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  • 高飛車よりも歩でありたい

    2011.12.30 晴れ

    生活に弾力や抑揚がないので平常運転。クライアントのアクセスログを分析。アクセスログはサイトの事実を提示している。そこからサイトの不備を洗い出して対策を立案しないといけない。この作業が厳しい。仮説の塀を慎重に歩く。先走ると妄想の側へ転がり落ちる。

    先日、高飛車であることを自覚するには何を気をつけたらよいか考えた。高飛車を自覚するのにもっとも必要な意識は何か? 言葉遣いかな。無知の知か。

    違うなぁ。言葉遣いは必要条件? ではある(用法を間違えていたらはずかしい)。ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)をクリアしていていても居丈高である。適切な敬語 (講談社学術文庫)を選択しても嫌悪感をいだかせることもある。なぜだろう?

    自分が中心なんだろうな。推測に推察を重ねて臆測の推理。

    他方で私が高飛車と受け止める。だったら影響を受けずにスルーしたらよいのにとも思う。よしんば周りも高飛車だと感じたら、私見は客観性を高める。そうであってもスルーしたらよいだけなんだ。高飛車だと判断したがるのは、私が相手に執着しているか関心をいだいているから、影響を受ける。

    自分を捨てられていない。もっと言葉そのものだけに意識を集中させて判断しなければならない。評価しなくてもよい人を評価したがるから高飛車と感じて動揺してしまう。そんなふうに自己分析した。

  • 住処

    2011.12.16 晴れ

    19:00からM先生のミーティング。大阪駅で下車。iPadでルート検索。約4kmで47分の表示。本屋によって“アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))” フィリップ・K・ディック“魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題 (講談社選書メチエ)” 西川 アサキを購入して出発。歩く時間は贅沢だ。いまや少しでもはやく目的地へ到着する手段を探す。

    寸暇を惜しんで働く。高度経済成長期とは異なる生産性の向上。寸暇を惜しんで(情報を)集める。寸暇を惜しんでは、ときに我を見失わせてしまう。

    歩けば本を読めない、できることは限られる。そう思っていた。いまは違う。街並みの設計が目に入ってくる。インスピレーションがわく。見ているようで見ていない。歩きながら考える。歩きながら考えがまとまってくるし、考えが拡散して収拾がつかなくなったりする。

    本を読めないし携帯を見ないし音楽を聴かない。削り落とされた状況がもたらす思考の時空。

    道中、50〜60代とおぼしき女性がiPhone 4(s?)のGPSを使って目的地までのマップを見ていた。ステキだ。そういう環境がやってきたんだなぁ。

    先日、M先生のところのYさんがiPhone 4sを購入した。わけがわからないかもと心配そうだった。いくつか質問された。でも、大丈夫って私は思っていた。今日、お会いしたとき、慣れてきましたとおっしゃっていた。そういうもの。「そういうもの」になるデザインとUIでなければ受け入れられない。ほんとにすばらしい環境がやってきている。

    スマートフォンがある世界とない世界のどちらかを選べと問いかけられたら躊躇なく前者を選ぶ。ただし、新しい技術と環境に向き合う「仕方」を自分で獲得しなければならない。さもないと、列車にひかれて死ぬ、階段から落ちて大けがする。時には他者を巻き込む。

    デジタルとアナログ、オートマチックとハンドメイド、技術と自然など、対立させる人はいらっしゃる。耳を傾ける。愚かだと一蹴していた。二項対立の意見を封じ込めない情況は健全、といまは思える。思うが同意しない。ただそれだけのことと納得する。

    「仕方」は自分で獲得して涵養していけばよい。それが自律だと思う。

    19:00からミーティングがスタート。20:00すぎに終了。1年の振り返り。昨年から変化があった部分とない部分。来年の目標設定とその目的。

    一年間、紆余曲折があった。何があれM先生とスタッフのみなさんは、私にとってユニークでオリジナルの存在である。その存在に対する礼節がある。礼節を保ち続けなければならない。他者評価はコントロールできないけれど、自己評価は厳格に運用したい。さもないと礼節を欠く。甘えはかけがえのない存在を損なう。

    「技術」の向上という。具体的に何だろう? 45分の作業を30分に縮める。縮められたら技術の向上だろうか? 技術を向上させようとするとき、どんな問題を設定しなければならないか?

