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  • 心地よい緊張感

    心地よい緊張感

    2013.08.02 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=dKGweZ0Y_OI]

    青谷明日香 – さよならくじらぐも でスタート。「自分の足だけがコンパスと気づく」「白か黒かもわからないことを 白だ黒だと言い切れるのが素晴らしい」「ひとりぼっちで覚えた強さが どんないばら道でも あたたかい毛布で守ってくれるでしょう」(いずれも耳からの変換) こんな言葉を書ける人が心底うらやましい。

    12:00前に大阪へ。13:30スタート、ミーティングに参加。院内のデータ管理に使うExcelファイルの入力方法を説明。説明は難しい。こちらははじめからおわりを把握している。スタッフのみなさんは知らない。

    立て板に水のしゃべりは無駄。相手の意識はメモとりに奪われる。私が考えていることを相手に理解してもらう。私の考えた道筋を吟味していただく。その共同作業が説明だと思う。

    相手が迷いそうなポイントをこちらは知らない。その前提に立つ。慎重に進める。脇道にそれない。最短距離をゆっくりゆっくり進む。

    15:00終了。大阪駅で途中下車してタワレコへ。“異端児の城” 青谷明日香 を探す。ない。かわりに“夜はミカタ” 青谷明日香 があった。こちらも買う予定だったので、迷わず購入。

    「悲しい夜も、さみしい夜も、いつかミカタになればいい」の帯。言葉は人を傷つけると怯えていたら、希望さえどこにしまったのか忘れてしまう抽斗へ押し込められる。

    信じる糸が言葉の想いを紡ぐ。

    ball
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    懐に入ってくる。懐にはいくつも部屋がある。ひとつの部屋しかなく開放している人がいたらお目にかかりたい。きっと大人物だろう。

    いくつもの部屋があり、閉じたり開いたり。閉じっぱなし、開けっ放し。永久に閉じたままもあり、透明の扉もある。

    中心があり、円形に配置された扉。あるいは重層的に展開する扉。一つの部屋のなかにまた扉がある設計。いろんな「懐の形」があると想像する。人の数だけある懐。

    すっと入ってくる。開いていそうな扉を嗅ぎ分ける。開いて欲しくない扉のノブを持っても回さないセンス。話すように聴く人だ、たぶん。そういう人の前に立ったとき、何かを話したくなる。

    発話された言葉、ディスプレイに現れた言葉、それらの語感と余韻を掬いとって、ノックしてはいけない扉を慮る感性。

    それらを備えた人がいると思う。

    余韻と語感を掬いとって、なめらかに侵入してきて、長居せずに軽やかに去る。居たのか居なかったのかわからないぐらいの軽やかさが残す匂いと輪郭。またやってきて違う扉のノブを回す。繰り返す。

    近づけば近づくほど、匂いと輪郭は心地よい緊張感を帯びている。

    そんな風景を想像してみた日。

  • 選び選ばれ、気儘か確信、天秤何を測る

    2013.07.26 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=lKXFLNizOoI]

    Drakskipを聴く。北欧の民謡はローテーションのひとつ。好み。民謡と言ってよいのやらわかんない。ただ聴いてるだけ、水たまりより浅い音楽の造詣。んなわけで、とにかくそれっぽく聞こえる音、あっ、なんか北欧っぽいなって音、”それっぽい”や”北欧っぽい”のって? って突っ込まれたら小林薫の笑顔を返してやる。

    昼下がり、メッセ着信。ディスプレイが相手の方の心情を映し出す。言葉だけの双方向通信。日本語は1文字に2バイトを要する。2バイト言語は想像力の問題用紙を私に渡す。答案用紙はない。

    できるだけ短く返信。聴くは見るに置き換えられる。耳を傾けている信号を送信する。左から右へ。[入力中]の表示と消滅。文字と時間が流れる。

    出力と入力に比例して声の一回性を痛感。

    相手は”いま”を私へ伝達してご自身の気持ちを探っていらっしゃるかも。わからない。かんたんに決めつけたくない。「かもしれない」の付箋を貼る。

    選び、選ばれる。たまたま私のアイコンをクリックした。それもわからない。独りごちる。

    選びー選ばれる。気まぐれであっても、確信であっても、偶然でも、如何なる様態であれ、選びー選ばれることによって互いに持っている天秤を己の中で釣り合わせようとする。選び=選ばれる。平行だから釣り合ってるわけじゃない。

