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  • 必要です

    必要です

    2013.08.29 晴れ

    謎の頭痛が封切り。何度目の上映だろ。記憶を辿ると数年前から始まって、体感的には春と秋の玄関口に立つ頃、ぐわぁ〜と膨れるような感じが続く。一ヶ月ぐらいぐわぁんぐわんと。右足と右手の痺れといっしょにこれからお付き合いしていかなければならないとしたら、麦酒の飲み残しぐらいな物憂げ。

    院内資料の仕上げやサイトの更新。ページの文章考えたり、調べ物やら。落ち着きないタスクが動き回る。

    自分と自分の奇妙な綱引きがある。なんだろ。やめたいのにやってしまう、ような感覚。左の私は「やめたい」を引き、右の私は「やる」を引く。

    別に「やめる」に限定したわけじゃなく、アンビバレントな感情の綱引き。矛盾や自家撞着みたいなカタイ系にあらず、もっとふわっとしているのに気持ちよいわけなく、たっぷたっぷの湿度な空気のくせして一降りこない焦れったさ、いやな気分。

    やめたい私とやっている私の綱引きの様子、を眺める視線。その視線の眺望点に立っている人が、私のはずなのに、いつまでたってもその私を捕まえられず尖る。実体がどこにもないのに視点だけがある私。気色と我欲の並列。

    「友達が少ないってかっこ悪いんねんけど、なんか自分に安心すんねん」(大宮エリーさん: 一言一句正確ではない)と似た安心かも。

    実体があるのは、やめたい私かやっている私。SSサイズは窮屈でMサイズなら妙ちくりん、Sサイズは在庫切れとわかった焦りと諦め。ややこしいのぉ、この同居は。

    卑近な例を思い浮かべると、酒と珈琲。やめたいと呑む、飲む。酒と珈琲は、もっとも軽い「度合」にカテゴライズされる綱引きであって、遊んでいるだけなんだろ、たぶん。

    嗜好品の綱引きは私だけの場。そこから「度合」の階層が深まり、関係が複雑に組み込まれた階層へ降りたら、どうしてよいかわからない。綱を引いているのか確かめる。さらに関わっているつもりで舞台に立ってみたところ、幕が開いてみたら、誰もいない。あっ、そうなの?! 独りパントマイムのような、独演のサイレントムービーのような階層だったら、綱引きより二個しかない金玉入れを何度もやるようなぐちゃぐちゃ。

    それでも自分なんだなぁって。ほんと自分なんだなぁって。

    誰かが このちっぽけな 僕を求めてくれたら…

    僕はもう、それでいいよ

    fra-foa – 『澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。』

    峻烈だ。完璧だ。恋愛を歌っているかもしれない。私は恋慕や情愛を超えてインストールした。

    ほんとにそうなんだ。これをようやく認められるようになった。いまやバズワードな「承認欲求」や「自己承認」の意味じゃない。小難しい術語やビジネス単語ではない。腹の探り合いじゃない。

    「必要です」のシグナル。

    「必要です」のシグナルを送信する強度と受信する感度。シンプリシティな一言。人、としてのシンプリシティな叫び。

    自分はこの一言を送受信したいんだろうなぁって思う、あの綱引きを見つめる視点の私。受信したい。受信して送り返し続けられたら、それでいいよ。

    「必要です」を素直に言える自分にいつか必ず進化したい、「必要です」を正確に受信できる感度を纏いたい。

  • 一番うまい鰹節ダンスだろうな、きっと

    2013.08.25 雨のちくもり

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=tVs6MCoYQZs]

    The Miceteeth – Rainbow Town でスタート。「陽のあたる橋 超えて 虹の中すべり落ちる 花の名前をひとつ覚えて 七色に光る街まで届いたら」の始まりがお気に入りで、ふわぁぁぁっとして、どんな雨の後の虹で、何の花で、どこの街なんだろってくるくる回る。

    少し間があった。

    頭の中でタイピング。感情以上思考未満の群れに言葉の輪っかを投げて囲う。無造作な羅列。輪っかからするり抜け出していって、「あっ!」が稲光。思い出せない。

    頭ん中での断片浮遊を味わうと、脳は楽する。楽になるのって気持ちよい。だけど、たまーに鍛えてやらないと。ほんのちょっぴり無理に食べて、頭の胃袋をひろげてみる(けどなかなか楽しよるわ、頭)。