    いま自分がいる地点を知る。現在地。「地図」がなければ現在地を示せない。誰が地図を作成する?

    自分が何を知らないのか、を省察して具体的に言い表し、それらを知るには、どこへ行き、何を手に入れてどのような手順をふめば自分の知らない現象について理解できて体得できるか、が「地図を作成する能力」だと思う。

    地図を作成するには、「用紙を上から眺める自分」がいなければならない。おぼろげであっても「全体」の見取り図を持つことが求められる。

    正法眼蔵随聞記 六 二十二 衣食の事兼ねてより思ひあてがふ事なかれ

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.398

    「雲のごとく定マれる住処もなく、水のごとく流れてゆきてよる所もなきを、僧とは云フなり」とある。乞食する場所についても、もしも食べるものがなくなったときには、あそこで托鉢をしようと思えば、それは前もって心づもりしておくことであり、道理にたがい正しい生き方ではない。

    「いま、ここ」は言葉でめぐらせても詮無いことかもしれないと感じた。身体しかない。ままよ、とも思わず、瞬間の積み重ねで行を積む。

    ひょっとして「時間」から解放されることが「はじまり」かもしれない。

  • 非分

    2011.09.26 東京 曇時々雨

    Bar Stone Pauement
    *RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

    06:20すぎ起床。35階のカーテンを開けたらそばにそびえ立つさらに高いマンション。カーテンの開いている部屋の中が見える。新宿方面や東京タワーの付近に高層ビルが立ち並ぶ。見下ろすと昭和から変わっていない家並みが揃っている。

    学生時代に3回、社会人になってから何度か東京へ来た。東京はおもしろいなと思う。はじめは苦手だった。人の密度を基準にしていたから。視点をコンテンツに切り替えたらおもしろく感じはじめた。ほんと、おもしろい。新旧の建築や新しいテクノロジーを体験できるし便利だ。

    ユニークなコンテンツは人を集める。ユニークはメジャになり得るしマイナにとどまることもできる。マイナでユニークなコンテンツは一定数のファンを引きつけて離さない。09.25の日比谷野音のように。

    東京はアウェーだから、異質を気づかせてくれる。夜、ふらりとはいった路地裏の居酒屋で注文したら、周りの人はチラって見てる(ように感じられた、自意識過剰かもしれないけれど)。隣の若い男女は笑っていた。全国から人がやってくる場所ではあるけれど、訛りはまだ珍しい?

    国会議事堂前の手すりは、もともと彩度の低い緑色なのに目の前の手すりは違う。元の色を確かめたければ誰もさわっていない箇所を見ればよい。委員会が開催される部屋か、控え室だったか(忘れた)、それらがある廊下の大理石の壁は、ある高さの部分だけ一直線に変色している。はげている。記者たちが壁にはりつくから腰の位置で壁の質感はかわっている。議員をつかまえてインタビューするために壁にもたれて待つ。はりついて部屋の様子を伺う。

    テレビで見かけるおなじみの光景なのに、ディテールへ視線を移動したとき、「思いもよらない」現象に遭遇できた。

    これが想像力なんだ。説明を聞いてそう感じた。実際に目にふれて理解できた現象を、見ないでも思い描ける人がいると思う。図面とパンフレットと写真から、人のディテールを描いて、周りに与える影響を考える。「思いもよらない」起こっていないコトへディテールを派生させる。それが想像力である。

    私が描いているのは過去の映像の再生にすぎない。過去のデータを取り出して大まかな部分だけ編集して思い描いている。想像力ではない。

    正法眼蔵随聞記 九の(一) 学道の人は先ずすべからく貧なるべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.263

    「中々唐土よりこノ国の人は無理に人を供養じ、非分に人に物を与フる事有ルなり。[…]人皆生分有り。天地之レを授く。我レ走リ求メざれども必ズ有ルなり」を読むと、ちょっとばっかし根拠のない戯れ言が頭によぎる。

