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  • 詮索

    2011.04.22 曇のち雨

    雨が続く。昨日、13℃ぐらいの朝だと過不及ないのにと書いた。あとからなんでとひっかかった。なんで13℃。気温を確認して寒い、と感じない。順序は逆。ひとつ数値に対して感覚はいくつもある。13℃はひとつ。寒い、肌寒い、薄ら寒い、うそ寒いとか。それぞれの感じ方。気分や状況、体調でかわる。人によってちがう。

    昨日の朝は7℃で今朝は13℃と、昨日の朝は19℃で今朝は13℃とでは、外気にふれた皮膚の感覚は異なる。冷から暖と暖から冷。

    21日の夜、カレーを食べる。一般名詞のカレーをなんども食べたので僕は食べる前から味を知っている。カレーにかぎらない。カレーや玉子焼きや唐揚げ、あげれはきりがない。それらは議論の的になりかえない。舌は固定観念らしき味をそなえている。カレーはドロドロかサラサラか、譲れない。とはいえ、その前にそもそもの味がある。玉子焼きも甘口か出汁系かとか譲れない。とはいえ、その前にそもそもの味がある。

    その味は人それぞれ。その味がその人にとってのその料理の基準である。「その」は「なに」を指しているんだろう。各自におまかせする。

    その味が味覚だなと思う。口へはこんだ料理がその味と一致すればほっとして、ずれたらヘンな感じ。ヘンだから不味い、ではない。うまいとまずいは本人だけが判る。やっかいである。13℃+マイナス3ならうまく、それ以外はまずいというぐあいに絶対的な基準があって、うまいまずいを判別しているのか。そうではないと思う。

    味覚と味わい。浅慮はとまらない。

    午前中、O先生の症例ページを修正して公開。午後からM先生のテキストを練る。MacBook Proを新調したい。買うなら17inch。悩み。使っているPhotoshopとillustratorはSnow Leopardに対応していない。どんだけ古いバージョンで仕事してんだって不審がられて信用を失いそう。サイトの構造と情報の設計、アクションまで道筋が僕のUSPと勘違いしているからグラフィック系のソフトへ投資してこなかった。ツケがまわったかな。

    夕方、大阪へ出発。丸ビルのスタバで読書してから19:00からM先生のミーティングへ。この数回、訪問診療のふりかえり。訪問先の情報をだしあってる。

    二人で訪問して同じ場所、同じ時間、同じ人を診る。そこからきりとられる現象は異なる。それが視点。あの人は「それ」を見ていたのか、という気づきがミーティングの醍醐味だ。「それ」を情報として紙に記入する。記入の行為は視点を獲得したことにならない。次に訪れたら気づいた視点を試す。何が見える? ミーティングでふりかえったような情報がある? 違う? そんな吟味のなかに一度きりのシーンがあると僕は思う。同じ視点から見ても前回と同じ景色を見えない。

    20:00ぴったりに終了。さすがMさんのファシリテーション。外部のMさんの能力はすばらしい。マネジメントの能力を教わっている。

    通いの立ち食いうどんを食べて帰宅。ここのうどんがお気に入り。

    大津市議選、誰に投票しようか悩む。とりあえず、名前を連呼して走り回る人と「公平」って単語を広報に使っている人、大キライな「街づくり」を主張している人、を消去法で消したら白票である。それはさけたい。難儀だ。

  • 滑稽

    2011.03.08 曇

    日の出が早くなった。目が覚めたら空はうっすら明るい。少し前まで暗かった。

    午前中、F社のアクセスログの解析とSEO対策。午後からO先生のリスティング広告をチェック、アクセスログ解析。M先生のコンセプトを考える時間を確保できない。うむ、焦り。

    夕方、散歩。書店で『ケアの本質―生きることの意味』 ゆみる出版 を購入。思わず場所で見つけられて嬉しい。

    ラジオで耳にしたりTwitterで目にする政治のニュース。前後に暮れる。連呼に明け暮れる。他者へ吐いた言葉はやがて自分の手元足元へ戻ってくる。襲いかかる。違うかな。他者へ吐いた言葉は自分の影となる。ただほんとうの影と違って見えない。『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』 入不二基義 みたいなもんだ。

    政治のニュースから学ぶ。

    人は他者から受けた不愉快な行為を記憶しているけれど立場が変わってまったく同じ行為を他者へ与えても人は思い出せない。

    自戒。

    月曜日、国民健康保険の扶養から家人を抜くために市役所へ行った。自分の順番を待っている間、『意識に直接与えられているものについての試論 (新訳ベルクソン全集(第1巻))』 アンリ ベルクソン を読む。国民年金と国民健康保険の手続きを対応するために8人が対応していた。

