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  • 必要です

    必要です

    2013.08.29 晴れ

    謎の頭痛が封切り。何度目の上映だろ。記憶を辿ると数年前から始まって、体感的には春と秋の玄関口に立つ頃、ぐわぁ〜と膨れるような感じが続く。一ヶ月ぐらいぐわぁんぐわんと。右足と右手の痺れといっしょにこれからお付き合いしていかなければならないとしたら、麦酒の飲み残しぐらいな物憂げ。

    院内資料の仕上げやサイトの更新。ページの文章考えたり、調べ物やら。落ち着きないタスクが動き回る。

    自分と自分の奇妙な綱引きがある。なんだろ。やめたいのにやってしまう、ような感覚。左の私は「やめたい」を引き、右の私は「やる」を引く。

    別に「やめる」に限定したわけじゃなく、アンビバレントな感情の綱引き。矛盾や自家撞着みたいなカタイ系にあらず、もっとふわっとしているのに気持ちよいわけなく、たっぷたっぷの湿度な空気のくせして一降りこない焦れったさ、いやな気分。

    やめたい私とやっている私の綱引きの様子、を眺める視線。その視線の眺望点に立っている人が、私のはずなのに、いつまでたってもその私を捕まえられず尖る。実体がどこにもないのに視点だけがある私。気色と我欲の並列。

    「友達が少ないってかっこ悪いんねんけど、なんか自分に安心すんねん」(大宮エリーさん: 一言一句正確ではない)と似た安心かも。

    実体があるのは、やめたい私かやっている私。SSサイズは窮屈でMサイズなら妙ちくりん、Sサイズは在庫切れとわかった焦りと諦め。ややこしいのぉ、この同居は。

    卑近な例を思い浮かべると、酒と珈琲。やめたいと呑む、飲む。酒と珈琲は、もっとも軽い「度合」にカテゴライズされる綱引きであって、遊んでいるだけなんだろ、たぶん。

    嗜好品の綱引きは私だけの場。そこから「度合」の階層が深まり、関係が複雑に組み込まれた階層へ降りたら、どうしてよいかわからない。綱を引いているのか確かめる。さらに関わっているつもりで舞台に立ってみたところ、幕が開いてみたら、誰もいない。あっ、そうなの?! 独りパントマイムのような、独演のサイレントムービーのような階層だったら、綱引きより二個しかない金玉入れを何度もやるようなぐちゃぐちゃ。

    それでも自分なんだなぁって。ほんと自分なんだなぁって。

    誰かが このちっぽけな 僕を求めてくれたら…

    僕はもう、それでいいよ

    fra-foa – 『澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。』

    峻烈だ。完璧だ。恋愛を歌っているかもしれない。私は恋慕や情愛を超えてインストールした。

    ほんとにそうなんだ。これをようやく認められるようになった。いまやバズワードな「承認欲求」や「自己承認」の意味じゃない。小難しい術語やビジネス単語ではない。腹の探り合いじゃない。

    「必要です」のシグナル。

    「必要です」のシグナルを送信する強度と受信する感度。シンプリシティな一言。人、としてのシンプリシティな叫び。

    自分はこの一言を送受信したいんだろうなぁって思う、あの綱引きを見つめる視点の私。受信したい。受信して送り返し続けられたら、それでいいよ。

    「必要です」を素直に言える自分にいつか必ず進化したい、「必要です」を正確に受信できる感度を纏いたい。

  • 折り目

    2013.08.27 晴れ

    Stevie Wonder – A Place In The Sun を聴く。気持ちが枯れそうなとき、この歌を聴く。歌詞の陽射しを浴びて根が腐っていないか確かめる。少し腐りかけている。自分でなんとかメンテナンスしないと。閉じるべきときは閉じ、正体の知れない心がひたひた押し寄せてくる。逆らいたいのに逆らえない恐怖。自分が踏み出せばよい。

    K先生のページ制作。制作してずいぶん経ったサイトへ写真を掲載するのって難しい。いまのスタイルに合わせると、据わりが悪い。かといってサイトに合わせたら、デバイス環境がちらりよぎり、不便じゃないかしら、と。