    財宝を持つな、資産を貯えるな、この国の人は分不相応に人に物を与えてしまっている、って教えが民の意識の根っこに植え付けられてしまっていたら、平等に対する強い希求や欧米とは異なる路上生活者へのふるまいなんかが納得できる。根拠はまったくない。

    宗教を信じるか信じないかは個人に帰属していて、どちらであっても個人からそれ以上の存在に影響を与えていなと確認している。でもその確認を「信じて」しまっていて、確認は幻想だとわかっている。ほんとうは、どちらであっても、こういった教えが「全体」へ何かしら影響を与えているような気がするな。

  • 調伏

    2011.07.11 晴れ

     

    Lake BIwa
    *RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

    Facebookに必要な情報を入力してログイン後にはじめて表示された「知り合いかも?」の名前を見てギョッとしたぞ。ほんとに知り合いだ。おまけに高校や大学のときに知り合いじゃない。社会人になってからの知り合い。ゆえにFacebookに入力した情報とは関係ない。どうやって推測したんだ? アルゴリズムに興味津々。

    MISIAのサイトへGoogle Chromeでアクセス。Adobe FlashはGoogle Chromeに直接統合されたらしいから表示されるかと思いインストール。”BOOM”(Danny Messer風)。表示された。FULL FLASHか。いきなり音楽が流れた (;゚Д゚)エエー

    リードトラックの”THIS IS ME”だったのね。

    お昼はいなり寿司。日曜日の夜につくったもの。母親が弁当によく持たせてくれたことを思い出す。SH-02Aの画面ぐらいありそうな大きさのいなり寿司に閉口した。とにかく食べさせようとした母親の気持ちをいまは忖度できる。母親は会うたびにやせたやせたと口にする。まぁ心配できる間は心配してもらおうと思って「そうかなぁ」ってとぼける(体重はかわっていない)。

    5月に定期健診でお世話になっている歯科医院の奥様と久しぶりにお会いしたとき、「やせたねぇ」と驚かれたので母親の話をしたら、「そうやで、親はそういうもんですよ」って笑顔でおっしゃった。「私も田舎へ帰ると、やせたやせたって父親が言うしね」とニッコリ。「でも年々増えてるんやけど」ってオチで笑わせてくれた。とてもステキな方。先生と奥様から食事のお誘いを頂戴している。8月だけどいまから楽しみ。

    事故が起きて憤る人がいる。「(事故が)起きてから定められたルール」を破る。周りの人は「起きてから定められたルール」を破った行為を諫めるより「(事故を)起こしたやつが悪い」とかばう。ルールを破った影響が広範囲にわたり、深刻の度合いがさらに悪化しかねない状況にいたっても、「もし事故を起こしてなければこんなことにならなかった」と怒る。

    こういう時、第三者は何を提案したらよいだろう? 人はなかなかスイッチできない。どうしても事故前の現実と事故前から続いていたかもしれない仮想の現実にひきずられる。

    “ハーバード流交渉術 (知的生きかた文庫)” ロジャー フィッシャー, 浅井 和子 のDr. William L. Uryが提示するラクダの話が印象的。ある男が17頭のラクダを3人の子供に残した。長男に半分、次男に3分の1、三男に9分の1。さて3人は交渉をはじめる。17を2で割り切れない。3でも、9でも。紛糾する。緊張が高まる。そして3人は頭のよい老婆に相談した。老婆は熟慮して「力になれるかわからないが必要なら私のラクダをやろう」と言った。18頭になった。長男は9頭、次男は6頭、三男は2頭。

    合計17頭である。

    17頭では見えない。一歩引き、新たな視点にたったとき18頭目がみえる。第三者は18頭目の視点を提案できるだろうか?

