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  • 実否

    2011.11.09 曇時々晴れ

    二十四節気、立冬。暦の上では冬の始まり。もう秋とはいわない。朝の気温が先週より低く、平年並みに。第五十五候、山茶始開 。旬の葱。ヴィーガンは三厭五葷をとらないとのこと。三厭五葷をとらないベジタリアンをヴィーガンというのか、ヴィーガンのなかには三厭五葷をとらない人がいるのか知らない。葱は五葷のひとつ。煮るとほどよい甘みがある。信仰と信条と食が密接に絡み合っているのでそっとしておく。

    一ヶ月に一,二回、意見箱のボードを読む。苦情や評価、要望などが書かれている。それらに対してひとつひとつ返答してボードに貼り付けている。とにかく驚く。それはいくらんなんでもいいがかりじゃないかなって思える意見、ものすごく細かい点について「がなり立てる」がごとく書かれた意見など。かと思えば対応が良い人を絶賛する感想、商品への好印象なんかも記されている。

    今回、トイレについての記載が多かった。というのも一部の配管が故障していて、以前から複数のトイレが使えなかったからだ。さらに一部の場所では異臭が感じ取られる。配管が通っている天井の真下で座っているとなんとなく臭う。トイレも臭ったらしい。異臭への感度は個人差によるので他人がどんなふうに感じているかわからない。私はこれらについて夏から気になっていた。といっても腹が立つほどでもないし、そんなものかなぁって思える程度。

    人は一度なにかの不具合から生じた問題に気がつくと、不具合に付随する些細な点にも目を向ける。今まで目につかなかった点が面に変わる。「トイレが汚い」が多かった。あまり目にしなかった苦情。掃除の仕方について細かく書かれていた。単純に「汚いからなんとかしろ!」とだけ書いてあったり。様々。

    私の感覚だと小綺麗な飲食店で食事していて、トイレに立った時、わずかに汚れているだけでがっかりする時がある。反対に雑多な雰囲気のお店でもトイレがピカピカだと、「おおぉ」って感じで嬉しい。現金である。

    外出先のトイレなんて、もよおさなければ行かない場所なんだし、運みたいなもんだ。たまたま運悪く(良く?)行ったばっかりに感情がブートして印象が書き換えられる。なのに自分の生活のなかでは重要な地位を占めている。

    それにしても苦情は言いっ放しでよいから苦情といえるんだけど、苦情に「こうしたらどうだろうか」と付け加える人は。一割未満ってとこ。「最小限の苦情で最大限の利益を」という消費者の行動様式は定型化されたみたい。この定型はイオンに限らずどこにでも適用できると思っているんだろうなぁ。

    正法眼蔵随聞記 五 十二 伝へ聞きき、実否を知らざれども

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.326

    出家人の宝は知恵や功徳である。財物ではない。他人の無道心の間違いを即座に決めつけたりせず、手立てをめぐらして相手を腹立たせないように言うべきである。たとえ法にしたがって責めるにしても荒い言葉を使ってはいけない。

    今回の最後の一文は峻烈だった。

    小人は些細な言葉でも言い方がまずければすぐに腹を立て恥をかかされたと思う。対して大人はそうではない。大人は打たれても仕返ししようと思わない。そして曰く、「国に小人多し。つつしまずはあるべからず」と。

    そう変わっていないのかもしれないなと上から目線のしたり顔で読んでしまった。すごいな、しかし、この物言いは。

  • 詮索

    2011.04.22 曇のち雨

    雨が続く。昨日、13℃ぐらいの朝だと過不及ないのにと書いた。あとからなんでとひっかかった。なんで13℃。気温を確認して寒い、と感じない。順序は逆。ひとつ数値に対して感覚はいくつもある。13℃はひとつ。寒い、肌寒い、薄ら寒い、うそ寒いとか。それぞれの感じ方。気分や状況、体調でかわる。人によってちがう。

