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  • ブレイクスルーした彼女は次の無音状態へ向かうだろうか

    2013.05.15 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=r8w6HYROFfU]

    Def Tech – おんがくMUSIC でスタート。歌詞がよいなぁ。「 音楽がなくても生きていけるけど そんな世界じゃあまりにも寂しいから だから人の心を結ぶのが音楽 その傷ついた心を癒すのも音楽 それぞれの違い乗り越えてゆく音楽 目には見えない偉大な力 それが音楽」だよ、ほんと。音楽のない人生は自分の中にはないな。音楽をやる側にはなれないけれど、音楽を全身と全感にインストール側にはなり続けるよ。

    弱り目に祟り目、腰痛に苦しんでいるところに、ミーティングから帰宅して MacBook Pro 15inch を起動したらディスプレイが故障していた。たしかAppleが修理対応する年数をオーバーしているので廃棄処分しなければならない。かなり痛い。マイッタ。いや、もう次を購入する手立てはないですよ、降参。

    10:00からミーティング。13:00終了。ひとりのスタッフを新人の頃から存じ上げている。その方から仕事で覚えたことや実行してきた道程を伺う。私はその方を見ていないかった。強く実感できる。見ているようで見ていない。

    見たいものしか見ない、見たいものだけで言語を構成して物事を捉えて判断する。怖れていることを、彼女は私に教えてくれる。

    突破 — THINKSELLの裏側 で紹介した一節を思い出した。辺境ラジオのブレイクスルーについてのくだり。

    無音状態に陥った学生は遠ざかる(名越康文先生)。遠ざかっても学生は講義やゼミに出席している。物理的な距離はまだ近い。ところが発言しない。そんな日が続く。どうして発言しなかったと尋ねると、「いや、意見を言わないほうがよかったかなと思って」との回答。やがて学生は消える。眼前から。物理的な距離が遠くなる。

    そして再び目の前に現れた時、学生は次のステージに立っている。コンテンツの質が全く異なるのだ(内田樹先生)。

    教師と学生の間には「ベタな等距離」がないように、組織のなかでも「ベタな等距離」はない。互いに距離を測る。数年前まで、私から見えているように誤解していた彼女は、「無音状態」だった。でも、彼女のなかではそうではなく、自分のスタイルを着実に丁寧に作り上げている最中だった。

    私から見える、「コンテンツの質が全く異なった」彼女はある日突然目の前に現れたのではなく、漸進していた。私が漸進の過程を見逃していただけ。

    しだれ桜

    年齢は関係ない。経験年数は考慮に入れても「見る」ことに大きな影響は与えない。彼女のように、見て、学び、考え、動き、振り返り、整えて、修正できる人がいる。

    我流、独学は理論に太刀打ちできない点はある。体系化された理論は人へ全体を提示できる。理論はそれ自身に反証の余地を残して、新しい知見へ到達できる枠組と素地を持っている。だから理論は便利なツールだ。

    遅くない。いまから後輩へアウトプットしていくなかで、独学と理論のずれを発見して互いに書き換えていけばよいと思う。独学と理論を交換していく更新作業は、拡張された己が浮き上がってくる。己から「見る」他者の視線と他者から「見られる」己の欲望が、己と他の境界線を広げる。

    ただし、再び無音状態へ沈み込む時機が必要かもしれない。

    今度の無音状態はつらい。なぜなら一人で沈む込めないから。周りがいる。後輩がいる。組織の核になりつつある。自分ひとりで淡々と「無音」へ潜れない。以前と異なる責務がある。

    3時間のミーティング、彼女は私の弱点や課題の輪郭をつくってくれた。

    いつも抱く恐怖。自分のなかで育てたつもりでいる感性や知識が壊されていく恐怖。同時に、壊されていけば次の創造が待っている期待。恐怖と期待。だからおもしろい。自分をまだまだ拡張できるはず。

    拡張するまえに弱り目に祟り目をなんとかしたいけど弱ったままでもよいかと弱気。

  • 新しい個体、全体の抑制、部分と全体は…..

    2012.10.23 曇 24 雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=BCOP3TEk0dY]

    今朝は Fishmans – いかれたBaby でスタート。これ、もう何十回視聴したか。ひょっとして三ケタかも。冒頭のシーン、たぶん、「見えた」んだろうなぁ、と空想する。見たくないものか、勝手に見えたのか、どっちにしても脳が creativeしたモノであっても、僕には絶対に見えないモノであり、たぶん見たくないモノだ。ただ、こうやって「あちら」へ踏み込んだと思えるような人の表現をずるがしこく拝見する。それを前にしてただただひれ伏すのみです。

    第五十二候、霜始降。その名のごとく、早朝、外に出ると植木の葉や窓硝子に白い結晶が覆われている。そんな時節にさしかかってきた。旬の野菜は占地。天然ものの占地はまったく手に入らない。本占地、または大黒占地といわれるらしい。スーパでブナシメジを買う。占地はよく食べる。

