タグ: FA31mm

  • 何を探せばよいのかわからない

    キャラバン

    メインテナンスをしたい。だけど、何を探せばよいの。わからない。
    ネジの形状を凝視して検索。ネジの名称を覚える。それから今度は工具を検索。
    ようやく目当ての物に辿りつく。だけど、それは辿りついただけ。

    見つけたと安堵した途端、判断がやってくる。判断の基準。基準を持っていない。
    工具の品質や根本を調べる。

    今、「わからない」というプロセスをリアルタイムに経験している。その視点から周りを眺めると、意味不明だらけだ。

    そうか! そうだったのか!

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  • butt ugly

    浜大津市民ホール

    新しいレトロ。古い”ように見える”ものをわざわざ作る。無秩序に繁殖させた無機質が街の空間を遮断する。古いものを引き継ぐ労を厭い、壊す。新しく古い”ように見える”が跋扈する。

    新しい古い”ように見える”ものは売れる。”新しい”から。

    古い建物を真横に切り裂く黒の直線。何も考えない無秩序はずっと後になって取り返しのつかない空間を気づかせる。

    新しいものが悪じゃない。考えない、抑えない、全体のない勝手な部分が醜い。

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  • cherish the illusion that

    比叡山

    外に目を向けて幻想を抱く。内に隠れる現実を発見しない。外を対象にしている間、内から言葉は絞り出されない。あちこちころがっている気の利いたフレーズを拾っている。内から湧き出る絶望が言葉を紡ぐ。身体が叫ぶ。

    外は錯覚だ。内に真実がある。その真実を疑え。疑う恐怖を抱きしめろ。

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  • 3サイズを知る

    ハートのホットケーキセット

    3サイズといっても、売上・費用・利益の3つです。

    写真のホットケーキは、セットで500円。セットは、ヨーグルト、果物(バナナ1/3, リンゴ1/4, ミカン1/2)、ドリンク。ホットケーキセットの大きさは直径20cm超。ふんわりしておいしい。だから原価が心配です。利益のサイズ。

    (さらに…)

  • 一日作さざれば

    京阪三井寺駅付近

    疲れると考える。ビジネスとボランティアの違い。僕のワーク、ジョブ、ホビィは?

    「お金の問題じゃありません」萌絵は答える。
    「そうかなぁ…..」犀川は首を傾げる。「一番、下品な格言って知ってる?」
    「働かざるもの食うべからず、ですね?」萌絵は即答する。
    「そうだ」犀川はにっこり頷いた。彼は機嫌が良さそうだ。
    「いやらしい、卑屈な言葉だよね…..。僕の一番嫌いな言葉だ。もともとは、もっと高尚な意味だったんだよ」
    「え? どんな?」
    「一日作さざれば、一日食わず」
    「それ、同じじゃありませんか?」
    「違うね。これも集合論だ。ド・モルガンの法則かな」

    “笑わない数学者―MATHEMATICAL GOODBYE” P.30

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  • ラテラルシンキングはミステリーから

    浜大津の長等商店街の中に、”手作りホットケーキの店 Heart”がある。雑誌の特集記事を読んで、散歩の途中に立ち寄った。地図を頭に浮かべて歩いていると、うっかり通り過ぎてしまいそうになった。自宅を改装したとのこと。

    手づくりホットケーキのお店 Heart

    「ホットケーキ セット」と注文すると、「大きいですよ」と女性が控え目に声をかけてくださった。ご主人は脱サラらしく、手づくりホットケーキのお店をやりたかったと、他のブログで読んだ。声をかけてくださった女性は、ご主人のお母様。お母様の控え目な声が、妙に気になったので、「じゃぁ、ハーフセットで」とおそるおそる注文した。

    デザートとヨーグルト

    フルーツとヨーグルトが、先にテーブルに運ばれてきて、それを食べている間にホットケーキを焼いてくれている。驚いた。これにドリンクが付いて400円。いや、コレって、いくら自宅だからって、赤字じゃないだろうか、といらぬ世話を焼きかけた。自重自重。

    手づくりホットケーキ

    今度は、開いた口が塞がらなかった(誤用かも)。こ、コレでハーフ?! それじゃ、フルは? 馬鹿な僕は、ハーフってフルを半分に切って出てくると思っていたけど、よく考えたら、そんな形を用意する方がめんどくさいか。ホットケーキを運んでくれたご主人が、「雑誌に載っていたのは大きいですよ」とすごく素敵な笑顔で話してくれた。低い声が印象的。聞き間違えでなかったら、フルは直径30cmほどらしい。

    できたてホカホカのホットケーキを口に運んで、三度目の正直、ならぬ魂消る。すごくおいしかった。ふかふかの生地がよかった。

    自分の既成概念を疑うのは難しい。ハードカバーのビジネス書を読まなくなって、本屋で歩く範囲が少し狭くなった。ただ、どこか不安な気持ちを抱いている。情報を仕入れなくて大丈夫だろうか、と。漠然とした焦燥を認識して、発想や視点を涵養したい。

    ビジネス書の代わりにミステリーや小説を読んでいる。学生時代、ミステリーや時代小説に没頭した。ミステリーや小説は、ラテラルシンキングにうってつけだ。だけど、気をつけないといけない。ミステリーのハウダニットやホワイダニットを読んだとき、筆者の発想を獲得したような気分に浸れる。読了までに気づけば、なおさら。いずれも錯覚。

    錯覚を自覚したうえで読む。いつか、「ああ、やっぱり同じ発想を持つ人がいたか」となりたい。ミステリーや小説の視点や発想を、仕事の現場と関連づけられるか。着眼と関係。認識。気づかなければならない。迷宮に迷い込んだ組織は、案外、多いかも。

  • 何を創っている?

