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  • 使わないものがあり、使いたくても使えないものがあり

    使わないものがあり、使いたくても使えないものがあり

    2013.05.27 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9xdZ2nVEa3M]

    カラーボトル – サヨナラ でスタート。出会いと別れ、って表裏かな? ホントにそうなのかなぁ。別れのない出会いってあるかも。この場合の別れって、出会っただけ。なんだろ、毎年、年賀状は送られてくるけれど、何も知らないみたいな。で、別れがあるって、出会ってしまった出会い。つながっていたいんだけど、いずれ必ずやってくるであろう出会い。ちょっとちがうなぁ。

    二十歳の原点 (新潮文庫)” 高野 悦子 にたびたびでてくる「演じる」ということ。二十歳の学生が書いた日記には、「演じる」ことへの希求、絶望、逃避、憧憬、不知、情熱、焦燥、などが記されている。いまとそれほど変わらないようで私よりら20歳以上年下なのか、が交錯。単純で複雑で切ない。

    「ひと」そのものを認識したとき、悩みの源泉は同一かもしれない。表層に現れる悩みはそれぞれ異なっているとしても、悩みを掘り下げて「孤独」を省察したとき、源泉へ辿り着きたい欲望は同じである。その源泉へ辿り着けるか、違う源泉を掘り当てるか、それとも途中で引き返すか、「孤独」への対峙は強い個別性を帯びている。

    彼女は自らの命を絶った。それを選択した。

    虚無に陥りたくない。陥る胆力が据わっていない。斜に構えたくない。なるべく直線であり、直球でありたい。

    Cherry blossom
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    食後、皿を洗う。自然に乾くのを待って水屋にもどす。狭い(大家さんには失礼な表現ですが)部屋にどうしてこんな大きな水屋を持ってきた? いつからかこぼれるため息。空白を埋める皿の数々。使っていない皿やカップ。一度も使っていないのも。その数、常時使用の皿やカップの数倍。母が持たせたくれた。誰も住まなくなった祖母の家から引き上げてきた。いずれ家族が増えればたくさんいるからと期待しながら引っ越しの荷造りしてくれたのであろう。

    使わないものがあり、使いたくても使えないものがあり、腐るほどのものが捨てられ、食べられずにいるひとたちがいる。

    ものへの執着あり、ものを持たなくてもよくなりたい矛盾。齢が矛盾をどちらかへ片付けてくれるだろうか。

    この間、使い慣れたMacBook Pro 15inch が故障したとき、昔ならすぐに次のマシンをどうしようか考えた。金銭の問題が第一だとしても、昔ほどの意欲がなくなっている。どうしてか? 加齢だろう。

    ダウンスケール。適切な表現でなくとも、はたまた減らすほどのスケールがなくとも、コトやモノを始末して純度と密度を高めたい欲望が自分の中にわき起こる。加齢によって頭の機能が低下するからそうなる。頭と身体が増えていく事象に追いつけず、こなさせず、つい減らすほうへ向かわせる。ていさいよく理由を練り上げて。

    去りゆく一切は比喩にすぎない、オスワルト・シュペングラーの『西洋の没落』はどんな話なんだろう?

  • 固定端末はなくなると思いますか?

    同調査によれば、自宅に固定電話を「導入している」ケータイユーザーは85.2%、「導入していない」は14.8%。非導入率を年代別に見ると、20代が34.7%、30代が15.5%、40代が2.9%と若い世代ほど固定電話を導入していないユーザーが多い。

    固定電話を導入していない人に、月額基本料などが安くなったら固定電話を導入したいと思うかを聞くと、「安くなっても導入しない」が77.0%となった。特に女性では8割以上、20代では9割以上が「安くなっても導入しない」と回答している。また、全員に固定電話の今後をたずねると、24.3%が「なくなると思う」と回答。

    via: 20代の3割超が「固定電話を導入していない」 – ITmedia +D モバイル

    私の家でも固定電話を解約しよう、とささやいている。奥さまはまだ抵抗があるようで、首を縦にふらない。固定電話にかかってくるのは、月に一度あるかないか。一週間に一度ぐらいのペースでかかってくるのは、間違い電話(公共機関と”一番”ちがいだから)。FAXはMac mini(MacOSX Server 10.4)で受信している(年に一、二回ぐらい)。送信は皆無。

