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  • 感情の種類の多さ

    2013.09.14. 15 強雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=48B21USLllU]

    Jabberloop – Ugetsu でスタート。好きなインスト。And Infinite Jazz に収録されていて、MISSING MY BIRD も好き。どんな気持ちのときにインスト聴きたくなる?

    第四十四候、鶺鴒鳴。旬の魚は間八。好物中の好物。天然の刺身のこりこりは別格として、かまの塩焼きに垂涎である。

    週末、仕事と読書のコイントスしていたら歩き方を忘れそうになった。いままでやったことない制作を始めると、躍起になる。新しいことがインストールされていく感覚がいつもある。楽しいかどうかは判然としない。楽しいと感じられるほど夢中になっていないからだと思う。

    仕事に対するスタンスは「顧客の顧客」を考える。顧客は歯科医院の先生方。(医療にこの表現は不適切と承知して)顧客の顧客は来院者。来院者の言動を考えて自分が支援できる範囲内で院内を設計する。それしか考えていない。

    仕事と生活を峻別できない一方で仕事に一辺倒になれない。中途半端である。その自分を認めたうえで、仕事 ⊂ 生にある各事象を自分なりに構造化して、かかせない大切なコトやモノを構造関係から抽出する。先人の思考を剽窃して、抽出した現象を自分で何とか記述する行為が、自分にとって「仕事」だと思う。誰かにフィーを請求するわけでないから仕事のラベルを貼らないけれど。

    そんな「仕事」を勝手に続けていると、感情の種類の多さが感じられる。「感情の種類の多さ」はヤマザキ マリさんの言葉。耳にしたとき即反応した。的確な言い回し。これだ、って感じた。感情の種類の多さ。

    感情の種類をどれだけ多くもてるかが生きること。ふと浮かんだフレーズ。これを口にするとしたら、恥ずかしくて衒いがある。斜に構えるし、まだまだ、なんだろ、真顔で真剣に言えない。油の上をぬるぬる歩いて滑るような感覚。でも、そう思う。

    激しい想いを持てることは素敵。感情の種類の多さの一つ。齢を重ねて想いがますます激しくなれるなら、自分を楽しませる自分に磨きがかかる。反動はある。自分が見えない色を見る人に出会えば、人は怯える。自分が感じられないコトやモノを感じる人への「複雑な反応」もまた感情の一つ。

    言葉は感情の種類の多さに追いつかない。否、ずっと追いつけない。感情の種類の多さを誰かに言い表したくて、あるいは自分自身に伝えたくて先人は悶えてきた。先人が言葉以外の表現を発見してきた。

    「自分にしか」の感性は独我の陥穽が待っているけれど、陥穽に怯える嗅覚を鍛えたら、「自分にしか」の感性は、他者への境界線と自身の輪郭線を描きながら研ぎ澄まされていくんじゃないかな。

    竹内栖鳳 はあらゆる流派に顔を出して先人を真似た。他人はどこに所属しているか皆目見当のつかない氏の技巧を鵺派と揶揄した。氏が残した言葉。

    鵺派であることを改めようと思わぬ。それが熟して初めて一つの機軸となるのであって鵺派から入るのがかえっていいと思う

  • 奇妙な勇気

    2013.09.09 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=m1n_7_XJ6Ag]

    忌野清志郎 Feat. RHYMESTER – 雨上がりの夜空に 35 でスタート。何も言わなくてOK、サイコー。ボス、なんで、なんで、なんで、って思ってしまうけどね。

    目が覚めてすぐにカーテンを開けると薄暗い。今年はできるだけ集中してカーテンを開けたときの景色を見ていた。1分ずつ遅れていく日の出が演出する微細な変化を認識できないけれど、昨年までよりも「あっ、何か違う」の感覚は身体に残せた。

    あの朝の気配。雲がない高い空につられて外へふらり。カラリとした空気は雑多な匂いを鼻腔へ置いていく。一駅ぐらい軽く届きそうな透明感。東大阪の頃は、祭りまでの朝と勝手に呼んでいた。祭りまでずっと匂いと皮膚が滑っていくような空気が続く。太鼓台を担いでいた記憶が再生される。

