タグ: emotion

  • 余情が空白から余白を千木って

    2013.07.13 / 07.14 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=iqij6XLbEgE]

    Candy Dulfer – Sunday Cool でスタート。Candy Dulfer – Sunday Afternoon へつなげる。 Sax-A-Go-Go のPVを目にしてから聴き続けていて、確かめたらコレ1993年、Incognito の Positivity も1993年、両アーティストは20年耳に留まって、これからも留まる。音楽の出会いは記憶の影。

    土曜日、仕事帰りに大阪駅で途中下車。FRED PERRYへ。3連休初日の大阪。サウナに入っているみたいな空気感。人口密度が急上昇。半袖人、無袖人、半パン人、膝上上上境界線人、人々のなかに長袖私。同種ちらほら。

    耳は奇妙礼太郎@ライブビート、パブロフの私は笑みを空間へこぼして粗相しないように、笑みを下へポトポト落としていく。誰も拾うはずないから安心して落とせる、ポトポト、ニヤニヤ。うぉーっとな。

    5 Pocket Skinny Pants を購入。ひっさしぶりの買い物。サイズS、ピチピッタリ。ポリウレタン5%の効果絶大、かがんでもお尻伸びる、ウエストはまだ余ってる、んやから大丈夫(のはず)。太りません、試着室宣誓。

    コミュニケーション機能が落下傘猛スピード降下中。お店の方と、もぞもぞ、ぼそぼそ、またーり、もっさり、困ったね、ひとりで仕事しているとしゃべらんわ。

    FRED PERRY 5 Pocket Skinny Pants

    日曜日、少し先の未来がやってきた。人と会う。へんな表現。(前にも書いた)友人、友達、知人などの心中取扱説明書を青年期にどこかで置き忘れてきたのね、だからしっくり書けない。

    普通名詞に分類しない、絶対。

    話したいときに話し、笑い、毒気が抜き切れていない毒を吐き、会話を繋ぐことをまったく気にしないで穏やかに沈黙できる。心の合鍵を渡している(つもりだ)から好きなときに好きなように入ってきてゆっくりしてくれたらよい。そんなふうに思っている。

    すべての風景と言葉にピントは合わない。ピントはすべてぼんやり。だけど、「何か」が合っている、たぶん。その「何か」が自分にはもっとも大切でかけがえのないピース、だからほかのすべてがぼんやりしていても大丈夫。

    “あっ”という間に”いま”が”むかし”へ秒単位で移ろう時空を現在進行形で感じながらピースを確かめて噛みしめる。

    通り過ぎる、無意識に意識に。スクランブル交差点を見るみたいに。

    私側だけでも望む。できるだけ長く留まっていてくれたら。自分のできることを丁寧に積み重ねる、これまでも、これからも。

    余情が空白から余白を千木って明日へ渡す。「手帳に書かれた予定は未来ではない」、読み人知らずの言葉。だとしたら「未来」を期待して珈琲を飲み干した。

  • 学べば減り選ぶ

    2013.07.03 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=pXcad_Qx7aM]

    HOT 8 BRASS BAND – Sexual Healing – Live! でスタート。Marvin Gaye の Sexual Healing をカバー。黒人ブラスバンドのライヴ行ってみたいなぁ。

    第三十候、半夏生。夏至から数えて11日目をさす。かつて田植えは半夏生までに済ませるものだったとのこと。なぜ11日目かまで調べていない。旬は蛸。好物。ぶつ切りにして食したり、ジャガイモといっしょに炒めたりも。美味い蛸を生で食べてみたい、豪快に。

    紫陽花は来年の準備に入っていそう。色艶は失われつつ、美しさは変わらない。立ち止まって見る。見た記憶がない紫陽花に出会ったらとても嬉しい。近所の蓮を見に行けていない、さぼり。見ておかないと。Instagram をやってよかったのは花。たくさんの種類の花を見られる。みなさん、花の名前をよくご存じで羨ましい。

    椿

    自己の価値を確認するために他者を貶める。その行為を看過できない。貶めるつもりはないはず。見る角度を変えたら無邪気なんだ。他人から認められたい気持ちを自覚していない。自覚していないから故意でもないし意図していない。