    ひときわ大きな声で説明する二人。市役所の人。二人は地元の言葉でしゃべって対等の立場を表現。それが共通点。地元の言葉を使って丁寧をほんの少し除去すれば、親しみを演出できると考えているかもしれません。丁寧を除去しすぎたら上から目線な口の利き方と受け止められる。僕はすでにそう受け止めていた。説明を受けている人がどんなふうに受け止めたかまで知らない。

    二人と僕とでは丁寧と敬語の定義が違うだけだ。腹が立ったり苛立ったりしない。順番が回ってきて片方の人に対応してもらったが定義の違いを再確認できた。

    そういうもの。声の大きいふるまいによって声の小さいふるまいが消える。見えにくい。少数の奇抜なふるまいは目立ってあたりまえなんだけど、周りが精神的にゆったりしていなければ、少数の奇抜なふるまいは咎められる。

    現象の構造が同じでも初めての手口であったり斬新な手段であれば大騒ぎする。加えて時と場所が際立っていて罪を犯したならば、人を殺したような、あるいはそれ以上の騒ぎである。

    多数の人は少数の奇想天外なふるまいによってダメージをうける。批判がどっと押し寄せる。不公平、不平等、正直者が馬鹿を見る…..などなど。実害を被っていない人も参入。正義。奇想天外なふるまいを押さえ込もうと規律を立てる。制限。厳しく。より厳しく。

    多数は規律の中に含まれるから不便を強いられる。不便はストレスを誘い起こす。緊張、不安、恐怖、不満。それらの単語は辞書で調べたら見えるけど、街中の空気に混じり込んでいたら見えない。人々の顔を伺って充満しているかどうなを推し測るぐらいだ。

    やがて充満して破裂。やぶれた「感情」は寛容を失う。何かが起こればそちらへ。何かをしでかしたらそちらへ。感情は東奔西走。「誰か」を特定して祭り上げるまで止まらない。

    寛容を失い、制限は厳しくなり、多数はさらにストレスがたまり、やぶれてさらに寛容を失う。寛容の濃度が薄くなればなるほど制限の度合いが大きくなる。

    循環してる。「悪」をつけるかどうか悩ましい。

  • 魔物

    2010.12.30 曇のち小雨

    晦日の朝、とても寒くとても静か。静かであることがうれしい。何をしようか。いつまでそう考えられるかな。今日はM先生のWPのバージョンアップとクライアントのサイトのログをチェックしよう。

    WPのバージョンアップは諸事情により延期。WordPress.orgのみなさんは”年末”とか関係ないのね。まさか、こんな時期に最新版をリリースするとは。まずはこのバージョンを自分のWPに適用してテストしてみないと。

    昨日までに学術書が続々と届いた(最近文庫しか読まないのですか? って訊ねられたので書いてみました、こんな感じでよいですか?)。朝から読書。じゃないか、ニュアンスは調べるに近いよな。スキャンする感じでページをめくり、重要な箇所は抜き出し、ノートにまとめる。

    合間にランチして RSS と Twitter の TL をチェック、それ以外は読む、めくる、あっというまに夕食、食後はシングルモルトを飲みながら読む、めくる、まとめる。

    そういえば iPhone の Skype がバージョンアップしていたな、ついにビデオ通話に対応したみたい、いいなあ、来年は iPhone 4 を買おうかな、ここまで待ったんだからホワイトバージョンが欲しいけど、ああ、もういっそのことiPhone 5まで待つ、のもあり、なし、ああ、悩む、悩むほどのことじゃない、その前に Skype する人探してくださいって言われそうで、恥ずかしい、MacBooK Air 13inch デビューしたいし、Mac miniのサーバをリプレイスしたい、大晦日を前に煩悩だらけ、知足安分どこへやら、鐘を聞くまで起きてられません。

    人間と環境は連関している。年末の自分を観察していて感じた。人間と環境、大げさな表現ですが(賢く装いたいのです)。年末っていう気がしない、ホント。どうしてだろ。ああ、コレかなって感触をつかんだ。自分の生活リズムを維持できているからだ。

    たとえば師走の今頃。周囲はおせちの買い出しやお正月の準備、部屋を掃除する。自営業の人なら集金(もうない?)や挨拶回りとか。共同体はそういった生活のイレギュラーなリズムを連綿と受け継いでいる。連綿と律動が環境を造る。

