タグ: self-sufficiency

  • 矛盾と支離滅裂の混同

    2013.09.12 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=4wi5WTYBFy4]

    IMANY-Please And Change でスタート。09/24に梅田でライブがあるからFM802がCMを頻繁に流している。そのせいで最近はもっぱら The Shape of a Broken Heart をリピート再生。CMでは You Will Never Know が流れているけど、以前に貼ったはずなので、今回はこれで。アルバム、ほんとよい。ライブ行きたいような….。

    ひょんなことから事象を考えることってあって、「ひょん」はすっかり忘れた。事象だけが白シャツにこぼした珈琲の染みみたいに頭に付いている。とれない。

    矛盾について。

    iPadの日記アプリに短文を書いている。矛盾が気になって調べる。先生のブログへ辿り着いた。2007年のエントリー。2004年ごろからの読者だから読んでいるはずなのに驚いてしまった。いつになったら先生から卒業できるんでしょうか、嘆息。

    対立があるときの方がないときよりもシステムは活性化する。
    「弁証法」と呼ばれるのはそのプロセスのことである。
    活性化ということに焦点を当てて考えると、ある能力や資質を選択的に強化しようとするときには、それを否定するようなファクターと対立させると効率的である。
    経験的には誰でも知っていることである。
    「対立するものを対立させたまま両立させる」のは、二つの能力を同時的に開花させるためには、それらを葛藤させるのがもっとも効果的であるからであろう。

    対立するものを両立させる (内田樹の研究室)

    矛盾は二つの能力を開花させる。

    驚いた。ぼんやり考えていた「矛盾」が、ここにある。いつごろからか「矛盾を矛盾のままにしておく」ようになった。両側に位置するどちらも局面によって必要なんじゃないかと思うから。

    驚いてから正確に納得した。出版された先生の書籍はほとんど読んでいる。ブログと書籍が無意識の階層に住み着いているんだろう。自分が考えついた矛盾へのふるまいではなく、先生から剽窃していただけ。剽窃は都合よく忘れて、ふるまいだけ記憶した。その模造記憶をあたかも自分で考えたように錯覚していた。

    早尾神社

    自分のなかにある矛盾を理解している(つもり)。「運動の精度を上げるためには、この矛盾する要請に同時に応えなければならない」の運動を思考に置き換える。思考の精度を上げるために「矛盾」に耐える。理解しているつもりで「矛盾」を使い分ける。

    自分の中にある矛盾は他人には理解されない。矛盾を矛盾のままにしておけば、他人から支離滅裂に映ってもおかしくない。

    矛盾と支離滅裂はコインの表と裏みたいかも。私には矛盾が見えて、他人には支離滅裂が見える。クルクル回っているうちに、どらちの面が自分と向き合っているかわからなくなる。

    いつのまにか自分の中にある「矛盾」は矛盾ではなく、支離滅裂になっているかもしれない。矛盾と支離滅裂の混同。

    矛盾と支離滅裂が混同されてしまったとき、どうすればよいだろう?

    そんなことをiPadに備忘した。

  • 探しているものは内にある

    2013.09.10 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=gkS7fJN0vRA]

    “夜はミカタ” 青谷明日香 に収録されている route。この間、アルバムを聴きながら本屋の本棚とお見合いしていると、不意にこの曲がものすごくリアルに入ってきた。何度も耳にした音と歌詞がまったく異なった質感へ変化した。落涙しかけた。慌てて本屋を飛び出したんだけど、あの”リアル”な感覚がまだずっと残っている。

    暑さが忘れものを取りに帰ってきた、天高し。迷子にならないでほしいが、忘れものを忘れたらしく、思い出そうとしばらくぐるぐる探し回るようで、大気は熱を帯びる。蒸す、っとご機嫌ななめ。はやく見つけてほしい。

    「世界へと つぶやく前に 周り見ろ」と中学生は川柳をものす。素敵だ。つぶやきだけじゃない。文字が安堵をもたらす充足の空間。出力された文字を目にして、誰かの思考の痕跡と自分の徒然を乾杯して飲み干す。飲み干して酔う。醒めてもとへ。

