タグ: environment

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • 触れなければわからないことはたくさんある

    2013.02.26 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=-yzZJ7JL8xA]

    今朝は 安藤裕子 / 問うてる でスタート。iTunes でこの歌を聴いていると、日々の営みって未来へ向かっているようで、過去の記憶を自分の思うように書き換えて更新していく作業なのかもしれないって感じる。思う、より感じる。「コレがオリジナルの記憶ですよ」と誰かが囁いてくれたとしても、痛みや辛さがリンクしているアーカイブはなるべくオリジナルのまま維持したくない、なにか自分だけでも納得したいからプロテクトをはずしてこっそり書き換えていくようなイメージ。

    匂いを嗅ぐ手で触ったものは、刺激の信号を送信してくれる。記憶と強く結び付く。

    インターネットの技術は日進月歩で進化し、ウェブのサービスが続々とリリースされ、”ソーシャル”なんて得たいの知れない単語が、カレーライスと同じ地位を獲得したかのように日常に溶け込み、毒気のない差し障りのないフレーズが5インチほどの画面に放擲され、言葉が返信を待つのか、人が待っているか、待っていないのか、しばしばわからなくなり、フィードやタイムラインにふれて、感動しました、癒やされました、そんなこともありますよね、明日は明日がやってくきます、やら、自己啓発本が一冊書けるんじゃないかしらと思えるボリュームのテキストが浮かんでは消え、人と人はゆるやかにつながっている。

    ある日、FBの’ボタン’をロボットのように押している自分に気づいた時、腐りかけている自分の精神を実感した、強く感じた。匂いも手ざわりもない、ましてや声がない。声はすべて。

    スマートフォンが指向する技術は、「触覚」と「嗅覚」だといわれている。ディスプレイに表示されたモノから実際に触れているかのように、鼻を近づければ匂いがするらしい。荒唐無稽の話ではない。近い将来実現されると報じられている。

    びわ湖大津館

    税務署と警察署へ行く。確定申告書と提出と免許証の更新。確定申告書を眺めながら、なんでフリーランスでやっているんだろうって歩きながら徒然を慰める。道中は長い。思い巡らすには充分である。

    まぁ、何も特徴のない41歳を雇用しようなんて数奇な組織はないにしても、労働を金銭の対価と考えて生活していくために焦点を合わせたら就職したほうがよいと思う。

    6km ほど歩くと、目の前の景色に情報が飛び込んでくる。家屋の風合い、蕾、風の匂い、仕事の音、食べ物の色、これらをビットに換算すれば、どれぐらいの単位になるんだろう。

    “センス・オブ・ワンダー” レイチェル・L. カーソン に書いてある。「目にはしていながら、ほんとうには見ていないことも多い」と。そのとおりだ。見てない。ほんとにそう思う。

    過去の体験が製造した眼鏡を装着して眼前の事象を見る。否、見ていないのか。ひょっとして見る前に「結論」は出ているかもしれない。過去の体験は効率よく「情報」を処理していく。その「処理」は精神を鈍化させ、鈍化した精神は「私は賢明である」と錯覚させてかろうじて己の精神を維持している。

    ほんとうに見ようとすれば、半径数百メートル歩くだけでもどれだけの時を要するのか。知識で見るのではない、感じるために見る。

    見たものの匂いを嗅ぎ、手で触り、感じられるようになってユニークの記憶は保存され、いつでも呼び出して空想のなかで自由自在に書き換えられる。その書き換え作業が、私の知性を育むんだと思う。

  • 世辞のうまい人ねのフィルタリング

    2012.12.18 曇時々晴れ間

    今朝は Laura Izibor – Mmm… でスタート。Make everything so simple in a crazy world, And I’m tryna find the words to say. You make everything alright just by being around. Boy, you make me wanna sing の lyric を体感してみたい。この曲を聴きながら豆を挽き、香りを嗅ぎ、曲の時間だけ空想へ突入して、誰かと会話する。そんな自己満足が生活の支え。

    抱いた印象を素直に送信したら、世辞と受信される。送信と受信のズレを埋めるより、ノイズが混じっていない直感した感情を伝達できる術を探す。受信を制御したくない、否、できるわけない。

