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  • “自分ごと”の射程距離

    2013.09.01 雨時々曇 時折強風

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=ZmORcOP715I]

    Mountain Mocha Kilimanjaro – Don’t Touch, Just Watch Me でスタート。大好きやわ。スライやらファンク系が大好きだから、このナンバは自分的にはそこへ遡っていけそうで、脳髄が陶酔。

    土曜日、日曜日と午前中は仕事。午後からは読書や調べ物など。平日はせわしない、茫々と時間を失っていくので、まとめや気になっていることは週末にかためて事あたるときも。

    TwitterのリストやRSS、関連サイトを回る。素人へかみ砕いてセットしてくださるtweetなので、とてもありがたい。RTやリンク先のサイト、関連サイトは英語が混じっているから、目を通すのがきつい。わからん。ウェブ制作系のページはおおざっぱに読めても、それ以外は皆目。

    9年ほど前に遭遇したあるブログのおかげだ(師匠と勝手に思っている)。学ぶことをブログから教わっている。出来事を確かめる。何が起きているのか。追いかけ続ける一方で、師匠ほど多方面に関心を持てない、追いかける気持ちを維持できないことのほうがはるかに多い。

    関心を持てない自身へじれったがる時間はもう残されていない。自分が「しなければならない」と感じた事柄を追いかける。

    『被災地の今を知っていますか?』を視聴した。冒頭、釜石からの中継。先生がおっしゃった「想定にとらわれるな」が現地と重なって刻み込まれた。先生の隣で話してくださった女子高校生(当時中学生)に未来を強く期待した。旅館経営の女将さん(中継)と宮城県の方(スタジオ)の会話を見入った。記憶しなければならないと思った。

    “福島軍団”って言われた、とつぶやく女の子。親として子供を守りたい、とのお母さん。

    ぐらぐら揺さぶられるけれど、揺さぶられるのは後からでいいと言い聞かせて凝視した。時間がかかることとすぐできること。待ちきれない人々がいる現実。「もうどうしていいかわからん」。

    関西では報道が減っている(と思う)。阪神淡路大震災のときは、と振り返りながら、河北新報と福島民報、Twitterなどに目を通したとしても、もっともっと「ある」んだろうなぁと思う。

    もっと知りたい。自らも知りますから、これからもお願いします。

    果てない思いと尽きない考えがぱんぱんに詰められて出演なさり、制作していらっしゃると想像する。制作への思いの丈を上回る悩みに囚われたとしても、「いま」と「これから」を率直に放送してほしい。うまくいえないな。

    Facebookを使う人なら誰もが使ったことのある”いいね!”ボタン。クリック一つで共感を示すことは簡単ですが、本当にその課題について”自分ごと”として向き合っているのか、ハッとさせられますね。

    「いいね!」で人は救えない。もう一歩先のアクションを啓発するソーシャルキャンペーン | greenz.jp グリーンズ

    何もできない私と何かしたい私の間にある”自分ごと”の感覚。

    “自分ごと”の射程距離をのばす。ある事柄へ目を向ける。小さくて細い糸。その糸を発見して手元へたぐり寄せる。すぐに見つからない、すぐにたぐり寄せられない。師匠のブログを読み続けて、そう感じる。

    糸をたどって関わって係わるために手足を動かす。

    どれだけ書いても、”自分ごと”を表現できない。言い表す事柄ではないかもしれない。でも銘記する。

    被災地を知り、たぐり寄せられる小さくて細い糸を探す。たぐり寄せる行為に自分を満足させるんじゃなくて、誰かへできることを整えて行う。

    フリーランスになって痛切にわかった。続けることの難しさ。続けることはほんとにほんとうに難しい。この仕事は続けられないけれど、被災地を知り続けて、できることを少しずつやり続ける。被災地の方々から食べ物を買うのに加えてまだできることがある。

    続けるために、知らなければならない。触れなければならない。もっと知りたい、教えてほしい。先生がおっしゃっていた二つめの「風化」を私は知り続けたい。

  • 必要です

    必要です

    2013.08.29 晴れ

    謎の頭痛が封切り。何度目の上映だろ。記憶を辿ると数年前から始まって、体感的には春と秋の玄関口に立つ頃、ぐわぁ〜と膨れるような感じが続く。一ヶ月ぐらいぐわぁんぐわんと。右足と右手の痺れといっしょにこれからお付き合いしていかなければならないとしたら、麦酒の飲み残しぐらいな物憂げ。