    昨日の朝は7℃で今朝は13℃と、昨日の朝は19℃で今朝は13℃とでは、外気にふれた皮膚の感覚は異なる。冷から暖と暖から冷。

    21日の夜、カレーを食べる。一般名詞のカレーをなんども食べたので僕は食べる前から味を知っている。カレーにかぎらない。カレーや玉子焼きや唐揚げ、あげれはきりがない。それらは議論の的になりかえない。舌は固定観念らしき味をそなえている。カレーはドロドロかサラサラか、譲れない。とはいえ、その前にそもそもの味がある。玉子焼きも甘口か出汁系かとか譲れない。とはいえ、その前にそもそもの味がある。

    その味は人それぞれ。その味がその人にとってのその料理の基準である。「その」は「なに」を指しているんだろう。各自におまかせする。

    その味が味覚だなと思う。口へはこんだ料理がその味と一致すればほっとして、ずれたらヘンな感じ。ヘンだから不味い、ではない。うまいとまずいは本人だけが判る。やっかいである。13℃+マイナス3ならうまく、それ以外はまずいというぐあいに絶対的な基準があって、うまいまずいを判別しているのか。そうではないと思う。

    味覚と味わい。浅慮はとまらない。

    午前中、O先生の症例ページを修正して公開。午後からM先生のテキストを練る。MacBook Proを新調したい。買うなら17inch。悩み。使っているPhotoshopとillustratorはSnow Leopardに対応していない。どんだけ古いバージョンで仕事してんだって不審がられて信用を失いそう。サイトの構造と情報の設計、アクションまで道筋が僕のUSPと勘違いしているからグラフィック系のソフトへ投資してこなかった。ツケがまわったかな。

    夕方、大阪へ出発。丸ビルのスタバで読書してから19:00からM先生のミーティングへ。この数回、訪問診療のふりかえり。訪問先の情報をだしあってる。

    二人で訪問して同じ場所、同じ時間、同じ人を診る。そこからきりとられる現象は異なる。それが視点。あの人は「それ」を見ていたのか、という気づきがミーティングの醍醐味だ。「それ」を情報として紙に記入する。記入の行為は視点を獲得したことにならない。次に訪れたら気づいた視点を試す。何が見える? ミーティングでふりかえったような情報がある? 違う? そんな吟味のなかに一度きりのシーンがあると僕は思う。同じ視点から見ても前回と同じ景色を見えない。

    20:00ぴったりに終了。さすがMさんのファシリテーション。外部のMさんの能力はすばらしい。マネジメントの能力を教わっている。

    通いの立ち食いうどんを食べて帰宅。ここのうどんがお気に入り。

    大津市議選、誰に投票しようか悩む。とりあえず、名前を連呼して走り回る人と「公平」って単語を広報に使っている人、大キライな「街づくり」を主張している人、を消去法で消したら白票である。それはさけたい。難儀だ。

  • 失態

    2010.11.22 曇のち雨

    季節はきちんと移り変わっている、太陽の運行は規則正しい、って今の生活リズムは教えてくれるからほんのちょっぴり理解できるようになった。ほんのちょっぴり。朝、部屋のカーテンをあけたら冬至へ近づいている。自然は、と書くこと自体が不自然だ。意識しなければ感じられない自分の身体感覚のほうが狂っている。

    11:00前ごろにF先生から電話とSkypeで連絡があった。僕のミスが現場に混乱を招いた。先方に業者の方がいらっしゃったので電話からお願いして対応していただいた。その点は幸いでした。事前に把握していれば対処できた問題だった。ネットワークとコンピュータが稼働したら全端末の電源を一度落としてから再起動させるようにと自分の経験則は警告していたのにそれを怠った。言い訳が許されるなら自分の管理の外側にあると思い込んでいた端末を調べなかった。管理していた端末は再起動して稼働したので安心してしまった。失態です。