    環境を造る、って表現した。間違っているかもしれないな。わからない。人間が環境を「造る」なんておこがましいってぼんやり感じているし。たとえ造ったとしても、その環境はメタな環境に取り込まれて「環境」自体が自律・自浄を機能させる、独立した系のようなイメージを環境に対して抱いている。

    それちゃった。生活のイレギュラーなリズムが人間の行動に影響を与える。普段とは異なる生活の調子と場へ自分自身を没入させる。そこから影響を受けた人間は「年末」と感じる。

    なのに感じない。そうか、そういうことか。僕は年末年始だから(といって)変則的に行動しない。イレギュラーなリズムから影響を受けないようにしているから、って年末の自分をふり返った。そう思った。単純な話だった。

    思ったら次にいつもの質問が浮かぶ。なぜイレギュラーなリズムから影響を受けないんだろう。

    環境の中には社会制度や儀式、儀礼がある。それらはどうして存在するんだろう。理由はある(はず、たぶん)。制度や儀式・儀礼が成立してきた経過(僕は「文脈」って云う)を知る人、知ろうとする人がいる。反対に知らない人と知らなくてもよい人がいる。

    僕はどちらかといえば知らなくてもよい人。子供の頃、おせちを楽しみにしていた。母親からメモをもらって一人でお買い物(買い物好きだし)。大人になってもおせちは好きだ、った、のにいつしか食べなくなった。

    「環境」の中にある年末年始の「文脈」を知らない僕は、「なぜ」という問いを持てないから年末年始をかんたんに捨ててしまったんだろうなぁ。追試不可能な体験から導き出せば、の話として。

    文脈を知ろうとしないから「なぜ」を立てられない。なぜが立てられないから、「どうやって何を」用意するかって実利的な事柄だけを続ける。でも続けられる? 環境の中にある社会制度や儀式、儀礼から実利的な事柄だけを取り出していたらいつしかやめてしまう。伝統と同じように。

    安定した生活のリズムを維持できることは贅沢だし幸せだと思う。でも、その状態が維持されている文脈、「なぜ」の自己検証を怠れば陥穽にハマっちゃうな。

  • 寒気

    2010.12.16 曇

    前日から冷え込む、今年の冬一番、真冬並みって聞いていたから心の準備はできていた。のに朝はとても寒かった。布団から抜け出せなかった。そろそろ大雪の末候、鱖魚群(さけのうおむらがる)。海で育った鮭は川を遡上する。子供はどうして帰ってこられるのって訊ねるんじゃないだろうか。「左ヒラメに右カレイ」は完璧な見分け方でないにしても鮃のえんがわを食べたい頃。煮付けも美味。

    ふたご座流星群は見られなかったし、三日月を見られるかもしれないから外へ出て空を見上げようって数日前に伝達したけど見られなかった。今週は空との相性が芳しくなかったみたいだ。

    WP制作とM先生のWPバージョンアップの準備。自分のWPもいじってWP三昧。O先生の資料が木曜日に到着する。ただ12/18の打ち合わせまでに修正は間に合わないのでとりあえず確認するだけ。アルバイトの資料がこない。ちょっとペースが崩れ気味。

    インターネットで同世代の就職活動や求職、求人状況を調べている。かなり厳しい。厳しいというより今の状態がデフォルトになっていくんだな。来年は39歳。限定される。制限される。年収(額面)300万円をいただけたら御の字だし確率的には低い。覚悟、というかそれを理解して活動しなければ、と。一度レールから外れると元のレールには乗れない社会設計。傍らに並行している途切れ途切れのレールをあちこち移動するか、山に入って獣道を歩くか。社会設計を批判しないし無関心。そうだったんですね、と思うぐらいかな。7年前に自ら外れたから300万円以下で生活できるスタイルを設計すればよいと僕は認識している。

    就職の話を書けば一頃は気が滅入ってしまった。自分で書いたのにバカなことをしたと己を叱責していた。でもその時々の状態や心の状況を丁寧に記述したいし、「自分が思っていたこと」を回顧的に知るために備忘しているって自分へ反論したり。もちろん衒いやよく思われたいって気持ちは隠せない。気持ちは表層に浮かんでいる。まぁできるだけ丁寧に素直に書きたいですね。

    そういう気の滅入りや微妙で複雑な情感は薄れてきた。就職活動に対する感情の振れ幅は狭くなったな。淡々と書けつつある。ああ、そうか、活動だよね、って書くし、「なるほど自分はそう思っていたのか」という発見が増えた。内田樹先生が Twitter でつぶやいていた「だって、自分がもっともその人に認められたく、愛されたいと思っている人って「自分」じゃないですか。僕たちは、「自分に気に入られるように書いている」んです」ってフレーズがとても気に入った。そのとおりですよね。ほんと、自分に気に入られるように書いている。

