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  • 心地よい緊張感

    心地よい緊張感

    2013.08.02 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=dKGweZ0Y_OI]

    青谷明日香 – さよならくじらぐも でスタート。「自分の足だけがコンパスと気づく」「白か黒かもわからないことを 白だ黒だと言い切れるのが素晴らしい」「ひとりぼっちで覚えた強さが どんないばら道でも あたたかい毛布で守ってくれるでしょう」(いずれも耳からの変換) こんな言葉を書ける人が心底うらやましい。

    12:00前に大阪へ。13:30スタート、ミーティングに参加。院内のデータ管理に使うExcelファイルの入力方法を説明。説明は難しい。こちらははじめからおわりを把握している。スタッフのみなさんは知らない。

    立て板に水のしゃべりは無駄。相手の意識はメモとりに奪われる。私が考えていることを相手に理解してもらう。私の考えた道筋を吟味していただく。その共同作業が説明だと思う。

    相手が迷いそうなポイントをこちらは知らない。その前提に立つ。慎重に進める。脇道にそれない。最短距離をゆっくりゆっくり進む。

    15:00終了。大阪駅で途中下車してタワレコへ。“異端児の城” 青谷明日香 を探す。ない。かわりに“夜はミカタ” 青谷明日香 があった。こちらも買う予定だったので、迷わず購入。

    「悲しい夜も、さみしい夜も、いつかミカタになればいい」の帯。言葉は人を傷つけると怯えていたら、希望さえどこにしまったのか忘れてしまう抽斗へ押し込められる。

    信じる糸が言葉の想いを紡ぐ。

    ball
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    懐に入ってくる。懐にはいくつも部屋がある。ひとつの部屋しかなく開放している人がいたらお目にかかりたい。きっと大人物だろう。

    いくつもの部屋があり、閉じたり開いたり。閉じっぱなし、開けっ放し。永久に閉じたままもあり、透明の扉もある。

    中心があり、円形に配置された扉。あるいは重層的に展開する扉。一つの部屋のなかにまた扉がある設計。いろんな「懐の形」があると想像する。人の数だけある懐。

    すっと入ってくる。開いていそうな扉を嗅ぎ分ける。開いて欲しくない扉のノブを持っても回さないセンス。話すように聴く人だ、たぶん。そういう人の前に立ったとき、何かを話したくなる。

    発話された言葉、ディスプレイに現れた言葉、それらの語感と余韻を掬いとって、ノックしてはいけない扉を慮る感性。

    それらを備えた人がいると思う。

    余韻と語感を掬いとって、なめらかに侵入してきて、長居せずに軽やかに去る。居たのか居なかったのかわからないぐらいの軽やかさが残す匂いと輪郭。またやってきて違う扉のノブを回す。繰り返す。

    近づけば近づくほど、匂いと輪郭は心地よい緊張感を帯びている。

    そんな風景を想像してみた日。

  • 届けたい方々にだけ届けて満ち足りる気概

    届けたい方々にだけ届けて満ち足りる気概

    2013.07.17 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9NLuM0xhIBc]

    naomi & goro – Beautiful Love でスタート。naomi & goro は仕事しながらのアルバム。CAFE BLEU SOLID BOND もよいけれど、BON BON や Presente De Natal を流して、Julie & Khari へ横道それて、FreeTEMPO へ吸い込まれるパターンとか。

    第三十三候、鷹乃学習。旬の野菜はレタス。語源はラテン語で乳を意味する由。和名はチシャ、乳草からきている。先人の連想と趣致。

    貰った珈琲豆をミルへ。カラカラと乾いた音。ワタシノイズが静謐へ闖入。ミルの音が好き。この先使い続けられるミルを吟味しよう。

    中粗挽きに姿を変えた豆、コーヒープレスへ。微量のお湯と混じり合う、ジュッ。30 – 60秒蒸らす。それからゆっくり注ぐ。鼻腔の覚醒。4分の沈思黙考。プレスしてタンブラへお引っ越し。微細の粉がいっしょに越してくる。飲めばかすかなざらり。

    YouTubeと珈琲。リンクする質感。美味、滋味。珈琲豆って、味覚の位置が座標軸でアイコン化されるぐらい種類はある。なのに好みも好み、吃驚。ありがとうございます。

    flower
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    RTからお気に入りに登録した言葉。なんのための登録か。情けなかった。

