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  • 同じ「コト」から差異は生まれる

    2013.04.10 晴れ

    [youtube:http://youtu.be/bG8PTN9MAMg]

    MONGOL800 with SOFFet – ひとりじゃない でスタート。語感とリズムがやわらかく、歌詞はキュンキュン刺さってくる。これ、恋愛じゃなくても、いろんな対象があるんだと思う。ほんと、歌をつくるってすごい。

    ネットで話題になっていた 2013年度入学式 諏訪学長による式辞 を読んだ。うわぁ、これだ!!って感じだ。自分の語彙は少なすぎる。こんなふうに「経験」について語れたら羨ましい。いつも自分の頭の悪さを呪う。こればっかりはどうしようもない。脳みそをこねくり回しても明日からすぐになめらかに思うがままに話せるわけない。頭の悪い自分と気長に付き合っていくしかない。

    私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。

    「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。

    「経験という牢屋」を恐れている。「仕事の作法」が機能している状況に満足する。仕事の作法を培ってきた能力と履き違える。勘違いは傲慢を言動に宿して端々に現れる。

    同じ作業を繰り返す、毎日。とても大切だ。同じ繰り返しから小さな変則を見つけられる。微少の変化。想像すれば、毎日、同じものを食べたら、その日の体調によって味が変わるんじゃないかな。

    同じ「コト」を私に合わせない。私から同じ「コト」に合わせていく。

    同じ「コト」をこなしていても、精度と基準が曖昧ならば、「コト」がおかしいのか、自分が不安定か判別しにくい。料理すればわかる。難しい。レシピが揃っているのに、行程の狂いが、結果の差異を生む。

    苦しみ悩みながら料理家がつぶやいていた。同じ味に料理できるようになっても、今度はレシピを作成するのが難しい、と。各家庭によって使っている器具や火力などが自分の環境と違うから、何に照準を合わせてレシピを作成しようか難しいらしい。

    皇子山公園

    同じ「コト」の繰り返しは難しい。なのに、同じ「コト」に近い状態で安心して「コト」を丁寧に扱わなくなる。「経験の牢屋」に入り、仕事の作法のようなものが有効に機能しているシステムに安住する。

    ほんとは同じ「コト」ではないんだけど、同じ「コト」をこなせているように自分を錯覚させて納得してしまう。微細な変化、微妙な進化、微少の劣化を捉えられない。

    クリエイタは十人十色のリズムを営んでいる。興味深い点がある。十人十色のなかには、規則正しい生活と習慣化されたタスクが創造をもたらす、と指摘する人たちがいる。

    何もできなくても特定の時間帯に毎日3時間座るや、午前中の数時間だけ執筆するとか、就寝と起床の時間が一定しているなど、生活と習慣にまつわるエピソードが多い。

    靴磨きが好きになった。いつからかまったく覚えていない。靴を磨いていると落ち着く。行程が安定しない。どうすれば靴がきれいになるか試行錯誤の連続。あーでもないこーでもないの独り言。コロニルの量や磨き方、磨く手順。手の力の入れ方。まず「同じ」にしていくそのものがわからない。毎回、発見がありとても楽しい。

    同じ「コト」というテーマについて誰かと話すだけでも、思いがけない内容へ発展するのでは?

  • ひとり二人山人余人誤認

    2013.04.02 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6BBJ0m9Bllo]

    今朝は Quasimode – All is One でスタート。音を聴きたいときは、Quasimode . incognito, 東京スカパラダイスオーケストラやら、その他もろもろ系を流します。特に sax があればご機嫌で、あとはカラダをスイングすればパーフェクト。歌詞を耳にいれたら音と混濁して記憶が結合して過去へ遡り、アンニュイな感情を誘発しかねないと察知したら音だけのワールドへ没入。

    ひとりで仕事するようになって10年目を迎え、厳しい状況は続き、常に終わりを想定しながらやっている。自覚した変化は、孤独について。かつて孤独に対するイメージは芳しくなかった。否定的、マイナス、悪い、そんなふうなイメージを持っていた。

    変わった。

    転じて、肯定的、プラス、良いなどのイメージを持ったわけではない。孤独、それ自体を受容できるようになってきた。さらに没入したい欲望も抱き始めている。

    孤独を外から眺めていたからイメージを描けた。いまは孤独の円のなかにいる(つもり)。外側から眺めるイメージを描けない。内側からならどうだと言われたら、それもうまく描けない。孤独に対してイメージよりも実体を捉えるフェーズに差し掛かっている。イメージよりも具体的に記述したい。

