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  • 時間をかけなければ本物は見えてこない

    2013.08.28 晴れ

    くるり – ワールズエンド・スーパーノヴァ でスタート。これ、ギターが好きなんだけど、なんて言うだろ? カッティング? こういうギターのリズム、”お気に入り”って書き殴ってまるっと円で囲みます。冒頭の歌詞がくるりぐるり私を締め付ける。「いつだって僕らは誰にも邪魔されず 本当のあなたを本当の言葉を知りたいんです 迷ってるふりして」なんだ。「ら」なんだね、そうなんだ。新鮮。

    第四十一候、天地始粛。秋雨前線が登場する時季へと。空の模様が変わり、空を見上げる人は秋をよりはやく見つけ、自分なりの秋を感じ、昼間は処暑と朝夕は秋のスイッチバックで秋の頂へ登っていく。

    旬の魚は鯣烏賊とのこと。子供の時に烏賊を食べてひどい蕁麻疹になってからずっと食べられず、爾来、避けてきた成人のある日、先輩に誘われて行った小料理屋でおそるおそる箸をのばして口へ運び、なるべく噛まずに飲み込んで、翌日、胸部と腹部を確かめたら、烏賊を飲み込んだツルっとした食感が実感に変わった。大袈裟な記憶なんだが、妙に嬉しかった。それからは好物のひとつ。

    日曜美術館 影絵作家・藤城清治 89歳の“風の又三郎” を見る(参照)。驚きっぱなし、圧倒されっぱなし。89歳のいまになってようやく『風の又三郎』(宮沢賢治)に取り組めるとおっしゃっていた。これまで宮沢賢治の作品を影絵にしてきたが、これだけはできなかったと。10年前では無理だとおっしゃった! 今だからこそだと。

    作品への想いだろうか、畏怖か。わからない。藤城清治さんの一言一句は、材料をためらいもなくカッタでザクザク削って影絵を制作するのと等しく一発勝負のかけがえのない重さを表していた。

    全てのもの 自然の美しさにも言えるだろう。目に見えるものだけでなく 奥にある 目に見えないものまで描いてこそ本物と言える。本物の美しさは 奥に隠れていて簡単には見えない。時間をかけなければ本物は見えてこない。

    藤城清治さんの言葉

    全てのもの、人にもあてはまるだろうか? 伺ってみたい。強烈な衝動。

    本物は絶対唯一だろうか。本物はそれぞれの人の中に存在するだろうか? たとえ周りは本物にあらずと判じても私だけの本物はあるだろうか? 普遍的なものなのか? もう連想がとまらない。おかげで問いの食欲が旺盛になった。

    もし、絶対唯一の本物ではなく、私が本物と感じる? 受けとめる? 考える? …..etc があるならば、今際の時空までリンクした人がそうなのか。男女関係なく、いかなる属性も取り払い、リンクしていた人。時間をかけなければ本物は見えてこない。

    小道 光と影

    大阪へ。夏休みはお仕舞いだよぉな列車内の朝。

    院内資料の最終仕上げ。スタッフの方から後輩の指導について質問を受けた。先輩になっていく過程で後輩を適切に認識していらっしゃる方は、踏み入れる領域なんだろう(憶測でしかないけれど)。先輩が後輩の所作に悩む。

    「学問には王道しかない」(“喜嶋先生の静かな世界 (100周年書き下ろし)” 森 博嗣 大好きな一冊)の言葉を剽窃する。「育てることには王道しかない」と私は思う。”育てる”の中に見下すニュアンスはまったく含まれていない。育てることは自らも育つこと。院内のみなさんを外から観察して、そう受けとめている。

    人は己の”時間軸”をショートカットして他者を見る。私でいえば社会人になって17年。「すでにできている」の眺望点から若い方々の「できないこと」を見る。ショートカットはとても危険だ。

    「できている」視点から「できない」行為を観察したら、「意味不明」にしか映らない。相手がちぐはぐな動きをしていると判断する。判断の基準をいったん捨象して、ちぐはぐの動きをゼロベースで検証する。

    古典を読むとき、当時から現代までの「時間」をいったん括弧に括って、当時(だけ)の世界を立脚して没入する行為が想像力じゃないかな。

    すこし腐っていたところへ教えてもらったアーティスト。ある曲の歌詞にガツン。すべて言いたいことだった。こんなにもこんなにも表している歌詞に出会うとは!

