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  • 無数の言葉の配列と無限の思い想い

    無数の言葉の配列と無限の思い想い

    2013.08.14 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=vrQ4saKGI5k]

    Bob Dylan – Blowin’ In The Wind でスタート。はじめて聴いたのはたぶん13,14歳ごろ。22世紀といわず、23世紀、24世紀へ引き継がれほしい。歌というより詩。英語わかんないけど、和訳を調べて、辞書を引いて、んでもって、もうわからんまま聴いてたらええわって素知らぬ顔で、How many roads must a man walk down Before you call him a man? を音程はずして口ずさむ。

    F先生の院内資料を作成。全体像と内容、レイアウトを設計。作成者の視点と閲覧者の視点はズレる。ズレを想像しながら、ズレをなるべく小さくしたい。自分の人生のズレは歓迎できても、仕事のズレはさすがにNGです。

    列車やお店、街中で人の何気ない仕草や所作へ目をやってしまう。どうしてだろう? なぜだろう? そうかあんなふうに身をこなすのか? …エトセトラ。あまり行儀がよろしくない癖。

    外側へ向けられた視線は、頭ん中にいろんな感想をつくるから浮かれてしまいがち。波長が合えば感想がプカリプカリ。アレみたい。

    でも気をつけないと。外側へ向けられる視線に馴化したら、視線は私の内側へ向けにくくなり、向けられなくなり、向けたくなくなる。

    外側へ向けられる視線の言葉には勢い。あまり好ましからぬ勢い。閾値を超えれば、叩き、手足の届かない出来事にもいっちょかみ、溜飲を下げる。

    外側へ向けられた視線の言葉は、場にしばらく留まっても海馬を通らない。

    内側へ向けられてきた視線の言葉は感知されにくい。言葉は己へ向けられる。外側へ出てこない。職人さんや市井の人々の内側なる言葉が、何かの拍子に顔を現してくれたとき、世界を刺激する。

    人によってはずっと刻まれ、変容の契機になる。

    言葉ではなく、言葉を透過して垣間見られた「背中」だろうな。

    light
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    優しく柔らかく、朗らかに、からから笑う。

    自分をそうさせることは難しくても、誰かにそうなってほしい気持ちがあったら、その気持ちを丁寧に届けよう。多少の恥じらいや衒いはしょうがない。いずれ洗練されてほしいぐらいの期待が混じる。

    クロネコさんのように確実に届けられるかわからない白い不安が、届け方への視線を育てる。

    もしも届けられたら、届いたの声が聞こえるだろう。すぐに聞こえなくても、自分の五感を入念に手入れしていれば、いつか聞こえるか、見えるか、わかるはず。ずいぶん経ってからだってあるだろう。

    無数の言葉の配列と無限の思い想い、座標軸を確かめる私視線。

  • 手は老いてゆく

    手は老いてゆく

    2012.10.19 晴れ

    今朝は カサリンチュ – あなたの笑顔 でスタート。前向きというか、邦楽で採用される「がんばれ」系のフレーズは苦手なんだけど、たまにはこういう歌をすなおに聴くのもよいですね。でも、やっぱり「前向き」や「励まし」というのは、ときにもっとも残酷に人を傷つけるほどの負荷を与えかねない、って思っています。

    昼過ぎに大阪へ。JRのダイヤが乱れていたので早めに出発。大阪駅で途中下車してしばらく人をぼんやり眺めていた。通り過ぎる人、立ち止まる人、スマートフォンを見ながら歩く人、大丸の行列など、空気に溶け込む人と空気からこぼれた人の差異を推し量る。僕が勝手につくった差異を自分の中で咀嚼していくプロセスから、埋もれていた視点を発掘できる。そんなあぶなっかしいことを思いついて封印していたのかとびっくり。

    15:00からミーティング。ひとつ手前の駅で降りて歩く。F先生にお目にかかって話をすすめる。作成した資料をご覧になってOKをもらった。三度目の正直。いままでは首を縦に振られなかった。しっくりこられたのか、まったく別の理由があってか。推量に推測を重ねて推定する。その過程で累々たる感情が盛衰する。

