怖さによって綻ぶ。もう一度身につけるまで少し時間がかかるだろう。

    靴を脱いだ。伝導されるちょっぴりの熱が、抱えていた熱情と等価交換されるみたい。共同幻想からの覚醒。

    「不思議な静けさに満ちていて、それでいて開かれている」ような境界。そんな人になりたい。役割を終える時機を間違えたくない。古来、人間は引き際が大切という。

    flower yellow
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    08/13 第三十八候、寒蝉鳴。夏の終わりに鳴くと思われるいる蜩。さにあらずらしい。薄暮の時間の演奏。

    旬の魚ははまち。関東ではいなだというらしい。呼び名の違い。豚肉の入っている中華まんを豚まんとよび、肉まんと言わないみたいな。

    書店へ行き、“身体のいいなり (朝日文庫)” 内澤旬子 を購入。“世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR (角川文庫)” 内澤 旬子 で知り、これも読みたかった。

    「乳癌と診断されてから、なぜか心身とも健やかになっていった自らの闘病体験」を、Twitterで著者ご本人が

    とおっしゃるしなやかさ。女性が自身の身体を通して見る立脚点か気になった。

    頭の中が渦巻いた、って例のライタの方がさえずっていらっしゃった。ブログ界隈で話題中の記事を読んだと。私も読んだ。同、文才に嫉妬した。あの二人の文才は怖い。なんであんなおもしろく味のある文章を書けるの。まったくわからない。うわぁぁぁぁってなった。

    羨ましくてしょうがない文章を書く人が、別の人の文才を羨み、嫉妬のリレーが可笑しくて、その方と同じく落ち込んで、こんな文章でも屋号で検索してアクセスしてくれる人へありがとうを言って、自分のために書いているのに、検索してくださる方がひとりでもいるっていう事実に嬉しくて、嬉しいのに奇を衒ったり笑ってもらおうっていうサービス精神があんまりない私の精神構造は致命的と開き直り、完璧に開き直れていないのはひょっとしてほんのわずかでも何か期待されていることってあるんだろうかとちょっぴり思い浮かべるあたりに見え隠れて、どうよこの性悪なツンデレと今日も顔が見える世界と顔が見えない世界の緩衝地帯で自慰している。

  • 奇妙なアンバランス

    2013.08.11 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=o3uPWdOmJd8]

    HIS – 夜空の誓い でスタート。UAのカバーも大好き。歌詞と音と気持ちが調合されてできた”願い””想い””喜び””憂い””悲しみ””佇み”などの薬。音楽といっしょに飲み込む。奥行きのある記憶はいつか平面になって一枚の絵になるのかしら。

    午後から入力の続き。スムーズに進み、これだと今日中にほぼ完了しそうな気配。嬉しい誤算。結局、22:00前に98%完了した。2%は月曜日へ。

    “子供の科学 2013年 09月号 [雑誌]” 誠文堂新光社“ぐるりのこと (新潮文庫)” 梨木 香歩 や詩集をウロウロ。

    右手足の親指の痺れがこのまま続くかなぁと思うとちょっと憂鬱。にぶい痺れは変わらないんだけど、この間ビールを呷ったあとにピリピリきた。吃驚、何ごと? 続くようであれば付き合い方を学習せな。

    酒の相性はある? 最近なんとなく感じる。どうも炭酸系との相性が悪いらしい。酒に強いほうではないのだが、炭酸系を飲んだらシルバータビーのスコティッシュフォールド(ものすごくよく書きすぎ)みたいな体模様になって、心模様はスマートフォンの再起動な気分で、頭模様は髪の毛が生えてきたみたいで気持ち悪い。

    これが日本酒やウィスキーだと、心模様はハロ現象で、頭模様は冴え渡る空想。

    不思議。自分の身体を掌握するなんて、…(機知に富んだテキストが思い浮かばないから 「余白」)…

    ヨットハーバー

    やらなければと意識しているうちは習慣ではないかもね。習慣って歯みがきみたいな感じ? でも意識のリズムが生活を刻んでいるうちは日常に溶けてない、透明じゃない。

    2011年03月14日(か15日)以来続けていることは、じゃぁ今日もな、ぐらいの意識は残っている。週に1回(か2回)はし忘れてるんだからまだまだなんだ。

    気持ちは毎日変わる。一日ごとの四季。春夏秋冬の順番でやってこない点は自然と違う。一日の中ににわかも訪れ、揺れ動く。なかなか静止しない草花みたい。

    目が開いている18時間、音楽を聴いて頬が緩み、目がくもり、こてこての日本人の手拍子にぎこちないスイング、散歩で肌がざわざわ、時に人と笑い、不愉快に遭遇して、感情の賽の目がころりころり。