    本に折り目をつけて読む。何度も読み返す。折り目をつけた心の接点を探す。折り目の動機を確かめられるときもあれば、不明のままもある。残像があり実像がない紙の上、安堵と探究が入り乱れる。私の感性は少し衰えたところで留まっていた安堵。新しく折り目をつける探究。いつしか折り目のページが折られていない紙をしのぐ。本を立てて上から覗けば隙間。折り目がつくった過去と現在。それが自分かもしれない。その時々で折り目をつける。折り返せない印をつける。

    本に折り目をつけないで読む。どうしてもそうしたくなる本がある。何度も読み返す。読み返す度に心の接点は異動する。襞に這い込んだ言葉は、通り過ぎようとしたら必ず引き留めて、肺腑を抉る。残像がなく実像がある字面語感。不安がさまよう。抉られなかった思いの集積を収める心の位相はどこだろう、と。折り目を確かめられない戸惑い。それが他者かもしれない。折り目をつけないのではなく、つけられない。隙間ができない過去と現在。その隙間にほんのわずかだけでも埋めてほしい我が儘な願い。

    石畳

    孟軻は「道は近きにあり、然るに、これを遠きに求む。事は易きにあり、然るに、これを難きに求む。」と残した。

    頷く自分と抗う自分。道がなければ? それとも道がないと思い込んでいるだけ?

    漫ろに書く文章。言葉は残像であり、実像になれない。なれないと言い切る羞恥。自分の非力を恥じるより言い切りたい欲求が、いまは支配している。

    果てのない想像がひとつの現実のなかで馥郁と辺りに散っていく。

  • 微睡は重力、言葉は無重力

    2013.07.20 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=jr5UVldIKLM]

    Rhymester – This Y’all, That Y’all (feat. Super Butter Dog) でスタート。音楽のリンク。アーティストと声とリズムの点在がつながっていく。RhymesterとSuper Butter Dogがシナプスで接合して興奮信号を送信してくれて、マイ歓喜。

    昼から三宮へ。16:00からネットワークの調整と院内LANのメンテナンス。不具合の原因を調べて仮説をたてて、対策を講じる。今回、仮説が正しかったと証明されて、O先生が困っていた二つの症状が同時に解決。久しぶり、こういう感じは。O先生の満面の笑みを拝見できてとても嬉しかった。

    特に今の自分にとっては心底響いた。

    17:30終了。ぶらぶら三宮、ぷらぷら真ん中、ふらふら心中。天は路面店、地は書店の砂時計をくるくるひっくり返して時を流す。食欲は皆無。海を前にビールと読書。

    昨日の大津の夕焼けと神戸の夕焼け。二日続けて淡紅から紅の階調。明日の日曜日、明後日の月曜日、夕方はやってくるのに、見逃したくない、見逃せない夕方の色直し。夕暮れが夜へ手をつなぐ刻。

    格子

    周期。波長、波形。下降は訪れる。予想できたり不意もあり。下降の底はわからない。底を迎えないまま転じるかと思えば、前の下降よりも深く落ちる。

    今回は感知。なんとなく。鵺が奈落へ連れて行く予感。降下、降下、降下、ゆっくり。高度がありそうな気配。

    落ち始めたら何もしない。

    日々のやるべきことはこなす。今回はゆっくり長く沈んでいく。ここは書けそう(かも)。暗さはない。つきあう術を習得しつつある。

    夕涼みの場から左右が男女の空間へ、時間へ。そろそろ失礼しないと。

    帰りの列車。微睡む。微睡みは言葉を浮遊させる。単語の断片や文章になりきれないフレーズ、万華鏡が眼瞼の裏側で痙攣したり、映像が浮沈。微睡みの映像は編集自由、著作権フリー、改変して自分の喜怒哀楽の色を塗り重ねる。

    微睡は重力で、言葉は無重力みたい。京都駅に到着したら覚えていない。

  • 余情が空白から余白を千木って

    2013.07.13 / 07.14 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=iqij6XLbEgE]

    Candy Dulfer – Sunday Cool でスタート。Candy Dulfer – Sunday Afternoon へつなげる。 Sax-A-Go-Go のPVを目にしてから聴き続けていて、確かめたらコレ1993年、Incognito の Positivity も1993年、両アーティストは20年耳に留まって、これからも留まる。音楽の出会いは記憶の影。