    主題を終えて副題の話を伺う。孤独を想起する。一人の孤独と集団の孤独の性質は異なる。関係がもたらす質感はうつろいもやもや。主従の関係が逆転している現象を認識して、主に寄り添う人は少ないだろう。誰かは、孤独が主の定めであると撃鉄を起こす。僕は発射できない。できるとしたら、構えてずっと近くで見ているだけだ。

    主の苦悩に触れて、僕が改めなければならない点を確認した。盲点を確認できたかのよう。自分らしさを疑う。自分がよかれと思うふるまいは他人を不快にさせて、ひいては集団の均衡を崩す。モノを壊して壊れたモノを繕うは一連の流れかと見紛う。両者には径庭がある。モノを繕ってきた人は体感している。モノが壊されて引き起こす「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」ような混沌を。

    主従と書くと、よからぬわるかろうイメージを思い浮かべられるかもしれないけれど、そういう意味をあてはめていない。

    18:30前に終了して移動。19:00からM先生のミーティング。自分の備忘として記しておきたい。先生が変わってきていらっしゃる印象を持つ。背景を推量に推測を重ねて推定する。いつになれば自分の当て推量に確信を持って相手に直言できるか。ずっとできないし、そんな妄言は差し出すべきではない。直言してスムーズにすすめられるタスクと慮って回り回ってすすめていくロードの仕訳と思っている。

    すごくよいミーティングで書記に集中した。

    ある歯科医院でミーティングの進行を仰せつかって喋っていたとき、先生の奥様が撮影していた。この写真ともう一枚の写真には手が映っている。夜中、Dropboxに入っていた二枚の写真をはじめて開いた。こみあげてきた。まことに表現している写真は心の深部に届く。

    写真の手を見た時、頭のなかで描いていた手のイメージを修正した。毎日、自分の手を見ている。手の老いを見ているようで見ていない。見ていたとしても認識していない。あるいはそこまで気にかけていない。だから自分の手はいつまでたってもむかしなにかの拍子で凝視した映像がすり込まれている。いってしまえば、頭のなかの自分はいつまでも若い。若い映像が時の進行に抗い固着している。

    イメージは部活で走っているけれど、現実の足はあの時のように動かない。精神と肉体が争うから転ける。

    主観と客観の溝を埋めるって、こういうことなんだ。鏡に映っている我の相貌も同じ。見ているようで見ていない。変化に気づかず、見た目の老いを自覚せず、ある日、「向こう」から客観がやってきたとき、主観がぐらつく。ぐらぐらに揺れ動き、自分の頭の中にある映像は書き換えられ、当てはまる言葉をふたたび探さなければならない。

    私のなかの時間は止まり、周りの時間は進んでいる。

    誰かのふるまいも一枚の写真におさめられたら、世の中の不穏な事態はもっと減るんじゃないかな。自分が思っている以上に、人は自分のことを見ているし、一方で人は自分を気にしてない。この両極をしっかり噛みしめないと他者から受け入れてもらえないし、誰かを受け入れらない。そんなふうに思い始める。

  • 人と技術と空間が複雑に関係しあったとき環境が進化する

    2012.08.22 晴れ(合間の天気を知らない)

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=eS_Va5M2XOc]

    今朝は 笹川美和 / 愚かな願い Recording Making VTR を視聴してスタート。うれしいニュースだな。いろんなオトナたちの事情があってメジャな舞台から離れていらっしゃった(離されていた?)ところの復帰。メジャだけが音楽ではないないけど、場が広がることが僕のように無精なやつには耳に入ってきやすくなって嬉しい。

    08:30すぎに出発。大阪へ。朝から歯科医院の現場を観察。診療後までびっちり現場を観察させてもらった。新しいノートを持って行った。20ページ、見たままの風景や気づいたこと、感じた点を書き殴った。ウェブサイトを制作するにあたってぼやけていた輪郭のピントがあってきた。1日拝見しただけでピントが完璧にあうわけなんてなく、小さな小さな断片をひろっただけなんだけど、「ああ、あのページにはこの言葉をいれよう」や「このアングルの写真がほしいな」なんてサイトの映像とキーワードがどんどん思い浮かんだ。