    23日、東大阪へ。ミーティングの進行や来院者との会話についてしゃべってほしいとの依頼を受ける。10:30に医院に入り、約60分見学して、11:30から13:00までミーティング。60分間で気になった点を記憶した。

    冒頭、「ミーティング」を質問する。返ってきた答えや感想から、医院の「ミーティングの空気」を測定する。各医院はミーティングのユニークな空間を醸成している。ミーティングで使われる単語の「感覚」と「共有」も医院の数だけある。闖入者がミーティングを仕切ると、新しい雰囲気を作り出せる一方で、連続が失われて停滞を呼び込みかねない。その停滞は必要なかった状況である。

    ミーティングの空気を測定して、空気のなかを交信している単語を推量して、どんな話をすれば、理解の糸口をつかんでもらえるかを探っていく。手探りで暗闇を進む時、周りから「声」をどれだけもらうかで、全体が進みたい方角がうっすらと見えてくる。だから「声」は多ければ多いほど助かる。

    組織、または集団は「声」を出す人が定まってくる。それが組織または集団の性質だ。全体は新しい個体の「声」を抑制する。新しい個体は全体の空気を察知する。生き残るため、感情を脅かされたくない本能が機能するからおのずと「声」を自ら制御する。

    そういった「空気」の測定はほんとに難しい。はじめての場での測定は不可能だ。不可能を承知しながら、その承知の非礼を理解してミーティングを進める。

    はじめての場であるから、なるべく沈黙をつくらず、沈黙を排除してしゃべりつづける。あるいは誰かが常に声をだしている状況を設定する。誰かが常に声を出している状況は、「進みたい方角」が360度に広がる。拡散していく声を収集して、分類しながら、いま選択できそうな方角を慎重に選ぶ。

    今回は先生がいつもの調子で意見をおっしゃろうとして、それを必死で抑えている姿を拝見できた。僕はそう見て推察していた。あとで昼食を食べているとき、先生は似たようなことを感じていらっしゃたとのこと。いつもならそのままあらぬ方向へ進むところを、僕が戻していたとおっしゃっていた。先生の意見を伺っても実感はわいてこない。他者はそんなふうに僕を見ている、とだけ記憶する。この確認が会話の醍醐味だろう。

    琵琶湖

    奥様といっしょに昼食をご馳走になった。御両人が感想をおっしゃってくださった。感想を備忘して自分の修正すべきポイントを分析する。喜怒哀楽を極力控え、自分を律せられるように努めて評価の中身を査定する。この「切り離し」作業にようやく慣れてきた。慣れてきたが、まだ感情を抑制できない。もっと深く深く潜らなければ。

    月曜日、一通のメールが嬉しかった。ほんの少し、小さい小さいほんとにごくわずかであっても、どこかの方向へ足を踏み出していると受けとめてよさそうで嬉しかった。でも、毎日そんなにうまくいかないかもしれない。それでもよいと思う。ほんとに目に見えるか、感じられるかどうかなんてわからないぐらいの微細な情感を積み重ねられたらOKだ。

    火曜日、体調が一変した。背中の痛みは増幅、あわせて寒気がした。やや下降線をたどりそうだ。口内炎ができた。なにか食べても美味くない。正直な身体で安心する。不安と怠惰を身体が正確に表現していることだけが救い。

  • 明日になれば昨日何を決めたか忘却の箱

    2012.08.16 曇

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=QPoTGyWT0Cg]

    今朝は Bill Withers – Lean On Me でスタート。iPod TouchにはClub Nouveau版をほりこんである。電車の中でよく聴いている。特に帰りの車中、暗い車窓を眺めて聴くと落ち着く。

    蒸し暑い。空は水をたっぷりふくんだ雑巾でしきつめられたみたいで、神様がぎゅぅっと絞ったらたくさんの雨が降ってきそうなべったりした粒子がまとわりつく。

    会合で議事録を作成する役割を引き受けている。声だけに耳を傾けていると集中する。反面、顔を見ながら話を聴くと、うっかりすれば話の筋を見失う。表情を伺ってしまうからだ。意識が視覚情報に奪われる。

    議事録の作成は「定型」を学習できる。決められたフォーマットはないので、自由に記述していたが、数ヶ月前から自分なりの書式が定着した。反面、「定型」の入力に慣れたら、定型から外れる意見を記録しなくなる可能性がある。定型への馴化がもたらすデメリットだ。

    議事録のデザインは、「あとから読み返したくなるか」と「あとから読み返したときに理解できるか」の2点に絞られる。この2点を議事録の中心概念に置いて入力しているが、なかなか難しい。あとから読み返そうと思えず、また記録を読み返して思い出せないコトを記録している。

    議事録を入力していると、「決める」について考察を迫られる。最大の発見だ。自分の入力がへたである点を差し引かせてもらっても、「何を決めたか」がはっきりしない。「決める」という事象に対して5W1Hを適用させてみると、まったく決められていないこともしばしば起きる。

    「何を決めたか」(=未来)がはっきりしないから、未来が現在に変わったとき、検証できない。現在を検証しないまま過去になったとき、過去のデータをひもとけないのでデータは蓄積されない。データ(数字だけではない)が蓄積されないと、データをノウハウへ転化できず、ある出来事に対してひとつひとつ手探りで向き合わなければならない。

