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  • 斬猫

    2011.06.02 雨のちくもり

    降るね。だけど梅雨の実感がないのです。ないからついつい雨が煩わしい。困ったものだ。雨よこいこいの方もいらっしゃるでしょうに。人それぞれの思惑がひらひら彷徨います。それを全部すくいとって見られたらぞっとするかしら。はたまたウヒャヒャウヒャヒャでしょうか。興味津々。

    第二十四候、麦秋至。麦が黄金色の穂をつける時。たわわ。いわば麦の秋ですね。小麦が値上がりしてパン好きを困らせる昨今。7月にも小麦の輸出を解禁する(不作で国内需給を優先していた)とロシアが発表したから価格も少しは落ち着いてもらえたら嬉し。

    M社のリニューアルサイトを制作。サービス5ページ+企業情報3ページの8ページ制作。1日1ページの制作ペース。一ヶ月後には30ページ。皮算用。そうは問屋が卸さない。たったの1ページ? ええ、そうですとも。いろいろあるのです。い・ろ・い・ろ。

    コンセプトやコピーってとっても大切ですが、それにかかりきってちっとも姿形が現れなかったら実感がわかない。制作者の頭にいくらあっても他からは見えないですから。頭に直接DVIかVGAを接続してプロジェクタに映し出せたら便利だなってふと思ったり。こわい? SF? 近未来?

    なのでサイトの構造を設計できたらまずは制作しはじめるスタイルへ変更してます。近頃は。それもWPのおかげですけど。サイトの情報構造を管理画面で変更できるのでありがたい。昔のような静的なサイトじゃあ手間がかかりすぎてムリ。

    16:00すぎに出発。大阪へ。大阪駅で途中下車して『脳のなかの幽霊、ふたたび (角川文庫)』 V・S・ラマチャンドランを購入。19:00からF先生とウェブサイトの打ち合わせ。打ち合わせは20:00すぎに終わったけどこちらの段取りの悪さが際立って結局21:00に終了。情けない。大失敗。

    正法眼蔵随聞記 二 四の(一) 如何なるか是れ不昧因果底の道理

    『正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)』 筑摩書房 P.75

    くじけそう。文庫2ページの原文と2ページの注釈を1時間、ずっとにらめっこ。繰っては戻って繰っては戻り。まるでさっぱりです。もうやめようかしらとはじめてちらり。まだはじまったばかりなのに。いやはや自分の底の浅さ、飽き性に驚き。

    今回のお話、背景や予備知識をなにかしら知らないと読解できないんじゃないかな。「因果ははっきりと、同時にあらわれている」とおっしゃる道元禅師が持ち出す「南泉斬猫」のお話。修行僧の前で南泉(禅師?)が猫を一刀両断。もちろん訳がございます。

    ご興味がおありの方はここの箇所だけでも図書館でどうぞ(まさか立ち読みでどうぞとは口が裂けても言えませんので書きます)。

    「この斬猫はすなわち仏行である」と。が、「一つの行為に仏行と罪相とが同時にそなわっているのだ」とおっしゃる。

    う〜ん。わかりません。わかるやわからない、って表現まで達せず。手前、何が何やら、完成図のないジグソーパズルのピースを拾っているような。しかもそのピースの色は白だけ。オロオロ。

    こう雨が続くと心は雨漏りしそう。はあ。でも心の雨漏りって表現はすごく気に入ってます。なぜかって?

    かしこみかしこみ。

  • 攻落

    2011.02.10 曇

    寒い。身体を注意深く保守していても下降は免れない。どうも二次関数のグラフの頂点をめざしているようだ。やだなぁ。調子を戻してライブへ行きたい。第二候、黄鶯睍睆。鶯が鳴き始める。そろそろ平野へ下りてくる。葉物野菜は高止まり、うぐいす菜といわれる小松菜もしかり。煮物で活躍してくれる。煮汁は深奥。

