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  • 奇妙なアンバランス

    2013.08.11 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=o3uPWdOmJd8]

    HIS – 夜空の誓い でスタート。UAのカバーも大好き。歌詞と音と気持ちが調合されてできた”願い””想い””喜び””憂い””悲しみ””佇み”などの薬。音楽といっしょに飲み込む。奥行きのある記憶はいつか平面になって一枚の絵になるのかしら。

    午後から入力の続き。スムーズに進み、これだと今日中にほぼ完了しそうな気配。嬉しい誤算。結局、22:00前に98%完了した。2%は月曜日へ。

    “子供の科学 2013年 09月号 [雑誌]” 誠文堂新光社“ぐるりのこと (新潮文庫)” 梨木 香歩 や詩集をウロウロ。

    右手足の親指の痺れがこのまま続くかなぁと思うとちょっと憂鬱。にぶい痺れは変わらないんだけど、この間ビールを呷ったあとにピリピリきた。吃驚、何ごと? 続くようであれば付き合い方を学習せな。

    酒の相性はある? 最近なんとなく感じる。どうも炭酸系との相性が悪いらしい。酒に強いほうではないのだが、炭酸系を飲んだらシルバータビーのスコティッシュフォールド(ものすごくよく書きすぎ)みたいな体模様になって、心模様はスマートフォンの再起動な気分で、頭模様は髪の毛が生えてきたみたいで気持ち悪い。

    これが日本酒やウィスキーだと、心模様はハロ現象で、頭模様は冴え渡る空想。

    不思議。自分の身体を掌握するなんて、…(機知に富んだテキストが思い浮かばないから 「余白」)…

    ヨットハーバー

    やらなければと意識しているうちは習慣ではないかもね。習慣って歯みがきみたいな感じ? でも意識のリズムが生活を刻んでいるうちは日常に溶けてない、透明じゃない。

    2011年03月14日(か15日)以来続けていることは、じゃぁ今日もな、ぐらいの意識は残っている。週に1回(か2回)はし忘れてるんだからまだまだなんだ。

    気持ちは毎日変わる。一日ごとの四季。春夏秋冬の順番でやってこない点は自然と違う。一日の中ににわかも訪れ、揺れ動く。なかなか静止しない草花みたい。

    目が開いている18時間、音楽を聴いて頬が緩み、目がくもり、こてこての日本人の手拍子にぎこちないスイング、散歩で肌がざわざわ、時に人と笑い、不愉快に遭遇して、感情の賽の目がころりころり。

    何が安定かわからないのに不安はしっかり感じられる奇妙なアンバランス。

    そんな日々にたとえ1,2分でも無心になれそうな時がいま続けていることだ。

    今日はこのままどんどん気持ちを書けそうなので強制終了。

  • 選び選ばれ、気儘か確信、天秤何を測る

    2013.07.26 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=lKXFLNizOoI]

    Drakskipを聴く。北欧の民謡はローテーションのひとつ。好み。民謡と言ってよいのやらわかんない。ただ聴いてるだけ、水たまりより浅い音楽の造詣。んなわけで、とにかくそれっぽく聞こえる音、あっ、なんか北欧っぽいなって音、”それっぽい”や”北欧っぽい”のって? って突っ込まれたら小林薫の笑顔を返してやる。

    昼下がり、メッセ着信。ディスプレイが相手の方の心情を映し出す。言葉だけの双方向通信。日本語は1文字に2バイトを要する。2バイト言語は想像力の問題用紙を私に渡す。答案用紙はない。

    できるだけ短く返信。聴くは見るに置き換えられる。耳を傾けている信号を送信する。左から右へ。[入力中]の表示と消滅。文字と時間が流れる。

    出力と入力に比例して声の一回性を痛感。

    相手は”いま”を私へ伝達してご自身の気持ちを探っていらっしゃるかも。わからない。かんたんに決めつけたくない。「かもしれない」の付箋を貼る。

    選び、選ばれる。たまたま私のアイコンをクリックした。それもわからない。独りごちる。

    選びー選ばれる。気まぐれであっても、確信であっても、偶然でも、如何なる様態であれ、選びー選ばれることによって互いに持っている天秤を己の中で釣り合わせようとする。選び=選ばれる。平行だから釣り合ってるわけじゃない。