    左に役割、右に存在。あるいは、何か。

    京都市立美術館

    “乗り越える”や”頑張る”。私が自分自身に使っても、誰かに投擲しない。いつ頃からかそう感じる。

    頑張るの代わりに”グッドラック”を中井久夫先生から剽窃する。同じく森博嗣先生からは乗り越えるの代わりに”最適の健闘”を拝借。なぜ最善ではなく最適? 『スカイ・クロラ』シリーズを読んだときから剥がせない疑問。

    ずいぶん前に”成長”がリスト入り。私のイメージは右肩上がり、もしくは「しなければならない」的ひとつの方向しかない圧迫感。使わなくなった。代わりに進化、たまに成熟。

    これらは自己満足。他者が使っているからって過剰反応しない。淡々、飄々と受けとめる。

    誰かに投擲する言葉はほんのちょっぴり臆病なぐらいがほろよいでよいんじゃないかしら。ノンアルコールじゃ物足りない、かといってモルトをストレートで飲むのは心の性器を見せられるぐらいでないときつすぎる。

  • 甘えとふがいないが混じった定期便

    2013.07.18 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=Xgv-U7dhHe4]

    bibio – the ephemeral bluebell でスタート。既出。インストが好き。『Vignetting The Compost』のなかでいちばんのお気に入り。原っぱゴロリ転がって風に包まれる空や湖岸をGIOSで走っている音や雑踏のなかで想い歩く姿が脳内スクリーンに流れる。

    朝から右親指と右腕と右唇がまた少し。うーん。

    13:30に京都。H氏と打ち合わせ。あっ、降りたの久しぶり。改札抜けたの何時以来だろ。記憶の抽斗を開けようにもどこに仕舞ったか思い出せない。祇園祭山鉾巡行が終わった翌日の京都。

    近況や現状を伺う。聞き役、90%。お伝えしたのはひとつ。やわらかい着眼。仕事の領域へ合焦する思考の構図をずらす。ためらいと不安。

    リンクしてないと見えてしまう様態に潜んでいる「見えていない」「感じられていない」「聞こえていない」コトやモノ。それらが、仕事の輪郭を描いてくれる。

    16:00前に終了。大阪へ移動。次の予定まで大阪マルビルの下で読書。

    19:00からF先生とミーティング。最寄り駅二駅手前で降りて歩く、35分。汗だく。マゾか、罵りながら大腿筋のために歩く。

    私見を率直に話す。失礼な物言いだと自覚。伝えなければならないって直感した。先生の孤独の隣に立ってられるまで立つ。

    21:30終了。乗り換えの大阪駅で夕食、野菜ジュース。

    パン屋さん

    帰りの車中、睡魔が編集された記憶を思い出す。10代の半ば、友達と一晩中しゃべってほっつき歩いて初の朝帰り。母は何も言わなかった。なんで怒らへんの? への返事。

    「母さんの役目は、ちょっとでええから社会に役立てる人間に育てて送り出すことやから、朝帰りも必要なんやと思うわ」

    一言一句正確に覚えていない。そういう風に言われたことだけを編集して覚えている。

    ほんのわずかでも役立っているか、自問。一人での仕事を言い訳にしてはいけない。けど、ときおりの不安。稼いでいない、社会の役に立てていない。一方で好き勝手にやってる気儘。自暴自棄ではなく、甘えとふがいないが混じった定期便。二つの分量を少しずつ減らしていけたらね。

    不安はここだけに吐露。自家中毒を起こさないように自身と向き合う。

    このままやっていけるかどうかわからない。終わってもおかしくない。悲観しない。心中のデスクトップに貼り付ける。わずかでも誰かの役に立てるように。

    幸か不幸か職種への執着はなく、あるのは役に立ちたい懇望、ね。

  • 自分からもっとも遠く離れた自己意識

    2013.06.02 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=J4zeiIOcZik]