    土曜日、仕事帰りに大阪駅で途中下車。FRED PERRYへ。3連休初日の大阪。サウナに入っているみたいな空気感。人口密度が急上昇。半袖人、無袖人、半パン人、膝上上上境界線人、人々のなかに長袖私。同種ちらほら。

    耳は奇妙礼太郎@ライブビート、パブロフの私は笑みを空間へこぼして粗相しないように、笑みを下へポトポト落としていく。誰も拾うはずないから安心して落とせる、ポトポト、ニヤニヤ。うぉーっとな。

    5 Pocket Skinny Pants を購入。ひっさしぶりの買い物。サイズS、ピチピッタリ。ポリウレタン5%の効果絶大、かがんでもお尻伸びる、ウエストはまだ余ってる、んやから大丈夫(のはず)。太りません、試着室宣誓。

    コミュニケーション機能が落下傘猛スピード降下中。お店の方と、もぞもぞ、ぼそぼそ、またーり、もっさり、困ったね、ひとりで仕事しているとしゃべらんわ。

    FRED PERRY 5 Pocket Skinny Pants

    日曜日、少し先の未来がやってきた。人と会う。へんな表現。(前にも書いた)友人、友達、知人などの心中取扱説明書を青年期にどこかで置き忘れてきたのね、だからしっくり書けない。

    普通名詞に分類しない、絶対。

    話したいときに話し、笑い、毒気が抜き切れていない毒を吐き、会話を繋ぐことをまったく気にしないで穏やかに沈黙できる。心の合鍵を渡している(つもりだ)から好きなときに好きなように入ってきてゆっくりしてくれたらよい。そんなふうに思っている。

    すべての風景と言葉にピントは合わない。ピントはすべてぼんやり。だけど、「何か」が合っている、たぶん。その「何か」が自分にはもっとも大切でかけがえのないピース、だからほかのすべてがぼんやりしていても大丈夫。

    “あっ”という間に”いま”が”むかし”へ秒単位で移ろう時空を現在進行形で感じながらピースを確かめて噛みしめる。

    通り過ぎる、無意識に意識に。スクランブル交差点を見るみたいに。

    私側だけでも望む。できるだけ長く留まっていてくれたら。自分のできることを丁寧に積み重ねる、これまでも、これからも。

    余情が空白から余白を千木って明日へ渡す。「手帳に書かれた予定は未来ではない」、読み人知らずの言葉。だとしたら「未来」を期待して珈琲を飲み干した。

  • 嘘と虚構と現

    2013.06.10 晴れ
    http://www.youtube.com/watch?v=AbbBK7HeCBQ

    The Miceteeth – レモンの花が咲いていた でスタート。わざとはずして歌ってるの? って勘ぐってしまうよね。上手下手に関心ないからOK。なんていうか、ライブパフォーマンスっていうぐらいなんだから、「表現」がすべて。舞台の表現が自分に響けば、自分が気に入れば、周りが何を評論気取ろうがお構いなし。レビュアの文章読んで本買うのってあんまりしたくないから。

    第二十六候 腐草為蛍。湿度が高くなる。蛍が舞う。守山では美しい風景が見られるらしい。一度行ってみたい、という口癖は控え目に。行ってみ「たい」から”い”を取りのぞかないと。そういうことを意識して丁寧に営む道にさしかかっている。

    旬は伊佐木、縞鰺。いまや魚もファスト。”ファストフィッシュ”が貼られる。調理しなくてよい魚。魚、といってよいのかためらいつつ。レンジでよろしく、フライパンでアレンジでもどうぞ的。

    近所のスーパに限ると、魚を買う人が少ない印象。新鮮でないからかもしれない。そういえば開店してすぐの7:30ごろにいったとき、産直の魚は確かに綺麗に見えた。目利きできるわけないから、「あっ、きらきらしてる」って単に感じた程度。ああいう魚が常に並んでいたら買うだろうか? そんなことをつらつら思いなが売場をぶらつく。

    部屋から見える紫陽花の風景が日に日に変わる。驚くばかり。自然の精密なプログラム。指示されなくても法則に従って自律プログラムが機能している。雨が少ないのにどうなってるんだか不思議だけど、数日、目を離せば、変化した形に記憶が追いつかず、あわてて書き換えている。

    書店で “子供の科学 2013年 07月号 [雑誌]” 誠文堂新光社“集合知とは何か – ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)” 西垣 通 を購入。Kindleで“「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?―” 熊代 亨 を購入。