    何を創っている?

    キャラバンへかばんを受け取りに行く。3週間前にオーダーしていたかばんだ。ワクワクしながらお店の階段を上がる。どんなふうに出来上がっているのか、頭の中のイメージとどれだけ違うか、ドキドキ。

    お店のご主人は、松山千春にほんの少し似ている(すごく主観が入ってます)。30代っぽい。シャイな感じで、オーダーのときも、積極的に提案されなかった。1人で切り盛りしている。

    CARAVAN

    かばんとご対面。

    オーダーしたかばん

    すごく気に入った。メッセンジャーバッグ的な持ち方をしたかったので、できるだけ持ち手を短くしてほしいと頼んでいた。たすき掛けしてみたら、肋骨の横に鞄が密着。ご主人が、「持ち手はもっと短かいほうがよかったですか?」と尋ねてくれた。まったく問題なし。

    脇のすぐ下にかばんがピタっとくっつくようなイメージを抱いていたから、ご主人の心遣いが嬉しかった。持ち手が少し長くなったけど、脱着を考えるとちょうどいい。僕が想定していた長さだと、実用には不便だっただろう。ほんとうに嬉しい。

    鞄のひな形

    形(50パターン)と持ち手(20パターン)と生地(200パターン)を組み合わせて、バッグを作ってもらう。3週間前、僕が選んでいるとき、お店の中には、4人1組の女性客(20代と40代の2組、合計8人)がいて、狭い店内は、ごった返していた。僕はすぐに決まったけど、女性客は悩んでいた。

    CARABANの生地

    20代の4人組は、夢中になって選んでいた。もう友達のことなんてかまってられないような雰囲気。でも、ときおり「どうするの?」とか聞いてみたり。40代の4人組は、店内に飾ってある完成品の中から選んでいるみたいだった。1人が肩にかけると、3人が一様に「いいわぁ」なんて声をかけながらウキウキしたご様子。迷うだろうなぁ、でも、それが楽しいよなぁ、と観察していた。

    CARABANの店内

    かばんを受け取りに行ったとき、ご主人はミシンを踏んでいた。店内には誰もいなかった。1人で何もかもしなければならないけど、飄々としている。シャイなご主人が創ったカバンを手に取って僕は喜ぶ。

    次のかばんを選ぼうと、生地と形を眺めている間、再びミシンが、ジージーと音を立て始めた。僕の視線は、かばんとミシンを何度も往復する。いつかこんな仕事をすると誓った。今は、何も創っていない。いや、作れない。だけど、いつか、自分の創ったものを手に取る人たちの笑顔と出会う。そんな創作をしたい。

    CARABANの店内

    ちなみに、創ってもらったかばんの値段は、5,565円でした。とっても素敵なかばんをありがとうございます。すぐ近所だし、近々2つ目をお願いします :mrgreen:

  • 見ているものより見落としているもの

    見ているものより見落としているもの

    昨年からラディッシュと青紫蘇を育てている。育てると書けばおおげさなので家庭菜園の初級といったところ。

    昨年も今年もムシがやってきた。ムシが青紫蘇やラディッシュの葉を食べている。下の写真(拡大版)の中央にいる。特にラディッシュの葉は穴だらけに。それがおもしろい。昨年はオモシロイだけだった。今年、水をやりなりながら小首をかしげた。

    青紫蘇につくムシ

    「どうしてムシはココに葉があると認識しているのだろう」

    そぞろ歩き(ムシに使うのは変だけど)をしているとたまたま葉があったとか(そんなわけない)。じゃぁ、嗅覚か触覚か視覚か。はたまた、親が産みつけてもともとココで生まれたのか。疑問はつきない。

    日常の生活に身を沈めたとき、見ているものより見落としているもののほうがたくさんあると思う。あたりまえと受け取ってしまうから不思議に思わない。「不思議」という言葉を頭に思い浮かべる時間と空間が少なくなっているのかもしれない。

    京都の町屋は鰻の寝床。その玄関の前に立ったとき、奥行きを脳裏に描く。無意識の作業。住宅も同じ。玄関の真正面に立って側面と裏を無意識に描く。空間の認識を映像として補完しているのかなぁと勝手に想像している。それは「不思議」よりも反復作業みたいなものだと。だけど、いざ鰻の寝床に招かれたとき、奥行きが頭の映像より深ければ驚く。頭で描いた仮想現実と身体が感知した実体とのズレに違和感を覚えるからなのか。差異を認識できたとき、不思議がやってくる。