    聴く。話すより聴きたい。何時のころからかそうなった。だけど面を合わせないと戸惑う。眼や頬、口元の伸縮、指先の浮遊、身体の微動が見えないから。仕草という言葉も聴きたい。それができないとき、視覚に依存しない術を身につけないと。

    己を誇示したい欲求を抑制しないで時機を憚らず発する。ずいぶん昔にバイバイしたつもりのふるまいは、まだ心身に根をびっしりはっていた。なかなか剥がせない。嫌悪に陥れば昔と同じ。認めて漸進する。

    言葉の世紀。22,3世紀が21世紀を検索したら、なんて言葉の少ない時代かしらと驚愕しても、言葉が爆発的に生成されている実感。

    そんななかで言葉を削る。そう感じる。届けたい方々にだけ届けて満ち足りる。そうありたい、気概。

    「いくら筆が達者でもものを見たいという気持ちとか追求していこうという目がないとこういうふうにならない」と松井冬子さんは評した。18歳の川合玉堂が写生した鷹をじっと見つめて。

    言葉、も似ているよ。無駄を残して余計を削ぎ落とす。届ける気持ち、見つづける目。

  • 学べば減り選ぶ

    2013.07.03 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=pXcad_Qx7aM]

    HOT 8 BRASS BAND – Sexual Healing – Live! でスタート。Marvin Gaye の Sexual Healing をカバー。黒人ブラスバンドのライヴ行ってみたいなぁ。

    第三十候、半夏生。夏至から数えて11日目をさす。かつて田植えは半夏生までに済ませるものだったとのこと。なぜ11日目かまで調べていない。旬は蛸。好物。ぶつ切りにして食したり、ジャガイモといっしょに炒めたりも。美味い蛸を生で食べてみたい、豪快に。

    紫陽花は来年の準備に入っていそう。色艶は失われつつ、美しさは変わらない。立ち止まって見る。見た記憶がない紫陽花に出会ったらとても嬉しい。近所の蓮を見に行けていない、さぼり。見ておかないと。Instagram をやってよかったのは花。たくさんの種類の花を見られる。みなさん、花の名前をよくご存じで羨ましい。

    椿

    自己の価値を確認するために他者を貶める。その行為を看過できない。貶めるつもりはないはず。見る角度を変えたら無邪気なんだ。他人から認められたい気持ちを自覚していない。自覚していないから故意でもないし意図していない。

    看過できない。踏み込む。許さない、しか選べない。許す/許さない、は私の設定条件。私が許さなくても外部の物事は流れる。物事は私の分別の限界を知らせてくれる。分別の限度は、私の対話と交渉能力の座標軸を示す。

    与えた側は忘れても、受けた側はいつまでも覚えている。これもまた他者の行為が教えてくれるひとつ。

    私もそういう行動を選択しているんだ。想像して立ちすくむ。他者の行為を反転させて我が身に置き換える。たとえそうであっても、私は私、他人は他人、と冷淡に構えて見逃さない。

    言葉は言葉それ自体に意味を持たない。行動が意味を象る。辞書は意味を収めている。辞書に記載された文章は記号の解説だと思っている。

    言葉を発した人々の行動を目にしたとき、私は言葉の<意味>を認識する。言葉と行動がちぐはぐに映る。あってもおかしくない。ちぐはぐは否定の調子を含む。なぜなら私の解釈にそぐわない行動だから。私の意に合致した行動が<意味>なんだ。意にそぐわなければ、行動変化を強要する。

    外側の世界のイメージは私の内側で構成される。

    構成されたイメージを留めておく。行動が象った言葉の<意味>を補正する。はじめの行動を目にした際に解釈した<意味>が変わる。私の心象は、否定の調子をちぐはぐから取りのぞく。

    記号の意味と言葉の<意味>の平仄を合わせる。合わせる作業が自省、たぶん。

    単語を口にする。ふだん何気なく使っている単語に違和感はない。疑問はない。辞書の意味を知っている。「気の置けない」「確信犯」など、時と世代が変えてきた単語。正しい用法ではなく時勢に合わせて使う。まだ誤用であっても辞書は解説をいずれ追加する。