    あと何年したら、「固定端末(パソコン)を導入していますか?」という質問を目にするだろうと想像する。今なら、「(家庭に)デスクトップパソコンを導入していますか?」ぐらいは、あるかもしれない。Sonyはデスクトップパソコン(分離型)の開発を終了して、一体型に集中するらしい。

    自分の頭の中では、固定電話の導入と墓参り、代わりに行きます 清掃などサービス人気 面倒だからは「×」がつながっていて、可笑しかった。

    同社東日本地域本部の見沢直人管理部次長は「少子高齢化で潜在的なニーズは高い」とみて、「掃除はプロに任せ、たまの墓参りには故人とゆっくり対話するなど時間を有効に使ってほしい」とすすめる。

    葬儀や法事に僧侶を派遣する「おぼうさんどっとこむ」(東京都稲城市)も、「代行墓参(ぼさん)」を手がける。同社では、海外赴任や病気などやむを得ない事情に限って受け付けており、「面倒だからといった理由ではお断りしている」という。

    社長で僧侶の林数馬さんは「墓参りは本来は自分で行うものだが、昔に比べて生活のペースが忙しく、彼岸や盆に足を運べない人が増えているのは確かだ。たとえ自宅にいても故人を思いだし、気持ちを向けて差し上げることが、一番の供養になる」と話している。

    via: 墓参り、代わりに行きます 清掃などサービス人気 面倒だからは「×」 (2/2ページ) – MSN産経ニュース

    「面倒だからといった理由ではお断りしている」らしいけど、「理由」をどうやって確認しているのか興味を持った。あと何年ぐらいしたら、「お墓を導入していますか?」とう質問を目にするのだろう?

  • 読書離れの活字返り

    いつものことだけど、こういう調査は話半分で受け止めている。それでも納得。

    本を「読んでいない」と回答した人(248人)に読まなかった理由を聞いたところ、1位は「読む時間がなかったから」で44.0%、以下「読みたい本がなかったから」(33.5%)、「本よりテレビやラジオ、インターネットの方が面白いから」(26.6%)、「本を読むのが嫌いだから」(14.1%)、「本を読まなくても困らないから」(13.7%)だった。年代別で見ると、20代と40代は「読む時間がなかったから」という理由が多く、50代は「本よりテレビやラジオ、インターネットの方が面白いから」の回答が目立った。

    via: Business Media 誠:30代以上で“読書離れ”の兆し——その理由は?

    「読書離れの兆し」はいつ頃から使われているのか? テレビとラジオを視聴してインターネットに勤しむ本を読まないらしい50代の人たちが、「オレたちの若い頃から言われてたことだ」なんて一笑に付しているんじゃないかしら。

    読書離れが兆しであろうがなかろうが、どうでもいい話。メディアが増えて淘汰されたからだし、一ヶ月に費やす本代からすれば雑誌の休刊が相次ぐのも推して知るべし。書店に並ぶ本を眺めていると、読みたくなくなる。1ページに3分かかったとして、300ページの本なら15時間(あってる?)。1日1時間としたら、月に2冊の読書量。年間24冊、今36歳で80歳まで生きられたら、1,000冊ほどしか読めない。もちろん、そんなスローペースで読むないってツッコミはあるし、本なんて最後まで読まなくたっていいなんてアドバイスもあり、オレは年間にして数百冊読む、今まで数万冊を読んだ人もいるだろう、と推察する。それでも、年間に出版される本をすべて読めない。読む必要もない。