    先月から Superfly の Perfect Lie を聴いている。昨年 iTunes store で購入した。当時、週末の夜のマイスタンダードナンバだった。それから聴かなくなった。先月からまたスタンダードナンバーへランキングイン。Superfly はカバーというか外国の曲を歌っている方を好んで聴く(オリジナルも聴く)。安定して聴いている曲は DesperadoSummertime

    Perfect Lieの歌詞は素敵です。特にラストの 「抱きしめたり 甘いキスを交わすのなら 完璧な嘘で私を欲しがって 聞き分けのいい 私にはなれないの 枯れた言葉じゃ 完璧な嘘で 私を騙して」は混沌です。

    完璧な嘘は現実でしょうか。虚構でしょうか。完璧な嘘の物語は虚構でも完璧な嘘を物語るは現実。物語と物語るは異なる。

    不安定な関係の中で駆け引きしているとき確かな行為より掬い取れない言葉に引き寄せられる。言葉を紡いだ実体より言葉そのものに惹かれ、極限まで引き寄せられてから実体を知り逕庭が生まれる。逕庭と感情の深遠は比例する。逕庭は完璧な嘘を現実と認識させることもあるでしょうし、逕庭が虚構を認識させ関係を引き裂くこともありえます。

    最後はどうでもよいんだ、と到達する観があって自分のふるまいを自分から突き放せるから緊張を維持できる。安定した緊張を維持できないから不安な感情が訪れ定期的に私を損なう。最適な緊張は難しい。

  • 台詞

    2010.11.15 曇

    日記の冒頭を書けない。自分が見たモノを記憶から取り出そうしても思い出せない。思い出は記憶できるけど思い出せない、とは違って、記憶へ残せるように見ていないかもしれない。今日でいえば一番記憶に残っているのは、夕方の空だ。宮崎駿先生のアニメで描かれていそうな雲。色は灰色と紫色がまじったような暗いイメージの雲なのに空は青く、そのコントラストがミスマッチで鮮明に記憶に残った。

    終日、アルバイト。日曜日もずっとアルバイトをして今日で仕上げられた。とても順調だった。効率よく入力できると嬉しい。

    設備投資の借入金は選択肢を増やす資金調達だし、人間の体でいえば体質改善につながるかもしれないのでよいと思う(プロテインはアリでもドーピングはイヤだな)。他方、資金繰りの借入金は危険だよ。痛感。サプリメントを飲んで一時的に栄養を補給できたとしても体質は改善されにくい(あっ、いやサプリメントを否定しませんよ、エバレッシュB26は効果覿面)。さらに次に打つ手を狭めてしまう。選択肢を減らす資金調達だと僕は思う。

    というわけで気分をよくしたので夕方にディスカウントストアへ。徒歩10分のところを回り道して20分。このストアはちょっぴりマイナなシングルモルトと外国製の調味料やオリーブオイル、菓子類の品揃えが豊富。クレイジーソルトやオリーブオイルが安いので重宝している。その帰りに雲に出会った。空を見上げてよかった。

    『プレイバック』 レイモンド・チャンドラー に “If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.” という台詞がある。いくつかの訳があるけれど、以前、ラジオ版学問ノススメ(ゲスト高樹のぶ子先生)では「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」と訳していた。

    こんな台詞を日常生活で喋る機会があったら、よほど浮世離れした生活かあるいは言文一致運動に反対している人の会話だろうなあ。

    とはいえ、大学の時に読んで小説の内容を理解できずに読み捨てて、その後、何かの拍子でこの台詞と出会い、そして何度も見かけるようになってだんだん滋味深い言葉として受け止められるようになりました。

    最初は、「勝負への勝ち負け」的な強さを思い浮かべ、それから「他者(=人だけでなく)に対して肉体的・精神的な耐性」の強さを想い描いた。今はまったく違う。自分に対してだけの強さだ。それもコンクリートのような強度ではなく、しなやかで粘りのある行動と素敵な孤独を感じる感性から構成される強さをイメージしている。言い換えれば自分はとても弱い存在であることを完璧に認知できている状態ですね。またこのイメージも変わっていくでしょう。