    ふだん何気なく使い続ける単語に隠れて、使えなくなった単語がある。

    突然使えなくなる単語。外部の刺激を契機にして、その単語に疑問を持つ。単語の解説を調べる。解説から根源を知りたくなって学ぶ。学び始める。

    学びは単語を言葉へ教え導く。行動が象る言葉の<意味>を咀嚼できるまで、その単語を使えない。ためらう。

    単語から言葉に変化したとき、私の持ち駒は減る。言葉を前にした恐怖心。恐怖は言葉を慎重に取り扱う。言葉の取扱説明書は自分で作るしかない。

    他者に投擲した言葉は、自らの元へ返ってくる。

    いますぐ返ってこないかもしれない。時間はずれる。数日、数週間、数ヶ月後、ひょっとしたら数年後。いつか返ってくる。

    言葉として返ってくる。もしくは投擲した言葉は行動を誘発して事物となって返却される。その事物が私に危機をもたらす。

    学べば減り選ぶ。選ぶために多様は必要なんだ。

  • 方法の修正と主観性の内省の繰り返し

    2013.06.13 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Jxydw8axZD4]

    奇妙礼太郎トラベルスイング楽団 – 君が誰かの彼女になりくさっても でスタート。今週の土曜日、ライヴ。関大って入試の時以来。楽しみを通り越して何でかこっちが緊張している有様。もう一曲目からからだが震えるのわかってるからね。

    朝、WAN側へ接続できなくなった。ルータとモデムを再起動させても不通。ルータのPPPoEにまかせて放置していたら小一時間後に接続できた。速度がどうもおかしい。

    夕方、再起動した。接続不能状態に陥った。完全に不通。まいった。インターネットへ接続できる回線はスマフォ(データ通信専用)だけになった。

    原因を解明しようにもスマフォで調べなければならない。テザリングに切り替えようとして、7GBの制限が頭によぎったので躊躇。

    固定のブロードバンド回線が接続不能になった世界。焦燥にかられて原因を調査。モルトを一杯あおる。落ち着けと。

    自分の気持ちの状態をなるべく「遠く」から眺めるチャンスと視点のチャネルを切り替える。

    スマートフォンに最適化されたサイトが増えていく中で、「見やすさ」はよくなった。一方で「見たくなる」サイトはこれからだ。PCサイトの情報量を減らしただけのサイトが多い。見栄えを整えただけのサイト。

    たとえば申込フォーム。バックアップ用にISPを申し込もうとしたら、スマートフォン用サイトに申し込むフォームを見つけられない。何度も上下にスクロールして、(画像かリンクか判別しにくい)リンクをクリックしてみても見つけられなかった。PCサイトに切り替えて発見した。

    スマートフォンでのサイト閲覧は疲れる。慣れてないからだ。一度で閲覧できる時間の限度は10 – 15分ぐらいだった。慣れれば閲覧時間は伸びるだろう。

    さらにスクロールしやすいから、PCよりも斜め読み、拾い読みする。PCよりも画像に目がいきやすい。

    「そういったコトを感じている」自分を感じながら、原因を調べ続けた。結局、わからずじまいであきらめた。

    びわ湖大津館

    先日、購入した “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 を読み始めた。半分ほど読む。平明に語ってくださっていてありがたい。モラルと脳の相関関係。心理学や行動遺伝学の紹介など。専門的?!な単語や記述は少ない。あってもわからないから気にとめない。

    SFの感覚で読んでいる。楽しむと言ったら語弊があるけれど、いずれのテーマも入口は広く奥行きは果てしなくありそう。22世紀には信頼を高め合うホルモン注射治療が確立されているのかしら、と想像したり。それらの治療が実施されるとしたら、「五つの倫理基準」に照らし合わせて脳はどう処理するの、やら疑問はぷぅっと膨らむ。

    人が合理的な行動を選択しない点や生得的な性格などの記述を読み、脳と遺伝子と倫理の相関関係について関心がより深まった。だからといって「人は生まれながらにして」ではなく、生まれてからの(教育)環境によって形成されていく点も理解できる。

    筆者がおっしゃる「科学と哲学を分離した後遺症」に対する不自然さ、「哲学者は実証科学の方法をもっと知るべきだし、科学者は主観性を真面目に扱うべきだ」(同P.9)に同感。