    観察すれば、インプットの情報量が増える。比例して疑問が次から次に浮かび上がる。何をしているのか? あの動きは? 目的は? 効果は? どうしてそんな配置にしているのか? 診療室内の設計の意図…..。まだまだたくさん。

    はじめて入室したときの違和感。他の医院とは異なる風景に映り、なんだか違和感を抱いた。ヘン、ってニュアンスの違和感じゃなく、アレ、なにか足りないなぁ、なにか違うな、ってライト感覚。で、午前中の診療を見終えたとき、理解できた。なるほどなって。先生にそれを伝え、話を伺い、ちょっとしたインタビューみたいになったり。

    昼休み、スタッフの方がプレゼンなさるにあたってパートナーに指名された。状況設定を伺う。来院者の役を演じた。プレゼンが終わってアドバイスを求められる。いまでもウェブサイト以外のこと、特に対人スキルやプレゼンについてアドバイスを求められる。他人から見える私。不思議だ。アドバイスする機会は減った。なにより僕自身の対人スキルが急速に劣化しているので、そんな人のアドバイスは失礼にあたるし、僕も恥ずかしい。それを承知でおつきあいいただき、気になった3点を回りくどく説明した。

    19:00すぎに診療所を出発してご自宅へお招きくださった。3人で会食。いっぱいお話しを伺い、ちょっと高いテンションで自分の話を吐露して、自分の地点だけ時空が歪んだかと錯覚する時のスピード。気づいたら先生が列車の時刻を調べてくださりあわてて終電に飛び乗れた。とてもとても楽しく、ほっこり気分で各駅停車でゆらゆら。茂木健一郎先生が出演したラジオ版 学問ノススメ Special Edition(“挑戦する脳 (集英社新書)” 茂木 健一郎のお話)のポッドキャストを聴きながらゆったり暗い車窓をぼぉっと眺める。

    日本人は細やかで行き届いた気づかいができるという。他者はそう見る。慣れてしまった僕には感じられない要素でも他者は察知する。でも、そのために空間にプラスαを置かなければならず、限られた空間になくてもよいものが増えていく。人の動きが遮られる。人の動きが遮られた空間は滑らかで伸びやかさを失い、なかにいる人の動きから躍動感が奪われる。凛とした静寂と気味の悪い沈黙は違う。

    人と技術と空間が複雑に関係しあったとき、環境は進化する。環境そのものが自律的に運動する、みたいなオカルトみたいでまずいんだけど、オカルトとはギリギリのラインで棲み分けている環境そのものがもつ有機的機能。

    「関係」を設計しなくちゃいけないんだな。

  • 幾度

    2011.05.17 晴れ

    昨日の不安定な天気から一転して初夏らしい晴れ。14:00頃から1時間ほど歩いた。Tシャツの上に長袖のシャツをはおる。日陰はほどよく涼しく日向は少し汗ばむ。カラッとして気持ちよい。外国人は来日して空港から降り立つと湿度を感じる、ってFM80.2で聴いた。今日のような天気も感じるのかな。

    F先生のWP制作。想定したナビゲーションや形はほぼ完成した。先週あたりからディスプレーとにらめっこしてキーボードをたたいたので肩と腰がぱんぱん。腰が悲鳴を上げて夜中に起こすもんだから夜中に体操。

    iPad 2出荷のメールを受信。深センの出荷受付完了。到着は21日予定。PCを買うとき、どこのメーカーがよいかって選ぶ。つきつめればPCのパーツは台湾や中国の工場で製造されていることをわかっちゃいるけど選ぶ。細部のパーツはフォックスコン。DELLやHPとAppleへ各種パーツをOEM供給して、筐体を組み立てる。iPad2の製造は富士康深圳の工場。富士康深圳龍華工場は有名である。多数の自殺者で。