    読む必要もないのに読むのは、海水浴に行くようなもの。ただし、最近は海に溺れそうになりがち。読書をすれば知識がふえて、知ったことになる(らしい)。情報を知った行為に満足する。いやいや、数万単位の本を読んでないからだよ、という人がいて、それを越えれば、もう別人、「えっ、何でこんなことも知らないの」と思うようになる、と反論する人はいる、と当て推量。

    僕は本を読まない人に理由を尋ねたことはない。関心もない。本を読む人からは理由を聞いた記憶はある。なかでも、「考える」がキーワード。だけど、ほんとうに考えるのか。自分を参照すると、書いた内容に触れた経験を考えたと誤解している、と自覚するときもしばしば。だから、「読書離れ」がネタで登場するときは微笑むけど、善悪で語れると辟易する。

    読書離れといっても、今の10代や20代の人たちは、僕以上に活字を目にしているだろう。先祖返りならぬ活字返り。ケータイメールやケータイSNS、ケータイ小説やケータイ漫画などなど、いまやケータイは24時間肌身離さず持っているメディアになりつつある。読書は紙媒体という概念を持つ人がそんな姿を見て、「読んでない」と映るのかもしれない。

    若い人たちはケータイというメディアのなかにあるコンテンツから、日常を感じとり、相手を想像し、「考えて」いるかもしれない。読書をするよりも語感を磨いているかもしれない。誤用を気にせず、自分たちの棲む領域で思い通りに表現している、と想像する。

    とにかく、長くない人生、読めない本のほうが多く、読めないどころか存在すら知らない本が99%。「何を読むか」ではなく、「何を読まないか」、「そもそもなぜ読むの?」と考える機会が、世の中の問題にぶつかったとき、「そもそもこれは何の問題なのか?」に気づく視点を養っている。

    それにしても、300人の回答に反応する自分が卑しいな:sad:

  • [Review]: 日本の行く道 – 錯覚すると恐ろしい言葉

    [Review]: 日本の行く道 – 錯覚すると恐ろしい言葉

    「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。[…]「私は自立を宣言した=私の自立は実現した」という状況が現出してしまったのではなかろうかと。そういう錯覚が「自立」という言葉に紛れ込んで、あまり意識されぬまま、「自立」というその言葉だけが定着してしまったのではないかと、私は思っているのです。『日本の行く道』 P.114

    幸いにも「どうすれば自立できますか?」と質問された経験をもっていない。「自立」は錯覚させる言葉。錯覚したまま大人は子供に「自立」を促す。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」と思いついたとき、面倒になる。マークシートのように選択できない。でも、さかんに使われる。「自分のことは自分でしなさい!」の代用に。「自分のことは自分でしなさい!」はあたりまえだ。だけど、あたりまえを実行できているかと自分に問えばおのずとどの面も下げられない。

    『凶気の桜』に「消し屋」が登場する。なんでも「消す」。消し屋に「どうすれば消し屋になれるんすか?」と尋ねる。「明日から消し屋になりましたと(裏の社会に)伝えればいい」と。よく似た質問をプロの○○に尋ねる人がいる。「どうすればプロのカメラマンになれますか?」と。「名刺を作って明日から事務所に配ればいい」と答えるプロ。固有名詞は宣言すれば実現されてしまう(かもしれない)。あとは他者の評価の問題。対して普通名詞はやっかいだ。宣言すれば実現できるような事象じゃない。

    「さっさと自立しなさい! 自立しろって言ったでしょ!」で子供が育てられてしまえば、子供は、「なんいも分からないまま」でも、「大人」になってしまうのです。世の中が、その程度の「促成栽培の大人」でもかまわないということになっていたから、これで通ったのでしょう。「さっさと大人になってしまった子供」に、「君は本当に、”大人”なのか?」と聞いても無駄でしょう。「自立しろと言ったでしょ!」は、「大人になれって言ったでしょ!」の同義でもあって、これに対して「はい」と言った瞬間、「自立」になり「大人であること」は達成されてしまうのです。『日本の行く道』 P.117

