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  • 球体の中、現在位置をロスト

    2013.07.22 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=PELmKSt0p0g]

    松井くんと上田くんとサヨナラバイバイズ でスタート。来月、梅田クワトロのライブ、ワンダフルボーイズ / 奇妙礼太郎トラベルスイング楽団 / 松井くんと上田くんとサヨナラバイバイズ へ行く予定、そろそろ学習しようかと。深いのぉ、広いわぁ、その前の曽我部恵一BAND / 奇妙礼太郎トラベルスイング楽団も梯子しょーかなー、的トランス。

    紙を用意。真ん中に点。私。10cm左直線上にA, 同じく10cm右直線上にB。昨今の言説は、AかB のどちらかになっていく、と説く。二極化とかいう。

    真ん中の私はどちらかを選択すべき。Aの10cmを歩くか、Bの10cmか。人生を問うたり、国を問う、そう問われているんだって。ほんとかしら。

    すっきりわかりやすく説明するための方便か修辞だよね。語っている、主張しているご本人も極論の信奉者ではないでしょうし。

    AからBを弧で描く。ちょうど真ん中の私にコンパスの先端を刺し、AからBへくるっと描くみたいに。私とAとBを結ぶ半円。

    生活はこんなふうに階調に溢れているはず。AかBではない。点ではない。白か黒ではない。白と黒の階調、灰色すら判別できない幽玄の色彩が半円のなかにある。

    そして、否。半円ではない。半円を縦に反転させよう。もしくはBからAへ下半分の弧を描く。そうすれば円。円の中の私。白から黒への階調にあらず。よろずの色の階調が円を彩る。円の中心に私はあり、時々円の端っこに移って隠れたくなれば、円の外側へ出たくてもどかしくなり、生活の階調を日々塗りかえる。

    さらに、否。円ではない。中心の私を上下前後に伸ばせば、立体。球だ。座標軸。地図を見るとき、現在位置に迷うみたいに私の現在位置を見失う。そんなときがある。誰にだってあるかどうか知らないけれど。

    球体の中の私、現在位置を常に把持できるって流れ星を見つけるよりも案外難しいかも。

    mont-bellの帽子

    “想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎 の最後のメッセージを思い出す。

    チンパンジーとヒトの遺伝子配列は約98.8%同じ。現生生物では最も人間に近縁な種の一つ。長年、チンパンジーを観察している先生が辿り着いた思索。

    行間はチンパンジーに対する深い敬愛と尊敬の念が込められているかのよう。その書籍の終わり、チンパンジーと人間の違いを述べていらっしゃる。

    それが絶望と希望。

    チンパンジーはいまここの世界だけを生きている。絶望しない。重傷を負ったチンパンジーが、生きる気力をなくしてしまいそうな怪我なのにわんぱく盛りに遊ぶ姿。目の前だけの世界。

    対して人間は絶望する。なぜなら「想像するちから」があるから。「想像するちから」は希望をもたらす。希望に対して先生の強い期待が伺える。

    月曜日の朝、新聞社のサイトへアクセスして選挙の結果を確認。戸惑いと把握できない気持ちが渦巻いた朝。

    (子供を授からなかった自分が書くのは失礼かもしれないけれど)いまの子供たち、これから生まれてくる子供たちの「想像するちから」を信じている。

  • 世界を一瞬で切る取る感性

    2013.01.16 晴れ

    今朝は Jason Mraz & Colbie Caillat – Lucky でスタート。”Lucky I’m in love with my best friend Lucky to have been where I have been Lucky to be coming home again”がベタによい感じ。ベストフレンドと恋に落ちるってどんなでしょうか? 落ちたことないので落ちてみたいような落ちたくないような、っていつまでも恋は大切ですよって思います、ハイ

    第六十九候、雉始雊。旬が鱈であるなら鍋であり、鍋であるなら水菜であり、水菜であるなら野菜であり、野菜であるならまだ手が伸びづらい。びくびくする売場探索。ちらっと見える価格に怯え、少量はちょっとなぁって己の我が儘に嘆息しつつ、野菜難民の日々。