    院内資料の仕上げやサイトの更新。ページの文章考えたり、調べ物やら。落ち着きないタスクが動き回る。

    自分と自分の奇妙な綱引きがある。なんだろ。やめたいのにやってしまう、ような感覚。左の私は「やめたい」を引き、右の私は「やる」を引く。

    別に「やめる」に限定したわけじゃなく、アンビバレントな感情の綱引き。矛盾や自家撞着みたいなカタイ系にあらず、もっとふわっとしているのに気持ちよいわけなく、たっぷたっぷの湿度な空気のくせして一降りこない焦れったさ、いやな気分。

    やめたい私とやっている私の綱引きの様子、を眺める視線。その視線の眺望点に立っている人が、私のはずなのに、いつまでたってもその私を捕まえられず尖る。実体がどこにもないのに視点だけがある私。気色と我欲の並列。

    「友達が少ないってかっこ悪いんねんけど、なんか自分に安心すんねん」(大宮エリーさん: 一言一句正確ではない)と似た安心かも。

    実体があるのは、やめたい私かやっている私。SSサイズは窮屈でMサイズなら妙ちくりん、Sサイズは在庫切れとわかった焦りと諦め。ややこしいのぉ、この同居は。

    卑近な例を思い浮かべると、酒と珈琲。やめたいと呑む、飲む。酒と珈琲は、もっとも軽い「度合」にカテゴライズされる綱引きであって、遊んでいるだけなんだろ、たぶん。

    嗜好品の綱引きは私だけの場。そこから「度合」の階層が深まり、関係が複雑に組み込まれた階層へ降りたら、どうしてよいかわからない。綱を引いているのか確かめる。さらに関わっているつもりで舞台に立ってみたところ、幕が開いてみたら、誰もいない。あっ、そうなの?! 独りパントマイムのような、独演のサイレントムービーのような階層だったら、綱引きより二個しかない金玉入れを何度もやるようなぐちゃぐちゃ。

    それでも自分なんだなぁって。ほんと自分なんだなぁって。

    誰かが このちっぽけな 僕を求めてくれたら…

    僕はもう、それでいいよ

    fra-foa – 『澄み渡る空、その向こうに僕が見たもの。』

    峻烈だ。完璧だ。恋愛を歌っているかもしれない。私は恋慕や情愛を超えてインストールした。

    ほんとにそうなんだ。これをようやく認められるようになった。いまやバズワードな「承認欲求」や「自己承認」の意味じゃない。小難しい術語やビジネス単語ではない。腹の探り合いじゃない。

    「必要です」のシグナル。

    「必要です」のシグナルを送信する強度と受信する感度。シンプリシティな一言。人、としてのシンプリシティな叫び。

    自分はこの一言を送受信したいんだろうなぁって思う、あの綱引きを見つめる視点の私。受信したい。受信して送り返し続けられたら、それでいいよ。

    「必要です」を素直に言える自分にいつか必ず進化したい、「必要です」を正確に受信できる感度を纏いたい。

  • 自立は折れる自律はたわむ

    2013.06.08 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=p1oC5NxzVdg]

    dorlis – 太陽のスキャットでスタート。音でウキウキ。楽しいような切ない気持ち? で歌詞を読む。音の中からすっと耳に入ってくる単語が心地よい。目一杯歌詞に耳を傾けず、耳がどの単語を拾うか楽しんでいる。

    麦秋至や芒種。麦を表現する時期、近江八幡での刈入れを読む。大阪では紫陽花を目にする。梅雨は本当か嘘かどちらでもかまわないのに雨露が乗っかった紫陽花がやっぱり紫陽花だと欲しがる。意識への刷り込み。

    営みのなかで人々は通り過ぎる。私も誰かの営みを通り過ぎる。通り過ぎる人の数は運と行動力に比例するが、立ち止まる人の滞在時間は運と命がけだろう。

    通り過ぎ立ち止まる。選んだ役割と委ねられた役割がある。前者を演じて後者をこばむ。反対の演技もある。両方とも演じられる才能を持つ人たちも。

    寝ている時をのぞいた時間。意識ある時間。演じるコトにはまりこみ、濃密な場所と演技がぴたりとあてはまる。演じているのかどうかわからなくなる。演技と「自分」のかすかなずれを感じて戸惑い、また場所へ向かう。場所からやすらぎの私空間へかえってきても演技の熱量はへらない。服を着たまま海へはいるみたいな違和感。