    机の上にいつまでも置いてあるライヴのチケット。行かなかったチケット。初めての自主的キャンセル。何かが変わっていく。が、何かは不明ゆえ探しに外へ出る。見つからない。探しているものは内にある。あると直観しても、内側を探究できない優柔不断。

    優柔不断はもうすぐ終わりそうな感触。初めてのことに対する反動だ。反動の大きさに比例? 反比例? してる。振り子が反対側へ振れる時間がいつもよりずいぶん要した。礼文島から与那国島へドライブするような気分。辿り着けば、長い夢から覚めてひとつの現実を直視するだろう。

    アルバイトの資料を返送するために郵便局へ。郵便局の往復と散歩。公園へ紛れ込む。誰もいない場所。X-E1をかまえてファインダをのぞこうとしたら、眼鏡の内側に汗がしたたり落ちた。眼鏡をはずして拭きとる。睫毛のロッククライミング。ごくたまに長い!と驚かれるけれど、よくそんな部位を見ているなと逆に感嘆である。

    静寂と沈黙は何が違うだろう。芝生に座って生暖かい微風を浴びる。目と耳のラジオ体操。音の仕組みを勉強しておくべきだったと舌打ちしてしまうほどの音がぐるり聞こえる。空気の振動って単語だけが雲の上に浮かぶ。

    静寂は伝わり、沈黙は伝わらない。

    そんなイメージを描く。どうして? の自問。静寂は感じられるけど、沈黙は感じられない。ならば想像の差異? 「想像」はことばの空間を満たしすぎている。だから削った。「想像」は大切だけど、想像を口することが解であると誤解しかねない。「想像」ではなく、「想像という単語」は次への進化を妨げる。削ってもう少し潜ってみる。静寂は受動、沈黙は能動。浮かぶイメージ、掘っていく単語。連想、拡張、並列、修辞を往来してイメージを表現できる文脈をつくる。

    途中でまたあの問題へ入る。迷宮。解けない問題。自分を一歩引いて見たときの自分をさらに一歩引いて見たときの自分をさらにさらに一歩引いて見たときの……自分の無限後退。屁理屈ではない。一歩引く感覚があるから言葉にできる。なのに無限に後退していく感覚はない。

    無限に後退していく感覚はなくて、あらゆる事態を想定せよは乱暴な物言いと思える。一歩引いた程度の視点から見える「あらゆる」は狭いはず。

    感覚を連れ添えない表現を口にする。他者に対して傍若無人にならないけれど、自身には傍若無人になれる。それぐらいでないと、なにもしゃべれない。

  • 想いの更衣

    2013.09.07 08 ずいぶん涼しくなった

    P!nk – Fkin’ Perfect でスタート。「You’re f*ckin’ perfect to me!」のFkin’は想いのマグマ。内部であらゆるものを溶かす。「私にとってあなたは完璧」の「完璧」は辞書の意味ではなく、自分で編んだ言葉の意味だとしたら、誰かにとって綻びだらけでも「完璧」って言えるユニークな情感を包容する。

    二十四節気、白露。太陽の黄経が165度。第四十三候、草露白。春から夏にまたがって積み重ねた想いが、木々の葉や草花へ降りていく。冷やしたものは何かわからないけれど、電子顕微鏡ぐらいの視力があれば、露の表面に己の心情が投影されているのが見えそう。

    旬は秋刀魚。生き急ぐ営みと歩調を合わせて二度食した。脂がのっておらず腹との相性がちょうどよかった。胃袋においしくおさまる按排。それもいつまでかとも思う。50年後、100年後の海。

    ことばをたくさん持っているから情景を豊かに認識する? わからない。笑うから楽しいのか、楽しいから笑うのか。科学は前者を証明しようとしている。ことばそのものが醸し出す気配やことばそのものが伝わる感触は、ことばと認識に連関しているようで、片やそう認めたくない気持ちが加齢の染みのように心にはりつく。