    「さっさと大人になってしまった子供」が「大人」の年齢に達したとき、「本当に君は大人になったのか」を検証をする。検証するのは誰? 無駄だ。四方八方から飛び込んでくる情報を意識的に捨てればわかる。検証された「さっさと大人になってしまった子供」は不安に陥り心を病む。大人は子育てしたと宣言し、子供は自立したと宣言する。互いの宣言を受け取った途端、自分の宣言内容と違うことに気づき、「心の病」が全身を蝕む。心の病を抱えたさっさと大人になった子供たちが突然生まれたかのように大人は受け止める。自分たちが発した「錯覚すると恐ろしい言葉」を置き忘れて。

    「大人」を日本、「さっさと大人になってしまった子供」を国民と置き換えれば、ほんの少しだけ「日本の行く道」が見えてくる。それは自分が歩く道。

  • 山男と海男

    鎌倉を訪れたとき、カラダがかつてないほど軽やかになってココロが浮きだったのはなぜだろうとずっと片隅に置いている。たぶん答えはわかっている。山と海。生駒山がすぐの場所で育った。山が好きだった。小学生の5,6年の2年間、月に2回ほどのペースで生駒山に登ってわざと知らない道を選んで山を下りた。知らない道を通るたびに山の表情が違うようでワクワクした。大山 (鳥取県)剣山 (徳島県)茶臼山 (愛知県・長野県)車山を登ったり上高地周辺の山を登ったとき、頂上から眺める景色より道々の表情にココロが動いた。時を経ていつしか山への関心が薄くなった。ほんとうに好きではなかったと思う。だけど好きと使いたがる。

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  • 堺雅人の徳川家定 実像と虚像

    堺雅人の徳川家定 実像と虚像

    猫猫先生もやばいぞとおっしゃる篤姫 (NHK大河ドラマ)。たしかにやばい。以下、敬称略。

    何といっても、「実は賢君」だというフィクションの将軍がまずかったね。原作とも史実とも違うのだが、うまい。宮崎あおいまで最近かわいく見えてきて、大変やばい。フィクションと割り切って考えれば、シナリオの質は高いのである。

    via: やばいぞ「篤姫」 – 猫を償うに猫をもってせよ

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  • 45年ぶりの悲願達成

    1963年、サントリーはビール事業に参入した。それから45年、悲願達成の時が訪れた。今年1ー6月のビール類出荷量が発表され、サントリーは「万年4位」から脱出。創業者の次男佐治敬三氏は社名を「寿屋」から「サントリー」へ変更したタイミングでビール事業に参入した。参入理由は、「作ればなんぼでも売れるウイスキー全盛時代に慢心すれば会社がやがて傾く」との由。敬三氏の長男、父の事業を引き継いだ佐治信忠社長が選択した「価格戦略」。それが3位奪取の原動力となった。ビール各社が原材料価格の高騰に苦しむなか、サントリーだけが8月末まで価格を据え置く決定をくだした。最大の危機を最大の好機へ。信忠社長の判断を支えたものは何か?

    市場参入から45年、赤字体質から一度も抜け出せなかったビール事業を手放さずに継続できた背景には、サントリーが株式を上場しない非公開企業であったことも大きい。企業価値の向上を求める株主に経営の自由度を制約される上場企業ならこうもいかない。SANKEI EXPRESS 2008.07.11./fri. 『初のシェア3位奪取 低価格志向が決め手』

    信忠社長も「非公開だったから」とのコメント。いよいよ黒字転換も視野に入ってきた。3位の座を奪われたサッポロは、筆頭株主の米系投資ファンド、スティール社からの圧力を受けている。

    非公開と上場の是非にと、この象徴的な転換を俎上に載せるのは短見。私は記事を一読したところ、非公開と公開のメリット・デメリット、それ以前の「そもそも」論すらわからなかった。ただひとつ、同じ制約を受けない個人もマネできることはなにか。