    SFを読んでいると、極度に画一化された社会の描写がある。どうしてそうなるかがテーマのひとつで、読んでいると納得できる。が、その世界は虚構だから安心して了解できた、いままでは。

    だんだんそうじゃなくなってきた。SFは現実への警句と虚構への希望を描くグラデーションかも。

    「ひとつ」へ向かう多様性を纏った単一。「ひとつ」のなかにいろんな意見はあっても、「ひとつ」へ熱狂する。熱狂は、嫌いなものや見たくないものをおしのける。取りのぞく。

    抵抗されると罵倒しながら、根絶やしにする。

    Twitterで「隣の」を検索すれば、至るところで「見られている」世間が浮かび上げる。自分は見ている意識と自分は見られている意識を測ったら前者がやや重い、ぐらいが互いに監視するのに適している。

    東京五輪2020年が決まったとき、「7年後」を計算しなかった。「7年後」を思い浮かばせることもなかった。苛立ちだけ。苛立ちだけの自分を知覚して、あっ、ちょっと変わったんだな、と感じた。

    先月か、先々月から追いかけているブログの方が、Twitter のアカウントを削った。テストらしい。Twitterのアカウントはある条件下なら復活できる。復帰するつもりでいらっしゃるらしいが、どうなるか追いかけたい。

    自分の中では「インターネット」があったのに、いつしかSNSがインターネットに置換されつつある。

    「いまは過渡期だ」と、評論家が使う言葉があるが、いつだって過渡期であるとも言える。SNSはこれからも進化していくだろうし、誕生するサービスや消滅するサービスがオセロのようにゲームをくり広げるだろう。ただ、誕生と消滅が続く「過渡期」に身を置くか、過渡期から距離を置くかのメタな「過渡期」に対して意識の立ち位置が迫られているような気はする。

    わかっているのは、奇妙な勇気。日々の営みのなかでの孤独(悲観的な意味はない、念為)と向き合えるようになってきているのに、SNSの中の孤独に向き合えないとしたら喜劇か悲劇。喜劇か悲劇の舞台から降りる奇妙な勇気。

    奇妙な勇気を身につけられるかどうか。身につけたいか否か。

    アカウントは削れても、営みのアカウントは削れない。自分とまだまだ対峙していない。

  • 天秤の上に

    天秤の上に

    2013.09.02 雨よぉ降る

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=DjydOI4MEIw]

    Dusty Springfield – Son of a Preacher Man でスタート。IGで拝見、懐かしい。Jungle Boogie と Let’s Stay Together なんだけど、あえてこちらで。サントラと映画は台詞中のFuckの回数より気持ちよい。ティム・ロスとアマンダ・プラマーの会話からはじまってレザボア・ドッグスよろしく、切れたくだらなさが最高。サミュエル・L・ジャクソンがスプライトを飲む時の目がいってる….etc

    天秤の上に誰かと私をのせる。どちらかに傾くの? 平衡はハレー彗星の周期。

    天秤の上に敏感と鈍感をのせる。どちらかに傾くの? 平衡は地球の公転の周期。

    天秤の上に言葉と沈黙をのせる。どちらかに傾くの? 平衡は満月の夜。

    立つ場所が天秤を見つめる視線を懐抱する。

    立つ場所が天秤を見つめる感情を解放する。

    立つ場所が天秤を見つめる思考を解剖する。

    天秤の上に自信と過信をのせる。

    天秤を知らない言葉は、誰かを労り軽やかにするよりも、憂いや哀しみの分銅をのせる、誰かの心に。

    Lake Biwa
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    一日の終わり。

    好きな音楽を聴く。好きな本を読む。好きな写真を見る。好きなお酒を飲む。誰かと話す。大切なものを思い出す。好きに囚われず淡々と飄々と。光と影は無限、同一の様式が二度と現れないように、一日の終わりは過去のどれとも誰とも同じでない。

    願わくば、私を損なう終わり方は水曜日か木曜日だけにしたい。

    無理からに書いた文章は、支離滅裂と超越して馬鹿の単語遊戯。

  • 世界は寝相を見ればよい

    世界は寝相を見ればよい

    2013.08.30 雨と曇

    子供たちや動物が寝ている姿の写真と動画に人々は吸い寄せられる。見入る。キュンキュン、コメント欄にはシャボン玉が浮遊する、みんな、まあぁぁぁるくるい。

    どうして残虐なことが起きるのか。あの人たちは寝相を見たくないの?