    我慢か鈍感か。ここで何度もふれている「ほんとう」への強い願い。ほんとう、への願いが演じるコトと自分のズレへ招待して舞台のほころびを指さす。

    ほんとう、への感覚を鈍くする。いつかたどりつくと我慢する。必ずあると信じて演技の質をさらに磨く。どの場所にいるときに演じて誰といるときに演じているかの組み合わせは果てしなくシャッフルされて、もうどうてもよくなったら「ほんとう」は扉の鍵をわたしてくれるはず。

    グリーンファンダジア

    不断はだらしない。そう受けとめられる。煮え切らない。そのとおりだ。だけどひるがえって、断定しているコトをひたむきに睨みあったら、自分への納得がふくまれているはず。自分を納得させたい理由を探すための断定。

    わからないおぼろげな薄い膜が自分を覆う。不安。不安はいらだちとつながり、いたたまれない。「わからない」という席から立つ。

    自分を覆う膜を取り払い、すっきりした世界をみたい。あるいは相手から煮え切らない私と断定されたくない。そんな衒いを少しずつ減らす、ためらいといっしょに。

    自立は強く、自律はしなやかだ。自立は促されて、自律は促されない。自立の強さを支える心は折れる。自律を支える心はたわむ。折れた心をつなぎあわせる確信はないが、たわんだ心をまたひらたくしていける豊かさは身につけたい。

    たわみをすっと押し返してひらたくしていく作業に手をそえてくれる人。ひとりいれば充分だ。とても贅沢だと承知している。その一人の滞在時間が私の価値。

  • 毎日、鏡で顔を眺めてください

    2012.10.30 晴れ時々小雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Vj99mKu8EGQ]

    今朝は 福原美穂 – 絶え間なく でスタート。「何度となく繰り返す人と人の言葉をあなたはどう思って見ているでしょう?」ってフレーズはステキだな。聴いている瞬間の情感があたまの感じ方を己に与えてくれる。いまの邦楽の歌詞は具体的な出来事、具体的な内容を歌詞にまとめている印象で、もう少しぼやかしてもよいのでは?って感じるときも。

    平日の昼間、近所を歩くとき意識する。こざっぱりした服装を着ているつもりで歩いても、誰かが僕を見た時、「時間」「年齢」「空間」×「不安」「疑心」「伝聞」が僕の印象を査定する。子供が前から近づいてくると神経をとがらせる。寂しいと察するが両立する。親御さんの立場を想像すれば、世間が自分を見る眺望点へ近づける。

    こういうとき、ひとりで仕事をするようになってよかったと感じる。一般的なサラリーマンを続けていたら、近づけなかった眺望点だ。ライブへ行くバンドのギターリストの方は、東京で職務質問を頻繁に受けるとブログに書き、ライブのMCでしゃべる。それがおかしい。身体感覚で理解できるから爆笑してしまう。

    身体にはよくないと思いつつなるべく外出しないようにしたら、外で目にするポイントが変わる。変化を感じ取れるようになってきた。といってもわずかに感じ取れるだけ。元来の鈍感が劇的に改善されるわけではない。この間まで、と思うことがしばしば。大阪駅周辺の変貌に毎度驚く。

    「この顔、結構気に入ってるんですよ。見慣れると可愛いんです。50年間も同じような顔を見てきたんですが、この何週間かは別の顔を見ているわけで・・・・・・。『お、ちょっと愛嬌があっていいじゃねぇか』って。皆さんも毎日、鏡で顔を眺めてください。必ず(体調の)変化に気づくはずです。健康であってください」

    落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」 | スポーツ | 現代スポーツ | 現代ビジネス [講談社]

    あらためて見ているかなと思う。僕の中ではこの文章と “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ の自己マスタリーがリンクする。

    「みんな企業に入るときは、頭が冴え、学問があり、活力にあふれている。人とちがうところを見せてやろうとやる気満々だ。でも三〇歳になるころには、わずかの人間が、”出世コース”に乗り、残りの者は週末に好きなことをするために、”勤務時間を適当に過ごす”。熱意も使命感も、新人のころの覇気も消えてしまう。仕事に注ぐエネルギーはほんのわずか、やる気なんてないも同然だ」