    琵琶湖

    人は最初に自分に嘘をつく。嘘とは言えない微細なごまかし。日々の私が私を見失わないための栄養補助食品。それを嘘と呼ぶか否かが、感情のきめ細かさを判定するリトマス試験紙。違うかなぁ。それだと「どっち」かだけになっちゃう。

    ほどよく摂取していれば効果を期待できる。過剰摂取は何かしら害を与えかねない。嘘と言いにくい自分につく嘘は、嘘自体が嘘になれてしまえば、自ら嘘か真か判別できなくなる。周りに害を与えかねない、と思ういつつ、ひょっとして嘘と真の淡い交わりを巧みに操る人なら周りに害を与えなかったりして?!

    事象の50%以上を嘘で繕えば嘘臭い。95%以上は真、残りの5%以下の隙間に嘘を挟み込め。そしたら嘘は消臭されそうだ。

    書きながら思いつく。嘘と虚構の差異は何ですか?

    有名人を好きになりすぎて、もうどうにもならないほど好きで好きで、すでにその有名人と自分は結婚して、生活して、子供がいて、とかまでリーチした人が世間にいらっしゃっても嘘ではない。平均的な営みからわずかにはずれてマイナな方向へ進んでいるだけだ。誰かに危害を加えてなければ、として。

    そういう場合、自分に嘘をついているの? その生活は虚構?

    さらにモノローグから脱皮して手紙を書き、私にはあなたの子供がいて名前は某で大事に育てています、な内容を送ったら、この際、受け取った側の反応は無視するとして、嘘か虚構か現実?

    気になって検索したら、“文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)” M・スコット・ペック のがあるのね。

    シンプルな単語ほど、数千年前から人を引きつけてきただな、きっと。

  • 自立は折れる自律はたわむ

    2013.06.08 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=p1oC5NxzVdg]

    dorlis – 太陽のスキャットでスタート。音でウキウキ。楽しいような切ない気持ち? で歌詞を読む。音の中からすっと耳に入ってくる単語が心地よい。目一杯歌詞に耳を傾けず、耳がどの単語を拾うか楽しんでいる。

    麦秋至や芒種。麦を表現する時期、近江八幡での刈入れを読む。大阪では紫陽花を目にする。梅雨は本当か嘘かどちらでもかまわないのに雨露が乗っかった紫陽花がやっぱり紫陽花だと欲しがる。意識への刷り込み。

    営みのなかで人々は通り過ぎる。私も誰かの営みを通り過ぎる。通り過ぎる人の数は運と行動力に比例するが、立ち止まる人の滞在時間は運と命がけだろう。

    通り過ぎ立ち止まる。選んだ役割と委ねられた役割がある。前者を演じて後者をこばむ。反対の演技もある。両方とも演じられる才能を持つ人たちも。

    寝ている時をのぞいた時間。意識ある時間。演じるコトにはまりこみ、濃密な場所と演技がぴたりとあてはまる。演じているのかどうかわからなくなる。演技と「自分」のかすかなずれを感じて戸惑い、また場所へ向かう。場所からやすらぎの私空間へかえってきても演技の熱量はへらない。服を着たまま海へはいるみたいな違和感。

    我慢か鈍感か。ここで何度もふれている「ほんとう」への強い願い。ほんとう、への願いが演じるコトと自分のズレへ招待して舞台のほころびを指さす。

    ほんとう、への感覚を鈍くする。いつかたどりつくと我慢する。必ずあると信じて演技の質をさらに磨く。どの場所にいるときに演じて誰といるときに演じているかの組み合わせは果てしなくシャッフルされて、もうどうてもよくなったら「ほんとう」は扉の鍵をわたしてくれるはず。

    グリーンファンダジア

    不断はだらしない。そう受けとめられる。煮え切らない。そのとおりだ。だけどひるがえって、断定しているコトをひたむきに睨みあったら、自分への納得がふくまれているはず。自分を納得させたい理由を探すための断定。