    過去にやっているはずの事柄をもういちどはじめから打ち合わせやったり、過去と別のやり方で実行して失敗してしまうケースがある。

    ある出来事が過去の出来事と類似構造を持っているとき、過去のデータを参照して使えそうな知識と技術は流用して、足りない知識や技術を調達する方法を吟味する、という技術(知識)情報を選別できる。効率化とはこの選別の精度と速度を向上させることだと思う。

    そんなことを考えていると、「決める」の概念と中身は何か? が気になってくる。とても気になる。

    皇子山球場

    100のタスクがあるとき、ひとりの人間が管理するか、5人で20個ずつに分担するか、こんな愚問から出発したら意外な眺望点を獲得できるかもしれない、って議事録を作成しながら感じる。

  • 動線

    2012.04.05 曇時々雨

    今朝は THE BAWDIES – KEEP YOU HAPPY でスタート。ライブ行きたいけどチケットがとれない。石山も即完っぽかったなぁ。なにが好きかかって”3分”ってとこかな。

    二十四節気、清明。第十三候、玄鳥至。農耕の始まり。来るものと去るもの。蕨を食す機会は少ないのでひょんなことで口にできたら舌のベルが鳴る。新じゃがいもが出回りだして何で食べようかと思いめぐらしているときは腹のベルが鳴る。

    加齢にともなって読む本が変わってきたらしい。ミステリを楽しめなくなった。感性が鈍った。小説はまだ大丈夫。先日、京極夏彦先生の百鬼夜行シリーズをすべて処分した。再読予定で並べていた。並んだ”枕”本をまじまじ眺めてページをめくったら分厚さにめげた。もうこれを読める気力はない。他にやりたい時間が必要だ。そう直感した。直感が加齢を認識させた。試しに再読したら了解した。

    今もコンスタントに本を処分している。書架に残る本を眺める。もちろん読めていない本も多数ある。これから読みたい本もあるだろう。見ている本とまだ見ぬ本のページ数をどんぶり勘定で暗算してみる。1ページあたりの読む時間を総ページ数でかけてみる。運よく生き延びたらと仮定したら、もう自分の本は打ち止めなんだ、とみえた。

    「みえた」らダメだとどこかで見聞した。そのとおりだと思った。「みえた」ら身体がうごかなくなる。身体は心を豊かにさせる源である。その身体がうごかなくなったら心は四季を失う。一年中同じ気候が続く。変化なき気候がもたらす風景は月のようだ。新しいものへ向き合う種をまけなくなる。

    新しいものに挑まなくなったとき、自分は世界の中心に位置する。中心の眺望点からみえる景色は独善。独善のペイントが世界を自分の思いつきたいように都合よく書き換える。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車。大阪駅の設計は景観を上位に登録しているのでは。動線は景観の下位に登録されている印象。人の無意識の動きに従えばこう動くよね、って動きを通路のつくりが遮る。人の動きがながれをつくるのではなく、設計者の意図的に動くようにつくられているようでわずかに不便である。他方、景観は洗練されつつある。

    スターバックスで本を読んでいるとノマド率が高い。あとはMacBook Airがどうにもドヤ顔にみえてしまう。ノマドとMacBook Airの相性はよいのでしょう。それにiPadが増えた。

    19:00からF先生のシステム構築会議に出席。システムに必要な情報構造について持論を一席ぶった。正直、情報構造と非情報構造の間に存在している「認識されない情報」の話をしながら打ち合わせをするのはF先生だけ。それが適用できるからするだけである。適用できないのに一席ぶればただの演説になってしまう。だがその演説をしたがる自分がいる。

    最後にiPadがもたらすインパクトについて説明した。先生の思考を刺激したもよう。その場で2台購入された。これで合計4台。現場は変容している。変容にシステムは対応しなければならない。人は変容とシステムを超えなければならない。変容とシステムを超えた時、経年劣化しない「知性」が生まれる。その知性は普遍に近づこうとするから何処へ行っても通用する。

    いつも同じことを書いている。「うちで通用すればどこでも通用する」というフレーズを信用しない。そのフレーズを「演説」する現場ほど余所で通用しない可能性が高いというロジックを僕は経験的に知っている。どこでも通用する汎用性の高い人は普遍的な知性を育む欲望を醸成する。汎用性の高い人が表現する欲望に周りは引き寄せられる。この欲望が他者を魅了するからどこでも必要とされる人になると想像する。

    100%で演じきったので列車に乗った途端、全身がガチガチだった。食欲は回復していない。夕食は食べず。帰宅後、久しぶりに強烈な空腹感が来訪。とても嬉しかった。あたたかい風呂につかる。皿を洗って棚へ戻す一連の動作が高度な認知活動したら、自力で風呂に入るのもそうなのかなぁと身体を休める。