    看過できない。踏み込む。許さない、しか選べない。許す/許さない、は私の設定条件。私が許さなくても外部の物事は流れる。物事は私の分別の限界を知らせてくれる。分別の限度は、私の対話と交渉能力の座標軸を示す。

    与えた側は忘れても、受けた側はいつまでも覚えている。これもまた他者の行為が教えてくれるひとつ。

    私もそういう行動を選択しているんだ。想像して立ちすくむ。他者の行為を反転させて我が身に置き換える。たとえそうであっても、私は私、他人は他人、と冷淡に構えて見逃さない。

    言葉は言葉それ自体に意味を持たない。行動が意味を象る。辞書は意味を収めている。辞書に記載された文章は記号の解説だと思っている。

    言葉を発した人々の行動を目にしたとき、私は言葉の<意味>を認識する。言葉と行動がちぐはぐに映る。あってもおかしくない。ちぐはぐは否定の調子を含む。なぜなら私の解釈にそぐわない行動だから。私の意に合致した行動が<意味>なんだ。意にそぐわなければ、行動変化を強要する。

    外側の世界のイメージは私の内側で構成される。

    構成されたイメージを留めておく。行動が象った言葉の<意味>を補正する。はじめの行動を目にした際に解釈した<意味>が変わる。私の心象は、否定の調子をちぐはぐから取りのぞく。

    記号の意味と言葉の<意味>の平仄を合わせる。合わせる作業が自省、たぶん。

    単語を口にする。ふだん何気なく使っている単語に違和感はない。疑問はない。辞書の意味を知っている。「気の置けない」「確信犯」など、時と世代が変えてきた単語。正しい用法ではなく時勢に合わせて使う。まだ誤用であっても辞書は解説をいずれ追加する。

    ふだん何気なく使い続ける単語に隠れて、使えなくなった単語がある。

    突然使えなくなる単語。外部の刺激を契機にして、その単語に疑問を持つ。単語の解説を調べる。解説から根源を知りたくなって学ぶ。学び始める。

    学びは単語を言葉へ教え導く。行動が象る言葉の<意味>を咀嚼できるまで、その単語を使えない。ためらう。

    単語から言葉に変化したとき、私の持ち駒は減る。言葉を前にした恐怖心。恐怖は言葉を慎重に取り扱う。言葉の取扱説明書は自分で作るしかない。

    他者に投擲した言葉は、自らの元へ返ってくる。

    いますぐ返ってこないかもしれない。時間はずれる。数日、数週間、数ヶ月後、ひょっとしたら数年後。いつか返ってくる。

    言葉として返ってくる。もしくは投擲した言葉は行動を誘発して事物となって返却される。その事物が私に危機をもたらす。

    学べば減り選ぶ。選ぶために多様は必要なんだ。

  • 外側にある理由

    2013.06.30 曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=HptBdEw2xgY]

    IMANY – You Will Never Know でスタート。ラジオで知ってすっかりハマって、とりわけこれがお気に入りって、パターン。lyricに目を通してアンニュイっぽいって勝手にでたらめで翻訳して。声も好き。

    1年の半分が終わる。ぞっとする。けどぞっとするの、もうやめよ。追いつかなくてよいし、追いつく必要はどこにもない。おぼろげな何かに追いつこうとして焦燥感を膨張させて自分を演出しているだけだから。

    自分を演出する一切をアンインストールできたら言葉はいまより減る。感性は最小限の言語構成を指向する。無音と無言に向き合えないから言葉にしたくなる。誰かを求める気持ちが沈殿する。

    沈殿物を拾って捨ててきたつもりなのにちょっとやそっとでは取りのぞけない。月日が堅牢な沈殿物にして、心の深部と癒着した。自分を演出しないようにそぎ落としていく作業。その対峙の精度と確度を高めたい。

    意味なく1年で区切るから焦燥感が浮遊する。日々を静かにめくり、やりたいこととやるべきこと、やらなくてよいことのミックスジュースを一日一杯飲み干す。あとは斜に構えたくなる気持ちをたびたび解放してやる。