    サンタラ – バニラ でスタート。「冷えた苺もニュース速報も君の電話も何もいらないの」って詞、なんでこんな配列が思い浮かぶ? 素敵。歌詞を書いてメロディ、メロディのあとから歌詞、どちら? 目に浮かぶ風景、具体的な映像、でもどこか詩的世界が漂っている。

    川上未映子さん出演のトーク番組を視聴。言葉の使い方を勉強。wikipediaによると永井均先生から影響を受けたとのこと。テーマは独我や自我について。

    どのように学問されたか存じ上げない。哲学の一片を習得されていらっしゃる。だとしたら術語の臭さが会話に残留していそうなのに濾過されている。著作や対談やエッセイを手に取ったけど感じなかった。

    今回の番組では、こてこての大阪弁でホスト的役割を担って場を仕切っていた。そこに臭さはない。ひょっこり口に出たフレーズが、語彙と思考の切れ味を映し出す。

    書くという行為について。自分からもっとも遠く離れた自己意識に出合うこと、対話すること、だと。

    字幕を読む。見なれない単語は「自己意識」。あとは日常で目にする単語。

    「何か」についてほんとうに理解したしゃべり。身体の隅々に行き渡らせる理路を持っていたら、「何か」を語る言葉は平易になる。そう思う。

    外部に存在する他者を自分の身体へインストール。沈黙のアップデートを繰り返す。翻訳。次にアウトプットされるとき、他者は「自分語」に変換される。自分の語彙の範疇で構成される自分の言いたいこと。

    それが理解。身体と言葉の感覚が限りなく近づいているような状態。

    大阪の桜

    場の雰囲気を読み、場に合わせて扱う単語を変える。そんな感じではない。よほど器用な人でないかぎり、そんなことできない。

    街のノイズに紛れ込んだ単語が会話を編む。どうしても置き換えられない術語が少々。言葉をほぐしながら会話と術語のミゾを埋める。会話と術語の狭間を、悶えて生み出した「自分語」が賄う。

    映像の情報量は文章よりも勝る。あるテーマについて頭の中に浮かぶ映像や出来事を、「自分語」に翻訳して語る時、どうしても「それ以下」になる。運よければ映像と自分語が等しくなるぐらい。

    何時間も独白するような状況だったら「それ以上」になるかもしれない。たぶん、万に一つもないだろう。

    頭の中にある形と出力される表現はズレる。「それ以下」にしかならないもどかしさ。じれったい。語彙が足りない。不足を補える語彙を持っていない。そういったものを抱えることが、自分で考える根っこ。そのじれったさやもどかしさを脇へ置かずに書く。

    「美しい日本語の組み合わせを提出するという意識が強い」と谷川俊太郎さんはおっしゃっていた。詩のメッセージは何? とよく聞かれるが、伝えたいことがはっきりしていれば散文で書く方が正確、とも。

    詩をめくる。どうしても意味を欲しくなる。意味はなに? 詩の語と語と間にも意味は何かあるかもしれない。散文と異なる。読む人の数だけありそうな意味にも到達しない意味。

    詩も散文も、「書く」という地点までは<私>と自分の共同作業なのかな。手元から離れてしまえば、意味のパズルは読み手の手元へ。自分が描いた「絵」とまったく違う絵のピースをはめられてもどうしようもないんだろうね。

  • メールからメッセージへ

    2012.11.10 晴れ

    今朝は 椎名林檎 – ここでキスして でスタート。歌詞がトリップしててビンビンきます。そういえば、instagram で「キスか、あるいは接吻か、それが、問題だ」とポストして、フォロワーさんたちからおもしろいコメントをいただいた。

    野菜の高騰に腰が抜ける。サニーレタスが318円って、円が95円突破するよりびっくりするよ。まいった。野菜が好きなんだ、懐が痛んでも野菜を食べたい、でもね、ホントに痛めたら野菜どころじゃないから、とゆれ動きつつ、買うよ、房どりミニトマト、398円、エン。

    この1年のあいだでメールの連絡が減ってきた。先生方は、Facebookを筆頭に、SkypeやiCloudなどからメッセージを送ってくる。一長一短はある。それを承知で使えば力をぬいたフランクな会話ができるのでありがたい。