    “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ P.15

    私の顔貌を見ているか。私に対して適当に過ごしている。自分に固着して、自分に執着して、私を練り上げていく覇気を失っている。そんなふうに己を眺める。もっと私を自分から切り離して己を冷静に分析したい。

    己を分析する手本(“死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策)に出会い、「死を忘れた幸福感」の一節を読む。世間と己に寛容でなければ己を冷静に分析できない。

    近代産業の生産過程は、高能率という一点に集中される。生産過程の基礎をなすのは、つねに高能率を保つ健康なる機械である。その意味で、近代における生産機構は、つねに、健康である。健康で、フルの能率で活動していることを常態とする。そこで働く人々は、機械と同じように、最高の能率で働きうることが、前提とされる。(中略) 近代社会は、このような近代的生産機構の歯車の回転にピッチをあわせ、形成されている。近代社会は、性格上、健康な人間だけを標準にしてでき上がっている社会である。このような社会が、健康だというのではない。そこに参与することを許される人々は、すべて、能率のよい健康者に限る社会だということである。

    “死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策 P.139

    分業は思考の断片化と部分化をもたらした。いまは「あるひとつの仕事の全体」をひとりですべてまかなえるのはめずらしい。かぎられた人かかぎられた職にだけ「あるひとつの仕事の全体」があるとしても、ほとんどは分業組織になっている。「あるひとつの仕事の全体」を分けたとしても、それに取り組んでいるときは、「全体を眺める」はずが、いつしか目の前の分業が全体になった。いったい「全体」はどこにあるかわからなくなり、思考が断片化・部分化していく。

    平日の昼間、スーツで歩く男性は「健康」であり、二、三日剃らないひげ面で私服を着て歩く人は「不健康」かもしれないと断片化される。たぶん、逆転する土地もあるはずだ。平日の昼間にスーツで歩いていたら奇異に映り耳目を集めるような場所。だからどちらが正しいとかではなく、どちらかに所属しているかだけなんだけど、断片化された片側はもう片側に対して寛容でなくなり、感情の一線が越えると攻撃する。言葉でなら簡単に攻撃できるから、数百キロ離れた土地で起きた出来事に腹を立て、電話や書き込んだりして誹謗中傷する。身体を動かしてその場へ赴き感じることを咀嚼する時間を持たず、遠い「出来事」に触れた瞬間に身体から言葉が乖離して、言葉が闊歩して、言葉に触れた人が言葉に精神を揺さぶられ、言葉で切り返す。

    そっとしておく、というもっとも冷徹で残酷であり優しいふるまいをさりげなくできたらよいな。

  • 視線と視点

    2012.08.23 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=IT6vHgHIF9o]

    今朝は MIWA – ヒカリヘ でスタート。ラジオで知った歌。

    二十四節気、処暑。太陽の黄経は150度。新涼近しといわれるが、体感はまだ通し。第四十候、綿柎開。綿を包んでいた萼(=柎)がはじけ中からふわふわした綿毛に守られた種が飛び出す。見た目が鰤に似た平政。猛スピードで泳ぐ魚は鰤より脂が少ない。スーパであまり見かけないので照り焼きが食卓にお目見えしない。

    前日、先生のご自宅でお酒をいただきすぎたためか、睡眠不足か、午前中のCPUは省エネモード。なので、サーバのメンテや雑務を片付ける。午後からF先生の資料制作。作成した資料を読み返し、コレを渡すときの状況を想像しながら、もう少し削るか、足すか悩む。まだ作成していない資料についてIllustratorを使うかどうかもあわせて熟慮。

    皇子山球場付近

    立っている状態から座る。視線の高さや位置が変わる。天橋立を逆さで見るみたいに股の間から景色をながめたら構図は変わる。視線の構図や位置、高さを変えたいなら自分の身体を自由に動かしてみたらよい。手軽だし、子供や老人の目の高さを味わえる。高さが変われば気になるポイントが移動することだってある。