    孤独は大切な要素。

    日常がひとりであり、誰とも話さず過ごせるような環境を設定できたらありがたい。他者の存在を強く感じられる。存在を強く感じられたらウェットな関係よりもさらりとしたリンクのほうが、他者への敬意を忘れなくなる。心地よい緊張感を持てる。依存しなくなる。

    一方で寂寥感が一定の周期で訪れる。得たいの知れない感覚、言葉が頭を支配しているのか、気持ちが体を蝕んだか、わからないけれど、へんな感触がつきまとう。

    最初は寂寥感との付き合い方がわからず戸惑った。いまも戸惑うが、以前よりは制御できているはず。

    ひとりを体感したら誰かに依存しない。ひとりは私だけではない。依存の対象である他者にもある。他者も抱くかもしれない孤独を想像できたら依存できない。己の欲求のままに距離感を長く短くさせるようなウェットなリンクは、ひとりを体感していないからこなせる。

    ひとり=孤独、ではない。たまたま運よくひとりでやってきたから孤独に埋没しやすかっただけであり、チームや組織に所属すれば、今と異なった孤独を模索していくと思う。そこにはいまよりも困難なコトが待っていると想像する。

    近江神宮

    ひとりでもチームでも、誰かの忠告はとても嬉しい。歳を重ねればただでさえ指摘してもらえる機会が少なくなる。自分で判断しなければならない。そう承知していても、これでよいかと迷う。

    孤独と向き合うようになって視座の位置は以前の場所にない。斜に構えなくなる。なるべく素直に物事を述べる。素直は十人十色であり、素直が衝突のもとにもなる。素直は奢りの種子でもある。

    孤独は傍若無人から最大の距離を置いて自律したいから、できるだけ複数の視点を求める。視点を求める過程で自家撞着して我を見失う。我を見失い、判断力が低下して、事実と意見を峻別できなくなる。挙動不審を繰り返す。どれぐらいの期間かはその時々による。その期間を経て、我を把持できたら、我と他の境界線が引き直され、我と他がだんだんどうでもよくなる。

    たぶん、その「どうでもよい」状態が、理想的な孤独なんだろうと、いまは想像している。他者から何を思われているか一切気にせず、我がどう思うかも繕わず、「いま」を淡々と営む状態なのかなと。

  • 感情が傍若無人を隠す

    2013.03.07 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=lCnJujje-pM

    今朝は The Miceteeth – 素晴らしい日々 でスタート。なんかね、懐かしい。SKAのリズムと声が。「素晴らしい日々」だと錯覚できるのは自分だけ。生きていく上で、錯覚して勘違いして妄想するってとてもとても大切です。私は、それしかないぐらい、錯覚の精度を向上させることに腐心しています。

    もうすぐ二年。報道のボリュームが関西でもやや増えている。きっかけがあって生の声にふられるようになってから、関西から報じられる内容にしっくりこない。表層しかフォーカスできないのでしょうがないな。生活の声は生々しく、苦しく、茫々としていると想像する。

    あの日の数日後から夕食の前に手を合わせるようになった。それも習慣になったと油断したら、うっかり二日連続で忘れる。そんなとき、自分に苛立つ。

    デバイスからプッシュされてくる二次元の映像と音声の情報は感情を刺激する。だが、プッシュの情報が途切れたら、翌日から自分の生活が始まる。プッシュされた情報はストックされず流される。そのとおり。頷いた。だから自分を律しなければならない。忘れるなんてありえないし、自分がやれることを探して動き出す。

    デバイスの上で眺める二次元の映像と音声か、テキストの情報に麻痺している。麻痺を知覚できない。麻痺したまま情報にアクセスする。情報を理解できたら我の中でのコトはおしまい。はじまってもいないし、おわってもいないのに。事象のそのものではなく、事象をパッケージしている情報に喜び落ち込む。

    琵琶湖

    12:00前に大阪へ出発。やっぱり頭が痛い。この時期から1ヶ月ほど頭痛が続く。数年前から毎年。億劫。ずっと続くかと思えば、途切れ途切れもある。ひどくない。重い。ときおりぼんやりしたり。

    大阪に到着したら環状線が止まっていた。何かあったらしい。最近、JRの遅延に遭遇する機会が増えた。確率と統計を分析する知能があれば、たまたまにすぎないのに、遅延が重なると、増えたと勝手に思い込む。そういうものだなっていつも自分の頭の悪さを認識する。

