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  • 驟雨は洗えず比率は変わる

    2013.08.06 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=DV8PoUWQ5tc]

    Bebel Gilberto – August Day Song でスタート。8月というわけでもなくなんとなくはかなくそれとなくさりげなく。ボサノバ? ラテン? よくわかりませんが、こんなテンポの音楽が好きです。聴くというより身体にまとわせる香りを秘して垂らすような恍惚。

    午後から東大阪へ。歯の定期健診。ドアからドアへ、片道約105分、健診約30分、帰りはあと約15分プラス。

    半日の移動が与えてくれる天秤を測る時間。

    滑走する車窓に焦点は合わず、合わせもしない、一番大きなCが見えないぐらいぼんやりしたコントラストと耳小骨が伝える音が溶けていき、空想の分銅をのせている私の言語遊戯。

    脳裏の映像が歩行者信号機の点滅みたいに現れて消える。語彙はその映像を言い表せない。語彙の輪を膨らましたくて中身を引っ掻き回す。

    車内なのに意識が「自分の部屋にいる」感覚ボタンを押した。

    膨らませない。歯痒さが光と影の隙間に入り込んで、車窓に引きつった顔を映し出し、自分の顔貌は視覚へ帰ってくる。

    連日の驟雨。驟雨と呼べなくなるのかな、いずれ。健診中だったのずぶ濡れは免れた。

    影の入口

    時間を潰す、という。使わなくなったはずなのについ口から出てしまったとき、アスファルトに落ちたスマートフォンのような傷跡が精神に残る。

    時間を金で買う、という。口するのも憚れるほど下品。綺麗事だ。それがどうしたと言われるだろう。そうであってもてっぺんからつまさきまでつめこみたいものがひとつぐらいある。

    時間は生命。

    潰せない、買えない。無駄を作ろうが空白のままであろうが、どのように過ごしてもよい私の時間。不足でも知足でもかまわない。

    急速に冷める何か、醒める何か。憑きものが落ちたみたいに。

    私の中にある比率が変化していく。

    何を書きたいのかわからないまま、わからないのに、意味不明な文章を書く時間もまた私の時間。

  • 嘘と本当の糸をはり自分の布を織る

    2013.07.24 雨のち晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=PfytjKGpELg]

    オトナノススメ802 でスタート。今週末の日本最大級の野外フリーライブ、FM8­02 MEET THE WORLD BEATに出演する怒髪天のためにFM802が考えたとのこと。これ、ライブでやるとめっさ↑になります。オトナはサイコーなのです、ホント。楽しくて笑って満ちること、と、辛くて悲しくて切ないこと、が釣り合っても釣り合わなくても、サイコーなんです。だって….

    時刻は朝なのに外は夕方みたいな雨。時計がなかったら夕立だ、まるで。雨を見つめながら、前日の靴磨きはなかったことにしよ。自分への嘘。靴は磨かなかったよね、だから思い切り濡れても大丈夫、意地っ張り。誰かでなく自分に嘘ついて自分に意地を張って、自分の行為を褒める。ひとりツンデレは時々なら許されよう。

    嘘と本当の糸をはり、自分という布を丁寧に織る、繕う。

    丁寧に、といっても辞書の意味じゃなく。自分なりに意味を更新しよう。どこが丁寧なん、って他人からつっこまれたら、新月の日だけ気にすれば充分だ。私が自分を丁寧に繕っていると錯覚していれば、いつかぴったり合った自分ができあがり、自分を着こなせる、よな的期待感。

    着こなせた時、「丁寧」は身体からアンインストール。丁寧の意味はユニーク。そうやって単語を削り落とす。

    歳を重ねる、って自分を着こなせるように、周りと交わっていく作業。多と私、他と私、二つの差異を認めて辞書から卒業する行程。自分なりの意味を構築する営み。辞書から単語を消していくことなのかも、ひとつひとつ線を引いて、もうこの単語は使わなくてええんやって感じで。歳を重ねて、辞書から単語がすっかり消えたら素敵だな、きっと。