    書きたいことはあるんです。ですが「最近の文章は長いし諄い」とご叱正を頂いたので、『的を射る言葉』 森 博嗣時間 潮時というものが明確に認識できるうちが潮時であるの言葉にいたく感銘して〆

    充分長いな。

  • 編集

    2010.12.15 曇

    ぐっと寒くなった。鍋がうまく感じる。鍋は具材を切って調理すれば後片付けが楽だし翌日は雑炊やうどんを入れて朝ご飯を賄えるし重宝する。今の鍋なら春菊が欠かせない。葉を食用としているのはアジア圏だけという。僕は食べられるけど苦手だ。香味はよいけど食べたときの独特な苦さがダメ。鍋で食べるより天ぷらのほうでお願いしたいです。鍋の脇役といっては失礼ですが、ずいぶん我を主張していらっしゃるじゃありませんか、春菊さん。

    午前中はO先生のサイト制作。SEO関連を紹介している記事で興味深い内容を読んだ。そのサイトのコードを見たら紹介している内容を採用していたので試したくなったので朝からコードを書き直した。こうやってやることはどんどん増える、いや自分で増している(笑)

    12/18は13:00から打ち合わせと決まった。おおよそ4時間を想定しているとのこと。先生と4時間もか……と想像して…..、さて、どうしようか…..、とか、ソワソワ。

    Wikileaks に言及している記事を読み続けている。視点が異なった論考を読める。恵まれた時世にいるな。おしむらくは自分の読解力。日本語の読解力すらままならないのに英語はいわんや。すぐれた読解力は視点を重層化させ視野を立体的に広めていくのに。

    アメリカ・タイム誌の「今年の人」に Facebook の創設者が選ばれた。読者投票では Julian Paul Assange だったらしい。ちなみに Julian Paul Assange は僕と同世代、39歳。

    TEDの Julian Paul Assange 「なぜ世界にWikiLeaksが必要なのか」を視聴した。

    「Well, there’s a question as to what sort of information is important in the world,what sort of information can achieve reform. And there’s a lot of information. So information that organizations are spending economic effort into concealing, that’s a really good signal that when the information gets out, there’s a hope of it doing some good. Because the organizations that know it best, that know it from the inside out, are spending work to conceal it. – どんな情報が世界に重要で改革を達成させるのかという問いがありますね。様々な情報がありますが、組織が金をかけてまで情報を隠そうとしているというの は、その情報を世に出せば社会的利益があるという、よい目印になるのです。なにしろ情報を熟知している企業が必死に隠そうとしているわけですから」と答えている。

    このコメントが Wikileaks の概念かな。ここで僕は Julian Paul Assange のコメントを編集して推測を事実かのように述べている。

    Wikileaks は告発者がもたらす情報を編集しないでサイトへ掲載する手法を採用しているらしい。情報の裏をとって正当性は担保しているらしい。らしい、と書くのは僕がまだまだ調べられていないから。

    2010年、Wikileaks のサイトに米国外交公電が大量にリークされた。世界中の報道機関は機密文書の内容を「編集」して伝えた。日本のメディアは、外交公電に記述されている各国首脳の”人物像”や癖、各国を擬人化したコメントを掲載した。記事はスキャンダラスでゴシップ的ニュアンスを強く感じさせる。(僕の推測として)日本のメディアは Wikileaks の原文を読んでいないんじゃないかな。それに外交公電の裏をとっていないだろう。

    Wikileaks に対する世界の報道機関とペンタゴン・ペーパーズを報道した時のニューヨーク・タイムズの姿勢は異なる、との指摘がある。1971年、ニューヨーク・タイムズは社内に極秘チームを結成してホテルに3カ月間缶詰になって告発文書をすべて読み、裏を取り、分析して記事にする決断を下したとの由。裏を取り信憑性を確認した。

    メディアは一次情報を「編集」して報道するから裏を取り正当性を担保しなければならない。メディアのコンテンツは、編集の過程で生じる判断と意思なんだから。

    Wikileaks は「編集」と「判断」を問いかけた、と僕は思う。国家に対して。国が「どの情報を公開し、どの情報を秘匿するか、機密扱いにするか」を決定すべきなのか。限定された人間の「判断」だけで。

    Wikileaks の問いかけの裏を返すと、情報へアクセスする側を批判していると思う。国家に対する無関心。情報へアクセスする側は政府のプレスリリースや公開情報を読むより、報道機関がそれらを適度に加工して編集した「記事」を読む。僕は医療情報を収集するために厚生労働省のサイトへアクセスしないし、税金の用途や国家予算を知りたくて財務省のサイトへアクセスしない。報道で目にした内容の一次情報へアクセスするなんてそうそうない。無関心です。

    Wikileaks のサイトへアクセスして原文を読んだ人はどれぐらい? たとえば、各国首脳の”人物像”や癖はどんな文脈の中から語られているんだ? それに外交公電の意味は? 機密扱いって?