    野菜を食べるために稼ぐ。それも現実である。

    09:00前に大阪へ。制作中の医院の撮影へ。といっても僕は立ち会いだけ。奥様が撮影してくださる。どちらかというと、僕がお金を払って頼まなければならないぐらいだ。

    セミプロ、というかやっぱりプロ(撮影してほしいってお声がかかったらしい、しかも超がつく有名どころから)の奥様から撮影を指示してください、と言われても、それは土台無茶ブリなわけで、納豆を食えに等しい難題に私はただただ腰がひけて、くの字からひれ伏して数百メートル離れて大声で辞退申し上げ、やがて真横でものすごい撮る気にさせるはじめて耳にしたシャッタ音に吃驚しながらガン見。

    口があんぐり。もうこのときばかりは自分の視野角を自分で自分で褒めてあげたい、と自賛した。ホント、まだ広角側の視野角でよかったよ自分の眼が。たぶんあと数年もすれば望遠にかわっていくんだろうけど、まだ50mm以上に広い視野角で世の中の風景を僕の目は切り取っている。

    奥様はもっと広い。その眼が世界を一瞬で切り取る。RAWなんて知らない。デジタル全盛、現像ソフト万歳の時代、カメラ側でセッティングしながらJPEGで撮影する姿は昔気質の職人のようであり、周りがなんと言おうがそのスタイルは僕はとても好きだ。

    夕方の琵琶湖

    午前中は医院の周りを撮影。傍らで耳にするレリーズ。ウキウキさせるレリーズ。あれもこれもってお強請りしたくなるレリーズ。

    ディスプレイに映し出される写真の構図と色合い、露出を確認。本来なら数値を確認しなければならない。でもそんなことはどうでもよかった。直感を信じてふたりで話し合う。

    フォトグラファの視点と感性を邪魔してはいけない。撮影の気持ちを損なってもらってはいけない。たとえ相手が満足していなかっても僕は黙っていた。撮影してほしい構図を3回お願いしてあとは委ねた。

    僕が見ている風景と他者が見ている風景、認識している世界は異なる。そのあたりまえであることがとても新鮮だった。あたりまえのコトを「目に見えるカタチ」で示してくれた。色彩の表現や基準の露出、被写界深度、なにもかも異なる。同じ「方向」を認識しているけれど、最後の最後で意識が切り取る「一瞬」は違う。

    この違いを認めるられるか否か。暴言を吐くと多くの人は認めない。認めるふりして認めない。それは知識の多寡と考量の優劣で「認識する風景」を査定するからだ。

    午後からは終了まで院内の撮影。対象は動的である。動的から静的へ変換する。非常に難しい作業で集中力が要求される。同じシーンは二度とやってこない。すべては一回性。あって感じるコンマ数秒前にレリーズしていないと、一瞬は保存されない。

    723枚。

    次は僕の番。編集していく。あのときのシーンを思い出しながらテキストを書き、相手は何を見たいか思い巡らして、試行錯誤していく。

  • 熟練した無能力者

    2012.12.17 曇のち雨

    http://www.youtube.com/watch?v=jr5UVldIKLM

    今朝は Rhymester – This Y’all, That Y’all (feat. Super Butter Dog) でスタート。強制的にアゲの精神へトリップしなければならないときにコレ系をフル回転させてアゲへ我を誘拐します。

    時々、欲望と負荷を視覚化させてくれる現象に出会って認識できたとき、関係の中に隠れていた私を発見して、知りたいことと知られていたことをデフラグする。

    12:00前に大阪へ出発。13:30からF先生のミーティングに参加。何度も読み返している“最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲをバックパックにいれて第10章を読み直す。センゲのこれと “組織化の社会心理学” カール・E. ワイク, “センスメーキング・イン・オーガニゼーションズ” カール・E. ワイク は何度読んでも読解できない。

    「熟練した無能力者」という単語。「われわれは自分自身に囚われており、メンタル・モデルを調べられないように「防御規制」している(同P.203)結果、「高度に熟練したやり方で、学習する際の苦痛や不安から自分自身を守る」(同P.203)

    自分がほんとうに望んでいる成果を自己認識する。それ自体の行為が難しい。いくら学習しても・自ら本を読んでも、それらは「自分が読みたい」本であり、「自分が学習したい」ことであり、「苦痛や不安」を防御しているだけかもしれない。

    私をブレイクスルーする契機は、’そこ’にはない。

    私に照らし合わす。理解できた。自ら本を読み学習してきた「系」が、他者によって破壊される恐怖を僕が感じたとき、強烈に抵抗する。なにかと自分が使っている理論(各自のメンタル・モデル)(同P.191)を持ち出して反論する。僕が知っていること、体験したことを諭すように話す。