    受信する側のOSによっては、世辞のうまい人、うまくあわせる人と僕をフィルタリングする。時機と言葉の選択はフィリタリングの条件に影響を与える。おもしろい。

    Significant Other をインストールしていても、SOのハードウェアとソフトウェアを知らない。知りたくても知られたくない、知りたくなくても知ってほしい。知る、知らない、の呪縛を通過して、関心と無関心の絶妙な境界線へ移動するまで自己の葛藤と対峙する。なにより何を知って、知らないかは一致しない。一致するなんてサイコロの同じ目が8回連続でるよりありえないだろうから一致したら僥倖だ。

    自分の皮が玉葱の薄皮のように少しずつ剥がされいくときの恐怖と快感。いつまで剥いでも真はでてこない。知る/知られるの優先順位は低い。届くか届かないかに知覚は引き寄せられている。

    Lake Biwa

    15:00から京都駅でH氏とウェブサイトの打ち合わせ。お話しを伺う。輪郭がぼけていたアイデアがくっきりしてきた。頭のなかの映像の構図が定まりピントがあう。あとは言葉を探す。アイデアを相手に理解してもらえる文脈を話ながらつくり、説明と説得を腑分けする。

    17:00に終了して、H氏とそのまま忘年会を兼ねた会食へ。仕事の話も含めた身近な話題から、パブリックな距離感が求められるトピックも料理といっしょにまな板の上にのぼり気持ちよい。

    数日前に僕がタイムラインに投げた「不審者の情報提供メール」について話すH氏の相貌が印象に残った。女子中学生の後ろを歩いていたら不審者通報メールの掲示板に掲載されていた話。

    僕は平日の昼間に散歩する。カメラを小脇に抱えて学校の近くを歩く。ホントにドキドキする。なるべく小綺麗な服を着て(いるつもり)背筋を伸ばしてスルーしている(つもり)。でも他者は何を感受しているか。推量を積み重ねる。

    万が一帽子をとったりなんてすれば、僕の外見をご存じの方は、以下ryo

    賛否や非難よりもクールに眺めていたい。大局はそんな方向へ流れていく。その風景をゆっくり観察する余裕を探していきたい。

    20:00ごろに会食を終えた。承認の欲望を自己認識できた時空だった。

  • 回転数

    2012.11.28 薄曇

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=qFBEs3WQqEM]

    今朝は 見田村千晴 – 雨と空言 でスタート。ラジオで知った。ずるいずるい、またストライクゾーン。まっすぐ歌う人が好み。こねくりまわさず、できるだけ「補正」されず、ありのままの声でまっすぐに、ずっと聞いてられるリズムと歌詞。じっくり聴くても、ぼぉっとしながら聴いてもノイズにならない肌触りのよい音。

    二十四節気小雪、第五十九候、朔風払葉。まだ本格的な寒さに至らずとはいえ、身体には堪える寒さの足音。地面に落ちた葉を見ながらの散歩。寒々と枯れ果てた景色は再生の象徴のように思え、春は冬を経ないとやってこないあたりまえな移ろいを感じる。

    Instagram のフォロワーさんのなかでユニークな方がいらっしゃる。ちょくちょく入れてくださるコメントが滋味深い。フォローしている写真と言葉は soulful でビートがあってぐっとくる。

    世界は広いのまえに日本はおもしろい。

    皇子山公園

    会話の反応が鈍くなった。人とあまり話さなくなってわかった。頭の回転数が高い人は、話さなくても高回転数を維持できるのかしら。私の回転数は低く、ポテンシャルも鈍いと認識できた。その点はよかった。

    反面、話さなくなっての利点は、言葉に依存しすぎなくなった。以前は考えてから走っていたが、いまは走ってから考える。どうしてもなら、走りながら考える。

    身体の反応や自分の感覚、他者の動きへ焦点を合わせるようになり、言葉とは裏腹な情感を観察するようになった。言葉がなくても思考できるなんんて学問だったらナイーブすぎるけど、日常生活ではさして支障がない。

    いままで話すことによって何か見落としたり、忘れたり、感じなくなったり、時間を失ったりしていたコトもあったと思う。

    久しぶりにポテトサラダをつくった。ミルクパンにジャガイモと水を入れ沸騰させ、柔らかくなってきたらほぐしながら、人参やベーコン、玉葱とブロッコリーをゆであがる順を見計らっていれる。水分がとぶまで火にかけてやり、そのあいだ、ずっとこねくりまわす。クレイジーソルトとマヨネーズで味付け。ベーコンの塩分があるのでマヨネーズは少なめ。出来上がりの美味に自画自賛。自分だけの店レベル感。

    皇子山公園の落葉

    自分を楽しませることができる日常がいたるところにまだまだ隠れている。自分が発見できていないだけだ。

  • 新しい個体、全体の抑制、部分と全体は…..