    世界がDELLやHPやAppleのMade in Chinaを買えば中国で若者が自殺している。一頃、僕がスターバックスでコーヒーを飲めば、子供たちが農園で働いている(今もそうなんだろうか?)、という構図。

    iPad 2の到着より先にケースがヨドバシカメラから到着した。待ち遠しい。純正に拘泥していない。風呂蓋はどう考えても利益を稼ぎすぎって感じたし革のケースも僕には高すぎるのでスルー(REDはそそられた)。“Simplism iPad 2 フリップ シリコンケース 折りたたみスタンド付属 ブラック TR-FSCSIPD2-BK” (Simplism) の青を購入。

    髪を切ったアンジェラ・アキの「始まりのバラード」をFM80.2で聴く。のびらかなリズムとつつみかくさない歌詞。違う曲なのにどれを聴いても同じように聞こえる曲を作曲するアーティストもいれば、似かよったテイストの音に聞こえるのにそれぞれの曲はキャラを持っているような感じでしあげるアーティストもいたり。といっても両方とも僕の耳であって他者がどんなふうに聴いているかわかりようもないしね。

    正法眼蔵随聞記一 十一 学道の人、参師聞法の時

    “正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)” (筑摩書房) P.52

    先輩や上司、先生から教えを請う。「能々窮メて聞キ、重ネて聞イて」いるだろうか。心にほんのわずかな疑問を残ってないか。問うべきを問わず、言うべきを言わないで、あとになって聞かなかったと抗議し、言えなかったと申し開き、対象とぎくしゃくする。問うべきを問わず言うべきを言わず、疑念を残したまま自分でなんとか解釈しながらコトとすすめたが、結果的に的をはずしてしまい事がややこしくなってしまったりする。

    自分の得を熟慮すれば住みやすい環境をつくれる。シンプルストーリーは危険なんだけどそう感じる。エゴイズムは我が儘じゃない。自分が得するとは、自分に災難がふりかからないようにまわりと丁寧に折り合っていくことだと思う。不愉快な思いをしないように。怒らないように。

    そんなシンプルストーリーを立脚すれば、問うべきを問わず、言うべきを言わないって減らせるはずなんだけどな。実際は減らないし、黙っている。「我ガ損なるべし」と書いてある損は実利的な意味あいとか目論見ではないと思う。自分の成長を妨げる要因ってふうに僕は解釈した。

    反対に教えるほうも同じだ。相手が理解しているかどうかを何度も何度も問う。言う。しつこいぐらい、いやがられるぐらい。それもエゴイズムだと思う。

  • 歯歯

    2010.01.12 曇り時々雨

    年末から腰・背中・肩・首の痛みが右肩上がり。ゴリゴリ。目が覚めると、脳髄がうっかりしてたとあわてて痛覚の信号を送信。肩と背中の痛みが起動。たまにはセーフモードで起動してほしいと願う。

    午前中、M先生の利益管理表を制作。昨日からとりかかっていた。日数、のべ日数、新患、再来などの数値から回転数や1枚あたりなどの指標を算出するシートをExcelで制作。今ならレセコンで出力される(はず)。とはいえ、データを加工して情報へ変換するために必要。データを収集する行為は大切であって、ただ、いくらデータを収集しても、それを情報へ変換できなければデータはデータ以上の意味を持たない。

    Excelなんて使わないので、四苦八苦しながらようやく午前中で完成。泣きそう。みんなこんな高度なソフトを使っていると思うと背筋が寒くなった。きっと部屋の温度が低かったのだろう。

    『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』 川上 未映子 がとてもおもしろい。自分は小説を読むけれど、どちらかといえば、エッセイやコラムを好んで読む。だから、お気に入りの作家がエッセイやコラムを出版すれば、そちらを優先する。作家によっては、小説を読まない。小説を読むとき、作家が思考や感情を作品へ投影している、と想定して読む、って見聞したことがある。自分の場合、そんなふうに想定して小説を読まない。テキストをイメージへ脳内変換して文体を楽しむぐらい。なので、イメージへ展開しにくい文体や物語は苦手。

    川上未映子さんのブログに瀬戸内寂聴さんとの対談が紹介されていた。87歳。虫歯知らずとの由。すべて自分の歯。歯、歯。そう、あらゆる根幹にとって歯は大事なのだ。歯は命である。その歯を失えば、命を失うことであるのか、といえばそうではないけれど、歯を失った後、喪失感と希望、そして新たな根幹を獲得する姿勢。それをそばで支えるのは誰か。