    既知と未知。もっと深く潜りたい既知。丁寧に味わいたい未知。もっともっと。自分の駄文は同工異曲なんだと恥じながら、官能の、もとい、感応の根を伸ばしたい。

    感応の根をはり、言葉の幹を丈夫にして、ゆらゆら揺れ動く。在りたい。

    1と0.9999999999…..の中にある小さな無限の「わからない」ことに向き合えないときはある。

    木のベンチ 光と影

    夕方、歯の健診でお世話になっている先生のお誘いで天満へ。お相伴にあずかる。正客は先輩。

    久しぶりの焼酎。40℃を呑む、くぃくぃ。年に1、2回、お声をかけてくださる。過分なお心づかい。

    先生と先輩がおっしゃった。ほんまうまそうに呑みますね、と。「弱いのにいっちょまえに頂戴してます」の苦笑い(照れくさいから隠したいのに)。

    以前、別の先生が、高台からある景色を見せて下さったとき、からだで表すなぁとおっしゃった。

    美味い酒や響く景色に触れたら、腕の生毛が、アツアツのお好み焼きにのっている鰹節になる。いまの模造記憶に従えば、幼稚園のときってあのゆらゆらしている鰹節は生きていると信じていたと思えなくもない。今回も鰹節になった。いつもの3倍酔った。

    酒を嗜むなら、いっしょに呑みたい人がいてもおかしくない。いつか、の影はぐんぐん伸びる。影の誘いだ。いつかいっしょに呑んだら光に変わるんやろなぁ。帰りの列車内、血液が焼酎と空想を体中へ運ぶ。

  • 選び選ばれ、気儘か確信、天秤何を測る

    2013.07.26 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=lKXFLNizOoI]

    Drakskipを聴く。北欧の民謡はローテーションのひとつ。好み。民謡と言ってよいのやらわかんない。ただ聴いてるだけ、水たまりより浅い音楽の造詣。んなわけで、とにかくそれっぽく聞こえる音、あっ、なんか北欧っぽいなって音、”それっぽい”や”北欧っぽい”のって? って突っ込まれたら小林薫の笑顔を返してやる。

    昼下がり、メッセ着信。ディスプレイが相手の方の心情を映し出す。言葉だけの双方向通信。日本語は1文字に2バイトを要する。2バイト言語は想像力の問題用紙を私に渡す。答案用紙はない。

    できるだけ短く返信。聴くは見るに置き換えられる。耳を傾けている信号を送信する。左から右へ。[入力中]の表示と消滅。文字と時間が流れる。

    出力と入力に比例して声の一回性を痛感。

    相手は”いま”を私へ伝達してご自身の気持ちを探っていらっしゃるかも。わからない。かんたんに決めつけたくない。「かもしれない」の付箋を貼る。

    選び、選ばれる。たまたま私のアイコンをクリックした。それもわからない。独りごちる。

    選びー選ばれる。気まぐれであっても、確信であっても、偶然でも、如何なる様態であれ、選びー選ばれることによって互いに持っている天秤を己の中で釣り合わせようとする。選び=選ばれる。平行だから釣り合ってるわけじゃない。

    左に役割、右に存在。あるいは、何か。

    京都市立美術館

    “乗り越える”や”頑張る”。私が自分自身に使っても、誰かに投擲しない。いつ頃からかそう感じる。

    頑張るの代わりに”グッドラック”を中井久夫先生から剽窃する。同じく森博嗣先生からは乗り越えるの代わりに”最適の健闘”を拝借。なぜ最善ではなく最適? 『スカイ・クロラ』シリーズを読んだときから剥がせない疑問。

    ずいぶん前に”成長”がリスト入り。私のイメージは右肩上がり、もしくは「しなければならない」的ひとつの方向しかない圧迫感。使わなくなった。代わりに進化、たまに成熟。