    2012.10.23 曇 24 雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=BCOP3TEk0dY]

    今朝は Fishmans – いかれたBaby でスタート。これ、もう何十回視聴したか。ひょっとして三ケタかも。冒頭のシーン、たぶん、「見えた」んだろうなぁ、と空想する。見たくないものか、勝手に見えたのか、どっちにしても脳が creativeしたモノであっても、僕には絶対に見えないモノであり、たぶん見たくないモノだ。ただ、こうやって「あちら」へ踏み込んだと思えるような人の表現をずるがしこく拝見する。それを前にしてただただひれ伏すのみです。

    第五十二候、霜始降。その名のごとく、早朝、外に出ると植木の葉や窓硝子に白い結晶が覆われている。そんな時節にさしかかってきた。旬の野菜は占地。天然ものの占地はまったく手に入らない。本占地、または大黒占地といわれるらしい。スーパでブナシメジを買う。占地はよく食べる。

    23日、東大阪へ。ミーティングの進行や来院者との会話についてしゃべってほしいとの依頼を受ける。10:30に医院に入り、約60分見学して、11:30から13:00までミーティング。60分間で気になった点を記憶した。

    冒頭、「ミーティング」を質問する。返ってきた答えや感想から、医院の「ミーティングの空気」を測定する。各医院はミーティングのユニークな空間を醸成している。ミーティングで使われる単語の「感覚」と「共有」も医院の数だけある。闖入者がミーティングを仕切ると、新しい雰囲気を作り出せる一方で、連続が失われて停滞を呼び込みかねない。その停滞は必要なかった状況である。

    ミーティングの空気を測定して、空気のなかを交信している単語を推量して、どんな話をすれば、理解の糸口をつかんでもらえるかを探っていく。手探りで暗闇を進む時、周りから「声」をどれだけもらうかで、全体が進みたい方角がうっすらと見えてくる。だから「声」は多ければ多いほど助かる。

    組織、または集団は「声」を出す人が定まってくる。それが組織または集団の性質だ。全体は新しい個体の「声」を抑制する。新しい個体は全体の空気を察知する。生き残るため、感情を脅かされたくない本能が機能するからおのずと「声」を自ら制御する。

    そういった「空気」の測定はほんとに難しい。はじめての場での測定は不可能だ。不可能を承知しながら、その承知の非礼を理解してミーティングを進める。

    はじめての場であるから、なるべく沈黙をつくらず、沈黙を排除してしゃべりつづける。あるいは誰かが常に声をだしている状況を設定する。誰かが常に声を出している状況は、「進みたい方角」が360度に広がる。拡散していく声を収集して、分類しながら、いま選択できそうな方角を慎重に選ぶ。

    今回は先生がいつもの調子で意見をおっしゃろうとして、それを必死で抑えている姿を拝見できた。僕はそう見て推察していた。あとで昼食を食べているとき、先生は似たようなことを感じていらっしゃたとのこと。いつもならそのままあらぬ方向へ進むところを、僕が戻していたとおっしゃっていた。先生の意見を伺っても実感はわいてこない。他者はそんなふうに僕を見ている、とだけ記憶する。この確認が会話の醍醐味だろう。

    琵琶湖

    奥様といっしょに昼食をご馳走になった。御両人が感想をおっしゃってくださった。感想を備忘して自分の修正すべきポイントを分析する。喜怒哀楽を極力控え、自分を律せられるように努めて評価の中身を査定する。この「切り離し」作業にようやく慣れてきた。慣れてきたが、まだ感情を抑制できない。もっと深く深く潜らなければ。

    月曜日、一通のメールが嬉しかった。ほんの少し、小さい小さいほんとにごくわずかであっても、どこかの方向へ足を踏み出していると受けとめてよさそうで嬉しかった。でも、毎日そんなにうまくいかないかもしれない。それでもよいと思う。ほんとに目に見えるか、感じられるかどうかなんてわからないぐらいの微細な情感を積み重ねられたらOKだ。

    火曜日、体調が一変した。背中の痛みは増幅、あわせて寒気がした。やや下降線をたどりそうだ。口内炎ができた。なにか食べても美味くない。正直な身体で安心する。不安と怠惰を身体が正確に表現していることだけが救い。

  • 目をみて嘘をつく、なぜなら…..