    実証科学の方法が私の身体の不調を解明し、主観性は身体の不調について抱く感情と向き合う、と思う。

    科学と哲学、あるいは科学か哲学か、の論点に私の関心は薄い。視線は「自分」へ向かっている。私が持つ「自分の謎」について、筆者が指摘されている実証科学の方法と主観性からアプローチしたい。方法がでたらめなら修正して、主観性が偽りなら素直に向き合えるように自問自答する。

    方法の修正と自問自答の繰り返し。

    追伸

    いま(06/14)、この日記をMacから書いてアップするので、解決できた。正確にはしてもらった。NTTの方が修理と交換の二つを作業完了。丁寧でわかりやすく説明してくださり、付加情報を教えてもらって助かった。

  • 眼と笑顔

    眼と笑顔

    2013.06.01 晴れ

    [youtube:http://youtu.be/mW1uRZtc5TU]

    PUSHIM – a song dedicated でスタート。巻く?! というか米語みたいな発音の歌い方って苦手なんだけど、これはまったく別物。歌詞と歌、両方が大好き。「君一人、この僕は 安らぎさえも手渡せないけど 力の限り この場所で 歌い続け 君に届け」の気持ち、ってあるよね。自分は言葉しか出力できない。その言葉ですら拙い。でも、辛くなったときはいつでも書いておいでよ、こっちもなんとか言葉にするから。どんな内容でも目にするのは嬉しいから、って気持ちへのアンサーソング。

    第二十四候、麦秋至。「秋」を使う表現の深さ。深いけれど、実物の風景を目にしてこそ、その深さに感情の液体が注ぎ込まれる。そうでないかぎり、その深さは空っぽであり言葉の観念で言い表しているしかない。気をつけないと。

    旬のさかなは蝦蛄とのこと。日生で一度食べてみたい。美味しいらしい。蝦蛄の寿司が好物である。日生では牡蠣も食べてみたい。青春18きっぷで行かなくちゃって思い続けて数年経過。だめなんだよ、思い続けても。重い腰をあげて行かなくては。生き急ぐぐらいでちょうどよいんだ。何がおこるかわからないんだから。

    shadow
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    先日、中川敬さんのミニライブ(@三井寺観月舞台)で、眼と笑顔の力を体感した。主観以外なにものでもないんだけど、「眼と笑顔」の二つなんだね、人間を基底する要素って。

    眼を見た時、怖かった。久しぶりに身震いした。でも、その怖さは人を刺すものではなく、いろんなコトを経験した人の底知れない深みみたいなものを表現する優しい怖さ。

    「目が笑っていない」というのに二つあるんじゃないかって近ごろ感じる。ひとつは、ニヒリズムの笑み。冷笑したら自分が嫌われると自覚している人がひた隠しにして笑う。眼の運動量はゼロの笑み。

    もうひとつは、露わにできるすべての感情を混ぜ合わせた、優しさと悲しみと尊さが絶妙な均衡を保っている笑み。眼の運動量は最大なんだけど、感性が乏しい私には笑っていないように見える笑み。諦観に近づきつつある笑み。

    中川さんが舞台で笑ったとき、とてもとても羨ましかった。こんな素敵な笑顔のできる人間になりたいって心底感じた。どうやったらあんな笑顔になれるのか。体験と経験? 感情の爆発? 想像力?

    体重計にのったら、54.2kg, 8.9%。たぶん嘘だろう。そんな感じがしないでもない身体。なにもしていないのに痩せていくというのは、自分のなかの何かを削り落としている。それが必要なものでないことを願う。

  • 素直に営む

    2013.04.27 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。前夜のライブの余韻が残ったまま、手に入れた HOLE IN ONE を iPod へほりこんで、リピートリピート、リピート。もう、追いかけますよ、これからずっとずっとずっと。サイコー!!!!!