    これらは自己満足。他者が使っているからって過剰反応しない。淡々、飄々と受けとめる。

    誰かに投擲する言葉はほんのちょっぴり臆病なぐらいがほろよいでよいんじゃないかしら。ノンアルコールじゃ物足りない、かといってモルトをストレートで飲むのは心の性器を見せられるぐらいでないときつすぎる。

  • 嘘と本当の糸をはり自分の布を織る

    2013.07.24 雨のち晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=PfytjKGpELg]

    オトナノススメ802 でスタート。今週末の日本最大級の野外フリーライブ、FM8­02 MEET THE WORLD BEATに出演する怒髪天のためにFM802が考えたとのこと。これ、ライブでやるとめっさ↑になります。オトナはサイコーなのです、ホント。楽しくて笑って満ちること、と、辛くて悲しくて切ないこと、が釣り合っても釣り合わなくても、サイコーなんです。だって….

    時刻は朝なのに外は夕方みたいな雨。時計がなかったら夕立だ、まるで。雨を見つめながら、前日の靴磨きはなかったことにしよ。自分への嘘。靴は磨かなかったよね、だから思い切り濡れても大丈夫、意地っ張り。誰かでなく自分に嘘ついて自分に意地を張って、自分の行為を褒める。ひとりツンデレは時々なら許されよう。

    嘘と本当の糸をはり、自分という布を丁寧に織る、繕う。

    丁寧に、といっても辞書の意味じゃなく。自分なりに意味を更新しよう。どこが丁寧なん、って他人からつっこまれたら、新月の日だけ気にすれば充分だ。私が自分を丁寧に繕っていると錯覚していれば、いつかぴったり合った自分ができあがり、自分を着こなせる、よな的期待感。

    着こなせた時、「丁寧」は身体からアンインストール。丁寧の意味はユニーク。そうやって単語を削り落とす。

    歳を重ねる、って自分を着こなせるように、周りと交わっていく作業。多と私、他と私、二つの差異を認めて辞書から卒業する行程。自分なりの意味を構築する営み。辞書から単語を消していくことなのかも、ひとつひとつ線を引いて、もうこの単語は使わなくてええんやって感じで。歳を重ねて、辞書から単語がすっかり消えたら素敵だな、きっと。

    そして、独善の陥穽にはまらない感性を修養。

    近江神宮の鳥居

    河北新報のRSSとTwitterから大雨の状況を収集する。深刻だ。

    河北新報のRSSとTwitterをある時からフォローしている。ニュースを読む。少しでも知りたいと思ったからだ。現地に足を運ぶのが最も大事なんだと想像するけれど、文字だけでも常にアクセスしておきたい。

    TwitterのTLやリストから流れてくる思考の断片や塊。みなさんの140文字以内は煌びやか。あんなふうに表現できたらなぁ、羨ましい。

    対して憎悪や怨念、嘲笑やヘイトスピーチもある。宇宙人のさえずりではない。同じ「人間」がさえずっている。

    痺れがわずかにあり、右側の唇に違和感、まだ降下は続いて底は見えないけれど、こういうときに浮かぶ言葉や想い、読書の物語から学ぶ術、感覚を大切にしたい。

    41歳になってはじめての体験が続く。何が起きるかわからない。わからないってビー玉をわかる穴へ入れて満足するより、わからないビー玉をもっと集めてわからないだらけにして楽しめる変態ぐらいになれないと辞書の意味から卒業できないな、たぶん。

    変態万歳。

  • 伝えていないのに、振り返っているんかな、ほんとに

    2013.07.06 曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=_hVaRiOPZLE]

    THE BULUE HEARTS – TRAIN-TRAIN でスタート。「弱い者達が夕暮れさらに弱い者をたたく」こと。この歌詞は詩、詩集に収められてほしいぐらい、色褪せない。月日とともに感じ方は変わり、響きは異なっても、意味の純度は高くなる。TOO MUCH PAIN / THE BLUE HEARTS も聴き続けている歌。

    特定の人へ届ける特別の言葉。悩ましくても難しくない。必要な道具は、いま浮かぶ想いを素直に表せる勇気。好きな人へ伝える言葉や困難な状況にいる人へ届ける言葉など。

    最大公約数へ届く普通の言葉。届けるのではなく届く。その言葉の時間軸は長い。’いま’ではないかもしれない。受けとめられる意味は不同。不同であっても、受けとめる人の境界は線で引かれる。老若男女に届くけれど、「最大公約数」という集合はある。そこが「普遍」と違う。