    わからないおぼろげな薄い膜が自分を覆う。不安。不安はいらだちとつながり、いたたまれない。「わからない」という席から立つ。

    自分を覆う膜を取り払い、すっきりした世界をみたい。あるいは相手から煮え切らない私と断定されたくない。そんな衒いを少しずつ減らす、ためらいといっしょに。

    自立は強く、自律はしなやかだ。自立は促されて、自律は促されない。自立の強さを支える心は折れる。自律を支える心はたわむ。折れた心をつなぎあわせる確信はないが、たわんだ心をまたひらたくしていける豊かさは身につけたい。

    たわみをすっと押し返してひらたくしていく作業に手をそえてくれる人。ひとりいれば充分だ。とても贅沢だと承知している。その一人の滞在時間が私の価値。

  • 不味い外食や中食に遭遇しなくなった

    2013.03.18 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=UGEbWXc5KoU]

    今朝は サニーデイ・サービス – 今日を生きよう でスタート。やわらかくぐさっと刺さるタイトル。案外、今日を生きてなかったりする。今日のはずなのに、明日以降の「予定」に惑わされる。昨日以前の記憶に彷徨ったり。

    第九候、菜虫化蝶。二十四節気の啓蟄とあわせて漢字を一瞥したら春とリンクする。10代、20代にこの単語を知っていたとしても、何も感じなかったし無関心だろう。歳をとるにつれ天気が気になる。これがなぜかまだわからない。気になる瞬間の自分を知覚してみたいけれど、習慣化されているのでなかなか「瞬間」を外から眺められるような場所を自分の中で発見できず。

    SNSで写真を眺めているとおもしろい。特にスマートフォンで撮影された写真。

    視点と視線。

    季節を切り取る視点、自然の変化を察知する視点、街並みの眺める視点、空を見上げる視点。それぞれの視点がおもしろい。視線が向かう先へカメラを構える。カメラを起点にすれば、望遠と広角の視点がある。「見たまま」撮影する人もいらっしゃる。ディスプレイの写真をスライドさせ、自分の視点との差異を認識する。

    琵琶湖

    たまに外食や中食を利用したとき、不味いものを口にする確率が低くなった。自分の味覚が鈍ってきているからそう思える。食品添加物や原材料を気にする人は、外食や中食を利用しないかもしれないが、僕は、一周回って(直径はずいぶん小さいけれど)、そのへんを気にしなくなり、食べたい物を食べている。

    15:00にミーティングが終了して、京都まで移動しようとしたら小腹が減った。だいたい15:30から16:00の間に小腹が減る。大阪駅のハートインに立ち寄り店内を物色、「おやつのパン」とラベルが貼られた小さなパンを見つけた。あんパンの形で、中はチョコレート。大きさはゴルフボール1.5個分ぐらい。小さいパン。67円。ためしに買ってみた。おやつにほどよく、不味くない。

    (非常に下品な表現なんだけど)コストパフォーマンスがよいかわるいか判定しないけれど、これで夕食までお腹がもつからありがたい。

    豊かさを実感した。

    冬に体重が減少する。いまは54.7kg。数年間からの傾向に気づいた。筋肉の量が減少していると憶測している。実感がある。足がおかしい。うまく表現できないけれど、冬から春にさしかかる今頃、足の力がはいらない。ふるえながら歩いているみたいで、下半身が弱くなっているようだ。

    こうやって自分で勝手に解釈して、これではいけないと奮い立ち、歩くか、走るか、山へ行くか、水へ向かうか、何かしらの運動しはじめるのだろう。まったく何もしないかもしれない。自分がどうなっていくか楽しみだ。

    人はなかなか変わらない、という人は、その人自身が変わっていないからそう言いきるだけだ。もっとも主観の見方をあたかも客観的に言い換えているにすぎない。

    36歳の僕が、5年後に詩集や絵本や子供の科学を読み、花鳥風月を感じたいと願うなんて想像しなかった。想像力が貧しかったとしても、そういうものだと思っている。

  • 感情が傍若無人を隠す

    2013.03.07 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=lCnJujje-pM

    今朝は The Miceteeth – 素晴らしい日々 でスタート。なんかね、懐かしい。SKAのリズムと声が。「素晴らしい日々」だと錯覚できるのは自分だけ。生きていく上で、錯覚して勘違いして妄想するってとてもとても大切です。私は、それしかないぐらい、錯覚の精度を向上させることに腐心しています。