    13:40からDHだけのミーティング。事前に準備していることをかならずできるとはかぎらない。その場がもたらす偶然性が、やらなければならないことを変えてしまう。

    職務と職域がある。二つが構成する円の中に私は働いている。他者は別の円にいる。私の円と他者の円、二つの円は交わる。完璧に一致しない。交わっている部分と交わっていない部分がある。「交わっている部分」だけが協働だと思い込んでしまう。交わっていない部分が「見えない」からだ。

    総務の業務を把握して自分の仕事を全体のタスクフローにはめ込む。全体の業務ができるだけ遅滞なく進行するよう自身の職務と職域を調整する。全体と個だと思う。が、そんな理屈は通らない。自身の職務と職域を優先する。なかには自分の職域と職務だけで働く傍若無人もいる。傍若無人が一定の割合で必要な場合も否定できない。

    何をやっているかわからない。もし、「そんなわけない」と思ったら、そういう全知全能の類い希な能力を備えた人はいるんだろう。何が交わっていないか、「話し言葉」で考えるよりも、話し言葉を「絵」に変換して翻訳すると、一目瞭然である。そのとき、なぜ交わっていないか、が認識できて、そこから「問題」を設定できる。

    外部から観察する。疑問点を伝達する。遠慮せず率直に疑問点を提示し、「組織の感情」が隠している「コト」を描写する。これが僕の役割と認識している。

  • 我を失ったとき己が立ち現れて自らを誘う

    2013.02.13 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=unqC2OEAu7Y]

    今朝は ザ・コレクターズ / プロポーズソング でスタート。日曜日、MUSEで聴いた。京都のほうはあんまり好みじゃなかったのに、この歌のおかげで大のお気に入りに。あと3枚でSOLD OUTのMUSEってはじめて見た。ゆれるゆれる。50歳過ぎてこんなまっすぐな歌詞を書けて歌えるってホントすてきだ。ハートにビンビンきた。

    母が産んでくれた日に何かするやら何かを食べたりとか、何かもらうというのに関心がない。何か、の前に”とりわけ”なんて意味があふれそうなコトやモノならばなおさらであり、我ながらひねくれている。何か気になるか、と尋ねられたら、「終わりだ」と答える。終わり方。

    ひねくれているわりに何もなければそのまま床につくも、寂寥たる眺めを脳裏に浮かべてしっとりじめじめした感情が身体を包み込む、ところだった。

    そんな終わり方かなって思っていたら、思いもしなかった「言葉」がノックした。誰だろうと思って心の鍵を取り出して招き入れたら、今度はちょっとだけ興奮してあやうく眠れなくなりそうな甘美な来訪であった。

    もうそれでほんとに充分だ。ぐっすり眠った。ほんとにありがとう。いつでも取り出せる脳の抽斗にしまって、おりにふれ眺めさせてもらうね。

    朝から大阪へ出発。F先生のMacBook Airが故障寸前なのでバックアップの確認へ向かう。11:00すぎに到着して12:30ごろになんとか息も絶え絶えの手前でドキドキしながらバックアップ完了。もし、最中にブラックアウトしていたらと思っただけで体感温度は零度を下回りました。

    琵琶湖 Lake Biwa

    ある方とお話ししていたとき、M先生が脳裏によぎった。いまもよぎる。昨年の11月末でこちらから支援の終了を申し出てご了承いただいた。申し出るときから、これほど失礼で非礼な話はないなっと思っていた。その思いは変わらない。

    反省や内省とはやや異なる振り返り。まだよくわからない。いまの状態をラベルに貼って、「反省」や「内省」って陳列できなくて、理解できない前衛劇を鑑賞して、意味と解釈を言葉にしたくてもどかしい感じだ。

    よりよきふるまい。

    自分をよく思ってもらうというわけではない。先生の気持ちを慮った終わり方があった。確かにあったはずである。「あった」選択を思い浮かべられていたんだろうか。きめの細かい配慮を懸命に手がけたあとで繊細にM先生へ接近していただろうか。

    僕の支援は影響を与えていない。成果を出力できなかった負い目があったから申し出た。「バカか、何くそと思って成果を出すのが筋だろう」が健全かつ最適な見方である。僕の卑怯な点だと自己分析している。

    医院はさらによりよき方へ漸進していらっしゃることと想像する。

    話している時、二重音声になる。自分の話している内容とその内容が耳から入って頭のなかで咀嚼して、また別の考えが浮かぶ。へんなときは、同時進行で話が進む。話していることと脳裏で進行する話のパラレル。口語と文語の寸劇。