    湿気も四季のうちと念じてみる。無理。皮膚がくたっとなる。湿度への耐久性が年々減少。噴き出す汗、乾かない。大気は意識を吸い上げ、所有者不明の意識の水分が皮膚にまとわりつくみたいで、茫々。

    室内と屋外の温度差がきわだつ。節電がデフォルトな人、節電がスローガンな人、節電がシュプレヒコールな人。人それぞれ。美辞麗句はかわして流す。静かにしなやかに行動している人や集団を追いかける。そこから自分ができることを積み重ねたい。

    新緑

    07/04 の文章の感想をもらった。一読して、もう一回読んで、さらにもう一度。同じ方角へ伝わっている。そう実感できる瞬間。この実感を言葉にできない。何者にも代えがたい喜び。大げさではない。(傲慢かもしれないが)書いてきたから与えてもらえる究極の至福。

    自分の内側のイメージを記述する。客観はない。主観的な質感を記述して(疑似)客観世界の仮構を構築したくなるが、すべての記述は自分の内部にあるイメージ。内部のイメージとは、心や感情の様態であり、それらを筋の通るように書きたい欲望だ。

    内側のイメージは徹底的に閉じている。閉鎖系。痛みを浮かべればわかる。痛みは個人的なもので、「閉じた」質感。「閉じた」と割り切れない微妙な感覚がそれぞれにあり、分け合いたい願望が共感を探す。

    閉じた一人称の質感が、同じ方角へ伝わっていると実感できる。方角だけで充分だ。反対の方角であっても伝わったと感じられる時もある。ましてや同じ方角だと実感できるなんて。最高をあっさり超えた。

    一部の文章を除けば、公開されたら書き手から自立する。読み手は外部にある文章のイメージを構成する。読み手の内部で構成される。読み手の経験や記憶が、仮構を内部で記述する。

    私の質感を最大公約数の知へ更新する。最大公約数に少しでも近づける。「あなた」の存在が更新作業に欠かせない。閉じた私の質感と閉じたあなたの質感が互いの理解へ進みたいと感じたとき、最大公約数の知を産出する。認識と意味。

    閉じている私の質感が、他人の閉じた質感と送受信する、不思議。なぜ? これがずっと考え続けているテーマ。これからのライフワーク。

    一瞬一瞬の瞬間的なミクロの意思伝達と長大な時空間を展開するマクロの意味伝播。両者は認識と意味の形成に不可欠であり、最大公約数の知を産出する土台だと思う。

    伝わっていないと憤る人々がいる。どこにでもいる。私はそのひとり。伝わっていない? ほんとに? 伝えるスタートラインに立っていない、内側のイメージが流出しているだけじゃないかしら。「あなた」を通過せずに。自問自答。

    徹底的に閉じた系である私の内側のイメージ。それを「あなた」といっしょに最大公約数の知へ更新したいと願っているか? 正確な言葉と緻密な論理を提示したから伝わる、の思考は自律性を知らない。

    正確な言葉と緻密な論理で設計すれば「あなた」へ伝わり、私とあなたが作動するなら、人は機械と同じ他律的なシステムである。こうやって言葉で記述すれば、そんなわけないと反論できる。できるのに他律的なシステムのようにコミュニケーションしている。

    閉じているという絶望の事実の地に足をつける。しっかりと揺るぎなく。そこから希望の風景を眺める。同じ方角の景色が見えたときの喜び。宇宙のはじまりよりも神秘。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • 君のなかに私をみる

    2013.06.05 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6VwN4fVtixk]

    The Miceteeth – 霧の中 でスタート。ライヴで見たかったなぁ。ソロではライヴしていらっしゃるから運よく聴けるかもしれないけれど、SKAで聴きたかった。歌詞が小説みたい。

    先週、某SNS で「君の中に私をみる」と書いた。ワンフレーズ。

    昨年からの題材。きっかけはわからない。思考未満の心象の破片が組み合わさってきた。破片と破片をあわせる。はまらなければまた違う断片を探す。そんな思考未満の作業を繰り返す。