    左に役割、右に存在。あるいは、何か。

    京都市立美術館

    “乗り越える”や”頑張る”。私が自分自身に使っても、誰かに投擲しない。いつ頃からかそう感じる。

    頑張るの代わりに”グッドラック”を中井久夫先生から剽窃する。同じく森博嗣先生からは乗り越えるの代わりに”最適の健闘”を拝借。なぜ最善ではなく最適? 『スカイ・クロラ』シリーズを読んだときから剥がせない疑問。

    ずいぶん前に”成長”がリスト入り。私のイメージは右肩上がり、もしくは「しなければならない」的ひとつの方向しかない圧迫感。使わなくなった。代わりに進化、たまに成熟。

    これらは自己満足。他者が使っているからって過剰反応しない。淡々、飄々と受けとめる。

    誰かに投擲する言葉はほんのちょっぴり臆病なぐらいがほろよいでよいんじゃないかしら。ノンアルコールじゃ物足りない、かといってモルトをストレートで飲むのは心の性器を見せられるぐらいでないときつすぎる。

  • 甘えとふがいないが混じった定期便

    2013.07.18 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Xgv-U7dhHe4]

    bibio – the ephemeral bluebell でスタート。既出。インストが好き。『Vignetting The Compost』のなかでいちばんのお気に入り。原っぱゴロリ転がって風に包まれる空や湖岸をGIOSで走っている音や雑踏のなかで想い歩く姿が脳内スクリーンに流れる。

    朝から右親指と右腕と右唇がまた少し。うーん。

    13:30に京都。H氏と打ち合わせ。あっ、降りたの久しぶり。改札抜けたの何時以来だろ。記憶の抽斗を開けようにもどこに仕舞ったか思い出せない。祇園祭山鉾巡行が終わった翌日の京都。

    近況や現状を伺う。聞き役、90%。お伝えしたのはひとつ。やわらかい着眼。仕事の領域へ合焦する思考の構図をずらす。ためらいと不安。

    リンクしてないと見えてしまう様態に潜んでいる「見えていない」「感じられていない」「聞こえていない」コトやモノ。それらが、仕事の輪郭を描いてくれる。

    16:00前に終了。大阪へ移動。次の予定まで大阪マルビルの下で読書。

    19:00からF先生とミーティング。最寄り駅二駅手前で降りて歩く、35分。汗だく。マゾか、罵りながら大腿筋のために歩く。

    私見を率直に話す。失礼な物言いだと自覚。伝えなければならないって直感した。先生の孤独の隣に立ってられるまで立つ。

    21:30終了。乗り換えの大阪駅で夕食、野菜ジュース。

    パン屋さん

    帰りの車中、睡魔が編集された記憶を思い出す。10代の半ば、友達と一晩中しゃべってほっつき歩いて初の朝帰り。母は何も言わなかった。なんで怒らへんの? への返事。

    「母さんの役目は、ちょっとでええから社会に役立てる人間に育てて送り出すことやから、朝帰りも必要なんやと思うわ」

    一言一句正確に覚えていない。そういう風に言われたことだけを編集して覚えている。

    ほんのわずかでも役立っているか、自問。一人での仕事を言い訳にしてはいけない。けど、ときおりの不安。稼いでいない、社会の役に立てていない。一方で好き勝手にやってる気儘。自暴自棄ではなく、甘えとふがいないが混じった定期便。二つの分量を少しずつ減らしていけたらね。

    不安はここだけに吐露。自家中毒を起こさないように自身と向き合う。

    このままやっていけるかどうかわからない。終わってもおかしくない。悲観しない。心中のデスクトップに貼り付ける。わずかでも誰かの役に立てるように。

    幸か不幸か職種への執着はなく、あるのは役に立ちたい懇望、ね。

  • 嘘と虚構と現

    2013.06.10 晴れ
    http://www.youtube.com/watch?v=AbbBK7HeCBQ

    The Miceteeth – レモンの花が咲いていた でスタート。わざとはずして歌ってるの? って勘ぐってしまうよね。上手下手に関心ないからOK。なんていうか、ライブパフォーマンスっていうぐらいなんだから、「表現」がすべて。舞台の表現が自分に響けば、自分が気に入れば、周りが何を評論気取ろうがお構いなし。レビュアの文章読んで本買うのってあんまりしたくないから。