    鏡も不思議だ。毎日歯を磨きながら上下がひっくりかえらないのはなぜだろうと。左右は反転するのに。上下は反転しないのか。

    森羅万象の仕組みに不思議をあてはめて探求できれば解決できるかもしれない。だけど不可能だ。不可能よりも先に精神が破綻をきたすかもしれない。だから頭は強制的に「スルー」させているのだろうか。そんな不可能を評価したあと、スルーし続けるか、それとも抗うか。それは身体の反乱。頭と身体の二元論を超越する苦行。

    私の目の前にいる人々。私はその人を見えている。だけどほんとうは見落としているもののほうがたくさんあるのだろう。見落としているものがたくさんあると認識させてくれるのは他者でしかない。

  • 住処が人を育てる

    鎌倉の旅の二日目、長谷寺へ。江ノ電に乗り長谷駅で降りたとき、「ああ、住みたいな」と思った。ひさしぶりだ、そんな気持ちになったのは。学生時代から東京以西は北陸を除いて足を運んだ。そのなかでも住みたいなと思ったのは伊良部島だった。そのとき以来。抑えきれないワクワク感。長谷寺から海を望む。

    長谷寺から望む鎌倉

    長谷寺の至る所に咲く紫陽花。当日はあいにくの雨。だけど軽やかな足どり。紫陽花と雨は仲好し小好し。

    長谷寺の紫陽花

    カメラを構えてゆっくり撮りたいけどダメだ。たしか9:30ごろだったけどすでに列。たぶん午後からは入場制限がかかる気配。看板には待ち時間80分なんて札もあったので混雑のときは紫陽花と人の頭でいっぱいになるのだろう。

    長谷寺の紫陽花

    紫陽花に露。

    長谷寺の紫陽花

    眼前に海、振り向けば古刹と山。ステキだ。趣のある家々がおりなす町並み。家か店かわからなかったり。長谷寺から望む海ではサーフィン。なんだか身体がウズウズした。ここに住んだら好きな音楽を聴きながらそぞろ歩きするのかなぁ。海も山も、町並みも、住人は日常で旅人には非日常。その差異が憧れを抱かせる。わかってる。住めば都という。私が住む琵琶湖もたいそう気に入っている。旅先の街ははじまりからおわりまで日常から切りはなしてくれる。だけど、既視感を抱かせる町並みもある。既視感と過去の区別がつかなくなったとき、「ああ、住みたいな」とつぶやいた。

    自宅の前の紫陽花

    自宅のすぐ前に咲く紫陽花。どこの紫陽花も美しい。

  • 5人の料理人はしゃべらない

    5人の料理人はしゃべらない

    雨の中、浅草へ参って驚いた。観光客の半分は外国人じゃないかと思ったくらい。英語だけでなくいろんな言葉がとびかう。まぁ、ある国の言葉だけよく耳に入ってきた。ある国の人たちは雨の仲見世通りのど真ん中で傘をさして横に広がり記念写真に夢中。ひときわ大きい声。

    鰻 小柳

    これじゃぁお昼は混むなぁと思い、少し早めに店を探す。鰻を食べたかったのでそぞろ歩きでアタリをつける。そしたらひきよせられるような店構えにフラフラと扉を開けた。

    やっぱり。少し早めなのに一階はほぼ満席。入って左手がカウンター、右手が6人掛けのテーブル4つ。相席でと。もちろんよろこんで。鰻重松 2,100円。肝吸い105円。日本酒を嗜みながら鰻をつまむ。ほんとうに幸せだ。なんて贅沢なんだ。鰻をひとつまみ。日本酒をクイ。左へ首をむけると、カウンター越しに五人の料理人。

    横浜、鎌倉、東京をフラフラと眺めているとオープンキッチン(って言うんでしたっけ?)のお店が多いことに驚く。”オシャレ”って感じのお店や若い女性が列をなしているお店のキッチンは丸見え。なるほどなぁと感心していた。だけど写真の鰻のお店に入って、自分の浅慮に反省した。そうやんなぁ。お客さんの目の前で鰻を焼く調理場。オープンキッチンなんて洒落た名前はついてないけど。新しい単語や気の利いた言い回しに惑わされちゃいけない。さもトレンドのようだけど「ほんとう」を見失ってはいけない。

    五人の料理人はほとんどしゃべらない。必要最低限の単語だけを交わし、あとはそれぞれが自分の役割を粛々とこなす。そんな光景をながめながら日本酒をクイ、鰻に箸を入れる。で、肝吸いをすする。無駄な音が聞こえないお店、そこから醸し出される雰囲気。仲見世通りで聞こえたあの国の音量で話すのは憚れる。別に大声を禁じてるわけじゃないし、周りのお客の声は耳に入ってくる。ただなんとなく食べることに集中させるような感じがあった。たぶん、料理人とお店が長い年月をかけて醸成してきた見えない財産なんだと勝手に妄想した。