    前夜、奇妙礼太郎くんのライブへ行った。SNSで知り合った方から教えてもらい、YouTubeで視聴して、一瞬で鳥肌が立ってざわざわしてそわそわして、CD買って、また視聴して、何度も聴いて、歌詞を熟読して、列車のお供に連れて、部屋でまったり聴いて、の生活があって、ライブへ行きたいと思っていたら、弾語TOUR 大阪追加公演してくれたので、行ってきた。

    はじめての生声を聴いて震えた。Twitterのほうでもさえずったけど、ライブで泣くことってあると思う。涙は、好きな人や辛いこと、楽しかったこと、いまの想いや、あのときの思いとか、いろんな ‘何か’ とリンクしている。その何かは人の数だけある。

    はじめて知った。ただこぼれる涙を。喜怒哀楽ではない、眼瞼からこぼれる涙。その涙を表現する語彙をまだ僕は持ち合わせていなくて、これから奇妙くんのライブで探していくことになる。そう思えるだけでざわざわして、唯一無二の声に集中しようとしたら、あの苦しそうな、喜んでいそうな、軽やかな、激しくて、優しい、躍動感にあふれる口に集中できなくて、口に集中したら、歌詞に没頭できない、歌詞に傾けたら、あの指を見られない、首筋にも目をむけないといけないのに、全身へのめり込まないといけないのに、ってもどかしさが募る。

    ほんとに行ってよかった。教えてくれた人にTwitterでお礼を述べた。∞のありがとう。

    ユキヤナギ

    11:00前に出発して神戸へ。院内LANの設定。前回は失敗したのでやや緊張モード。失敗の原因は判明している。ただしこちら側で解決できないので、ハードウェアを管理している業者さんへ設定の変更を依頼した。こういうパターンの仕事は苦手。原因は判明していても、解決手段はこちらない。もし、私の依頼した内容が正確に伝達できていなければ、院内LANの接続は失敗する可能性が高い。

    心音高鳴るなか、13:00から設定をはじめて、15:00前の終了。1点だけ解決できなかった。私にはどうしようもない問題だったけど、先生はその問題解決をもっとも強く望んでいらっしゃったのでマイッタ。どれだけもがいても、こちらで解決できる事案ではないので、私から業者さんへ依頼することで了承を得た。

    子供の頃から人への好き嫌いがありすぎて、親から注意されて、先生からも諭されたけど、やっぱりいまだにありすぎる。ほぼ直感で好き嫌いを仕分けしていて、嫌いは瞬間って感じの嫌いだし、大体、はじめてに近い状態で、あっ、ダメだみたいに感じる。ようやく露骨に顔に出さないようになってきたと自分では思っているけれど、端から見たら酷いかもしれない。

    ところが自分でも驚いたことに、徐々に嫌いになるってあるらしい。たぶんこれまでもあったのかもしれない。知覚できていなかっただけもしれないけれど、いまはあきらかに認識できている。

    自分のなかで発生したこの認知の過程を自分で分析できないけれど、自分にとっては好機であり、できるだけその時々に脳裏によぎった言葉や気持ちを備忘するようにしている。

    SNS界隈は、大人って…..についてあれこれ綴られていて、みんなそれぞれの悩みや思いや、苛立ちや不安や期待や、願望がある。100年ぐらい前の41歳は、ひょっとしたら隠居しているかもしれないし、いまの自分のように未熟ではなかっただろう。数年前は未熟や成熟、大人って…..ってみたいなことも患っていたが、いまはだんだんなくなってきた。よいのかどうかわからない。それよりも「素直」についてもっと探究してみたいし、もっと素直に営んでいきたい。

  • 同じ「コト」から差異は生まれる

    2013.04.10 晴れ

    [youtube:http://youtu.be/bG8PTN9MAMg]

    MONGOL800 with SOFFet – ひとりじゃない でスタート。語感とリズムがやわらかく、歌詞はキュンキュン刺さってくる。これ、恋愛じゃなくても、いろんな対象があるんだと思う。ほんと、歌をつくるってすごい。

    ネットで話題になっていた 2013年度入学式 諏訪学長による式辞 を読んだ。うわぁ、これだ!!って感じだ。自分の語彙は少なすぎる。こんなふうに「経験」について語れたら羨ましい。いつも自分の頭の悪さを呪う。こればっかりはどうしようもない。脳みそをこねくり回しても明日からすぐになめらかに思うがままに話せるわけない。頭の悪い自分と気長に付き合っていくしかない。