    夕食はパスタ。ソースはめんつゆ。食後に明日のお昼に食べるちらし寿司をつくる。酢飯の酢のにおいが苦手。トラウマ。小学生の頃、毎年できる皹がひどく母親が内科の先生に相談したところ、「手を酢につけなさい」と言われてから毎晩お風呂で酢に手をつけさせられた。その時の痛みとにおいをいまも忘れられず、爾来、トラウマに。おおげさですけどね。ほんと酢のものは大好物です。けど「酢のにおい」は苦手です。

    正法眼蔵随聞記 三 一 行者先づ心を調伏しつれば

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.153

    「行者先ヅ心を調伏しつれば、身をも世をも捨ツル事は易きなり」と教えて言われるが、なかなかそうできない。人目が気になる。

    僕が何かを言おうとすれば人目が気になり、何かの動作の仕方についても人目を考える。これをすれば頭が悪いように思われる、これをすれば頭がよいと思われたいやら。

    だからもう人目なんかどうでもいいやって思い、自分の好き勝手にふるまうのもまた人目を気にしている。それにそんな好き勝手は悪人である。

    勤務時間内の仕事で習うことは勉強ではなく勤務時間外に本を読んだり、研修を受講したり、スクールへ通ったりするのが勉強と認識している人がいる。他方、勤務時間外は自分の好きなことをするって人もいる。前者の人が後者の人の話を聞けば納得しても同意できないし、その逆もまた同じと想像する。

    縦軸に前者と後者、横軸に人目を気にすると人目を気にしないと書いてマトリックスを作成する。四つのマス目にテキストを書き込めるだろうか?

  • 凡夫

    2011.05.20 晴れ

    蒸し暑い。午前中はそうでもなかった、午後から。先々週、羽毛布団をしまいタオルケットへかえた。いく日かは肌寒い朝であった。近頃はちょうど良い感じ。

    M社のリニューアルサイトのデザインを思案。まずはレイアウトとナビゲーション、カラーリング。設計するにあたってもっとも大切な点は依頼者の意図とユーザーのニーズ。来週の打ち合わせで意図を徹底的に伺うつもり。ニーズは現場の感覚や感触から帰納的にさぐる。意図とニーズをマッチングさせるために最適なUIと適切なファインダビリティをぼくが制作する。最終の目的はユーザーの行動を引き起こすこと。

    16:00すぎに大阪へ出発。大阪駅で途中下車してLANケーブル(カテゴリー6)を3本購入。1,890円。自宅のファイルサーバー(FreeNAS)へのアクセス速度を改善したくてGB化。携帯電話のカメラが10Mピクセルなんておそろしいデジタル環境ではファイルのサイズが大きくなる。洋画とか700-800MBとかがデフォルトだしフルハイビジョンのファイルサイズなんてカテゴリー5でやりとりしてたら短篇でも読めそうだし。

    19:00からM先生のミーティング。今回はスタッフの方々へよりそったコメントを申し上げた。院長先生へ多少の苦言を述べた。感情を害されたかもしれない。経営者は孤独。それを痛感しているし体感もする。そう承知していていても申し上げなければならなときがある。

    以前なら自分がどう思われるか気になっていたしあたりさわりないコメントを残していた。いまは違う。M先生の医院を心底惚れている。だからクールにもえている。院長先生にもスタッフの方々にもクールに熱くふるまえる。ぼくにミーティングの醍醐味を教えてくださった。好かれようとかよく思われたいとかの動機を消し去ってくださった。そんな動機はどうでもよい。とにかくクールに。医院が最適な選択を判断できるようによりそう。

    終了後、院長先生はいらっしゃらなかったが、スタッフの方々と院長先生のふるまいをおもしろおかしく愛おしくお話できた。Sさんの役割はステキですばらしい。「間」という難しい役割を細かく気配りしてこなしていらっしゃる。院長先生の孤独を慮る。Sさんの苦労を推し量る。上から目線を強く自覚しながら院長先生が変わられたことをみなさんへしゃべる。わずかの時間のなかで一昨年の記憶が再生される。

    ほんと、もう大丈夫だ。

    正法眼蔵随聞記 一 十三 仏々祖々、皆本は凡夫なり

    『正法眼蔵随聞記』ちくま学芸文庫 P.56

    ひとはいちばんはじめに自分に嘘をつく。自分は馬鹿だと嘆く。自分は鈍いと卑下する。嘆きや卑下は成長の肥料であり適度に必要だと思う。やりすぎすぎれば土壌は肥料やけする。

    自分に照らし合わせて思い返す。馬鹿だと嘆き、鈍いと卑下して勉強しなくなる。そんなことしても。そんなもの読んでも。誰からも強制されていないのに自分で勝手に判定する。嘆きや卑下がやらない言い訳に使われる。