    “集合知とは何か – ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)” 西垣 通 を読む。唸りっぱなし。そもそも人間にとって”知”とは何か? から問い直す。自分の関心は、”知”そのものにない。本書や“ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)” 西垣 通 , “こころの情報学 (ちくま新書)” 西垣 通 を手にとって仕事で使えるヒントがあるか探探す。たくさんあって収集がつかない。唸りっぱなし。

    自分にとっての’知”は、営みと生の隙間にありそう。日々を繕う。生そのものが抽斗に仕舞われる。忘れてるわけではいはず。なのに生が水道水みたいになって。何かの拍子で生を抽斗から出す。自分の感受は、生そのものへ常時接続していない。感受の帯域は狭い。

    数多の出会いや出来事があり、その中の一つ二つが営みと生の隙間へ迷い込む。そのときに覚えていられる問い。感覚と問いを平明に記述できたら、それが知と受けとめる。

    琵琶湖疎水

    気持ちがぐらついて正体の知れない憂いが身を覆ったとき、誰かは他人をたぐりよせる。その他人が私であるなら私がここにいる「理由」を確かめられる。誰かの求めによって、私はここにいる理由を確かめられる。

    「理由」を確かめられる機会は少ない。外側にある。見える景色と感じる質感は環世界だったとして、「理由」を私の内側で構成できるかと問われたらはっきり答えられない。自分の内部だけで完結できる、「ここにいる理由」を構成できるかな。難しいといまは思う。

    私を確かめるために自分自身は必要不可欠であるにしても、たぶん自分以外のもう一人を欲望しているのではないかしら。

    そのたった一人だけでよい外側の存在を探す。探究が、自分を演出することと自分を演出しないように削っていく矛盾を自覚させる。

  • もう満月みたないねん

    2013.05.26 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=wlxlBEP3mPo]

    ソウル・フラワー・ユニオン – 満月の夕 でスタート。

    午後から三井寺で開催されていたアースディ*しが 2013へ。目当ては中川敬さんのソロライヴ。観月舞台でアコギ一本の弾き語り。全9曲。歌もトークもまるっごとステキだった。9曲どれも甲乙つけがたいけれど、やっぱり『満月の夕』で泣いてしまった。

    関西ならもういまさらなエピソード(満月の夕 – Wikipedia)。1995年1月17日、満月だった。前日の月は赤かったともいわれている。中川さんは震災発生から1ヶ月後、長田区でライヴを開催した。そこへ来ていたひとが「もう満月みたない」とおっしゃったのを耳にして、ライヴ終了後、この曲を一気に書き上げた。10分ほどで書き上げたそうだ。

    爾来、たくさんのアーティストがカバーしてきた。いま東北を巡っておられて、東北でも歌われているとのこと。

    アコギでこの曲やるのははじめて、って笑っていた。弾く前の話を聞いているときからホロリ(何度か耳にしているのに)。自分は何ができる? 何をしてる? 何もしていない、苛立ちやら悲しみやら怒りともおぼつかない、よくわからない、ただ泣かないといけないように揺さぶられ、歌がはじまったらホロホロ。

    物事を対象にしてしまうから泣いてしまう。そういう一面を完璧に否定できるか? 自分に問いかける。宮城県女川町に実在する「女川さいがいFM」から生まれたドラマ 特集ドラマ「ラジオ」 (06/02(日)再放送) の台詞、「被災地は映画館なんですかね? 感情移入はするけど関わり合いになるのは嫌なんですかね」 が、頭によぎる。

    三井寺

    文章や散文を書く。書かなければならないって感じで書いた中身は後から読み返しても響かない。何かは書いてある。文字が並んでいるだけ。しっくりこない。書いてあることと文体と自分、この三つが服のサイズみたいにピッタリでお似合いだったら、それは無我夢中でつくったカレーが奇跡的に美味しくて、なのにそれぞれの配合や材料を覚えていなくて、どうやって作ったのかすら思い出せず、だけどあの味は口の中で残っているような偶然だ。

    いつもしっくりこなくてじれったくてもどかしいまま書いている。たぶん正常なんだろう、そういう自分が。

    ただ、何かがあって、突然、頭のなかにぶわぁっと文字列と映像が浮かび上がって一気に書けるときがある。気の利いたフレーズはひとつもなく、事実と感情をそのまま描写して、わずかな衒いが残っている。エスプリを飾りたい欲求が見え隠れしている。あとから読み返しても響いてくる。

