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  • 矛盾と支離滅裂の混同

    2013.09.12 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=4wi5WTYBFy4]

    IMANY-Please And Change でスタート。09/24に梅田でライブがあるからFM802がCMを頻繁に流している。そのせいで最近はもっぱら The Shape of a Broken Heart をリピート再生。CMでは You Will Never Know が流れているけど、以前に貼ったはずなので、今回はこれで。アルバム、ほんとよい。ライブ行きたいような….。

    ひょんなことから事象を考えることってあって、「ひょん」はすっかり忘れた。事象だけが白シャツにこぼした珈琲の染みみたいに頭に付いている。とれない。

    矛盾について。

    iPadの日記アプリに短文を書いている。矛盾が気になって調べる。先生のブログへ辿り着いた。2007年のエントリー。2004年ごろからの読者だから読んでいるはずなのに驚いてしまった。いつになったら先生から卒業できるんでしょうか、嘆息。

    対立があるときの方がないときよりもシステムは活性化する。
    「弁証法」と呼ばれるのはそのプロセスのことである。
    活性化ということに焦点を当てて考えると、ある能力や資質を選択的に強化しようとするときには、それを否定するようなファクターと対立させると効率的である。
    経験的には誰でも知っていることである。
    「対立するものを対立させたまま両立させる」のは、二つの能力を同時的に開花させるためには、それらを葛藤させるのがもっとも効果的であるからであろう。

    対立するものを両立させる (内田樹の研究室)

    矛盾は二つの能力を開花させる。

    驚いた。ぼんやり考えていた「矛盾」が、ここにある。いつごろからか「矛盾を矛盾のままにしておく」ようになった。両側に位置するどちらも局面によって必要なんじゃないかと思うから。

    驚いてから正確に納得した。出版された先生の書籍はほとんど読んでいる。ブログと書籍が無意識の階層に住み着いているんだろう。自分が考えついた矛盾へのふるまいではなく、先生から剽窃していただけ。剽窃は都合よく忘れて、ふるまいだけ記憶した。その模造記憶をあたかも自分で考えたように錯覚していた。

    早尾神社

    自分のなかにある矛盾を理解している(つもり)。「運動の精度を上げるためには、この矛盾する要請に同時に応えなければならない」の運動を思考に置き換える。思考の精度を上げるために「矛盾」に耐える。理解しているつもりで「矛盾」を使い分ける。

    自分の中にある矛盾は他人には理解されない。矛盾を矛盾のままにしておけば、他人から支離滅裂に映ってもおかしくない。

    矛盾と支離滅裂はコインの表と裏みたいかも。私には矛盾が見えて、他人には支離滅裂が見える。クルクル回っているうちに、どらちの面が自分と向き合っているかわからなくなる。

    いつのまにか自分の中にある「矛盾」は矛盾ではなく、支離滅裂になっているかもしれない。矛盾と支離滅裂の混同。

    矛盾と支離滅裂が混同されてしまったとき、どうすればよいだろう?

    そんなことをiPadに備忘した。

  • 想いの更衣

    2013.09.07 08 ずいぶん涼しくなった

    P!nk – Fkin’ Perfect でスタート。「You’re f*ckin’ perfect to me!」のFkin’は想いのマグマ。内部であらゆるものを溶かす。「私にとってあなたは完璧」の「完璧」は辞書の意味ではなく、自分で編んだ言葉の意味だとしたら、誰かにとって綻びだらけでも「完璧」って言えるユニークな情感を包容する。

    二十四節気、白露。太陽の黄経が165度。第四十三候、草露白。春から夏にまたがって積み重ねた想いが、木々の葉や草花へ降りていく。冷やしたものは何かわからないけれど、電子顕微鏡ぐらいの視力があれば、露の表面に己の心情が投影されているのが見えそう。

    旬は秋刀魚。生き急ぐ営みと歩調を合わせて二度食した。脂がのっておらず腹との相性がちょうどよかった。胃袋においしくおさまる按排。それもいつまでかとも思う。50年後、100年後の海。