    表現の陰影をつけたくてことばを探す。いつしか世界を素直に直感できず、言葉が先に立つ。言葉に囚われる。感性を心の裏側へ置き忘れる。取りに戻る道筋が記憶から消え、衰えた感性をことばへ転化して補修するが、感性を伴侶にできなかった言葉は語感へ熟成しない。

    土曜日にアルバイトの資料を受け取り、夜から入力開始。日曜日は終日。黙々と入力して肩と腰がキュウキュウ鳴いている。頭、足の指、手の指、肩と腰。喉(もしくは食道?)から肺あたりへの違和感、乾いた咳。あげればきりがない個々のパーツが綻びはじめても「全体」が誤魔化して体躯を駆動させて、少しでも急ぐ。はやく空っぽにしたいらしい。

    辞書の意味から少し距離を置いた自分だけの言葉がある。たとえば私なら「最適」だ。最適を使う時、辞書の意味とはやや異なる意味を込めて使う。伝わるかどうかではなく、語感への思い入れみたいなものかな。

    もう一つ。辞書の意味からずらして使いたいけれど、まだ自分だけの言葉にほぐしきれない単語がある。文脈のなかにはめ込めない、使うと、その単語の意味は奇形を象ってしまい、伝わる伝わらないの階層にすら降り立たなくなる。いま使うとしたら「冷静」か。

    冷静になってきた。そう書くと、落ち着いてきたようであり、そうではない。冷めてきた、と言えば気持ちを抉りすぎてる。

    熱情を抱擁していた服装が透明から色彩を帯びたものに変わりつつあるような冷たさ。

    冷めていく、醒めていく、褪める想いの更衣。それを冷静や冷たい、冷徹と言い表したい欲望と、それだとまだ自分の身体が表現を追い越せない余裕のなさが露呈する躊躇い、との駆け引き。

  • 実物と心象の狭間

    2013.08.17 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=-AHk_-VsEyI]

    Sérgio Mendes & Brasil ’66 – The Fool On The Hill でスタート。この曲、オリジナルよりこっちが今の好み。(テンプレなイメージなんだけど)部屋と珈琲とお菓子、この系をループして、日がな一日まったり、部屋がまるっとしっとり、だろな。

    終日、ウェブサイト制作。配色に悩む。毎度、配色はほんま難儀。独学のなかで身につかられなかった領域。悶々。

    第三十九候、蒙霧升降。ここらは酷暑が続く。日の出に誘われる。空気がほんのちょっぴり乾いていた。あっ、「あの朝」に近づいている!

    精緻な自然運行。湿度が低い朝は匂いの粒子を運びやすくしてくれるのか、雑多な匂いを運んでくる小気味良い空気の着心地がたまらない「あの朝」は、街の中でまだ眠っている。日の出がもう少し遅くなるまでのんびり待ちながら。「あの朝」が大好きだ、待ち遠しい。嗅覚が忙しくなる朝。

    旬の野菜は玉蜀黍。好物。近頃のは甘い。収穫してから一日経っただけで甘さも栄養価も半減するといわれる(んだって、そうなの?)。だとしたら、食べたときよりもっと甘いわけで、いまでも十分甘いのにさらに甘い玉蜀黍は、私の性格と張り合えるぞ。

    自分の手

    昨年、お客さんの奥様が撮影したもの。先生とスタッフの方々といっしょに院内を巡回した。ゆっくりゆっくり見て回った。みなさんの目に映っていることを教えてほしいと伝えた。

    患者や私が見る視点と、スタッフの方々が見る視点。ウェブサイトのテキストは、この視点の差異から生まれる。

    この写真みたいな眺望点と視線。

    毎日、自分の手を見ている。見ているようで見ていない。私にない立脚点からの眺め。

    自分の手のイメージは、頭の中で走っている若い時の姿みたい。頭の中は速く、実際は遅い。そのズレが体をつんのめらせて転げる。

    実物の手は目の前にあるのに脳は残像を保持して、実物と心象の狭間を彷徨する。

    自分の視点を筋トレしてもこんな風に見えない。

    (実際は見ているようで見ていないのも多いけど)見ている実物と心象のエアポケットに入り込む映像が主観だ。

    誰かの視線が客観だとしたら、私の視線が主観。客観”的”、はない。客観的って、まるで限りなく偽物に近い主観だと思う。悪い意味じゃない。

    本物(ほんとう、ではない)を確認するために欲する偽物。

    その偽物がなければ自分の主観はどこか心もとない。自分の手が撮られた写真を眺めるように、私の現在位置を時には確かめる。地図を読むのは苦手だから、現在位置を確認するだけで一苦労なんだけど。