    おだやかに眠れた。

  • 届けたい方々にだけ届けて満ち足りる気概

    届けたい方々にだけ届けて満ち足りる気概

    2013.07.17 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9NLuM0xhIBc]

    naomi & goro – Beautiful Love でスタート。naomi & goro は仕事しながらのアルバム。CAFE BLEU SOLID BOND もよいけれど、BON BON や Presente De Natal を流して、Julie & Khari へ横道それて、FreeTEMPO へ吸い込まれるパターンとか。

    第三十三候、鷹乃学習。旬の野菜はレタス。語源はラテン語で乳を意味する由。和名はチシャ、乳草からきている。先人の連想と趣致。

    貰った珈琲豆をミルへ。カラカラと乾いた音。ワタシノイズが静謐へ闖入。ミルの音が好き。この先使い続けられるミルを吟味しよう。

    中粗挽きに姿を変えた豆、コーヒープレスへ。微量のお湯と混じり合う、ジュッ。30 – 60秒蒸らす。それからゆっくり注ぐ。鼻腔の覚醒。4分の沈思黙考。プレスしてタンブラへお引っ越し。微細の粉がいっしょに越してくる。飲めばかすかなざらり。

    YouTubeと珈琲。リンクする質感。美味、滋味。珈琲豆って、味覚の位置が座標軸でアイコン化されるぐらい種類はある。なのに好みも好み、吃驚。ありがとうございます。

    flower
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    RTからお気に入りに登録した言葉。なんのための登録か。情けなかった。

    聴く。話すより聴きたい。何時のころからかそうなった。だけど面を合わせないと戸惑う。眼や頬、口元の伸縮、指先の浮遊、身体の微動が見えないから。仕草という言葉も聴きたい。それができないとき、視覚に依存しない術を身につけないと。

    己を誇示したい欲求を抑制しないで時機を憚らず発する。ずいぶん昔にバイバイしたつもりのふるまいは、まだ心身に根をびっしりはっていた。なかなか剥がせない。嫌悪に陥れば昔と同じ。認めて漸進する。

    言葉の世紀。22,3世紀が21世紀を検索したら、なんて言葉の少ない時代かしらと驚愕しても、言葉が爆発的に生成されている実感。

    そんななかで言葉を削る。そう感じる。届けたい方々にだけ届けて満ち足りる。そうありたい、気概。

    「いくら筆が達者でもものを見たいという気持ちとか追求していこうという目がないとこういうふうにならない」と松井冬子さんは評した。18歳の川合玉堂が写生した鷹をじっと見つめて。

    言葉、も似ているよ。無駄を残して余計を削ぎ落とす。届ける気持ち、見つづける目。

  • 学べば減り選ぶ

    2013.07.03 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=pXcad_Qx7aM]

    HOT 8 BRASS BAND – Sexual Healing – Live! でスタート。Marvin Gaye の Sexual Healing をカバー。黒人ブラスバンドのライヴ行ってみたいなぁ。

    第三十候、半夏生。夏至から数えて11日目をさす。かつて田植えは半夏生までに済ませるものだったとのこと。なぜ11日目かまで調べていない。旬は蛸。好物。ぶつ切りにして食したり、ジャガイモといっしょに炒めたりも。美味い蛸を生で食べてみたい、豪快に。