    何が安定かわからないのに不安はしっかり感じられる奇妙なアンバランス。

    そんな日々にたとえ1,2分でも無心になれそうな時がいま続けていることだ。

    今日はこのままどんどん気持ちを書けそうなので強制終了。

  • 魔笛、私的、素敵

    2013.08.08 晴れのち驟雨 試練

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6AumI68kFAM]

    Indigo Jam Unit – Phoenix でスタート。懐かしくなる。どの記憶にもリンクしていない曲なのに、脳のなかのホムンクルスがそこら中の抽斗を開けたがる。無を拒んで有を絶叫。記憶と現在の並行。

    ウェブ制作。アルバイトの資料がそろそろ届きそう。備えて制作の手をやや早めたら昼前に届いた。週末の到着を想定してたからちょっとびっくり。

    週末から月曜日あたりまでに仕上げよう。来週は別のサイトをやりたいし。周りが夏季休暇へ突入するからどこへも伺わなくてよくなるときに籠もって煮詰めたい。

    先月からあるブログを追いかけている。ライタの方らしい。内容と文体、表現に身を乗り出し、魅せられて過去のテキストを遡る。貪り喰う。

    tweetもつい口元がゆるむ。ユーモアと茶目っ気、時々のエロ。エロの湿り気と乾きの配分が絶妙だ。

    何が違う? 自分と。

    やっぱり感じ方じゃないかな。自分にはない感度、自分にはない視座、素敵な感じ方。

    少しでもああいう感じ方ができるようがむしゃらに、少しでもああいう文章を書けるようトレーニングしなくちゃ。

    薔薇

    液晶に映し出される数々の作品と解説を視聴していたら、作品は教えてくれる。見た気になったらだめ、感じたつもりでいたらあかん、て。

    眼前だよね。そう思う。自戒。

    手に触れられるほど近くで作品と空気と全身がまぐあってこそなんだ。実寸。実物。実見、生身。

    液晶の映像から体験を入力したら私は錆びていく。知識は話し上手で知恵は聞き上手、と誰かが言った。言い得て妙。

    それらは錯覚じゃない。錯覚に好意的な文脈を持っているから”錯覚”と言いたくないな。液晶の体験は想像を機能させる土壌だとしても痩せてるだろう。生の体験は想像力を育む豊穣な土壌。

    「見てこい」「やってみろ」と言うのは自分だけにして。それは他者への暴力だ。

    流転と時機。「したい」から”い”が消去されるまでの感覚時間は十人十色。待っていたり、すぐだったり、徒然をくぐり抜けて。

    待ち侘びて生き急いでつんのめり佇む。

    散歩に出たら自然と人工の生演奏。自分が感じられないだけ。

    他者の他者をもう一度。

    浴びよう、浴びせよう。

  • 選び選ばれ、気儘か確信、天秤何を測る

    2013.07.26 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=lKXFLNizOoI]

    Drakskipを聴く。北欧の民謡はローテーションのひとつ。好み。民謡と言ってよいのやらわかんない。ただ聴いてるだけ、水たまりより浅い音楽の造詣。んなわけで、とにかくそれっぽく聞こえる音、あっ、なんか北欧っぽいなって音、”それっぽい”や”北欧っぽい”のって? って突っ込まれたら小林薫の笑顔を返してやる。

    昼下がり、メッセ着信。ディスプレイが相手の方の心情を映し出す。言葉だけの双方向通信。日本語は1文字に2バイトを要する。2バイト言語は想像力の問題用紙を私に渡す。答案用紙はない。

    できるだけ短く返信。聴くは見るに置き換えられる。耳を傾けている信号を送信する。左から右へ。[入力中]の表示と消滅。文字と時間が流れる。

    出力と入力に比例して声の一回性を痛感。

    相手は”いま”を私へ伝達してご自身の気持ちを探っていらっしゃるかも。わからない。かんたんに決めつけたくない。「かもしれない」の付箋を貼る。

    選び、選ばれる。たまたま私のアイコンをクリックした。それもわからない。独りごちる。

    選びー選ばれる。気まぐれであっても、確信であっても、偶然でも、如何なる様態であれ、選びー選ばれることによって互いに持っている天秤を己の中で釣り合わせようとする。選び=選ばれる。平行だから釣り合ってるわけじゃない。

