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  • 新しい個体、全体の抑制、部分と全体は…..

    2012.10.23 曇 24 雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=BCOP3TEk0dY]

    今朝は Fishmans – いかれたBaby でスタート。これ、もう何十回視聴したか。ひょっとして三ケタかも。冒頭のシーン、たぶん、「見えた」んだろうなぁ、と空想する。見たくないものか、勝手に見えたのか、どっちにしても脳が creativeしたモノであっても、僕には絶対に見えないモノであり、たぶん見たくないモノだ。ただ、こうやって「あちら」へ踏み込んだと思えるような人の表現をずるがしこく拝見する。それを前にしてただただひれ伏すのみです。

    第五十二候、霜始降。その名のごとく、早朝、外に出ると植木の葉や窓硝子に白い結晶が覆われている。そんな時節にさしかかってきた。旬の野菜は占地。天然ものの占地はまったく手に入らない。本占地、または大黒占地といわれるらしい。スーパでブナシメジを買う。占地はよく食べる。

    23日、東大阪へ。ミーティングの進行や来院者との会話についてしゃべってほしいとの依頼を受ける。10:30に医院に入り、約60分見学して、11:30から13:00までミーティング。60分間で気になった点を記憶した。

    冒頭、「ミーティング」を質問する。返ってきた答えや感想から、医院の「ミーティングの空気」を測定する。各医院はミーティングのユニークな空間を醸成している。ミーティングで使われる単語の「感覚」と「共有」も医院の数だけある。闖入者がミーティングを仕切ると、新しい雰囲気を作り出せる一方で、連続が失われて停滞を呼び込みかねない。その停滞は必要なかった状況である。

    ミーティングの空気を測定して、空気のなかを交信している単語を推量して、どんな話をすれば、理解の糸口をつかんでもらえるかを探っていく。手探りで暗闇を進む時、周りから「声」をどれだけもらうかで、全体が進みたい方角がうっすらと見えてくる。だから「声」は多ければ多いほど助かる。

    組織、または集団は「声」を出す人が定まってくる。それが組織または集団の性質だ。全体は新しい個体の「声」を抑制する。新しい個体は全体の空気を察知する。生き残るため、感情を脅かされたくない本能が機能するからおのずと「声」を自ら制御する。

    そういった「空気」の測定はほんとに難しい。はじめての場での測定は不可能だ。不可能を承知しながら、その承知の非礼を理解してミーティングを進める。

    はじめての場であるから、なるべく沈黙をつくらず、沈黙を排除してしゃべりつづける。あるいは誰かが常に声をだしている状況を設定する。誰かが常に声を出している状況は、「進みたい方角」が360度に広がる。拡散していく声を収集して、分類しながら、いま選択できそうな方角を慎重に選ぶ。

    今回は先生がいつもの調子で意見をおっしゃろうとして、それを必死で抑えている姿を拝見できた。僕はそう見て推察していた。あとで昼食を食べているとき、先生は似たようなことを感じていらっしゃたとのこと。いつもならそのままあらぬ方向へ進むところを、僕が戻していたとおっしゃっていた。先生の意見を伺っても実感はわいてこない。他者はそんなふうに僕を見ている、とだけ記憶する。この確認が会話の醍醐味だろう。

    琵琶湖

    奥様といっしょに昼食をご馳走になった。御両人が感想をおっしゃってくださった。感想を備忘して自分の修正すべきポイントを分析する。喜怒哀楽を極力控え、自分を律せられるように努めて評価の中身を査定する。この「切り離し」作業にようやく慣れてきた。慣れてきたが、まだ感情を抑制できない。もっと深く深く潜らなければ。

    月曜日、一通のメールが嬉しかった。ほんの少し、小さい小さいほんとにごくわずかであっても、どこかの方向へ足を踏み出していると受けとめてよさそうで嬉しかった。でも、毎日そんなにうまくいかないかもしれない。それでもよいと思う。ほんとに目に見えるか、感じられるかどうかなんてわからないぐらいの微細な情感を積み重ねられたらOKだ。

    火曜日、体調が一変した。背中の痛みは増幅、あわせて寒気がした。やや下降線をたどりそうだ。口内炎ができた。なにか食べても美味くない。正直な身体で安心する。不安と怠惰を身体が正確に表現していることだけが救い。