    いっつも思う。ライヴだ。音楽だけでじゃない。ライヴ。ライヴで、その場で、ありのまま、思うがまま、ひらめいたままでよい。それぞれの人が自分のライヴに立つまでの沈黙の間、ふれてきたモノとコトがライヴパフォーマンスの源泉。

  • とがった部分とやわらかい部分と

    2013.05.23 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FrpxaS-eqOI]

    orange pekoe – ソングバード でスタート。久しぶりに聴いた。やっぱりやわらかい。「目に見ている 見えないこと かたちではなく感じている 確かなもの 優しい手触り、君に向けて 伝えたいこと」って感覚、どんな関係でも大切にしたい。かたち、にしなければならないんだけど、その前にある”たしかなもの”を希求する感性っていうのかなぁ。

    二十四節気の小満を耳にして、通りの影の具合を目にして、部屋の窓から日の出の力強い陽射し。第二十二候、蚕起食桑。旬のさかなは岩魚らしいが、夕食に何気なく食べるような魚ではさそう。先日の先輩方と食事したとき、みなさん鮎を召し上がった。私は遠慮しした。鮎を上手に食べられない。手順は理解しているつもりでもいざ箸をさしこむと鮎はイヤイヤするみたいにくずれこわれる。なんだか、食すことよりも鮎をほぐすことに心が奪われるので鮎そのものを楽しめない。残念な自分。

    四十も越えたら、知人、友人、友達、仲間、親友(はいませんが)やらの区分はできるだろうと思っていた。いまだにまったくできず。それらの呼称と関係の取扱説明書がいるようだ。

    この間、ある番組を録画して視聴した。番組はドキュメンタリー。どこかの場所を3日間撮影し続けて、そこにある人間模様を映し出す。毎回、「どこかの場所」は変わる。録画したのは、大阪の「松葉」という立ち飲み串カツ。

    大阪の地下にあり、法律上は道路らしいが、10人ほどが立ち並ぶとひしめき合うような狭いスペース、すぐそばには地上へあがる階段があり、ラッシュ時にはごったがえす場所。その階段から地上と地下へ往来すれば、必ず目にするけれど入ったことなかった未知の空間。

    ひとりの女性を撮影していた。30代後半ぐらいかなぁ。一人でビールと串カツの映像をへぇーって見ていて、その後のコメントに大笑い。「女子会って何やねん!」って言いながらビールをぐっと飲んだ。画面に向かっての毒舌は、私には毒舌に聞こえず、おもしろそうな雰囲気を纏い、がんばっているからこそ心の襞に痛みを折りたたんでいそうな感じの女性。

    私の友人(?! 知人?! 友達?!)は音楽やっていて(へんてこりんな表現)、10キロ運んで腰痛めちゃうので大丈夫か?って心配(笑)、話を伺っていると、感性や言葉のチョイスがユニークで、毒気がまじりそうなキワキワのフレーズが美しい容姿になめらかにとけこんでいる。画面の女性を見ながら、ふとそのひとの顔が頭に浮かんだ。(世間から見た平均的な見解としての)とがった部分とやわらかい部分が微妙な均衡を保っているから輝く。その輝きは万人に届くかどうかわからない。その輝きを運よく目にした人はずっと魅了される。そんな光と影をそなえた容貌と語感。

    琵琶湖

    光と影。それぞれがそれぞれの光と影を持つ。私の様態はそれらの光と影の見え方を変える。まれに光しか持っていないんじゃないかしらって羨んでしまう。そんな人いないんだけど光だけを放っているようでちょっと嫉妬して。こう書くと光がよくて影に芳しくない印象を抱いているみたいだ。本意じゃない。光のイメージをなんとなく固定してしまっている。

    毎朝、決まった時間に起きる。今朝の陽射しを浴びたとき、自分のからだが陽射しに追いついていなかった。いろんなコトに追いついていない。焦りはない。よいのかどうか、わからないけど、焦っていない点はたしか。