    あくまで疑似体験だし、僕が視線の変化をあらかじめて想定して意図的に変化させているから偶然からはほど遠い。だけど、視線はわりと思うように軽やかに変えられる。

    視線と視点の差異ってなんだろうか? 現場を体感したときに感じる疑問。言葉が構成する意見について視点をかえて考察してみようとか、相手の立場になってとか、いう。視点を変えるのは難しい。

    視点を変えられる範囲が一定の距離だとしたら、その距離の外側にある「視点」を僕は知らない。知らない視点から事実を把持できるかしら。

    視線は視点が固定されなければ、外界の光点と網膜上にあるこれの像とをつなぐ直線がひけない。だから、視線と視点の差異は、前提が間違っているんだなぁって自問自答してみたり、差異よりも関係を問題に設定したほうが次へ展開できるかもしれない、って淡い望みを抱きつつ。

    濃密にまじわっている関係が構築した環境のなかには、「よく使われる言葉」と「よくあらわれる文脈」があって、二つを余所の環境にインストールすれば不具合が生じかねない。言葉と文脈の使用者がそれを承知で二つを使っているんだったら、周りは沈黙していたらよい。

    ただ、Aという関係が構築した世界に存在する「よく使われる言葉」と「よくあらわれる文脈」とBという関係が構築した「よく使われる言葉」と「よくあらわれる文脈」の位相が並行世界ぐらい交わらず、かつ、ある人が両方に所属していたら、ときに慎重にしばしば素直にたまに大胆に言動を選択すべき、と僕は考える。

    それは、関係を持つ人々に課せられるテーマで、僕はBとCに所属していたら同じ作法を身につけたい。でなければ、たぶん、分かち合えない。

  • 下手なインタビューは相手の怒りを買う

    2012.07.31 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=QJO3ROT-A4E]

    今朝は One Direction – What Makes You Beautiful でスタート。5人組らしいけど、日本ならどんな位置づけなんでしょう。アイドル? 某巨大音楽会社の稼ぎ頭? ついつい「英語」だと夢想してしまいがちですが、自国の座標軸と比較できたらイメージしやすくなるね。

    第三十五候、土潤溽暑。陽炎立ち上がり。アスファルトの熱気。いくつかの銷夏法をためしたところで焼け石に水ではあるまいか、とくじけそう。緑ますます濃く、蝉が鳴き始める。蝉も暑かろう、昼に鳴き声は聞こえない。

    苦瓜を買いチャンプルで食す。あぐー豚と炒める。食材がそろえば炒めたらよいのでありがたい。フライパンの熱気には閉口するが。味付けはだしとめんつゆ。

    午前中、M先生のサイトを制作。少しはやめのランチをすませ正午過ぎに出発。Kさんと営業。また同行してもらった。今回は滋賀の遠方だ。

    14:00すぎに拝顔して15:15頃に終了。自分の稚拙なインタビューにため息。もっと深く掘りたかったが、だめだった。掘り出すための最適な質問を思い浮かべられなかった。想定していた質問と定型の質問は投げかけられても、それらが紡いだリアルタイムの回答から重層的に展開できるキーワードや文脈を見つけて質問を繰り出せなければ、良質なインタビューにならない。

    今回のインタビューは「お話しを伺った」だけになってしまった。Kさんにも申し訳ない。合間に何度か質問をはさんでフォローしてくださった。フォローしなければならない情況を僕がつくってしまってはダメ、Kさんは観察に徹してもらわないと。あとから観察の結果を伺う。周囲を焦らせている、話に臨場感がなく、停滞しているから傍観者がフォローを入れなければならない。

    17:00まえに京都駅に到着。30分ほどお話しして、Kさんは次の会合へ。Kさんの人脈づくりに感服。僕には到底まねできない。Kさんの言動から人脈の価値と威力を痛感する。人脈を形成するために東奔西走する姿をおりにふれ拝見してきた。経営者はKさんがいれば心強いし、安心できるだろう。

    大企業や官公庁と違って、人脈の形成に雛形やシステムはない。洗練された「やり方」はない。中小企業や小規模の組織は暗闇の中を自分の感性を頼りに探し回り、自分のスタイルを身につけなければならない。だけど、周りはそう見ない。レールが敷かれていて、レールの上に自分をのせれば、あとはお客さんのもとへ連れて行ってくれて営業できる、と思っている。だからレールが敷かれていないと認識したら、「システムがない」「拠点がない」「組織的な営業ができない」を連呼する。もとより「組織的な営業」は幻想だと思う。