    継続すること。そして考えること。両者を支えるのは情熱。

    それを勝手に掬い取った。

  • 雨降って地固まる

    こういうときに使うのが正しいのかわかんないけど。パッと思いついたので。禍を転じて福となすのほうかな。

    大聖堂の事務局長は「謝罪訪問という勇気ある行動に感銘を受けた。寄付金で落書きを消した個所に、学校名入りのタグ(銘板)を作りたい」との意向を示したという。

    6人の学生は3月、すでに文書で謝罪し、許しを得ていた。直接謝りたいという全員の意向を踏まえ、学生の代表1人と学長らが私費で現地に赴いたのは9日。大聖堂の事務局長とともに面会に応じたフィレンツェ市の副市長は「文化を大切にする日本人の意思と厳しい態度に考えさせられた」と話したという。

    via: asahi.com(朝日新聞社):「落書き跡に銘板で校名残したい」伊の大聖堂が申し出 – 社会

    普段はこの手の寄付は受付ないけど、今回は受け取って修繕費にあてるらしく、じゃぁ修繕するならと、大聖堂が提案。そういえば、この大学が学生に下した処分に甘いと苦情があったと聞いた。数百とも。苦情を放擲した人たちは、学長の行動をサキヨミしていたのだろうか。サキヨミなんて蠢動するのは脊髄反射にヒットさせたい思惑もあるのかな。話がそれた。とにかく咀嚼する術をなくしてきたのだろうなぁと実感。私も反応してしまいましたけど…..orz

    「刈り」の報道が終熄することを願う。瑣末な出来事といい、それを取り上げる狂騒に失笑する人もいれば、直接謝罪に穿った見方を呈する人もいる。ほんといろいろだ。刈りといえば、こんなCMは日本なら狩られるのかな。

    落書き、「落書」の重箱読み。おもに権力(者)への揶揄・風刺を書いた文を人目のつきやすい場所へ落として人に拾わせるから故。己を誇示するために書く行為と峻別しないとダメかもなんて頭によぎる。言葉と行為、難しい。そういえば、「沈黙と内緒の違いは?」なんて問いかけを目にした。答えを読んでなるほど。

    学長の判断と行動に指導者の姿を学ぶ。

  • [Review]: クライマーズ・ハイ

    クライマーズ・ハイ (文春文庫)

    《日航機123便は長野・群馬県境に墜落した模様!》ーーーーー北関東新聞の遊軍記者悠木和雅が友人の安西との約束を果たすため帰宅しようとしたそのとき、共同通信社の「ピーコ」が伝えた。日本航空123便墜落事故、それは「単独の航空機事故としては世界最大」を伝えるはじまりだった。死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名。完全遺体492, 離断遺体1143, 分離遺体351, 移棺遺体79, 総合計2065体。完全遺体のうち五体がすべて揃っていたのは177体、離断遺体のうち、部位を特定できたのは680体、部位不明の骨肉片は893体。遺族の方々はいまだ癒されることなく、何かすがって懸命に生きている。『クライマーズ・ハイ』は地方記者の現場が描かれている。だから、事故の一報を受けたあと「どっちだ?」が当初の最大の問題だった。群馬なら「ウチの事故」、社の総力を挙げなければならない。若手は「めぐってきたチャンス」にはやる気持ちを悠木にぶつける。世界最大のヤマを誰よりも早く踏みたい。かたや年嵩の男たちは精彩を欠く。

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  • [Review]: 日本という方法

    コメンテーターが「元来、日本という国は」なんて口にしたら「チープでシンプルなナラティヴ」の鋳型かもしれないと眉に唾をぬってみる。天皇制が日本史を仕切っていた歴史はなく、武士道は徳川初期や明治前期の所産とのこと。ならば、日本が単一民族国家である説にいかが答えようと問われれば、その説は『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』によって論破された(らしい)。なるほど日本の歴史の年表を眺めたとき、「○○時代」で区切られているだけで、縄文時代から現代まで一本道で描かれる。世界史に散見されるような国そのものが変わったり王朝の交代などない。驚くばかり。だからといって、一貫性を主張するのは早計だ。

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