    そんな姿を誰かは写してくれるだろう。

  • 余情が空白から余白を千木って

    2013.07.13 / 07.14 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=iqij6XLbEgE]

    Candy Dulfer – Sunday Cool でスタート。Candy Dulfer – Sunday Afternoon へつなげる。 Sax-A-Go-Go のPVを目にしてから聴き続けていて、確かめたらコレ1993年、Incognito の Positivity も1993年、両アーティストは20年耳に留まって、これからも留まる。音楽の出会いは記憶の影。

    土曜日、仕事帰りに大阪駅で途中下車。FRED PERRYへ。3連休初日の大阪。サウナに入っているみたいな空気感。人口密度が急上昇。半袖人、無袖人、半パン人、膝上上上境界線人、人々のなかに長袖私。同種ちらほら。

    耳は奇妙礼太郎@ライブビート、パブロフの私は笑みを空間へこぼして粗相しないように、笑みを下へポトポト落としていく。誰も拾うはずないから安心して落とせる、ポトポト、ニヤニヤ。うぉーっとな。

    5 Pocket Skinny Pants を購入。ひっさしぶりの買い物。サイズS、ピチピッタリ。ポリウレタン5%の効果絶大、かがんでもお尻伸びる、ウエストはまだ余ってる、んやから大丈夫(のはず)。太りません、試着室宣誓。

    コミュニケーション機能が落下傘猛スピード降下中。お店の方と、もぞもぞ、ぼそぼそ、またーり、もっさり、困ったね、ひとりで仕事しているとしゃべらんわ。

    FRED PERRY 5 Pocket Skinny Pants

    日曜日、少し先の未来がやってきた。人と会う。へんな表現。(前にも書いた)友人、友達、知人などの心中取扱説明書を青年期にどこかで置き忘れてきたのね、だからしっくり書けない。

    普通名詞に分類しない、絶対。

    話したいときに話し、笑い、毒気が抜き切れていない毒を吐き、会話を繋ぐことをまったく気にしないで穏やかに沈黙できる。心の合鍵を渡している(つもりだ)から好きなときに好きなように入ってきてゆっくりしてくれたらよい。そんなふうに思っている。

    すべての風景と言葉にピントは合わない。ピントはすべてぼんやり。だけど、「何か」が合っている、たぶん。その「何か」が自分にはもっとも大切でかけがえのないピース、だからほかのすべてがぼんやりしていても大丈夫。

    “あっ”という間に”いま”が”むかし”へ秒単位で移ろう時空を現在進行形で感じながらピースを確かめて噛みしめる。

    通り過ぎる、無意識に意識に。スクランブル交差点を見るみたいに。

    私側だけでも望む。できるだけ長く留まっていてくれたら。自分のできることを丁寧に積み重ねる、これまでも、これからも。

    余情が空白から余白を千木って明日へ渡す。「手帳に書かれた予定は未来ではない」、読み人知らずの言葉。だとしたら「未来」を期待して珈琲を飲み干した。

  • 季節が四季を先取りしそう

    季節が四季を先取りしそう

    2013.07.08 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=7E7e2gDZ568]

    奇妙礼太郎 – 赤いスイートピー でスタート。ライヴでこれ聴くと震えがとまりません。条件反射のように涙腺がこわれます。この間、NHK-FMのライブビートに出演していて、その時も歌っていた。再放送も聴いた。2回とも条件反射。なんだろね、ほんと。どの記憶とリンクしているか自分でもよくわかっていないけど記憶の映像と過去の言葉と奇妙くんの声と歌がシャッフルされて全身に再インストール。