    そして、独善の陥穽にはまらない感性を修養。

    近江神宮の鳥居

    河北新報のRSSとTwitterから大雨の状況を収集する。深刻だ。

    河北新報のRSSとTwitterをある時からフォローしている。ニュースを読む。少しでも知りたいと思ったからだ。現地に足を運ぶのが最も大事なんだと想像するけれど、文字だけでも常にアクセスしておきたい。

    TwitterのTLやリストから流れてくる思考の断片や塊。みなさんの140文字以内は煌びやか。あんなふうに表現できたらなぁ、羨ましい。

    対して憎悪や怨念、嘲笑やヘイトスピーチもある。宇宙人のさえずりではない。同じ「人間」がさえずっている。

    痺れがわずかにあり、右側の唇に違和感、まだ降下は続いて底は見えないけれど、こういうときに浮かぶ言葉や想い、読書の物語から学ぶ術、感覚を大切にしたい。

    41歳になってはじめての体験が続く。何が起きるかわからない。わからないってビー玉をわかる穴へ入れて満足するより、わからないビー玉をもっと集めてわからないだらけにして楽しめる変態ぐらいになれないと辞書の意味から卒業できないな、たぶん。

    変態万歳。

  • 想像と死者との対話

    2013.04.18 晴れ

    ☆マーレーズ☆ – 太陽と星 でスタート。一日中、聴いていた。声がど真ん中で歌詞はギュンギュンきてサイコー。” 何よりも大事に想える人がいる この世界はそれだけは変わらないさ 空が見える 坂道を駆け上がる 息が切れても 明日の影を追いかけるだろう ” で泣きそうになる。「大事に想える」ってね、想われる側の幸せではなく、想う側の糧なんだ。好きとか嫌いではなく、想う。

    “想像ラジオ” いとう せいこう を読み終えて、読み終えても読み終えた感じがしなく、何度も読み返し、何度も涙こらえられず、鼻のさきっぽがツン、まぶたが水分の表面張力に苦心。物語に登場する楽曲をYouTubeで聴いて、いままでと異なった質感が私に刻まれて、この感覚を伝えるとしたら、僕はまだ’それ’を知らないんだなぁ、体験していないんだなぁ、これからもできないかもしれないなぁって思いにふける。

    常々、強く感じていることが二つある。人間が授かった能力は、「想像」と「死者との対話」であること。この二つがヒトを人間たらしめると感じる。

    ほかの動物が想像する力を持っている、死者との対話している、かどうか知らない。だからヒトを人間たらしめるは人の傲慢だろうけど、そう感じざる得ないほど、「想像」と「死者と対話」はかけがえのない力だ。

    便りがあり何気ない日常が認められていて、特別なことが書かれているわけではない。でも、それが僕にとってとてもとても大切であり、そこに刻まれている文字から想像は果てしなくひろがる。どんな気持ちか? どんな表情か?

    文字から想像すらなら気をつけなくちゃいけない。人は耳で聞くだけでない。目で聴く、顔で聴く、身体で聴くコトがある。耳だけでなく、目や顔や身体で聞き分ける、否、感じ分ける、かな。

    「ふれてよいこと」と「ふれてはならぬこと」を感じ分ける。耳だけで聞き分けるのではない。五感で感じ分け、相手に踏み込めそうな領域を慎重に恐れながら探す。相手が僕に送っている信号を受信できる領域を丁寧につくる。

    文字だけだと聞き分けられない、感じ分けられない。「想像」はかけがえのない力であるけれど危険な能力でもある。想像を自己の現実にしてはいけない。想像はいくつもある現実のなかのひとつの物語である。うまく想像できたとき、その想像を「現実」に置き換えてしまう。

    想像は、対象のコトやモノや人を頭の片隅にずっと置いておかなければ、うまく想像できない。デスクトップの画面にはりつけた付箋みたいな感じ(笑) あっ、でもこれだと「済」になったらはがされてしまうか。