    2012.07.10 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=vyf1dyFuDn4

    今朝は THE MODS – 激しい雨が でスタート。ウィンブルドン 2012でロジャー・フェデラーが7度目の優勝を果たしました。A・マリーは英国男子としては1936年のフレッド・ペリー以来となる76年ぶりの優勝はならず。フレッド・ペリーがテニスウェアをデザイン(当時のゆったりしたウエアからぴったりしたシルエットへ)して売れに売れ、やがてフレッド・ペリーのブランドが確立されモッズへと発展。モッズはいいですなぁ。

    第三十一候、温風至。梅雨空の雲間から注ぐ陽射しは強く風は熱を帯び、突出しは鱧、本格的な夏の到来。梅雨明けまであと少し。ししとうがうまそうだ。美味とともにロシアンルーレット(といえば不謹慎か)のような辛さのスリルを味わう。あたれば悲鳴。ビタミンAの含有量はピーマンより多いとのこと。

    “顔は口ほどに嘘をつく” ポール・エクマン“森の旅人 (角川21世紀叢書)” ジェーン グドール, フィリップ バーマン が届く。ポール・エクマン – Wikipediaの書籍を読んでみたかった。まずはこれを読んでからもっと知りたくなったら “表情分析入門―表情に隠された意味をさぐる” P. エクマン, W.V. フリーセン を購入したい。

    “想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎“人間とは何か――チンパンジー研究から見えてきたこと” 松沢 哲郎 を読み、ジェーン・グドールを知りたくなった。ジェーン・グドール: 類人猿とヒトを分かつもの | Video on TED.com を視聴たとき超然とした口調のプレゼンに感銘を受けた。

    ポール・エクマンはドラマLie to Meのライトマン博士のモデル。ティム・ロス演じるライトマン博士のエキセントリックぶりがおもしろい。Season 1では各エピソードに著名人の「表情」がフラッシュバックで挿入される。クリントンやO・J・シンプソンの有名なシーンと表情。俳優はそれらと似た表情を浮かべる。ライトマン博士は視聴者向け解説よろしく指さしながら表情や仕草から読みとった「嘘」を暴く。解説と暴くプロセスに興奮。

    現実世界の嘘をドラマのごとくあざやかに暴けたら「真実」は哲学の俎上に載せられることなく、またシニカルに構えられることもないかもね。ライトマン博士に記者会見を視てもらいたいな。

    家族が子供を守る。それに甘えていないか? かつて企業は終身雇用をもってして基礎的生活コストを支給して擬似的な家族扶養制度を構築した。構築したというよりさせられた。そして家族は子供を守る。いままでそうやってきた、そして成功したから美化された。江戸時代や戦前の、といった「感じ」だけで切り取った「伝統」や「風習」を賛美する。

    社会が子供を守るシステムは? ひとりひとりの固有名詞の子供を守ることと同時に「子供」という存在そのものを守る大人の意志は?

    冷静に静謐に議論できる場をつくり、社会が子供を守る意志とシステムを構築できないだろうか。関係者の方々にそれらを望むのは酷だと思う。

    事件が起きる。報道が「集団」か「瑕疵ある組織」を任意に選び非難する。構図を決める。固定した構図と非難を視聴した人、読んだ人が非難を増幅させる。識者はテレビの前で「コメント」を残す。いまだとネットで固有名詞が掲載され一瞬で拡散して固有名詞は検索結果に永久保存される、が「プロセス」に加わった。喧噪がつづき月日が流れて沈静したら、残された人々は崩壊した現場を修復しはじめる。

    はじまりから喧噪がさっていくまでのプロセスがひとつの「テンプレート」として保存される。まるでブームのように非難の報道と一般人の増幅と識者の3点「同定」が現れて消えてゆく。