    数年後、メールはもっと減るだろう。いまの10代が携帯電話のメールソフトを起動させない、メールを打たない、スタイルは未来を示唆している。先進的でクールである。なんどか紹介したように、海外の企業ではメールシステムを廃止しはじめた。そのなかには大手企業も含まれる。

    僕のまわりのクライアントは年上の方ばかりだ。僕より頭がやわらかい。ネットの新しいモノにふれ、仕事とプライベートのバランスをコントロールしてやっている。Facebookのフィードをのぞけば意外な一面も。ファンページを開設していらっしゃる先生がいる。僕に管理者権限まで与えてくださっているから、SNS内部の状況を勉強させてもらっている。

    「わからないから教えて」と言える人は素晴らしい。その人たちの共通点は、屈託がない。みなさん素直に尋ねてこられる。冗談をおりまぜながら厭味がない。下品でもない。力強さを保って「対等」である点を年下の僕に示してくれる。

    僕だけでなく他の方々へもだ。だからそんな人々のもとへは、いろんな「モノ」と「コト」が集まってくる。誰かが「何か」をもってやってくる。<私>の周辺がぼやけていき、直径が長くなる。私から自己への転回。私と他者の境界線に「関係」が生まれ育まれる。

    「わからない」のたった一言を素直に吐露する。とても難しい。たいていは「わからない」と言えない。他者に対して「閉じている」んだ。

    11:00すぎに大阪へ出発。13:30からF先生のDHとミーティング。メンバはDHの方々と私。ドクタやアシスタントはいない。貴重な体験になる1年のはじまりである。僕は変わらなければならないだろう。試練を与えられている。この試練と対峙して変容へ展開させなければならない。F先生とDHの方々のもとへ、大切な時機が到来している。

    反対の視点をもたらす。

    一つの見方が成立したとき、反対の見方へスポットライトをあてる。ふだんの生活なら誰かが反対の見方の舞台に立つ。その時、はじめて「反対の見方の舞台があった」と、一つの見方をしている人は認識する。対話は「舞台」である。私が観客で、相手が演者だ。時と場に応じて互いの役割は反転する。私が演者にもなる。

    私とあなたが監督になり脚本を書く。共同作業。他者に対して「閉じている」といっしょに脚本を書けない(書かなければならないわけじゃないからね)。

    反対の視点を、外連味なく提示できるようになること。これが僕の課題だ。反対の視点を提示されたらしこりが残る。僕も感情がゆさぶられつらいときもある。その気持ちを理解しなければならない。理解したうえで、反対の意見を冷静に提示して<私>と<他者>を壊して対立して「関係」を創造する。

    対立と創造を支える根っこは何か?

  • いつかは破綻する

    2012.10.16 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=CB4EgdpYlnk]

    今朝は Bette Midler – The Rose でスタート。定義できない正解のない単語について、「どういう意味で使っているか?」との問いは、するどいように聞こえるが、少し考えれば他者の回答を必要としない自己顕示欲から発せられる究極の閉ざされた質問であるとわかる。「愛とは何ですか? それを理解して使っているのですか?」とあたかも高みから望むように。

    第五十候、菊花開。寒露にはいりさすがに朝晩の冷え込みがはっきり感じられる。気温や天気だけに感覚が奪われてしまうと、感じられる秋の質感は減ると思う。たぶんメディアから距離を置けば自分で秋を見つけるように変わっていくだろう。

    新米が出そろい新豆や天然ものの滑子がならぶ。毎年おなじみの光景があるかと思えば、北海道では鯖が豊漁であり、琵琶湖の鮎の川遡上が激減している。同じものといつものと違うもの。それも人が勝手に見さだめているだけかも。

    近くのスーパーが鍋用ズゴックとうふを販売していて、前を通った瞬間、買い物かごにおさまっていた。ど真ん中世代としては見逃せない逸品である。が、いざ冷蔵庫にしまうと食べるのがしのびない。観賞用にも置けないから困ったが、なんとか鍋用として使って供養してやらねば。ザクに続きよいアイデア、できればドムを期待したい。