    便りのおかげで実りある一日がもたらされる。実りある一日にするのは自分である。自分であるけれど、自分ではない感覚。あなたとわたしが相対していき、絶対になるようで、相対と絶対のどちらもどうでもよくなり、とにかく「存在」があるとの確信が私の一日を形作る。

  • ラベルが貼ってあれば安心

    2013.04.01 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=VQ3d3KigPQM]

    今朝は The T-Mobile Dance でスタート。Liverpool Street Station で実演された flash mob 、かなり大がかり。かなりお気に入り。公開されているメイキングの歯切れがいい。flash mob に遭遇したことないけれど、コレや Swingle Singers underground tube subway だったら遭遇しても不快感は抱かないかな? わかんないか、遭遇してみないと。

    買い物へ行くとラベルに目がいくようになった。いろんなラベルが食料品に貼られている。安全基準を満たしているマーク、国産、無添加などなど。共通点は安心か。ラベルに関心を持つようになったからか、手にとってラベルのデザインを確認する。色や形状、フォントやら。

    安心したいのは誰だろう? 私か、それとも販売者かメーカか。

    語弊がありそうな表現と断っておくと、世間は「何か」を人間に貼って安心したがっているのではないか。ラベルだ。世間と書けば、ぼかしてしまっているが、ありていに言えば、大人が他者にラベルを貼る。一風かわった人に対して、「脳の機能」や「発達障害」などの名称をつけて分類する。分類すれば、誰が安心するのだろう?

    世間か、分類している私か?

    私はおかしくない。私は正しい。その私の目には、差し向かいの相手が奇異に映る。何回接しても言動が変わっている。私は定形であり、相手は不定である。不定が間違っている。

    変わった人に対して向き合うより、「何か」を貼る。その「何か」が非科学的な単語だとしっくりこない。なんだか、私の感情から発せられた言葉だと説得力がない。納得できない。だから科学’的’な言葉を探す。私が自分を言い聞かせるのに、感情も非論理的もないはずだが、非は自分にない点を自慰したいために、外部にある言葉を探す。

    便利な時代である。検索すれば、書店に行けば、専門家がわかりやすく「何か」を説明している。それらのなかから、私にとって都合の良い「何か」を選択して、相手に「何か」を貼る。

    買い物のラベルと巷にあふれる「何か」を貼りたがる傾向をむりやりつなげてみたらそんなことが構造化された。

    近江神宮

    13:30からF先生と少し打ち合わせして、そのあと、前回の個人面談の結果を各自に伝える。まずは二人。かなり神経を使っている自分を自覚。

    言葉は凶器、そう自戒している。甚大な打撃をいともたやすく与えられる。物をつかって他人を攻撃したことがないので、どんな気持ちを抱えれば、どんな感情が芽生えたらそれができるのか知らない。言葉でなら知っている。怒りがこみあげればあらん限りの語彙を駆使して痛打できる。

    怒りでなくても、「自分が正しい」という土壌に侮蔑の種子を知らず知らず育てていれば、蔑んだ単語の花をさかせるだろうし、慇懃無礼な枝がすくすくのびる。

    始末の悪いことに、そんな言葉の樹木を育てている己を自覚できない。

    かなり神経を使ってしゃべっていても、やはり凶器をふりかざしている。他方、神経の使い方が頓珍漢だと、私が相手に伝達したい内容がピンぼけしてしまう。

    15:00に終了。くたくた。二人で45分ほどの面談は堪えた。帰りの車中、しゃべった内容を反芻する。いつもの作業。頭のなかで反芻して批判する。「ああいえばよかった」や「しまった」はない。

    「なぜああ言ってしまったか?」

    あのときの感情を想起して自分の動機を深掘りしていく。深掘りの過程で認識できる事柄を批判する。同じ場面はこない。体験できない。具体的な事柄から抽象的な思考へ展開して、頭のなかで「分類」して「構造」化していく。パターンとして認識させ、未来で使える道具をつくる。