    僕もこの文章を書きながらこれらの「テンプレート」に加わる。どうしたらよいのかさっぱりわからない。

  • 百年の誤読・誤解・誤認

    2012.06.13 曇

    今朝は SAKURA – Love 4 real でスタート。”あんたと付き合うのまじ超大変 まじ切れ寸前でもうやってけん だけど心に嘘はつかれへん やっぱあんたしかおれへん” と思った人はひとりだけいたなぁ、といつも思い浮かべながら聴いてしまう。いまどうしてはるんでしょうなぁ。記憶は存在するけど物質として存在してへんな、そんなふうにも受けとめられるんとちゃうか。なんで関西弁やねん。

    「あれは私のことですか?」の着信あり。即答する、否。茫々の日々からたったひとつを抜き出して記述しない。いくつかを主観的に観察してからパターンを構造分析のち抽象化。それがぼくの探索経路である。

    ぼくが語彙と術語を豊富に持ち合わせていれば、抽象化された思念はわかりやすく複雑に記述されるはずだ。悔しくも語彙と術語をもちあわせていない。抽象化された思念は中途半端になる。誰かが読んだときに、「私のことか」と訝らせてしまう。

    結局、パターンを発見できていない。構造化分析があらく抽象化があいまい。ぼくの認識と思考のスキルはまだまだ稚拙。語彙と術語の総量が少ない証。語彙と術語をストックできても、それらを組み合わせて表現できなければ、「意味不明」からいつまでも抜け出せない。

    昔はあったにせよ、いまは特定した何かを想定して発信しない。控えている。特定されたような印象があるならぼくの筆力が不足しているからだ。仮に発信したいなら、ユニバーサルを指向している。着想と向き合って抽象化する。自分の能力が問われる。「関係」にフォーカスするステージへさしかかっている、と自己分析している。ステージの情態はこれからも変容していく。

    誤読の意味は、「まちがえて読むこと」と書いてあるが、近ごろの使われた方は本来の意味からときどき離れる。相手が自分の意図どおりに読んでくれない行為を誤読と指摘する。

    駄文を書いてきてわかった。自分の意図を精確に伝達できない。伝達は至難。うまく書けたと思った文章を相手が読む。相手の読み方や理解の仕方、文脈の認識を制御できない。それを体感したら、「書かれたもの」はもう「自分」ではないと感じる。書き終えた後の自分のテキストは他者なんだ。そんなふうに思うようになった。肯定的で進歩的なニュアンスの「絶望」。精確な意図の相互通信は可能であっても、相互理解は不可能である、と前提したほうが書く方にとって気楽である。

    14:00から京都駅でC社のH氏と打ち合わせ。打ち合わせの最中、アイデアをカタチに変える局面にさしかかっている、とぼくは判断した。先日、インセプションが放映されていた。DVDで観賞した。解釈の幅が広い。同じ映画を何度も鑑賞する癖を持つ。いまはそんな時間を惜しんでいるので20代のときのように何度も視聴しない。が、インセプションはこれから何度も観たい。「アイデアを盗み出すという犯罪分野におけるスペシャリスト」の物語。

    書架の“アイデアのつくり方” ジェームス W.ヤング“アイデアのヒント” ジャック フォスター を取り出す。これまで再読を重ねた。アイデアは最高に大切である。“アイデアのちから” チップ・ハース, ダン・ハースもしかり。そして、 “アイデアを形にして伝える技術 (講談社現代新書)” 原尻 淳一 もあわせて体得しなければならない。

    頭のなかで考えている「言葉(と映像」をカタチにしてアウトプットする。アウトプットされた「カタチ」を視認して周りは「言葉(と映像)」を「コンテンツ」として認識する。では、どうしたらカタチにできるか、と思う。言葉からカタチへの変換は、「考える」ではなく、「動かす」だと僕は考えて走る。動かさなければならない。具体的な作業だ。そこに抽象化の議論は必要ない。徹頭徹尾、手を動かし出力する。

    ここ数日、睡眠の質が悪い。ひとつは腰痛。夜中に何度も目が覚め、数十分、座っていないとつらい。もうひとつはやっかい。茂木先生のFBのフィードから流れてきた文章、”「私的な事柄と公的な事柄の間の齟齬の中に、私たちの孤独の理由がある。ある役割を演じているとき、人は常に孤独である」”を読み、また向き合えると我を促す。

  • 口の尊厳死

    2012.04.25 晴れ

    今朝は、Beatles – Let It Be でスタート。死の実相が情感に語りかけてきたときに聴く。隣人が無に帰すれば有限から無限への交替は蠱惑的なまなざしをむけてくるのだろうか。その時の自分の足は空気に喰われている。