    馬鹿で鈍いぼくであってもやっていて無駄だと理解できたら、理解できる馬鹿に進化したじゃないか。馬鹿か鈍いかは周りの評価だよ。それを気にして立ち止まっているよりも馬鹿で鈍いですって背中に貼り紙をはって走ったらよい。

    たとえ周りが後ろ向きにはしっていると観察しても、どの方向であれぼくにとっては前進である。立ち止まる、居つくより進みたい。朝しゃべったことと正反対のことを夜にしゃべられるような人は躍動的で力強い(文脈によっては朝令暮改で迷惑をかけちゃうけど)。

    ちかごろそんなふうに感じる。iPad 2のソフトウェアキーボードでもけっこう打てるなあって感動しながら。

  • 果報

    2011.04.26 曇

    第十七候、霜止出苗。桜が散って緑色が風景の階調を司る。田植えの準備。できない方々がいる。いくばくか。心情を察しようにも想像の外側にある。その方々を思い巡らせるとばくちにたてば言葉は失われる。まったく見つからない。そのなかでなんとかして見つけようとする。なんとなく無駄だと思っていても。

    08:00すぎに出発。京都駅へ30分ほど休憩して舞鶴へ。西舞鶴駅下車。Mさんが迎えにきてくださっていた。ランクル。最新の車種。値が落ちない。海外では中古が重宝されているとのこと。砂漠で止まらない車。日本のメーカーは堅牢な車をつくっている。精密で機能的。それらの要素へラグジュアリーを加える。ユーティリティーとラグジュアリーを高いレベルで両立させる。難しい仕事。日本のメーカーはその次元を挑戦している。

    15:00前に舞鶴を失礼してMさんの事務所まで車で向かう。雑務を片付けてからMさんと食事。数年ぶりに伺った寿司屋さん。なつかしい。11年前、会計事務所でお世話になっていたころ、先輩が何度か連れて行ってくださった。

    腹の底から笑えるお話、旨いお料理、美味しいお酒、この三つが揃ったシーンを味わえ我ながら果報者だなぁと感じ入る。自分の幸福を自分で感じ入っていられるなんておバカでお調子モンである。のんきだし幸せだ。

    往復の列車のなかで 『人間の建設』 小林 秀雄, 岡 潔 を読み始めて読み終える。知情意をゆさぶられたと確信できた本。確信できる本は少ない。何度も読み返す本は稀少であることとおなじ。

    小林 (中略)それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。そういうことをしている人は本当に少ないのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。『人間の建設 (新潮文庫)』 小林 秀雄, 岡 潔 P.110

    「確信」を考えながら読む。強く賛成して読む。すぐに反発する。学者の先生方が確信を書き連ねたら学問にならない。そんなふうに反論してみる。二人の対話に賛成と反発を挿入して読み、そこから自分の思考をあみだしてくなる。あみだせない。もどかしい。くやしい。

    岡先生は「確信のないことを書くということは数学者にはできないだろう思いますね」と云う。「確信しない間は複雑で書けない」と。

    僕の確信と両先生の「確信」は異なっていて、僕は「確信」の領域へ届いていない。直観と確信が離れている。「それはあなたがそう考えただけでしょ」と指摘されたらこわい。その恐怖を克服するために「確信」があるような。同語反復の域をぬけだせない。その領域の縁すら見えていない。それはわかった。「確信」をわかっていないことをわかっただけでもありがたい。

    5月はライブを2本観に行く。ライブハウスへ足を運ぶようになって、感覚がほんのわずかに広がった。広がった感覚はいままで気づかなかったことを掬ってくれるようになった。歌っている人、演奏している人、ステージに立つ人、裏方の人。その人たちがつくりだす音楽を受けとめる人。両者が調和したとき、常態とは異なるマインドが自分のなかでわきおこる。