    ことばをたくさん持っているから情景を豊かに認識する? わからない。笑うから楽しいのか、楽しいから笑うのか。科学は前者を証明しようとしている。ことばそのものが醸し出す気配やことばそのものが伝わる感触は、ことばと認識に連関しているようで、片やそう認めたくない気持ちが加齢の染みのように心にはりつく。

    表現の陰影をつけたくてことばを探す。いつしか世界を素直に直感できず、言葉が先に立つ。言葉に囚われる。感性を心の裏側へ置き忘れる。取りに戻る道筋が記憶から消え、衰えた感性をことばへ転化して補修するが、感性を伴侶にできなかった言葉は語感へ熟成しない。

    土曜日にアルバイトの資料を受け取り、夜から入力開始。日曜日は終日。黙々と入力して肩と腰がキュウキュウ鳴いている。頭、足の指、手の指、肩と腰。喉(もしくは食道?)から肺あたりへの違和感、乾いた咳。あげればきりがない個々のパーツが綻びはじめても「全体」が誤魔化して体躯を駆動させて、少しでも急ぐ。はやく空っぽにしたいらしい。

    辞書の意味から少し距離を置いた自分だけの言葉がある。たとえば私なら「最適」だ。最適を使う時、辞書の意味とはやや異なる意味を込めて使う。伝わるかどうかではなく、語感への思い入れみたいなものかな。

    もう一つ。辞書の意味からずらして使いたいけれど、まだ自分だけの言葉にほぐしきれない単語がある。文脈のなかにはめ込めない、使うと、その単語の意味は奇形を象ってしまい、伝わる伝わらないの階層にすら降り立たなくなる。いま使うとしたら「冷静」か。

    冷静になってきた。そう書くと、落ち着いてきたようであり、そうではない。冷めてきた、と言えば気持ちを抉りすぎてる。

    熱情を抱擁していた服装が透明から色彩を帯びたものに変わりつつあるような冷たさ。

    冷めていく、醒めていく、褪める想いの更衣。それを冷静や冷たい、冷徹と言い表したい欲望と、それだとまだ自分の身体が表現を追い越せない余裕のなさが露呈する躊躇い、との駆け引き。

  • 丈夫ではなさそうやな

    2013.06.23 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=qFBEs3WQqEM]

    見田村千晴 – 雨と空言 でスタート。以前にも貼ったはず、たぶん。ラジオから聞こえてきて、冒頭の歌詞が頭の中で立ち止まって海馬からすり抜けようとしている。あわよくば長期記憶へ残りたがっているみたい。

    木曜日、痺れを診察してもらうため病院に行った。結果は経過観察。私の説明だとつじつまが合わない症状があるとのこと。先生は頭の可能性もあるとおっしゃっていたが、まだそこへ至る前にやることがあるような感じ。

    自分の体のことなんだけど、先生の話し方や症状を探っていくロジックなどを観察していて勉強になった。

    処方してもらった薬を飲んでいるが、いまこれを書いている時点も痺れは止まらない。ほんとにやっかいだ。加えて薬を服用したら頭がぼぉっとなる。2,3時間続く。ときどき頭痛が増す。膨張した頭の状態がさらに膨張していくみたいで気持ち悪い。

    先生が「丈夫ではなさそうやな」と微笑みながらおっしゃったので、つられて笑ってしまった。「元気がないって意味」と訂正されたが、他者からはそう見えるんだろうなぁ、と痛感した。世間的には壮年期。なのにバリバリ働いているようにはまったく見えない。やや高めのテンションで話すのも少ない。なるべく静かにゆっくり話すように心がけている。オーバーリアクションになりそうだ、と察知したら自制する。