    紫陽花は来年の準備に入っていそう。色艶は失われつつ、美しさは変わらない。立ち止まって見る。見た記憶がない紫陽花に出会ったらとても嬉しい。近所の蓮を見に行けていない、さぼり。見ておかないと。Instagram をやってよかったのは花。たくさんの種類の花を見られる。みなさん、花の名前をよくご存じで羨ましい。

    椿

    自己の価値を確認するために他者を貶める。その行為を看過できない。貶めるつもりはないはず。見る角度を変えたら無邪気なんだ。他人から認められたい気持ちを自覚していない。自覚していないから故意でもないし意図していない。

    看過できない。踏み込む。許さない、しか選べない。許す/許さない、は私の設定条件。私が許さなくても外部の物事は流れる。物事は私の分別の限界を知らせてくれる。分別の限度は、私の対話と交渉能力の座標軸を示す。

    与えた側は忘れても、受けた側はいつまでも覚えている。これもまた他者の行為が教えてくれるひとつ。

    私もそういう行動を選択しているんだ。想像して立ちすくむ。他者の行為を反転させて我が身に置き換える。たとえそうであっても、私は私、他人は他人、と冷淡に構えて見逃さない。

    言葉は言葉それ自体に意味を持たない。行動が意味を象る。辞書は意味を収めている。辞書に記載された文章は記号の解説だと思っている。

    言葉を発した人々の行動を目にしたとき、私は言葉の<意味>を認識する。言葉と行動がちぐはぐに映る。あってもおかしくない。ちぐはぐは否定の調子を含む。なぜなら私の解釈にそぐわない行動だから。私の意に合致した行動が<意味>なんだ。意にそぐわなければ、行動変化を強要する。

    外側の世界のイメージは私の内側で構成される。

    構成されたイメージを留めておく。行動が象った言葉の<意味>を補正する。はじめの行動を目にした際に解釈した<意味>が変わる。私の心象は、否定の調子をちぐはぐから取りのぞく。

    記号の意味と言葉の<意味>の平仄を合わせる。合わせる作業が自省、たぶん。

    単語を口にする。ふだん何気なく使っている単語に違和感はない。疑問はない。辞書の意味を知っている。「気の置けない」「確信犯」など、時と世代が変えてきた単語。正しい用法ではなく時勢に合わせて使う。まだ誤用であっても辞書は解説をいずれ追加する。

    ふだん何気なく使い続ける単語に隠れて、使えなくなった単語がある。

    突然使えなくなる単語。外部の刺激を契機にして、その単語に疑問を持つ。単語の解説を調べる。解説から根源を知りたくなって学ぶ。学び始める。

    学びは単語を言葉へ教え導く。行動が象る言葉の<意味>を咀嚼できるまで、その単語を使えない。ためらう。

    単語から言葉に変化したとき、私の持ち駒は減る。言葉を前にした恐怖心。恐怖は言葉を慎重に取り扱う。言葉の取扱説明書は自分で作るしかない。

    他者に投擲した言葉は、自らの元へ返ってくる。

    いますぐ返ってこないかもしれない。時間はずれる。数日、数週間、数ヶ月後、ひょっとしたら数年後。いつか返ってくる。

    言葉として返ってくる。もしくは投擲した言葉は行動を誘発して事物となって返却される。その事物が私に危機をもたらす。

    学べば減り選ぶ。選ぶために多様は必要なんだ。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • 自立は折れる自律はたわむ

    2013.06.08 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=p1oC5NxzVdg]

    dorlis – 太陽のスキャットでスタート。音でウキウキ。楽しいような切ない気持ち? で歌詞を読む。音の中からすっと耳に入ってくる単語が心地よい。目一杯歌詞に耳を傾けず、耳がどの単語を拾うか楽しんでいる。

    麦秋至や芒種。麦を表現する時期、近江八幡での刈入れを読む。大阪では紫陽花を目にする。梅雨は本当か嘘かどちらでもかまわないのに雨露が乗っかった紫陽花がやっぱり紫陽花だと欲しがる。意識への刷り込み。