    話ながら思う。善悪是非を完璧に捨象して己のあるがままを認められるだろうか? 改善や修正を前提にしない。いまここにいる自分をそのまま認める。

    できるだろうか? それは我を失うということか、また異なる位相か。あるがままの自分を受け入れて我を失い、彼、彼女のなかへ埋もれていって溶け込む。もし溶け込めたなら、我と彼、彼女のぼんやりした境目から生まれてくる誰か、何か。

    価値は基準が存在するから、価値を測定、測量、査定できる。比較する。自身の信念や理念や行動様式と合致する価値を選ぶ。それらを加工して自分の価値をつくりだす。基準を彼方へおしやり、価値をごみ箱へ捨てたとき、何をもって私をはかるのか。

    話ながらのパラレルワールド。現実と空想の交わり。

  • 相互誤解のうえで成立する綱渡りの解釈

    2013.02.05 晴れ

    [youtube:https://www.youtube.com/watch?v=ofk5zngSlck]

    今朝は 沢田研二 – 愛の賛歌 でスタート。美輪明宏バージョンと迷いましたが、こちらで。歌い手が素晴らしすぎるから歌い続けられるのか、歌が素晴らしすぎるから歌い手が集まってくるのか。どちらもか。このテンポも大好きですが、桑田佳祐バージョン、東京スカパラダイスオーケストラバージョンもこの上なく好きです、ハイ。

    立春、太陽の黄経は315度。第一候、東風解凍。暦のうえでの春。まだ遠し。変わらぬ寒さ、冬空。変化の兆しを見逃さずといえば、聞こえはよいが、営みのなかでは目の前の生活に目と耳は奪われ、がらりと風景が変わったときにようやく節目を認識する。

    01/04から1ヶ月が経ったのは事実であっても、それが早いか遅いかわからなくて、自分の刻はこわれた時計できざまされているんじゃないかしらと錯覚してしまい、どうも周りのスピード感とやらについていけず、周りがはやくなればなるほど私はスローへと相対していたき、周りの景色のなかに己を逃して、音へ音へ深く分け入る。

    野菜の価格は落ち着いたかにみえたけど、やっぱり高値のままもある。買い物の売場を眺めたら便利へ探究心は尽きないみたい。魚もファストフィッシュ? というラベルが貼られている。総菜系も充実しているし、なにより冷凍食品の種類に驚く。側聞するところによると、そこそこ食べられるらしい。試してみようと思わないけれど。

    コンビニに行けばPB商品が充実している。特にセブンイレブンのPBには目を見張る。そんなものまで、って思わず声が出てしまった。一人暮らしだとうまく利用すれば、自炊の食費程度までコントロールできるかも、と計算してみようか、とまでは思わない。

    おいしそうな食卓のPICを見て、コメント欄に「成城石井のインスタントです」って書いてあるのを読んで吃驚だし、写真の撮り方と見せ方で、人の欲求は刺激される。

    外国の事情を知らないので比較文化論を語れないけれど、日本人の食に対する味と利便性の追求はどこからやってくるんだろう。食の写真をアップする風習は外国にもあるらしく、Facebook ではすでに「もうやだ」的な雰囲気もあるらしい。そりゃ、タイムラインが食べ物ばっかりだったらうんざりだし、根っこには微妙な感情も隠れている、たぶん。

    アップされたPICの美味しそうな写真は、たまたまその人がめったに食べないものをアップしたかもしれないけれど、見ている人は「豪勢な食事だ」って印象を持ちかねない。

    この一回性と連続性の錯誤が写真のもたらす強さでもあり怖さでもある。

    琵琶湖

    言葉も似た要素を持っている。

    たまたまの出来事や輪郭をぼかしてやや抽象的に書いたら、いつも同じ事をやっているように読まれる。読解力とリンクしているしていないかは知らない。感じる点は一つ。自分のなかで構築された思い込みらしき世界観や価値観を持っていればいるほど、その観にはめこんで読んでいる、んじゃないかな。憶測。

    まぁ、読み違えられてもかまわないわけで。それを気にし出すと何も書けない。

    あらかじめ自分のなかで設定している世界の輪郭がはっきりしていて、現実との界面が堅牢であれば、予定外によって崩されたときの対処は難しい。いつも「予定外」であることは不可能だとしても、それに一歩一歩近づけるように、身体と精神をどんどん空っぽにしていきたい。