    第二十八候、乃東枯。野山の木々の緑が深まっていく。緑の階調が増えていく。旬の魚は太刀魚とのこと。スーパでも見かける。銀白色に光って見惚れてしまう。買うのはためらう。桃を目にして驚いた。夏至が過ぎてしまったのも驚き、自分の中の時季と時機と時期はちぐはぐのまま流れる。

    旧大津公会堂

    13:00前に神戸へ出発。先生がレーザプリンタを購入されたので設定に。価格を耳にして嘆息。一昔前なら数十万では変えなかったような複合機がiPadより安い。恐ろしい。ひょっとしたら数年に一度買い替えた方がランニングコストの面でお得では?!とちらりとよぎった。

    どうしても紙を出力しなければならない業態はまだまだある。紙とタブレットの並走は続く。いずれ限りなく減っていくとはいえ、紙でなければならない、コトやモノって何だろう。ネガティブな問いではなく、特性を活用できるコトやモノは何か再考したくなった。

    06月23日のスーパームーン前日。帰りの車窓から霞んだ月が見える。大きさで最大14%、明るさで30%も違うスーパームーン。ただ、今回は地球から最も近くなる距離ではないらしい。「ほぼ」スーパームーンに見えるとのこと(23日は雲に覆われて見えなかったけど)。

    月を見ながら思い浮かべる。

    書かれていないこと、目にできていなかったこと、声になる少し前、を配慮できるようになりたい。何が書かれていなかったのかをちょっとでも考えられるように、見えているようで見ていなかったことを振り返られるように、声になりそうでならなかった気配を感じられるようになりたい。すごく難しいかも。どこかセンスが必要かもしれない。センスがなくてもなんとか踏みとどまりたい。

    沈黙しているから考えていないと臆断したくない。話題にしないから無関心ではない。なんとなく勝手に感じ取ってしまう世間の風潮は「はっきり」だ。はっきり言わなければ、はっきり聞かなければ、はっきり見なければ、「すっきり」しない。

    そんな領域からちょっとだけ離れた距離感を把持しときたい。

  • 理想は思想

    2013.06.20 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=37zfqCBvE2c]

    caravan – TRIPPIN’ LIFE でスタート。ふらりぶらりふわり出かけたくなるとき。出かけたくなる距離が伸びていき、お出かけから旅へ質感が衣替えするとき。音が契機か気分が誘うかわからないけれど、耳に流しておきたい一曲。

    6月に入って右足親指の痺れを知覚した。ごくわずかの違和感から痺れをはっきり感じて、以降これを書いているいままで続いている。寝ている時以外はずっと痺れている。足が地面に接地するとき、右足と異なる感覚。なんだか薄い膜に包まれて地面に着地する。

    そうこうしていたら先週から右手の親指が痺れ始めた。はじめはスマートフォンを触っているときの違和感。右手の親指でタップやスライドしたら、足と同じく直接的な接触感がない。薄い膜を一枚覆って触っているみたい。

    で、今週の月曜日、右手首から肘にかけて表面側(専門用語を知らない)が痺れだした。これを入力している今も痺れている。

    いずれの痺れも激痛ではない。手足の親指はじーんとして鈍い痛みといえないような感覚。肘にかけての痺れはピリピリに近いか。痛みの表現は難しいな。

    困った。身体というより、仕事していても痺れが意識をもぎとっていくし、少し入力したら右手親指と手首から上の痺れがピリピリするのでままならない。

    こういうとき検索しない。体の違和感や病気について検索しないようにしている。医療は非常に高度な専門領域。素人が診断できるわけがない。そんな自己判定は己を危うくするだけだと思っている。

    検索するなら専門家に診断してもらって説明を受けてから。説明の理解を深めるため、知識を学ぶため、または専門家の方々へなるべく効率的かつ効果的に質問するために検索する。「何を調べなければならないか」が判明していれば検索しやすくなる。「何を検索するかはっきりしない」検索は、自分を誤った判断へ導きかねない。