    O先生のアクセスログをチェック。相変わらず特異な数値。困る。おそらくO先生の講演を聴いた先生や実習を受けた先生がアクセスしてきていると推測。先生によると今回リニューアルしたサイトを他の先生が評価しているらしい。そんなもんか、と僕はスルー気味。評価の定義が異なるから僕にはまったく関係ない。とにかく困っている。正攻法で解析できない。

    17:00からM先生と打ち合わせ。今月から年間のご契約をいただいてウェブサイトの打ち合わせがはじまる。18:00すぎに終了。18:30からM社のOさんと合流。

    文献管理で悩んでいる。本を読むのにあたって周辺の資料を検索する。PDFがヒットする。あるいはデータベースにアクセスしてPDFを検索する。ダウンロードする。今まではファイルサーバに”PDF”というフォルダを作成してダウンロードした日付で管理していたが、どうもおさまりが悪い。

    調べてみるとEndnoteってソフトがあるらしい。理系の研究者専用らしい。英語雑誌論文データベースの検索結果を保存・整理し、参考文献リストを投稿雑誌の形式に合わせて出力できるとのこと。学生でないので52,290円。手が出ない。文系の文献だからお呼びでないかも。Mendeleyってソフトが無料とか。

    ああ、そうか。「入口と出口をイメージできないからソフトを選べないんだな」と理解した。僕が論文を書く(出口)なら、リストしなければ資料や雑誌、収集しなければならない文献(入口)を思い浮かべられる。

    入口から出口までのプロセスを描けたら、どのソフトがプロセスと合致しそうか理解できる。ソフトの機能を読めばよい。だけど、今の僕はPDFをどんなふうに管理したいのかわかっていない。入口から出口までのプロセスを記述できない。ソフトを選べない。

    結局、アカウント取得してほったらかしていたEvernoteで管理してみることにした。EvernoteでPDFを一元管理してみよう。

    この日、京都の夕方は寒かった。夜も寒い。河原町はたくさんの人。一人で歩いていると森博嗣先生のフレーズが時折頭によぎる。

    海の上でただ独り、小舟で浮かんでいたとしても、孤独が味わえるかどうかは疑わしい。たとえば私の場合、孤独の信号を感じるときというのは、身近に大勢の人間たちがいる、そんな状況がほとんどなのだ。きまって、絶え間のない笑い声や、グラスの鳴る声が、陽気な音楽に包まれて耳から侵入しょうとしている。

    『恋恋蓮歩の演習』 森 博嗣

    茂木健一郎先生の連続ツイート「夕暮」が好き。その一つ夕暮(7)

    夕暮(7)何処にも属さない「夕暮れの時間」を持たなければ、自分について、社会について根源的な思考はできないような気がする。ヘーゲルの言う、「ミネルヴァのふくろうは夕刻に飛び立つ」の意味は、そこにあったのだろうか。

    連続ツイート「ざわ」も好きだ。その一つざわ(4)

    ざわ(4)夕暮れ、街を歩いているときに、何とも言えぬ不安に包まれることがある。自分を包んでいる社会的文脈がほぐれ、とけ、たった一人で世の中に放り出されているかのように感じるのだ。そのような時、胸の奥が、甘美にざわざわとし始めるのがはっきりとわかる。

    雑踏のなかを一人で歩く。歩いている瞬間、瞬間はどこにも属していない。解放された途端に包まれる不安。自由であるはずなのに不安。矛盾。一歩一歩、歩く度に孤独を確認する。孤独を捕獲する。

    誰かと目が会う。目があって自分はその人の顔を見ていたのだとはじめて自覚する。誰かの顔とすれ違い視線が交わらなければ自分が見ている方向を知覚できない。

  • 南瓜

    2010.12.21 曇のち雨

    12月21日は南瓜の日らしい。そう耳にした。南瓜の日? 冬至は12月22日。なんだろ? 南瓜の日って? 大好きな Janis Joplin の Piece Of My Heart、Superflyバージョンの歌詞をアップしたら穏やかに過ごせた。穏やかに過ごしたい日だったので嬉しかった。穏やかに過ごせたのには理由がある。それはたった一言からはじまったりする。