    二十四節気、小暑。第三十一候、温風至。梅雨が明けたのか、明けるのか、気にならず、酷暑到来。京都では祇園祭、鱧祭り。野菜は獅子唐辛子、ロシアンルーレットよろしくたまに辛いのに当たる。

    富士吉田市が配布している観光地図って南が上、とNHKの番組で知った。おもしろい。富士吉田市ではどこからでも富士山が見えるから、北極星のように富士山を目印にしている。方角は南。富士山の方角へ地図を合わせせて場所を確認する。

    そこで育った子供は、南が上の地図を受け入れている。地域の人々もそう。そこがとてもおもしろかった。人と環境が相互に作用してつくられた知識。こういうのが文化の土台なんだろうな。ただ最近は北が上の地図を配布しているとのこと。やっぱり他府県の人は見にくいのかも。

    “その日本語、通じていますか? (角川oneテーマ21)” 柴田 武 で方言にまつわる話がある。方言の豊かさについて触れられている。そういえば、先日、”ずつない”とSNSで書いたら意味を尋ねられた。似たような意味を何というのか教えてもらった。そっちの言い方の方がはるかにうまく表していておもしろかった。

    “「食」の課外授業 (平凡社新書)” 西江 雅之 は、「食べ物」の深遠を教えてくれる。「食べ物」は「食べられる物」のほんの一部であり、食べ物は文化だ。先進国のある地域では、1世紀前では酢で煮たゴキブリを潰してペースト状にしたものをパンに塗って食べていた(同P.31)そうだ。驚くよりも腰を抜かす。

    方言や食べ物は文化だ。文化の豊かさや異なるものが多いさまを人々は認める。なかには認めたがらない人もいるだろうけど、マジョリティーは認めているんじゃないかしら。

    ところが、私の利害が関係するとなるとそう簡単ではない。地域や家の風習など構成単位が小さくなるにつれ、行動様式は認められにくくなる。私に利害が及ぶからだ。我が儘である。文化と人の行動を比較するな、と反論されると思うが、やっぱり我が儘だと思う。

    Light
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    仮想現実と現実の言動は違う、関心は異なると言われる。そうのとおり。SNSの罵詈雑言を垣間見たらそう感じる。今だと選挙の話題かな。現実の報道とSNSの関心にはずれがある。

    一方でそれほど変わらないこともある。どちらの現実であっても変わらない風景はある。大きな声で口にする言葉ほど実行されにくい、という風景。時に言葉は心を隠す役を引き受ける。

    “多様性”と口にすれば不寛容であり、”折り合える”と大きな声で語れば妥協しない。口から理想が語られ、体は現実的に動く。

    しつこく備忘。私は我が儘。自己の基準は相対的。私の基準は普通だと頑なに言い張っても、誰かが我が儘だと思えば、少なくともその人は我が儘として捉える。だからといって、万人に合致できる基準はないんだから、自己の基準をいちいち測り直していたらきりがない。埒が明かない。

    絶対的な基準はないと言って相対的な基準を設定しているつもりが、実は絶対を基準にする。これを頭の片隅に置いておきたい、いつも。

  • 対話と独白の緩衝地帯

    2013.06.26 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=7ZKhC8AqYG4]

    安藤裕子 – 隣人に光が差すとき でスタート。ほんとは、「それから」がよかったけど、見つけられなかった。それからの歌詞、「いつか会えるなら 笑って言えるように ありがとうの言葉を 伝えられるように 届けられるように」の部分、時にはこんなストレートな歌詞も響いてくる。ストレートすぎて恥ずかしくなりながら。

    自分の手足や目の痺れは我慢できる。痛みは痛み方次第で我慢できそう。自分の痛みは痛みとして知覚できる。だけど文字に認められた誰かの痛みはどうしたら。誰かが大切な人で、体が直接損傷を受ける痛みではなかったら、なおさらどうしたら。