    琵琶湖 MICHIGAN

    原稿を書き起こすために録音した会話を再生。自分の声としゃべり方を耳にする。苦行。いちばん嫌な作業だ。自分の声が気持ち悪くてしょうがない。発話している時の声は気にしていないが、録音された声は心底嫌い。昔から変わらない感情。

    我慢しながら聴く。テクニカルな点に集中した。口語と文語の違いが浮き上がる。明確な差異。口語と文語はそれぞれの特性を持つ。

    口語はランダムであり、曖昧な表現を視覚情報(身ぶり、手振り、表情など)が補完する。補完とは、置き換えれば、勝手な解釈といえる。文語はシーケンシャルであり、曖昧な要素や文脈を「言葉」でさらに補う。よって情報量が増加しやすい。

    両方の特性を考慮して、原稿を読む人への伝送損失を軽減させる文章を書きたい。口語ならではの雰囲気を残したい。それが難しい。文意の構成、文体の技巧、語彙の範囲が問われる。

    視覚が勝手に解釈した情報を補正していくプロセス。それが会話の醍醐味だろう。時間をかけて補正する。補正するはずの会話の最中、視覚はさらに自分の「側」へ勝手に解釈する。たぶんそんな果てもない円環が繰り返される。

    私から見た「都合」と相手から見た「都合」があり、互いが自己都合によって了解できるまで、願わくば自己都合から離れて自己と他者の「中間都合」の合意にまで根気よく補正できたら理想かもしれない。否、理想はないかな。理想は危険な思想。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • 満足と無力の狭間

    満足と無力の狭間

    2013.06.06 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=l3OM0fG0jSE]

    S.R.S – Sometimes (English Version with Lyrics) でスタート。日本語と英語バージョンがあって、英語のほうがお気に入り。切ない歌詞。想い歌う。男性と女性では世界の分け方が異なるのかしら。男性が男性を、女性が女性を歌わず、反転させた思いを書いたとき、ちぐはぐさが残る。女性が主人公の小説を男性が描くのと少し似ているような。ちぐはぐさが心地よく聞こえるときがある。

    背中と腰の痛みが今月に入ってピークを迎え、ストレッチの効果も芳しくなく、座るも寝るも痛いのでままならなくなり、さすがにやや弱気になりかけているのを、どうにか踏ん張ろうとしている、いまココ、のような状態。

    身体が思うように動かなくなる。それ自体は気持ちにダメージを与えない。動かなくなる身体に合わせられるように営めたら満たされる。やっぱり痛みだ。萎える。痛みの表現はたくさんある。漢字やオノマトペで表記できる痛みや言いようのない痛み。古来、「痛み」を悶々と考え続けた人もいた。

    健康がいかなる様態か気にとめないとしても痛みは五感を奪う。痛みを五感を痛み自身に向かわせようとする。頭か身体か知らないが、とにかく痛みを知覚したまま、水に染み入る石のように浸透していく。やがて石よりもはるかに速く気持ちが割れる。

    Drop
    *RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

    自分のひとりの営みが安定しているとき、無力を感じない。広辞苑には、「力の無いこと。勢力のないこと」と「貧困。また、貧乏になること」とある。ひとりで営みを賄えているからだ。ひとりで賄えるわけはないが、ひとりで賄えている錯覚が無力感を身体から消去している。

    ところが、ことが起き、自分も何かしたくなったとき、無力はやってくる。そこではじめて自分には人と人をつなぎ合わせるハブをもたず、人と人の脈がない現実を理解する。

    苛立ちの総量のうち2/3ぐらいは、自分の無力感が起点かもしれない。ひとりの営みが安定しているときにふれたくなかった人の脈が可視化されたとき、心が酷く乱れる。他方、自らすすんで扉を開かない、幼稚な自我への苛立ち。その苛立ちが転じて周囲へ向かう。

    自分、だ。ずっとふれている。

    世界を変えるのはたいへんだが自分を変えるのはかんたんだ、養老孟司先生はおっしゃっている。正確な引用ではない。うろ覚え。自分を変える、という点は気分を変えると受けとめてもよいかな。