    そこに他者はいない。存在するのは自分だけだ。苦痛と不安を抱いている自分がいて、それを認識して、そこから脱出するために取り組んでいる行為を他者に伝達することに注力する。他者へ出力できても他者から入力できない、アンビバレントな感情が発露している。熟練した無能力者である。

    TwitterのTLを眺めている時、ステキだなと思う瞬間がある。年長者の方々が、「年をとるごとに頭がかたくなっていることを自覚する」とふとしたときにさえずっていらっしゃる。その自覚できることはステキだし羨ましい。僕もそうやって年を重ねていきたい。

    しなやかなように見えてガチガチにカタイ、これがもっともやっかいで自己分裂した状態だろう。その水域に足を踏み入れているかもしれないことを教えてくれるのも「誰か」であり、自分ではない。

  • 6つの手紙

    2012.10.31 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=3ZS7buCql6Y]

    今朝は 石崎ひゅーい – ガールフレンド でスタート。響くなぁ。届けるものが素晴らしいからシンプルな音が心地よい。しばらく没頭してみたい気分。

    郵便が届いた。封筒の屋号を拝見して心あたりがないので何だろうかと思いながら封を切る。6通の手紙がはいっていた。驚いた。先日のミーティングの感想だ。スタッフ全員の感想。ひとりひとりが便せん1枚に感想を書いてくださっていた。

    こんなかたちでのお礼と感想ははじめてだったのでちょっとだけうろたえた。恥ずかしさ、喜びが枯れた心を潤す。それぞれの文章を何度も熟読して、僕の手元に来るまでの経緯を想像する。どんな指示があり、どんな思いで、どれだけ苦労なされて書いたか。なかには文章を書くのは苦手な方もいらっしゃったのではと推察する。ほんとうにありがたい。

    真摯な姿勢に満ち溢れる文章には、僕への健全な批判は含まれていない。「何が書かれていないか」を想像する。「書きにくかったこと」「言いづらかったこと」「書こうとしてやめたこと」などを思い巡らした。自分のなかで批判を形成する。伝えたことと伝わったことの狭間は埋まらない。架空の想像のなかで埋められるだけだ。それでもその作業はやめてはいけないと思う。

    キーボードのキートップをはずして中性洗剤で洗った。キーボードにはバクテリアが確認されることもあり、状態によっては吹き掃除した便座の5倍汚染されているという報告がある(How your computer keyboard is FIVE TIMES dirtier than your toilet seat – and could even give you ‘qwerty tummy’ | Mail Online)。

    また食事中にスマートフォンを触る場合、大腸菌が付着している調査結果をほんのわずかに考慮してもよいかなと思う(実は不潔だった大腸菌群だらけのスマホの現状と対策 – NAVER まとめ)。このあたりに神経質だとややもすれば強迫性障害を患うのだろうか?

    知識を正しく知る、正しく理解するのは難しい。興味本位で細菌やウィルスにまつわるサイエンス本を読むと、正しく理解するどころかおぞましい姿や生活のワンシーンを浮かべてしまい、これでは何のために読んだのかわからなくなる。

    何科か存じ上げないけれど医師らしい先生が表紙の本(それらの本の帯は実年齢に見えない!みたいなキャッチコピーが記載されている)が平積みされており、ぱらぱらめくって、コレを鵜呑みにしたらまずいのではと素人の僕は思うけれど、誰かに「やめたほうがよい」まで言えるだけの知識はないから、リアルにお目にかかった人がその健康法を実践しているって目の前で話はじめられたとき、微笑だけが僕に許された唯一手段だと強く強く己に言い聞かせる。

  • 感性を受信してくれる人と過ごす時空

    2012.09.13 晴れ

    午前中、M社のページ制作。雑務。Amazon.com(co.jpではない)のkindleから”日本語”の書籍を購入してダウンロード。著者の新しい挑戦に敬意。スゴイ。

    kindleから購入した書籍をダウンロードしてiPadやiPhoneの端末が自動で同期して、いつでもどこでもkindleを使えるいずれの端末からでも前回読み終えた場所から再開できる。このユーザ体験はすばらしい。心底驚く。