  • 孟秋

    2009.08.18 晴れ

    私には特別の日。自分の日よりも大切。

    06:14起床。自己覚醒法。よい感じ。今日も猛暑日。朝からそんな気配。矢先、気象庁は「異常天候早期警戒情報」を発表。18日、23日以降から気温がかなり下がる可能性があるとのこと。秋特有の天候らしい。日照不足を懸念。いくつかの野菜、じゃがいもとか、が高騰している。

    佐用町の75歳の女性が自らの命をたった。お盆が終わり人手も急速に減っている。孤立感を抱かせない方策。

    国立感染症研究所の調査によると、9日までの1週間で、平均インフルエンザ患者数は「1人」に相当する0.99人。全国約5,000の医療機関の平均だそうだ。インフルエンザ患者の全国推計は6万人。ほとんどが新型の感染者ではないかとの由。調査開始以来、例のない数字だと。

    今日も一日中アルバイト。夕方までになんとか終了。よかった。安堵。F社とS社からのメールは明日処理。F先生のWikiにももっと書き込みたいし。ひとつひとつ着実に。

    13:00-14:30ぐらいまでGIOSに乗っていつもの場所へ。猛暑日でもサイクルの人は多い。たびたびロードバイクやクロスバイク、ピストとすれ違う。琵琶湖の湖畔という環境もあるかな。

    昼食はなし。夕食はまぜごはんと煮物、おひたし。枝豆。東北の枝豆だった。とても香ばしくて美味しかった。

    夜は読書。『ビジネス・インサイト―創造の知とは何か (岩波新書)』 石井 淳蔵 をパラパラ。今日は、自分にとって生涯忘れない日。できるかぎりおだやかに、そして思いをはせて過ごした。静でよい一日だった。

    それにしても世界陸上は波乱が続く。女子棒高跳び , 女子800mなどなど。TBSの番組進行に閉口するけど。視聴率を下げる原因が垣間見られる。稚拙。

  • [Review]: 臨床とことば

    臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知

    聴くということはしかし、とてもつもなくむずかしい。語りは語りを求めるひとの前ではこぼれ落ちてこないものだからである。語りはそれをじっくり待つひとの前でかろうじて聞かれる。「言葉が注意をもって聴き取られることが必要なのではない。注意をもって聴く耳があって、はじめて言葉が生まれるのである」と、かつてわたしは書いたことがあるが(『「聴く」ことの力』)、じぶんがどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語りだしたことを言おうとも、そのままそれを受け入れて問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとはじぶんのもつれた想いについて語りださないものだ。

    “臨床とことば―心理学と哲学のあわいに探る臨床の知” (河合 隼雄, 鷲田 清一) P.210

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  • 空間を感じる歯科医院

    キャラバン

    「ひどいね。最近の状況は」

    「業績はどうですか?」

    「悪くなっている。保険収入も自費も減っている」

    「なるほど。ところで先生は、空間を感じる時ってありますか?」

    「えっ? 空間? なにそれ」

    「上手く言い表せなくて申し訳ありません。なんと例えましょうか…..」

    昨年末、ある方から食事をお招きいただき舌鼓を打つ。いくつか面白い話を耳にした。その中のひとつ、開業3年目(だったと思う)の歯科医院のマーケティングに身体が前のめり。景気悪化も何処吹く風、収入が大台突破。プロモーションのチャネルはウェブやインターネットに絞っているとの由。思わず、「収入が大台突破して経費が9,000万ってないですね?」と冗談で尋ねて互いに哄笑。

    そんな話があるかと思えば、以前支援していた先生は、ウェブにさほど資金投入せず。ほとんどがクチコミだった。他にも事例があるな、と頭の中を検索する。そこから、「外部環境の影響を多少受けても成長(安定)している歯科医院」を思い浮かべた。

    それらを3つのパターンに分類。それぞれ異なるカラーと認識。なので、3つの共通点は何かなと仮説を立てる。キーワードは「空間」。

    今まで訪れた歯科医院のうち、「外部環境の影響を多少受けても成長(安定)している歯科医院」は「空間」を持っている。現場で空間を感じる。意識して「空間」を構築したからそうなったのか、医院のデザイン(原意のほうね)があって、「空間」を無意識に選択したのか、そのあたりよくわからない。

    じゃぁ、「空間」って何だろう?