  • 不味い外食や中食に遭遇しなくなった

    2013.03.18 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=UGEbWXc5KoU]

    今朝は サニーデイ・サービス – 今日を生きよう でスタート。やわらかくぐさっと刺さるタイトル。案外、今日を生きてなかったりする。今日のはずなのに、明日以降の「予定」に惑わされる。昨日以前の記憶に彷徨ったり。

    第九候、菜虫化蝶。二十四節気の啓蟄とあわせて漢字を一瞥したら春とリンクする。10代、20代にこの単語を知っていたとしても、何も感じなかったし無関心だろう。歳をとるにつれ天気が気になる。これがなぜかまだわからない。気になる瞬間の自分を知覚してみたいけれど、習慣化されているのでなかなか「瞬間」を外から眺められるような場所を自分の中で発見できず。

    SNSで写真を眺めているとおもしろい。特にスマートフォンで撮影された写真。

    視点と視線。

    季節を切り取る視点、自然の変化を察知する視点、街並みの眺める視点、空を見上げる視点。それぞれの視点がおもしろい。視線が向かう先へカメラを構える。カメラを起点にすれば、望遠と広角の視点がある。「見たまま」撮影する人もいらっしゃる。ディスプレイの写真をスライドさせ、自分の視点との差異を認識する。

    琵琶湖

    たまに外食や中食を利用したとき、不味いものを口にする確率が低くなった。自分の味覚が鈍ってきているからそう思える。食品添加物や原材料を気にする人は、外食や中食を利用しないかもしれないが、僕は、一周回って(直径はずいぶん小さいけれど)、そのへんを気にしなくなり、食べたい物を食べている。

    15:00にミーティングが終了して、京都まで移動しようとしたら小腹が減った。だいたい15:30から16:00の間に小腹が減る。大阪駅のハートインに立ち寄り店内を物色、「おやつのパン」とラベルが貼られた小さなパンを見つけた。あんパンの形で、中はチョコレート。大きさはゴルフボール1.5個分ぐらい。小さいパン。67円。ためしに買ってみた。おやつにほどよく、不味くない。

    (非常に下品な表現なんだけど)コストパフォーマンスがよいかわるいか判定しないけれど、これで夕食までお腹がもつからありがたい。

    豊かさを実感した。

    冬に体重が減少する。いまは54.7kg。数年間からの傾向に気づいた。筋肉の量が減少していると憶測している。実感がある。足がおかしい。うまく表現できないけれど、冬から春にさしかかる今頃、足の力がはいらない。ふるえながら歩いているみたいで、下半身が弱くなっているようだ。

    こうやって自分で勝手に解釈して、これではいけないと奮い立ち、歩くか、走るか、山へ行くか、水へ向かうか、何かしらの運動しはじめるのだろう。まったく何もしないかもしれない。自分がどうなっていくか楽しみだ。

    人はなかなか変わらない、という人は、その人自身が変わっていないからそう言いきるだけだ。もっとも主観の見方をあたかも客観的に言い換えているにすぎない。

    36歳の僕が、5年後に詩集や絵本や子供の科学を読み、花鳥風月を感じたいと願うなんて想像しなかった。想像力が貧しかったとしても、そういうものだと思っている。

  • ココロがふかふかの羽毛布団をかぶった

    2012.12.24 曇

    今朝は 東京60WATTS – 外は寒いから でスタート。歌詞がPOP LIFE、日常の映像が詩に変換された感じ。「君が風船のようにもてあそぶ」くだり、それを体験した日常はそのひとたちに限りなく豊かなココロを与えると思う。

    instagram や twitter をウロウロしたらChristmasを実感。ステキな写真やテキストがフィードに流れてくる。なるほど、見方を変えたらこれからのネットのコンテンツは、リア充でなければユニークになれないだろうし、インターネットが一般に普及してもうすぐ20年、ネットだけのコンテンツが「ウケて」いたのは普通ではなく異常だったかもしれず、どうしてだろうってふりかえれば、やっぱりテキスト中心の空間だったと思うわけで、写真や音楽、絵画などとそれらを編集したコンテンツが誰でもカンタンにアップできるようになったことが変化であり、黎明期を迎えつつあるかなと感慨深い。