  • 冷や汗脂汗発汗焦る

    2012.08.10 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=iPUmE-tne5U]

    今朝は Katrina & The Waves – Walking On Sunshine でスタート。Michael J. Fox の The Secret of My Success(1987) の挿入歌ですね。この映画、何度も何度も見ました。大好きでね。あのスピード感、実話の要素も組み込んだサクセスストーリーが小気味よくてね。

    10:00に湖南市へ。営業。幹部の前で大失態を演じる。社長からお叱りのお言葉。破談。本来ならかなり凹べき事案だけど、まったくリカバリーできない失態だったので、凹もなにも自分の対人スキルの低下と魯鈍と打ち合わせ能力の皆無を体験できた点を感謝した。よい経験だった。自分でも認識しかけていた「能力のなさ」を外部を通じて自覚できた点はほんとうによかった。

    12:00前に草津駅からKさんに報告。Kさんの顔に泥を塗ってしまったことをお詫び。いったん、自宅へ戻り、M先生のサイト制作の続き。M先生からのメールを拝読して深謝。一日でケチョンケチョンになって、またウキウキするなんて今日ぐらいだろうなぁ、と思いながらTwitterのTLを眺めて絶句。死んだとの記事。なんでこんなに出来事が重なり感情が揺さぶられるのか。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車して “子供の科学 2012年 09月号 [雑誌]” 誠文堂新光社 を購入。いつもと違う本屋で購入しようとしたら勝手わからず店員さんに尋ねる。店員さんは検索システムを駆使してフロアを駆け抜けて持ってきてくれた。気の毒な感じもしたが嬉しかった。「中身」だけを買うならAmazonでよいが、中身+αは書店でないと体験できないかな。そうでもないか。書店が残っていける要素は何かな。

    スタバで休憩してから約3.5kmを歩く。午前中、冷や汗と脂汗をたっぷりかいたので、今度は自然の汗をかきたくなったので。約40分後、最寄り駅のモールへ到着して汗びっちょり。気持ちよかった。AGで身体を拭きリフレッシュ。

    19:00からミーティング。午前中のショックを引きずったまま。自分のコメントがわけわからない。頭で描いている情景と言葉で展開する意見が一致しない。ああ、そういうことを言いたいわけじゃないのに口が勝手にしゃべってあらぬ内容を発話している。それは自覚できた。へんなところで冷静だった。

    ロンドンオリンピックの競技を視聴していたら自分の視点を認識した。純粋にスポーツそのものを楽しんでいない。たとえば選手の出身国や記録、ランクを確認する。選手の属性を気にしている。これはたぶんスポーツだけにとどまらず、他人に対しても適用している構造だと理解した。たぶん、そういう視線で他人を推し量っている自分がとても嫌だから「属性」に対して拘泥したくない強い気持ちを持っている。モニタに映る国旗や国歌に敬意を払いつつも、言葉でまとめられない違和感もあり、両価的なもやもやした何かを抱えて視聴していた。

    目の前で放映されているスポーツそのものを楽しもうとするとき、選手の国や肌の色、記録は関係ない。ルールを知らなければ何がどうなるかつながらないから勝負を味わう上では知っておいた方がよいだろうけど、それも些末な要素かもしれない。同じものをみていても、僕が視認していない領域や動きについて説明する音が聞こえるとおもしろい。あぁ、他人はそこを視ていたのか、と思う。

    バスケットボールならボールをさわっている選手以外を視られるけれど、サッカーはボールを中心に眺めている。他の競技でもそんな差異がある。

    同じ時間に同じ場所で同じ動きをしている「コト」をじっとみているからといって、同じ解釈をするとはかぎらない、って当然承知しているのに、なぜだか錯覚してしまって、みんなが同じ解釈をして理解したって了解して、「意志決定」の言葉を省略してしまう。で、結局、何を決めて誰が何して、いつ確認して、事後を検証するかって「運動」の基本を怠っている。そんな気がするな。

  • 個は無限を内包しているから他と差異される

    2012.08.07 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=0Gjx-ZQuQ_Y]

    今朝は Uncle Kracker – Follow Me でスタート。ラジオで知った曲。lyricを検索して読みながら聴く。自分以外のコトがよくわからないとばかりつきつめて、実は自分を精確に素直に表現できないと理解して茫然自失の日々にちょっとほっこりしてみる。