    自分の中には理想の像がある。理想でないなら願望か欲望か。いまの私と未来へ「化」けてほしい私との亀裂。もし亀裂のペルソナを詳しく記述できたら、あとはそこへ近づけばよい。

    たいていは具体的に記述できない。漫然と時を過ごすのと似ている。茫々とした「化」けたい私を私自身が背負っている。

    背負われている化けたい私。背負われている間はモノローグ。なのに時折、その私は私自身から幽体離脱して誰かへインストールされる。

    もっとも下品なインストールは、「私は変わった。あなたは変わっていない」だ。これほどひどいバグを含んだアップデートはないと思う。

    目の前にいる人のふるまいが、「私の描いている像」と違った。違って「あたりまえ」だ。あたりまえは、独白と対話の境目を示してくる。

    違う、という事実を自分のなかで吟味していく過程が独白であり、なぜ自分の像(の範疇)とずれているかを問答する行為が対話である。

    どこまでを吟味してどこまでを問答するか。境目で揺らぐ。

    信頼とは、相手のなかに私をみたときに、相手を許せる「範囲」かもしれない。違って「あたりまえ」のコトを許容できるから未来を託す(できなければ託せない?)。

    違って「あたりまえ」をそのまま受け入れられるか? たとえ自分の像(の範疇)と正反対でも、受け入れてコトにあたる。それは信頼? 相手と私の像が相容れず対立しても、それらを乗り越えて、限りなく二つの像に近いままでコトにあたり成し遂げられたとしたら、それは信頼? そのへんをウロウロしている。まだ設計すら持っていないから言葉を積み重ねられない。

    螺旋階段

    以前にも書いた情報量のトリビアル。ニューヨークタイムズの1週間の情報量は、18世紀の個人が一生をかけて得る情報量よりも多い、という話。ソースをあたっていないので真偽は定かでない。正確な情報量は測定できないにしても、情報量の爆発的増加は止められない。そしてこれから乗ずるように増大し続ける。

    情報量の増大は、「言葉」をもたらした。いまこうして「違ってあたりまえ」と書いているコト自体が情報量の増大している現代の環境に依存している。

    身体のレイヤで「違ってあたりまえ」と理解していない。感情のレイヤで「違ってあたりまえ」と処理できていない。

    言葉を重ねて言葉で思念して言葉で記述して理解しようとすればするほど、身体と感情での「違ってあたりまえ」からは遠ざかる。

  • 自分からもっとも遠く離れた自己意識

    2013.06.02 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=J4zeiIOcZik]

    サンタラ – バニラ でスタート。「冷えた苺もニュース速報も君の電話も何もいらないの」って詞、なんでこんな配列が思い浮かぶ? 素敵。歌詞を書いてメロディ、メロディのあとから歌詞、どちら? 目に浮かぶ風景、具体的な映像、でもどこか詩的世界が漂っている。

    川上未映子さん出演のトーク番組を視聴。言葉の使い方を勉強。wikipediaによると永井均先生から影響を受けたとのこと。テーマは独我や自我について。

    どのように学問されたか存じ上げない。哲学の一片を習得されていらっしゃる。だとしたら術語の臭さが会話に残留していそうなのに濾過されている。著作や対談やエッセイを手に取ったけど感じなかった。

    今回の番組では、こてこての大阪弁でホスト的役割を担って場を仕切っていた。そこに臭さはない。ひょっこり口に出たフレーズが、語彙と思考の切れ味を映し出す。

    書くという行為について。自分からもっとも遠く離れた自己意識に出合うこと、対話すること、だと。

    字幕を読む。見なれない単語は「自己意識」。あとは日常で目にする単語。

    「何か」についてほんとうに理解したしゃべり。身体の隅々に行き渡らせる理路を持っていたら、「何か」を語る言葉は平易になる。そう思う。

    外部に存在する他者を自分の身体へインストール。沈黙のアップデートを繰り返す。翻訳。次にアウトプットされるとき、他者は「自分語」に変換される。自分の語彙の範疇で構成される自分の言いたいこと。