    第二十六候 腐草為蛍。湿度が高くなる。蛍が舞う。守山では美しい風景が見られるらしい。一度行ってみたい、という口癖は控え目に。行ってみ「たい」から”い”を取りのぞかないと。そういうことを意識して丁寧に営む道にさしかかっている。

    旬は伊佐木、縞鰺。いまや魚もファスト。”ファストフィッシュ”が貼られる。調理しなくてよい魚。魚、といってよいのかためらいつつ。レンジでよろしく、フライパンでアレンジでもどうぞ的。

    近所のスーパに限ると、魚を買う人が少ない印象。新鮮でないからかもしれない。そういえば開店してすぐの7:30ごろにいったとき、産直の魚は確かに綺麗に見えた。目利きできるわけないから、「あっ、きらきらしてる」って単に感じた程度。ああいう魚が常に並んでいたら買うだろうか? そんなことをつらつら思いなが売場をぶらつく。

    部屋から見える紫陽花の風景が日に日に変わる。驚くばかり。自然の精密なプログラム。指示されなくても法則に従って自律プログラムが機能している。雨が少ないのにどうなってるんだか不思議だけど、数日、目を離せば、変化した形に記憶が追いつかず、あわてて書き換えている。

    書店で “子供の科学 2013年 07月号 [雑誌]” 誠文堂新光社“集合知とは何か – ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)” 西垣 通 を購入。Kindleで“「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?―” 熊代 亨 を購入。

    琵琶湖

    人は最初に自分に嘘をつく。嘘とは言えない微細なごまかし。日々の私が私を見失わないための栄養補助食品。それを嘘と呼ぶか否かが、感情のきめ細かさを判定するリトマス試験紙。違うかなぁ。それだと「どっち」かだけになっちゃう。

    ほどよく摂取していれば効果を期待できる。過剰摂取は何かしら害を与えかねない。嘘と言いにくい自分につく嘘は、嘘自体が嘘になれてしまえば、自ら嘘か真か判別できなくなる。周りに害を与えかねない、と思ういつつ、ひょっとして嘘と真の淡い交わりを巧みに操る人なら周りに害を与えなかったりして?!

    事象の50%以上を嘘で繕えば嘘臭い。95%以上は真、残りの5%以下の隙間に嘘を挟み込め。そしたら嘘は消臭されそうだ。

    書きながら思いつく。嘘と虚構の差異は何ですか?

    有名人を好きになりすぎて、もうどうにもならないほど好きで好きで、すでにその有名人と自分は結婚して、生活して、子供がいて、とかまでリーチした人が世間にいらっしゃっても嘘ではない。平均的な営みからわずかにはずれてマイナな方向へ進んでいるだけだ。誰かに危害を加えてなければ、として。

    そういう場合、自分に嘘をついているの? その生活は虚構?

    さらにモノローグから脱皮して手紙を書き、私にはあなたの子供がいて名前は某で大事に育てています、な内容を送ったら、この際、受け取った側の反応は無視するとして、嘘か虚構か現実?

    気になって検索したら、“文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)” M・スコット・ペック のがあるのね。

    シンプルな単語ほど、数千年前から人を引きつけてきただな、きっと。

  • 不味い外食や中食に遭遇しなくなった

    2013.03.18 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=UGEbWXc5KoU]

    今朝は サニーデイ・サービス – 今日を生きよう でスタート。やわらかくぐさっと刺さるタイトル。案外、今日を生きてなかったりする。今日のはずなのに、明日以降の「予定」に惑わされる。昨日以前の記憶に彷徨ったり。

    第九候、菜虫化蝶。二十四節気の啓蟄とあわせて漢字を一瞥したら春とリンクする。10代、20代にこの単語を知っていたとしても、何も感じなかったし無関心だろう。歳をとるにつれ天気が気になる。これがなぜかまだわからない。気になる瞬間の自分を知覚してみたいけれど、習慣化されているのでなかなか「瞬間」を外から眺められるような場所を自分の中で発見できず。

    SNSで写真を眺めているとおもしろい。特にスマートフォンで撮影された写真。

    視点と視線。

    季節を切り取る視点、自然の変化を察知する視点、街並みの眺める視点、空を見上げる視点。それぞれの視点がおもしろい。視線が向かう先へカメラを構える。カメラを起点にすれば、望遠と広角の視点がある。「見たまま」撮影する人もいらっしゃる。ディスプレイの写真をスライドさせ、自分の視点との差異を認識する。