    二十四節気、立秋。これ以後は残暑。暦の上では秋の始まりといわれてもそんなふうに思えるわけがなく、暦に限らず、「そんなふうに」思えない事柄はある。酷暑に皮膚と視線が奪われてしまうなかで、ふと上を見上げたら雲は少しずつ秋の装いの準備にさしかかっていそう。

    第三十七候、涼風至。熱風の中の秋。気配を感じたいから皮膚の感覚と嗅覚を研ぎ澄ましたい。日は短くなっているが、いつごろ、短くなったと体感するだろうか。夕方、歩いているときか、部屋の中か。あの、「あっ!」と感じる瞬間を毎年保存できたら、日時のデータを比較してみたい。

    和名はアメリカネリ、陸蓮根とも。原産地はアフリカである。英語の名前はオクラ。アフリカの野菜の名前がなぜ英語か?

    周りは夏季休暇に突入していくなかで平常運転。そろそろ資料が届いてほしいなぁと思いつつ、あれもこれもやらなきゃってリストがストックされていき、リストをデリートできない焦りが下半身の筋力を失わせていまいかとさらに焦りが焦りをよび、一周する。

    M先生のトップページを作成。シンプルに設計した。適当な写真がほしいかな。あとは些細な表示を修正したら先生にご覧いただけそう。とはいえ、その些細な修正はプログラムへタッチするから僕にはタイヘン。

    F先生の資料作成の準備。矯正の内容について保存したファイルを読み返す。現場のながれを想像しながら作成したほうがよいが、まずはいままで入力した断片情報を整理してまとめて清書かな。デザインというより入力への比率をあげよう。先生の意想を把持できない自覚があるので、僕の思惑で設計したら危なっかしい。

    僕はズレを認識していて、そのズレが僕の側だけに生じていると仮定したら、修正しなければならない。自己評価を修正する作業。ズレと認識している自己認識を更新する。更新作業の過程で判別できない要素があるなら伺わなければならない。正念場はもっと前にあったはずだが、僕の修正が遅れている。座標軸は、「問題の設定に苦慮している」点。

    わたしの第二のテーゼはこうである。認識は自己保存の道具であるとともに、たんなる自己保存を超えでている。(中略) 第三のテーゼはこうである。認識を指導する関心は労働、言語、支配という媒体のうちで形成される。(中略) 第四のテーゼはこうである。自己反省の力によって認識と利害関心は一体となる。“イデオロギーとしての技術と科学 (平凡社ライブラリー)” ユルゲン ハーバーマス, J¨urgen Habermas, 長谷川 宏 P.186-188

    二つの個と個があって、両者の差異は何か? 片方の個のなかには、もう片方の個が持つ要素以外の”すべて”の要素を含んでいる。個は無限を内包しているから他と差異される。両者の差異を識別できる。だとしたら、”すべて”は無限と置き換えられるか? あるいは個が全体を内包すると表現できるか? 科学の眺望点から眺めたら、このフレーズはナンセンスだなぁって自問自答中。

    卵2個を使って、ズッキーニとチーズでスパニッシュオムレツをつくる。ニンジンとタマネギとブロッコリーの茎をくわえる。ジャガイモとウィンナがなかったので淡泊な味を予想していたらはずれた。野菜だけでとても美味しい。ワンプレートが好きで、とりわけ複数の具材をひとつの材料でパッケージするフードを好む。合理的って感じるから。

    料理と調理は違うな。台所に立って理解できた。どちらかといえば、食材に興味を持ちつつ、調理のほうに関心が高い。同じレシピに対して分量を変化させて数回つくったら味はいかように変わるかか、って点を知りたいし、それらの数値を知りたい。

    「さしすせそ」の理由をウェブサイトで検索して説明を読んで、理科? 化学? だと思った。明快な説明に原理を理解できた。自分の考えを他人に理解してもらいたいとき、情理を尽くした明快な説明を意識しているかが重要なんだ。明快はわかりやすいと同義ではない。感情や抑揚をこらして相手を説いても承認は得られない。

  • 狂気狂喜共起

    2012.04.17 晴れ

    今朝は The Island – My Name Is Lincoln でスタート。映画のサントラです。この曲を聴きながら富士山のてっぺんから日の出を見たら幻視しそうだ。朝、落ち込んだとき”深夜高速”とあわせてよく聴く。