  • 傍観者

    2012.03.29 晴れ

    今朝はSalyu – 青空でスタート。あなたを足さないとね私は空っぽ、てとこがお気に入り。空っぽになれるならなりたいなぁ。空白を空白のままにしておけないのが人の性。

    昨日に続き胃と頭が痛いので絶食。昨日の夕食から絶食して水分だけ補給。朝食、昼食もたべなかったので三食の絶食。午前中、悶絶。13:00ごろからようやく胃が落ち着いてきた。めちゃくちゃな自己判定の自分だけの療法なんだけど、身体が不調のときは何も食べず水分だけ補給して身体をじっとさせてやすめるようにしている。

    14:00からC社のH氏とウェブサイトの打ち合わせ。数個の現象を認識。認識した現象の内容を再生して自己検証してみよう。話題が少し脇道にそれたとき、歯科医院の自説について論じ合う。いまから大学をめざす、あるいは通学してらっしゃるかたは、歯科医院を開業するにあたりゆるやかなリンクを考えてもよいのでないかと思う。ふみこめば資本提携が視野にはいる。業態の進化もある。女性の歯科医師を意図的に増やしている施策についてH氏から伺ったとき、自説を修正した。自分に素直になったとき、医業と経営の分離を勘案してもよいタイプの人もいらっしゃると想像する。

    16:30で終了。いっしょに大阪へ。電車のなかで仕事とちがうお話しを伺い胸が痛んだ。偶然は人に激烈な痛みを与える。痛みは肉体のみならず。精神にも及ぶ。不可知論に近い私だけど残酷な仕打ちがあるなと辛かった。祈り。

    大阪駅で途中下車。ソフマップでサーバ用のメモリを購入。4GB×2=8GBが3,500円なり。おそろしい時代になりました。FBでふれたが、先日購入したHP製のなんちゃってサーバが22,800円。先日、アップルストア心斎橋からピックアップしてきたMacBook Pro(late 2006)の修理代は40,950円。感慨深いものがあります。

    19:00からF先生と打ち合わせ。診療のシステムを再構築。K先生とTさんも参加。素人の私が理解できる内容で助かった。フローチャートを明確にできる手応えあり。あとはドキュメントの作成とツールの整備。ユニークのシステムとは誰がやってきても理解できる環境である。特定の人にだけ通用する排他的なロジックではない。

    F先生のおっしゃる環境のお話しが好きだ。

    環境を整備しなければ人は能力を進化できない、と僕は思う。(環境の整備に苦心しているのに)こちらが想定しているような進化が見受けられない現象はある。とはいえ環境整備を怠っているのに能力の停滞の原因を当人の技能に置換して他罰的にふるまう傾向が強い、と昨今の世相から感じる。

    ユニークのシステム構築は長い時間を費やす。極めて大きい労力を要する。おまけにオリジナルのコンテンツを育てていなければユニークなシステムは生まれない。

    21:00に終了。それから4人で食事へ。音について少し盛り上げる。隻手音声や誰もいない森の中で木が折れた音、そして人の声。9年前、はじめてF先生の医院へ訪問したとき、静かな院内に驚いた。いまは少しうるさくなったとおっしゃっていたが、僕は静かだと認識している。ただ、静かでも質感が違う医院はあると思う。

    静かにも心地よい、ゆったり、くつろげる、はりつめたなどの静かがあれば、不気味、そわそわさせる、圧がかかる、人をよせつけないなどの静かなどもある。

    僕はできるだけ科学を拠り所にして事象を判断したい。でも、上に書いた「音」に対する記述はオカルトと批判されてもしょうがない。自分の場合だと、「音」に対する受け止め方が音を生じさせる環境に対して嫌悪を判定させる。声に対する第一印象と似ている。

    なんだかよくわからない察知ってあるんだろうなぁと思う。オカルトだと承知している。

    東日本大震災の野蒜駅での悲劇。上下二本の電車の応対は180度違った。どっちが正しかったという問題じゃないと思った。上りの乗客の数名は亡くなり、下りの乗客は全員助かった。これも科学で説明できるはずだ。そう願う一方で、その「分け目」の判断の源泉はなんだかよくわからない身体の知性だと認識している。

    そういう矛盾を「音」に対して抱いている。

    環境と人は互いに刺激を与えて更新していく。「中にいる」存在の自己産出。「中にいる」存在は外部から観察する視点を所有しにくい。客観に近づく努力は怠らなくても、主観の「境界」を越えられない。

    環境を閉じて内部だけ更新させてしまうとドグマに陥りかねない。他方、環境を開くとコントロールできなくなるかもしれない。僕は「中にいる」存在ではなく環境と人の更新を外部から常に観察して「状態」を伝達する傍観者でありたい。

  • 言葉巧みに踊らされケ・セラ・セラ

    2012.03.02 雨のち曇

    今朝はEminem – Lose Yourselfからスタート。世界中で売れまくったナンバも好きでたまに聴きます。アーティストはなにかしらのナルシシズムをあざやかに表現するなぁって感じます。自己愛のパフォーマンスが胸熱。