    日記を書いている今は12月22日、書く対象の日付は21日、冬至のことは23日に書くんだけど、なんだか書きたいのでありますが、やっぱり手綱を締めたり、ややこしいやつだ、しかしほんまに。

    夕方までアルバイト。99%入力完成。1%は資料待ち。1点不足していたので20日にメールで連絡したがまだ送信されてこない。まぁ気長に待てませんので焦る、フリだけすることにする。明日の朝一に連絡しよう。

    夕方からO先生のサイト修正。PowerBook G4 を立ち上げて Jedit X を起動して18日の打ち合わせの内容を記入したファイルを開く。その画面を見ながら MacBook Pro で skEdit を起動してHTMLを修正。画像は Photoshop と Illustrator で修正。フォトショとイラレの最新バージョン欲しいなぁ、欲しいなぁ、欲しいなぁと呪文をとなえながらやっていたらだんだん楽しくなってきた。

    たむらぱんの「ラフ」が間違って押してしまった iPod のリピートボタンのように脳内再生しよる。離れない。離れまい。気がつけば「こわいわぁぁああああぁぁぁ」と口ずさんでいる自分がいまして、「待とうかなぁぁぁああああああああ、あさぁあああああぁぁ」と続けて「朝」の部分なんて上手く口ずさめたりしたら自己ドン引きしておりまして、最も基本的な母音の「あ」が頭でこだまするわけであります。「う」だったらよいのに。

    もしも世界の最終列車に間違って乗ったらどうしようかなこわいわ 街のタクシーも富裕層用で並ぶのも怖い だからどうせなら待とうかな 朝 最終列車逃して世界の始まりを見てみよう

    ストレートな表現なのにファンタジーっぽく僕には聞こえる。「世界の最終列車」って言葉がとても好き。すごいな。たった一言で情景を描いちゃった。あっ、間違って乗ってみたいって思ったもんね。

    大学生のとき、車で東大阪をフラリと出て琵琶湖を一周して朝帰ってきたり、京都の山奥まで走って帰ってくる、六甲山へ行って帰ってくる、とか、とにかくフラリと出かけて朝帰ってくることを「ぶらっち」って呼んだ。めちゃくちゃ走った。気がつけばここはどこだ? がしょっちゅう。近畿圏外を出ていたこともしばしば。

    明け方をどこで迎えるかが楽しみで楽しみでワクワクして、車に乗っていなくてもそうで、20代、週末になれば朝まで飲みたくてぶらついてとにかく朝までしゃべる、しゃべる、しゃべる、途中で船を漕いでも、しゃべり、しゃべりつくして笑い転げて「世界の始まり」を見る、あのアンニュイでメランコリーな感じとコケティッシュが交錯して世界の始まりなのに終わりを見ているようで、あの頃は死を知らない現実への情熱と三大欲がドロドロに混じった純粋が、朝、沸騰した、臨界。

  • 醜悪

    2010.12.07 曇

    新しい建売や注文建築の前を通るとヘンナ感じがしたか。ちょっと前から。何がヘンナなのか言葉にできなかった。記憶に残った住宅の映像を再生できるんだけど何がヘンなんだろ。今日、自宅の近所を散歩していて新しい家を眺めていて気づいた。あっ! だった。そうか、植木が見えない。外観はもちろん玄関の様相が昭和の家と異なる。あと外からベランダが見えない。家によってはベランダが見あたらない(洗濯物はどうするんだろ?)。外観のイメージは凹凸の少ない側面。直方体的な。植木を置く凹凸の空間がない感じ。

    昭和の家は、玄関と公共道路の境目に植木をずらっと並べたりベランダに植木を置いている。置いていない家もあるんだけど、まあ、前を通れば植木を見つけられるけど新しい家はスッキリしている。人が環境に植木を置くのじゃなく、スッキリした環境が人に植木を置かせないのかな?