    M先生からミーティングで何かしゃべってほしい、とのご依頼を賜った。右半身を休めるのもかねてぼんやりする。何かしゃべってほしい、というのがもっとも難儀だ。まずは「何をしゃべらなくてよいのか」について無限の選択肢の目録を作成する。無限の選択肢の目録は原理的に作成できない。不可能な作業をやっている。やっているように見せかけるために、見た目はボウッとしながら、わけがわからない状態を維持しなければならない。

    わけがわからない状態とは、「頭の片隅に常に置いている」様。自分がニュートラルになったとき、「頭のなかの声」と会話する。これを準備とことわってよいのか知らない。紙にメモするとかレジュメを作成するのを準備だとしたら、そういったことはやらない。用意しない。「頭のなかの自分の声」と会話するだけ。この会話は唐突にやってくる。身体を動かしている自分は不意をつかれる。不意をつかれてもおしゃべりはできる。

    「頭の片隅に常に置いている」と、身体を動かしている自分の目に入ってくる物や耳に届く音声が、「頭の片隅に常に置いている」”何か”とリンクする。リンクしたときに、「頭のなかの声」がスピーチする。たいていは脳内でスピーチしている自分の映像を、何かしながら僕は客席から眺める。聴く。料理しながら聴くと不味くなるから注意。聴いて反論や賛成を「別の声」でつぶやく。違和感や異論を問いかける。そういうやりとりをぼうっとしながらくり返す。

    16:00すぎに出発。目的地一つ手前の駅で下車して読書してからF先生のミーティングに参加。19:30スタート。今回は諸事情によりテーマを変更。日歯でプレゼンされるので、プレゼンの内容を支援する。Tさん、K先生とiPadで動画を撮影。30分ほど打ち合わせした内容を撮影。TAKE1、TAKE2。TAKE2で撮影終了。完成度の高さに感心。K先生、すばらしいです。

    もう一つ、撮影時間に驚いた。3分15秒だった。ここで「頭の片隅に常に置いている」”何か”がリンクした。「頭のなかの声」が聞こえる。なぜ3分の動画を撮影できたのか。台本を用意していない。質問を4つ用意しただけ。それも19:30にスタートして質問を思案した。それだけ。やっつけ感。なのに「3分ぐらいがちょうどいいな、3分でも長いかもしれないね」と言ったとおり3分の動画を撮影できた。

    3分、という時間の「感覚」がスタッフの皆さんに培われている可能性を「声」がしゃべる。僕は偶然では、と「声」に返答する。「声」はたとえ偶然だとしても3分には何かがあるのじゃないか、と問い返す。頭のなかのやりとり。

     

    CHERRY BLOSSOM
    *PENTAX K10D *SMC FA 77mm f/1.8 Limited

    「見たいものばかり見るのもいいけど、たまには見ていないものへ視線を向けてみたら」という声に従って自分撮り。

    こういう時代、自分が死んだ後のコンテンツはどうなるの? とふと思いついたけど、たぶん後始末やメンテナンスのサービスはあるでしょ、と即答できたので意識からDel.

  • あんこトーストに細胞が歓喜

    2012.02.07 雨のち曇

    今朝はM.I.A. “PAPER PLANES”でスタート。痛烈な歌詞。スーパー・ボウルのハーフタイム・ショーでM.I.A.が中指をやらかちゃいました。そらね、M.I.A.を出演させること自体がやらかしているんだから、やらかすであろうって構えていたと思いますが、狙いだったのではと穿ってしまいます。ブラボー、M.I.A.

    早朝は雨。お天道さまを拝めなかったが日の出がはやくなってきたと数日で実感。暦の力を体感。二十四節気や七十二候を知ったから体感するのであり、先人の花鳥風月をトレースしているからであろう。その意識が自己憐憫や自己韜晦と連結すると、暦の力を力説したい衝動が説教へ変容する。加齢は自分の地位を相対的に高めたくなり保守と連関して言葉が多くなる。自戒せねば。

    今年にはいって朝食は米飯であったがトーストも数回食べた。ひさしぶりにトーストにあんこをぬってほおばると細胞は歓喜の雄叫びをあげる。あんこだ、あんこだ、あんこだ、あんこがやってきたぞ!!