    朝から雨。天気の移り変わりに一喜一憂して春へ向かう。おだやかな陽射しばかり続くとそれに馴れてしまう。洗濯物が干せない苛立ちと農作物へ恵みをもたらす畏まりは均衡をたもっている。見える秩序は見えない無秩序を隠している。

    なれる、は慣れると馴れる、狎れる、熟れるがある。意味が異なる。なれましたか? と尋ねられたとき、「馴れる」や「狎れる」をあてない。たいていは「慣れる」をあてはめる。慣れるから狎れるへ変容しても「集合の内側」にいれば知覚しない。馴化。

    周囲の環境から影響を受けて適応していくうちにいつしか周囲の環境へ影響を与える。環境と私はおたがいに作用する。作用が環境と私を更新する。環境になれましたか、と言う。環境がなれましたか、とは言わない。

    慣れるは習慣のニュアンスを含む。馴れるにはない。馴れ、はなじんでうちとけるであり、馴染みのお店といい、吉原では三回目以降の客をいう。初会から裏、そして馴染み。“吉原御免状 (新潮文庫)” 隆 慶一郎 が詳しい。馴れは合いとつながって馴れ合いという。否定的・批判的な意味で使われる。辞書をひくと男女がなれあうこと、野合とあり、もともと否定的な意味ではない。

    朝食のあとに歯を磨く。就寝前に歯を磨く。昼食後の歯みがきを忘れる。忘れるのではなく歯みがきしない。理解していてもやっていない。自宅で仕事しているから歯を磨ける環境である。外出時に歯ブラシを持って外で歯を磨く方々はたくさんいる。「環境」と「習慣」の関係。定期健診で磨き残しを指導される。帰宅後、意識して歯を磨く。翌日、「いつも」の歯みがきにもどる。またふとしたきっかけで「ちがう」歯みがきの動きになる。

    風呂上がりにストレッチをする。ひとつひとつの動きを確かめながらゆったりからだを動かす。するとからだの部位の痛みや心地よさがときおり違う。毎日、丹念にストレッチできない。数分でもいいからやるようにしている。なにもしなかったときは寝るときに「頭にきちんとストレッチがよぎる」ほど意識して寝る。

    習慣には消極的と積極的の二つの側面がある。消極的は無意識と、積極的は意識とリンクさせると理解しやすいと思うが、ことはそう単純ではないだろうとも思う。積極的な習慣は変化を察知しやすいから自覚してフィードバックできる。自己変容のプロセスをメタ認知できる。消極的な習慣では難しい。

    そして両方の習慣が馴れたとき、やっかいだ。毎日の腹筋・背筋、たまにやる腕立てとスクワットから実感。惰性でやっている。習慣が馴れてしまっている。腹筋は身体を曲げる行為に近い。なぜならたまに「違う」腹筋をやると腹の内側の負荷を実感する。背筋も同じである。

    「あっ、また同じことをやるな」と脳か身体か知らないけれど「事前」に察知して、「それ」の動きにあわせてしまう。だから騙さなければならない。ふだんとは違うやり方で「うぁ、いつもと違う」と「何か」を騙せたら身体は悲鳴をあげる。が、ここで騙しているのは誰か? という“ユーザーイリュージョン―意識という幻想” トール ノーレットランダーシュの疑問がよぎる。まさかホムンクルスの小人が……そんなわけないと。

    16:00前に出発。大阪駅で途中下車。マクドナルドでケミカルフードを食べてfacebookにチェックイン。目的地まで歩く。約40分弱。やや大股で歩いているからか、前日も最寄り駅手前で下車してF先生の医院まで歩いたためか足の動きがわずかに重い。重いといっても気怠い重さではなく足に適度な負荷がかかって心地よい疲れ。

    19:00からM先生のミーティングに参加。ファシリは私。20:00に終了。最後にやや心配な要素を観察できた。沈黙。医院が「当事者」の概念をどう定義しているかによる。その概念に関する情報を私は収集できていない。よって観察の結果を検証できない。検証していない私見は実行力をともなわない単なる批判である。

    週末、自分を楽しませないと。不調傾向が上昇中。

  • 悔恨

    2012.02.14 雨

    今朝はLedisi – “Pieces Of Me”でスタート。グラミーのBest R&B Performanceにノミネートされてイケるかなと思ったのですが結果はCorinne Bailey Raeが受賞。どちらも好きなアーティストなので結局嬉しかったわけですが。

    第三候、魚上氷。今年の氷のできはいかがでしょうか。氷室を見学してみたい。一度、ほんもののかき氷を食べたい。どんな口あたりか。そろそろ高菜。油で炒めると白米との相性がよい。朝昼晩の食事と就寝をあわせたら人生の3分の1以上は就寝と食事の時間である。その「時間」を疎かにして道具は粗末である自分はいかがかと思えてきた。

    先日、番組が歯科医院をとりあげていた。国内25カ所、すべて直営。まぁすさまじい。視聴し終えていないが圧倒的である。これから何度も視るでしょう。まずはマーケティングの視点から。とはいえどうしても会計の視点が邪魔する。「一括仕入れで材料費をカットできるな」とかね。