    私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。

    「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。

    「経験という牢屋」を恐れている。「仕事の作法」が機能している状況に満足する。仕事の作法を培ってきた能力と履き違える。勘違いは傲慢を言動に宿して端々に現れる。

    同じ作業を繰り返す、毎日。とても大切だ。同じ繰り返しから小さな変則を見つけられる。微少の変化。想像すれば、毎日、同じものを食べたら、その日の体調によって味が変わるんじゃないかな。

    同じ「コト」を私に合わせない。私から同じ「コト」に合わせていく。

    同じ「コト」をこなしていても、精度と基準が曖昧ならば、「コト」がおかしいのか、自分が不安定か判別しにくい。料理すればわかる。難しい。レシピが揃っているのに、行程の狂いが、結果の差異を生む。

    苦しみ悩みながら料理家がつぶやいていた。同じ味に料理できるようになっても、今度はレシピを作成するのが難しい、と。各家庭によって使っている器具や火力などが自分の環境と違うから、何に照準を合わせてレシピを作成しようか難しいらしい。

    皇子山公園

    同じ「コト」の繰り返しは難しい。なのに、同じ「コト」に近い状態で安心して「コト」を丁寧に扱わなくなる。「経験の牢屋」に入り、仕事の作法のようなものが有効に機能しているシステムに安住する。

    ほんとは同じ「コト」ではないんだけど、同じ「コト」をこなせているように自分を錯覚させて納得してしまう。微細な変化、微妙な進化、微少の劣化を捉えられない。

    クリエイタは十人十色のリズムを営んでいる。興味深い点がある。十人十色のなかには、規則正しい生活と習慣化されたタスクが創造をもたらす、と指摘する人たちがいる。

    何もできなくても特定の時間帯に毎日3時間座るや、午前中の数時間だけ執筆するとか、就寝と起床の時間が一定しているなど、生活と習慣にまつわるエピソードが多い。

    靴磨きが好きになった。いつからかまったく覚えていない。靴を磨いていると落ち着く。行程が安定しない。どうすれば靴がきれいになるか試行錯誤の連続。あーでもないこーでもないの独り言。コロニルの量や磨き方、磨く手順。手の力の入れ方。まず「同じ」にしていくそのものがわからない。毎回、発見がありとても楽しい。

    同じ「コト」というテーマについて誰かと話すだけでも、思いがけない内容へ発展するのでは?

  • ひとり二人山人余人誤認

    2013.04.02 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6BBJ0m9Bllo]

    今朝は Quasimode – All is One でスタート。音を聴きたいときは、Quasimode . incognito, 東京スカパラダイスオーケストラやら、その他もろもろ系を流します。特に sax があればご機嫌で、あとはカラダをスイングすればパーフェクト。歌詞を耳にいれたら音と混濁して記憶が結合して過去へ遡り、アンニュイな感情を誘発しかねないと察知したら音だけのワールドへ没入。

    ひとりで仕事するようになって10年目を迎え、厳しい状況は続き、常に終わりを想定しながらやっている。自覚した変化は、孤独について。かつて孤独に対するイメージは芳しくなかった。否定的、マイナス、悪い、そんなふうなイメージを持っていた。

    変わった。

    転じて、肯定的、プラス、良いなどのイメージを持ったわけではない。孤独、それ自体を受容できるようになってきた。さらに没入したい欲望も抱き始めている。

    孤独を外から眺めていたからイメージを描けた。いまは孤独の円のなかにいる(つもり)。外側から眺めるイメージを描けない。内側からならどうだと言われたら、それもうまく描けない。孤独に対してイメージよりも実体を捉えるフェーズに差し掛かっている。イメージよりも具体的に記述したい。

    孤独は大切な要素。

    日常がひとりであり、誰とも話さず過ごせるような環境を設定できたらありがたい。他者の存在を強く感じられる。存在を強く感じられたらウェットな関係よりもさらりとしたリンクのほうが、他者への敬意を忘れなくなる。心地よい緊張感を持てる。依存しなくなる。

    一方で寂寥感が一定の周期で訪れる。得たいの知れない感覚、言葉が頭を支配しているのか、気持ちが体を蝕んだか、わからないけれど、へんな感触がつきまとう。

    最初は寂寥感との付き合い方がわからず戸惑った。いまも戸惑うが、以前よりは制御できているはず。

    ひとりを体感したら誰かに依存しない。ひとりは私だけではない。依存の対象である他者にもある。他者も抱くかもしれない孤独を想像できたら依存できない。己の欲求のままに距離感を長く短くさせるようなウェットなリンクは、ひとりを体感していないからこなせる。