    無類のあんこ好きゆえあんこを食べるのを制限して食べないわけで、自己抑制しなければ毎日あんこを食べてしまいかねず、一度、あんこのお湯に浸かってみたいとも思い、無類ではないにしろ鳴門金時に目がなく、戦時中芋ばかり食べていらっしゃった方々は芋をもう食べたくないとおっしゃる苦々しい体験を伺いながら、鳴門金時とかぼちゃとあんこをいっしょに炊いたら全身が垂涎の膜で包まれたような錯覚に堕ちる。干しいもは飲み物です、と申し上げてよろしかろう。

    無臭に近いうんこは相当律せられた食生活からもたらされるのではなかろうか。よく噛んだだけではかわるまい、と思う。多少変わったと思える回もあるが。対して臭いアリは簡単である。ファストフードの翌日だ。自意識過剰的に申し上げるとケミカル臭が発生する。かぎ分けられる高性能の嗅覚であるまいに。なのになぜかケミカルに臭う。

    どうしてウンコやオナラやといった話題に反応してケタケタ笑ってしまうのかわからず、箍が外れるとまさに抱腹絶倒であり下手な腹筋運動よりも鍛えられていると確信に至る。他者曰く、お子様。たしかに子供のあの反応に妙な親近感を抱く。

    「正論」は対話を拒絶する。なにが正論かは判定しかねる。あぐねるが、他者の意見を耳にしたとき、「正論」だと信じている印象を抱く。正論を構築した論理の過程を知らない。正論は自分で選択した結果を回収して責任を吟味する機会を持っていないのではと思える一方で、他者が選択した結果については責任を問い詰める。ということは他者からみたときの私の「正論」は(?)、と至る。

    私が属している環境を私が批判するとき、その環境を形成したのは私であるという前提が含まれていない。環境が不全で個人の能力は順調であるとの論法より、環境は健全なのに個人の能力が不調だと認定する論法を耳目するほうが多かろう。耳目する私はといえば、環境と個人を切り離して「対象」として捉えている。なぜだろう?

  • 自分で変わるほうが効率がよい

    2012.01.16 曇

    何年たっても色褪せなく聞こえるナンバってスゴイね。そりゃこちらが勝手に「色褪せなく聞こえる」ように聴いているだけなんだけど、買ってはブックオフへ持っていく昨今、ずっと手元にある「モノ」って貴重だと思うよ。

    東京から夜行バスのなかで寝入って気づいたら05:40すぎに京都駅八条口に到着。10分前のアナウンスまでぐぅぐぅ寝ていた。背中がいくぶん痛い。中年の身体は正直。降りた京都駅は寒かったぁ。目がぱっちり。始発で帰宅。「始発で帰宅」ってなんだかへんてこりんな表現だ。別にあってもおかしくないはずなのに奇妙でエロスな響き。

    帰宅してあったかいお風呂にはいって一仕事。11:00前に大阪へ出発。大阪駅で途中下車。書店で“レトリック認識 (講談社学術文庫)” 佐藤 信夫を購入。言語学の一部と認知が自分のなかでつながってきた。うれしい。「コミュニケーション」の定義をコミュニケーションの単語を使わずに説明できるようになりたいと思って始めた。まだまだ先は遠く長い。

    13:30からF先生のミーティングに参加。15:00に終了。ミーティングを観察して私が作成しなければならない書類を設計する。「決まったこと」と「実行すること」を仕訳して備忘できるマネジメントソフトってあるかな。グループウェアはやや多機能で使いこなせない。機能は少なくてUIがシンプルなソフト。iCal+タスクリストだとスタッフ間の共有が難しい。うーむ。

    すし職人がフランス料理のシェフに「ひとつにぎってください」と攻め寄ったらシェフはどう受けとめるかな。その反対ならばどうでしょう。とはいえ両者は「料理」というカテゴリーに含められるので、ひょっとしたら折り合いがつけられるかもしれない。

    建築士が公認会計士に「図面を引いて下さいよ」と詰問したらいかがか? 筋違いか。ではとこちらもとばかり「上場企業を監査してくださいよ」とくってかかるか。

    いくつも例示できる。微妙にずれたコミットメントが少ない領域に棲む専門家や実務家たちがひょんなことから相手の領域に首をつっこんだ途端、血相を変えて「やってくださいよ」と未熟なテンプレートを交換する。