    米国の空軍は、特定の報道機関や Wikileaks へのアクセスを切断した。空軍の端末からそれらのサイトへアクセスできなくなった。米国が批判している中国と同じ処置。主義が違う、目的が違うと反論があったとしても。

    無制限の内部告発は結果的に国民に不便をもたらすかもしれない。なぜなら、内部告発の内容よりも行為それ自体に脅威を感じ、国家は機密情報の水準をあげるからだ。結果的に情報へのアクセスがさらに難しくなる。「最高機密」とプリントできる階級と文書が増える。

    情報の価値や有用性を「判断」するのは国家や報道機関ではなく、世界の人々にあるという問いを突きつける。だが、その問いを実行するための手段自体が世界の人々に恐怖と脅威を与え、「判断」を停止させて、情報は秘匿される。なんだかパラドックスだな。

    僕は楽観的です。知性は漸進すると考えている。今よりも未来の世代の知性が優れているし、次の世紀はプロセスの透明化と想像する。判断に必要な要素が透明化された場所に置かれている。そんな風景を想い描く。公開か秘匿かのカオスが収束すれば、結論の出ないことに耐える能力は透明化を求める。でもプロセスが透明化されたからといって効用の最大化や最大多数の最大幸福が得られるとも思わない。今は公開か秘匿かに思考のリソースが注がれている。それも時間と知性が解決するよってお気楽な気分です。

    なので僕は自分なりにパラドックスに向き合いたい。

  • 前提

    2010.12.11 曇

    現代の中国に対する一般的な感情と裏腹に”古代”と冠詞がついた風習や言葉は生活の風景に現れる。カボチャを売るために冬至を知らせるポスターを目にした。二十四節気が記されていた。今は大雪。そして次候。熊蟄穴。くまあなにこもる。ちゃんとこもれるかな。

    金曜日にO先生とやりとりをしてサイトを修正。午後からWP制作。新規の制作はおもしろい。トレンドの技術と安定した枯れた技術の両方を使えるから。クライアントの中でもリニューアルしたいサイトはあるけれどこればかりはいかんともしがたい。時宜や成果とリンクしている。

    葉物野菜の価格が少し落ち着いてきたかなと思う。先日、福井のほうで畑を持っていらっしゃる方から里芋と大根と白菜を頂いた。たくさんくださろうとしてくれたんだけどそんなのもったいないからって伝えたら、「欲ないねえ」って福井のイントネーションで微笑まれた。ちゃんと保存したら3月ぐらいまで持つよって教わった。

    スーパーと冷蔵庫が頼りの生活の感覚で物事を解釈していたので驚いた。無知、この場合の知は情報や知識ではなく知恵に近いニュアンス、をさらけ出したようでとても恥ずかしかった。

    さっそく頂戴した里芋と大根と人参やらで煮物を作った。里芋を食べてほんとうに驚いた。ふだん食べている里芋はスーパー仕様だ….。僕はそんなふうに実感した。スーパーに卸している農家の方に失礼のないよう申し上げると、悪いわけじゃない。食べ頃が違ったり鮮度の度合いが関係しているかもしれない。

    前提がある。以前にも書いたが、今、野菜の直販市場が成長している。主に道の駅や道路に店舗を構えて農協や卸を仲介させずに流通させる。コンテンツは鮮度、だとしたらそれはあたりまえ。目利き。朝、買ってもらって昼や夜に食べたらウマイ野菜を見極める。その野菜を畑から引き抜く。それがコアコンピタンス。刹那の旬を見極めずにむやみやたらに引き抜けば、鮮度だけが売りでしかない。まあ、それでも圧倒的優位ですよね。