    営みのなかで人々は通り過ぎる。私も誰かの営みを通り過ぎる。通り過ぎる人の数は運と行動力に比例するが、立ち止まる人の滞在時間は運と命がけだろう。

    通り過ぎ立ち止まる。選んだ役割と委ねられた役割がある。前者を演じて後者をこばむ。反対の演技もある。両方とも演じられる才能を持つ人たちも。

    寝ている時をのぞいた時間。意識ある時間。演じるコトにはまりこみ、濃密な場所と演技がぴたりとあてはまる。演じているのかどうかわからなくなる。演技と「自分」のかすかなずれを感じて戸惑い、また場所へ向かう。場所からやすらぎの私空間へかえってきても演技の熱量はへらない。服を着たまま海へはいるみたいな違和感。

    我慢か鈍感か。ここで何度もふれている「ほんとう」への強い願い。ほんとう、への願いが演じるコトと自分のズレへ招待して舞台のほころびを指さす。

    ほんとう、への感覚を鈍くする。いつかたどりつくと我慢する。必ずあると信じて演技の質をさらに磨く。どの場所にいるときに演じて誰といるときに演じているかの組み合わせは果てしなくシャッフルされて、もうどうてもよくなったら「ほんとう」は扉の鍵をわたしてくれるはず。

    グリーンファンダジア

    不断はだらしない。そう受けとめられる。煮え切らない。そのとおりだ。だけどひるがえって、断定しているコトをひたむきに睨みあったら、自分への納得がふくまれているはず。自分を納得させたい理由を探すための断定。

    わからないおぼろげな薄い膜が自分を覆う。不安。不安はいらだちとつながり、いたたまれない。「わからない」という席から立つ。

    自分を覆う膜を取り払い、すっきりした世界をみたい。あるいは相手から煮え切らない私と断定されたくない。そんな衒いを少しずつ減らす、ためらいといっしょに。

    自立は強く、自律はしなやかだ。自立は促されて、自律は促されない。自立の強さを支える心は折れる。自律を支える心はたわむ。折れた心をつなぎあわせる確信はないが、たわんだ心をまたひらたくしていける豊かさは身につけたい。

    たわみをすっと押し返してひらたくしていく作業に手をそえてくれる人。ひとりいれば充分だ。とても贅沢だと承知している。その一人の滞在時間が私の価値。

  • 眼と笑顔

    眼と笑顔

    2013.06.01 晴れ

    [youtube:http://youtu.be/mW1uRZtc5TU]

    PUSHIM – a song dedicated でスタート。巻く?! というか米語みたいな発音の歌い方って苦手なんだけど、これはまったく別物。歌詞と歌、両方が大好き。「君一人、この僕は 安らぎさえも手渡せないけど 力の限り この場所で 歌い続け 君に届け」の気持ち、ってあるよね。自分は言葉しか出力できない。その言葉ですら拙い。でも、辛くなったときはいつでも書いておいでよ、こっちもなんとか言葉にするから。どんな内容でも目にするのは嬉しいから、って気持ちへのアンサーソング。

    第二十四候、麦秋至。「秋」を使う表現の深さ。深いけれど、実物の風景を目にしてこそ、その深さに感情の液体が注ぎ込まれる。そうでないかぎり、その深さは空っぽであり言葉の観念で言い表しているしかない。気をつけないと。

    旬のさかなは蝦蛄とのこと。日生で一度食べてみたい。美味しいらしい。蝦蛄の寿司が好物である。日生では牡蠣も食べてみたい。青春18きっぷで行かなくちゃって思い続けて数年経過。だめなんだよ、思い続けても。重い腰をあげて行かなくては。生き急ぐぐらいでちょうどよいんだ。何がおこるかわからないんだから。

    shadow
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    先日、中川敬さんのミニライブ(@三井寺観月舞台)で、眼と笑顔の力を体感した。主観以外なにものでもないんだけど、「眼と笑顔」の二つなんだね、人間を基底する要素って。