    琵琶湖

    たまに外食や中食を利用したとき、不味いものを口にする確率が低くなった。自分の味覚が鈍ってきているからそう思える。食品添加物や原材料を気にする人は、外食や中食を利用しないかもしれないが、僕は、一周回って(直径はずいぶん小さいけれど)、そのへんを気にしなくなり、食べたい物を食べている。

    15:00にミーティングが終了して、京都まで移動しようとしたら小腹が減った。だいたい15:30から16:00の間に小腹が減る。大阪駅のハートインに立ち寄り店内を物色、「おやつのパン」とラベルが貼られた小さなパンを見つけた。あんパンの形で、中はチョコレート。大きさはゴルフボール1.5個分ぐらい。小さいパン。67円。ためしに買ってみた。おやつにほどよく、不味くない。

    (非常に下品な表現なんだけど)コストパフォーマンスがよいかわるいか判定しないけれど、これで夕食までお腹がもつからありがたい。

    豊かさを実感した。

    冬に体重が減少する。いまは54.7kg。数年間からの傾向に気づいた。筋肉の量が減少していると憶測している。実感がある。足がおかしい。うまく表現できないけれど、冬から春にさしかかる今頃、足の力がはいらない。ふるえながら歩いているみたいで、下半身が弱くなっているようだ。

    こうやって自分で勝手に解釈して、これではいけないと奮い立ち、歩くか、走るか、山へ行くか、水へ向かうか、何かしらの運動しはじめるのだろう。まったく何もしないかもしれない。自分がどうなっていくか楽しみだ。

    人はなかなか変わらない、という人は、その人自身が変わっていないからそう言いきるだけだ。もっとも主観の見方をあたかも客観的に言い換えているにすぎない。

    36歳の僕が、5年後に詩集や絵本や子供の科学を読み、花鳥風月を感じたいと願うなんて想像しなかった。想像力が貧しかったとしても、そういうものだと思っている。

  • 三壊四穏

    今朝は Bob Dylan – Times They are a-Changin でスタート。叙情詩だと思っていつも聴く。大好きなナンバ。半世紀経っても色褪せない。物語は100年、1,000年単位で語られる。Bob Dylanは”I think the truly natural things are dreams, which nature can’t touch with decay.”と言った。なんて煌びやかな逆説だろう。

    三寒四温という。いまの身体は三壊四穏か。先週末に壊れた身体は月曜日に回復して火曜日に壊れた。崩壊と修復のリピート。様子がへんだ。身体の機能は回復しても食欲がもどってこない。

    月曜日はM先生の課題。火曜日は布団のなかでiPadからサーバ構築。FreeBSD 9.0(on VMWare ESXi 4.1)で勉強。大阪大学の教授のサイトで勉強する。ありがとうございます。

    午後、雷雨。家の窓硝子が割れそうなほど。氷が降り注ぐ。強風と氷。カンとコンの中間音が聞こえる。カーテンを開けて外の様子を確認。傘は役に立たない。かえって危ないのでは。気象庁が不急ならば外出をひかえたほうがよいと注意喚起したのはこれか。

    再び布団へもぐって端末。

    休憩をかねてGoogleトレンドで孤立死をサーチ。結果はやはり。こうやって必要不必要にかかわらず単語はつくられ人口に膾炙する。否、単語を登録するように強要される。

    用語の意味が一義なら会話の伝達効率は飛躍的に向上するだろうか。用語の意味を定義しないとしよう。会話はできる。対話はできないと思う。ひょっとして対話とは定義の合意形成なのかな。自分が伝達したい内容とは異なる、異なるというより集合の外側にありそうな解釈が返信される。私の送信品質は粗悪。そう認識。

    有り体に伝達できない理由は、相手が僕をどう評価するかに私が怯えるからだ。その怯えがなくなれば、相手の喜怒哀楽に影響を受けないからありのままを送信できる、はず、かも、どうだろうね、わからない。

    プラークコントロールが知れ渡ったとしてもプラークコントロールしている自覚はない。カロリーコントロールは知れ渡っていると思うし、カロリーコントロールしている自覚はある。僕は自分の基礎代謝を測定している。完成品を手に取るとき表示を確認する。高カロリーが疑われる食べ物を口にするなら量をおさえる。ただし各材料から計測して調理するまでいたってない。する気はまったくない。