    父親が某大手の生命保険会社の営業をやっていた。定年退職してからほんとうの営業の話を聞いたとき、営業の地獄と真髄を知った。紹介やルートセールス、飛び込みでもない営業。ほぼ無から自分の才覚ひとつで「拠点」をつくりあげる営業。売上の中核を担うように拠点を育てる営業。

    Kさんはサバイブできる。氏のような仕事のやり方を身につけていらっしゃる方は、才覚と人脈と技術の3つを携えて組織の栄枯盛衰にかかわりなく生き残る。反面、僕の生き残る能力は低い。これからでも遅くないと信じて身につけていかなければならない。

    “友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学” ロビン ダンバー がAmazonから到着。ダンパー数のお話し。楽しみ。僕はFacebookで自分から友達申請していない。仕事だと思っているので、Facebookの「使い方」を学ぶためにアカウントを持っている。もともとリアルな友達がいないから、申請してくださった方々だけの友達でおさまっている。極めて少ない数。

    Facebookのあちこちのアカウントをうろついて眺めていると、ダンパー数を超えた人が多数いらっしゃる。どうやってタイムラインをコントロールしているか不思議だ。タイムラインをコントロールするための時間も結構必要なんじゃないかと想像したり。

    否、そうじゃなくて、仕事じゃなくて、楽しむためなんだから、と想定を書き換える。制御しなくてよい。タイムラインのすべてに応答しなし、目を通していないかもしれない。「いいね!」のキャッチボールが楽しいのかも、とか想像する。仕事の「目線」だけでFacebookを観察していたら仮説はあらぬ方向へ向かっていく。気をつけよう。

  • 高飛車よりも歩でありたい

    2011.12.30 晴れ

    生活に弾力や抑揚がないので平常運転。クライアントのアクセスログを分析。アクセスログはサイトの事実を提示している。そこからサイトの不備を洗い出して対策を立案しないといけない。この作業が厳しい。仮説の塀を慎重に歩く。先走ると妄想の側へ転がり落ちる。

    先日、高飛車であることを自覚するには何を気をつけたらよいか考えた。高飛車を自覚するのにもっとも必要な意識は何か? 言葉遣いかな。無知の知か。

    違うなぁ。言葉遣いは必要条件? ではある(用法を間違えていたらはずかしい)。ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)をクリアしていていても居丈高である。適切な敬語 (講談社学術文庫)を選択しても嫌悪感をいだかせることもある。なぜだろう?

    自分が中心なんだろうな。推測に推察を重ねて臆測の推理。

    他方で私が高飛車と受け止める。だったら影響を受けずにスルーしたらよいのにとも思う。よしんば周りも高飛車だと感じたら、私見は客観性を高める。そうであってもスルーしたらよいだけなんだ。高飛車だと判断したがるのは、私が相手に執着しているか関心をいだいているから、影響を受ける。

    自分を捨てられていない。もっと言葉そのものだけに意識を集中させて判断しなければならない。評価しなくてもよい人を評価したがるから高飛車と感じて動揺してしまう。そんなふうに自己分析した。

  • 嘘くさいといわれます

    2011.12.26 曇時々雪

    https://www.youtube.com/watch?v=AzYMw3EIr3k

    今朝はケツメイシの”トモダチ”でスタート。トモダチがいない私。歌詞をうらやましく思い、年月の経つほどじわっとくるふしぎな曲。

    寒い!! 今朝は久しぶりに寒くて目が覚めた。時計をみたら4:30すぎ。室温は11℃。どこなんだここは。今冬の寒い日、被災地がよぎる。厳しい寒さだろうなぁ。でも、その思いの襞には「比べる」がまぎれこんでいやしないかドキッとする。

    衒いなく「被災地は辛いだろうね」と言える心構えはどこにある?って自分に問いかけて向き合う。それが自分にできることかなと思い始めた。

    VitaCraftのフライパンで野菜を蒸す。サツマイモ、ニンジン、レンコン、パプリカ、ブロッコリー、エリンギなどなど。蒸している間、焦げてないかドキドキしながら待つ。蓋を開けて確かめたい。ガマンガマン。フライパンの音に耳を集中して頃合を見はからって蓋を開けたとき、立ち上る蒸気とジュウーの音が一気にお腹をぐぅとうならせる。