    僕はスマートフォンを持っていないけれど、近ごろ変態的運用したいからほしくなってきた。といっても、電話で使う気はまったくないし、キャリアから2年間も拘束されるのは御免っぽいし、となると自己責任の白ロム端末を入手してMNVOのSIMを挿して運用かと悩むが、なんだかめんどくさいなぁって印象もあったり。結局は優柔不断だ。

    使っているガラケーは家に置きっ放しでバイブ、メールを着信していても放置プレイ。それで失敗した。ヤッテシマッタ。

    でもなんとかリカバリーできて、少し先の小さな未来を約束できたとき、僕のココロはふかふかの羽毛布団のなかでこっぽりかぶって眠ってしまうように暖かくなった。

    たぶん小さな未来、そして待つとはなく待ち、待つって単語を使わないぐらい思いが日常に溶け込んでいき、いつかリアルな空間でリンクして「声」を交換できるエクストリームな刺激が乾いた日常に水をさしてくれる。

  • 義憤

    2012.02.03 晴れ

    琵琶湖

    今週続いた寒波。今日までと報じられた。明日の立春からは少し落ち着くらしい。欧州でも記録的な寒波によって200人以上の死者が出た。野菜の高騰もまだ続きそう。

    身体の変調が気になる。背中が痛く、肺のあたりに違和感がある。時折ヘンな咳がでる。先月の東京から帰ってきたときから続く。身体に何が起きているんだろうか。

    16:00前に出発して大阪駅からM先生の医院まで歩く。約3.2km。道中、ホントに心地よい。喫煙率が20%を下回ったらしいが、大通りの歩きタバコの比率と合致していてそうで、否、歩きタバコはもう少し少ないか。いずれにせよ、歩きタバコの行儀は改善される兆しはない。

    肺癌や食道癌で死んでいった人を目の当たりにして、好きなタバコや酒をのみつづけたんだからあの独特の苦しみを受け入れられているよねと思うわけで、いずれも死に方だと感じるが、そう思い感じつつも、やっぱり苦しみを取り払えないかと切望する自分がベッドの横にいた。何もしてやれない自分。肺癌で苦しそうな姿を見つづけた。癌が「死に方」であっても、死ぬために生きてきた最後が苦痛であるのかと強く強く目に焼き付けた。

    19:00からM先生のミーティングに参加。20:00すぎに終了。合間に申し上げたい儀あれど沈黙す。終了後、先生から“組織を強くする技術の伝え方 (講談社現代新書)” 畑村 洋太郎について相談を受けたのでMさんといっしょにお話しを伺う。私の意見とMさんの意見は異なる。ミーティングに対する定義や経営に対する考え方の相違。先生がそれらを選んで判断する。

    以前、書架から “組織を強くする技術の伝え方 (講談社現代新書)” 畑村 洋太郎 を取り出し再読してみたがしこりがのこったままだ。“暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)” マイケル ポランニー を再読してみよう。どうも経営学が膾炙させた「暗黙知」がポランニーから独り立ちしてご都合主義的に使われていると思う。

    帰宅後、アプリで北北西を検知して恵方巻きをまるかじり。20:00以降は食べ物を口にしないようにつとめている。自分でつくったルールを自分でやぶる。快感である。

    他人に見栄をはらず、現状の己を素直に開陳して外部の評価を受ける。文章にしたら短いのに現実の行動はとてつもなく長い時間を要する困難な立ち居振る舞い。

  • 新聞を読めば世界で誰もがいがみあっている

    2011.09.11 はれ

    新聞をとっている、って他人にうっかりしゃべったら知性を疑われそうなフェーズへそろそろさしかっていそうだ。

    40年前にJanis JoplinがGet It While You Canで歌っている情況からちっとも変わっていない。リリックは時代のフィルタをいともかんたんにくぐりぬけ、心をざわざわさせる。