    プログラムのテスト。jQueryのツールチップを使ったナビゲーションをO先生のサイトで取り入れた。それを他のサイトでも使ってみたくなった。特にF社のサイトでうまく使えばナビゲーション先のページ案内に使えそうだ。

    デザイン(設計)とルックス(見た目)は異なる。前者は基準を確立しなければならないし完成した後の変更はデータをもとに検証する。後者は好み。いくら客観的に観察しても、やっぱり主観的な判断に引っ張られる。僕の場合、前者はなるべく妥協しないように意見を伝達する。ただしロジカルに述べられない基準なら僕の設計が間違っている。

    後者についてはなるべく折り合えるよう話し合う。でもね、なんというか、とても難しいです。先方の意向をかなえたら僕の主観的にはちょっと違うよなあって思うこともしばしば。結局、前者と後者は異なるといっても独立した二つの集合じゃないんだろうな。

    RSSやちょっと開いたサイトの先々で市川海老蔵さんの記事が目に入る。ほとんどが「罵倒」に近い言葉を使っている。タイトルだけで充分だから読んでない。事件の詳細も知らない。歌舞伎役者としての市川海老蔵さんの「力」を知らない。いわんやプライベートなんて。昨日は記者会見をやっていたらしい。ラジオで300文字ぐらいのニュースを聞いた程度。

    不打落水狗だか打落水狗だったか魯迅が言ったということわざの正しい用法を僕は知らない。ネットで見かけるタイトルは水に落ちた犬を徹底的に打っているみたいだ。

    「傾く」という言葉の語源をここで書かなくても茂木健一郎先生が Twitter や ブログで書いていらっしゃるし、『一夢庵風流記』 隆 慶一郎 を読めばわかる。ぐぐってもよい。

    自分たちの倫理観や価値観へ引きずり込まないと気がすまない。自分たちの倫理は正しく、価値観は尊い。

    その倫理観と価値観は紺色のスーツを着て一斉に就職活動する環境をつくりだした。写真を見ると、どこかの国の一党独裁か独裁者(これも僕の倫理観は正しく価値観は尊いだ)の演説でも聴きに来た人たちかと思い、本当に日本かどうか奇妙な感覚が残る。橘玲さんのサイトにある日経新聞2010年9月16日付夕刊に掲載された、「経済今昔物語」という記事の写真を見たら百聞は一見にしかずだ。2010年JALの入社式の写真にはスーツはもちろん靴や髪型までそろった人たちがずらりと並んでいる。もう一つは1986年の写真。橘玲さんがおっしゃっているとおり「「人類は時代とともにより自由になっていく」という楽観的な進歩史観からすれば、この2枚の写真は衝撃的だ」し、この2枚の写真だけに限定すると進歩史観はあてはまらない。

    観客は歌舞伎役者の傾く姿をみる。魅了される。それだけでよいと僕は思う。それ以外はどうでもよい。社会はそんな寛容の精神を持っていると僕は信じている。他人に迷惑をかけてまで傾いてもよいのかとお叱りを受けるだろう。それでも一人や二人ぐらいそんな役者がいて、もしその役者が人を魅了し続けるなら、好きにすればいいじゃないかと。

    今、社会の成員のひとりとして僕が引き受ける責務は、どうして同じスーツを着て同じ髪型で同じ靴をはいて入社式で誰かの話を聞くような環境を作り出したかを考えて反抗することだ。

    自分たちの倫理は正しく、価値観は尊い、という空間から距離をとる。本当に心底怖い。

    市川海老蔵さんのことはどうでもよくてどうでもよいから素直に書ける。市川海老蔵さん、僕は何があったかなんて興味を持っていないし詳細な説明を求めません。一般的にいう「悪」や「無法」があったとしたらこれが肥やしになってさらにもっとステキな役者さんになられることを祈ります。生涯、傾いてください。

  • 狷介

    2010.09.15 曇のち雨

    涼しい、涼しい、睡眠が深く、覚醒は鈍く、身体が軽く、頭は重い、朝一番に飲む水がそろそろ冷たく感じる気配、今から10月下旬頃まで続く朝の冷気を気に入っておるのでありますが、朝、窓を開けたら冷気は暖かい部屋へ入れてくれと我が身体を貫き、部屋に籠もった邪気を追い払う、ありがたや。