    それが理解。身体と言葉の感覚が限りなく近づいているような状態。

    大阪の桜

    場の雰囲気を読み、場に合わせて扱う単語を変える。そんな感じではない。よほど器用な人でないかぎり、そんなことできない。

    街のノイズに紛れ込んだ単語が会話を編む。どうしても置き換えられない術語が少々。言葉をほぐしながら会話と術語のミゾを埋める。会話と術語の狭間を、悶えて生み出した「自分語」が賄う。

    映像の情報量は文章よりも勝る。あるテーマについて頭の中に浮かぶ映像や出来事を、「自分語」に翻訳して語る時、どうしても「それ以下」になる。運よければ映像と自分語が等しくなるぐらい。

    何時間も独白するような状況だったら「それ以上」になるかもしれない。たぶん、万に一つもないだろう。

    頭の中にある形と出力される表現はズレる。「それ以下」にしかならないもどかしさ。じれったい。語彙が足りない。不足を補える語彙を持っていない。そういったものを抱えることが、自分で考える根っこ。そのじれったさやもどかしさを脇へ置かずに書く。

    「美しい日本語の組み合わせを提出するという意識が強い」と谷川俊太郎さんはおっしゃっていた。詩のメッセージは何? とよく聞かれるが、伝えたいことがはっきりしていれば散文で書く方が正確、とも。

    詩をめくる。どうしても意味を欲しくなる。意味はなに? 詩の語と語と間にも意味は何かあるかもしれない。散文と異なる。読む人の数だけありそうな意味にも到達しない意味。

    詩も散文も、「書く」という地点までは<私>と自分の共同作業なのかな。手元から離れてしまえば、意味のパズルは読み手の手元へ。自分が描いた「絵」とまったく違う絵のピースをはめられてもどうしようもないんだろうね。

  • 使わないものがあり、使いたくても使えないものがあり

    使わないものがあり、使いたくても使えないものがあり

    2013.05.27 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9xdZ2nVEa3M]

    カラーボトル – サヨナラ でスタート。出会いと別れ、って表裏かな? ホントにそうなのかなぁ。別れのない出会いってあるかも。この場合の別れって、出会っただけ。なんだろ、毎年、年賀状は送られてくるけれど、何も知らないみたいな。で、別れがあるって、出会ってしまった出会い。つながっていたいんだけど、いずれ必ずやってくるであろう出会い。ちょっとちがうなぁ。

    二十歳の原点 (新潮文庫)” 高野 悦子 にたびたびでてくる「演じる」ということ。二十歳の学生が書いた日記には、「演じる」ことへの希求、絶望、逃避、憧憬、不知、情熱、焦燥、などが記されている。いまとそれほど変わらないようで私よりら20歳以上年下なのか、が交錯。単純で複雑で切ない。

    「ひと」そのものを認識したとき、悩みの源泉は同一かもしれない。表層に現れる悩みはそれぞれ異なっているとしても、悩みを掘り下げて「孤独」を省察したとき、源泉へ辿り着きたい欲望は同じである。その源泉へ辿り着けるか、違う源泉を掘り当てるか、それとも途中で引き返すか、「孤独」への対峙は強い個別性を帯びている。

    彼女は自らの命を絶った。それを選択した。

    虚無に陥りたくない。陥る胆力が据わっていない。斜に構えたくない。なるべく直線であり、直球でありたい。

    Cherry blossom
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    食後、皿を洗う。自然に乾くのを待って水屋にもどす。狭い(大家さんには失礼な表現ですが)部屋にどうしてこんな大きな水屋を持ってきた? いつからかこぼれるため息。空白を埋める皿の数々。使っていない皿やカップ。一度も使っていないのも。その数、常時使用の皿やカップの数倍。母が持たせたくれた。誰も住まなくなった祖母の家から引き上げてきた。いずれ家族が増えればたくさんいるからと期待しながら引っ越しの荷造りしてくれたのであろう。

    使わないものがあり、使いたくても使えないものがあり、腐るほどのものが捨てられ、食べられずにいるひとたちがいる。

    ものへの執着あり、ものを持たなくてもよくなりたい矛盾。齢が矛盾をどちらかへ片付けてくれるだろうか。

    この間、使い慣れたMacBook Pro 15inch が故障したとき、昔ならすぐに次のマシンをどうしようか考えた。金銭の問題が第一だとしても、昔ほどの意欲がなくなっている。どうしてか? 加齢だろう。

    ダウンスケール。適切な表現でなくとも、はたまた減らすほどのスケールがなくとも、コトやモノを始末して純度と密度を高めたい欲望が自分の中にわき起こる。加齢によって頭の機能が低下するからそうなる。頭と身体が増えていく事象に追いつけず、こなさせず、つい減らすほうへ向かわせる。ていさいよく理由を練り上げて。

    去りゆく一切は比喩にすぎない、オスワルト・シュペングラーの『西洋の没落』はどんな話なんだろう?