    政治家は、狂る人々は、過激な絵空事に夢中だ。現の寝相を目にしていないの?

    世界は確実に進歩しているけれど、その中にいる私の目に映る進歩の速度はどんな生命の歩みより遅くて、止まっているかのよう。描く像へ世界は近づいている実感を持てなくて、世界は寝相を見ればよいと私は苛立つ。

    誰かのことはわかろうと思わないけれど、誰かのことはわかりたい。わからないことは銀河系よりも広大で、わからない苦しみが1,000倍ならば、わからなかったことがわかったときの喜びは無限大。

    わからないことは毎日落ちてくるのに、無限大はなかなか落ちてこない。いつまでも見上げている。どの雲の上にひっかかったままなんやろ。

    それぞれがそれぞれの胸奥に小片を持っている、たぶん。持っていなければこれから見つけるんだと思う、それぞれがそれぞれ。

    小片は幾つもあり、万物流転であり、変わらないものもある。誰が発明したか知らないけれど、永遠に剥がせない接着剤で貼り付けられた小片、ってあるんだ。心の深部に貼り付けられた一枚。それが、かけがえのない巡り合わせ。

    時空は音楽のない人生。一枚の小片。

    まだ手にしていない人は、いつ何処でかなんて未知と不知、手にしても接着剤で貼り付けられないやら、剥がれてしまう接着剤やら、気付かないまま過ぎていくやもしれず、はたまた貝合わせの貝のごとく小片を持って待ち合わせしていた人はいるんじゃないかしら、とも。者にあらず、物が小片の人もいると思う。あるいは事が小片。70億の営みがあるんだ、たぶん。たぶん、ばっかりだけど、ちっさな頭の中でだけの特権は想像。

    いろんな見知らぬ人がいる。いっぱい居る、イル、いる。

    「いま」の感情が、直感と直観の濾過装置を使って、わかろうと思わない人を取りのぞき、わかりたい人を残す。誰も残せない、あるいは残さない人だっているだろう。人は複雑なんだ、きっと。そう思う、というより思いたい自身の気持ちを知覚して、決して単純にしない、と自分を慰める。

    その慰めは逃げてるんと同じやないんか? と時々自分に確かめて、天秤にのせる。

    宮崎駿監督が声優を決める会議で発言した。『風立ちぬ』の堀辰雄を誰にするか決めあぐねていた時の言葉。堀辰雄氏をこう評した。

    言葉が少ないだけなんです

    頭よすぎて あんまり余計なことを言わないだけなんです

    内気だからしゃべんないじゃないの

    頭よすぎて、は羨ましい。馬鹿な私は、頭よすぎての人よりもっと黙らないと。なかなかできないんで焦るんだけど。

    喋らなければわからない。ひょっとしたら伝えられない。それはそうだ。思う一方で、沈黙の時がある。沈黙は、透明でない空でもない何かの無形を語る。沈黙が語っても誰も受けとめない。

    誰にも受けとめられないあたりまえのことを確かに握りしめて、沈黙の語りを慮ってくれる存在がいると願う。矛盾。沈黙の語りの矛盾が、残像を自在に編む言葉を生成する。

    光速は毎秒約30万キロメートル。その速度で伝えて伝われば効率のよい コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン だね、代わりに相貌から喜怒哀楽が無くなったりして。

    沈黙は光速で無尽の中を進み、いつか誰かの心境に反射されて返ってくると語りながら待つ。待つんじゃないかな、何だろ? 今は最適な表現を発見できない。

    喋らない方がよい希求と書き連ねる駄文。これも矛盾。沈黙と矛盾から言葉が絞り出されたら嬉しい。

    またくどくど書く悪癖があらわれはじめた、あかんて。

  • 識を知り自覚を忘れ裸の王様

    2013.08.10 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=fGsv7AYpuVY]

    New York Ska Jazz Ensemble – “Boogie Stop Shuffle” でスタート。なんもかんも全部。裂けなくても裂きたい。衝動を抑えず。粉々に砕ける。跋扈する魑魅魍魎。沈着な表意が作られて内観は荒れ狂る。コントラスト。