    どうしたら、に否定の戸惑いは一切ない。やるべきことを思い巡らす。その痛みや辛さを想像できない。想像できたら失礼で偽善だ。

    まっすぐ素直に向き合い、目を合わせ、声を少しでも受け入れ、その場で紡がれる言葉に思慮を深める。それぐらいかなって思う。自分ができること、やるべきこと。少なくても、「ひとりはいる」という事実を言葉ではない仕方で受け取ってもらえるように努める。

    自分のバランスが保ちにくいような、パズルのピースが揃わないような時、ふと思い出してもらえる。それだけで私が「ここにいること」を私自身で確認できて安心する。

    意味や理由はあとからいくらでも自分の納得いくように書く加えたり、記憶の切れ端に継ぎ足せたら自己満足できる。でも、「ここにいること」そのものを皮膚感覚で確認する機会はそれほどない。

    琵琶湖疎水

    書く、という行為は対話と独白の緩衝地帯を歩いているみたいで、一人以上二人未満の作業だ。独りではない。混濁の交感。その相手は人数にカウントできない。不可思議な感覚と感情を抱えたまま、最も遠くにある”誰か”を探る。

    読み手に開かれている文章を書くとき、緻密に理路を記していかなければならない。自分が理解している点をついつい省略する。理解と不明を行ったり来たりしながら、思考の全体像を表す作業である。作業の途中で理解が書き換えられるし、不明が理解へ一歩近づいて文脈が拡張されたりする。

    時間をかけて「理解」と「不明」を往来する。その行為が論理の積み重ねであり、不明から理解へ接続できない点を慎重に丁寧に考え文を書く。

    しばしば「理解」を省略する。読み手は理路を閉ざされる。書き手の「不明」から「理解」への道筋だけが記されていて、「理解」から「理解」への文が書かれていないから「関係」がわからない。

    人と話す時とも似ている。

    書くと話すの違いはボリュームかもしれない。もし字数の制限がなければ、書くほうが伝達しやすいかも?! 理解と不明の思考の往来を着実に記述できる。往来を一歩一歩ゆっくり書くから分量は膨大である。冗長な文章になってしまいかねない。

    話すは環境に依存している。環境が制約を設定する。設定条件に従ってはしょって話し、聞く方も一瞬一瞬で勝手に解釈している。

    両方の特性を見極めて状況に応じた伝達手段を選択する。音声と文字と記号、言葉を組み合わせて最適に届けられるボリュームを調整し続けたい。

  • 丈夫ではなさそうやな

    2013.06.23 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=qFBEs3WQqEM]

    見田村千晴 – 雨と空言 でスタート。以前にも貼ったはず、たぶん。ラジオから聞こえてきて、冒頭の歌詞が頭の中で立ち止まって海馬からすり抜けようとしている。あわよくば長期記憶へ残りたがっているみたい。

    木曜日、痺れを診察してもらうため病院に行った。結果は経過観察。私の説明だとつじつまが合わない症状があるとのこと。先生は頭の可能性もあるとおっしゃっていたが、まだそこへ至る前にやることがあるような感じ。

    自分の体のことなんだけど、先生の話し方や症状を探っていくロジックなどを観察していて勉強になった。

    処方してもらった薬を飲んでいるが、いまこれを書いている時点も痺れは止まらない。ほんとにやっかいだ。加えて薬を服用したら頭がぼぉっとなる。2,3時間続く。ときどき頭痛が増す。膨張した頭の状態がさらに膨張していくみたいで気持ち悪い。

    先生が「丈夫ではなさそうやな」と微笑みながらおっしゃったので、つられて笑ってしまった。「元気がないって意味」と訂正されたが、他者からはそう見えるんだろうなぁ、と痛感した。世間的には壮年期。なのにバリバリ働いているようにはまったく見えない。やや高めのテンションで話すのも少ない。なるべく静かにゆっくり話すように心がけている。オーバーリアクションになりそうだ、と察知したら自制する。