    眼を見た時、怖かった。久しぶりに身震いした。でも、その怖さは人を刺すものではなく、いろんなコトを経験した人の底知れない深みみたいなものを表現する優しい怖さ。

    「目が笑っていない」というのに二つあるんじゃないかって近ごろ感じる。ひとつは、ニヒリズムの笑み。冷笑したら自分が嫌われると自覚している人がひた隠しにして笑う。眼の運動量はゼロの笑み。

    もうひとつは、露わにできるすべての感情を混ぜ合わせた、優しさと悲しみと尊さが絶妙な均衡を保っている笑み。眼の運動量は最大なんだけど、感性が乏しい私には笑っていないように見える笑み。諦観に近づきつつある笑み。

    中川さんが舞台で笑ったとき、とてもとても羨ましかった。こんな素敵な笑顔のできる人間になりたいって心底感じた。どうやったらあんな笑顔になれるのか。体験と経験? 感情の爆発? 想像力?

    体重計にのったら、54.2kg, 8.9%。たぶん嘘だろう。そんな感じがしないでもない身体。なにもしていないのに痩せていくというのは、自分のなかの何かを削り落としている。それが必要なものでないことを願う。

  • 退化させて正常をとりもどす

    退化させて正常をとりもどす

    2013.05.24 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9VQdupv7GZA]

    同じ シャンゼリゼ はないそうで、ホント、そんな感じ。来月、楽しみだなぁ。関大前なんて受験以来。はやくこないかなぁ、とまだきてほしくないなぁ、が餅つきしている。

    『病の起源 プロローグ 人類進化700万年の宿命』によると、人類の顎は小さくなった。模型を見たら一目瞭然。植物や木の実などを食べていた生活から肉を食べ始めて「やわらかい食べ物」を獲得した進化。

    進化とひきかえに病のリスクを抱えた。プロローグでは、”腰痛” “アレルギー” “糖尿病” “睡眠時無呼吸症候群” を紹介していた。これからのシリーズでは脳卒中や心臓病、鬱病、癌が紹介されるとのこと。

    睡眠時無呼吸症候群。人類の顎は進化によって小さくなったが、舌のサイズは変わっていないらしい。小さくなった顎に舌を収めるために、気道の形態が変化した。舌と気道の位置、形態の変化が睡眠時無呼吸症候群という病のリスクを引き起こした。

    小学四年生の女の子が睡眠時無呼吸症候群を治療していた。顎の大きさを拡大させる矯正治療。矯正器具を装着して半年で6mm広がっていた。舌を収める空間を広げて睡眠時無呼吸症候群を治そうとしていた。

    言葉が印象的だった。

    「ある意味では部分的に退化させる治療、拡大治療は根治治療につながる」

    「現代人の顎をいわばホモ・サピエンスとして正常な状態へ近づける」

    Lake Biwa
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    専門家からの反論や参考情報、他の仮説も紹介してほしいと希望しつつも。限られた時間で「進化と病」と絞ったテーマであるならば、編集が直線的なのも頷ける。鵜呑みにしてはいけないでしょうね。

    それでも、人類の進化と進化にともなうリスクの表裏一体は興味深い。快適な環境を求めて公衆衛生が急速に改善されたたら、アレルギーという病のリスクを抱え、二足歩行と定住生活は腰痛と結びつき、好きなものを好きなだけ食べたい欲望は糖尿病をもたらしている。

    自分の感情が露わになることは正常な反応かもしれない。感情の中でも怒りはやはり気持ち悪い。私の場合、怒りの起点は苛立ち。他人をコントロールできない苛立ちが怒りを誘発する。ひとりで仕事して最も学んだ点は、怒りを捨てる。10年前は考えもしなかった。