    歳を重ねるにつれ子供のときよりも一日が長く感じられるような進化を遂げられたら、ヒトの種として望外の成功だよね。

  • 手は老いてゆく

    手は老いてゆく

    2012.10.19 晴れ

    今朝は カサリンチュ – あなたの笑顔 でスタート。前向きというか、邦楽で採用される「がんばれ」系のフレーズは苦手なんだけど、たまにはこういう歌をすなおに聴くのもよいですね。でも、やっぱり「前向き」や「励まし」というのは、ときにもっとも残酷に人を傷つけるほどの負荷を与えかねない、って思っています。

    昼過ぎに大阪へ。JRのダイヤが乱れていたので早めに出発。大阪駅で途中下車してしばらく人をぼんやり眺めていた。通り過ぎる人、立ち止まる人、スマートフォンを見ながら歩く人、大丸の行列など、空気に溶け込む人と空気からこぼれた人の差異を推し量る。僕が勝手につくった差異を自分の中で咀嚼していくプロセスから、埋もれていた視点を発掘できる。そんなあぶなっかしいことを思いついて封印していたのかとびっくり。

    15:00からミーティング。ひとつ手前の駅で降りて歩く。F先生にお目にかかって話をすすめる。作成した資料をご覧になってOKをもらった。三度目の正直。いままでは首を縦に振られなかった。しっくりこられたのか、まったく別の理由があってか。推量に推測を重ねて推定する。その過程で累々たる感情が盛衰する。

    主題を終えて副題の話を伺う。孤独を想起する。一人の孤独と集団の孤独の性質は異なる。関係がもたらす質感はうつろいもやもや。主従の関係が逆転している現象を認識して、主に寄り添う人は少ないだろう。誰かは、孤独が主の定めであると撃鉄を起こす。僕は発射できない。できるとしたら、構えてずっと近くで見ているだけだ。

    主の苦悩に触れて、僕が改めなければならない点を確認した。盲点を確認できたかのよう。自分らしさを疑う。自分がよかれと思うふるまいは他人を不快にさせて、ひいては集団の均衡を崩す。モノを壊して壊れたモノを繕うは一連の流れかと見紛う。両者には径庭がある。モノを繕ってきた人は体感している。モノが壊されて引き起こす「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」ような混沌を。

    主従と書くと、よからぬわるかろうイメージを思い浮かべられるかもしれないけれど、そういう意味をあてはめていない。

    18:30前に終了して移動。19:00からM先生のミーティング。自分の備忘として記しておきたい。先生が変わってきていらっしゃる印象を持つ。背景を推量に推測を重ねて推定する。いつになれば自分の当て推量に確信を持って相手に直言できるか。ずっとできないし、そんな妄言は差し出すべきではない。直言してスムーズにすすめられるタスクと慮って回り回ってすすめていくロードの仕訳と思っている。

    すごくよいミーティングで書記に集中した。

    ある歯科医院でミーティングの進行を仰せつかって喋っていたとき、先生の奥様が撮影していた。この写真ともう一枚の写真には手が映っている。夜中、Dropboxに入っていた二枚の写真をはじめて開いた。こみあげてきた。まことに表現している写真は心の深部に届く。

    写真の手を見た時、頭のなかで描いていた手のイメージを修正した。毎日、自分の手を見ている。手の老いを見ているようで見ていない。見ていたとしても認識していない。あるいはそこまで気にかけていない。だから自分の手はいつまでたってもむかしなにかの拍子で凝視した映像がすり込まれている。いってしまえば、頭のなかの自分はいつまでも若い。若い映像が時の進行に抗い固着している。

    イメージは部活で走っているけれど、現実の足はあの時のように動かない。精神と肉体が争うから転ける。

    主観と客観の溝を埋めるって、こういうことなんだ。鏡に映っている我の相貌も同じ。見ているようで見ていない。変化に気づかず、見た目の老いを自覚せず、ある日、「向こう」から客観がやってきたとき、主観がぐらつく。ぐらぐらに揺れ動き、自分の頭の中にある映像は書き換えられ、当てはまる言葉をふたたび探さなければならない。

    私のなかの時間は止まり、周りの時間は進んでいる。

    誰かのふるまいも一枚の写真におさめられたら、世の中の不穏な事態はもっと減るんじゃないかな。自分が思っている以上に、人は自分のことを見ているし、一方で人は自分を気にしてない。この両極をしっかり噛みしめないと他者から受け入れてもらえないし、誰かを受け入れらない。そんなふうに思い始める。