    第二十八候、乃東枯。野山の木々の緑が深まっていく。緑の階調が増えていく。旬の魚は太刀魚とのこと。スーパでも見かける。銀白色に光って見惚れてしまう。買うのはためらう。桃を目にして驚いた。夏至が過ぎてしまったのも驚き、自分の中の時季と時機と時期はちぐはぐのまま流れる。

    旧大津公会堂

    13:00前に神戸へ出発。先生がレーザプリンタを購入されたので設定に。価格を耳にして嘆息。一昔前なら数十万では変えなかったような複合機がiPadより安い。恐ろしい。ひょっとしたら数年に一度買い替えた方がランニングコストの面でお得では?!とちらりとよぎった。

    どうしても紙を出力しなければならない業態はまだまだある。紙とタブレットの並走は続く。いずれ限りなく減っていくとはいえ、紙でなければならない、コトやモノって何だろう。ネガティブな問いではなく、特性を活用できるコトやモノは何か再考したくなった。

    06月23日のスーパームーン前日。帰りの車窓から霞んだ月が見える。大きさで最大14%、明るさで30%も違うスーパームーン。ただ、今回は地球から最も近くなる距離ではないらしい。「ほぼ」スーパームーンに見えるとのこと(23日は雲に覆われて見えなかったけど)。

    月を見ながら思い浮かべる。

    書かれていないこと、目にできていなかったこと、声になる少し前、を配慮できるようになりたい。何が書かれていなかったのかをちょっとでも考えられるように、見えているようで見ていなかったことを振り返られるように、声になりそうでならなかった気配を感じられるようになりたい。すごく難しいかも。どこかセンスが必要かもしれない。センスがなくてもなんとか踏みとどまりたい。

    沈黙しているから考えていないと臆断したくない。話題にしないから無関心ではない。なんとなく勝手に感じ取ってしまう世間の風潮は「はっきり」だ。はっきり言わなければ、はっきり聞かなければ、はっきり見なければ、「すっきり」しない。

    そんな領域からちょっとだけ離れた距離感を把持しときたい。

  • 満足と無力の狭間

    満足と無力の狭間

    2013.06.06 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=l3OM0fG0jSE]

    S.R.S – Sometimes (English Version with Lyrics) でスタート。日本語と英語バージョンがあって、英語のほうがお気に入り。切ない歌詞。想い歌う。男性と女性では世界の分け方が異なるのかしら。男性が男性を、女性が女性を歌わず、反転させた思いを書いたとき、ちぐはぐさが残る。女性が主人公の小説を男性が描くのと少し似ているような。ちぐはぐさが心地よく聞こえるときがある。

    背中と腰の痛みが今月に入ってピークを迎え、ストレッチの効果も芳しくなく、座るも寝るも痛いのでままならなくなり、さすがにやや弱気になりかけているのを、どうにか踏ん張ろうとしている、いまココ、のような状態。

    身体が思うように動かなくなる。それ自体は気持ちにダメージを与えない。動かなくなる身体に合わせられるように営めたら満たされる。やっぱり痛みだ。萎える。痛みの表現はたくさんある。漢字やオノマトペで表記できる痛みや言いようのない痛み。古来、「痛み」を悶々と考え続けた人もいた。

    健康がいかなる様態か気にとめないとしても痛みは五感を奪う。痛みを五感を痛み自身に向かわせようとする。頭か身体か知らないが、とにかく痛みを知覚したまま、水に染み入る石のように浸透していく。やがて石よりもはるかに速く気持ちが割れる。

    Drop
    *RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

    自分のひとりの営みが安定しているとき、無力を感じない。広辞苑には、「力の無いこと。勢力のないこと」と「貧困。また、貧乏になること」とある。ひとりで営みを賄えているからだ。ひとりで賄えるわけはないが、ひとりで賄えている錯覚が無力感を身体から消去している。

    ところが、ことが起き、自分も何かしたくなったとき、無力はやってくる。そこではじめて自分には人と人をつなぎ合わせるハブをもたず、人と人の脈がない現実を理解する。

    苛立ちの総量のうち2/3ぐらいは、自分の無力感が起点かもしれない。ひとりの営みが安定しているときにふれたくなかった人の脈が可視化されたとき、心が酷く乱れる。他方、自らすすんで扉を開かない、幼稚な自我への苛立ち。その苛立ちが転じて周囲へ向かう。

