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  • 解なし

    琵琶湖

    たとえば, 人びとが従来の苦いビールに代わる新しいビールの登場を求めているとしても, 「どんなビールを飲みたいか」という尋ね方では消費者にいくら問いかけても答えが得られないことがほとんどです. 消費者は自分の欲求するものを適切に表す言葉を思いつかないからです. そこで消費者調査の過程においてビールの味を表現する形容詞を取捨選択した某社は, 大衆に望まれる「キレ」や「コク」という言葉を発見し, それに見合った商品技術を採用して巨大なシェアを得ました.

    『知の論理』 P.224

    (さらに…)

  • セカンドオピニオンのセカンドオピニオン

    「なるほど。先生はセカンドオピニオンに否定的お立場ですか」

    「まぁ、否定的とまでは断言しないけど、歓迎はしないね」

    「ところで、先生。先生はコンサルタントを何人か頼んでいらっしゃいますね? その人たちはみんな医院経営に関わるのですか?」

    「ああ。会計事務所の他に、医院経営の専門のコンサルタント、あと、ホームページを頼んでいる業者、それと友人かな。今は、分野の垣根がなくなっているからね。友人はNPO法人を運営しているらしい」

    「多士済済ですね。ところで、”医院経営に関わるコンサルタント”という視点で考えると、どの方が主治医でどの方がセカンドオピニオンですか?」

    「…..」

    「先生はセカンドオピニオンを歓迎しないのに、経営のセカンドオピニオンを必要とされる点に興味を抱いてまして」

    「そ、それはだ。医療と経営は違うからだよ。第一、”コンサルタント”という視点だけで考えないよ。それぞれの役割があるんだしね」

    「そうでしたか。失礼しました」

    内田樹先生が「セカンドオピニオンを評価するのは誰か?」といったような内容を書いた文章を読んだ記憶が蘇った。だけど、うろ覚えにしか覚えておらず、ひょっとして内田樹先生じゃないかも。書架から先生の著作を全部引っ張り出してぺらぺらめくるも見当たらず。間違いだったか。

    そうこうしていると、「セカンドオピニオンのセカンドオピニオン」を探すより、先生の著作を再読するほうがおもしろくなってきた。夢中。

    一方、インフォームド・コンセントを医師の側からみると、「医師の判断力の低下」という裏面が見えるようにも思います。つまり、医師が「これが最適な治療法だ」という判断を自信をもって下せないから、患者に判断させる、ということです。
    最近、医師の問診能力が低下しているという話を聞いたことがありますが、もしかすると医師の言語的コミュニケーション能力や、患者の身体状態についての感受性、身体共感能力が著しく低下しているということがインフォームド・コンセントをが言われ始めた背景にあるのかも知れません。

    “私の身体は頭がいい (文春文庫)” (内田 樹) P.242

    “ドクターショッピング”というラベル。次から次へ医師を変える患者、あるいは、次から次に医師へ質問する患者。医師に限らず、専門家と素人の図式が成立する業界なら少なからずあるかも。

    豊富な人脈をお持ちな人と話していると、どうやって選択しているのか興味津々。多士済済が集まれば、みんな好き勝手なことをアドバイスする。その中から取捨選択していく。多士済済の助言をすべて取り入れれば、その人数分だけやることが増える。

    今までに少し懸念を抱いたこともあったりなかったり。助言を取り入れ、業務が増えること、それ自体に喜びを感じる経営者。それはそれで素晴らしいけど、フィードバックする機会を持たない、否、持てないから業務だけが増えていく。臨界点を超えると、やりっぱなし。そして、続かない。

    まぁ、そんな風に穿った見方をしてしまう僕をセカンドオピニオンが評価したら、「それは、あなたに人脈がないからですよ」と診断され、「いわゆる嫉妬ですね」とセカンドオピニオンのセカンドオピニオンに助言されそう。

    あな悲し 🙁

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  • 堂入りを下界へ引きずり下ろさないでほしい

    荒行住職いきなりお勤め…「人間業じゃない」ガッツ氏大絶賛

    ただ9日間に及ぶ断食のため「かなり薄めたスポーツ飲料やおかゆ」で胃腸の回復をはかっているという。「体調が完全に元に戻るのには半月くらいかかるだろう」(関係者)。延暦寺には報道各社などから問い合わせが殺到しているが、来月中旬まで一切の取材を断り、星野さんの回復を静かに見守る考えだ。

    妄想デス。このニュース、朝の情報番組で報じていた。たしかフジ。そのときの女性アナウンサーの声のトーンがやけに気になった。ものすごく軽かった。というか、アンポンタンな放言すれば、「わ〜、スゴ〜い」と幻聴した。明るく伝えるのは番組の性質上やむを得ない。でも、一瞬でも厳格に伝えるというか、静かに事実をありのまま伝える姿勢をほんの少しでも見せてほしかった。

    星野円道さんが「堂入り」を終えたのは午前3時ごろ。約600人の信者が不動真言を唱える中、自分で歩くこともままならない状態で、両脇を僧侶に支えてもらいながら堂を後にした。信者の方々の目にはどう映ったのだろう。生身の不動明王に見えたのだろうか。

    とにかくまったく想像すらできない断食断水断眠の行を満行した。そこに理解を超越した”何か”がある。それは私にはまったくわからない。わからないままでいい。分析や判断、評論なんかしなくていい。とにかく大阿闍梨が誕生した。それだけだけいい。

    なのに、どうして「自分がわかるよう」に下界へ引き下ろそうとするのだろう。自分がわからないことをわかろうせず、わかることだけを自分の経験値に等価させようとする。わかりやすい平均値へと引っ張るエネルギーに悪寒。

    “何か”を知る時、わかるから知るのでない。目と耳で情報を得た程度でわかるのでもない。わからないことがいたるところにあるという焦燥感と好奇心と絶望が”何か”を感じる原動力なのではないだろうか。

  • [Review]: 21Grams

    21g

    『21グラム』 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ

    監督は、『バベル』アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ。彼の映画にはひとつの特徴がある。それが、「時間軸の交差」。物語が過去・現在・未来の直線に展開するのではなく、それらが細かく交差し、まるでジグソーパズルのピースのように映し出される。そして、最後に1枚の絵が完成する。

    だから観ている者は、最初とまどうかもしれない。過去・現在・未来が細切れにバラバラにされ、たくみな編集によって最高値構築される世界。観ている者は、眼前の映像が直線に展開していると誤解した瞬間、理解から遠く離れた自分を自覚する。それでも交差する時間軸と映像に魅了されてしまうのはなぜだろう。過去と現在の映像と映像が象徴となる物質や音声でつながれていく。

    (さらに…)