  • 褒めたと思ったら貶して同じくりかえし

    2012.07.26 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=TBH8o8XXnVM]

    今朝は Joss Stone – Son of a Preacher Man でスタート。Janis Joplin、ちょっと意識してる? っぽい Joss はとてもクール。海外のアーティストでも口パクってふつうにあるって思っているけど、この人はないよなぁ。めっさうまいよな、I can’t speak English ですが。

    お昼をおかず一品と汁物だけにしたら体調の下降線はとまりそうな気配。三食だと食べ過ぎかも。枝豆だったらいくらでも食べられそうなのに。栄養学的には野菜と豆の長所をあわせもつそうで、なんとういやつ。大豆にはあまりないビタミンAやCを有す。ビタミンB1は豊富。大好きです。

    炒めものをしているとき、ピーマンを少しいれる。彩りが変わる。あまり炒めすぎたら変色するので要注意。歯ごたえも大事。ビタミンAやCを摂取できるらしい。赤といっしょに炒めやれば、食欲を刺激。

    相手が思い通りに仕事してくれたら褒め称え、思い通りに仕事してくれなかったらあげつらう。毀誉褒貶の自覚がないのでやっかい。「思い通り」というのは自分の視点からみた願望だ。相手にも何かしらの事情がある。事情の背景を想像しないで、顧客満足を錦の御旗にかかげる。ひょっとして処理能力の問題は自分にあるかもしれない。

    本人は批判を述べても、他人には愚痴に聞こえる。批判と愚痴の境界線を認識していない。境界線があると思っていないから「お互いおかしな点がある」との常套句が話の枕詞で使われる。

    自分と相手の立ち位置や視点を慎重に冷静に吟味して、コトを成し遂げるための道筋を正確に描く。そのために評価があると僕は思っている。相手の感情を慮る。感情のバリエーションが少ないから好きか嫌いかに限定される。両者の底に流れているのは怒り。

    コトへの視座が自分だからだと思う。自分にとって居心地がよい相手か気分を害する相手か。居心地の基準が毀誉褒貶の印象を与える。いまの視座を拡張して鳥瞰したら、実は居心地の悪い場所にいた、は多々ある。気分を害する相手からのほうが私にとって有意義な意見や改善点を述べてくれたりする。

    M先生のサイト制作のつづき。タブレットとスマートフォンで表示を確認すればするほど「画像」の扱いに悩む。スマートフォンのユーザを想像する。

    PCのユーザとスマートフォンのユーザは、動態が異なる。同じコンテンツを異なる動態へ提供する。難しい。理論的には可能でも身体的には無理している。ウェブサイトは時折そういう無理を強いる。

    制作に没頭するあまり忘れてしまう。アクセス数を稼げても来院してもらえないサイトは歯科医院のウェブサイトじゃない。この点をうっかり忘れてしまう。それがもっともこわい。

  • 理由より原点

    2012.06.06 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=rxbPjIcpt3s

    今朝は Fishmans – あの娘がねむってる でスタート。365日のうち300日ぐらい聴いてるはず。ニューエスト・モデルと対バンしてたなんて、B’zとGLAYが対バンしてるような感覚です、私的には。

    M先生のWordPress制作を淡々と続ける。写真だなぁ。トレンドとユーザビリティはたくさんの写真より一枚の衝撃をもとめる。手元にあるナショナルジオグラフィック傑作写真ベスト100を折に触れめくる。プロが撮影している点を差し引いても表現を学べる。撮影者の主観が連続した出来事を切り取る。切り取られた事実は止まったままなのに迫ってくる。二次元への変換は躍動感と臨場感を弱める。切り取られた事実は、はめ込まなければならなかった「そこ」を想像させてくれる。

    “急に売れ始めるにはワケがあるし、原点がある。夜のTwitterのトレンドが特異点だったので番組表を調べたらLIVE中継らしい。グループと順位に関心はないので本を読んでいた。ただ売れる理由よりも活動の原点が気になった。「最初」はたいへんだったんのではないかしら。うろ覚えでGALYか否か定かでない逸話の「内容」だけ思い出した。固有名詞を思い出せない。初期のライブの観客は数人だったというお話。似たようなストーリーは至るところにあるだろうし、有名・無名問わず各自が原点を持っている。

