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  • ここはここ

    fallen leaves

    親鸞はここで修行の「目的地」という概念そのものを否定しています。行の目的地というのはいずれにせよ現在の自分の信仰の境位においては、名づけることも類別することもできぬものである。だから、それが「どこか」を知ることはできないし、私が間違いなく「そこ」に向かっているのかどうかを訊ねれば教えてくれる人もいない。だから、目的地については論じることは無意味である。行の目的地からの遠近によって「ここ」の意味が決まるのではない。「ここ」は「ここ」である。信仰者にとって、すべては「ここ」で生起し、「ここ」で終わる。「ここ」の意味を「ここ」以外の、「ここ」より相対的に上位の、相対的に超越的な「外部」とのかかわりで論じてはならない。

    『日本辺境論』 内田 樹 P.167

    僕の内から外へ基準を置いたとき「外部」が現れ安堵する。外部が思考と判断を司る。自分の位置を確認しなくてよい。代償は「ここ」を失うこと。

  • 人の目を気にする

    もう少し説明すると、「人の目を気にする」人間の大半は、「自分の周囲の少数の人の目を気にしている」だけである。そして、「人の目を気にしない」というのは、自分一人だけの判断をしているのではなく、逆に、「もっと確かな目(あるときは、もっと大勢の目)」による評価を想定している、という意味だ。それは、「今の目」だけでなく、「未来の目」にも範囲が及ぶ。それが「客観」であり、「信念」になる。

    『自由をつくる自在に生きる』 森 博嗣 P.55

    コレを引用している時点で僕は人の目を気にしている。

  • 無知が予知 法則を推測

    紫陽花

    どうやら、ある発言が真実だと認識するということは、言葉として口にできる以上のことを認識することらしい。しかもその認識による発見が問題を解決したなら、その発見それ自身もまた範囲の定かならぬ予知を伴っていたことになるのだろう。さらに、その発見を真実として受け入れるということは、いまだ発見されざる、ちょっとしたらいまだ想像すらかなわぬ結果を、すべて信じようとすることらしい。

    『暗黙知の次元』 マイケル ポランニー P.49

    自分の喜びを伝えたいあまり上から目線になるらしい。気をつけよう。5年前なら激怒していたけど、憤怒の念が萌さなかった。そういったものかと。コントロールできる引き出しが増えた。自覚できた進歩だ。よかった。

    言葉の取扱いは難しい。取説があればよいのだが、その取説を言葉で伝えることはもっと難しいのかもしれない。

  • にこやかにしなやかに

    ロベリア

    私のしなければならないことは、私の心にかかることだけであって、人の思わくではない。[…..]この世では、世間の考えに従って生活することは容易であり、また孤独のとき自分自身の考えに従って生活することも容易である。しかし偉人とは群衆のただ中に在ってもいかにもにこやかに孤独のときの独立を保持し得る人のことである。

    『精神について (エマソン名著選)』 ラルフ・ウォルドー エマソン P.48

  • rellection

    スマイルイエロー

    ぼくらは世界の「空間」[客観的・外在的な]を見るわけじゃない。ぼくら自身の個別の視野を、生きているのだ。疑いの余地なく、これからのページをつうじて見いだしてゆくように、われわれはたしかにひとつの世界を体験しつつある。だが、この<世界>のことをいったいどんなふうにして知るようになったのだったかを詳しく検討していみるとき、この世界の<見え方>と、ぼくら自身の<アクションの歴史>———-生物学的および社会学的———-を切り離すことはできないということが、かならずわかるだろう。それはあまりにも明白で身近なので、とても見えにくくなっていることだ。

    『知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか』 ウンベルト マトゥラーナ, フランシスコ バレーラ P.23

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  • 徒然に過ぎ去る日を懐かしみ

    皇子山公園の桜

    04/19、奈良を散策。夕方、三条通りを西へそぞろ歩き、上三条町の交差点で北へ向かった時だった。正面から女子高生が日傘をさして歩いてきた。穏やかな顔。黒髪。黒の日傘。紺の制服と濃紺の靴下。白い顔。コントラストが素敵。彼女は28度の街中を涼しげに歩いていた。光が斜めに突き刺す。