    いずれのケースにせよやれなかったとき、あるいはやらなかったとき、「批判しているだけですね」って罵ってお互いが幕を下ろす。そして「当事者である私」が理解していて実行しているからと誇示する。優位であるかのような錯覚を抱かせる。

    Google Newsに掲載される一覧がそんな風景に私の目には映る。当事者である点に敬意を払う。しかし優位に立っているのではない。万人が何かの「当事者」である。同時に当事者の「領域」から少しはずれら傍観者である。傍観者が私見を述べる。その意見がマイナで批判めいていたら、自分の領域へ引きずり込む。当事者である点を聴衆へプレゼンして賞賛を浴びる。傍観者の意見を封じ込める。

    傍観者のなかの大半の見学者は「当事者」の詭弁雄弁熱弁に誘い込まれ、「変えてくれる」と期待する。コンテンツよりメディアに吸い寄せられる。

    足元を見る。他人が変えてくれると期待する。万が一「変えて欲しいとおり」に変えてもらえたら、私の年収は3倍になる?

    「変えて欲しいとおり」に変わった世の中になれば、40歳を迎えるフリーランスの私が一部上場企業に転職できて10年後には年収1,000万をもらえるし、まとまった退職金を手にできる、そんな物語の「基底」がGoogle Newsに掲載される一覧に伏流している。

    極端である点は承知している。屁理屈である点も理解している。←も反論を封じ込める手法である。技巧をこらした弁論は極論を実現可能な現象に、屁理屈を正統な論理へ変貌させる。他者は真贋を判別しがたく、期待値は上昇する。

    “正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫)” 増谷 文雄 を読んでいると人は鳥になれないし、鳥は人になれないことをなんとなく理解できる。真意を達観できる点に至っていない。ただなんとなくそう思えてくる。

    いまのGoogle Newsに掲載される一覧の「構造」は、「私は人であるけれど鳥が空を飛べる既得権益を許せない。だから飛行権を剥奪して人と同じように歩けるようにしろ」と措定されているような印象だ。あるいは私も飛べるようにしてくれと。

    ぶらさがる。

    ぶらさがれるように変えてください、自己負担は最小限でお願いします、最小限の自己負担で最大限の自己利益を得られる世界に変えてください、そんなフレーズが込められているような感じだ。1年後に変わった感を得られなかったら好感度調査で嫌いと回答する。

    そして、こんな風に書いたら、「失政」をリスト化したカタログを丁寧に送ってくださる方もいらっしゃる。血相を変えて送られてくるカタログはスルーさせてもらうけれど、クールにクリアカットに記載された「カタログ」を参照させてもらう。

    他人に変えてもらうことを期待するより自分で変わったほうが効率がよい。放言したら楽だ。他人に変えてもらうのを期待して実現できていないからとイライラしなくてよい。

  • 多言

    2011.11.19 雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Nv-HdZmmIsE]

    今朝はTHE COLLECTORSから”世界を止めて”で1日がスタート。はじめて耳にしたのはFM80.2のヘビーローテーション、1993年。衝撃でした。来年は1月の赤坂BLITZ, 2月の難波BIG CATで楽しませてもらいます。

    朝から雨。今日は午後からO先生と打ち合わせ。雨は嫌だ。傘をぞんざいにあつかう人がいるのでこわい。傘が安価になったせいかな。ルールは守るけれどマナーは身につかない、ってフレーズをネットでみかけた。ある意味、正鵠を得ていると思った。他者からしかれたらルールは守れるけど、マナーは自分を律しないと身につかない、と自分のマナーの悪さを観察していてあてはまる。

    12:00前の出発まで一仕事。M先生の広告物を制作したいのでまとまった時間を確保したいところ。この場合のまとまった時間って、10日間ほどで、その間は他の仕事を一切やらないし、一切考えない。

    14:00から打ち合わせスタート。17:30終了。O歯科医院のアクセスログは、特徴があって他と比較できない。正直、わけがわからない。試行錯誤の解析。例外中の例外ケース。

    先生から院内で配布するパンフレットの下地制作を依頼される。なんでだ。最近、ローカル環境の制作を相談される。なんでだ、と訝るし、なるほど、とも頷ける。いまの歯科医院の自由診療を記述しているサイトをいくつか見たら理由は思いつく。