    いままで「考える」を見つめてきたつもりだった。ある事柄について、「自分の考え」を考える。仮に隣人と同じ「自分の考え」に辿り着いたとしても、辿り着くまでの過程は異なる。異なるはずなのに同じ「過程」を辿った。先人の「過程」を読んで「自分の考え」のように誤解していた。

    いまは「自分の考え」というかたちある言葉の塊よりも「自分の考え」に至る「道筋」を意識している。意識しないで考える、という矛盾。教えてもらった言葉。歩いてない「みち」を探す。歩いていない「みち」はたぶんないだろう。あるとしたらよほど「個性的」な言動かと想像する。頼らなければならないときは素直に書架から知識を剽窃させてもらい、「道筋」はなるべく自分でつくっていきたい。

    その視座に立ったとき、人をコントールするなんて愚かな行為は捨てられたはずだ。捨てたはずの怒りの破片は残っていた。怒り、に没入した時点で他者は関係ない。あるのは自分との対峙。

    私がいなくてもコトはすべて最適化されていく。これが前提。この前提から周りへアクセスすれば、怒りは必要ない感情である。

  • 素直に営む

    2013.04.27 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。前夜のライブの余韻が残ったまま、手に入れた HOLE IN ONE を iPod へほりこんで、リピートリピート、リピート。もう、追いかけますよ、これからずっとずっとずっと。サイコー!!!!!

    前夜、奇妙礼太郎くんのライブへ行った。SNSで知り合った方から教えてもらい、YouTubeで視聴して、一瞬で鳥肌が立ってざわざわしてそわそわして、CD買って、また視聴して、何度も聴いて、歌詞を熟読して、列車のお供に連れて、部屋でまったり聴いて、の生活があって、ライブへ行きたいと思っていたら、弾語TOUR 大阪追加公演してくれたので、行ってきた。

    はじめての生声を聴いて震えた。Twitterのほうでもさえずったけど、ライブで泣くことってあると思う。涙は、好きな人や辛いこと、楽しかったこと、いまの想いや、あのときの思いとか、いろんな ‘何か’ とリンクしている。その何かは人の数だけある。

    はじめて知った。ただこぼれる涙を。喜怒哀楽ではない、眼瞼からこぼれる涙。その涙を表現する語彙をまだ僕は持ち合わせていなくて、これから奇妙くんのライブで探していくことになる。そう思えるだけでざわざわして、唯一無二の声に集中しようとしたら、あの苦しそうな、喜んでいそうな、軽やかな、激しくて、優しい、躍動感にあふれる口に集中できなくて、口に集中したら、歌詞に没頭できない、歌詞に傾けたら、あの指を見られない、首筋にも目をむけないといけないのに、全身へのめり込まないといけないのに、ってもどかしさが募る。

    ほんとに行ってよかった。教えてくれた人にTwitterでお礼を述べた。∞のありがとう。

    ユキヤナギ

    11:00前に出発して神戸へ。院内LANの設定。前回は失敗したのでやや緊張モード。失敗の原因は判明している。ただしこちら側で解決できないので、ハードウェアを管理している業者さんへ設定の変更を依頼した。こういうパターンの仕事は苦手。原因は判明していても、解決手段はこちらない。もし、私の依頼した内容が正確に伝達できていなければ、院内LANの接続は失敗する可能性が高い。

    心音高鳴るなか、13:00から設定をはじめて、15:00前の終了。1点だけ解決できなかった。私にはどうしようもない問題だったけど、先生はその問題解決をもっとも強く望んでいらっしゃったのでマイッタ。どれだけもがいても、こちらで解決できる事案ではないので、私から業者さんへ依頼することで了承を得た。

    子供の頃から人への好き嫌いがありすぎて、親から注意されて、先生からも諭されたけど、やっぱりいまだにありすぎる。ほぼ直感で好き嫌いを仕分けしていて、嫌いは瞬間って感じの嫌いだし、大体、はじめてに近い状態で、あっ、ダメだみたいに感じる。ようやく露骨に顔に出さないようになってきたと自分では思っているけれど、端から見たら酷いかもしれない。