  • メールからメッセージへ

    2012.11.10 晴れ

    今朝は 椎名林檎 – ここでキスして でスタート。歌詞がトリップしててビンビンきます。そういえば、instagram で「キスか、あるいは接吻か、それが、問題だ」とポストして、フォロワーさんたちからおもしろいコメントをいただいた。

    野菜の高騰に腰が抜ける。サニーレタスが318円って、円が95円突破するよりびっくりするよ。まいった。野菜が好きなんだ、懐が痛んでも野菜を食べたい、でもね、ホントに痛めたら野菜どころじゃないから、とゆれ動きつつ、買うよ、房どりミニトマト、398円、エン。

    この1年のあいだでメールの連絡が減ってきた。先生方は、Facebookを筆頭に、SkypeやiCloudなどからメッセージを送ってくる。一長一短はある。それを承知で使えば力をぬいたフランクな会話ができるのでありがたい。

    数年後、メールはもっと減るだろう。いまの10代が携帯電話のメールソフトを起動させない、メールを打たない、スタイルは未来を示唆している。先進的でクールである。なんどか紹介したように、海外の企業ではメールシステムを廃止しはじめた。そのなかには大手企業も含まれる。

    僕のまわりのクライアントは年上の方ばかりだ。僕より頭がやわらかい。ネットの新しいモノにふれ、仕事とプライベートのバランスをコントロールしてやっている。Facebookのフィードをのぞけば意外な一面も。ファンページを開設していらっしゃる先生がいる。僕に管理者権限まで与えてくださっているから、SNS内部の状況を勉強させてもらっている。

    「わからないから教えて」と言える人は素晴らしい。その人たちの共通点は、屈託がない。みなさん素直に尋ねてこられる。冗談をおりまぜながら厭味がない。下品でもない。力強さを保って「対等」である点を年下の僕に示してくれる。

    僕だけでなく他の方々へもだ。だからそんな人々のもとへは、いろんな「モノ」と「コト」が集まってくる。誰かが「何か」をもってやってくる。<私>の周辺がぼやけていき、直径が長くなる。私から自己への転回。私と他者の境界線に「関係」が生まれ育まれる。

    「わからない」のたった一言を素直に吐露する。とても難しい。たいていは「わからない」と言えない。他者に対して「閉じている」んだ。

    11:00すぎに大阪へ出発。13:30からF先生のDHとミーティング。メンバはDHの方々と私。ドクタやアシスタントはいない。貴重な体験になる1年のはじまりである。僕は変わらなければならないだろう。試練を与えられている。この試練と対峙して変容へ展開させなければならない。F先生とDHの方々のもとへ、大切な時機が到来している。

    反対の視点をもたらす。

    一つの見方が成立したとき、反対の見方へスポットライトをあてる。ふだんの生活なら誰かが反対の見方の舞台に立つ。その時、はじめて「反対の見方の舞台があった」と、一つの見方をしている人は認識する。対話は「舞台」である。私が観客で、相手が演者だ。時と場に応じて互いの役割は反転する。私が演者にもなる。

    私とあなたが監督になり脚本を書く。共同作業。他者に対して「閉じている」といっしょに脚本を書けない(書かなければならないわけじゃないからね)。

    反対の視点を、外連味なく提示できるようになること。これが僕の課題だ。反対の視点を提示されたらしこりが残る。僕も感情がゆさぶられつらいときもある。その気持ちを理解しなければならない。理解したうえで、反対の意見を冷静に提示して<私>と<他者>を壊して対立して「関係」を創造する。

    対立と創造を支える根っこは何か?