  • 想像と死者との対話

    2013.04.18 晴れ

    ☆マーレーズ☆ – 太陽と星 でスタート。一日中、聴いていた。声がど真ん中で歌詞はギュンギュンきてサイコー。” 何よりも大事に想える人がいる この世界はそれだけは変わらないさ 空が見える 坂道を駆け上がる 息が切れても 明日の影を追いかけるだろう ” で泣きそうになる。「大事に想える」ってね、想われる側の幸せではなく、想う側の糧なんだ。好きとか嫌いではなく、想う。

    “想像ラジオ” いとう せいこう を読み終えて、読み終えても読み終えた感じがしなく、何度も読み返し、何度も涙こらえられず、鼻のさきっぽがツン、まぶたが水分の表面張力に苦心。物語に登場する楽曲をYouTubeで聴いて、いままでと異なった質感が私に刻まれて、この感覚を伝えるとしたら、僕はまだ’それ’を知らないんだなぁ、体験していないんだなぁ、これからもできないかもしれないなぁって思いにふける。

    常々、強く感じていることが二つある。人間が授かった能力は、「想像」と「死者との対話」であること。この二つがヒトを人間たらしめると感じる。

    ほかの動物が想像する力を持っている、死者との対話している、かどうか知らない。だからヒトを人間たらしめるは人の傲慢だろうけど、そう感じざる得ないほど、「想像」と「死者と対話」はかけがえのない力だ。

    便りがあり何気ない日常が認められていて、特別なことが書かれているわけではない。でも、それが僕にとってとてもとても大切であり、そこに刻まれている文字から想像は果てしなくひろがる。どんな気持ちか? どんな表情か?

    文字から想像すらなら気をつけなくちゃいけない。人は耳で聞くだけでない。目で聴く、顔で聴く、身体で聴くコトがある。耳だけでなく、目や顔や身体で聞き分ける、否、感じ分ける、かな。

    「ふれてよいこと」と「ふれてはならぬこと」を感じ分ける。耳だけで聞き分けるのではない。五感で感じ分け、相手に踏み込めそうな領域を慎重に恐れながら探す。相手が僕に送っている信号を受信できる領域を丁寧につくる。

    文字だけだと聞き分けられない、感じ分けられない。「想像」はかけがえのない力であるけれど危険な能力でもある。想像を自己の現実にしてはいけない。想像はいくつもある現実のなかのひとつの物語である。うまく想像できたとき、その想像を「現実」に置き換えてしまう。

    想像は、対象のコトやモノや人を頭の片隅にずっと置いておかなければ、うまく想像できない。デスクトップの画面にはりつけた付箋みたいな感じ(笑) あっ、でもこれだと「済」になったらはがされてしまうか。

    便りのおかげで実りある一日がもたらされる。実りある一日にするのは自分である。自分であるけれど、自分ではない感覚。あなたとわたしが相対していき、絶対になるようで、相対と絶対のどちらもどうでもよくなり、とにかく「存在」があるとの確信が私の一日を形作る。

  • 触れなければわからないことはたくさんある

    2013.02.26 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=-yzZJ7JL8xA]

    今朝は 安藤裕子 / 問うてる でスタート。iTunes でこの歌を聴いていると、日々の営みって未来へ向かっているようで、過去の記憶を自分の思うように書き換えて更新していく作業なのかもしれないって感じる。思う、より感じる。「コレがオリジナルの記憶ですよ」と誰かが囁いてくれたとしても、痛みや辛さがリンクしているアーカイブはなるべくオリジナルのまま維持したくない、なにか自分だけでも納得したいからプロテクトをはずしてこっそり書き換えていくようなイメージ。

    匂いを嗅ぐ手で触ったものは、刺激の信号を送信してくれる。記憶と強く結び付く。

    インターネットの技術は日進月歩で進化し、ウェブのサービスが続々とリリースされ、”ソーシャル”なんて得たいの知れない単語が、カレーライスと同じ地位を獲得したかのように日常に溶け込み、毒気のない差し障りのないフレーズが5インチほどの画面に放擲され、言葉が返信を待つのか、人が待っているか、待っていないのか、しばしばわからなくなり、フィードやタイムラインにふれて、感動しました、癒やされました、そんなこともありますよね、明日は明日がやってくきます、やら、自己啓発本が一冊書けるんじゃないかしらと思えるボリュームのテキストが浮かんでは消え、人と人はゆるやかにつながっている。