    ちょっとしたことで脳の認識に変化が生じる。料理とお皿のペアは固定されやすい。この料理にはこのお皿、あの料理にはあの器。蒸した野菜をお皿に盛りつける。定番の皿にあらず。それだけでごはんの質感が変化する。日常から非のニュアンスがこめられる。認識が揺さぶられる「あの感覚」がおもしろい。

    思い込みは自覚してはじめて「思い込み」が立ち現れる。身体を動かし認識をゆさぶって思い込みを自分に気づかせる。考えるより先に、道路でかがめば子供の目線が疑似体験できる。その瞬間、タバコのCMの意味を理解できる。背中を曲げて下を向いて歩けば街は障害物であふれている。

    16:00すぎに出発。大阪駅で途中下車。本屋に立ち寄る。19:00からF先生と打ち合わせ。Tさんが参加。20:45に終了。その後、ふぐちりとひれ酒で一年の心の垢を落とす。

    3人でほくほくしながらのふぐちりは、「自分のルールは破るためにある」価値でした。

    自意識過剰の己を自覚して身体の芯から喜びを味わう。天の邪鬼の私へ「忘年会」と称して声をかければ断るかもしれない、だからさりげなく「ちょっとだけ軽くいきませんか?」と院長先生はお声をかけてくださったのでは、と認識している。

    認識が間違っていても、そう受けとめて飲むひれ酒はとてもとても美味しかった。嬉しさをストレートに表現したらTさんはニヤッと笑って「ウソくさい」って盛り上げてくださった。嘘くさいって。ありがとう、Tさん(笑)

    評価に対する私見が中途半端でした。「評価」は型版になったと思います。与えられた型版にしたがって他人の言動を記号化する。型版をつくるところからはじめられない。そんなのんびりしたことは言ってられない。とにかく評価しなければならない、って雰囲気が至る所にある。そういう雰囲気に違和感を持っています。点数をつけたり数値を算出する定量化の作業が評価だとラベルされている印象です。

    事実を観察して様態を分析して「他者の視点」をありのまま提示する。観察と分析と視点の提示の作業が評価であり、評価によいわるいはないと考えています。過激かもしれませんが、評価するか、しないかしかありません。評価の俎上に載せられること、それ自体が大切だと感じます。「常に自分の土台を壊して漸進している人」は、評価の俎上に載せられます。さる先生がおっしゃる「バカの定義にあてはまる人」は評価の俎上に載せられません。

    あら、こうやって書いているけれど、自分の意見がまったくまとまっていないのを自己認識しました。もっと考えて適確に伝えられるようにします。うん、確かに嘘くさい….. 🙁

  • 虚言

    2011.12.02 曇時々雨

    週末の定番、Footlooseでお目覚め。映画をリアルタイムで見られなかった、残念。レンタルビデオか録画を観賞した。みんなで踊れるようになりたくて。サントラ好きの高校生、ディスコダンス好きの高校生。

    東京モーターショー 2011のコンパクトカーや一人乗りのモデルはダウンサイジングを示唆している。通信と融合して車自体がSmartphoneのようだ。公道を走る閉鎖空間はプライベートの濃度が高くなっている。

    アメリカでもダウンサイジングが浸透しているらしい。実際に見ていない。コンパクトカーが注目されはじめ、フードのサイズは小さくなってきたと読んだ。サイズが小さくなれば高燃費だし食べ過ぎなくてすむ。

    空間はパブリックとプライベートの二種類かと思っていた。違う。両者の間にファジーがある。ファジーな空間がパブリックに現れた。Smartphoneを見ながら駅のホームを歩く、階段を降りるといった仕草が増えている。

    ダウンサイジングした情報端末は、メディアをひとつに集約した。それさえ持ち歩けば世界中とリンクしてメディアへアクセスできる。動画、写真、テキスト….etc。

    パブリックな空間では何がおきるかわからない。絶対の安全はない。そこにいるとき、身体の受信能力を高めて危険に備えなければならない。駅のホームで決して先頭に立たない人や、入線にあわせて振り返る人や身構える人がいる。他方、情報端末を見ながら駅のホームへ落ちる人、列車と接触して死ぬ人がいる。