    ところが自分でも驚いたことに、徐々に嫌いになるってあるらしい。たぶんこれまでもあったのかもしれない。知覚できていなかっただけもしれないけれど、いまはあきらかに認識できている。

    自分のなかで発生したこの認知の過程を自分で分析できないけれど、自分にとっては好機であり、できるだけその時々に脳裏によぎった言葉や気持ちを備忘するようにしている。

    SNS界隈は、大人って…..についてあれこれ綴られていて、みんなそれぞれの悩みや思いや、苛立ちや不安や期待や、願望がある。100年ぐらい前の41歳は、ひょっとしたら隠居しているかもしれないし、いまの自分のように未熟ではなかっただろう。数年前は未熟や成熟、大人って…..ってみたいなことも患っていたが、いまはだんだんなくなってきた。よいのかどうかわからない。それよりも「素直」についてもっと探究してみたいし、もっと素直に営んでいきたい。

  • 同じ「コト」から差異は生まれる

    2013.04.10 晴れ

    [youtube:http://youtu.be/bG8PTN9MAMg]

    MONGOL800 with SOFFet – ひとりじゃない でスタート。語感とリズムがやわらかく、歌詞はキュンキュン刺さってくる。これ、恋愛じゃなくても、いろんな対象があるんだと思う。ほんと、歌をつくるってすごい。

    ネットで話題になっていた 2013年度入学式 諏訪学長による式辞 を読んだ。うわぁ、これだ!!って感じだ。自分の語彙は少なすぎる。こんなふうに「経験」について語れたら羨ましい。いつも自分の頭の悪さを呪う。こればっかりはどうしようもない。脳みそをこねくり回しても明日からすぐになめらかに思うがままに話せるわけない。頭の悪い自分と気長に付き合っていくしかない。

    私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。

    「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。

    「経験という牢屋」を恐れている。「仕事の作法」が機能している状況に満足する。仕事の作法を培ってきた能力と履き違える。勘違いは傲慢を言動に宿して端々に現れる。

    同じ作業を繰り返す、毎日。とても大切だ。同じ繰り返しから小さな変則を見つけられる。微少の変化。想像すれば、毎日、同じものを食べたら、その日の体調によって味が変わるんじゃないかな。

    同じ「コト」を私に合わせない。私から同じ「コト」に合わせていく。

    同じ「コト」をこなしていても、精度と基準が曖昧ならば、「コト」がおかしいのか、自分が不安定か判別しにくい。料理すればわかる。難しい。レシピが揃っているのに、行程の狂いが、結果の差異を生む。

    苦しみ悩みながら料理家がつぶやいていた。同じ味に料理できるようになっても、今度はレシピを作成するのが難しい、と。各家庭によって使っている器具や火力などが自分の環境と違うから、何に照準を合わせてレシピを作成しようか難しいらしい。

    皇子山公園

    同じ「コト」の繰り返しは難しい。なのに、同じ「コト」に近い状態で安心して「コト」を丁寧に扱わなくなる。「経験の牢屋」に入り、仕事の作法のようなものが有効に機能しているシステムに安住する。

    ほんとは同じ「コト」ではないんだけど、同じ「コト」をこなせているように自分を錯覚させて納得してしまう。微細な変化、微妙な進化、微少の劣化を捉えられない。

    クリエイタは十人十色のリズムを営んでいる。興味深い点がある。十人十色のなかには、規則正しい生活と習慣化されたタスクが創造をもたらす、と指摘する人たちがいる。

    何もできなくても特定の時間帯に毎日3時間座るや、午前中の数時間だけ執筆するとか、就寝と起床の時間が一定しているなど、生活と習慣にまつわるエピソードが多い。

    靴磨きが好きになった。いつからかまったく覚えていない。靴を磨いていると落ち着く。行程が安定しない。どうすれば靴がきれいになるか試行錯誤の連続。あーでもないこーでもないの独り言。コロニルの量や磨き方、磨く手順。手の力の入れ方。まず「同じ」にしていくそのものがわからない。毎回、発見がありとても楽しい。

    同じ「コト」というテーマについて誰かと話すだけでも、思いがけない内容へ発展するのでは?

