タグ: K10D

  • ここはここ

    fallen leaves

    親鸞はここで修行の「目的地」という概念そのものを否定しています。行の目的地というのはいずれにせよ現在の自分の信仰の境位においては、名づけることも類別することもできぬものである。だから、それが「どこか」を知ることはできないし、私が間違いなく「そこ」に向かっているのかどうかを訊ねれば教えてくれる人もいない。だから、目的地については論じることは無意味である。行の目的地からの遠近によって「ここ」の意味が決まるのではない。「ここ」は「ここ」である。信仰者にとって、すべては「ここ」で生起し、「ここ」で終わる。「ここ」の意味を「ここ」以外の、「ここ」より相対的に上位の、相対的に超越的な「外部」とのかかわりで論じてはならない。

    『日本辺境論』 内田 樹 P.167

    僕の内から外へ基準を置いたとき「外部」が現れ安堵する。外部が思考と判断を司る。自分の位置を確認しなくてよい。代償は「ここ」を失うこと。

  • あの観察を連想する

    科学は自然を認識する学問であると、よくいわれる。自然を認識する第一歩といえば、それは観察である。よく自然を見ることから科学は始まる。ところが普通に観察というと、すぐ小学校や中学校などで、動物とか植物とかを観察するという、あの観察を連想する。そして物理学や化学のような学問は、もはや観察などの域をとっくに離れているように考えられがちである。[…]しかし観察ということは、非常に大切であって、このごろのように科学が進歩し、かつ専門家していても、やはり観察を無視することは’できない。単なる観察などでは、新しい知識の得られる余地がないように思うのは、まちがっているのである。

    『科学の方法 (岩波新書 青版 (313))』 中谷 宇吉郎 P.122-123

    「あの感想を連想する」僕は観察を理解していない。

  • 百年、二百年の時間単位ではない

    Ojiyama

    地球という天体には、自分自身の環境を維持するためのシステムが機能している。二酸化炭素についてはいえば、それが大気中に増えすぎると、増加分は海に吸収され、最終的に大陸に固定される。地球史というタイムスケールでは、大気、海、海洋底、大陸、マントル間の物質循環という地球のメカニズムが働いて、自身の環境を一定の状態に保ってきたのだ(十章参照)。従って、たとえ大気中の二酸化炭素が二倍に増えても、地球の環境維持システムが働いて、いずれは元の状態に復するとも考えられる。ただそのタイムスケールは、少なくとも数万年、数十万年という単位であって、百年、二百年の人間の時間単位のなかで起こることではない。

    『宇宙誌 (岩波現代文庫)』 松井 孝典 P.193

    人智の及ばない時間をヒトが理解できる言語で記述する無駄がすごくステキ。その無駄が最も大切だと思う。

  • 僅かなもの

    生きてゆくのには、ほんの僅かなものがあれば足りる。なけなしの空間と、食物と、娯楽と、器具や道具。これはハンケチの中の人生だ。その代わり、そこには魂はたっぷりとある。そのことは、通りの賑わいにも日差しの強さにも、取るに足らぬ議論の激しさにも感じとられる。

    『悲しき熱帯〈1〉』 レヴィ=ストロース P.236

  • K10D うらメニュー 1.30

    K10D うらメニュー 1.30

    K10D ファームウエア 1.30

    以前からK10Dに「うらメニュー」があって、AFのピントを調整できるとネットで公開されてました。ただ、ファームウェアが1.10やそれ以前でないと「うらメニュー」へログインできないらしくて、私のK10Dはすでに1.30にup済。USBでPCへつないで、専用ソフトを使ってK10Dへアクセスできるとか、ファームウエアをダウングレードしてやるとか、手法はいくつかあるようですが、いずれも手間かなぁと思ってパスしていました。そこへ、以下の情報が。

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  • 無知が予知 法則を推測

    紫陽花

    どうやら、ある発言が真実だと認識するということは、言葉として口にできる以上のことを認識することらしい。しかもその認識による発見が問題を解決したなら、その発見それ自身もまた範囲の定かならぬ予知を伴っていたことになるのだろう。さらに、その発見を真実として受け入れるということは、いまだ発見されざる、ちょっとしたらいまだ想像すらかなわぬ結果を、すべて信じようとすることらしい。