    お世話になっている歯科医院の先生が、チェアサイドで経営のお話しを始められたので伺っていた。めずらしい現象だ。開業して10年経ち、右肩で順調である。開業当初の苦労と苦悩を存じ上げている。ほんとうによかったといつも感じていた。ところが、ここへきて鈍化しているらしい。いくぶん苦戦気味とのこと。

    僕はお話しをずっと聴いていた。経営へのコメントは差し出がましい。遠慮していた。チェアサイドでのひさかたぶりの長話。お気持ちを推し量る。お話しから先生は何をすべきかご承知のようだ。それをなさればよいと思った。ただ、たぶん僕からも言葉にしたほうがよい空間がつくられているのも自覚した。一言だけと判断した。「原点ですね」と申し上げた。先生のお顔が晴れやかになった。よかった。

    多用になれば原点から離れていく。あるいは時が経てば原点の輪郭がぼけてしまう。原点に拘泥してもいけない。変わらないために変わり続けなければならない、は名言だ。でも「変わらない」ことが「変わりたくない」にいつしか変わっているかもしれない。変わるために耳を傾け、助言を受け入れる姿勢を示す。示すだけではないだろうか? 助言や至言がやってきても、うまく返してしまっていないだろうか?

    結局、先生は原点を想起して、原点を現在の様態と融合させた。融合に試行錯誤しつつも事態は改善されつつあるみたい。次に拝顔したとき、経営のお話しを伺わなくなった。違うルートから現状と情況を伝聞して安堵した。そして先生の経営手腕に敬意を表した。

    身も蓋もないと承知すれば、原点はいらない。原点を持てば居着いてしまう。原点は心地よい場所である。現在の己を検証するために便宜上原点が必要なだけだ。原点より出発点。出発点を常に書き換え続ける。出発点を常に更新する。到達点はない。もう身も蓋もない。僕が立っているのはいまここの出発点だけである。出発したつもりで歩き始めたら実はまた出発点にすぎなかった。それの繰り返しだと認識している。なにより出発点に立てたら幸運なこと。

    成長と衰退は退場してもらう。破壊と創造に入場してもらう。

  • 内向き

    2012.05.25 雨のち曇

    http://www.youtube.com/watch?v=x1nixzYHDus

    今朝は Beyonce – Single Ladies でスタート。踊られないのに踊りたくなります。歌詞がフランクで好き。Beyonceのようなアイコンって日本だと誰かなぁ。すぐに思いつかない。もし日本人がこういうPVを制作したら違和感あるかも。

    M先生のウェブサイトをWordPressで制作。フレームワークに試行錯誤しながらページを制作。3年後のプラットフォームをを見据えて制作する一方で、もう、ウェブに「見据えて」なんて通用しないぁとも実感。こうやって時間かけて制作するのもたぶんこれで最後だろう。これからは組織の大小問わず、スタートアップが求められるようになるから。

    世間の喧噪を傍観する。文脈や背景を丹念に追跡していないが、印象から解釈すれば、自分が住んでいる国は文明国からほど遠い。民主主義もない。

    歴史のなかでたった一度だけやってくる工業化にともなう成長の機会をものにできたのはすばらしかった。社会は堅牢なハードウェアと高度なシステムによって構築された。だから安心や安全、という眺望点から眺めた国の景色は極めて安定していて住みやすい。ハードウェアとシステムのなかに組み込まれるOSがバージョンアップされていない。ハードウェアとソフトウェアが不均衡なんだ。個の確立と自立という眺望点に立ったら、社会の景色は成熟に至らず幼い。これから熟していく。

    以上が私見。幼稚の集合のなかに僕は含まれている。傍観者であっても無関心ではいられない。もっとタフにならなければと自戒。

    “システムの科学” ハーバート・A. サイモン の電子書籍版を購読。大学のときにサイモンの一部を学んだ。本書を通読した。今となっては筋書きと雰囲気しか覚えていない。再学習したくなった。便利になった。

    文庫やコミックなど大衆受けするジャンルが電子化されている。ありがたい。一方で、絶版になった好著や学術書も少しずつ電子化されてほしい。期待して待っている。

    先日、科学雑誌ニュートンiPad版の年間購読を購入した。中身は紙と違う。紙の雑誌より省略されている。タブレットの特性を発揮させようとする試みに好感がもてた。音声を聴きながら図形を拡大縮小したり回転できるのでおもしろい。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車して本屋へ。科学系の読み物コーナで下品にも立ち読み。目的地まで徒歩。途中でにぎってきたおにぎりを1個食べる。夕食。満腹。