    終日、M先生のトップページの案を練る。del.icio.us に保存したサンプルのサイトを順に眺めてアイデアを浮かぶまで待つ。それらのHTMLとCSSのソースを開いてコードを読む。トップページだけを変更する時、下層ページとのバランスを考慮しなければならないからとても難しい。トップページがポップで下層ページがベタだったら違和感を抱かれてしまう。

    列車の中で6,7歳と10歳ぐらいの兄弟が、自分の目の前で会話を繰り広げているので耳をすませたら、たくましい会話でステキな能力にKOされたシマッタ。

    弟は指で空中に向かって長方形を描きながら「なぁ、あれ、知ってる? “なんでもできるやつ」と兄に尋ねた。続けて「四角くて黒いやつで画面にさわるねん、なんでもできるねん」とつなぐ。

    すぐさま兄は「知ってる、アップルやろ」と答え、弟は「そうそう、アップル!」と喜びながら、「なぁ、アップルって日本の会社やろ?」と再び兄に尋ねたら、兄は「ちゃうわ、アップルは外国やで」と答えので、弟は「ちゃうって、日本やって、だって、アレ、日本語やで」って素っ頓狂な声で反抗したら、「あほやな、日本で売ってるから日本語なんや」と兄は仕返す、常に半歩先へ行く兄、頼もしいぞよ、と、いよいよ会話はディープインパクトへ、アップルは日本か外国か論争が続く、ついに弟はマザーへ助け船をだした、(自分と同世代っぽい)マザーは、「お母さんにそんな難しいこと聞かないでね」と軽い絶望の眼差しをあびせながら微笑で兄弟を奈落の底へ突き落としたのである、ゴットマザーと歌舞伎役者へ快哉を叫ぶ自分はといえば、「米国ですよ」と兄弟より100歩先へ行ってやろうかとしたが、我オトナナリしばしの辛抱よ、と兄弟の会話がステキすぎてガマン、ガマン、堪えろ、我が脊髄反射。

    兄は常に弟の半歩先を知っていないと気が済まぬ、その無邪気な知のキャッチボールがハピネスでシャープなのだ。

    弟よ、とてもステキなフレーズから会話を始めたのでオジサンは君の虜になったよ、「なんでもできるねん」と。オトナはこういうだろう、「なにができるのですか」と。ひらがなをわずかに入れ替えただけど出力は大きく異なる。可能性が全方向へ投げ放たれるフレーズと可能性が閉じてしまった質問。

    兄弟たちよ、オジサンは下車するまでひたすら待ったぞよ。なにゆえにあの、あの、もっとも大切だと勝手に思い込んでいた単語が互いから出てこない、半歩先ゆく兄ですら発音せず、弟は知らないのかもしれない。

    まぁ、どうでもよいよ、それが出てこなくても。でもまぁ、わかってほしい、オトナは名前に拘泥するんです。

    君たちへ贈ろう。それは “iPad”だよ。

  • 新盆

    2010.08.14 曇

    アルバイトの進捗率は前日の夜に少し進めて95%。朝、05:40頃に目が覚めたので幸運だと思ってそのまま机に向かって残りの5%を進める。完成。ちょっぴり得した気分。

    その後は夕方までM先生のページ制作。時折、SEO対策もかねてメンテしていたが、改めてコードを書き始めるといくぶん改善の余地はありそう。ストラクチャとコンテンツはまったく問題ない。シンプルとトレンドの混合比の問題と思う。少しトレンドを配置したほうがよいかも。

    昨日の日記に書いたダウンサイジングの続き。サイズを小さくすると売上の予実管理より利益のマネジメントが難しくなる。売上を軽んずるんじゃない。ダウンサイジングしても利益を出せる体質をつくる。

    はじめから小さめのサイズで開業した事情とダウンサイジングする事業とでは利益のマネジメントは異なる。前者の方が高効率で運用できマネジメントしやすい。

    後者の問題点はスピード。売上が減少してキャッシュの流れが一時的に停滞する。手元にキャッシュが残らなくなるので売上減少のスピードにコスト削減が追いつかない。なるべく出血を素早く止めなくてはいけないが、そこで焦って対処療法したら体質は改善されない。