    ひとり=孤独、ではない。たまたま運よくひとりでやってきたから孤独に埋没しやすかっただけであり、チームや組織に所属すれば、今と異なった孤独を模索していくと思う。そこにはいまよりも困難なコトが待っていると想像する。

    近江神宮

    ひとりでもチームでも、誰かの忠告はとても嬉しい。歳を重ねればただでさえ指摘してもらえる機会が少なくなる。自分で判断しなければならない。そう承知していても、これでよいかと迷う。

    孤独と向き合うようになって視座の位置は以前の場所にない。斜に構えなくなる。なるべく素直に物事を述べる。素直は十人十色であり、素直が衝突のもとにもなる。素直は奢りの種子でもある。

    孤独は傍若無人から最大の距離を置いて自律したいから、できるだけ複数の視点を求める。視点を求める過程で自家撞着して我を見失う。我を見失い、判断力が低下して、事実と意見を峻別できなくなる。挙動不審を繰り返す。どれぐらいの期間かはその時々による。その期間を経て、我を把持できたら、我と他の境界線が引き直され、我と他がだんだんどうでもよくなる。

    たぶん、その「どうでもよい」状態が、理想的な孤独なんだろうと、いまは想像している。他者から何を思われているか一切気にせず、我がどう思うかも繕わず、「いま」を淡々と営む状態なのかなと。

  • 感情が傍若無人を隠す

    2013.03.07 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=lCnJujje-pM

    今朝は The Miceteeth – 素晴らしい日々 でスタート。なんかね、懐かしい。SKAのリズムと声が。「素晴らしい日々」だと錯覚できるのは自分だけ。生きていく上で、錯覚して勘違いして妄想するってとてもとても大切です。私は、それしかないぐらい、錯覚の精度を向上させることに腐心しています。

    もうすぐ二年。報道のボリュームが関西でもやや増えている。きっかけがあって生の声にふられるようになってから、関西から報じられる内容にしっくりこない。表層しかフォーカスできないのでしょうがないな。生活の声は生々しく、苦しく、茫々としていると想像する。

    あの日の数日後から夕食の前に手を合わせるようになった。それも習慣になったと油断したら、うっかり二日連続で忘れる。そんなとき、自分に苛立つ。

    デバイスからプッシュされてくる二次元の映像と音声の情報は感情を刺激する。だが、プッシュの情報が途切れたら、翌日から自分の生活が始まる。プッシュされた情報はストックされず流される。そのとおり。頷いた。だから自分を律しなければならない。忘れるなんてありえないし、自分がやれることを探して動き出す。

    デバイスの上で眺める二次元の映像と音声か、テキストの情報に麻痺している。麻痺を知覚できない。麻痺したまま情報にアクセスする。情報を理解できたら我の中でのコトはおしまい。はじまってもいないし、おわってもいないのに。事象のそのものではなく、事象をパッケージしている情報に喜び落ち込む。

    琵琶湖

    12:00前に大阪へ出発。やっぱり頭が痛い。この時期から1ヶ月ほど頭痛が続く。数年前から毎年。億劫。ずっと続くかと思えば、途切れ途切れもある。ひどくない。重い。ときおりぼんやりしたり。

    大阪に到着したら環状線が止まっていた。何かあったらしい。最近、JRの遅延に遭遇する機会が増えた。確率と統計を分析する知能があれば、たまたまにすぎないのに、遅延が重なると、増えたと勝手に思い込む。そういうものだなっていつも自分の頭の悪さを認識する。

    13:40からDHだけのミーティング。事前に準備していることをかならずできるとはかぎらない。その場がもたらす偶然性が、やらなければならないことを変えてしまう。

    職務と職域がある。二つが構成する円の中に私は働いている。他者は別の円にいる。私の円と他者の円、二つの円は交わる。完璧に一致しない。交わっている部分と交わっていない部分がある。「交わっている部分」だけが協働だと思い込んでしまう。交わっていない部分が「見えない」からだ。