    10:30から大阪でミーティング。前回に続き、今回も私が進行と講師を仰せつかる。仰せつかるといっても何も準備していない。そのときの場の雰囲気やスタッフの方々の表情を伺い、みなさんから発せられる意見をつなげていく。ピースを拾い集めてジグソーパズルを完成させるように、みなさんの言葉を拾い集めて一枚の絵にしていく。

    ただ描く絵が決まっていないから、「ピース」が必要か否かがわからない。組織がわからないという沈黙と負荷に耐えられるかどうか。それをずっと観察していた。

    10:30からスタートして12:00すぎに終了して10分ほど、みなさんが余韻に浸っておしゃべりしている姿を観察していた。どこにでもなににでも関係がある。関係の背景に隠れている「 」へ観察から得られた言葉をはめこんでいく。想像力が「 」のなかに言葉をはめこめ、創造力ははめこんだ言葉を壊して書き換える。ふたつの質量の増大が自分のコンテンツだ。

    昼食をとって午後からはiMacの設定。隣でKさんが仕事していた。昔の先輩。久しぶりに基本の仕事をしていらっしゃる姿を拝見して懐かしかった。もう忘れてしまった仕事。

    18:30ごろに設定は終了して先生にひととおり説明して、質問を受けたりしてたら19:30ごろに。そこからKさんと大阪へ移動して食事へ。ずいぶん久しぶりだったせいか、Kさんとの話し込んでしまった。気がつけば23:40をまわっていて、あわてて大阪発野洲行き最終列車へ駆け込む。

    Kさんが最後の最後で僕を叱ってくれたことを忘れない。叱咤激励。僕の弱点とルーズな点をちゃんと見抜いていらっしゃる。それを今回も指摘してくださった。ありがたい。たとえまわりの経営者や先生は僕にたいして同じ気持ちを持っていたとしても、面と向かって指摘して、アドバイスしてくださるのはKさんだけだ。

    僕のやり方はいつかは破綻する。肩書きを捨てていけるとこまでいってみよう。

  • 帰還なき学習は他者の評価を気にしている

    2012.06.15 曇のち雨

    http://www.youtube.com/watch?v=LIDwgpBh0Aw

    今朝は Pitbull – Back In Time でスタート。MIB 3で知った曲。いまでもラジオでちょいちょい耳にします。なんだか懐かしいリズムなんだよなぁ。

    06/14にアルバイトの資料が到着したので没頭。キャッシュフローと利益がほどよくバランスとれていて、なおかつB/SとP/Lを安定させるってむずかしい。そのへんは財務のプロから助言をいただくとしても、経営者が「数字」を理解しているか、否かは、組織の規模に問わず経営の根幹なんだ、と毎度ながら強く感じる。

    冷徹で身も蓋もない皮膚感覚でもの申すと、経理と財務を他人(親族を含めて)に一任して、経営者が数字に関与していなければ、増収増益のプランを思案しても有効な対策は講じられない。「関与」の定義は、財務諸表を自分の目で直接確認して、全体像を数字として把握できている状態。

    14:00からF先生と打ち合わせ。矯正歯科の診療システムについて。大阪駅で途中下車して “デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)” アントニオ・R・ダマシオ を購入。勉強の方向が、「認識と言語」に定まってきたので参考文献を参照しながら読む。が、やはり教科書や論文に目を通して理解できるようになるまでは10,20年先なんだろうなぁと思う。素人向けに「翻訳」された書籍をようやく理解できるようになった程度。

    同じく“ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観” ダニエル・L・エヴェレットを発見。購入を迷う。いつか読みたい。というのも、ピダハンの言語は、言葉と認識をテーマにあつかった書籍にしばしば登場する。左右や数字の概念がない?!、時制が西洋文明と異なる?! 部族として紹介されていて、ちょっとしたエピソードを読んだだけでもおもしろい。