    経営の数字は客観的指標である事実は変わらない。変わるのは環境。コンパクトサイズのお店を自分でやりたいという職人が増えても時のニーズと合致しない環境を想定しなければならない。NYTimesによると”Sushi Academy”で将来のすし職人を目指す若者たちが海外で就職を狙っていると報じていた。すし職人から徒弟制度やドイツのマイスター制度を思い浮かべるが、昔の事情と異なってきているみたい。

    徒弟制度に対する価値観が変化していると想像できるし、周りを見渡したとき寿司店がフランチャイズ化したり大手の回転寿司のお店が「お寿司屋さん」になってきている事情もあるんだと思う。

    ベルトコンベアーに乗ったファーストフード寿司(もともとファーストフードだと思うんだけど)は成長しているが、伝統的な寿司屋は収縮している、と某コンサルタント会社(創業者はスピリチュアル系)の中の方がおっしゃっている。

    業界の変貌を察知した若者たちは「学校」で技術を学び、海外で経験を積み、そのまま当地で開業する。コンセプトは「日本のお寿司屋さん」、ターゲットはエグゼクティブ。

    言語と空間を移動してコンテンツの落差を利用した商売は異文化の障壁をクリアできれば先行者利益を生み出すので、すでに各国で「対面式の伝統的な日本の寿司屋」さんはたくさんあってエグゼクティブを相手にハイソな雰囲気を演出していると想像する。

    現在、学校で学んでいる方々は後発組になる。飽和状態でないかもしれないが獣道を歩く。自分はこういった感性に共感する。

    エコといってもまだ物質の多寡が豊かさの指標だ。たくさん食べられると喜んでいる人々の比率が高い環境が続く間、回転寿司は支持されるし拡大し続ける。寿司以外もしかり。安価(あるいはコストパフォーマンスが高い)で大量の食料を提供するお店へ人は流れる。規模が大きくなれば雇用に貢献し地域経済を成長させると賛同が集まる。

    コンパクトサイズのお店が街の風景にとけこみ画一化された店舗が景色から少しずつ消えたとき、そのデザインされた街全体がコンテンツになると思う。高価で贅沢な食べものをほんのわずかだけ食べて満足する人々の比率が一定量に達すれば環境がリンクしていく。もちろん金銭的に裕福な人々が一定量に達しなければならないわけじゃない。

  • 偉業

    2010.08.08 晴れ

    ひとつ嬉しいことがあるとひとつ悲しいことがあって帳尻を合わせて精神の均衡を微妙な位置で懸命に保っているのかもしれない。ゼロサムのような冷徹で過酷なゲームでなく予定調和でもなく、後から気づくとそうだったという程度の緩やかな偶然に包まれて、自分が持てる時間の貸借対照表と損益計算書は複式簿記のルールにのっとってやがてゼロで一致するみたいな感じ。

    午前中、F社のアクセスログを見ながらサイト構造を練る。なにか根本的な間違いを自分が犯しているような不安に包まれる。ユーザの視線から遠く離れた位置で空回りしている映像が浮かぶ。その根本的な間違いを見逃している。ほんとうならば見逃してはならない些細であるけれど甚大な影響を与える要素を掬い取れないでいる。

    14:00前の列車で三ノ宮へ。THE COLLECTORSのライブ。17:30スタート。会場の収容人数は250人。とても楽しみにしていた。あと少しチケットが売れたら満員なのにというライブが多いらしいTHE COLLECTORS。今回もそんな感じだった。

    約2時間のライブ。終わった後、躰がクタクタだった。観ていた自分がこれだけクタクタになるならステージの人たちは倒れるだろうなぁと思った。あとでブログを読んだらリーダは酸欠で記憶がちょっと飛んでいたとか。

    ライブは素晴らしい。ブルーノートやライブが好き。数千、数万の人員を動員できる会場より、ほどよく小さいハウスでステージが見えて演奏する人たちの表情をなんとなく確認できる臨場感を好んでいる。