    以下、いわずもがなで詳細は割愛。全国の歯科医院の件数、年間の開業・廃業の件数や公的なデータを厚生労働省は公開している。コンビニとよく比較される。コンビニは飽和状態と指摘されたが震災によって役割と機能が見直された。強気な出店攻勢を計画中。他方、歯科医院の市場はシュリンクと指摘される。そうかな、って思うけど。

    経営だけにフォーカスしたら二極化を想定する。一般的な二極化ではない。医業収入の二極化ではなく、医業利益の二極化だと想像する(医業収入でない理由は沈黙)。スケールを単純に大きくするだけの医療法人はダメですが。

    歯科医院の開業は「個人」の要素を含んでいる。この「個人」の濃度が問われるかなと思った。個人の濃度を薄めて医療法人を実現した「集団」と「個人」との二極化をイメージする。集団はスケールメリットをフル活用する。節税効果を期待した医療法人のニーズは残っているにしても、これから開業する方々の思考や行動はゆるやかな「集団」をめざしそうな印象。

    医療はレセプトという「絶対」がシステムに組み込まれている。だから患者管理のコストは高止まりする。なぜならデータを一元管理しようとすればレセコンへ到達し、レセコンへ組み込む各機能のモジュールはレセコンのベンダから提供されるから(サードパーティ製もあるけど)。携帯のキャリアとメーカーをいっしょにやっているようなイメージ。ということは…..ry。

    レセコン中心のシステムを採用しない医院は?これからの医院は新しいハードウェア(iPadやiTV)とウェブアプリケーションを組み込んだ「目新しさ」を訴求する診療システムをかかげるだろうし、「集団」化すれば開発コストを低減できる(すでにやっているでしょう)。

    血縁関係で構成される「集団」に対して、診療設計で構成される「集団」に与えられる組織化は、いまのところ法人格が適当だから医療法人になるといったイメージ。他の形態が最適であればそちらを選択する(法律との関連がありますから)。血縁関係の集団より経営と医療の分業が問われる。

    以上は、ずいぶんぼかした書き方です。もうすこし身も蓋もない書き方をしたいけれどそこまでの知性と勇気を持っていない。

    インフルエンザ予防で”R-1″が店頭から消え、脂肪燃焼にトマトが売り切れたりとたいへんだ。各研究のスポンサーはどこかしらとチラリしたが調べるまで至らず、納豆やバナナで懲りるわけもなく、今後もアレがヨイのでコレを買い、ソレがイイのでアレを買うでしょうし、そうやって全てを摂取をした総カロリーはいくらかしらと思えど野暮不粋ゆえに黙る。

    13日の月曜日、FM80.2のグラミー賞中継を聴きながら手を動かし、そういえば昨年は風邪で布団のなかであったと想起してグラミー賞発表の折、すなわち歳の節目に風邪をひくが今年はやってこず、ただ洗濯物を干そうとしたら目をついて片眼がわずかに腫れ、ガジュマルの鉢をひっくりかえし、コーヒー豆が床に散らばり、身体の変調はコンティニュー、なんだかよくわからない日々、落ち着かぬ微々、感情にやや起伏あり、11ヶ月経過した日に大阪へ出かけて、自分も含めた大阪の風景を鳥瞰してやや気持ちが乱れたのであろう、今年に入って見聞したかぎりでは二人のご遺体が見つかった。一人は「名前」を報道されていた。

  • うちで通用すればどこでも通用するかはゴミを拾う人

    2012.01.06 晴れ

    今朝は真心ブラザーズの”Everybody Singin’ Love song”でスタート。大事MANブラザーズバンドではありません。いまだにこんがらがっている私。歌えるってツライと想像するけれど、ホントにステキです。

    二十四節気、小寒。太陽の黄経は285度。寒の入り。寒中見舞い。大寒へむけて寒さ厳しく。が、何度も取り上げているとおり、なぜ”ずれる”のか。冬至が終わって昼が長く夜が短くなっていっているのに。

    第六十七候、芹乃栄。笠子を目にすると煮付けたらうまいよなぁと垂涎の的。鰤大根はあらだよねって思っていたら、切り身を積極的?!に販売しているのでオロオロする始末。

    iCloudへ移行して不満がひとつ。Mailの設定が同期されない。iCloudのメールは同期できる。それ以外のアカウント設定はダメみたい。Gmail(Google Apps)アカウントが同期されない。あらぁ、まいったな。Mobile Meは同期していたのに。それをのぞけばますます怠惰なクラウドライフへどっぷり。

    iPhoneやiPadをMacとクラウドで同期させると、ファイルマネジメントが向上する。シームレスな環境構築に手数がかからない。Macで作成したファイルをiPadで編集する、iPhoneで撮影した写真をMacで閲覧する、などなど。

    Appleだから”よい”んじゃなくて、他からも提供されているプラットフォームを自分のワークスタイルに応じて運用するだけで、大切なのは「常時接続」のほうだと思う、が、あたまりまえすぎて落とし穴になっている。