    F先生と打ち合わせして、矯正歯科の診療システムについてのフレームワークデザインが甘かったと反省。視覚的により理解しやすいフレームを作成しなければ。

    16:00すぎに終了後、Apple Store心斎橋店へ。母校の高校の前を通過、周辺の継続と変貌が感慨深い。母校は僕の人格形成に強く影響を与えた。あの当時の授業をもう一回受けてみたくなる。現在の高校の先生方はどういう授業をなさっているかを存じ上げないが、あの頃は、かろうじて「古き良きはちゃめちゃな時代」の尻尾だったと思う。それでも先生方は、生徒達の学力を嘆いていらっしゃった。確かにそうだろう。同窓の叔母から話を伺うと昔はもっとはちゃめちゃでユニークな秀才がいらっしゃったみたいだ。

    19:00からM先生のミーティングに参加。20:00すぎに終了。コメントを申し上げた。コメントの意図をもっと精確に伝達しなければならないのに躊躇してしまう。精確に伝達するスキルが向上しない。稚拙なコメントは避けた方がよい。自分の無力の粘性が増すだけだ。

    6月にはいって金曜日は夕食を食べないようにした。土曜日の調子がすこぶるよい。睡眠が深く目覚めが快適。土曜日が充実す。栄養摂取の観点からはいかがなものか。0.1%程度の興味はあるが、爽快と昂揚はなによりにも代えがたい。食べ過ぎである、ほんと。

    決まり事を紙に出力する、知識を習得する、本を読む。入力を満足しているならば、帰還なき学習である。自分の変化を促す学習ではない。帰還なき学習の基底は、学習している私を他者から評価されたい欲求である。それを練習のための練習といい、ひょっとして、たた素振りをしているのと、本番の打席を想定しながら素振りするのは雲泥の差、月とすっぽんと通底しているかもしれない。

    自分自身と素直に向き合い、自己の更新を味わいたい一心であるなら、入力と出力の循環を意識し、学習の系を現象へ帰還させて事実を構成する変数を増加させる。入力した結果が予測できない出力の変動を吟味するだろう。他者から評価されたい欲求は後である。もっとも忌み嫌うフレーズを備忘す。誰のために為しているのか?

  • 腐るべくして腐る

    2012.04.13 曇のち雨

    今朝は サニーデイ・サービス – コーヒーと恋愛 でスタート。ふと聴きたくなって聴くとコーヒーが飲みたくなる。コーヒーは大好物でスタバのボトル満タン×2は飲みたいけれど抑制。コーヒーを飲んで音楽のお話ししたいねぇ。

    第十五候、虹始見。桜エビ。パスタとキャベツでウマし。粉モンでも美味。小さな物質なのにすぐれた栄養成分、健気。街の風景に目を向けると色のバリエーションが増えた感じ。春かな。

    アルバイトの資料が到着。右半身がいままで一番きつい。30分入力しては5分休憩をリピート。痺れる。顎の調子もおかしい。身体がこわれていくさまを観察したらわかることが多々あってありがたい。壊れてみないとわからないのはおろかな証左である。とわかっているのにこわれないように手入れしているかと問われたら、していないと即答できる。自分に甘く、無頓着なのだ。

    16:00前に出発。前日に読了した“悪童日記 (ハヤカワepi文庫)” アゴタ クリストフ に続いて“ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)” アゴタ クリストフ を再読。列車の中で無我夢中。結果を知っているのに読みふける。圧巻のストーリーテラー。装飾をそぎ落として最小限の表現にとどめた簡潔かつ簡素な文体。その文体が迫る人間の条件。三部作から「本質」と「本当」を自分なりに探り出すだけでも充分な鍛錬になりそうだ。あっという間に大阪。

    雨が降ってきたので徒歩を中止。最寄り駅で読書再開、読了。のどがカラカラ。500mlのミネラルウォーターを飲み干す。決して比較してはならない。対象をありのまま切り取とろう。そして、「今まで」を括弧にくくる。舞台の時代へ没入。舞台の時代から今は「ない」のだ。あるのは舞台の時代の「いま」だけ。没入しつつ冷静に観察する両義の視点。

    19:00からM先生のミーティング。書記しながら観察する。書記から気づくことはたくさんあるし、声を聴いて疑問が浮かぶ。頭のなかに自律、主体、責任などの単語がよぎる。打ち消す。単語を前提に観察してはいけない。事実と意見を峻別する訓練。事実を説明できるもっともシンプルな構成を考える。直感は客観・評価・効率の3点を鍛えてから養われる能力だろう。