    規模は小さくてもコアなファンに支えられて24年間も続けてこられるってステキだなぁって心の底から強く感じた。

    「コレクターズが残っているって業界の七不思議なんだよ」ってコータロー君がステージでしゃべって笑いをとっていたけど、脚色は多少あってもいくらか本当も混じっていると思う。それぐらい厳しい業界を残って続けてきた。

    数千、数万の人員を動員できなければある程度の年齢に到達した時、現役を降りてプロデュースする側に回るのかもって想像する。リーダは今年50歳。250人規模から1,000人前後のライブハウスを今も枯れることなくこなしている。メジャのなかでマイナとしてきちっと残っている。

    続けること。(限られた人数でもよいから)人を魅了し続けること。感動させること。自分たちを思い切り楽しむこと。

    やりたくてもできない偉業だと思う。

  • 輓近

    2010.06.13 雨

    梅雨入り。道路に臨むリビングの窓。窓の向こうには紫陽花。テーブルの上にパン、ジャム、バナナ、スイカ、ヨーグルト、コーヒー。世界の75%より豊かな朝食。世界で上位8%に属する富裕層の朝。5億人の人々より恵まれた平和な朝。比較統計の数字にまったく実感がともなわない朝を迎えられること、それ自体が幸運なんだろう。朝食を食べ終え、iPhoneでRSSをチェック。文字を読めない20億人より恵まれているという。同。まったく実感がわかない。実感がわかないからより意識して感謝しなければならないのかもしれないし、感謝への敬意と畏怖が祈りとリンクしたのかもって思った。紫陽花と目が合う。遠くてわからないのになんだか嬉しそうに見えた。晴れより雨が似合うと思ってしまう花。艶っぽい。

    アルバイトの資料が金曜日の午後に届いたので作業の続き。午前中は読書。午後からとりかかる。進捗状況60%。月曜日の午前中には終わりそう。

    M先生のミーティングへ出席する時、大阪駅周辺を歩く20代の男性が気になる。スーツが tight & short。細い身体しか着こなせないようなスタイル。靴の先は尖っている、尖っていなくても長い。先端は空いてそう。

    スーツがそうならカジュアルはと思いきや loose。だらしないって意味ではない。マイナスなイメージを抱いていない。着こなし方の規則や関係が緩いってニュアンス。そういえば、ネットで原宿のファッションを集めた写真を見たとき、unisex で驚いた。近視だから遠目に見たら判別できないだろう。

    tight & short なスーツをデザイナが制作するから、トレンドになるのか、時代(大げさな表現だ)が求めるからトレンドになるのか、相関関係がわからない。自分は tight & short からイメージを展開したいんだけど、展開方法がひらめかない。

    tight = きつい, ぴんと張った, 厳しい, 固く締まった, 余裕がない, 切迫した, しっかりつかんだなどの意味があって、tightは心理を表現しているのだろうか。あんなに tight だと、慌てて大便に駆け込んだ時、尻が破れないのか、とか、裾が短いと靴下もちゃんとコーディネートさせないとハラハラしないんだろうか、って心配になるし、靴も外反母趾になるんとちゃうって思ってしまう。

    loose = 緩い, だぶだぶ, 解き放たれた, 綴じられていない, 大まかな, 固まっていないなどの意味があり、他には軽はずみなやふしだらなとも云う。自分は腰ばきにまったく抵抗感がないし、羨ましくも思う。気になると云えば、わざわざ足を短く表現する気恥ずかしさや、見せパンツとわかっていても、見慣れない下着がみえたり、ハンケツを見せられた時の”こちら側”の反応を勘案してほしいと願うぐらいだ。

    パブリックスペースでは、tight なスーツで自分を固定化する。でも、プライベートスペースでは、looseに着こなす。たとえ、空間がパブリックであっても時間がプライベートなら身体から服を解き放つ。