    前提だ。一般的に使われるインターネットが現れて15年。ドッグイヤーの速度を単純に適用しても許されるなら105年が経過している。1世紀。調査会社IDCによると、2006年に生み出されたデジタル情報量は161エクサバイトだったという。161エクサバイトの量は、これまでに執筆された書籍の情報量の約300万倍。これらの書籍を積み上げると、地球から太陽までの距離およそ1億5000万キロを超える高さの束が12束分となる。もう天文学的数字を超えて誰にもコントロールできない。S/N比を考慮しても爆発的な増加、という「爆発的」が陳腐に聞こえる。

    世界のインターネット利用者は2010年にも20億人を超えるとITUが報告した。世界人口の28%しかインターネットを利用していない。にもかかわらず。

    言葉が世界を切り分ける状況が進行する現在、これまでの前提をもとにした判断が最適であるかどうかを僕は問われていると思う。

    ミラーサイトを世界中に立ち上げているWikiLeaks, WikiLeaksの批判を考慮して競合サイトが立ち上げ準備に入っている。世界中の新聞やWebサイトなどの協力を求めてリーク文書のニュース価値を評価し、適正な形に編集加工してからリリースする OpenLeaks。

    国家や法体系、統治システム、秩序、エネルギー、情報……抽象的で思考できなくて何から手をつけて吟味すればよいか途方にくれる。

    批判してもよいと思う。それも「自由」だ。括弧つきで書くのは自由と書けば、WikiLeaksの言論の自由と我々の批判の自由は違うと反論があるだろうから括弧つきにした。

    WikiLeaksは単に一例にすぎない。僕は批判するより今何が起きているのかを吟味したい。受け入れるとか受け入れない、あるいは賛成や反対といった立場に立たない。異なった解釈を模索したい。

    急激に変わるわけない。教育や医療、法律といったシステムの根幹を構成するインフラは数年や数十年の時間軸でとっかえひっかえしてはいけないという意見もある。熟考された指摘だ。同じ時がかかるとしたら30,40世紀ぐらいの人が、「21世紀前半、人類は世界とインターネットのあり方について岐路に立っていた」と考察されるような理路をたどっていきたい。

  • 偽者

    2010.11.18 曇のち晴れ

    寒い。布団から出られなくなってきた。今朝は05:45に目が覚めたのに気づいたら06:00だった。15分間、どこに行ってたのか誰かに聞いてみたいです。対策を考えなければ。起床30分前から部屋を暖めておけば起きやすいと数年前に何かで読んだけどあいにく暖房器具はない。ふぅ。

    この時期は天気がよいと7-8時頃にかけて朝陽が差し込んでくる。それがとても柔らかく感じられる。朝陽がガジュマルにあたっていると気持ちよさそうです。嬉しくなる。夏の日差しだとちょっときつそうって感じますが。”はやぶさ”を擬人化するのと同じだ。

    11:00前に出発。大阪へ。13:00からF先生の院内LANの設定。今日と金曜日で仕上げて、11/21の設営に立ち会う。僕の知っている情報は Windows XP で止まっている。ようやく Windows 7のシステム関係を理解できてきた。GUIは変わっているので各機能を探し回る。Windows 7 のチューンアップを知らないので調べなければならない。18:40頃に終了。

    帰りに本屋へ寄る。『言語・思考・現実』 L・ベンジャミン・ウォーフ を探すが見つからない。なかなか見つからないな。『失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI 』 プルースト の前で悩む。全14巻(だったと思う)を読破できそうにないなあ。双調平家物語でもタイヘンだったのに異文化ならなおさらだろうし。

    アメリカの映画やドラマを視ていていまだに慣れない感覚がある。「アイルランド系」や「イタリア系だ」とか「ドイツ系だよ」といった「○○系アメリカ人」という単語。頭は理解しているけれど身体的な入出力の感覚がともなわないので、こういう会話を交わす時って躰はどんな質感に包まれるのでしょう。

    今の僕は滋賀県民だが「東大阪系滋賀県民」という表現もアリだろうか。27歳まで東大阪で過ごしたのでこういう表現を選んだけど生まれと育ちと現在位置が異なればどうしようか。生まれが熊谷市で育ちは葛飾区だが今は中頭郡だとしたら「熊谷系葛飾区沖縄県民」でOKか。生まれてから数年ごとに引っ越してきた人って、どんな基準で生まれや育ちを判定するのかな。エピソード記憶? 年数?

    日本の場合、「キリバス系日本人」や「ツバル系日本人」とか「セーシェル系日本人」って云われても僕は「ああ、そうですかー」ってすんなり返答できない。たぶん、混乱するな。否、確実にのけぞってしまう。

    『的を射る言葉 Gathering the Pointed Wits』 森 博嗣 は何か反応しなくちゃいけない考えさせられる言葉で埋め尽くされている。そのなかでも素敵なフレーズがあった。偽ものは、「物」も「者」もあるのに、本ものは、「物」しかないのは何故? 「他」には「人」も「者」もつくのに、「本」には「人」しかないのは何故?