    もうすぐ二年。報道のボリュームが関西でもやや増えている。きっかけがあって生の声にふられるようになってから、関西から報じられる内容にしっくりこない。表層しかフォーカスできないのでしょうがないな。生活の声は生々しく、苦しく、茫々としていると想像する。

    あの日の数日後から夕食の前に手を合わせるようになった。それも習慣になったと油断したら、うっかり二日連続で忘れる。そんなとき、自分に苛立つ。

    デバイスからプッシュされてくる二次元の映像と音声の情報は感情を刺激する。だが、プッシュの情報が途切れたら、翌日から自分の生活が始まる。プッシュされた情報はストックされず流される。そのとおり。頷いた。だから自分を律しなければならない。忘れるなんてありえないし、自分がやれることを探して動き出す。

    デバイスの上で眺める二次元の映像と音声か、テキストの情報に麻痺している。麻痺を知覚できない。麻痺したまま情報にアクセスする。情報を理解できたら我の中でのコトはおしまい。はじまってもいないし、おわってもいないのに。事象のそのものではなく、事象をパッケージしている情報に喜び落ち込む。

    琵琶湖

    12:00前に大阪へ出発。やっぱり頭が痛い。この時期から1ヶ月ほど頭痛が続く。数年前から毎年。億劫。ずっと続くかと思えば、途切れ途切れもある。ひどくない。重い。ときおりぼんやりしたり。

    大阪に到着したら環状線が止まっていた。何かあったらしい。最近、JRの遅延に遭遇する機会が増えた。確率と統計を分析する知能があれば、たまたまにすぎないのに、遅延が重なると、増えたと勝手に思い込む。そういうものだなっていつも自分の頭の悪さを認識する。

    13:40からDHだけのミーティング。事前に準備していることをかならずできるとはかぎらない。その場がもたらす偶然性が、やらなければならないことを変えてしまう。

    職務と職域がある。二つが構成する円の中に私は働いている。他者は別の円にいる。私の円と他者の円、二つの円は交わる。完璧に一致しない。交わっている部分と交わっていない部分がある。「交わっている部分」だけが協働だと思い込んでしまう。交わっていない部分が「見えない」からだ。

    総務の業務を把握して自分の仕事を全体のタスクフローにはめ込む。全体の業務ができるだけ遅滞なく進行するよう自身の職務と職域を調整する。全体と個だと思う。が、そんな理屈は通らない。自身の職務と職域を優先する。なかには自分の職域と職務だけで働く傍若無人もいる。傍若無人が一定の割合で必要な場合も否定できない。

    何をやっているかわからない。もし、「そんなわけない」と思ったら、そういう全知全能の類い希な能力を備えた人はいるんだろう。何が交わっていないか、「話し言葉」で考えるよりも、話し言葉を「絵」に変換して翻訳すると、一目瞭然である。そのとき、なぜ交わっていないか、が認識できて、そこから「問題」を設定できる。

    外部から観察する。疑問点を伝達する。遠慮せず率直に疑問点を提示し、「組織の感情」が隠している「コト」を描写する。これが僕の役割と認識している。

  • 毎日、鏡で顔を眺めてください

    2012.10.30 晴れ時々小雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Vj99mKu8EGQ]

    今朝は 福原美穂 – 絶え間なく でスタート。「何度となく繰り返す人と人の言葉をあなたはどう思って見ているでしょう?」ってフレーズはステキだな。聴いている瞬間の情感があたまの感じ方を己に与えてくれる。いまの邦楽の歌詞は具体的な出来事、具体的な内容を歌詞にまとめている印象で、もう少しぼやかしてもよいのでは?って感じるときも。

    平日の昼間、近所を歩くとき意識する。こざっぱりした服装を着ているつもりで歩いても、誰かが僕を見た時、「時間」「年齢」「空間」×「不安」「疑心」「伝聞」が僕の印象を査定する。子供が前から近づいてくると神経をとがらせる。寂しいと察するが両立する。親御さんの立場を想像すれば、世間が自分を見る眺望点へ近づける。

    こういうとき、ひとりで仕事をするようになってよかったと感じる。一般的なサラリーマンを続けていたら、近づけなかった眺望点だ。ライブへ行くバンドのギターリストの方は、東京で職務質問を頻繁に受けるとブログに書き、ライブのMCでしゃべる。それがおかしい。身体感覚で理解できるから爆笑してしまう。