    日頃、女子高生が目に入っても脳髄や意識は起動しない。躰はスリープしたまま。あと数年もすれば娘のような年齢差になるのか、と吃驚するぐらい。

    彼女とすれ違う時、すごく美しいと感じた。日傘をかざして優雅に歩く。外連味のない身のこなし。女子高生と日傘の組み合わせが珍しいか否かを僕は知らない。とにかく僕にとって非日常だった。

    GR DIGITALを構えたい欲望を抑えながら彼女の後ろ姿を数秒見つめた。その時、脳髄が懐古の質感を起動させた。過ぎ去った日の懐かしみ。あなたの名を愛しき名を口ずさむ。黒い髪にはじめて触れた感覚が蘇る。白昼夢はあなたの優美な立居振舞を描く。甘い香り。時を支配した20年前の僕とあなたが演じる寸劇を時に支配された今の僕が楽しむ。

    「やすらぎの道」を歩き終えると一瞬のやすらぎは放擲された。脳髄は白昼夢のあなたを保存してシャットダウン、徒然に過ぎ去る日へ別れを告げた。あなたの名を愛しき名を胸に抱き、躰はスリープした。

  • 心は逆円錐形 頭は円錐形

    皇子山公園の桜

    本を読んで、その本を書いた人の言うことを理解するには、まず読む側の「自分」を消さなければならない。ーーーこんなしんどい思いを引き受けてまで「本を読もう」と思う人間は、どれくらいいるのだろうか?

    […..]

    「その初め、たいした重量のなかった”自分”が、本を読むことによって確固とした存在になった」と思ってしまったら、本というものは、その「自分」をよりよい方向に導いてくれるもので、「自分」を肯定してくれるものだと、錯覚するようにもなるだろう。そういう人はいつの間にか、「本を読む」ということが、「自分とは違う考えの人間の言うことを頭に入れて、理解すること」だというのを忘れてしまうだろう。「本を読む」ということに慣れてしまった人は、本というものが「本を読む自分の考えを肯定してくれるもの」と思いがちになるーーー別にそんなことはないのに。

    “橋本治という考え方 What kind of fool am I” (橋本 治) P.39

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  • 迷惑メールを送信します

    皇子山公園の桜

    先週から自宅サーバーへ届く迷惑メールの設定を変更した。今までいったん受信して迷惑メール扱いにしていたけど、迷惑メールの判定基準を厳しくしてサーバーで削除するようにしたら、一切受信しなくなった。ちょっと心配。うーん、正常なメールまで削除しているかも 🙁

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  • マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ

    マイスター・ゼクンドゥス・ミヌティウス・ホラ

    モモ (岩波少年文庫(127))

    「あの人たち、いったいどうして灰色の顔をしているの?」モモはめがねのむこうをながめながらききました。

    「死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。おまえも知っているだろう、彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれのじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。」

    “モモ (岩波少年文庫(127))” (ミヒャエル・エンデ)

  • 馬鹿の詞と使途

    皇子山球場の桜

    仕事の上でなにか思いついても、近頃は自分のアイデアかどうか、自信が持てない。人に聞いたか、読んだかしたのだが、そのこと自体を忘れているのではなかろうか。いったん疑い出すと、そうに違いないような気もする。自分の意見を疑わずに持っている人を見ると、うらやましい。私の意見は、自分の意見か、他人の意見か。そこがどうもはっきりない。一応自分のものだと仮定するが、きちんと調べてみると、どこかで読んだものだとわかるかもしれない。

    あまり本を読むと、馬鹿になるという話は、何度か読んだ。しかし、読むというのは、一種の中毒だから、どうにもならない。もう完全に馬鹿になったと思う。馬鹿になってしまえば、こっちのものである。あとの始末は、利口な人に、考えてもらうことにしようと思う。

    “脳の中の過程―解剖の眼” 哲学文庫 養老孟司 P.234

    バカではありません。馬鹿です。誤植ではありませんので念のため。バカの前の馬鹿を読まずにバカの後のバカを談じるのもあり。バカの前の馬鹿を読んで、バカの後のバカの見方を変えるもアリ。

    僕は「バカ」の前の馬鹿を賞賛。というか、バカ: before Christ/ante Domineとでは論考が異なる。

    どっちでもいいけど。とにかく、「剽窃」と「自分」を認識してかように書ける先生は素敵だ、と剽窃しかない大馬鹿な僕は羨望する。