    他者の存在があるから孤独を認識できるように、ニセモノがあるからホンモノがあると考えられたら問題を発見できる本物と本人を僕は探究したいですね。

  • 虚構

    2010.08.02 晴れ

    朝から蝉が全力で鳴いている。一週間と定着している寿命はもう少し長いらしい。最近、ベランダにスズメがよく現れる。同じスズメかどうか判別できないが朝からけたたましく鳴く。蝉と雀が指揮者のいないオーケストラのようにハーモニーのない音楽を演奏する。

    WPの制作。表のサイト を変更した。暫定的な実験。今後もテーマを作成して試行錯誤していこう。

    いつのまにか此岸から彼岸へわたっている人はいるんだなと思う。残った人が手続きしないので紙の上では娑婆に存在している。偶然がその存在を確認したら神隠しにあったみたいに消えてしまった。

    残された人は知らないと言う。周囲は意図をはかりかねる。憶測をたくましゅうする。

    公的機関は物事を複雑にして自分たちの仕事を作り出し予算を獲得している。紙から電子化されてもシステムを簡素化せずに複雑のままにしておく。

    一般人が判定できる範囲の膨大な入力項目が公的機関にとっての”必要最低限”であり、不思議なことにその中にいる人たちも一歩外へ出たら一般人であるから自宅へ戻って想像力を起動させたら必要最低限の分量が異常な状態と理解できるはずだ。もちろん理解していらっしゃる。

    でも想像力は自宅の机の抽斗や書架に片付けられ、車中で移動している間に何かが入れ替わり眼前のディスプレイと向き合う。あんな場所で大切な想像力を使われたくないって訴えるささやかな反抗なのかもしれないと自分は想像する。

    ディスプレイに表示された数字や紙上に残る記録が公的機関の事実だ。事実は建物の中にだけ存在し確認しなくてもよい。

    ただ建物の中の事実とほんとうの実体を相互参照したい”だれ”かが現れたら自分たちの建物が破壊されかねない。建物の外から中の事実へアクセスする通路を迷路にしておけばよい。さらによいのは迷路に示す案内文を複雑にしておく。

    公的機関は混沌と複雑を峻別しているし一線を引けていると自負しているからシステムはさらに絡み合い入り組んでいく。誰が何を把握しているのかわからないほど複雑にしておけば建物の存在価値は維持される。まるで92兆2992億円を誰一人把握できていないかのように。

    いつもの時間にいつもの場所にあの建物があればそれでいい。私たちはあそこへ入ってゆけるのだから。

  • 謝意

    2010.07.29 雨時々曇

    朝から雨。心地よい風が部屋を通り抜ける。快/不快のセンサーは気温と湿度に敏感なんだな。今日の雨で琵琶湖の水位が1cmぐらい上昇するかな。

    WPの制作。今更感を承知で可変グリッドのサイトを試したいのでローカル環境で試行錯誤。こんな感じ、あんな感じで、そんな感じまで仕上げられないけれど雰囲気を楽しみたい感じで、感じが先行した感じのユーザビリティの優先順位を下げてしまいそうな感じのサイトな感じ。

    Web Designingの8月号の「情報デザインとしてのWebタイポグラフィ」に強い関心をよせる。サンプルのサイトにアクセス。雑誌のようなイメージを想定したサイトであっても可読性は低下しない。ウェブでも可読性は重要な要素だと思う。

    Webfonts の技術が進化すれば、書体を画像へ変換しなくてもデザイナの意図したフォントを表示できるようになる。表現の幅が広がり可読性と外観を両立できそう。それが両立できればインターフェースとアクセスしてくる端末が課題にのぼるだろう。

    スペイン北東部カタルーニャ自治州の議会が2012年から闘牛を廃止する法案を可決した。スペイン本土の闘牛廃止は初めてとのこと。動物愛護や観光減少、予算の確保などたくさんの要素が絡み合ってるみたいだし、独立運動の政治的思惑もあるみたいだ(政治的思惑は否定されているけれど)。複雑だ。

    日本では闘犬や闘鶏が行われている。世界に目を向けたら他にも熊, 馬, 羊などもあるらしい。

    動物と密接な関わりを持つ文化や伝統を見聞しても多元化構造から現象を切り取れない。自分の解釈を信用して切り取ったとしても玉葱の薄皮を剥いだような感じにすぎないと思う。過激な行動を選択する組織や穏やかに主張する団体もあって、さらに宗教と結び付く余地も残っているからますます自分の中では認識処理が難しい。