    洋書ではあたりまえのコトでも日本語の書籍はまだ実現に至っていない。日本のAmazonでもサービスをスタートさせるとの報道を読んだが交渉が難航しているとも。日本の出版業界は理解してもできない。事情や背景を知らない。理解してもできない、やらない、って構造は出版業界に限らず至る所の組織にころがっていそうだ。

    午後から先生のご自宅でMacとTime Capsuleのセッティング。まずはお互い持ち寄った焼き菓子や洋菓子でおやつタイムを過ごす。おいしいモノと感性を受信してもらえる方々と過ごす。嬉しい。

    結局おやつたいむは1時間をオーバー。腰はすっかり重くなったけど、ゆっくりはじめる。まずは古いルータからTime Capsuleに設定を移行。Time Capsuleをルータに使うのはちょっとためらわれたけれど、やっぱりスマートなスタイルがよい。

    Time Capsuleの設定。MacBook Pro 15inch RetinaとMacBook Pro 15inchの2台をTime Capsuleに接続(MBP 15inch×2なんて、なんて羨ましい!!)。TimeMachineの設定。プリンタを無線LAN経由で接続。2台からテストプリント。テレビの動画配信を確認。最後にWindows PCの接続を確認。すべてOK。

    19:00からイタリアレストランで御相伴にあずかる。先生が詳細をFBにアップ。FBにアップされていたピザをはじめ、すべて美味。おいしい。ほろ酔い+設定がうまくいった = 饒舌 の語り口になってしまったのは反省点。ホント、楽しかった。食事しながら先生と奥様に対する僕からの距離感を測定していた。言葉でない部分。肌の感覚や表情、笑い声、手の動かしかた、身ぶり、食事をとりわける仕草、そういった「言葉でない要素」が距離感にとってとても大切だ。とてもとても大事。

    それらを意識して認知しようとても膨大な情報量になるから無理だ。どれだけ自然体になって全身で察知するか。それを全身に記憶できるか、と僕は勝手に思っている。それぞれの反応をあとからひとりで反芻したとき、自分の失態や失言、喜びや愉しみなどをフィードバックできる。

    京阪石山本線別所駅

    帰宅後、興奮さめやらぬ。この興奮のあとにやってくる凹みがコワイ。だからリズムを均衡にゆっくるもどしていく。少し時間はかかりそうだ。

  • 下手なインタビューは相手の怒りを買う

    2012.07.31 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=QJO3ROT-A4E]

    今朝は One Direction – What Makes You Beautiful でスタート。5人組らしいけど、日本ならどんな位置づけなんでしょう。アイドル? 某巨大音楽会社の稼ぎ頭? ついつい「英語」だと夢想してしまいがちですが、自国の座標軸と比較できたらイメージしやすくなるね。

    第三十五候、土潤溽暑。陽炎立ち上がり。アスファルトの熱気。いくつかの銷夏法をためしたところで焼け石に水ではあるまいか、とくじけそう。緑ますます濃く、蝉が鳴き始める。蝉も暑かろう、昼に鳴き声は聞こえない。

    苦瓜を買いチャンプルで食す。あぐー豚と炒める。食材がそろえば炒めたらよいのでありがたい。フライパンの熱気には閉口するが。味付けはだしとめんつゆ。

    午前中、M先生のサイトを制作。少しはやめのランチをすませ正午過ぎに出発。Kさんと営業。また同行してもらった。今回は滋賀の遠方だ。

    14:00すぎに拝顔して15:15頃に終了。自分の稚拙なインタビューにため息。もっと深く掘りたかったが、だめだった。掘り出すための最適な質問を思い浮かべられなかった。想定していた質問と定型の質問は投げかけられても、それらが紡いだリアルタイムの回答から重層的に展開できるキーワードや文脈を見つけて質問を繰り出せなければ、良質なインタビューにならない。

    今回のインタビューは「お話しを伺った」だけになってしまった。Kさんにも申し訳ない。合間に何度か質問をはさんでフォローしてくださった。フォローしなければならない情況を僕がつくってしまってはダメ、Kさんは観察に徹してもらわないと。あとから観察の結果を伺う。周囲を焦らせている、話に臨場感がなく、停滞しているから傍観者がフォローを入れなければならない。

    17:00まえに京都駅に到着。30分ほどお話しして、Kさんは次の会合へ。Kさんの人脈づくりに感服。僕には到底まねできない。Kさんの言動から人脈の価値と威力を痛感する。人脈を形成するために東奔西走する姿をおりにふれ拝見してきた。経営者はKさんがいれば心強いし、安心できるだろう。