    20:00終了。大阪駅の御堂筋口でみたらし団子5本購入。310円なり。

    帰りの列車はほろ酔いの人と泥酔の人の比率が高い。あいにくの雨だけど夜桜見物の方々もいらっしゃったかな。代々木公園の花見の写真がネットで話題になっている。後片付けしないでブルーシートもそのままにほったらかしの写真やごみ箱にごみが入りきらずにイタリアのある街の風景みたいな様相になっている。あれが人の一面である。表か裏かわからないけれど、別の面もある。

    それらに怒らず、倫理と精神と生活に目をむける。いかに不愉快な隣人と共に暮らし、いかに自分が不愉快の隣人にならないように形成するか。

    眠っている人が多いから静かだ。車中、本を読む気分ではない。孤高と独善、達観と無関心の境はどうやって定義し、界面はなんだろう、かと単語をならべて遊ぶ。

    他者と接していれば影響を受ける。ごくわずかであっても影響を受けると思う。が、誰かに対して、まったく影響を受けない、影響がゼロだと措定できたら、その人は私にとって存在しているかな? いまそのあたりで止まっている。

  • 気づいていないことに気づけないと気づかせる

    2012.01.29 晴れ

    今朝はMC Lyte ft. Missy Elliottから”Cold Rock A Party(Bad Boy Remix)”でスタート。90’s club musicは大好きですね。オムニバスローテーションで聴く。

    姿形がきれいな鯛を久しぶりに見かけたのであら炊きを食べたくなった。目利きを知らないのに姿形がキレイと判定できるのか? 新鮮そうなセロリをみかけたので焼きそばにいれて食べてみたら美味。目利きを知らないのに新鮮そうなと判定できるのか?

    11:00前に出発。12:00大阪駅に到着したらF先生から入電。日本橋の待ち合わせをApple Store 心斎橋へ変更しませんか? とのご連絡。即座にOKして踵を少しだけ返して御堂筋線で心斎橋へ。どうやら先に到着したみたいなのでiPad 2をさわりながら待つ。5分ほどしてF先生がお越しになってiPad 2をご購入。

    その足で日本橋のパソコン工房へ。大阪国際女子マラソンの観客が並びはじめる。脇目も振らずすたすた歩いて日本橋へ。

    パソコン工房でお目当てのA4 15inchノートを探す。在庫なし。ショック。二番目の候補も在庫なし。よく売れとるか、ジャストインタイム方式か、さてどっちだ。代替のA4ノートをかろうじて探し出して購入。

    二つをはしごしてデザインとスタッフの所作のよい勉強になった。Apple Store 心斎橋の洗練、パソコン工房の猥雑、それぞれの”らしさ”が表現されていてどちらも好きだ。

    お買い物をすませて先生にランチをごちそうになる。ランチで少しお話しを伺い、最近の自説を講じた。生意気を承知で申し上げてみた。

    ヒントは“妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)” オリヴァー サックス, Oliver Sacks“火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)” オリヴァー サックス にある。脳の右半球や左半球に障害が残った人や他の障害を抱えた人が登場する。いずれの症例もページをめくるたびに吃驚する。読みながらパターンを抽出して一言でまとめる。

    「気づいていないことに気づけない」

    そうまとめられる。目は見えているけれど脳は見てない。妻を帽子とまちがえる、って巧みなレトリックであるけれど、実際に間違いを気づけない。

    この構造が私にもあてはまる。それがいま考えているコトだと申し上げた。

    教育の本質は自学自習である、という言葉を好んでいる。内田樹先生がおっしゃっている。正確な引用ではない。教師は生徒の自学自習のスイッチが入るのを待つ。環境を整える。

    自学自習のスイッチが入るプロセスを自ら認識できるのだろうか? 私の至らない点を他者が観察してくださっていたとして、その点を指摘してもらっても、何かしらの理由でその指摘を受け入れない。あるいは、指摘の中身に気づけない。

    F先生の院内を観察していて、自学自習のスイッチが入る環境を整えるとしたら、いかなる要素が必要かと思い巡らせる。あるいは個々の方々に対して「気づいていないことに気づけないと気づかせる」にはどのように注意喚起すれば関心の「感度」が向上するか?