    身体にはよくないと思いつつなるべく外出しないようにしたら、外で目にするポイントが変わる。変化を感じ取れるようになってきた。といってもわずかに感じ取れるだけ。元来の鈍感が劇的に改善されるわけではない。この間まで、と思うことがしばしば。大阪駅周辺の変貌に毎度驚く。

    「この顔、結構気に入ってるんですよ。見慣れると可愛いんです。50年間も同じような顔を見てきたんですが、この何週間かは別の顔を見ているわけで・・・・・・。『お、ちょっと愛嬌があっていいじゃねぇか』って。皆さんも毎日、鏡で顔を眺めてください。必ず(体調の)変化に気づくはずです。健康であってください」

    落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」 | スポーツ | 現代スポーツ | 現代ビジネス [講談社]

    あらためて見ているかなと思う。僕の中ではこの文章と “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ の自己マスタリーがリンクする。

    「みんな企業に入るときは、頭が冴え、学問があり、活力にあふれている。人とちがうところを見せてやろうとやる気満々だ。でも三〇歳になるころには、わずかの人間が、”出世コース”に乗り、残りの者は週末に好きなことをするために、”勤務時間を適当に過ごす”。熱意も使命感も、新人のころの覇気も消えてしまう。仕事に注ぐエネルギーはほんのわずか、やる気なんてないも同然だ」

    “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ P.15

    私の顔貌を見ているか。私に対して適当に過ごしている。自分に固着して、自分に執着して、私を練り上げていく覇気を失っている。そんなふうに己を眺める。もっと私を自分から切り離して己を冷静に分析したい。

    己を分析する手本(“死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策)に出会い、「死を忘れた幸福感」の一節を読む。世間と己に寛容でなければ己を冷静に分析できない。

    近代産業の生産過程は、高能率という一点に集中される。生産過程の基礎をなすのは、つねに高能率を保つ健康なる機械である。その意味で、近代における生産機構は、つねに、健康である。健康で、フルの能率で活動していることを常態とする。そこで働く人々は、機械と同じように、最高の能率で働きうることが、前提とされる。(中略) 近代社会は、このような近代的生産機構の歯車の回転にピッチをあわせ、形成されている。近代社会は、性格上、健康な人間だけを標準にしてでき上がっている社会である。このような社会が、健康だというのではない。そこに参与することを許される人々は、すべて、能率のよい健康者に限る社会だということである。

    “死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策 P.139

    分業は思考の断片化と部分化をもたらした。いまは「あるひとつの仕事の全体」をひとりですべてまかなえるのはめずらしい。かぎられた人かかぎられた職にだけ「あるひとつの仕事の全体」があるとしても、ほとんどは分業組織になっている。「あるひとつの仕事の全体」を分けたとしても、それに取り組んでいるときは、「全体を眺める」はずが、いつしか目の前の分業が全体になった。いったい「全体」はどこにあるかわからなくなり、思考が断片化・部分化していく。

    平日の昼間、スーツで歩く男性は「健康」であり、二、三日剃らないひげ面で私服を着て歩く人は「不健康」かもしれないと断片化される。たぶん、逆転する土地もあるはずだ。平日の昼間にスーツで歩いていたら奇異に映り耳目を集めるような場所。だからどちらが正しいとかではなく、どちらかに所属しているかだけなんだけど、断片化された片側はもう片側に対して寛容でなくなり、感情の一線が越えると攻撃する。言葉でなら簡単に攻撃できるから、数百キロ離れた土地で起きた出来事に腹を立て、電話や書き込んだりして誹謗中傷する。身体を動かしてその場へ赴き感じることを咀嚼する時間を持たず、遠い「出来事」に触れた瞬間に身体から言葉が乖離して、言葉が闊歩して、言葉に触れた人が言葉に精神を揺さぶられ、言葉で切り返す。

    そっとしておく、というもっとも冷徹で残酷であり優しいふるまいをさりげなくできたらよいな。

  • 毎日昨日までをリセットする意識

    2012.10.18 雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Gs8QvoeCMDs]

    今朝は チャットモンチー – コンビニエンスハネムーン でスタート。コンビニフリークではないですが、このPVはコンビニへウキウキさせてくれて、「日本生まれ、日本育ち」から「地球生まれ、地球育ち」へがコピー的にはキタって感じの、僕も日本酒はあんまり飲めないからピッタリ、つまるところ日本人で地球人で宇宙人で、なんでもよいんだよ、自分はワタシだからって、ほっこり、今日も戦おう。