    Dr.Martensの手入れをしながらかかとを確かめる。外側へ向けてすり減っている。左右とも。ひどい蟹股で歩いているらしい。格好の悪い話。街ゆく人の歩く姿に目を奪われる。美しい立ち姿。「正しい」姿勢と「正しい」歩き方を知らない。ただ自分の感覚のスイッチが押されただけ。

    手入れをしながら100年後の自動車を想像する。登録された生体認証でしかエンジンは作動しない。一定時間ごとにハンドルから生体認証の信号を受信する。あるいはハンドルはなくなっているかもしれない。もし別人が運転していたら、AIは周囲の状況を計算して安全を確保してからエンジンを停止させる。走行中の車間距離制御は当然。生命体への衝突を完璧に回避する制御システム。

    もう少し先ならどうだろう。体内にインプラントしたIDは運転手の状況をワイヤレスで自動車のAIへ送信する。AIは乗車の是非を判断する。違うか。その頃になれば、もう「運転手」の定義は書き換えられている。運転しなくてよいかな。

    描く映像へ到達するまでの道のりは長い。究極の個人情報の提供や走行の「自由」を奪われかねないことへの抵抗は激しいだろう。技術と制度と知性の3つが大衆を説得するまで起こりうる事象は人から奪い続ける。

    少しずつ漸進していく様を静かに見守り、淡々と参加する。数年先の将来は悲観して数十年、数百年先の将来は楽観する。懐古趣味はない。昔を礼讃するほど昔を知らない。

    16:00過ぎに出発。大阪駅で下車。“感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)” 高橋 昌一郎 を購入。自宅から持ってきたコーヒーを飲みながら読書。その後、移動。目的地二つ手間の駅で下車。徒歩。

    歩きながら、複式簿記を考える。資産が身体、負債が心、資本は命としたら、収益と費用はなんだろう? 収益は脳への報酬として費用は何だろう。あるいは収益を脳への入力、費用は脳からの出力としたら、貸借対照表はどうしようか。いままでためてきた内部留保をこれから食いつぶしていくんだろうなぁ。

    資産の身体を駆使して負債の心を返済する。心の返済とは静謐と安定を保ち続けること。さっぱりした生活の糧。今の状況をB/S・PLで算出すると、身体を使って心の返済ができず借入が増えていそう。

    我ながら暇つぶしのテーマが浮かんで35分ほどの道のりもあっという間。もう汗ばむ気温でやや閉口。

    19:00からF先生のミーティングに参加。イメージしていたようなファシリテーションができなかったのでご迷惑をおかけした。そろそろシステムを完成させて運用に入らなければ。議論のテーマが拡散している。僕がカテゴリーを分類して、要点を抽出して高効率の議論の枠組を提示しなければならない。

    他方、議論の拡散がよいアイデアを生む。今回の一部もそれにあてはまる。だから杓子定規にファシリテーションしたら発想の萌芽を摘む。拡散が認識を更新する。個々と集合体の差異を言葉で表現できるようになる。言葉で表現できるようになれば、あとは方法を実装したら解決できる。実装は僕にまかせてもらえたらOK。

    21:00すぎに終了。その後、先生とK先生、Tさんで食事へ。23:00でお開き。つくづく思うのは時間。時間の軸、というかspan, view, perspective。時間の幅と視点をどれだけ広くとれるか、そして観点の変異をいくつもてるか。長く広い空間に身を置くと茫然自失の私と出会える。先生との食事は、その私との出会いを仲介してくれる。

    深謝。

  • いいね、の圧から逃走しよう

    2012.02.20 晴れ

    今朝はMs.OOJA “Baby Don’t Know Why” でスタート。Beのほうがメジャなんでしょうか、知らない。これ、リズムがなにかと似ていると思うけど思い出せない。気のせいか。”似ている”なんて言い出したらあれもこれも似ているわけで。

    二十四節気、雨水。太陽の黄経が330度。寒さがほんの少し和らぐ、といわれる。第四候、土脉潤起。意識が天体の運動へ向けられたら法則の精密を感じる。起床から朝ご飯まで明るさが変わってきた。地球外生命体が存在するかもしれない惑星に地球の自然法則や物理法則を適用するんでしょうか、異なる物理法則は存在するの、と今朝思った。それだけ今朝の陽射しが心地よかったからだ。光度を実感できた。