    自分、だ。ずっとふれている。

    世界を変えるのはたいへんだが自分を変えるのはかんたんだ、養老孟司先生はおっしゃっている。正確な引用ではない。うろ覚え。自分を変える、という点は気分を変えると受けとめてもよいかな。

    そのとおり。朝、鏡に映る自分をみて笑い、早朝、窓を開けて青い空と強い陽射しを見てわくわくする。たぶんそれだけで気持ちはかろやかになるはず。

    無力感を自覚しても虚無は引き寄せたくない。無力を自覚して、そのなかから自分にできることを確実にやっていく。自己満足から少し距離を置いた気持ちで。たまに自己満足をたぐり寄せ、次はまた無力感を自覚して、満足と無力の狭間を悶えてあえいで、小さなコトを確実に出力する。

    誰か見ていると欲求しない。期待の源泉が枯れたとき、また動きが止まってしまう。満足と無力の繰り返して漸進していくしなやかさを身につけられたら自分を楽しめそう。

  • たとえ相手が怒りの起点でも最後は自分への怒り

    2013.06.03 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=x1oMPNya0cI]

    ソウル・フラワー・ユニオン – 風の市 でスタート。高揚させてくれる音ってあるよなぁ。歌詞は切なくても音が軽やかだったり。反対に歌詞は顔を上げて見据えているのになぜだか音はやや抑え気味みたいなのも。音楽って不思議だ。

    怒り、について考え続けている。怒りの根本や怒りの脳研究について一冊読んでみたくなる。主観を掘り下げられても何か足りない。

    幾つもの怒りがある。状況によって怒りの濃度や種類は異なる。激怒、憤怒、立腹…. 漢字もいろいろ。ニュアンスを広げたら、嘆息や嗤笑にも怒りの匂い成分が入っていそう。

    誰かが起点になって怒りを誘発したら、当初の怒りは相手にむけられたものだ。でも、私の場合、その怒りは直に収まり、どちらかというと自分に対する怒りが長く続く。

    相手に頼ってしまったがゆえに、自分の描いていたとおりにならなかった腹立ち。もし、自分の想定しているイメージにコトを近づけたいなら、相手に頼るべき点をもっと絞らなければならない。自分がコントロールできたであろう範囲を自分がサボったから招いた結果に対して我に呆れている。

    信用、という言葉は健康的なイメージを従えている。そういったイメージを払拭してシンプルに使うとしたら、相手を信用した自分に対する怒り。

    皇子が丘公園

    もう一つ気づいてほしいのは、自分の周囲の環境が悪いのは、これまでに自分が手を打ってこなかったからだ、ということ。だから、すぐに手を打っても、それが改善されるのは、ずっとさきのことになる。この種の挙動は、「社会」でも「他者」でも同様だし、もちろん「自分」についても当てはまることである。

    “自分探しと楽しさについて (集英社新書)” 森 博嗣 P.140

    再読。「自分」にも当てはまる。手を打ってこなかった。相手の成長(苦手、正直意味がわからない)へ関与したい欲求があったはず。欲求はやがて支配と通底する。

    相手のふるまいが私の心象とずれる。心象にそぐわないふるまいを受ける。現実と心象のずれを知覚する。知覚は支配の基底に到達して怒りのボタンを押す。ずれをずれのまま処理する機能が発育されていない。なんのために先人の知識をインストールしているか、己の未熟を味わう。

    幼すぎる自分。未熟。他者へ関わるのは他者の成長や進化に手をさしのべることではない。他者をそっくりそのまま他者として受け入れ、どこまで輪郭を広げても理解できない他者の有り様と向き合い自分の中でほぐしていくことだと思う。

    自分の「色」に染めるような気持ちを微塵も持ってはならない。微塵はいずれ塊になり怒りの核に居座る。そうなれば私の進化を妨げる。