    先生によると、“民主主義と教育〈上〉 (岩波文庫)” J. デューイ では、「みな関心を持っている」とおっしゃる。お話しを伺いそのとおりだと思う。その関心の「感度」を向上させたいと私はひとり勝手にわがままを申し上げた。そのために“デザイン思考” がある。

    15:00ごろから医院へもどってiPad 2とノートPCの設定。16:30に終了。これで2/1からの新しいシステム管理のハードウエア環境を整備できた。さぁ進もう。

  • モーテルの名前を思い出せないのに鏡の相貌は覚えている

    2012.01.24 曇時々晴れ

    今朝はMarvin Gayeの”Sexual Healing”でスタート。大好きなナンバは抑鬱から穏やかで孤独の隙間へ招待してくれるはず。他人には寛容を求めているのに私は狭量なんだと気づいたら悲劇だ。気づかなければ喜劇だ。

    記憶。ラークを口にくわえて火をつけた。ベッドの上で所在なげに待っている。彼女は顔になにかを塗っている。なにしているのか気になって煙の中から覗いた。いつのまにか化粧をするようになったんだ。鏡に映った顎を見つめる。Charlotte Gainsbourg みたいなラインがすごく好きで15歳の目にやきつけられたファーストインプレッションから変わらない。ファーストインププレッションの前、ほんとは会っていたんだ、ちがったかな、バスケットボールを受けとったんだったっけ、たしか。あとからわかったことだけど。おかしい。どこかピントがあっていない。鏡のなかの彼女は現実の残像を補正する。

    目の輪郭に気づいていなかった。鏡の目の輪郭にピントがあった。輪郭をリッピングして現実の輪郭へ上書きした。目に惹かれていたんだ。鏡が教えてくれた。

    そういえばどうして鏡の彼女は上下そのままなんだ? ずっと不思議だったのにほったらかしていた。謎を解くより鏡に入り込んだ容顔美麗を眺めていたかった。謎を解いたのはずっとあとになってから、記憶のなかで彼女の声を再生できなくなってからだった。

    部屋の内装やベッドの模様を覚えていない。ドアやソファを思い出せない。物質のデータは消去されているけれど色はモノトーンに変換された。そういや、あのモーテルの名前、なんだっけ? それすら思い出せない。記憶がすべてのシーンを保存しているなら再生の方法を教えてくれたらよいのに。

    ひとつだけ思い出せた。ぎこちない化粧が相貌を彩っていく鏡の彼女だ。鏡に入り込んだ彼女をクリアに再生できる。白のニットドレスの後ろ姿と鏡像をカットしてペーストしたらしい。そしてロックをかけた。誰にも削除されないおまじない。記憶は見たままを保存できても見たい映像しか再生しない。記憶の再生は独りよがりであり記憶の忘却はむごく苦しめる。記憶が正しいかどうかすらもわからなくなる。

    いまもしラークを口にくわえて火をつけたら最初に彼女を再生するかな? 記憶は経験を書き換える。肉体は経験の原体験をたもちつづけているけれど、記憶は原体験から経験をわけはなしてしまい、原体験よりも美しく懐かしい、時にせつなく悲しい経験として物語る。

    ラークを口に加えた年数の出来事は、西暦のラベルを貼って一枚ごとのカードに記録されてインデックスしてある。膨大な量のカード。新しいカードは手前に古いカードは奥へ仕舞い込んだ。記憶の遠近感をたもち続ける。

    時間が記憶の遠近感をこわしはじめる。西暦のラベルは剥がれてゆく。鏡の彼女はどのラベルにインデックスしてあるかわからなくなってしまった。

    ラベルが剥がれてインデックスを失った彼女は時空を超えてひろがり散っていく。記憶は断片を最適化する行為をあきらめた。ばらばらに散った彼女をひとつひとつ拾い集めて<彼女>として1枚のキャンバスに描き直している。

    いまはまだカラーで描けているが、やがて時間と記憶は<彼女>をモノクロに塗り替えるだろう。