    声は”Wanna be”の声に意図的に変えられるのかな? ものまねじゃなくて。もし、かえられないとしたら声は誰かからの贈り物なんだろう。

    自分の声をレコーダーから聞いた時の違和感にうろたえて、その時、覚醒して声の力に囚われる。ぼくはハスキーな声に mellow で好き。数個の「音」だけがしゃがれるハスキーな声の持ち主は、身近な関係の中からは聞こえてこない。いつもスピーカーから聞こえてくる。

    声って意外と再生できない。

    顔は記憶や写真を頼りに再生できるし、描き出す力に長けている人なら、そこから数年後数十年後を頭の中で描けるかもしれない。

    声は忘れやすく、再生しにくい。あれ、あの人の声はどんなだっけって戸惑いはしばしばあって、「しばしば」を体験したら恐怖がやってくる。大切な人を失ったとき、声もいっしょに失う。だから、録音は宝物であり時に残酷なんだ。

    いつまでも忘れさせない声は、それ自体が唯一無二。

    日曜日の阪神百貨店の地下を歩いたら、情報処理がオーバーフローした。売場の声と消費の声がミキサーでかきまぜられて、笑顔がブイみたいにあちこちでプカプカ浮かんでいて、何を買って、どんな売り方して、とか、洋服をすれちがいざまに眺め、小さな子供をつれている親子の仕草をちらっと見たり、地下街はデザインの原石だらけで、処理できないビットが躍動している。

    オーバフローの原因は、それじゃなくって、東北の空間が頭によぎった瞬間、自己満足の感情が起動したから処理できなくなっただけで、阪神大震災のとき、神戸の方々は大阪に対して強烈な違和感を抱えて移動していたんだろうなぁとあらためて認識して、想像は時間と空間を飛び越えられても、生活は半径わずか数メートルの空間です、そう、つくづく思う。

    時間と空間を浮遊する感覚と生活の空間で賄っている感性との折り合いがつけられなくて、折り合いの仕方をいまだ知らなくて、未熟な自分の精神構造を認知して、自分の声をレコーダで聞いたあの狼狽がくる。

    ざわめく。

    新聞を読めば世界で誰もがいがみあっている

  • 今案

    2011.08.27 晴れ時々雨

    日中の蒸し暑さが続く。夜間は過ごしやすくなった。時より吹き抜ける風が涼しい。もう少ししたらひんやりと感じられそう。第四十一候、天地始粛。そろそろラジオから秋雨前線が聞こえる。あとに続く「大陸の冷たい空気をはらんだ高気圧」は呪文のよう。山間に住んでいらっしゃる方のブログを読んでいると、秋の気配を強く感じる。

    魚売場に鯣烏賊。なんと一世帯当たりの魚介消費量で、烏賊は鮪をおさえて鮭と首位争いをしているらしい。知らなかった。日本人がそんなに烏賊好きなんて。なかでも漁獲量の7割は鯣烏賊。鯣烏賊の天ぷらにマヨネーズをつけて食べる居酒屋メニューがあって、それを好んでいらっしゃる方がよぎる。マヨネーズに七味がまじっていればなおよし。

    体調が下降気味。夏の終わりに夏バテがやってきたか。腰痛プラス頭が痛い。頭がヘン。

    14:00まで仕事。手を動かさず。08/26(金)、15:00からF先生と打ち合わせしたので、内容をまとめる。今後の打ち合わせを検討。翌日(日曜日)、まとめたテキストをwikiにアップ。

    そのほかに、もうひとつ、心配な出来事が起こったので、それについて考えをめぐらせる。

    何を見極めてどのような手を打たなければならないか?