    資料が届いたので入力スタート。黙々淡々。トーストの焼き加減をのぞきながら別のことを思い浮かべるがごとく意識が遠くへ出かけた。入力中の自分と空想中の自分、が、ズレ・る、迸る。コントロールできなくなるギリギリで戻ってきてふたたび出かける、出かけさせる。意識には旅させろ。

    TwitterのTL、リストのtweetやブログは、向こう側とこちら側を示してくれる。花火大会が終わったごみの景色みたいに、社会は自分が考えているよりももう少し混沌としている。

    社会にまで風呂敷を広げてくらますなよ。まわりに隠れている理解の埒外、灯台下暗し。

    人の振り見て我が振り直せ、という。

    先人のシンプルな知恵ほどパワフルな教えはない。

    いつも心に貼っているこの付箋は時を経て剥がれる。剥がれ落ちた付箋に気づくまでの時間が長ければ長いほど危機だ。

    シンプルでパワフルな知恵よりも高尚に見える古着を着てみたくなるのだろう。先人の古着を借りる。それは透明の古着。思い込みが自分の裸体を映さない。

    自分の身体を自ら測り、自ら言葉を裁断して、自身の営みを描き、私の服を作り上げる。私だけの服、たったひとつの服。

    既知の境界線からはみでた服でも気にしない。規格外のサイズだって恥じない。威風堂々。

    丁寧に扱い自暴自棄になれば時々ぞんざいに脱ぎ捨て、綻びを繕い、違和感を覚えながらボロボロになるまで着る。いつか着こなせると信じて。

    それが自分で考える、と思う。生のデザイン。

    田んぼ

    加齢は脳を保守にする、頭がかたくなる、という。それでよいと思う、自覚していれば。

    だけど、身体と感性までかたくしなくてよい。

    知恵との出会い。出会った知恵を身につけたいのに身につけられなくて悩みもだえる、ちょっぴりうなだれる。心が穏やかである様子とちょっとしたことでも感情がぐぐっとゆれ動く様態を両極に同時に存立させられる知恵。その知恵を招き入れたくて歳を重ねる。加齢の醍醐味。

    冷静はいちばん奥の部屋に鍵をかけて置いておく。

    稲刈りの時期に祭りといっしょに確かめに行こう。ただ鍵をなくしたら困る。鍵をあずけられる人を探す、探し求める。

    もしも出会っていたら赤心を推して人の腹中に置く。

    人をなかなか信じられない私だからそうしたいんだと願ってるんだろうな。

  • シンプルな質問、胸奥の黒板へ記録

    2013.07.31 雨のち晴れ 蒸し風呂

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=yV8TWVfncSs]

    青谷明日香 – 異端児の城 でスタート。奇妙くんを紹介してくださった方が教えてくれた。ありがとうございます。ゴジラなら間違いなく見逃さない球がきた。聴く、リピート再生。トークもおもしろい。「満月の夜には全裸でベランダへでないとだめ、な人には言えない趣味」って、そんなのないない、いや、あるか。タイトル曲のアルバムを買わなくちゃ。ライブも行きたい。

    水曜日の朝、大阪へ出発。昨夜から巡らした心思と情感が、湿気と混じってあちこちが火照る。心地よい火照りではない。

    大阪駅で乗り換え待ち。一雨きそうな空。ミストサウナなプラットホーム。橙色の車両が入線。腰を下ろして耳をライブビートにきりかえる。と、甘い香り。リミッタカットのオーデコロンやフレグランスは苦手。さりげなく左右を見渡すも不明。

    自分に何ができるんだろう。火照りをさましたくて歩くつもりなのに車窓は土砂降り。仕方なく最寄り駅で降りて少し待つ。

    10:00スタート。院内の資料を作成するにあたって、必要な器具を撮影。器具がファインダに現れる。「これなんですか?」と一つ一つ尋ねていたら進まない。ウズウズさせる器具だけ尋ねた。