    優しくなければ……も同じく優しさへの解釈は変わってきています。自分にも厳しく他人にも厳しい状態は存在しないし、他人に厳しいのは自分を厳しくしなければならないことから逃げている代償だ、と自分を観察した結果から判断するようになった。自分の見栄や虚勢を注意深く観察していればわかってくる。それでも見栄や虚勢からまだまだ脱出できません。

    「ああ、これを言ったらどう思われるかな」と考えている間、要は他人の評価を気にしているかぎり優しくなれない、じゃぁ、他人の評価を気にしなくなれば独善的になる恐れもあり、他人の評価を気にしないで独善に陥らない視座を追い求めていく先に優しさが見えてくると思います。

    「あなたのために言っているのだから」という台詞を忌み嫌うようになったのは、それは「あなた」のために言っていないなあと自分の言動をふり返って導き出した結論です。だから、自分の思考に極限まで素直になって相手に率直に意見を伝達する。伝わるなんて期待しない。それが優しさの入口のような気がします。

    もう一つ。『長いお別れ』 レイモンド・チャンドラーから。原文は “To say Good bye is to die a little.”で、訳は「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」そうです。さよならという言葉がTwitterのつぶやきみたいに生活のタイムラインへ消える。そして時間がたって躰が「空白」を認識したら、空白を埋める作業をはじめる。その時、言葉から取りのぞかれた「さよなら」を知覚したのでは、ね。うん。

  • 性差

    2010.06.09 晴れ

    M先生から頂戴した白州がもうそろそろ終わる。ショットグラスにちょこっと入れて飲んでいた。2月の終わりに頂戴したので、もっとはやく飲み終えないと本来の風味が損なわれているかもしれない。でも、やっぱり嬉しいし、もったいないから少しずつ飲んで、今では名残顔。ディレンマ。

    WPの制作。一からコーディングしてる。まだまだ時間がかかりそう。はたしてフリーランスの間に終わるのか、って自嘲してしまいそうだ。

    先日、労災事故によって顔などに傷を負った男性が障害の程度は女性よりも軽いと認定されたのは不当だと訴えた裁判の判決記事を読んだ。自分は判決に同意した。深く考えて同意したわけじゃないし、デリケートな要素もあると思うから賛否はあるかなって想像する。

    この記事を読んで、ふっとオーバーラップしたのが、最近読み終えた『万物理論』 グレッグ・イーガン で提議されたジェンダーについて。性別の姿形で「判断」される「ひとくくりの見方」に対する問題。「汎性」(言語はasex)という人間がいきなり脈絡もなく登場してかなり戸惑った。あと、強化男性(umale)、微化女性(ifem)、転男性(en-male)が登場し、それぞれ「性」の定義が異なる。

    興味深い点は、森博嗣先生の百年シリーズ(『女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN』 『迷宮百年の睡魔』)でも、同じような視点と発想が取り入れられている。時代設定は22世紀。登場人物の名前はサエバ・ミチル。読み進めると、「ああ、そうだったのか!」と驚く。この2冊は、自分が今まで読んだベスト10に入る。とてもおもしろい。今でもふらふらっと再読してしまう。

    『A.I.』 のラストシーンも印象に残っている。半透明・人型のキャラクター(“専門家”)は外形から性を判定できない。コミュニケーションは人類と異なる手段を用いている。

    男女の身体的特徴が、「自分」を判断する基準の一つに組み込まれている事実は、今のところ否定できないのかもしれない。未来は、この判断の基準を完璧に廃絶するのかどうか。その場合、テクノロジーの進化は廃絶と密接に連関するのかな。テクノロジーが進化して、仮にロボットやコンピュータ、マシンが労働や生活の環境を整備してくれたら、人類が性差を判断基準に採用するシーンは何だろう。