    そんなマインドを体験したら、「ああ、このひとは僕の話を心底聞きたくないんだなあ」と感じられるようなった。ならば黙っている。相手の人が不自然に話題を切り替えてもそれに対して怒りはない。黙っている。すると向こうは沈黙をさけて気をつかって話しかけてくる。煩わしいと思わない。ただ聞いてすっかり流しているだけだ。別れたあとには何を話していたのかまったく覚えていない。思い出す気もない。自分でもおどろくほど淡々としている。鈍感になった。ぼくのなかではその人はもう存在しないけど、目の前にいる間は存在している。

    ある感度が向上すれば、それと引き替えにある感度は低下する。そうして気持ちの均衡を保っている。

  • 満月

    2010.08.25 晴れ

    月が綺麗。凛々しく美しい。月は年間約3.8cmずつ地球から離れている。先日、月がわずかながら縮んでいることを示す痕跡が雑誌サイエンスで発表された。月の半径(赤道方向)の1,738kmに対し、約100m縮んだと推定される。月は約45億年前に誕生した。痕跡は今から10億年以内にできたらしく地質学的には比較的新しいとのコメント。

    「もし月が二つ見えたらどうしよう」とワクワクしながら見上げた。もちろん見えない。でも満月の隣に「緑色のゆがんだ月」を妄想することは許される。だとしたらその妄想は経験へ分類してもよい? 想像のなかで一つの行動を終えた出来事は経験のカテゴリーへ仕訳したい。

    今日はサーバとMacのメンテナンス。毎月まとまった時間を確保してサーバーやMacを整備している。ハードウェアのメンテとOSのチューニング。ハードウェアはエアーで埃を除去。マスクをしないと危険。HDDやマザーボード、ロジックボード、メモリなどをチェック。OSはログをチェックして異常を確認。OSの内部に異常にがあれば原因を調べて修正する。

    「根本的な問題は、組織にとって重要な意味をもつ外部の出来事が、多くの場合、定性的であって定量化できないところにある。それらはまだ事実となっていない。事実とはつまるところ、誰かが分類し、レッテルを貼った出来事のことである」(『ドラッカー名著集1 経営者の条件』 P.F.ドラッカー P.35) 旧約は1966年、自分は卒論を書くために1995年新約版を読んだ。これは最新訳。

    卒論で読んだ時は単語を読み終えただけ。社会人になって何度か目を通して読解できるようになった。身体の実感は伴わなかった。フリーランスになって読解と身体の実感がようやく連結した。

    まだ事実になっていない事柄をどうやって発見しようか。分類されてないレッテルも貼られていない出来事の情報が自分のもとへ届くようにしなければならない。

    キーワードは観察。事実の前の現象を観察する、と書いたのはよいけど、すぐに自問しなきゃならないわけで、じゃぁ、観察ってどんな行為なんだ? ある事柄を観察するとき、脳裏で構築した仮説を補強しようとする力が作用する。作用された視点は好悪や善悪のフィルターをつくる。好悪善悪のような極端なバイアスがかからないとしても微少な影響を排除しづらい。そのフィルターがつくられたら情報は”生”のまま自分のもとへ届かない。

    観察という行為を精確に表現できない。自分の定義を記述できない。理系の方々が使う観察を読み解くと、観察の意味は「観察日記」に使用されるような意味とは異なるような感じだし、形而上学で使われる観察となるとニュアンスすら把握できない。

    日常の単語を重層的に掘っていかず使っている点は自覚できているはず。ほんとうは小学校や中学校で習う単語を探求しなければならないと思う。その作業によって、事実になっていない定性的な事象を発見できる契機を察知する力が養われるのじゃないかな。

  • 解釈

    2010.08.15 晴れ

    終戦の日。複数ある。1945年8月14日, 1945年8月15日, 1945年9月2日, 1952年4月28日。ずっと拝読しているfinalventさんは過去の記事で終戦記念日は1945年9月7日と意見していらっしゃった。一つの事態に対して複数の説がある時、衝撃が記憶に影響を与えた日付が記念とされるやすいみたい。事実がいかなるものであれ。

    茂木先生や高橋源一郎先生が戦争について連続ツイートしていらっしゃった。藤井先生はブログに書いておられた。それらを拝読して戦争という多次元の現象をどうのように切り取るかを学ぶ。