    そのとおり。朝、鏡に映る自分をみて笑い、早朝、窓を開けて青い空と強い陽射しを見てわくわくする。たぶんそれだけで気持ちはかろやかになるはず。

    無力感を自覚しても虚無は引き寄せたくない。無力を自覚して、そのなかから自分にできることを確実にやっていく。自己満足から少し距離を置いた気持ちで。たまに自己満足をたぐり寄せ、次はまた無力感を自覚して、満足と無力の狭間を悶えてあえいで、小さなコトを確実に出力する。

    誰か見ていると欲求しない。期待の源泉が枯れたとき、また動きが止まってしまう。満足と無力の繰り返して漸進していくしなやかさを身につけられたら自分を楽しめそう。

  • 自分からもっとも遠く離れた自己意識

    2013.06.02 薄曇り

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=J4zeiIOcZik]

    サンタラ – バニラ でスタート。「冷えた苺もニュース速報も君の電話も何もいらないの」って詞、なんでこんな配列が思い浮かぶ? 素敵。歌詞を書いてメロディ、メロディのあとから歌詞、どちら? 目に浮かぶ風景、具体的な映像、でもどこか詩的世界が漂っている。

    川上未映子さん出演のトーク番組を視聴。言葉の使い方を勉強。wikipediaによると永井均先生から影響を受けたとのこと。テーマは独我や自我について。

    どのように学問されたか存じ上げない。哲学の一片を習得されていらっしゃる。だとしたら術語の臭さが会話に残留していそうなのに濾過されている。著作や対談やエッセイを手に取ったけど感じなかった。

    今回の番組では、こてこての大阪弁でホスト的役割を担って場を仕切っていた。そこに臭さはない。ひょっこり口に出たフレーズが、語彙と思考の切れ味を映し出す。

    書くという行為について。自分からもっとも遠く離れた自己意識に出合うこと、対話すること、だと。

    字幕を読む。見なれない単語は「自己意識」。あとは日常で目にする単語。

    「何か」についてほんとうに理解したしゃべり。身体の隅々に行き渡らせる理路を持っていたら、「何か」を語る言葉は平易になる。そう思う。

    外部に存在する他者を自分の身体へインストール。沈黙のアップデートを繰り返す。翻訳。次にアウトプットされるとき、他者は「自分語」に変換される。自分の語彙の範疇で構成される自分の言いたいこと。

    それが理解。身体と言葉の感覚が限りなく近づいているような状態。

    大阪の桜

    場の雰囲気を読み、場に合わせて扱う単語を変える。そんな感じではない。よほど器用な人でないかぎり、そんなことできない。

    街のノイズに紛れ込んだ単語が会話を編む。どうしても置き換えられない術語が少々。言葉をほぐしながら会話と術語のミゾを埋める。会話と術語の狭間を、悶えて生み出した「自分語」が賄う。

    映像の情報量は文章よりも勝る。あるテーマについて頭の中に浮かぶ映像や出来事を、「自分語」に翻訳して語る時、どうしても「それ以下」になる。運よければ映像と自分語が等しくなるぐらい。

    何時間も独白するような状況だったら「それ以上」になるかもしれない。たぶん、万に一つもないだろう。

    頭の中にある形と出力される表現はズレる。「それ以下」にしかならないもどかしさ。じれったい。語彙が足りない。不足を補える語彙を持っていない。そういったものを抱えることが、自分で考える根っこ。そのじれったさやもどかしさを脇へ置かずに書く。

    「美しい日本語の組み合わせを提出するという意識が強い」と谷川俊太郎さんはおっしゃっていた。詩のメッセージは何? とよく聞かれるが、伝えたいことがはっきりしていれば散文で書く方が正確、とも。

    詩をめくる。どうしても意味を欲しくなる。意味はなに? 詩の語と語と間にも意味は何かあるかもしれない。散文と異なる。読む人の数だけありそうな意味にも到達しない意味。