    プラークコントロールとカロリーコントロールに対するイメージが違う。その違いをうまく説明できたらなぁ。

    「知っている」と「実践している」は懸け隔てている。つながなければならない。カロリーコントロールを知っていても実践していなければ体重は減らない。モチベーションが「知っている」から「実践する」を媒介する。専門家の知識やメディアの実証実験に接触してモチベーションは芽生える。

    ウェブサイトはモチベーションを芽生えさせるツール。「知っている」と「実践している」を接続するモチベーションの触媒だ。ウェブサイトは情報である。情報提供する母体の収益源が何かによる。収益源が広告収入ならばコトはややこしくない。通販もその範疇にいれてよいと思う。それら以外、収益源がリアルな場所へ足を運んでもらわなければならないからややこしい。

    生データを加工した情報は「知っている」と「実践している」の空白を埋める。筋トレを知っていても実践していない。何かに触れてモチベーションが芽生えた。ウェブサイトで検索。実践。情報は空白を埋める。

    広告収入が目的ならば何よりもPVを集めなければならない。PVを集めるための極端な手法だと、海外のサイトを翻訳して(加工・編集して)ライティングで集客する。ライフハック系や健康系は耳目を集めやすい。そしてウェブサイトに訪問した人の琴線に触れさせたら目的は達成される。あとはクリックしてもらう仕組み。

    他方、リアルな場所へ足を運んでもらうとなると、生データを加工した情報だけでは訴求力が低い。リアルな場所へ足を運ばせるための差異が要求される。PVを集めなければならないのは同じ。だが、文字どおり「見る」だけのユーザがいる。大半がそう。

    鹿児島にあるウェブサイトPVトップ10に九州がひとつもはいっていない、という事態はある。充分ありうる。そして、数年前からその「構造」に気づきはじめたからSNSが着目された。PVよりもコンタクトだ、とまではまだ言わない。とはいえPV10,000、コンタクト0が事実ならサイトの戦術を見直さなければならない。

    夕方、甘鯛の開きを買う。塩焼きで食す。30%割引の490円なり。美味い。開いた片方で満腹感が来訪。やはりな。食後、明日の昼食を用意。大根, 南瓜, 甘藷, 蓮根, パプリカの蒸し焼き。詳細はFlickrにて。同じ手順でやっているつもりでも米飯の出来具合が都度変わり、かたさと食感が安定しない。おもしろい。包丁はこわい。

  • 憍奢

    2011.12.19 晴れ

    今朝の目覚めは音楽ではなく、Google制作のビデオ”Zeitgeist 2011: Year In Review”から。暗闇のなか世界を感じてスタート。

    冬至まであと少し。夜が長い。5時ごろに目を覚ましても真っ暗。いつものように目覚めにお水500mlを飲んで朝の勉強、支度、朝ご飯の用意、結露を拭いて、ひととおりの作業が終わってからミルで豆を挽いて飲むホットは最高だ。

    Windows 7(professional 64bit)をMacBook ProにBootCampでインストール。仮想環境のWindowsより速いからありがたい。起動後の画面に戸惑う。わからない。自分の知識はXPまでだった。

    PDCのSambaへWindows 7をドメイン参加させたい。どうしてもできない。セキュリティのローカルポリシーを設定したみたけどダメ。ネットワークとアカウントの管理方法がよくわからない。

    PDCのSambaを停止してFreeNASのSamba(スタンドアローン)を起動させるとブラウジングできる。ということは、PDC側の設定に問題ありか。

    知識の習得を怠ると、問題を切り分ける能力が確実に低下する。

    国産のきくらげが手に入ったので、豚肉と卵とねぎで炒りつけた。卵をふんわりしあげていったんお皿へ。豚肉の下味は塩と胡椒。少し炒めてお酒で臭みをけしてからキクラゲといっしょにおオイスターソースで味付け。最後に葱と卵をもどしてさっと炒める。まぁまぁのデキ。

    高層ビルのマンションの広告がポストにはいっている。たいへんだなぁ。100〜200年後、どうやって取り壊すんだろうか。破壊の技術が進化してより簡単に取り壊せるとしても、その頃の日本は、東京以外の高層ビルをメンテナンスできるのかな。いくつかの県は、「自然」になっているかもと想像する。東京以外の高層ビルは水栽培の農作物専用建物になってもおかしくない。といっても立脚地は日本人という固定観念だから、それを取り払えばまた異なった風景が頭に浮かぶ。

    時間を基底した創造は、想像の範囲を超えられるだろうか?