    勤務医の先生についてお話を伺い相談を賜る。教育と指導、そして敬意。前者の二つは上下の関係であり、後者は水平の関係と受けとめた。スタッフであるから医院の医療を実現してもらう。収益に貢献してもらう。そのための教育と指導。同時に勤務医の先生は医療人だ。医療人としての敬意を払う。先生のお話は奇を衒わず王道である。言い換えれば王道しかないって思う。

    一般の企業の組織でも耳にする話。教育しない、指導しない。でも成績や成果に対して苦言を呈す。

    終了後、ロフトで洗口剤のConCool F 100mlとお香の堀川を購入。書店で“失われた時を求めて(2)――スワン家のほうへII (岩波文庫)” プルーストを購入。

    帰りは大阪駅で途中下車。心斎橋から長堀橋へ。くいしんぼ 本店で食事。粉もん禁断症状がピークだったのでモダン焼きを摂取して禁断症状をやわらげる。うまい、うまい。たこの塩焼きにびっくり。なんだ、このぷりぷり感は。これだけ美味いんだからしょうがない、服にまとわりついたニオイはがまんしよう。

    ステキなお話と美味しい粉もん。ありがとう。

    正法眼蔵随聞記 六 八 真浄の文和尚

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.351

    たとえ仏法のことであろうと人と議論したり言い争ってはいけない。人と言い争うひまがあるなら時を惜しんで学ぶがよい。

    六の八は議論の無益を説く。仮に何度も問われてどうしても説かなければならないなら、それすらも三度の問いにたいして一度答えるほどでよいとおっしゃる。そして多言閑語は必要なし。

    自分自身が多言であることを認識している人としていない人の差異はどういったふるまいに現れるだろう。私はというと、多言閑語のサンプルである。だらだらしゃべるし無駄話満載。簡潔に最適な分量で伝達する表現は、それ自体が芸術。

    自分の皮膚感覚的には、五人以上集まって、一人が何かを話し始めて一分過ぎたら人は聴く意識を急速に低下させているみたいだ。これは仕事での感覚。会議で5分も話せば演説である。プライベートな集まりだとまた違うだろう。

  • 思辨

    2010.09.21 晴れ

    暑さが戻った。湿度の暑さが戻ってきた。蒸し暑い。8月のジリジリ照りつけるほどでないけど湿度が高いと身体は疲れる。

    WPの制作。今回のサイトは黒系を採用した。初めての試み。配色パターンが案外難しい。写真の使い方にも悩む。文字の色と可読性を優先したい。コンテンツはマニアックなのでルックスで目を引くより商品の写真とコンテンツを際立たせたい。

    『偶然とカオス』 D. ルエール が届いた。偶然がテーマの思辨哲学を読むより偶然をテーマにした数理へ関心をいだく。無意味な比較だ。手続きが違う。前者は定められた手続きに従って弁証していくような印象を持っているが、その「手続き」を理解できないからいつまでも弁証の理解へ到達できない。到達できないから自ずと遠ざかってしまう。

    毎朝、茂木健一郎先生がTwitterで連続ツイートされる。だいたいリズムどおりだと僕が目覚めて30,40分ぐらい、ちょうど頭のけだるさが抜けはじめる頃に連続ツイートが始まる。

    それを読む。毎朝、圧倒される。毎度浮かぶ疑問。出力の質量。どうしてあれほどの質の高い論考を毎朝ツイートできるのか。「今日は何をツイートしよう」と考えてから書き始められるようなテーマじゃないと思う。一方、何かのきっかけから単語が思い浮かんで、浮かんだ瞬間、思考はトップギアに入って全速でキーボードを叩いているような連続ツイートもある。

    10-13ほどの連続ツイートを読むと、僕も朝から慣らしなしの全力で仕事だって副腎から髄質ホルモンが分泌されそうに興奮する。それに、自分もいつかはあんな風に出力できる知性を身にまといたい。切望。

    頭脳のデキが違うから羨んだり思考回路に強い興味を抱いたところで自分は変わらない。でも、茂木先生のあの文章、美しい単語が連続した文章は空論に陥らない。身体の実感が伴ってくる文脈。