    スマートフォンは便利。ただ他のデバイスとシームレスに接続できなかったら、ファイルマネジメントが制約されてしまう。制約は「使いこなせない感」をもたらす。

    11:00前に出発。13:00からF先生のミーティングに参加。みなさんの声だけ聴く。次に顔をみて声を聴く。視覚情報は声と内容に先入観を発生させやすいと再認識。あと「声」は対人関係の構築にかかせないだけでなく、「なくなったときに大切な存在であったと気づかされる」要素だな。15:00終了。

    次の場所へ移動。60分弱歩く。

    ノマドワークしてからM先生のミーティングに参加。19:00スタート、20:00すぎに終了。MさんとSさんを観察してお二人に必要な次のステップを抽出する。お二人の立ち居振る舞いはすばらしい。もっとも基本の所作を身につけられていらっしゃる。

    「うちで通用すればどこでも通用する」という表現を鵜呑みしない。なぜなら、「うちで通用する」は特殊な環境であったりする。特殊な環境や特異な意思疎通は他の現場で適用できるとはかぎらない。

    辺境ラジオのポッドキャストで、内田樹先生が学生を連れて橋本治先生のところへお邪魔したとき、「芸術活動をプロデュースしたり制作したりするときの心構えはなんでしょうか?」とたずねたら「もっとも優秀なプロデューサーっていうのは現場にはいってまずゴミを拾う人だ」と答えたって話を紹介していらっしゃった。

    脚下照顧。

    「うちで通用すればどこでも通用する」といわれて通用しない人はゴミを拾えない(あるいは拾わない)。ゴミを拾っても拾った行為を喧伝する。私はこれだけやっているのにあの人はやらない、のフレーズをかかえている。

    マネジメントには役割がある。司令塔を演じなければならない人や後方支援を担当する人など。努力して役割を演じられる人はまかせられる。努力しないでも演じられる人もいる。そして、演じられない人がいる。さらになかには他責的になってしまう演じられない人。役割を担う以前、舞台にあがって演じる以前のフェーズに自分が立たなければならない情況を認識できない。

    基本の所作を身につけられていない。その状態から知識をインプットする。せっかくインプットしたのにアウトプットのプレゼンが相手に嫌悪感を抱かせる。

    人は「何を言ったか」よりも「誰が言ったかどのように言ったか」を五感で受けとめるし、よしんば「何を言ったか」の比率が向上しても「誰が何を言ったか」を入力している。「誰」の判定は、当人が発している「身体性」に依存している。

    「基本」は普遍的に適用できなければ基本ではない。なのに自分たちの環境に応じた基本を「なかの人」たちは形成してしまう。それが基本であると伝承する。あたかも基本であると思い込む。

    その思い込みの総体が集合体を死地へいざない導く。

  • 嘘くさいといわれます

    2011.12.26 曇時々雪

    https://www.youtube.com/watch?v=AzYMw3EIr3k

    今朝はケツメイシの”トモダチ”でスタート。トモダチがいない私。歌詞をうらやましく思い、年月の経つほどじわっとくるふしぎな曲。

    寒い!! 今朝は久しぶりに寒くて目が覚めた。時計をみたら4:30すぎ。室温は11℃。どこなんだここは。今冬の寒い日、被災地がよぎる。厳しい寒さだろうなぁ。でも、その思いの襞には「比べる」がまぎれこんでいやしないかドキッとする。

    衒いなく「被災地は辛いだろうね」と言える心構えはどこにある?って自分に問いかけて向き合う。それが自分にできることかなと思い始めた。

    VitaCraftのフライパンで野菜を蒸す。サツマイモ、ニンジン、レンコン、パプリカ、ブロッコリー、エリンギなどなど。蒸している間、焦げてないかドキドキしながら待つ。蓋を開けて確かめたい。ガマンガマン。フライパンの音に耳を集中して頃合を見はからって蓋を開けたとき、立ち上る蒸気とジュウーの音が一気にお腹をぐぅとうならせる。

    ちょっとしたことで脳の認識に変化が生じる。料理とお皿のペアは固定されやすい。この料理にはこのお皿、あの料理にはあの器。蒸した野菜をお皿に盛りつける。定番の皿にあらず。それだけでごはんの質感が変化する。日常から非のニュアンスがこめられる。認識が揺さぶられる「あの感覚」がおもしろい。

    思い込みは自覚してはじめて「思い込み」が立ち現れる。身体を動かし認識をゆさぶって思い込みを自分に気づかせる。考えるより先に、道路でかがめば子供の目線が疑似体験できる。その瞬間、タバコのCMの意味を理解できる。背中を曲げて下を向いて歩けば街は障害物であふれている。

    16:00すぎに出発。大阪駅で途中下車。本屋に立ち寄る。19:00からF先生と打ち合わせ。Tさんが参加。20:45に終了。その後、ふぐちりとひれ酒で一年の心の垢を落とす。

    3人でほくほくしながらのふぐちりは、「自分のルールは破るためにある」価値でした。

    自意識過剰の己を自覚して身体の芯から喜びを味わう。天の邪鬼の私へ「忘年会」と称して声をかければ断るかもしれない、だからさりげなく「ちょっとだけ軽くいきませんか?」と院長先生はお声をかけてくださったのでは、と認識している。