    左に役割、右に存在。あるいは、何か。

    京都市立美術館

    “乗り越える”や”頑張る”。私が自分自身に使っても、誰かに投擲しない。いつ頃からかそう感じる。

    頑張るの代わりに”グッドラック”を中井久夫先生から剽窃する。同じく森博嗣先生からは乗り越えるの代わりに”最適の健闘”を拝借。なぜ最善ではなく最適? 『スカイ・クロラ』シリーズを読んだときから剥がせない疑問。

    ずいぶん前に”成長”がリスト入り。私のイメージは右肩上がり、もしくは「しなければならない」的ひとつの方向しかない圧迫感。使わなくなった。代わりに進化、たまに成熟。

    これらは自己満足。他者が使っているからって過剰反応しない。淡々、飄々と受けとめる。

    誰かに投擲する言葉はほんのちょっぴり臆病なぐらいがほろよいでよいんじゃないかしら。ノンアルコールじゃ物足りない、かといってモルトをストレートで飲むのは心の性器を見せられるぐらいでないときつすぎる。

  • 嘘と本当の糸をはり自分の布を織る

    2013.07.24 雨のち晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=PfytjKGpELg]

    オトナノススメ802 でスタート。今週末の日本最大級の野外フリーライブ、FM8­02 MEET THE WORLD BEATに出演する怒髪天のためにFM802が考えたとのこと。これ、ライブでやるとめっさ↑になります。オトナはサイコーなのです、ホント。楽しくて笑って満ちること、と、辛くて悲しくて切ないこと、が釣り合っても釣り合わなくても、サイコーなんです。だって….

    時刻は朝なのに外は夕方みたいな雨。時計がなかったら夕立だ、まるで。雨を見つめながら、前日の靴磨きはなかったことにしよ。自分への嘘。靴は磨かなかったよね、だから思い切り濡れても大丈夫、意地っ張り。誰かでなく自分に嘘ついて自分に意地を張って、自分の行為を褒める。ひとりツンデレは時々なら許されよう。

    嘘と本当の糸をはり、自分という布を丁寧に織る、繕う。

    丁寧に、といっても辞書の意味じゃなく。自分なりに意味を更新しよう。どこが丁寧なん、って他人からつっこまれたら、新月の日だけ気にすれば充分だ。私が自分を丁寧に繕っていると錯覚していれば、いつかぴったり合った自分ができあがり、自分を着こなせる、よな的期待感。

    着こなせた時、「丁寧」は身体からアンインストール。丁寧の意味はユニーク。そうやって単語を削り落とす。

    歳を重ねる、って自分を着こなせるように、周りと交わっていく作業。多と私、他と私、二つの差異を認めて辞書から卒業する行程。自分なりの意味を構築する営み。辞書から単語を消していくことなのかも、ひとつひとつ線を引いて、もうこの単語は使わなくてええんやって感じで。歳を重ねて、辞書から単語がすっかり消えたら素敵だな、きっと。

    そして、独善の陥穽にはまらない感性を修養。

    近江神宮の鳥居

    河北新報のRSSとTwitterから大雨の状況を収集する。深刻だ。

    河北新報のRSSとTwitterをある時からフォローしている。ニュースを読む。少しでも知りたいと思ったからだ。現地に足を運ぶのが最も大事なんだと想像するけれど、文字だけでも常にアクセスしておきたい。

    TwitterのTLやリストから流れてくる思考の断片や塊。みなさんの140文字以内は煌びやか。あんなふうに表現できたらなぁ、羨ましい。

    対して憎悪や怨念、嘲笑やヘイトスピーチもある。宇宙人のさえずりではない。同じ「人間」がさえずっている。

    痺れがわずかにあり、右側の唇に違和感、まだ降下は続いて底は見えないけれど、こういうときに浮かぶ言葉や想い、読書の物語から学ぶ術、感覚を大切にしたい。

    41歳になってはじめての体験が続く。何が起きるかわからない。わからないってビー玉をわかる穴へ入れて満足するより、わからないビー玉をもっと集めてわからないだらけにして楽しめる変態ぐらいになれないと辞書の意味から卒業できないな、たぶん。

    変態万歳。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • さえずりからくどくど書くへ

    2013.06.11 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=7PJk-u3pSYY]

    Brian Hyland – Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka Dot Bikini でスタート。ラジオで耳にしてひさしぶりぃー。20代のヘビロテはこのへん。あとロカビリーとか。10代で80年代の洋楽に傾倒してそのまま遡っちゃったわけです。ぐんぐんと。

    今年に入って Twitter の投稿回数が微増した。変化を認識。ブログの更新頻度が低下。数年前のピーク時からは減りつつあったとしてもさらに減った。理由ははっきりしない。体感はある。