    大企業や官公庁と違って、人脈の形成に雛形やシステムはない。洗練された「やり方」はない。中小企業や小規模の組織は暗闇の中を自分の感性を頼りに探し回り、自分のスタイルを身につけなければならない。だけど、周りはそう見ない。レールが敷かれていて、レールの上に自分をのせれば、あとはお客さんのもとへ連れて行ってくれて営業できる、と思っている。だからレールが敷かれていないと認識したら、「システムがない」「拠点がない」「組織的な営業ができない」を連呼する。もとより「組織的な営業」は幻想だと思う。

    父親が某大手の生命保険会社の営業をやっていた。定年退職してからほんとうの営業の話を聞いたとき、営業の地獄と真髄を知った。紹介やルートセールス、飛び込みでもない営業。ほぼ無から自分の才覚ひとつで「拠点」をつくりあげる営業。売上の中核を担うように拠点を育てる営業。

    Kさんはサバイブできる。氏のような仕事のやり方を身につけていらっしゃる方は、才覚と人脈と技術の3つを携えて組織の栄枯盛衰にかかわりなく生き残る。反面、僕の生き残る能力は低い。これからでも遅くないと信じて身につけていかなければならない。

    “友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学” ロビン ダンバー がAmazonから到着。ダンパー数のお話し。楽しみ。僕はFacebookで自分から友達申請していない。仕事だと思っているので、Facebookの「使い方」を学ぶためにアカウントを持っている。もともとリアルな友達がいないから、申請してくださった方々だけの友達でおさまっている。極めて少ない数。

    Facebookのあちこちのアカウントをうろついて眺めていると、ダンパー数を超えた人が多数いらっしゃる。どうやってタイムラインをコントロールしているか不思議だ。タイムラインをコントロールするための時間も結構必要なんじゃないかと想像したり。

    否、そうじゃなくて、仕事じゃなくて、楽しむためなんだから、と想定を書き換える。制御しなくてよい。タイムラインのすべてに応答しなし、目を通していないかもしれない。「いいね!」のキャッチボールが楽しいのかも、とか想像する。仕事の「目線」だけでFacebookを観察していたら仮説はあらぬ方向へ向かっていく。気をつけよう。

  • ケータイ代は1,000円ほどだってば

    2012.05.16 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=A2pYLcdrcQs

    今朝は Madonna – Crazy For You でスタート。中学生のころ、レンタルレコードへ足繁く通って Madonnaのアルバムからテープへダビングしていました。だからMadonnaの1980年代を耳にすると15-17歳頃の美化された映像が脳内再生されます。

    ドコモから夏モデルの発表があった。ラインナップを見てびっくりした。全機種スマートフォン。私はフィーチャー・フォン(SH-02A)を使っている。2年半前に購入した。端末代は10,000円ぐらいだった。フィーチャー・フォンからフィーチャー・フォンへ乗り換えができなくなった。

    とはいえ、発表会のコメントを読むと、iモード対応端末の発売サイクルが1年になるとの由。なので、次のフィーチャー・フォンは来年の冬春モデルに発表されるみたい。まぁ、気長に待とう。

    スマートフォンを持つメリットが見当たらない。乗り換えに気乗りしない。月々のケータイ代は1000円ほどなので、スマートフォンのランニングコストは高い。

    携帯「電話」しないからだと思う。専らおサイフとチケット端末になっている。自宅ではネットジャンキーでも、外出中はiPod TouchかiPadで読書か論文を読んでいる。読んでいなければTEDや動画を視聴している。それらいずれもしていなければ、紙の本を読んでいる。ネットに接続しない。

    もし、スマートフォンを持つなら、SIMフリー端末をネットで購入して、イオンのSIM(月額980円)かIIJmioのSIM(月額945円)をさして使う。音声通話はフィーチャー・フォンを使う。音声通話は090発信より050plusを使うかな。LINEやSkype系なら「そっち」へ音声通話する。

    iPadやラップトップを持ち運んでいるからモバイルルータと組み合わせて使うほうが、複数の端末をネットへ接続できるから重宝する。あるいはSIMフリーのスマートフォンに高速通信用のSIMをさしてデザリング。