    正法眼蔵随聞記 六 二十三 学人各々知るべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.401

    残りあと一つ。最後を前にして二十三は奥が深い。おごり高ぶるなという教え。おごり高ぶるな、というだけだとあたりまえのようであるけれど、ここに書かれた道理を読むと、「親切とは何だろう?」と考え込んでしまった。

    貧しい家の前に車で通り過ぎてはいけないとおっしゃる。自分が正しく知っていることを相手が間違って理解していても、その間違いを言い立ててはいけない。

    本人はおごり高ぶる気持ちを持っていないからといって何の心もなくふるまうと……?

    人は相手の心をコントロールできない。そうわかっているはずなのに、相手の心をコントロールできそうな錯覚を抱いて接する。相手がどう感じるかを予測する行為そのものがコントロールの入口にたっている。

    信頼とは、その錯覚が形成する強い幻想によって構成された現実の関係なんだと思う。

  • 万禍

    2011.12.10 晴れ時々曇

    12/10(土)は皆既月食。赤い月。私の中の赤は椎名林檎、ということで”ここでキスして。”でスタート。”て。”の。ですよ、。。

    使っていたテフロン加工の24cmのフライパンが経年劣化したので無水調理できるフライパンを買った。“Vita Craft DENVER フライパン 8935” Vita Craft (ビタクラフト)、ウルトラが !!!!!!! らしいが、まずはDENVERで。

    さっそく野菜を炒めたらぽかんと口を開けてしまい、焼きそばを作ったら、およそ料理の超初心者が道具を気にしはじめたとたん調子乗って無水調理のこの手のフライパンを買ってしまい間違いなく焦がすであろう儀式を体験。

    翌朝、目玉焼きにびっくり。火加減が難しい。コツをつかめるまで時間がかかりそう。蓋をして蒸気で料理する感覚はつかめそう、蒸し焼きスゴ。

    となりにおいてあるT-falの28cmのフライパンがとんでもなく楽ちんなんだと認識して、テフロン加工って技術ですね、って感嘆して、でもね、DENVERでつくった野菜炒めを味わったらT-falの28cmが急に色褪せてしまって、現金な我にあきれかえり、あぁ、そうですよ、私はいつも知ったかですよ、と自暴自棄。

    T-falの28cmが引退したら次はウルトラか別のメーカーを物色しよう。14cmのミルクパンがもう引退したいとしきりにおっしゃっているので10年は使えるものを探そう。銀色万歳。

    夜、家のベランダで皆既月食を見る。TwitterやFacebookに状況を少し書き込んだ。部分月食がはじまり23:00すぎから皆既月食がはじまった。部分月食で切り落とされた爪のように細くなった月は、皆既月食では円にもどって赤く染まる。赤いフィルタがかかったような感じ。

    雲がなく星がくっきり見える。月の近くにはオリオン座。35歳すぎて天体に興味を持ち始めた。恥ずかしい話、星座を知らない。天体の運動も理解していない。それでも毛布にくるまりガタガタ震えながら皆既月食を見られてよかった。

    皆既月食を見ながらiPadでTLを検索、Ustを視聴。ひとりでじっくり眺める月。TLに流れるツイートは同じ月を眺める地平の人を視覚で証明して脳内で生成する。脳が堕落する。TwitterやUstがある世界。

    TwitterやFacebookは「動」と「フロー」、Blogは「静」と「ストック」を表現する。YouTubeやUstなどの動画が加わる。「動」と「静」のテキストが紡ぐ物語に人は一喜一憂する。動画はそれらの数倍は強いインパクトをもたらす。

    反面、「HP」とよばれるものにひかれることはなくなってくる。「HPは宣伝だ」の先入観が思考を制御する。SNSも宣伝である。でもSNSが「物語」になったとたん、先入観はゆるみ、受け入れられる。SNSを駆使して組織の運営を「物語」として表現できる人を外注するか内製するか判断に迫られるときがやってくると思う。