    待ってはいけない。「待つ」という言葉の解釈と行為の扱い方を間違えたら結果を生み出さない。動かなければならない、やるしかない、そんな情況がまちかまえている。

    15:00前に京都へ。伊勢丹で母親の誕生日プレゼントを購入。夕方から天満橋へ。

    18:00から天満橋でK先生とお食事。新快速に乗っていたら、車中、雲行きが怪しくなってくる。おまけに電車が遅れている。間に合わないかもしれない。イライラ。イライラしたらダメ。どうにもならない。ゆったり本でも読んどけ。イライラ。ダメ。落ち着け。イライラ。車中、その繰り返し。胆力なき小心者め。

    大阪駅から東梅田駅まで雑踏を蛇行。スペースを見つけてそこへ小走り。早歩き。歩きながら次のスペースを見つける。ヨシ、小走り蛇行。スペースで早歩き。小走り蛇行。身体能力が著しく落ちたもんだな。

    5年前なら人の間をスムーズに駆け抜けられた。対面、お互いどちらへよけようかなんて迷わない。こっちが右、相手は左、こっちは左、相手は右、ってアノ「微妙なオッチラヨチヨチ」のバツ悪いすれちがいがふえた。昔は、こちらが先を取ってかわしていた。後ろからの追い抜きもドタバタしなかった。

    17:56天満橋駅到着。間に合った。油断した。方向音痴が発症。出口を間違えた。目的地は徒歩約2分なのに4分以上かかった。18:03に到着。ふぅ。クラシックラガーの瓶ビールが美味。最近は生よりも瓶を好んで飲む。それかウィスキー。それ以外の酒は飲まなくなった、否、飲めなくなった。

    21:00まで中瓶を4本ほど飲んだ(さだかでない、ひょっとして6本?!)。よく飲んだ。ひさしぶりに先生とゆっくりお話できて嬉しかった。先生もいつになく饒舌で喜んでくださったご様子。

    なんでも自分のことだと思える。誰かがしゃべっている内容を、「あっ、それは私のことを話している」や誰かが書いた文章を「あっ、これは私のことだ」と受けとめる。プラスマイナスどちらでも自分のことと受けとめて、プラスなら喜び、マイナスなら反省する。他方、思い間違えたら被害妄想とリンクする。プラスなら疑い、マイナスなら悲嘆にくれる。

    思えると思い間違いのバランスをとりたいんだけど、いかなるときも思えると思い間違いが、ちょうどつりあっていない。さらに、そういう自分を私は弄ぶ。なんでも自分のことだと思える、とこまでは思える、実際に思う。でも、それは思っているだけ。プラス、マイナスへ針がふれて、針を見ながら一喜一憂している自分を私は堪能している。堪能している私の様子を他人に眺めてもらって右往左往してほしい、という願望を持っている。

    自分流儀の考えがはじめからあって、それにマッチしない言動は、プラスマイナス関係なくスルーしてる。だから動かない。

    いまの私は自分をそう観察している。

    正法眼蔵随聞記 二十の(一) 治世の法は上天子なり

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.223

    上は天子から下は庶民にいたるまで、それぞれおのおの、なすべき役目がある。その役目にしたがってなすべき仕事がある。役目と仕事から人が離れたとき、世は乱れる。地位と役目はぴったりくっついている。地位にあらぬ者が役目を担おうとすれば生活は安らかでなくなる。

    二十の(一)の最後は、「戒行律儀に随ひゆけば、自然に身安く行儀も尋常に、人目も安きなり。ただ、今案の我見の安立をすてて、一向仏制に順フべきなり」とある。

    先の自己観察の答えはココにある。すでに書かれている。なのに、きのうきょう考えついた自分一個の考えにしがみく。

  • 異躰

    2011.06.27 晴れ

    降らんなあ。梅雨の中休みじゃなく長期休暇を取得されましたか。もう来年まで休みますよ。近畿のみなさん、さようなら。梅雨入りと報じられた5月のあの頃は大雨が続いたけどそれ以来、まとまった雨は少なかったような。