    いまのライフスタイルが定着しているので、フィーチャー・フォン+iPadの組み合わせがしっくりきている。スタイルが崩れるまでモバイル環境を再構築したくないなぁって感じ。

    “星を継ぐもの (創元SF文庫)” ジェイムズ・P・ホーガン を読了。すごいおもしろかったなぁ。月面で発見された真紅の宇宙服をまとった死体が発見されて、調査の結果、彼は五年前に死亡していた、って設定から、どんな結論が待っているんだろうってワクワクしながら読んだ。僕は科学・技術を楽観的に捉えている。科学・技術が生み出した仕組みに問題が生じたとき、科学・技術が解決して乗り越えたらよいと思っている。なので、ジェイムズ・P・ホーガンが語る科学や技術のアイデアと相性が合う。悲観的や否定的にならず、感傷にひたるわけでも高尚な哲学論を論じるわけでもない。とにかく一つの謎が解ければまた次の問題が浮き彫りになるプロセスを堪能できた。

    夕食は、厚揚げ豆腐で麻婆豆腐。豆腐のかわりに厚揚げを使って茄子をトッピング。ご飯は茶碗一杯よりずいぶん少なめにしたのに、厚揚げになるだけでお腹いっぱい。

  • 崩壊

    2012.03.30 晴れ

    今朝はMs.OOJA – Be…でスタート。先日、ラジオで生声とトークを聴いた。よいです。タッパが私よりあるのに驚きました。ライブでステージ映えしそうだなぁ。ライブに行ってみたいアーティストのひとり。

    “奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)” ジル・ボルト テイラー を購入して読み始める。めちゃくちゃおもしろい。竹内薫さんの翻訳が読みやすいおかげでぐんぐん読み進める。止まらない。脳の構造の説明と壊れていくプロセスにひきつけられる。素人の私が脳について軽々に語ってはいけない。読み進めていくにつれそう感じる。

    日の出と日の入りの時間をアプリでチェック。毎朝、毎夕観察している感覚と数値のズレを認識したいので。自分が日の出と日の入りに興味を持つとは数年前では想像できなかった。それを書くならちょっとした料理をするのも想像できなかった。自分がもっとも遠い他者であるとは言い得て妙だ。

    僕は他者を絶対的にも相対的に喋りたくない。ならどうしたらよいのかで留まっている。ここ数年の停滞感はひどい。じっと我慢している。閉塞感はない。焦りはない。魯鈍でありつづける恐怖感を抱える。そんな時期だから他者を絶対が相対で語る口調にたじろぐ。黙って耳を傾けて咀嚼できる粒子を濾過装置にかける。残留物はごみ箱へ捨てる。この態度が絶対的で手に負えないんだけど。

    仕事をしているとき、作業が好きなんだと痛感する。誰とも喋りたくない自分。自宅のネットワーク環境を調整する。仮想化技術の勉強のためにHP Proliant MicroServerにVMWare ESXiをインストールする。サーバの勉強でインストールから環境構築までをオナニーする。そんなときの時間がとても好きで没頭する。エラーの原因を追求して修正する。トライアンドエラーに飽きない。

    そういう自分とミーティングに出席したり打ち合わせでファシリテーションをやっている自分。ズレではないが階調を知覚する。夕闇が迫っている道を歩きながら山の方を見上げるたら明るさがほのかに残っている。いまここから山までを結ぶ空間のグラデーションは何色かなって思う感覚と似ている。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車。60分読書してから目的地まで徒歩。造幣局で立ち止まる。ここの景色が好き。橋の上から夕暮れを眺める。学生時代の動画は鶴橋・上本町・森ノ宮・京橋・桜ノ宮に保存されている。いま、保存された動画を再生するために機会があれば訪れている。コマ切れの動画と実景の差異を修正できなかったり。

    この先どうなるかわからないから覚えている間に再生しておこうと40歳になった日に思い立った。

    19:00からM先生のミーティングに出席。20:00に終了。どこまで先生にふみこんで申し伝えたらよいか悩む。たぶん時機ではない。刀を鞘に音を立てずにおさめた。抜いた刀で傷つけないほうがお互いにとってよいのか、抜いたからには何かを傷つけなければ刀の役割を果たしていないのか、さて、刀の役割とは何だろうって帰りの列車内で反芻する。