    (書けるわけないけど)私が同じ内容を書いたら、覚えたての小難しい単語を陳列したイミテーションが生産される。同じ原石を与えられても僕ではダイヤを生産できない。

    難しい単語、語彙の質量じゃないと思う。たしかに難解な単語や学術用語、専門用語を使っていらっしゃる。だからといってユニークにならない。結局、生成された文章の全体像が閉じていない。開いている。開放された文脈がユニークだ。先進的で開放されているから誰が読んでも理解できるし、そして反発が生まれる。

    対して共感も反発も生まれない誰が読んでも頷ける文章は、当たり障りのない内容を書いている。知的な雰囲気を装飾して難しい言い回しを使って表現しているから高貴な文章と錯覚してしまう。それらの文章は、先人の文脈テンプレートを引用して単語を入れ替えたにすぎない。文脈そのものを自ら創造していない。

    オリジナルに引けを取らない替え歌がまれにあっても、それはビギナーズラックみたいな一度だけ訪れる幸運である。

    偶然と幸運だけでは知性の樹を育めない。

  • 受信者への敬意を忘れている

    受信者への敬意を忘れている

    私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど市民的に成熟しているのか、私は知らない。けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。「場の審判力」への私からの信認からしか言論の自由な往還は始まらない。

    『大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた』 鷲田 清一, 内田 樹 P.87

    単語の量を獲得すれば言葉を紡いで思考できると錯覚し、その錯覚から生まれた論理は他者を説得できると誤解する。錯覚と誤解は他者へ払う敬意の比率を下げて、自分のパンフレットに記載される論理と修辞のカタログをきれいに整える情熱の比率を上げる。

    発語は聴き入れられ、受け入れられ、ほんのわずかな可能性を期待するなら同意されることを望む。望みの後ろに懇願は隠れている。

    だけど、不思議なことに、単語の量を増やし修辞の質を磨けば、それに反比例して隠れている懇願は減少する。

    懇願のかわりに前面に現れるのは排他なのだ。それが今の自分を支配している。

  • 階層

    2010.01.08 晴れ時々雪

    早朝からJRの駅がさかんにアナウンスしていた。その音で目が覚めた。雪で列車が遅れているのかもしれない。今年の予報ははずれたと気象庁が認めている。暖冬であったはずなのに平成18年豪雪以来の豪雪になるかもしれないらしい。北極の気象は現代の技術でも予想しづらいとか。ただ、来週あたりから若干暖かくなるらしいがそれも予断を許さない。注意。

    朝からO先生のサイト制作。iPhoneで録音した昨年のミーティングを聞き直す。合計10時間ほどの中から『IA100 —ユーザーエクスペリエンスデザインのための情報アーキテクチャ設計』 長谷川 敦士 [to Amazon] を構築。今回のテーマはエンド。それも世界一流のエンドをさらりと伝える。とても難しい。

    17:00前に出発。19:00からM先生のミーティングへ参加。スタッフS氏の進行がとてもよかった。新人H氏の意見もするどい。あと半年から1年ぐらいで、ユニークなミーティングを構築できるような予感。もちろん外部の自分からするとミーティングの定義が異なり、違和感を覚える点もある。それは、いずれ伝えなければならない。21:40頃帰宅。やっぱり大阪より滋賀は寒い。

    内田樹先生の そんなことを訊かれても を読んで自分も「「正解」を教えてくれる人の到来を待ち望んでいる「受け身」の人たちは下層に吹き寄せられる。」 側だと認識した。フリーランスになって6年目。なんとか持ちこたえてきたけれど、昨年の業績を振り返ると危機感を通り越したと思う。戦略の中で何が大切か? という問いに対して最も優れた回答は出口あるいは撤退であると考える。

    強がりを言ったり弱腰になっているのではなく、冷静に分析した結果だ。必要とする人々がいる。感謝。そのために継続しなければならない。それが前提。他方、継続できないかもしれない現実もある。両者を見極めなければならない。

    『東京ファイティングキッズ・リターン―悪い兄たちが帰ってきた (文春文庫)』 内田 樹, 平川 克美 [to Amazon]『ひとかげ (幻冬舎文庫)』 よしもと ばなな [to Amazon] を購入。『脳科学の真実–脳研究者は何を考えているか (河出ブックス)』 坂井 克之 [to Amazon] は見あたらず。日本神経科学学会が警鐘する神経神話について知りたかったので探していたのでザンネン。Amazonでも2-5週間以内に発送なので手に入らないということ。