    正法眼蔵随聞記 六 二十 古人云く知因識果の知事に属して

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.390

    みのりの多い田んぼを持っているよりもわずかな芸でも身につけている方がよい、人に恩を施すには相手の恩返しを期待してはいけない、口を鼻と同じようにして沈黙を守れば万禍はやってこない、堅固な行いの人はしぜんと重んぜられる、学才が高い人はやがて人に追いこされる。

    昔から言い伝えられている古則公案である。つまり正法眼蔵随聞記よりさらに古い時代から言い伝えられている。

    だけどいっそう深い意味を見落とさぬようよくよく読みこまない。書かれていることにうなずいて自分の正しさを補強するだけである。そして、他人にさもありなんと語って悦に入る。

    「昔の人はこんなふうに言っていたよ」と語る行為自体がすでに鼻と同じように沈黙を守っていないのに。人は沈黙とはよほど相性がわるい。

    そうかと思えば、押し黙って深く悩んでいる己の姿を目撃して姿を変えた自分に酔う境地に足を踏み入れてしまいかねない。

    自分とはほんとうにこわい。心底おそろしい。

  • 善事

    2011.07.01 晴れ

    とけた。スライムだ。ぽよどろ。私の部屋はいったい何度でしょう。

    このうえ文部科学省が小学校へ配布している「せつでんしましょう」シートを目にでもしたら体感温度は50℃ぐらいになるんじゃないだろうか。子供を授かっていないのであいにくお目にかかれない。合成の誤謬といってよいでしょうか。

    午前中、なんどやってもうまくいかないF先生のDB制作の調査。鬼門だ。仕事というのはそういうものです。苦難がありそのなかに好機が潜んでいる。たいていは受難に惑わされて好機を見逃している、いまも見逃しているなあ。DB制作の苦難に潜む好機を気づいていない自分が悲しい。

    FacebookのUIはわからない。まあUIに慣れても悲劇は終幕しない。コンテンツを持っていないから盛り上げようがない。散るぞかなしき。SNSやブログ、Twitterをやると自覚。コンテンツを持たぬ自分。ああ、ひとりSM。

    16:00まえに出発。大阪駅で途中下車。先日、発表されたTime Capsuleの2TBを下見。第4世代のTime Capsule。自宅のMacBook Pro Late 2006 15inch, MacBook Late 2006, (さらにこの翌日に購入したMacBook Pro early 2011 17inch)のバックアップをTime Capsuleに集約する予定。もうね、配線lessな環境にしたい。

    下見を終えて本屋で “科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)” 森博嗣 を購入。スタバで読み始める。科学的に読もうと試みるもすぐにくだかれ、鵜呑みに読書に。そうなんだ。数値と情報は公開されている。だけどソースへアクセスして自分で理解しようとしない。「言葉」で「物語」をつくって「一目瞭然」で「わかりやすく」してくれたことを「信じる」。

    いま官庁と報道機関のPCの日本語入力システムをみてみたい。それらの日本語入力システムの辞書には「健康」と入力したら、「ただちに健康に問題はない」と表示されるように単語登録してあるんじゃないかしら。「ただちに健康に問題はない」はテンプレートになっちゃったよね。その文言を目にすれば情報を隠蔽するなって目くじらをたてる。ならば数値で説明しようとしたらわかりにくいと憤る。

    言葉だけで理解している気にならず、思い込みを極力避ける。そのためには、いつも疑いつづけること。情報を広く求め、吟味したうえでも、きっぱりと割り切るような結論を出さない。そして、常に疑問を持つこと。

    “科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)” 森博嗣 P.144

    経営にあてはまられる。そう書けば、「割り切るような結論を出せないなんて致命的」って反対されると思う。「割り切るような結論を出すため」に定量と定性を充分に吟味しているなら反対意見に同意できる。でも、「直観」が一人歩きしていないかな。「直観」がよいイメージで使われて、直観で「割り切るような結論を出し」ていないだろうか。

    測定には人員も設備も時間もかかる(同P.157)。経営を測定しようとすれば道具と人員と時間が必要だ。それから「方法」と。第三者に測定と分析をまかせて要約された解説を聞き、「言葉」だけで理解している気になっていたら危険だと思う。組織が必要とする数字と第三者が要約した数字はしばしば一致しない。組織はどの数字を必要か。何を測定しなければならないか。それらをメンバが吟味して、「方法」を熟慮して、必要な人員を配分しているだろうか。