    20:00すぎに終了。帰宅後、急速に身体が崩壊。木曜日とさっきまでの復旧が嘘だったみたいな壊れ方。崩れ落ちた。週末、寝続ける。久しぶりに訪れた崩壊。固形物の摂取を最低限におさえて水分補給を心がける。ほんとに久しぶりだここまで壊れたのは。

    目の前に差し出されたら誰にでも理解できるそれが誰の目にもふれていないとしたらそれはあるんだろうか? 誰もそれの見つけ方を知らない。なのにあると直感して探す。

  • 言葉巧みに踊らされケ・セラ・セラ

    2012.03.02 雨のち曇

    今朝はEminem – Lose Yourselfからスタート。世界中で売れまくったナンバも好きでたまに聴きます。アーティストはなにかしらのナルシシズムをあざやかに表現するなぁって感じます。自己愛のパフォーマンスが胸熱。

    朝から雨。天気の移り変わりに一喜一憂して春へ向かう。おだやかな陽射しばかり続くとそれに馴れてしまう。洗濯物が干せない苛立ちと農作物へ恵みをもたらす畏まりは均衡をたもっている。見える秩序は見えない無秩序を隠している。

    なれる、は慣れると馴れる、狎れる、熟れるがある。意味が異なる。なれましたか? と尋ねられたとき、「馴れる」や「狎れる」をあてない。たいていは「慣れる」をあてはめる。慣れるから狎れるへ変容しても「集合の内側」にいれば知覚しない。馴化。

    周囲の環境から影響を受けて適応していくうちにいつしか周囲の環境へ影響を与える。環境と私はおたがいに作用する。作用が環境と私を更新する。環境になれましたか、と言う。環境がなれましたか、とは言わない。

    慣れるは習慣のニュアンスを含む。馴れるにはない。馴れ、はなじんでうちとけるであり、馴染みのお店といい、吉原では三回目以降の客をいう。初会から裏、そして馴染み。“吉原御免状 (新潮文庫)” 隆 慶一郎 が詳しい。馴れは合いとつながって馴れ合いという。否定的・批判的な意味で使われる。辞書をひくと男女がなれあうこと、野合とあり、もともと否定的な意味ではない。

    朝食のあとに歯を磨く。就寝前に歯を磨く。昼食後の歯みがきを忘れる。忘れるのではなく歯みがきしない。理解していてもやっていない。自宅で仕事しているから歯を磨ける環境である。外出時に歯ブラシを持って外で歯を磨く方々はたくさんいる。「環境」と「習慣」の関係。定期健診で磨き残しを指導される。帰宅後、意識して歯を磨く。翌日、「いつも」の歯みがきにもどる。またふとしたきっかけで「ちがう」歯みがきの動きになる。

    風呂上がりにストレッチをする。ひとつひとつの動きを確かめながらゆったりからだを動かす。するとからだの部位の痛みや心地よさがときおり違う。毎日、丹念にストレッチできない。数分でもいいからやるようにしている。なにもしなかったときは寝るときに「頭にきちんとストレッチがよぎる」ほど意識して寝る。

    習慣には消極的と積極的の二つの側面がある。消極的は無意識と、積極的は意識とリンクさせると理解しやすいと思うが、ことはそう単純ではないだろうとも思う。積極的な習慣は変化を察知しやすいから自覚してフィードバックできる。自己変容のプロセスをメタ認知できる。消極的な習慣では難しい。

    そして両方の習慣が馴れたとき、やっかいだ。毎日の腹筋・背筋、たまにやる腕立てとスクワットから実感。惰性でやっている。習慣が馴れてしまっている。腹筋は身体を曲げる行為に近い。なぜならたまに「違う」腹筋をやると腹の内側の負荷を実感する。背筋も同じである。

    「あっ、また同じことをやるな」と脳か身体か知らないけれど「事前」に察知して、「それ」の動きにあわせてしまう。だから騙さなければならない。ふだんとは違うやり方で「うぁ、いつもと違う」と「何か」を騙せたら身体は悲鳴をあげる。が、ここで騙しているのは誰か? という“ユーザーイリュージョン―意識という幻想” トール ノーレットランダーシュの疑問がよぎる。まさかホムンクルスの小人が……そんなわけないと。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車。マクドナルドでケミカルフードを食べてfacebookにチェックイン。目的地まで歩く。約40分弱。やや大股で歩いているからか、前日も最寄り駅手前で下車してF先生の医院まで歩いたためか足の動きがわずかに重い。重いといっても気怠い重さではなく足に適度な負荷がかかって心地よい疲れ。