    総務の業務を把握して自分の仕事を全体のタスクフローにはめ込む。全体の業務ができるだけ遅滞なく進行するよう自身の職務と職域を調整する。全体と個だと思う。が、そんな理屈は通らない。自身の職務と職域を優先する。なかには自分の職域と職務だけで働く傍若無人もいる。傍若無人が一定の割合で必要な場合も否定できない。

    何をやっているかわからない。もし、「そんなわけない」と思ったら、そういう全知全能の類い希な能力を備えた人はいるんだろう。何が交わっていないか、「話し言葉」で考えるよりも、話し言葉を「絵」に変換して翻訳すると、一目瞭然である。そのとき、なぜ交わっていないか、が認識できて、そこから「問題」を設定できる。

    外部から観察する。疑問点を伝達する。遠慮せず率直に疑問点を提示し、「組織の感情」が隠している「コト」を描写する。これが僕の役割と認識している。

  • 言葉をちょっとだけ減らそう

    2012.03.03 曇時々晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=fZpv9gMuPBY]

    今朝は 笹川美和 – 天邪鬼 でスタート。「素直じゃないあたし 素直すぎるあなた 恋だの愛だの 言われたとたん こわくなるの」からはじまる言葉の断片といくつもの音が、思考の断片とつなぎあわさって、思いか想いなのか、身体か体なのか、わからないようなワサワサ、ザワザワ、モソモソゆれうごく。揺さぶられる歌を持てる倖せ。

    文体が身体を通り抜けていったあと、外の風景が変わった。

    ふだんの生活で使っている平易な単語をパズルのピースのように組み合わせる。そんな文体がある。難しい単語はなにひとつ使われていない。シンクロするリズム、軽やかなテンポ。平易な単語が描いた一枚の絵は、平凡であるかと思いきや、僕の中で、見落としていた、聞き逃していた、嗅げなかった、コトが、単語と単語がリンクして声と映像を生成する。身体はソワソワしはじめる。

    文体が描いた情景を感じたあと、外へ出かけたら、変わっていた。口にするもの、噛む音、食感、琵琶湖の匂い、泣き声、喧騒、すべての情報を入力したくて仕方がないのに、見たいモノしか見ない、聞きたい音しか聞こえない、匂いのもとがわからない、もどかしい。

    ずいぶんまえに Instagram で「恋は無線、愛は有線」と書いてポストした。浮かんだフレーズ。最近、列車の移動や歩いている最中、手を止めたときなどに、断片的な単語がつながって浮かび上がってくる。

    「恋愛」の表記はいつからだろう? 専門家は、脳や化学物質、ホルモンや遺伝子などの方面から恋愛を研究している。おもしろい。関連書籍を読む。人間は古来の本能を抑制しているようで制御できていないのかも。

    来世紀の恋愛を空想できない。ひょっとして恋愛と結婚(なんて制度が残っていないよな…..)が完璧に切り離されていそうで。遺伝子検査の結果を持ち寄った人工知能による仮想お見合いがあったても違和感ない。

    階段

    言葉は大切である一方で、強く寄りかかってしまうと、言葉で問題を生み出して、言葉で迷って、言葉に沈み込み、言葉で解決してしまいかねない。

    強く思う。

    語彙や文法、単語や五感を養いたい。言葉から距離を置きたいから。身体を手入れして丁寧に動かし、感じられる器官を育みたい。身体の直感を最適な言葉に変換したいだけ。変換の道具として言葉を涵養したい。

    最近、神戸で Apple社の製品だけで院内LANを再構築した。院内のミーティングと患者さんへのプレゼンに使うツールとしてLANを利用したいとの意向だった。Apple だから良いとかはない。LANを構築して、「道具」であると同時に「相手の理解と納得を得るための描写」について再考できた。

    道具が現場の環境を変容させる。映像よりも言葉の比率が少し高かった現場は、最適化されていく。映像と言葉の比率の最適化。さらにiPad は、二人の距離感を測り直す。「向き合う」をデザインしている。大画面のディスプレイは、「理解」と「納得」を促し、上手な描写であれば、「関心」を誘発する。

    「恋愛」のなかにもツールがあたりまえのようにまぎれこみ、いつのまにかツールが「恋愛」に影響を与えている。

    自身を含めて周りを見渡せば、言葉が多い。少しだけ減らそう。どうやって言い表せばよいかわからないもどかしさを頭で感じるより全身で悶えるぐらいが、いい。