    第二十九候、菖蒲華。里の家から電車にのって20分ほどの場所に菖蒲池って遊園地があった。もうない。いまはどうなってるのかしら。菖蒲池はいまのアヤメ科のアヤメか、サトイモ科のショウブか。どっち? どうでもいいか。

    今週で6月も終わり。晦日は大祓。夏越の祓。私はなにを祓いましょうか。

    午前中、メンテ。Macは週1回メンテ、サーバーは月1回メンテ。iCalにスケジュールを登録して知らせるように設定してある。予定は先週の土曜日だったけど密林から到着した『最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)』 内田 樹 を読んだのでパスしていた。

    「自分の中に記憶されていた言葉と、それに対応する身体実感が対になる」(同P.217)を読んではっとなった。はじめに言葉ありき。

    言葉は空白をつくる、身体は空白を埋める。近頃、そう感じるようになった。まえは違った。言葉を覚えたら理解できる。自分の体験をだれかに説明したくて言葉を覚える。覚えた言葉をつかって文脈をつみかさねて物語をつくって相手へ伝達する。それが理解と考えていた。いまでもその考えをもっている。けれど、どうも物事の片側しか見えていないような感じだ。

    言葉は既知をこわして未知をいれこむ隙間を生み出す。隙間から空白へ。

    「させていただきます」という言い回しが敬語として定着している。あるとき、「させていただきます」に対する「他者の思念」を読み、慇懃無礼だと感じる「他者の感覚」に接した。そのとき、ぼくが抱いていた感覚は違和感なんだって気づいた。「させていただきます」に対する耳障りな感覚。

    既知が未知に変わった。「他者の思念」と「他者の感覚」の言葉が自分のなかのスペースをむりやりこじあける。隙間が生まれ空白へとひろがっていく。

    それから自分の身体は「させていただきます」をどんなふうに受け止めているかを観察しはじめた。「させていただきます」が慇懃無礼に感じる文脈と感じない状況がある。身体はふたつを仕訳する。仕訳の精度が向上してきたと納得できたら身体は空白へ知を埋めていく。

    「させていただきます」はいずれ正しい用法になるだろうし、いまもそうなっているかもしれないけど、自分の身体実感が堆積されていない言葉について「理解」はうかつにはてはめられないなあっていまのぼくは考える。

    言葉を入力すれば空白がうまれる。入力する。空白はひろがる。どんどんひろがる。その空白を身体がうめなければ、身体実感が堆積しなければ、「すべてわかった」ふうになってしまう。「見えちゃってる」ってやつだ。する前から結果がわかっている。

    いま書いてきた内容は、身体実感が堆積されていない。だから上滑りしている。書きながらぜんせんしっくりきていない自分を感じている。

    15:30からC社のH氏とJR京都駅で打ち合わせ。サイトの進捗状況の報告とサーバー移転の説明。あとはH氏のお話を伺う。17:30終了。

    H氏のお話を伺ってふたたび痛感した。「何かひどいことをしたのに、だれもあえて何も言おうとしないなら、事態は深刻だ」(『最後の授業 ぼくの命があるうちに』 ランディ パウシュ, ジェフリー ザスロー P.56)ということ。なにもいわれないことを自覚できない恐怖。

    ぼくにはすでにもう何も言わなくなった人がいる。ぼくのなかでは存在しないのと同じ。何をしようが、何を言ってこようが、関心はないし、好きにすればよいと思っている。あとは相手とぼくがかかわる部分の領域に対して責務を果たすだけだ。

    ということは、僕も知らず知らず誰かからそのようにふるまわれているかもしれないということ。どれだけしつこく自分に言い聞かせても、自分は天狗になっている。いいかえれば不遜、横柄、尊大、傲慢という言葉がつくる空白を身体が埋めるのはとても困難なことなんだね。

    今日は、長くなったので正法眼蔵随聞記はなし。