    19:00からM先生のミーティングに参加。ファシリは私。20:00に終了。最後にやや心配な要素を観察できた。沈黙。医院が「当事者」の概念をどう定義しているかによる。その概念に関する情報を私は収集できていない。よって観察の結果を検証できない。検証していない私見は実行力をともなわない単なる批判である。

    週末、自分を楽しませないと。不調傾向が上昇中。

  • 念慮

    2011.10.14 曇のち雨

    CMスキップ機能搭載の録画機を開発した企業のCMを見てもらえない

    第五十候、菊花開。滑子をちょくちょく買う。味噌汁で使う。汁にぬめりがでる。天然物は秋から初冬。柘榴がならびはじめる。めったに口にしない。

    風呂から上がって寝る前にストレッチする。ストレッチしたらよく寝られる(ような気がする)。サボったときは眠りが浅い(ような気がする)。たぶん気のせい。少し強めのストレッチはさわやかな疲労感をもたらしてくれる。

    なのにサボる。毎日やればよいのについつい寝てしまう。絶対やらなければならないコトではない。やらないからといって目に見える支障をきたすわけでもない。スキかキライかと聞かれたら面倒だと答える。

    自分を損なうって、小さな積み重ねなんだ。ストレッチすれば良質な睡眠がとれて目覚めがよいとわかっている(あるいは錯覚している)のに、ついついやらずに朝を迎えて、ボォーっとする。3日もあけば身体はガチガチ。もうやりたくなくなる。

    私が率先してやっていることを他人がやらないからという理由で他人へ「感情」を持つ。立場を入れ替えて、他人がやっていることを私がやらないからという理由で他人が「感情」を持っているかもしれない、そんな想像は欠落している。

    そうしてストレッチをやらない自分は損なわれていく。

    絶対やらなければならないコトでもないし、やっておいたほうがよいコトなんて、たぶんごく限られている。なのになぜだかわからないけれど、「やっている」私と「やっていない」他人を比較して、「感情」を芽生えさせ、やがて「感情」は自分で制御できなくなり(私は制御できていると思い込んでいる)、「感情」は言葉にならない「からだからにじみ出るヘンなふるまい」へ昇華し、他人との「関係」を停滞させる。関係が良好、関係が悪化ではない。停滞する。

    ストレッチすればよく寝られると錯覚している私はやらない他人へ「感情」を持ち始める。

    良好と悪化は、きちんとまじりあったうえで生じた均衡の崩れだから、混じり合ったプロセスをお互いふりかえられる機会を得たら修正できる。契機を得られるか得られないかは運かもしれないけれど。

    停滞は違う。まじりあわない。お互いに見えない線を引く。どちらが先に引いたか判別できない。気づいたときには境界が設定されている。境界が設定されていることをお互いが自覚している。沈黙の応酬。沈黙の眼差し。不愉快の視線。自覚を言い訳にして契機からますます遠ざかる。自分の進化をさまたげる。

    自分を損なうとは、自分自身が自分の変化を妨げて、他者の知性にアクセスできる可能性を自ら閉ざす行為だ、と感じる。思ったり考えるではなく、そのように感じるだけ。他人が自分に対してもたらす災いによって引き起こされた不幸な状態ではない。

    正法眼蔵随聞記 五 六 学道の人悟りを得ざる事は

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.294

    「本より誰教へたりとも知らざれども、心と云へば念慮知見なりと思ひ、草木なりと云へば信ぜず。仏と云へば相好光明あらんずると思ウて、瓦礫と説けば耳を驚かす」のくだりを自分にあてはめる。仏は瓦や石だと言われて驚く。難しいことではない。ちゃんと自分にあてはまる。そう言われたら驚く。言われても信じない。

    誰から教わったのはさだかでない。さだかではないけれど確かに「何か」と思い込んでいて、その「何か」が現実と一致しないと、信じない。現実をゆがめる。

    本を読み、本に書いてあることと現実が違うとしても本を捨てない。その反対もある。自分の考えと本の主張が違えば、本がおかしいと思う。

    こだわることにこだわらず、目の前で起こっている出来事を素直に吟味できたらちょっとだけ自分を褒めてやりたいんだけど、そんな機会は訪れない。はがゆいね。