「それからこれは前にも申し上げたことですが、念のために繰り返します。ご要望のあったトピックについて、引き出せる情報はすべて入手しました。ですからもし牛河さんがその内容にご不満を持たれたとしても、こちらとしては責任はとれません。技術的にできる限りのことはやったからです。報酬は労働に対するものであり、結果に対するものではありません。求めていた情報がなかったから金を返せと言われても困ります。それもご承知願えますね」
『1Q84 BOOK 3』 村上 春樹 P.138
結果に対して報酬が支払われるようになり結果に対して評価が下される。アンフェアがあるとしたら、結果を提示しないで結果を求める傾向が高まったことだろう。往々にしてそういう傾向の高い属性は結果を出したことがない。自ら創り出さない。結果を評価する仕方も知らない。だから結果の定義が異なるのだろう。
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結果も過程も大切だけど払わない
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いくつかの幻想とひとつきりの現実 どちらを選ぶかは自由
「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」
『1Q84 BOOK 1』 村上 春樹 P.23 -
“刻”離れ
もう何年も前から、幼稚園では「シンデレラ」の話をするのが難しいという。悪い母親がいて、二人の娘がいた。雪が降るある日、その母親は自分が産んだのではないほうの娘に向かって、「外に行って、イチゴを採っておいで」と言う。現在、初老を迎えるくらいの年齢の人ならば、そこで涙を落とすかも知れない。しかし、現在の幼稚園には、そのようなことが理解できない園児がいると言う。
コンビニは? お金を持ってないの?
11月の終わりにイチゴが並んだらクリスマスのシーズンだと思う大人たち。物語のある場面をお金に交換する子どもたち。”伝え会う”物語の内容と”刻”がどんどん離れていく。
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善く生きるために、現象の側を測ること
生きることそれ自体が価値なのではない、善く生きることだけが価値である。つねづね私は言っているけれども、しかし、ああ、これぞ人間の逆説、善く生きるためには、人は、生きていなければならない。生きることそれ自体がよいことなのではないけれども、善く生きるためには、人は、いくらいやでも面倒でも、やはり生きていなければならないのである。そも生きていないことには、善く生きることこともできないのである。
人間座って半畳、寝て一畳が宇宙。メメント・モリ
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本当に誠実である
オタクの人は一般に、平均的な人よりも、正直であり素直であるため、自分にできないかもしれないことで、「私がお力になりましょうか」などという綺麗事をけっして口にしない。綺麗事が、明るい主人公と同じくらい嫌なのだ。これは、本当に「誠実」である。自分に対して誠実だし、万が一理解されれば、相手に対しても誠実だ。こういった誠実コミュニケーションの奇跡を期待しているのかもしれない。
「オタク」という単語は傾向であり揶揄や賛美の対象ではない。僕は何かの現象に対してオタクの部分を所有しているはずだけど、それを自分で認識できていない。であったとしても、誠実コミュニケーションの奇跡を望んでいると確かに期待している。
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理由を知るべきだと思う傲慢さ
なにが「よくない」のかを探すよりも、ものごとをあるがままにみて、それで「いい」とおもってみてほしい。ものごとがなぜおこるのか、その理由をほんとうにしっている人などいるはずがない。[…..] 理由を知るべきだとおもう、その人間のこころのほうが問題なのだ。人生には謙虚さが必要だ。なぜなら、いのちは神秘であり、謎であるからだ。あらゆる真実は、そのときがくればあきらかになる。
12/10は絶対に忘れてはいけない日。その日を穏やかにすごせたからとても嬉しい。
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会話が精神と直感を作り上げる
人は精神が豊かになればなるほど、独特な人間がいっそう多くいることに気づく。普通の人たちは、人々のあいだに違いのあることに気づかない。
『パンセ』 パスカル P.13
あと何年、何十年、京津線の路面電車を眺められるか楽しみ。
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地球は何個?
地球と月の間に地球は何個入るのか。地球と太陽の間はどうか。そういった数はとても大事だ。その大きさと、そして空間の「疎」な様を、子供には是非教えたい。
「ここ」という場所が、奇跡的に存在することを、すべての基礎にすべきである。歴史を学んで戦争をする人はいても、物理学を理解して戦争をしたがる人はきっといないだろう。琵琶湖の面積670.25km2, 湖岸線の延長235.20km, 貯水量275億m3。淡水湖の大きさとして世界129番目。約400万年前に誕生し三重県から北へ移動してきた。
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ここはここ
親鸞はここで修行の「目的地」という概念そのものを否定しています。行の目的地というのはいずれにせよ現在の自分の信仰の境位においては、名づけることも類別することもできぬものである。だから、それが「どこか」を知ることはできないし、私が間違いなく「そこ」に向かっているのかどうかを訊ねれば教えてくれる人もいない。だから、目的地については論じることは無意味である。行の目的地からの遠近によって「ここ」の意味が決まるのではない。「ここ」は「ここ」である。信仰者にとって、すべては「ここ」で生起し、「ここ」で終わる。「ここ」の意味を「ここ」以外の、「ここ」より相対的に上位の、相対的に超越的な「外部」とのかかわりで論じてはならない。
『日本辺境論』 内田 樹 P.167
僕の内から外へ基準を置いたとき「外部」が現れ安堵する。外部が思考と判断を司る。自分の位置を確認しなくてよい。代償は「ここ」を失うこと。
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人の目を気にする
もう少し説明すると、「人の目を気にする」人間の大半は、「自分の周囲の少数の人の目を気にしている」だけである。そして、「人の目を気にしない」というのは、自分一人だけの判断をしているのではなく、逆に、「もっと確かな目(あるときは、もっと大勢の目)」による評価を想定している、という意味だ。それは、「今の目」だけでなく、「未来の目」にも範囲が及ぶ。それが「客観」であり、「信念」になる。
『自由をつくる自在に生きる』 森 博嗣 P.55
コレを引用している時点で僕は人の目を気にしている。