    姿の性差で判断されるより前に、もっと外形の要素が印象の影響を与え、その影響が判断を左右しているのかも。自分の場合、”頭”でファーストインプレッションを抱かれやすいし、そう抱く人を信頼しない。好悪じゃない。同時に自分もそんなくだらない要素で人の印象を決定している。

    ほんとくだらない。クソがつくほどくだらない。でも、そのクソを頭からとっぱらえないのがクソだなぁ。ああ、そうかクソを使うのも大便に失礼だよ(笑)

  • 忌明け

    2010.02.11 雨

    満中陰。精確には二月十二日。くしくも自分の誕生日に義父は極楽へ旅立つ。49日かけて中陰の道を歩き審問を受ける。六道のどの世界へ輪廻転生するのか。浄土真宗はみな極楽へゆくらしい。信心深くなったわけでもないし、関心もない。おもしろいと思う。

    十三宗五十六派。政府が伝統宗教として承認した宗旨宗派らしい。現在は宗教団体法が施行されているので関係ない。十三宗五十六派どころか一万あるとも言われている。そして、信者は4億を超えるとも。日本の総人口を一億二千万とすると、全員が3-4の宗教を信仰している計算だ。クリスマスを祝い、大晦日に除夜の鐘をつき、その足で初詣すれば確かに3つ。この奇態を八百万の神と云い、うまく表現したと思う(意味が違う)。

    四十九日。七日。七×七。7は不思議な数字。1/7,2/7,3/7,4/7,5/7,6/7…..分数の解を書き並べてみると驚く。美しい。『すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER』 の真加田四季博士は孤独と表現した。

    満中陰。お陰様で、との挨拶。懐かしい響きでなくてよかった。そうお陰様で。地域社会や共同社会という声を聴く。地域は消えたかのように錯覚する。だからもう一度、地域を「見える化」しようと取り組む。行動する。ステキだし素晴らしい。ただ、「見える化」しすぎると、奥床しいふるまいが失われる。地域を形成する大切な要素である。

    地域と死は連関しているようでしていないのか。興味深い。生は地域にあり、死は身内にある。死を迎えた、「方法」を気にし始めた人々がいる。「死に方」に悩む風潮はあった。だから健康が第一と”わざわざ”口にするようになった。今度は死を迎えた後の「方法」に悩む。葬儀は家族だけで、お墓はいらない、法事もしなくてよい、などなど。それらと呼応するように明瞭な葬儀が人気である。イオンは宣伝こそしていないけれど、葬儀業界へ参入して着実に売り上げを伸ばしている。人気の理由は明確な価格体系。

    地域を「見える化」する一方、死は身内で、だけど無縁死は嫌、これはすべて同じ集合か。あるいは別の集合であり、それぞれの活動がクローズアップされているかもしれない。「わからないものはわかりやすく見えるようにしてほしい」という願いは共通している。

  • 落胆

    2009.09.07 晴れ

    06:01起床。暑い。緊急事態は日曜日で終熄にむかうはずだけど、そうならなかった。肉体的疲労より精神的打撃が大きい。自分ではコントロールできないので、被害の計量からはじめないと。計量と評価と交渉。これらにかかる時間。時間は金、と思わない。金と等価交換できるほど時間の価値は低くない。時間はもっと上位のレイヤにあり、その時間が他者の手に委ねられて生じる不安。

    O先生のページを作成してメール。もうそろそろ改修の時期と判断。先生もそのように判断されているご様子。

    12:00前の新快速でF先生を訪れる。PCにメモリを装着。512MB×2=1GB。M/Bにメモリを装着して、電源ONでBIOSチェック。物理的に認識。ビープ音のエラなし。OSを起動させ、少し放置。エラーなし。アプリケーションをいくつか立ち上げる。エラなし。初見では相性の問題は発生しなさそう。体感速度は向上したように受け止めたが、こればかりは主観的なので何とも言えない。ベンチマークをとれば数値は4倍近くに向上するだろうけど、数値と体感は同値じゃないので。デフラグすればさらに環境は改善されるだろう。