    認識が間違っていても、そう受けとめて飲むひれ酒はとてもとても美味しかった。嬉しさをストレートに表現したらTさんはニヤッと笑って「ウソくさい」って盛り上げてくださった。嘘くさいって。ありがとう、Tさん(笑)

    評価に対する私見が中途半端でした。「評価」は型版になったと思います。与えられた型版にしたがって他人の言動を記号化する。型版をつくるところからはじめられない。そんなのんびりしたことは言ってられない。とにかく評価しなければならない、って雰囲気が至る所にある。そういう雰囲気に違和感を持っています。点数をつけたり数値を算出する定量化の作業が評価だとラベルされている印象です。

    事実を観察して様態を分析して「他者の視点」をありのまま提示する。観察と分析と視点の提示の作業が評価であり、評価によいわるいはないと考えています。過激かもしれませんが、評価するか、しないかしかありません。評価の俎上に載せられること、それ自体が大切だと感じます。「常に自分の土台を壊して漸進している人」は、評価の俎上に載せられます。さる先生がおっしゃる「バカの定義にあてはまる人」は評価の俎上に載せられません。

    あら、こうやって書いているけれど、自分の意見がまったくまとまっていないのを自己認識しました。もっと考えて適確に伝えられるようにします。うん、確かに嘘くさい….. 🙁

  • 遺恨

    2011.11.28 曇

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=eJ2Eu8vSjrQ]

    真っ暗な朝、多和田えみのNaturallyでスタート。今年は“SINGS” よく聴いたなあ。マイお気に入りゾーンの内角低めって感じ。

    第五十九候、朔風払葉。枯れ、冷える。なくなっていく景色が好き。無から有への円環を感じる。紅葉をちゃんと見ておらず。見られるときに見ておかないと。

    椎茸とほうれん草でレーズンバター炒め。バターの塩分をいかして少しだけ塩をたしてあとは胡椒で味をととのえる。薄味でうまくいった。ほんのりレーズンの甘さが残っていてうれしい。

    オリジナルのカバーはむずかしいのでしょうか、むずかしいんでしょうね、そう思いたい、ぜひ。近ごろラジオからカバー曲が流れてくれるので耳を傾けると、どうもカラオケに聞こえてしまう曲がいくつか。私の聴力の問題? そうだろうなぁ、でもね、自分で吹いた口笛を聴くと鳥肌がたって身震いするほどの音痴であると自覚できます。聴力は正常値に近いはず。

    2週間ほど前、皇子山陸上競技場周辺を散歩していたら高校サッカー滋賀県大会の準決勝、守山VS守山北をやっていたので外から観戦していた。延長後半に守山北がゴールを決めて決勝進出、そのまま野洲を破って全国大会へ出場したらしい。

    声援が外まで聞こえてくる。ボールの行方を追っかける歓声のウェーブがステキでした。ああいう時があったなぁって思い出させてもらった。

    来年早々には不惑。20年前、大学のキャンバスは喫煙できた。吸い放題。いまからふりかえれば、吸わない人は談話室へ近寄りたくなかったはず。休憩時間、廊下の灰皿でプカプカやりながら授業を待つ。周りを気にせずなんの疑問もなく吸っていた。

    それがいまやキャンパス内全面禁煙とか。キャンパス全面禁煙か分煙かの議論、私は不可知論を選択したいけれど、そうはいかないとしたら、やっぱり「よい」方向へ向かっていると思いたい。

    早いか遅いかはあるけれど、おおむね私はそういう点に楽観的。物事はよりよい方向へ進んでいると思う。昔のVTRを見たら川にゴミを捨ててるし街は汚い。そういった負の部分を取り上げずに19xx年代万歳、どうなんだろうね。いまから20年後、泥酔している人は駅のホーム立ち入り禁止になってるかも、とか妄想する。

    「選別」って発想はより研ぎ澄まされていくような気がする。正邪好悪の価値を含めて。

    正法眼蔵随聞記 六 十三 先師全和尚入宋せんとせし時

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.364

    長い、むずかしい。明融阿闍梨がいまわの際で、入宋しようとしていた明全和尚に言った。「死出の旅路を見送ってもらいたい、わたしが死んでから入宋の望みを果たしてもらいたい」と。

    それを受けてのやりとりが記されている。結局、和尚は入宋を中止しないで渡航した。なぜか?

    六の十三は、仏法を学ぶときの考え方に対する本質を提示していると感じた。字面をおって読めば意味は理解できる。でも、物事の考え方として理解しようとしたら立ち止まってしまう。

    自利と利他。この二つの単語だけですら一生かかっても身につけられない考え方が目の前にあるような怖さを感じた。

    自分の身体から言葉がどんどん剥がされる、いままで身につけてきた知識が知識でなくなって単なる記号になってしまう、いま使っている言葉が安易に使えなくなる、そんな恐怖を正法眼蔵随聞記は感じさせる。