    06:15頃に目が覚める。めずらしく体の調子がよい。体重を2kg落として54kgにしたいが反対されるので現状を維持するよう意識する。

    M先生のページ制作の続き。夕方頃に仕上がったので夜はじっくりと眺めていた。WPのコードを変更しなければならないので下準備。

    08/08頃からブラウザのニュースサイトのブックマークを削除した。RSSも削除。中毒症状をリハビリしたくなったので。ウェブサイトの制作やミーティングへ出席する仕事をしていると、何かの事柄を知っていなければならないのじゃないかぁと自分に強く迫っていた。たとえばコンピューターの知識を所有している印象を相手から抱かれると、コンピューター”全般”について詳しいと誤解を招きやすくなる。

    それらの誤解の9割は自分が招いたのであり、存在を認めてほしいから情報を知っていることを披露したい、という強い気持ちが”全般”を知っているかのように見せていた、と自己評価している。

    その振る舞いの傾斜がきつくなると、IT関連のニュースにとどまらず一般のニュースサイトや雑学系にも手を伸ばし、情報量の期待値が増加していく。3,4年前に情報収集=時間消費の式が生活で確立されていた状態を認識した。

    その時から中毒症状を自覚していたつもりだった。情報収集の手段を減らしたが本格的にリハビリしようと思い立たなかったので自覚していなかったかもしれない。

    08/08から1週間。今の経過観察を備忘しておくと、どうして「知りたい」のだろうと? と思い巡らせている。思いが堂々巡りいている状態で、考える手前と認識している。どうして知りたいのかと自問して、解釈したいのだろうなぁと自答する。といっても先ほどの先生方のような高次元の解釈じゃなく、次元を下げると、「感想を述べたい自分」がいると書いた方が適切に近づく。

    一つのニュースにアクセスする。どのようなサイトへどの情報を取得してもよい。アクセスして入手した情報に対しての感想を述べられる自分に酔っている状態が続く。まるで報道ステーションを視て野次を飛ばしている人みたいだ(と想像で書いてみる)。

    それが常態化しているので「感想を述べる」行為が解釈であると錯覚する。錯覚は解釈を仕入れようと我が身を検索へ奔走させ収集へ向かわせる。血眼。気に入った意見と出会い、高度な解釈と認定できたらそこに記載されている単語の配列を少し入れ替える。その入れ替えや組換えが自分なりのアレンジだし、そうすることで高度な解釈を自分もできるようになったと解釈する。なにがなんだかよくわからなくなってきたと解釈しながら書いているけど。

    リハビリを始めて1週間。解釈は具体化された事象に接近できる道具だ。他方、思考(といってもどういったシロモノかまったく検討つかないので難儀)は構造を観察して抽象化していく作業であり普遍的な事柄を記述する行為かも、と身体を動かしながら思いつく。

    問題を与えられたら解釈は有効に使える。思考は問題を自ら作り出さなければならない。両者の性質の違いはそのあたりにころがっていそうな気がして、今なんとなくそれを探し回っているところって自分をマッピング中。

  • 疑似

    2010.08.11 雨のち晴れ夕方大雨

    近所に木が増えたからか鳥がやってくるようになってきた。最近、雀の親子が囀っている。雛鳥が巣から出られるようになったらしく、木と電線の間を往来する。その姿はおぼつかない。電線から落ちるんじゃないかとハラハラ。(勝手に親子と決めているだけだが)2羽の雛鳥と1羽の親鳥が朝から空気を切り裂くように鳴く。あの声を聞いていると、どうしてチュンチュンって擬音されたのか不思議でしょうがない。

    O先生のウェブサイトで使う図を作成しはじめる。明日にはアルバイトの資料が届くので今日のうちにおおまかなイメージをつかみたかった。

    illustratorを起動させて下絵をトレース。なかなかうまくいかない。ソフトが悪いわけじゃない。ソフトを使いこなせない自分の腕の問題。そうとわかっていてもillustratorの最新バージョンCS5が欲しくなる。欲しい心は止まらず制止を振り切ろうとする。

    「ほとんどのトヨタ車衝突は運転ミス=米政府調査」とWSJの日本語版が報じていた。58件中、運転者が全くブレーキペダルを踏まなかったのが35件、中途半端なブレーキ踏み込みは14件。残りの9件は衝突直前でのブレーキ踏み込みが示されたとの内容だった。