    11:00前に出発。大阪駅で途中下車してレターパック500で資料を郵送。ヨドバシカメラで備品を購入。列車の運行が人身事故で遅れていたが気にせずホームで待つ。最寄り駅から2つ前の駅で下車して歩き始める。少しゆっくりめに歩く。途中のセブンイレブンでおにぎり2個を買い店の前で食べる。ジャパニーズファストフード万歳。

    いまは外食に神経をとがらせている人はいらっしゃるでしょう。(風評被害と叱られるかもしれないが)米を安く仕入れられる可能性があるなら、外食産業は規制値を下回っている米を仕入れるかもしれない。「すべて」を規制することは不可能だと思うから。自分はといえばそういうのを踏まえたうえで食べている。これからは外で食べるなら「わずか」でも含んでいるのもあると想定していただいている。その論理に従えば、外で買って自宅でつくるものも安全ではない。

    TLではこちらが勝手に気の毒と感じるぐらい敏感な方はいらっしゃる。「家族を守る」とはそういうものかもしれないし、各人が自分の信念と判断で行動しているからそれでかまわない。ただ、それが「内側」だけで機能していれば安定するけれど、当然「外側」にも作用するから全体は不安定になってときにはげしい興奮状態におちいって衝突する。

    おにぎりを食べながら数分間そんなことを考えた。40分弱でF先生の医院に到着。

    13:30からミーティング。iPadが診療所に普通にある状態がいよいよ「ふつう」になってきた。すばらしい。まだまだアイデアを絞り出せるはず。こうやってべた褒めすると、iPadは手段だからと諫められる。そのとおりである。iPadがあるかないかは関係ない。どちらでもよい。「ある」側を選んだからUXを向上させるアイデアを実践できたらと願う。

    15:00終了。先生と少しお話しして失礼した。

    Facebookやmixiについて、ウェブサイトの制作から離れるようになったらやらなくなるだろうなぁといつも感じる。いまつながっている方々に対して何か申し上げるとかではない。全体に対してそう感じるだけである。インターネット全体に対してドライな関係で関わっていたい、と自己認識している。SNSのどこかウェットな感覚が私の肌には合わない。勝手にウェットだと判定してしまっているのもあるだろう。

    人づきあいが不得手である。Facebookやmixiのなかをのぞいていてそう感じる。コンテンツを上手に発信して周りを盛り上げ自分自身も楽しんでいらっしゃる方がいる。そういう方をうらやましいと思う。同時に自分はムリだと感じる。

    書店へ行ったら断捨離やときめきとか、捨てるが平積みにされている。平積みはコピーを教えてくれる。祖父母の引っ越しを手伝っていて “巡礼 (新潮文庫)” 橋本 治 を思い出した。人はなぜモノを残すのか。ややもすれば集めるのか。持つのか。所有するのか。

    モノがあるから捨てなければならない。あたりまえのお話しとして。捨てる時間を前借りすればモノを買わなければ、集めなければよいけれど、モノを買わない行き方や集めない振り方を説く本は平積みされない。モノを捨てる行為を紹介してくれても最後に残った自分を捨てる「仕方」を紹介する本は平積みにない(ひょっとしてあるんだろうか)。ましてやときめきながら自分を捨てられるような「方法」を教えてくれる本は平積みでは見かけない(ひょっとして目にしたのかな)。それがやや惜しいとも思う。

  • 自分で変わるほうが効率がよい

    2012.01.16 曇

    何年たっても色褪せなく聞こえるナンバってスゴイね。そりゃこちらが勝手に「色褪せなく聞こえる」ように聴いているだけなんだけど、買ってはブックオフへ持っていく昨今、ずっと手元にある「モノ」って貴重だと思うよ。

    東京から夜行バスのなかで寝入って気づいたら05:40すぎに京都駅八条口に到着。10分前のアナウンスまでぐぅぐぅ寝ていた。背中がいくぶん痛い。中年の身体は正直。降りた京都駅は寒かったぁ。目がぱっちり。始発で帰宅。「始発で帰宅」ってなんだかへんてこりんな表現だ。別にあってもおかしくないはずなのに奇妙でエロスな響き。