    それは、ホストとゲストが同一の座標軸に存在する場所。

    以前、矢場とんで食事をした様子を書いた。すごく美味しかった。だけど、何か違った。ホストと僕の座標軸が異なった。人は座標軸を持っている。千差万別。ボリュームと価格という座標軸を持っている人、ボリュームはほどほどで味が第一とか。はたまた、ボリュームと価格は二の次、味と店の雰囲気なんて人も。「店の雰囲気」と一口に言っても、方向はひとつじゃない。

    先述のクチコミだけの医院へ伺うと、静謐がふさわしい現場だった。たぶん、お子さん連れの方は来院してないだろう。派手さはないけど洗練された院内は、何かしらの”層”を拒絶するだろう。僕はとてもじゃないけど相手にされないなと感じた。

    そんな歯科医院があれば、反転した座標軸も。静謐とは無縁。だけど、穏やか。喧噪じゃない。子供の声はBGMになりそう。

    内田 […]ぼくの主治医の三宅(安道)先生も電話で予約を受けつける段階で断る患者は断ってますからね。助手の人が電話に出て、先生が「どんな人?」「○○さんという方で、症状はこうこうで…..」「あ、断って」、そんな感じ。どんな症状か電話で聞いただけで治せるか治せないかわかるらしいんです。
    名医って、治せる患者しか治さないんですよね。だから名医と言われるわけで。ぼくの通っている歯医者さんも、歯科医の看板出していないんですよ。患者にあまり来られちゃ困るからって(笑)。

    春日 隠れ家的歯医者だ! (笑)

    内田 ほんと(笑)。 知人の精神科医のクリニックもよく似てて、そこでも受付の女の子が患者のよりわけしてますから。電話の声を聞くだけで、「予約がいっぱいで…..」と断っちゃう。声を聞くだけで、うちの先生に治せる患者か治せない患者がわかるんですって。

    春日 わたしの場合は、都立病院なので断れないんですよ。「診療拒否する気か」なんて言われちゃうしね。だから、いろいろ大変なんですよ。

    内田 それはつらいですねぇ。何か手はないんですか?

    “健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体” 内田 樹, 春日 武彦 P.162

    話半分としても、これもひとつの空間だ、と僕は思う。空間の話をすると、「じゃぁ、どうすればいいですか?」と尋ねられる。その時、こう答える。

    「先生が食事へ行くお店、旅先の店、服を書く店、車を買う店、身の回りのありとあらゆる店を思い出してください。その中に、ゲストとしての先生が感じる座標軸と、ホストの座標軸の共通点が見つかるはずです」

    だけど、理解している。話はこんな一言でまとめられない。だから僕は呼ばれる。座標軸を言葉にするため。座標軸をウェブにするため。座標軸を表現するため。「座標軸」が現れてくれるまで僕は待つ。

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  • [Reivew]: 「聴く」ことの力

    「聴く」ことの力―臨床哲学試論

    この間、ふれる について書いてみたが、そのときに読んでいた 『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 の最終章を深く入り込むように読んだ。最終章の表題はホモ・パティエンス。無学の私には初めて目にした言葉。

    (さらに…)

  • ふれる

    「聴く」ことの力―臨床哲学試論

    先日、携帯のメールを書いているときに、「逢う」の代わりに「ふれる」と打った。ふと思い浮かんだこの言葉、なぜかはわからないが、自分のなかで妙にしっくりきた。正しい語法なのかどうか無視。そしたら今日、今読んでいる 『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 に次のような文章に遭遇した。驚き。

    「ふれあい」ということばがあるが、そういう美しいが擦り切れたことばではとても描ききれないような怖い「ぶれ」がここにある。

    『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 鷲田 清一 P.173

    文中の「ここ」とは、十年来まったく眠れない少女の訴えに医師が自宅まで行き、診断したときのエピソードを指している。さらに続く。

    (さらに…)