    詩も散文も、「書く」という地点までは<私>と自分の共同作業なのかな。手元から離れてしまえば、意味のパズルは読み手の手元へ。自分が描いた「絵」とまったく違う絵のピースをはめられてもどうしようもないんだろうね。

  • 肉体は老い身体と心は進化する

    肉体は老い身体と心は進化する

    2013.05.07 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9cRbRE9sS_s]

    奇妙礼太郎 – California でスタート。ずっと聴いている。今日も舞鶴まで連れて行った。奇妙くんはライブでアレンジするからCDとまったく異なるしそれぞれのライヴでも違う。先日、SNSでトークしながら頷き合っていた。6月のソロライヴ。カフェでのライヴ。いまからドキドキワクワク。

    5月、5月?! 肌寒いより寒い。立夏、暦では夏の始まりだけど、今日の季節は春先へもどりたがっているみたい。人の記憶は過去に遡れても季節は逆再生できず、人の営みも季節と同じく直線と曲線と弧を描きながら漸進していく。

    一本の桜の木。琵琶湖疎水に咲き乱れる桜から意志を持って離れているかのように存在している桜の木。ひとりで見に行っていたのに、今年は見に行かなかった。ものすごい悔やんでいる。久しぶりの大きな大きな後悔。

    来年も見られると思わないようになりつつあり、絶景と観光地に関心は薄れていくが、半径1km内で繰り返されている自然のプログラムを見ておきたいと感じはじめている。あとは、どうしても行っておきたい土地がひとつあり、そこだけは何があっても必ず行くと決めているし、決めているだけではなく、思い立ったらすぐに行かなくちゃいけないよ、と自分に毎日言い聞かせている。

    shrine
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    朝から舞鶴へ。道中、奇妙くんをずっと聴いていた。 “二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)” 谷川 俊太郎 をぱらぱらめくりながら目に入る文字を追いかける。追いかけて、顔をあげて車窓を眺める。詩と車窓を行ったり来たり。山間の緑のグラデーションにフジが単色を彩り、場違いか溶け込んでいるか、自分には見分けがつかない。この情景を言葉にする人はどんな文を綴り、絵にする人は何色で、写真を撮影する人の構図はと空想して、何もしない人は何を感じるのかな、つらつら緑と紫はスライドする。

    15:30すぎに終わり、亀岡まで移動。帰りの道中、仕事と四方山がクロスした会話は車両の進行と合わせるかのように前へ前へ。会話の時間軸は季節と同じく、直線に進み踵を返さない。できごとを語る時制は過去であるけれど、話の意図が向かう時制は未来。

    18:00から久闊を叙する。5人が集まり今と昔を行ったり来たりする。周りの方々の話を伺い、自分の役割を見つめ直す。お相伴に与りながら、成功へ近づきつつある人たちを前にしたときにうろたえる私を認識する。平常心からはまだまだ遠い。

    今より昔を語る質量が増加したとき、人は自分の年齢を数える。もう少し経てばからだの話が質量の中心を占め、病と健康の単語の使用回数が45度以上の直線を描く。

    肉体は老いる。身体と心は進化する。そんなイメージを持っている。年齢より鮮やかに演出するために肉体を手入れする。大事なことだ。ただそれに苦心するあまり、身体と心が退化してしまったとき、動く塊になるかもしれないと怖れている。

  • 思考と感性よりも、目で見たモノがすべてと思い込む

    2013.04.24 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FcWGdkoo0Fs]

    東京スカパラダイスオーケストラ / Pride Of Lions でスタート。めっちゃすき。日本語訳の歌詞も好き。掃除や洗濯でこれ流すと、体が勝手にスイング、朝からアゲていけそうな錯覚だし、凹んでいるときにながせば、眼瞼の裏にためこんだ水分をからりと流してさっぱりできそうで。