    帰宅してあったかいお風呂にはいって一仕事。11:00前に大阪へ出発。大阪駅で途中下車。書店で“レトリック認識 (講談社学術文庫)” 佐藤 信夫を購入。言語学の一部と認知が自分のなかでつながってきた。うれしい。「コミュニケーション」の定義をコミュニケーションの単語を使わずに説明できるようになりたいと思って始めた。まだまだ先は遠く長い。

    13:30からF先生のミーティングに参加。15:00に終了。ミーティングを観察して私が作成しなければならない書類を設計する。「決まったこと」と「実行すること」を仕訳して備忘できるマネジメントソフトってあるかな。グループウェアはやや多機能で使いこなせない。機能は少なくてUIがシンプルなソフト。iCal+タスクリストだとスタッフ間の共有が難しい。うーむ。

    すし職人がフランス料理のシェフに「ひとつにぎってください」と攻め寄ったらシェフはどう受けとめるかな。その反対ならばどうでしょう。とはいえ両者は「料理」というカテゴリーに含められるので、ひょっとしたら折り合いがつけられるかもしれない。

    建築士が公認会計士に「図面を引いて下さいよ」と詰問したらいかがか? 筋違いか。ではとこちらもとばかり「上場企業を監査してくださいよ」とくってかかるか。

    いくつも例示できる。微妙にずれたコミットメントが少ない領域に棲む専門家や実務家たちがひょんなことから相手の領域に首をつっこんだ途端、血相を変えて「やってくださいよ」と未熟なテンプレートを交換する。

    いずれのケースにせよやれなかったとき、あるいはやらなかったとき、「批判しているだけですね」って罵ってお互いが幕を下ろす。そして「当事者である私」が理解していて実行しているからと誇示する。優位であるかのような錯覚を抱かせる。

    Google Newsに掲載される一覧がそんな風景に私の目には映る。当事者である点に敬意を払う。しかし優位に立っているのではない。万人が何かの「当事者」である。同時に当事者の「領域」から少しはずれら傍観者である。傍観者が私見を述べる。その意見がマイナで批判めいていたら、自分の領域へ引きずり込む。当事者である点を聴衆へプレゼンして賞賛を浴びる。傍観者の意見を封じ込める。

    傍観者のなかの大半の見学者は「当事者」の詭弁雄弁熱弁に誘い込まれ、「変えてくれる」と期待する。コンテンツよりメディアに吸い寄せられる。

    足元を見る。他人が変えてくれると期待する。万が一「変えて欲しいとおり」に変えてもらえたら、私の年収は3倍になる?

    「変えて欲しいとおり」に変わった世の中になれば、40歳を迎えるフリーランスの私が一部上場企業に転職できて10年後には年収1,000万をもらえるし、まとまった退職金を手にできる、そんな物語の「基底」がGoogle Newsに掲載される一覧に伏流している。

    極端である点は承知している。屁理屈である点も理解している。←も反論を封じ込める手法である。技巧をこらした弁論は極論を実現可能な現象に、屁理屈を正統な論理へ変貌させる。他者は真贋を判別しがたく、期待値は上昇する。

    “正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫)” 増谷 文雄 を読んでいると人は鳥になれないし、鳥は人になれないことをなんとなく理解できる。真意を達観できる点に至っていない。ただなんとなくそう思えてくる。

    いまのGoogle Newsに掲載される一覧の「構造」は、「私は人であるけれど鳥が空を飛べる既得権益を許せない。だから飛行権を剥奪して人と同じように歩けるようにしろ」と措定されているような印象だ。あるいは私も飛べるようにしてくれと。

    ぶらさがる。

    ぶらさがれるように変えてください、自己負担は最小限でお願いします、最小限の自己負担で最大限の自己利益を得られる世界に変えてください、そんなフレーズが込められているような感じだ。1年後に変わった感を得られなかったら好感度調査で嫌いと回答する。

    そして、こんな風に書いたら、「失政」をリスト化したカタログを丁寧に送ってくださる方もいらっしゃる。血相を変えて送られてくるカタログはスルーさせてもらうけれど、クールにクリアカットに記載された「カタログ」を参照させてもらう。

    他人に変えてもらうことを期待するより自分で変わったほうが効率がよい。放言したら楽だ。他人に変えてもらうのを期待して実現できていないからとイライラしなくてよい。