    19:00からM先生のミーティングに参加。ファシリテーションをしながら観察する。3人のスタッフに同じ用紙を配布してミーティングの内容を記録してもらう。僕が記録用紙の書式を決めて事前に作成していた。その記録を持ち帰って僕がタイプする。ならば誰か一人が記録すればよい。そういう意見が出ると想定していた。Sさんが想定していた意見をおっしゃった。

    お断りした。3人で記録してほしい、と指示した。意図は伝えていない。意図を伝えなければならないけれど、意図を伝えてしまうと、先入観を持って記録してしまいかねない。

    終了後、50分間議論した結果を記録した3枚の用紙を受け取った。この3枚は認知や理解に関する情報を含んでいる。これらの分析は骨折りとはいえ、この作業を怠ればミーティングで観察した様態の蓋然性を検証できない。大切な一次資料だ。

    今回のミーティングを観察していて、先生の傾向を認識した。前から気になっていた。ただ一定の傾向だと特定するまでに至っていない。もっと材料を収集しなければ。

    自分を疑う作業はつらい。でももっとつらいのは、ほんとうに自分を疑っているか、という吟味をできないこと。とことん疑おうとしても自分が出力した「コト・モノ」に対してやっぱり愛着を持つ。だから私見や自説をあらゆる方向へ転換できるしなやかさを身にまとえない。まだまだ自分を疑っていない。自分自身を労っていない。自分自身を真に労りたいなら、もっと自分を疑えるはず、だという感覚だけが残っている。感覚から思考へつなげられていない。

  • 風邪は年一でグラミー賞のとき

    2012.02.06 雨のち曇

    http://www.youtube.com/watch?v=1WydZLIkYrg

    いまの気分から今朝はAngela Akiの”This Love”でスタート。手元にあるDVDからリッピングしたPVを眺めて想いをはせる。

    M先生とメールでやりとり。現在進行形。いかに支援申し上げるべきか思案。メールの返信もタイピングの回数がふえる。「今までと異なるステージ」に立とうとなされる産みの苦しみでは、と心中お察しする。産んだことがないのであまり使い勝手よいレトリックではないが。

    Facebookで流したが、経営者や指導者に万能を求めてしまう。指導者に万能を求める一方で、指導者が「あるひとりの子供に対して全速と全力で対応した小さな出来事」には目を向けられない。その話をFBに流した。指導者や経営者の立ち居振る舞いに目を向けるが、その洞察力を自分の言動へ向けられない。

    TwitterのTLから流れてきた「誰もが世界を変えることは考えるが、誰も自分自身を変えることを考えない」との言葉。ロシアの作家の言葉らしいがソースまでさかのぼっていない。養老孟司先生も同じようなことをラジオでおっしゃっていたなぁ。

    空を青く見るか、灰色か、自分次第。けだし屁理屈である。自然現象だから青か灰色かを説明できる。そも青い空を灰に見るわけない。その前に空を見上げているかどうかが定かでない、とも思う。

    11:00前に出発。大阪駅で途中下車して書店で“巡礼 (新潮文庫)” 橋本 治を購入してマクドナルドで立ち食いしながら読み始める。チキンフィレオを食べたが半分でやめた。ついてきたポテトMサイズも半分でやめた。選択ミス。ファストフードとあぶらものが続いたためか、食傷気味。駅の立ち食いうどんにしたらよかった。

    自分の読書スタイルは、ざっと”めくる”・”見る”・”眺める”・”読む”・”読みこむ”があって、眺めるや見る程度は1日1冊や数冊、一部分や数箇所、読むとなるとペースは落ち、読み込むは1年に1冊ならば上出来。小説の読み方が変わってからは小説を読むのが極端に遅くなった。昔は字面を追いかけて結論を知ろうと焦っていた。いまは字面から空間を描くようになった。方向音痴であるから方角に困り果てる。iPadで図面まがいなものを時々書いて確認する。

    文字で読み文字だけで記号の意味を理解していた文章であったのに、文字をいったん絵に置き換えてから記号上の意味を理解する文章に変容した。「絵」が読書の速度を落とす。

    13:30からF先生のミーティングに参加。新システムの操作方法の説明に業者の方がお越しになっていていっしょに聞く。UXとUIのよい勉強になった。スタッフの方々の動きや表情を観察。書類に記録する書式を頭のなかで設計。受付Mさんの表情がもっとも懸命であった。不安でいらっしゃると憶測するが、大丈夫だと根拠のない自信を確信している。15:00に終了。二駅分歩く。ちょうど30分。心地よい。