    高校生かなって人たちの着こなしは、パターンを発見できる確率が高い。なんだかまだ模索しているよう。髪型は特にそう感じる。定型。それは、自分が、対象の細部を観察できる感性を持っていないから、みんな同じ髪型に見えてしまうのだろう。この間も、10代の男性が二人歩いていると、兄弟かなって間違えそうだった。外装は似ていると認識した。

    それも、10代から20代へ変わり、社会人になって給料の大半を服装へ投資できるようになったっぽい人たちの服装は、型から脱却している人もいるんじゃないだろうか。ただ、その型から脱却する人たちも別の「型」を参照しているかもしれず、だとしたら、まだ一般的な「先端」ではないのかもしれない。

    自分はその人たちの服装を視て、どんなイメージを展開したいのだろう。あの人たちはいつも自分へその課題を与えてくれる。

  • 恩恵

    2010.02.09 曇り

    朝は前日までと比べ寒くなかった。 予報どおり。前日比+8℃らしい。球根の芽が出てきた。ちょっと早いような気がする(初めてなので知らない)。花が咲くとよいな。

    午前中、O先生のプローフィルを印刷。プロフィールを印刷した光沢紙をアクリル板に挟んで医院の待合室の壁に取り付けている。今回、その印刷の修正と新たに症例写真集に挿入したいとの依頼だったので制作と印刷。

    ちょうど一区切りついた頃、カナダからSkypeで入電。会話(日本語で)。問題を解決できて安心。技術の恩恵を実感。素敵な時代だ。MacBookのディスプレイの向こうはカナダだ。距離をまったく実感しない。音声と映像はクリア。おまけに、向こうのPCのディスプレイをこちらに映し出せるので、操作方法をすぐに教えられる。M社はカナダに事務所があるのでSkypeを常用しているだろう。試しにIDを検索すると見つけられた。外国人が無線LANスポットでスマートフォンやノートのディスプレイに向かってしゃべっている気持ちを理解できる。かねがね書いているとおり、数十年後には移動の概念が書き換えられると実感。

    午後からF先生のDB制作。まずはサンプルを書籍のとおり制作してみる。まったくわからない。でも続けてみよう。

    恩恵といえば、政治家がネットで実情を訴えるので問題を理解できるようになった。今日も河野太郎さんのブログを読んで自民党に嘆息。政権交代が実現したので、民主党政権が機能しなくなったら、次の政権交代がやってくる。それは今の自民党であるはずない、と感じられる一幕。何年も前から選挙でネットを解禁しろとの意見がある。それに対してデジタルデバイドを指摘すす。もし、今でもそれが理由だとしたら滑稽。デジタルデバイドという単語を建前にして逃れている。

    ネットで選挙活動すれば、興味を抱く人は自らアクセスする。政治家は自分の主張を映像や文章で充分に伝えればよい。名前だけを連呼する選挙カーは必要ない。ネットへアクセスできない方々へはミニ集会を開く。そのための時間をどんどん作ればよい。真摯な態度で活動している政治家はミニ集会をやっている。

    選挙は静かでよい。集会とネットが機能すれば、わが党の候補者であればたとえ豚が立候補しても投票する、というジョークが日本でも通用するだろう。自分が生きている間に実現しないと思うけど、いつかそうなるように願いたい。

    夕方、M先生から連絡。久しぶりにお声を聞いて安心した。緊急の依頼。内容を伺って躰が一気に緊張する。電話を終えると、さっそくサイトの変更。M先生の心中を察しながら制作。夜までかかった。そのあと、M社のトップページを変更。S社のページ制作。23:30頃終了。

    『禅とオートバイ修理技術〈上〉』 [to Amazon] , 『禅とオートバイ修理技術〈下〉』 [to Amazon] を購入。非常に楽しみ。

  • 間違った決断は1秒あればできてしまう

    胡麻だれうどん

    「データをインプットしました」

    <私>から聞こえてきた。すべてを司る中心。支配と抑制の核。データをインプットする。可能性をシミュレートするために必要なデータ。否、データは必要ない。人間がシミュレートできうるデータは7歳までにスキャンしてしまった。その後、<私>以外のすべてのデータをインプットし続けている。

    (さらに…)