    その後、ミーティングに出席。

    17:30に帰宅。落胆。さてどういった手を打とうか考える。

    昼食はパン二切れ。夕食はごはん, ハマチの照り焼き, サラダ, 味噌汁。ハマチは、 09/04(金) にM先生から頂戴した。大きくて驚いた。鰤の照り焼きは好き。ハマチを照り焼きにしたのは初めてだと思う。調べたとおりつけ込んでからフライパンで焼いた。鰤よりあっさりしていた。しっかりした身。血合いの部分に栄養を感じた。

    ある先生は、「外部評価が非常に低く、自己評価が異常に高い人間」のことを私たちの社会では一般に「バカ」と呼ぶ、 と言う。念頭に置く言葉であるけれど、「バカ」な自分と出会う。勉強や知識の多寡、修辞の優劣、弁舌の技法に焦点をあてるからだろう。くだらない。すべての脳細胞と五感を発動させても、「自分が”バカ”であること」に気づくのは難しいのだろうか。

  • 衒学

    2009.08.08 晴れ

    06:58起床。頭は夏季休暇モードに突入したみたい。だめだな。朝からぴーかん。暑い。ものすごい暑い。家の中がサウナのよう。青紫蘇がぐんぐんのびる。今年の青紫蘇はあまり喰われない。虫がすくないのか、天候の影響か。

    暑い家の中で終日読書。『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ)』 麻耶 雄嵩 を読了。衒学的か哲学か。文体と表現が決定する。意味は捨象される。衒学的は裏を返せば読者の嫉妬かもしれない。自分の知識が通用しない領域へ突入する物語への拒絶反応。娯楽なのに苦痛を伴う疑問。疑問は自責から他責へシフト。怒り、蔑み、嘲り。メタフィクションを好むので自分には合っていたと思う。ただし、誰の視点か定まらない表現は混乱へ陥れた。それが読みにくかった一因。

    夜、『クライマーズ・ハイ』 横山 秀夫 を視聴。原作 と少し異なっていた。原作は少し冗長的な印象を受けた。映画はその部分をばっさりカットしてあった。新聞社の中の人は、全く異なる印象を抱くだろう。映画の新聞社へ異論を抱く現実の新聞社。映画の新聞社へ現実を投影する一般人。映画の雰囲気が現実の新聞社と近いとするなら、言論の世界は異様なんだなぁと思った。建前の封建制度と本音の民主主義。あそこの人たちは上司ー部下の中に建前と本音を持っている。アンビバレントな関係がもたらすあそこの人たちの感覚は一般人と異なる。「作る」と「売る」が分業された異常なビジネスモデルは、スクリーンのなかで象牙の塔を築いていた。一次情報のプライドが壊されない限り、スクリーンの人たちはさらに強固な象牙の塔を築くのだろう。

    何かを書くとき、型があれば、効率がよくなり安定する。書くための型は、いつしか思考へ適用され、型どおりの思考がもたらす行動は単一化する。

  • 認識を認識できるか?

    lake BIWA

    世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々がーーー天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよーーー心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を関知することのできない一事なのである。

    『自由論』 J.S. ミル P.132

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  • 余計なお世話を焼けば焦がしかねない

    サンパチェンス

    外界の知識(情報)と頭の中の知識(情報)は、どちらも私たちの日常の活動にとって本質的な役割を果たしている。しかし、そのどちらの方をより重視するかは、ある程度は私たちが選択することができる。しかしこの選択にはトレードオフがつきまとう。すなわち、外界に知識を置くということの利点を使おうと思えば、頭の中に知識を置くことの利点が失われる。

    『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』 ドナルド・A. ノーマン, D.A. ノーマン P.128

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