    現地で生活していないので無責任な言動は慎もうと戒めているが、今の自分のフレームから意見を取り出すとしたら、認知処理を難しくしているのは自分の無知だから契機にふれたらなるべく向き合えるように構えておきたい、というぐらいだ。

    自分のフレームが狭すぎることを自覚しておきたい。

  • 相続

    2010.07.20 晴れ

    琵琶湖の水位はプラスからマイナスへ。 これから先は減っていく。-100cmになるわけないのにどんどん減っていくのじゃないかと錯覚させるような酷暑。警戒水位は-50cm。数年前、一度+60cm超の琵琶湖を見た。深刻な水不足の”-“は日常の琵琶湖からかけ離れているが、”+60cm”の琵琶湖は少しコワイ。湖面がうねって襲ってきそう。+60cmって体積に換算したらどれぐらいで何トンだろうって当時計算したのにもう忘れた。情けない。

    連休中に構想していたF社のサイトマップとコンセプトを午前からまとめはじめる。夕方にリポートを書き終えてPDFに変換してからH氏へメール。サイトマップと文章は簡単に書ける。手を動かせばよい。問題は構想。構想が難しい。何をどのように考えるか。設計図を書くまでが長い。

    ウェブサイトは運営者の意図を精確に伝えなければならあい。伝えるは難しい。コンテンツに対して運営者と閲覧者との間にズレがある。運営者が描くコンテンツの枠組と閲覧者の理解は一致しない。一致する以前に閲覧者は「運営者のコンテンツの枠組」を想定できない。

    たとえば、”ホームページ制作”を例にすると、ホームページ制作には、HTML言語, プログラミング, Flash, 写真加工, イラストなどの要素が含まれている(他の要素もある)。これらの要素に対してそれぞれのプロがいる。すべてひとりでこなすプロもいれば分業するプロもいる。これがホームページを制作している私の認識である。

    (ウェブサイトを生業にする人を除いた)閲覧者の方々は、ホームページ制作の構成要素をそんなふうに分解しない。私がいきなり要素の話をしたり要素を質問すると、意思疎通できない。

    「どうしてサイトを作りたいのですか?」「何を伝えたいですか?」「何がわからないですか?」「不安はなんですか?」などの抽象的な質問からスタートして少しずつ要素に近づいていく。

    自分のジャンルから離れて相続を例に考えてみる。「相続」を耳にしたとき、私は「税金」を頭に浮かべる。「税金」を頭に浮かべたら、私には関係ないと云う。なぜなら「全体の5%の人」しか相続税を払わないから。ただし、この場合の「全体」は何に対しての「全体」かをわかりやすく説明しているウェブサイトは少ない。これも運営者の説明と閲覧者の理解がズレている。

    ところがコトはたやすくない。相続は「争続」に変化する可能性があって、策を講じなければならないのだが、この策に対して「税金」対策をイメージしてしまう。

    シンプルなケースを思考実験する。両親の持ち家だけを男兄弟二人が相続する。この場合、どう相続するのか?

    相続=個人の図式は成立するのと同じく、相続=法人の図式も成立する(専門用語の意味では不適切)。それが事業承継と言われ四文字熟語にしなくても経営者であればみな考えることだ。

    経営者がみな考えることであっても、「考える時期」と「実行する時期」はそれぞれの経営者によって異なるし、外部の人間が観察したら「適切な時期」はさらにズレる。

    資産家は相続(と相続税)が存在し、同族会社は相続と事業承継に向き合わなければならず、サラリーマンにも相続は隠れている。では、相続や事業承継を要素へ分解したら、という話へつながる。

    要素へ分解する話へつなげてからが難しい。閲覧者は実存の寿司からネタをイメージしやすい。ならばレトリックの寿司はどうか。寿司という全体に対してそれぞれのネタを閲覧者は心象にしにくい。そもそもどんなネタがあるのか知らないかもしれない。

    さらにネタのなかでも産地や旬もあれば、ネタとネタがリンクしていたりする。

    相続という全体を構成する要素。要素が抱える問題。問題から課題へ。そして対策。対策のための現状分析と認識。準備期間。備えあれば憂いなし(と断言しない)。

    こうやって駄文はいくらでも書けても、実際はまったく伝わらない。サイトからコンテンツを伝えるのは難しい。だから伝わったと感じられたときの喜びはかけがないのない財産なんだ。