    SNSの環境が日常になったときに、情報は一瞬で伝達される。ボストンマラソンのテロでは、大手のメディアは時速でSNSに遅れをとった。テレビや新聞を中心としたメディアは、速報や即時についてこれからもずっとSNSに追いつけない。追いつく必要もないと思う。

    一方で、Twitterのアカウントがハッキングされてデマが流され株価が一瞬で暴落するようになった。

    バスのなかで障害者の子供と母を罵倒する乗客がいて、その乗客たちを運転手が一喝して降ろさせた、なんてデマが一瞬で「いいね!」されてフィードに流れてくる。

    1999年に購入したマクドナルドのハンバーガーを14年もの間保存し続けるとこうなる(GIGAZINE) – 海外 – livedoor ニュース を目にして、見たモノがすべてを味わった。

    写真を見て疑ってみること。包装紙とレシートが1999年だとしても、なぜ「中身のハンバーガーまで1999年」と判断できるのか? パンがなぜあんなにふっくらしているのか? 水分は? 黴の発生メカニズムは? などの疑問が浮かぶ。

    「いま」「ここ」で撮影したかどうか判別できない写真であったとしても、見る側は、「いま」「どこ」の視点から視線を送る。何かの記事で読んだが、Facebookでたまたま豪勢な食べ物の写真がアップすると、贅沢な生活しているように人は受けとめたりするようだ。

    タイムラインに流れてきた食べ物の写真へ、「こんな時間に食べたら太るよ」とかのコメントが寄せられている。深夜にアップされていたからだ。

    この感覚が普通なのかもしれない。ウェブサイトの制作でも参考にしなければならない。少数の疑念より多数の誤解が「正解」なら、時にその正解を採用したページを作らなければならない。

    ユキヤナギ

    ネットの情報でも鵜呑みされてしまうんだから、編集されたニュースの映像を見て喜怒哀楽を表現する人は多いだろう。向こうは編集のプロだ。意図や願望、希望や期待をインストールして編集している。一般的にプラスのイメージを伴う単語を使ってみたが、そんな微笑ましい様相ではない編集があっても不思議じゃない。

    そして、何よりも一番恐れているのは、自分だ。「自分はいったん立ち止まって考える」から騙されない、引っかからない、と自覚している時点で、すでに騙されて、引っかかっていると思ったほうがよい、と自戒している。

    「騙されない」「引っかからない」という視座からしか物事を眺めなくなる。

    視座と視点を固定させて、いつのまにか、その定位置にこだわるようになってしまうと、環状線の縦座席で駅弁を食べたら違和感があっても、新幹線の横座席で食べてもおかしくない、と納得してしまう感覚が養われている。なかにはどちらもおかしいと言う人がいたほうが、僕は健全だと思う。

  • 毎日、鏡で顔を眺めてください

    2012.10.30 晴れ時々小雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Vj99mKu8EGQ]

    今朝は 福原美穂 – 絶え間なく でスタート。「何度となく繰り返す人と人の言葉をあなたはどう思って見ているでしょう?」ってフレーズはステキだな。聴いている瞬間の情感があたまの感じ方を己に与えてくれる。いまの邦楽の歌詞は具体的な出来事、具体的な内容を歌詞にまとめている印象で、もう少しぼやかしてもよいのでは?って感じるときも。

    平日の昼間、近所を歩くとき意識する。こざっぱりした服装を着ているつもりで歩いても、誰かが僕を見た時、「時間」「年齢」「空間」×「不安」「疑心」「伝聞」が僕の印象を査定する。子供が前から近づいてくると神経をとがらせる。寂しいと察するが両立する。親御さんの立場を想像すれば、世間が自分を見る眺望点へ近づける。

    こういうとき、ひとりで仕事をするようになってよかったと感じる。一般的なサラリーマンを続けていたら、近づけなかった眺望点だ。ライブへ行くバンドのギターリストの方は、東京で職務質問を頻繁に受けるとブログに書き、ライブのMCでしゃべる。それがおかしい。身体感覚で理解できるから爆笑してしまう。