    さえずりで満足してるっぽい。この日記と違って Twitter では屁理屈をこねてるわけじゃない。頭に浮かんだ言葉を出力するか、滋賀県のトピックスをリンクするか、ここの過去の記録を編集している程度。「出力」したって行為に安住している。

    ひとつだけ継続しているさえずりといえば、琵琶湖の水位。毎朝チェックしてさえずる。これはもうへんな習慣みたいになった。気づいたら続けていて、案外おもしろい。

    あかんあかん。薄々そう感じている。自分の気持ちを自分で繕ってやりすごす。まさに昨日書いた「人は最初に自分に嘘をつく」日々。誰かがさえずる切れ味鋭い140文字を目にしたら、どれだけくどくど書いても140文字でぴしゃっと言い表せなければ、駄文にすらならないなぁ、と自嘲して時に自慰したり。

    Twitterとここでシニシズムにふるまうつもりはない。熱情と冷静を両極に置いて斟酌したい。営みを眺めたい。ユニークな視座に立つ140文字を自分はさえずれない。その点を素直に認めて、自分の日々をもう一度くどくど書きたくなった。

    ここへアクセスしてくださっているユーザはほぼ検索エンジンを経由して、読みたい情報だけ拾い読みしてまた別の場所へ移動している。一期一会と言いたいところ、そんな高尚な事柄でもなくすっと行き違うぐらいで受けとめている。

    なので、「書かなければならない」わけなく、自分のペースで書けばよいし、いつでもやめたらと思うけど、またちょっと違う気持ちも芽生えている。

    PVを稼がなければならないブログではないし、行き違っていく方に「はじめまして」の挨拶ぐらいで軽く流してもらって、これだけくどくど書く人もいるんですよ、と視認してもらえたらうれしい。

    琵琶湖

    自分に合うプラットフォームで自由に往来して、時々、ちょっと落ち着かないアウェーで微少の衒いを引き連れて散歩するぐらいが心身に合っていそう。半年近くさえずりのボリュームを変更してわかったこと。だからネットで活躍していらっしゃるライタの方々を仰ぐ。さえずるわ、メルマガ書くわ、あっちでも書いてるわ、って本業とはいえ、膨大なアウトプットなわけで。

    好き放題書き散らかしているのにそれなりに時間はかかるから、どこか削ろう。制約。自分の営みと時間の組み合わせを再考する。枠組を設定して削り、組み替えると身体が違和感を覚える。その違和感が次へ進む方角を示してくれているようで心地よい。

    違和感を抱えて気持ちを整理整頓する。通り過ぎていく人、立ち止まる人、自分が誰かの場所を通り抜けるたり、滞在したいコトがわかってくる。

    折に触れて制約と拡張の棚卸し、衣替えは必要だね。

  • 他者から託された脚本が日々の営み

    他者から託された脚本が日々の営み

    2013.05.01 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=yWCE_hUj7h4]

    →Pia-no-jaC← – 台風 でスタート。昨年、知ってすっかりはまってしまったインストゥルメンタルユニット。ライヴに行ってみたい。部屋でアルバム流していてもゾクゾクするんだから、ライヴなら…..なんて言わずもがな。

    長い年月、たくさんのひとが通り過ぎていく。時に立ち止まり、時に寄り添い、駆け抜ける、気づかなかったり、あらゆる方へ通り過ぎる。

    日々の営みとは、通り過ぎてゆくひとから脚本を託されて自分の台詞を書き込み、私の舞台を最後の最後までみてくれていたひとを探す(文法と時制がおかしいと思うけど)、コトかな。探し続ける。私と最後の最後までみてくれたいたひとの間に広がる時空に囚われずに。ひょっとしたら遠い場所にいるかもしれず、とても近い所かもしれない。

    もうひとつ、誰かの舞台を最後の最後まで私がみる。こちらは日々の営みの彩りを豊かにしてくれる、滋味にあふれる。

    なにかをつくるとき、ぼぉっとする時間がいる。ぼぉっとしているようで実はしていないみたい。何も浮かばなくても机の上に座るのも大切なんだけど、フライパンで炒めものしているときや、散歩しているとき、写真を撮っているとき、トイレのなか、とかで、集中しているようで集中していない、片手間になっちゃいけないんだけど、ついついなってしまうような時間と空間にいると、頭の片隅で置いているコンテンツにまつわるアイデアの輪郭がハッキリしてくる。

    いまだとあるコンテンツを頭の片隅に置いている。待合室にディスプレイするコンテンツとウェブサイトの内容。ウェブサイトと待合室とチェアの3点を連動させるコンテンツを試みている。