    正法眼蔵随聞記 六 十六 大恵禅師ある時

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.382

    尻に悪性の腫れ物ができた。このままでほうっておくとあぶない。なのに師はますます坐禅しようといって坐禅する。すると、腫れ物はうみつぶれて何事もなくすんでしまった。

    しゃっくりをしているひとに虚言をいってへこたれるようなことを言えば、それをつらいと思って言い訳している間にしゃっくりはとまる、とおっしゃる。

    むちゃくちゃである。ほかのことを忘れて学道を力尽くして学び坐禅すれば病気もおこらないと思う、というのも唖然とするしかない。なのに納得させられる。

    病は気からという。嘘だと断言するし、そうだなとも認識している。

    病は気からと言えるほど「寝食忘れて向き合う」姿勢は、古今東西変わらずそれ自体が類い希な能力であり、天才とは努力しつづけられる才能であるという天才棋士羽生善治氏の言葉を思い出した。

  • 三世

    2011.11.29 曇

    Al GreenのYou Are My Everythingでお目覚め。今週の朝の気温は10℃超えているので起きやすい。古今東西関係なく昔の歌詞はシンプルでストレートだった、って言い過ぎ?

    サージカルテープを貼る。口に貼る。鼻に貼る。口は“ネルネル 21回用 (口閉じテープ)” 三晴社、鼻は“ブリーズライト 肌色 レギュラー 30枚” グラクソ・スミスクラインの代替。就寝中、口呼吸していると思う、たぶん。録画していないので確証はない。

    ブリーズライトを試してみたら体感できた。睡眠の質が変わった(ような)。ネルネルは試していない。どちらもテープなら代用品でまかなえないかと思い家捜し。で、サージカルテープをさっそくテスト中という案配。

    以前、M先生のミーティングで学習した口内炎の予防方法を全部試している。原因は口腔内の衛生環境と食生活と理解したので、就寝前にコンクールFの薬用ウォッシュでうがいしてテープをハリハリして寝る。食事はビタミン系を意識、足りないようだったら錠剤を摂取。

    結果、2ヶ月間、口内炎よサヨナラ。びっくり。1ヶ月に1度は必ずあったのに。食後の10-15分間、歯みがきしていたし定期健診も受診している。なのに口腔内の衛生環境が芳しくないのか。磨き方は合格点をもらっていたし定期健診でそれなりに評価していただいていたのに、やっぱり磨き方が下手なのか。それとも就寝中の口呼吸か。食生活か。いっぺんにやってしまったから実験結果を検証できない。

    口臭は完治しない。以前、口臭は内臓の調子に関係ないって専門家の意見を読んだ。ホント? 自分なりにここまで努力しているつもんなんだけど。内臓の調子もあるんじゃないのぉって疑いたい、疑わせてください、疑おう。

    仕事には司令塔に位置づけられる職域や職種がある。そういう職域や職種に就いた人は司令塔の要素を求められる。はじめから司令塔に値する最適な能力を持っているとはかぎらない。職域や職種に求められる技術や技巧や所作が人を変えていく。

    司令塔の要素を身につけられない(あるいは身につけたがらない)人はいる。近所のイオンやお店を観察すると、ある人がその職種や職域を担当している時、職場の機能が低下しているな、と感じる。身につけられない、身につけたがらない人自身を責めない。しょうがないと思う。ただ、その影響が全体に及んでいるとしたら、資源の再分配を判断しなければならないんだろうなぁ、と想像する。

    正法眼蔵随聞記 六 十四 世間の人自ら云く

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.374

    これは何度も読んで肝に銘じておきたい。師の教えが私の考えと合わないから間違いだと思う。ならばどうして師にたずねるのか。仮に自分の分別判断に基づくなら、それは無限の過去以来の根拠なき思いにすぎない。

    人はゼロベースで誰かの意見を受け入れるのではなく、自分のフレームを持って相手の意見に耳を傾け、合わなければ捨てていく。あるいは間違っていると判断する。ひょっとして自分の考えを補強するために他人の意見を聞いているかもしれない。読書もその落とし穴にはまっていないだろうか。

    “仏法を学せんとおもはば、三世の心を相続する事なかれ。”とおっしゃる。仏法を学ぶなら、過去・現在・未来と時間的に移りゆく心を同じものとしてひきついではならない、という。

    何度も読んで肝に銘じておきたい。

    またひとつ自分のフレームが壊された。