    第五十一候、蟋蟀在戸。ツヅレサセコオロギらしい。といってもどんなコオロギか知らない。知らないから検索したら画像が一瞬で表示される。ほんの30年前にはありえなかった環境だ。旬は魳とのこと。「一寸ごとに味が変わる」といわれ、大きさによって開き干し、塩焼きや煮つけ、そして刺身へと料理を変えたら美味いという。おもしろい。

    月曜日、水曜日とF先生の資料作りのためにいろんなサイトやデザイン、コピーを検索した。検索しているときの自分はイヤだ。何も生産していないからまったく仕事していないみたいだし、ずっと同じ姿勢で座っているから身体が冷凍された感じ。火曜日に立ち仕事とPCの設定が重なったせいか、背中がボロボロ。背中の痛みはつらい、こわい。

    フリーランスになって9年になろうとしている。火曜日にKさんと話していて、片端になったとあらためて感じた。組織を外から観察する視点を見つけられたかもしれないが、自分を律することが難しくなり頭が固くなった。自分の思いや考えは他人へ伝わりにくい。その言葉を理解できたとしても、身をもって知り改めるのはよほど己を冷静に分析しなければならない。己の思惑を切り離して己を他人のごとく始末する。

    自分ではあたりまえにしているつもりでも、他人からは気まぐれに映ることはあるし、その逆もある。野菜がひとつもはいっていない買い物かごを見て、野菜をあまり食べないのかしら、と受けとめる人もいる。そのとき見た光景を知っている言葉と文脈でしか解釈しなしてく、フレームの外側にある”もしかして”はそもそも思い描かない。

    たぶん誰かと向き合うというのは、知っていることを確認したり、知っている単語を披露するとか、勉強した知識を開陳する、なんてではまったくなくて、僕のフレームの外側を手探りしていく作業なんだ。

    INTERVIEW 「正常」とは何ですか?:伝説の精神病院「ラ・ボルド」で写真家・田村尚子が写した問いかけ « WIRED.jp はフランスのなかでも特殊だという断りを入れているが、それを差し引いても、「正常」とは何ですか?と突き刺さる。意味を定められない・できない質問は、それ自体が完結した閉じられた質問である。その質問なのに突き刺さる。”時々、私を朦朧とさせる疑問…「おかしいのは私なのか、彼らなのか」(アインシュタイン)”もまたそのとおりであり(ただこの言葉だけを前後の文脈から抜き取っているから解釈の幅を広げないと危なっかしいけど)、「誰と接するにしても距離感を測るのがとても難しい」(リンク先の本文)。

    カッコーの巣の上ででジャック・ニコルソンは、「精神科の学会の集まりなんだ」と言って、一人一人の名前に「博士」の冠をつけて紹介するシーンは、映画と識別しているはずなのに、なんだか現実のほんとうのできごとのように見えてしまい、どちらが正常で異常か判別できなくなるようなとまどいがあった。

    私は道理にしたがってまっとうにふるまっていると思っていても、他人はそのとおりに受けとめない。自己評価を世間にすりあわせるなんて愚にも付かない行為と認識しても、他人の評価と自分の評価の接点をなかなか見つけられない。「怒鳴っても人間は変わらない!」史上最悪の工場を変えたシンプルな教え : ライフハッカー[日本版] わけだし、では褒めたらよいかとなれば、“その科学が成功を決める (文春文庫)” リチャード ワイズマン にある「ほめる教育」の落とし穴だってある。

    そうやってあれこれ思い悩み、苛立ち、もがき苦しんでいると、たぶん己に帰ってくるときがある。ぐるり一回りにして我に返る。そのとき、「自分」は私から切り離され、自分が他人に与えたふるまいが、俯瞰した眺望点から見たら、誤解されても仕方がなかったと理解できる。そして理解してからが苦行なんだろうなぁって想像する。

    ある日、急にふるまいかたを変えたら誰だってどうしたんだろうって思うし、どうせ長く続かないだろうと思われる。すべての人が朝目覚めた時に昨日までのふるまいをリセットしてくれるような意識の仕組みだったらとたまに妄想して自慰する。