    ある日、FBの’ボタン’をロボットのように押している自分に気づいた時、腐りかけている自分の精神を実感した、強く感じた。匂いも手ざわりもない、ましてや声がない。声はすべて。

    スマートフォンが指向する技術は、「触覚」と「嗅覚」だといわれている。ディスプレイに表示されたモノから実際に触れているかのように、鼻を近づければ匂いがするらしい。荒唐無稽の話ではない。近い将来実現されると報じられている。

    びわ湖大津館

    税務署と警察署へ行く。確定申告書と提出と免許証の更新。確定申告書を眺めながら、なんでフリーランスでやっているんだろうって歩きながら徒然を慰める。道中は長い。思い巡らすには充分である。

    まぁ、何も特徴のない41歳を雇用しようなんて数奇な組織はないにしても、労働を金銭の対価と考えて生活していくために焦点を合わせたら就職したほうがよいと思う。

    6km ほど歩くと、目の前の景色に情報が飛び込んでくる。家屋の風合い、蕾、風の匂い、仕事の音、食べ物の色、これらをビットに換算すれば、どれぐらいの単位になるんだろう。

    “センス・オブ・ワンダー” レイチェル・L. カーソン に書いてある。「目にはしていながら、ほんとうには見ていないことも多い」と。そのとおりだ。見てない。ほんとにそう思う。

    過去の体験が製造した眼鏡を装着して眼前の事象を見る。否、見ていないのか。ひょっとして見る前に「結論」は出ているかもしれない。過去の体験は効率よく「情報」を処理していく。その「処理」は精神を鈍化させ、鈍化した精神は「私は賢明である」と錯覚させてかろうじて己の精神を維持している。

    ほんとうに見ようとすれば、半径数百メートル歩くだけでもどれだけの時を要するのか。知識で見るのではない、感じるために見る。

    見たものの匂いを嗅ぎ、手で触り、感じられるようになってユニークの記憶は保存され、いつでも呼び出して空想のなかで自由自在に書き換えられる。その書き換え作業が、私の知性を育むんだと思う。

  • 案外脆いものよ

    2013.01.09 晴れ

    今朝は ROCK’A’TRENCH – 言葉をきいて でスタート。言葉をきいて、と願えども聴いてくれる人がいなければ虚空に言霊は舞う。聴いてくれる人は、現れるかといえば、現れる。でも、それを遠ざけているのは自分。それに気づかない自分がいる。

    いま制作中のウェブサイトは手応えを感じる。できあがりがよいかどうかは他者が評価してくれるとして、自分のなかでの手応えは写真だ。

    先生と奥様が写真を撮影してくださっている。それがどれもすばらしい。ステキだ。構図、陰影、光と影、躍動感、どれもステキだ。写真が訴求する力。

    話題がそれるけど、ある先生の症例写真は、強いインパクトを持っていて、いつ拝見しても「おぉ!」って声があがる。症例写真専用のセッティングを追求されている。

    こういう話を余所でしない。ここに書いているだけ。もし会話のなかに持ちだそうものなら、「写真だけでは…..」の反応を招く。お互い嫌な思いをしなくてもすむのならはじめからしないほうがよい。それを予測できるぐらいの知性はもっていたほうが健全だと思う。

    話するとしたら、「対立」を乗り越えられる「関係」を信じているときだろう。

    戻る。先生の腕はセミプロ級(というかもうプロだと思う)、奥様が撮影する写真は、先生と異なったトーンと感性がこめられている。お二人がDropboxに落とした写真を、僕の視点から再考して掲載する。

    文章はまかせてもらっている。僕の気ままに進めさせてもらったミーティングから文章を起こし、足りないと感じる箇所はまたミーティングを開き、それと合致するイメージを伝えて撮影してもらう。

    僕は「編集」に徹している。文章の土台はすべて先生とスタッフから零れてきたワードだ。それを掬いとって僕が最適化する。時間がかかるコラボレーション。

    でも、医院が外側へ開かれている感覚を共有できる手応え。

    なぜだろう?