    一方で結論は下されていない。全米科学アカデミーと米航空宇宙局の合同調査を続いている。現在、ソフトウエアと機械系統、電磁干渉に対する脆弱性を調査中と記事は締めくくっていた。

    あの騒ぎは何だったのか訝る声が聞こえてきそう。その声は科学から距離を置いた文学的な推論であり科学が関与する余地のない領域だ。科学は反論も肯定もしない。沈黙する。JFKが暗殺された事実に対して委員会は「科学的」に調査した結果を報告しファイルを残している。にもかかわらず「科学的結果」を受け入れずに文学的な物語が再構築される。9.11でも繰り返されている。物語は願望を受け入れ、物語は心を強くゆさぶる。

    トヨタ-バッシングの背景にアメリカの意図が潜んでいたというプロットを立てるとしたら、それと等しく今回の調査結果に対してトヨタの側にも意図が潜んでいたとしておかなければならない。両者は等しくロビー活動する資金とネットワークを所有している。

    自分が立てた仮説や直感に最も近い意見を採用して納得するとき、その見方が成立するならば反対の見方も成立する可能性は非常に高い、あるいは対偶が妥当である可能性を検討することを頭にとどめておかなければならない。頭にとどめているつもりなのに、その機会はなかなか訪れない。自らその機会を遠ざけてしまう。はじめにひらめいた事柄に対して肉付けを強化する方向へ多くの時間を割いてしまう。

    だから 『人はなぜエセ科学に騙されるのか』 のとおり自分は騙される。さらにこうやって備忘しておいても、類似の局面がやってきたとき轍を踏む。

    疑似と類似に振り回される自分、はぁ。

  • 虚構

    2010.08.02 晴れ

    朝から蝉が全力で鳴いている。一週間と定着している寿命はもう少し長いらしい。最近、ベランダにスズメがよく現れる。同じスズメかどうか判別できないが朝からけたたましく鳴く。蝉と雀が指揮者のいないオーケストラのようにハーモニーのない音楽を演奏する。

    WPの制作。表のサイト を変更した。暫定的な実験。今後もテーマを作成して試行錯誤していこう。

    いつのまにか此岸から彼岸へわたっている人はいるんだなと思う。残った人が手続きしないので紙の上では娑婆に存在している。偶然がその存在を確認したら神隠しにあったみたいに消えてしまった。

    残された人は知らないと言う。周囲は意図をはかりかねる。憶測をたくましゅうする。

    公的機関は物事を複雑にして自分たちの仕事を作り出し予算を獲得している。紙から電子化されてもシステムを簡素化せずに複雑のままにしておく。

    一般人が判定できる範囲の膨大な入力項目が公的機関にとっての”必要最低限”であり、不思議なことにその中にいる人たちも一歩外へ出たら一般人であるから自宅へ戻って想像力を起動させたら必要最低限の分量が異常な状態と理解できるはずだ。もちろん理解していらっしゃる。

    でも想像力は自宅の机の抽斗や書架に片付けられ、車中で移動している間に何かが入れ替わり眼前のディスプレイと向き合う。あんな場所で大切な想像力を使われたくないって訴えるささやかな反抗なのかもしれないと自分は想像する。

    ディスプレイに表示された数字や紙上に残る記録が公的機関の事実だ。事実は建物の中にだけ存在し確認しなくてもよい。

    ただ建物の中の事実とほんとうの実体を相互参照したい”だれ”かが現れたら自分たちの建物が破壊されかねない。建物の外から中の事実へアクセスする通路を迷路にしておけばよい。さらによいのは迷路に示す案内文を複雑にしておく。

    公的機関は混沌と複雑を峻別しているし一線を引けていると自負しているからシステムはさらに絡み合い入り組んでいく。誰が何を把握しているのかわからないほど複雑にしておけば建物の存在価値は維持される。まるで92兆2992億円を誰一人把握できていないかのように。

    いつもの時間にいつもの場所にあの建物があればそれでいい。私たちはあそこへ入ってゆけるのだから。