    『暗黙知の次元』 マイケル ポランニー P.49

    自分の喜びを伝えたいあまり上から目線になるらしい。気をつけよう。5年前なら激怒していたけど、憤怒の念が萌さなかった。そういったものかと。コントロールできる引き出しが増えた。自覚できた進歩だ。よかった。

    言葉の取扱いは難しい。取説があればよいのだが、その取説を言葉で伝えることはもっと難しいのかもしれない。

  • にこやかにしなやかに

    ロベリア

    私のしなければならないことは、私の心にかかることだけであって、人の思わくではない。[…..]この世では、世間の考えに従って生活することは容易であり、また孤独のとき自分自身の考えに従って生活することも容易である。しかし偉人とは群衆のただ中に在ってもいかにもにこやかに孤独のときの独立を保持し得る人のことである。

    『精神について (エマソン名著選)』 ラルフ・ウォルドー エマソン P.48

  • rellection

    スマイルイエロー

    ぼくらは世界の「空間」[客観的・外在的な]を見るわけじゃない。ぼくら自身の個別の視野を、生きているのだ。疑いの余地なく、これからのページをつうじて見いだしてゆくように、われわれはたしかにひとつの世界を体験しつつある。だが、この<世界>のことをいったいどんなふうにして知るようになったのだったかを詳しく検討していみるとき、この世界の<見え方>と、ぼくら自身の<アクションの歴史>———-生物学的および社会学的———-を切り離すことはできないということが、かならずわかるだろう。それはあまりにも明白で身近なので、とても見えにくくなっていることだ。

    『知恵の樹―生きている世界はどのようにして生まれるのか』 ウンベルト マトゥラーナ, フランシスコ バレーラ P.23

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  • 徒然に過ぎ去る日を懐かしみ

    皇子山公園の桜

    04/19、奈良を散策。夕方、三条通りを西へそぞろ歩き、上三条町の交差点で北へ向かった時だった。正面から女子高生が日傘をさして歩いてきた。穏やかな顔。黒髪。黒の日傘。紺の制服と濃紺の靴下。白い顔。コントラストが素敵。彼女は28度の街中を涼しげに歩いていた。光が斜めに突き刺す。

    日頃、女子高生が目に入っても脳髄や意識は起動しない。躰はスリープしたまま。あと数年もすれば娘のような年齢差になるのか、と吃驚するぐらい。

    彼女とすれ違う時、すごく美しいと感じた。日傘をかざして優雅に歩く。外連味のない身のこなし。女子高生と日傘の組み合わせが珍しいか否かを僕は知らない。とにかく僕にとって非日常だった。

    GR DIGITALを構えたい欲望を抑えながら彼女の後ろ姿を数秒見つめた。その時、脳髄が懐古の質感を起動させた。過ぎ去った日の懐かしみ。あなたの名を愛しき名を口ずさむ。黒い髪にはじめて触れた感覚が蘇る。白昼夢はあなたの優美な立居振舞を描く。甘い香り。時を支配した20年前の僕とあなたが演じる寸劇を時に支配された今の僕が楽しむ。

    「やすらぎの道」を歩き終えると一瞬のやすらぎは放擲された。脳髄は白昼夢のあなたを保存してシャットダウン、徒然に過ぎ去る日へ別れを告げた。あなたの名を愛しき名を胸に抱き、躰はスリープした。

  • 心は逆円錐形 頭は円錐形

    皇子山公園の桜

    本を読んで、その本を書いた人の言うことを理解するには、まず読む側の「自分」を消さなければならない。ーーーこんなしんどい思いを引き受けてまで「本を読もう」と思う人間は、どれくらいいるのだろうか?

    […..]

    「その初め、たいした重量のなかった”自分”が、本を読むことによって確固とした存在になった」と思ってしまったら、本というものは、その「自分」をよりよい方向に導いてくれるもので、「自分」を肯定してくれるものだと、錯覚するようにもなるだろう。そういう人はいつの間にか、「本を読む」ということが、「自分とは違う考えの人間の言うことを頭に入れて、理解すること」だというのを忘れてしまうだろう。「本を読む」ということに慣れてしまった人は、本というものが「本を読む自分の考えを肯定してくれるもの」と思いがちになるーーー別にそんなことはないのに。

    “橋本治という考え方 What kind of fool am I” (橋本 治) P.39

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