    19:00からM先生のミーティングに出席。テーマは報告・連絡・相談。言い出しっぺのぼくがファシリテーター。へたなファシリでびっくり。久しぶりというのもあるとはいえ、ひどいだろ自分って自分つっこみ。この自分は大阪人が相手に向かって言う「自分なあ」の自分ではありません。それにしてもファシリをやるとなんで大風な態度をとっちゃうんだろう。カッコワルイしキライだな、ああいう態度は。ファシリしながら「オレ、たくさん知ってるよをひけらかしたいんやな」って自分を眺めていました。なのにそれを制御できないわけで。ということは認知と制御の「間」に問題点があるのでしょうか?

    今日は正法眼蔵随聞記なし。

  • 斬猫

    2011.06.02 雨のちくもり

    降るね。だけど梅雨の実感がないのです。ないからついつい雨が煩わしい。困ったものだ。雨よこいこいの方もいらっしゃるでしょうに。人それぞれの思惑がひらひら彷徨います。それを全部すくいとって見られたらぞっとするかしら。はたまたウヒャヒャウヒャヒャでしょうか。興味津々。

    第二十四候、麦秋至。麦が黄金色の穂をつける時。たわわ。いわば麦の秋ですね。小麦が値上がりしてパン好きを困らせる昨今。7月にも小麦の輸出を解禁する(不作で国内需給を優先していた)とロシアが発表したから価格も少しは落ち着いてもらえたら嬉し。

    M社のリニューアルサイトを制作。サービス5ページ+企業情報3ページの8ページ制作。1日1ページの制作ペース。一ヶ月後には30ページ。皮算用。そうは問屋が卸さない。たったの1ページ? ええ、そうですとも。いろいろあるのです。い・ろ・い・ろ。

    コンセプトやコピーってとっても大切ですが、それにかかりきってちっとも姿形が現れなかったら実感がわかない。制作者の頭にいくらあっても他からは見えないですから。頭に直接DVIかVGAを接続してプロジェクタに映し出せたら便利だなってふと思ったり。こわい? SF? 近未来?

    なのでサイトの構造を設計できたらまずは制作しはじめるスタイルへ変更してます。近頃は。それもWPのおかげですけど。サイトの情報構造を管理画面で変更できるのでありがたい。昔のような静的なサイトじゃあ手間がかかりすぎてムリ。

    16:00すぎに出発。大阪へ。大阪駅で途中下車して『脳のなかの幽霊、ふたたび (角川文庫)』 V・S・ラマチャンドランを購入。19:00からF先生とウェブサイトの打ち合わせ。打ち合わせは20:00すぎに終わったけどこちらの段取りの悪さが際立って結局21:00に終了。情けない。大失敗。

    正法眼蔵随聞記 二 四の(一) 如何なるか是れ不昧因果底の道理

    『正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)』 筑摩書房 P.75

    くじけそう。文庫2ページの原文と2ページの注釈を1時間、ずっとにらめっこ。繰っては戻って繰っては戻り。まるでさっぱりです。もうやめようかしらとはじめてちらり。まだはじまったばかりなのに。いやはや自分の底の浅さ、飽き性に驚き。

    今回のお話、背景や予備知識をなにかしら知らないと読解できないんじゃないかな。「因果ははっきりと、同時にあらわれている」とおっしゃる道元禅師が持ち出す「南泉斬猫」のお話。修行僧の前で南泉(禅師?)が猫を一刀両断。もちろん訳がございます。

    ご興味がおありの方はここの箇所だけでも図書館でどうぞ(まさか立ち読みでどうぞとは口が裂けても言えませんので書きます)。

    「この斬猫はすなわち仏行である」と。が、「一つの行為に仏行と罪相とが同時にそなわっているのだ」とおっしゃる。

    う〜ん。わかりません。わかるやわからない、って表現まで達せず。手前、何が何やら、完成図のないジグソーパズルのピースを拾っているような。しかもそのピースの色は白だけ。オロオロ。

    こう雨が続くと心は雨漏りしそう。はあ。でも心の雨漏りって表現はすごく気に入ってます。なぜかって?

    かしこみかしこみ。