    3点が重複している情報としない情報、3点の情報が見られる場所や雰囲気などを想像しながらスライドの順番やウェブサイトに書く文句、写真を練っている。

    頭のなかで浮かんだイメージをタイプしていく。もちろんうまくいかない。頭のなかのぼけた輪郭を書くことでハッキリさせていくと「言葉」で理解していても身体は追いつかない。

    タイプするだけして、またぼぉっとする時間と場所をつくり、タイプした情報を編集する。それの繰り返し。

  • 完成品には何も装着しない

    2012.10.11-14

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=9AEoUa0Hlso]

    今朝は KT Tunstall – Suddenly I See でスタート。一定の間隔で聴きたくなる。軽やかな感じが日の出前の沈黙とアンバランスでおもしろい。

    週末、大津ジャズフェスティバルへ。今年はホールでじっとしていた。初日の Lew Tabackin Trio がクールだった。72歳。舞台の上でsaxophoneとfluteをswingするおじいさんはとってもcoolだった。

    ただ、観客のなかには幼稚な人がいた。撮影を明確に禁止していないためか、フラッシュをたいて撮影していた。フラッシュの仕組み(光が届く距離etc)を知らなくても、撮影が礼儀に反する行為と大人は理解できるはず。あちこちからフラッシュが焚かれるたび情けなかった。スマートフォンで動画を撮影する人もちらほら。

    大人とは年齢に関係ない。老人たちが「最近の若者は….」と口にする若者のなかに成熟した大人はいる。そう口にする老人や中年のなかに恥知らず、礼儀知らず、愚かな者はいる。会社の関係を世間に持ち込んでいるかのようにふるまう人もいる。組織のなかで地位についているから、関係の属性が世間でも通用すると思っているらしい。グロテスクな思考である。

    OTSU JAZZ FESTIVAL

    アマゾンから届いた “死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策 を貪り読む。もっと前に読みたかった、と、いまがその時機だ、って思いが交錯した。「観念的な生死観」でしか死を整理していなかったことを恥じる。かといって、いまのところ生命飢餓状態に身をおいているわけではない(と思っている)から、いまだ自分にとって死は「観念的な生死観」の只中だ。どうすればそこから脱却できるか、と思う前に、そもそもそこから脱却しなければならないのか、ともよぎるし、いずれ必ず自分にも生命飢餓状態がやってくる。その時でもよいか、やら思いがちらばっていく。

    瞑想、と書けば大層になってしまうが、なんとなく目が覚めてすぐに半跏趺坐のようなポーズで目をつぶり数分を過ごすようになった。何か思い立ったわけでもなく、日を追うごとに日の出が遅くなり、薄暗いなかで目が覚めたときにできることがないかと思っていたら、目が覚めたら目をつぶるなんて皮肉な話にいきついた。

    26,7歳の頃にも一時期やっていた。今度はいつまで続くか、毎日続けられるかわからないけれど、淡々とできたらよいな。

    何も考えず、目をつぶるでも開けるでもなく、うっすらと暗い部屋のどこにも焦点を定めず「空」の状態でいるなんて無理だなって実感する。空に近づけるとは努々思わない。呼吸に意識を集中している点は20代のころと違う。自分がどんな呼吸をしているか知りたいのでなるべく意識している。となると、呼吸か身体のどこかの部分について思考してしまう。

    週末、iPod touch 5th が到着した。第一印象は薄い、軽い。そして噂どおり初期状態でほんのわずかな傷が二カ所あった。気になる人は即アップルストアに行って交換してもらうだろうけど、僕はこのまま何も装着せずに持つのですぐにアルミの塗装がはげるはずで、気にせずそのまま設定した。

    Steve Jobs がiPhone 4(S)のサイズに執着した(らしい)という話を知っていたが、iPhone 5とほぼ同じサイズになったiPod Touch 5thを持ってみて納得した。僕の手にはほんのわずかに大きい。この「ほんのわずか」がとても大切なんだ。慣れると思う。でも、手にしっくりくるサイズとは異なる。

    フリック入力もほんの少しだけつっかえる。薄くなってわずかに大きくなった分、片手で持ったときの安定感が失われた。まるで「裸」で持つことを前提にしていないような設計である。

    iPod Touch 5th with free engraving

    オンラインストアから注文したのでいつもどおり刻印してもらった。Today is a very good day to Die. (From Many Winters by Nancy Wood) 邦訳 『今日は死ぬのにもってこいの日』。大好きな言葉。そういまこの日記を入力している部屋に入ってくる柔らかい陽射しと空を眺めていると、今日もそんな日であってもよいな。