    身体にはよくないと思いつつなるべく外出しないようにしたら、外で目にするポイントが変わる。変化を感じ取れるようになってきた。といってもわずかに感じ取れるだけ。元来の鈍感が劇的に改善されるわけではない。この間まで、と思うことがしばしば。大阪駅周辺の変貌に毎度驚く。

    「この顔、結構気に入ってるんですよ。見慣れると可愛いんです。50年間も同じような顔を見てきたんですが、この何週間かは別の顔を見ているわけで・・・・・・。『お、ちょっと愛嬌があっていいじゃねぇか』って。皆さんも毎日、鏡で顔を眺めてください。必ず(体調の)変化に気づくはずです。健康であってください」

    落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」 | スポーツ | 現代スポーツ | 現代ビジネス [講談社]

    あらためて見ているかなと思う。僕の中ではこの文章と “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ の自己マスタリーがリンクする。

    「みんな企業に入るときは、頭が冴え、学問があり、活力にあふれている。人とちがうところを見せてやろうとやる気満々だ。でも三〇歳になるころには、わずかの人間が、”出世コース”に乗り、残りの者は週末に好きなことをするために、”勤務時間を適当に過ごす”。熱意も使命感も、新人のころの覇気も消えてしまう。仕事に注ぐエネルギーはほんのわずか、やる気なんてないも同然だ」

    “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ P.15

    私の顔貌を見ているか。私に対して適当に過ごしている。自分に固着して、自分に執着して、私を練り上げていく覇気を失っている。そんなふうに己を眺める。もっと私を自分から切り離して己を冷静に分析したい。

    己を分析する手本(“死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策)に出会い、「死を忘れた幸福感」の一節を読む。世間と己に寛容でなければ己を冷静に分析できない。

    近代産業の生産過程は、高能率という一点に集中される。生産過程の基礎をなすのは、つねに高能率を保つ健康なる機械である。その意味で、近代における生産機構は、つねに、健康である。健康で、フルの能率で活動していることを常態とする。そこで働く人々は、機械と同じように、最高の能率で働きうることが、前提とされる。(中略) 近代社会は、このような近代的生産機構の歯車の回転にピッチをあわせ、形成されている。近代社会は、性格上、健康な人間だけを標準にしてでき上がっている社会である。このような社会が、健康だというのではない。そこに参与することを許される人々は、すべて、能率のよい健康者に限る社会だということである。

    “死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策 P.139

    分業は思考の断片化と部分化をもたらした。いまは「あるひとつの仕事の全体」をひとりですべてまかなえるのはめずらしい。かぎられた人かかぎられた職にだけ「あるひとつの仕事の全体」があるとしても、ほとんどは分業組織になっている。「あるひとつの仕事の全体」を分けたとしても、それに取り組んでいるときは、「全体を眺める」はずが、いつしか目の前の分業が全体になった。いったい「全体」はどこにあるかわからなくなり、思考が断片化・部分化していく。

    平日の昼間、スーツで歩く男性は「健康」であり、二、三日剃らないひげ面で私服を着て歩く人は「不健康」かもしれないと断片化される。たぶん、逆転する土地もあるはずだ。平日の昼間にスーツで歩いていたら奇異に映り耳目を集めるような場所。だからどちらが正しいとかではなく、どちらかに所属しているかだけなんだけど、断片化された片側はもう片側に対して寛容でなくなり、感情の一線が越えると攻撃する。言葉でなら簡単に攻撃できるから、数百キロ離れた土地で起きた出来事に腹を立て、電話や書き込んだりして誹謗中傷する。身体を動かしてその場へ赴き感じることを咀嚼する時間を持たず、遠い「出来事」に触れた瞬間に身体から言葉が乖離して、言葉が闊歩して、言葉に触れた人が言葉に精神を揺さぶられ、言葉で切り返す。

    そっとしておく、というもっとも冷徹で残酷であり優しいふるまいをさりげなくできたらよいな。