  • ひとり二人山人余人誤認

    2013.04.02 曇のち雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6BBJ0m9Bllo]

    今朝は Quasimode – All is One でスタート。音を聴きたいときは、Quasimode . incognito, 東京スカパラダイスオーケストラやら、その他もろもろ系を流します。特に sax があればご機嫌で、あとはカラダをスイングすればパーフェクト。歌詞を耳にいれたら音と混濁して記憶が結合して過去へ遡り、アンニュイな感情を誘発しかねないと察知したら音だけのワールドへ没入。

    ひとりで仕事するようになって10年目を迎え、厳しい状況は続き、常に終わりを想定しながらやっている。自覚した変化は、孤独について。かつて孤独に対するイメージは芳しくなかった。否定的、マイナス、悪い、そんなふうなイメージを持っていた。

    変わった。

    転じて、肯定的、プラス、良いなどのイメージを持ったわけではない。孤独、それ自体を受容できるようになってきた。さらに没入したい欲望も抱き始めている。

    孤独を外から眺めていたからイメージを描けた。いまは孤独の円のなかにいる(つもり)。外側から眺めるイメージを描けない。内側からならどうだと言われたら、それもうまく描けない。孤独に対してイメージよりも実体を捉えるフェーズに差し掛かっている。イメージよりも具体的に記述したい。

    孤独は大切な要素。

    日常がひとりであり、誰とも話さず過ごせるような環境を設定できたらありがたい。他者の存在を強く感じられる。存在を強く感じられたらウェットな関係よりもさらりとしたリンクのほうが、他者への敬意を忘れなくなる。心地よい緊張感を持てる。依存しなくなる。

    一方で寂寥感が一定の周期で訪れる。得たいの知れない感覚、言葉が頭を支配しているのか、気持ちが体を蝕んだか、わからないけれど、へんな感触がつきまとう。

    最初は寂寥感との付き合い方がわからず戸惑った。いまも戸惑うが、以前よりは制御できているはず。

    ひとりを体感したら誰かに依存しない。ひとりは私だけではない。依存の対象である他者にもある。他者も抱くかもしれない孤独を想像できたら依存できない。己の欲求のままに距離感を長く短くさせるようなウェットなリンクは、ひとりを体感していないからこなせる。

    ひとり=孤独、ではない。たまたま運よくひとりでやってきたから孤独に埋没しやすかっただけであり、チームや組織に所属すれば、今と異なった孤独を模索していくと思う。そこにはいまよりも困難なコトが待っていると想像する。

    近江神宮

    ひとりでもチームでも、誰かの忠告はとても嬉しい。歳を重ねればただでさえ指摘してもらえる機会が少なくなる。自分で判断しなければならない。そう承知していても、これでよいかと迷う。

    孤独と向き合うようになって視座の位置は以前の場所にない。斜に構えなくなる。なるべく素直に物事を述べる。素直は十人十色であり、素直が衝突のもとにもなる。素直は奢りの種子でもある。

    孤独は傍若無人から最大の距離を置いて自律したいから、できるだけ複数の視点を求める。視点を求める過程で自家撞着して我を見失う。我を見失い、判断力が低下して、事実と意見を峻別できなくなる。挙動不審を繰り返す。どれぐらいの期間かはその時々による。その期間を経て、我を把持できたら、我と他の境界線が引き直され、我と他がだんだんどうでもよくなる。

    たぶん、その「どうでもよい」状態が、理想的な孤独なんだろうと、いまは想像している。他者から何を思われているか一切気にせず、我がどう思うかも繕わず、「いま」を淡々と営む状態なのかなと。