    Starbucks

    先生やスタッフの頭はやわらかく、しなやかに動いている。先生やスタッフのボディが外側に開かれている。ただし、なんでもかんでも受け入れたり、周りから影響を受けて闇雲に修正しない。軸がある。その軸を揺るがす「コト」にふれたとき、医院の変容がはじまる。

    思うに「軸がしっかりしすぎている」のは危険だ。危機ではない。危機は対処できるが、危険は衰退へ向かう。

    ある先生の修士論文を拝読して、「自己変容」がつらく困難な経験であることを想像した。

    他者の話を聴いているようで聞いていない。他者の発話のすべてに「反論」か「意見」を述べようとする。自分がつらいことを訴える。停滞の原因は外部環境と位置づける。自分の行為は適切だが他者の行為は不適切。

    これら、いくらでもあげられる「強固な軸をもった」特徴の共通点はひとつ。

    「わたしはわかっている」

    これが根本にある。

    自分が学んできたことがすべて。学んできたことが壊されようとしたとき強烈に拒絶する。拒絶の最中に変容が発生しかけたかもしれないが、安住の地へ再びもどる。自分の内部の中心が安住の地。誰も侵襲してこない。外部(他者)と内部(自分)の周辺と境界で対峙しない。変容はおぼろげな「境界線」から生まれる。

    そして自分が納得できる「安定」へ精神と行為を向かわせる。正しいと自分に言い聞かせる。否、正しいというよりは、「賢明な判断をしている自分」を他人へ表現している。下品な言葉を使えば「ワタシってスゴイだろ or でしょ?」がアリアリとカラダからにじみ出ている。でも「こんな賢明な判断をする私は(以下省略)」的な香り。

    案外脆いもの、なんだ。

  • 回転数

    2012.11.28 薄曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=qFBEs3WQqEM]

    今朝は 見田村千晴 – 雨と空言 でスタート。ラジオで知った。ずるいずるい、またストライクゾーン。まっすぐ歌う人が好み。こねくりまわさず、できるだけ「補正」されず、ありのままの声でまっすぐに、ずっと聞いてられるリズムと歌詞。じっくり聴くても、ぼぉっとしながら聴いてもノイズにならない肌触りのよい音。

    二十四節気小雪、第五十九候、朔風払葉。まだ本格的な寒さに至らずとはいえ、身体には堪える寒さの足音。地面に落ちた葉を見ながらの散歩。寒々と枯れ果てた景色は再生の象徴のように思え、春は冬を経ないとやってこないあたりまえな移ろいを感じる。

    Instagram のフォロワーさんのなかでユニークな方がいらっしゃる。ちょくちょく入れてくださるコメントが滋味深い。フォローしている写真と言葉は soulful でビートがあってぐっとくる。

    世界は広いのまえに日本はおもしろい。

    皇子山公園

    会話の反応が鈍くなった。人とあまり話さなくなってわかった。頭の回転数が高い人は、話さなくても高回転数を維持できるのかしら。私の回転数は低く、ポテンシャルも鈍いと認識できた。その点はよかった。

    反面、話さなくなっての利点は、言葉に依存しすぎなくなった。以前は考えてから走っていたが、いまは走ってから考える。どうしてもなら、走りながら考える。

    身体の反応や自分の感覚、他者の動きへ焦点を合わせるようになり、言葉とは裏腹な情感を観察するようになった。言葉がなくても思考できるなんんて学問だったらナイーブすぎるけど、日常生活ではさして支障がない。

    いままで話すことによって何か見落としたり、忘れたり、感じなくなったり、時間を失ったりしていたコトもあったと思う。

    久しぶりにポテトサラダをつくった。ミルクパンにジャガイモと水を入れ沸騰させ、柔らかくなってきたらほぐしながら、人参やベーコン、玉葱とブロッコリーをゆであがる順を見計らっていれる。水分がとぶまで火にかけてやり、そのあいだ、ずっとこねくりまわす。クレイジーソルトとマヨネーズで味付け。ベーコンの塩分があるのでマヨネーズは少なめ。出来上がりの美味に自画自賛。自分だけの店レベル感。

    皇子山公園の落葉

    自分を楽しませることができる日常がいたるところにまだまだ隠れている。自分が発見できていないだけだ。

  • 新しい個体、全体の抑制、部分と全体は…..

    2012.10.23 曇 24 雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=BCOP3TEk0dY]

    今朝は Fishmans – いかれたBaby でスタート。これ、もう何十回視聴したか。ひょっとして三ケタかも。冒頭のシーン、たぶん、「見えた」んだろうなぁ、と空想する。見たくないものか、勝手に見えたのか、どっちにしても脳が creativeしたモノであっても、僕には絶対に見えないモノであり、たぶん見たくないモノだ。ただ、こうやって「あちら」へ踏み込んだと思えるような人の表現をずるがしこく拝見する。それを前にしてただただひれ伏すのみです。

    第五十二候、霜始降。その名のごとく、早朝、外に出ると植木の葉や窓硝子に白い結晶が覆われている。そんな時節にさしかかってきた。旬の野菜は占地。天然ものの占地はまったく手に入らない。本占地、または大黒占地といわれるらしい。スーパでブナシメジを買う。占地はよく食べる。

    23日、東大阪へ。ミーティングの進行や来院者との会話についてしゃべってほしいとの依頼を受ける。10:30に医院に入り、約60分見学して、11:30から13:00までミーティング。60分間で気になった点を記憶した。

    冒頭、「ミーティング」を質問する。返ってきた答えや感想から、医院の「ミーティングの空気」を測定する。各医院はミーティングのユニークな空間を醸成している。ミーティングで使われる単語の「感覚」と「共有」も医院の数だけある。闖入者がミーティングを仕切ると、新しい雰囲気を作り出せる一方で、連続が失われて停滞を呼び込みかねない。その停滞は必要なかった状況である。

    ミーティングの空気を測定して、空気のなかを交信している単語を推量して、どんな話をすれば、理解の糸口をつかんでもらえるかを探っていく。手探りで暗闇を進む時、周りから「声」をどれだけもらうかで、全体が進みたい方角がうっすらと見えてくる。だから「声」は多ければ多いほど助かる。

    組織、または集団は「声」を出す人が定まってくる。それが組織または集団の性質だ。全体は新しい個体の「声」を抑制する。新しい個体は全体の空気を察知する。生き残るため、感情を脅かされたくない本能が機能するからおのずと「声」を自ら制御する。

    そういった「空気」の測定はほんとに難しい。はじめての場での測定は不可能だ。不可能を承知しながら、その承知の非礼を理解してミーティングを進める。

    はじめての場であるから、なるべく沈黙をつくらず、沈黙を排除してしゃべりつづける。あるいは誰かが常に声をだしている状況を設定する。誰かが常に声を出している状況は、「進みたい方角」が360度に広がる。拡散していく声を収集して、分類しながら、いま選択できそうな方角を慎重に選ぶ。

    今回は先生がいつもの調子で意見をおっしゃろうとして、それを必死で抑えている姿を拝見できた。僕はそう見て推察していた。あとで昼食を食べているとき、先生は似たようなことを感じていらっしゃたとのこと。いつもならそのままあらぬ方向へ進むところを、僕が戻していたとおっしゃっていた。先生の意見を伺っても実感はわいてこない。他者はそんなふうに僕を見ている、とだけ記憶する。この確認が会話の醍醐味だろう。

    琵琶湖

    奥様といっしょに昼食をご馳走になった。御両人が感想をおっしゃってくださった。感想を備忘して自分の修正すべきポイントを分析する。喜怒哀楽を極力控え、自分を律せられるように努めて評価の中身を査定する。この「切り離し」作業にようやく慣れてきた。慣れてきたが、まだ感情を抑制できない。もっと深く深く潜らなければ。

    月曜日、一通のメールが嬉しかった。ほんの少し、小さい小さいほんとにごくわずかであっても、どこかの方向へ足を踏み出していると受けとめてよさそうで嬉しかった。でも、毎日そんなにうまくいかないかもしれない。それでもよいと思う。ほんとに目に見えるか、感じられるかどうかなんてわからないぐらいの微細な情感を積み重ねられたらOKだ。

    火曜日、体調が一変した。背中の痛みは増幅、あわせて寒気がした。やや下降線をたどりそうだ。口内炎ができた。なにか食べても美味くない。正直な身体で安心する。不安と怠惰を身体が正確に表現していることだけが救い。