    13:00に前に終了。帰り際、シンプルな質問が突き抜けた。狼狽。予定調和の物語みたいにリターンできない。

    三井寺の緑

    一つのコメントからはじまって奇妙くんのライブへ足を運び、青谷さんを教えていただくに至る。ひとつのコメントからリンクして広がった世界。

    日本全国の桜の写真を目にすることができるようになった時代、そういうつながりは日常茶飯と言われるかもしれない。

    (そんなことないだろうけど)もし言われたら、”侮蔑”を浮かべる自分の顔を脳裏にスケッチ。上品な侮蔑は手強いからいまから表情筋を鍛えようかしら。

    人が何を大切にしているか。

    誰かが大切にしている物事に触れたとき、「そんなん結構あるよな」って目が笑っていない嗤いを浮かべてわかった風の台詞を棒読みするより、たとえ正直に驚いても、それぞれの方々が大切にしてきた月日や熱情を想像できる人でいたい。「わかる」を手軽に口にしたらだめなことはある。

    歳を重ねるほどそう感じる。

    すぐに役立つものは、すぐに役に立たなくなる、と先人は言った。その言葉に習うとしたら、すぐにわかる心はすぐにつまらなくする、と思う。

    今日は距離感を書こうと思っていたのにいざ打ち始めたらぜんぜん違うわ。まっ、ええかな。

  • 親疎

    2011.09.21 台風15号通過

    台風15号が通過。前日からサイトの台風情報をチェックして予想進路と中心気圧や暴風域を確認。近畿に再接近する前に940hPaに更新された。数値では12号より強い(正しい表現ではないと思うけど)。

    09/25,09/26は東京。天気が心配。どうなるか。

    こういうとき、日本企業の愚鈍を感じる。12号の時は痛感した。警報が出ていないからかもしれないが、未然の意思決定をくだせない。否、意思決定が欠如している。結局、警報が発令されるか、周りの会社が終業時間前の帰宅を促すと、「では、私たちの会社も」と横に並ぶ。その頃には電車が止まっていて、結局、従業員を夜半に帰すようになる。

    東京のある中小企業では、その日、社長はじめ取締役が社におらず、社長が14:00前に現場に連絡したところ、現場の判断ですでに全員が退社した、と社長がおもしろおかしく書いていらっしゃった。ステキな会社だな。

    08:30前に列車に乗って、大阪へ。M先生のスタッフの方々と個人面談。10:00スタートの12:15終了。12:40から院長先生に結果を報告。責務を果たした満足と、自分自身に対する怒りと情けなさが、入り混じった己のなかの得たいの知れない感情を処理できなくて、午後から自己コントロールできなくなった。餓鬼の自分。

    餓鬼のついでにいえば、次は何をしようかとよぎる。「しようか」なんて選べる立場じゃない。昨年のハローワークでの紙が現実をちゃんと提示してくれている。

    15:00に帰宅後、ずっとかかっている医療費控除の制作をはじめる。が、まったくダメ。集中できない。それを言い訳にアイデアが浮かばないと自己弁護。ホント、今回の制作は悩む。一言に集約すれば、「何を」が目につけば手に取るだろう。それから読み始めるだろう。そして、関心のスイッチを押す、ちょっとしたきっかけになるだろう。

    夕食はセブンイレブンでお弁当。ふんわり卵のオムライス、デミグラスソース。とてもおいしかった。自己評価では、セブンイレブンがお弁当の原材料や味に注意を払っている。それ以外のコンビニではお弁当を買わない。パンも買わなくなってきた。

    人によって難易度は違うけど、私の場合、禁煙がもっとも簡単で、次がダイエット、次に禁酒。もっとも難しいのはカフェイン断ち。タバコはあっけないほどすぐにやめられた。体重は18ヶ月かけて8kgほど減らした。減らす行為は難しくない。カロリーと栄養のコントロールに難儀した。爾来、カロリーには勝手に目が向くようになった。禁酒は難しいかな。たぶん自分の感覚ではいますぐにでもやめられそうなんだけど。カフェインはもうあきらめようかと思うぐらい。だめかなぁ。

    正法眼蔵随聞記 四 六 唐の太宗即位の後

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.249

    「然レば今の学人、人には色に出て知ラれずとも、心中に上下親疎を別たず、人のためにはよからんと思フベキなり。大小ノ事につけて、人をわずらはし心を傷す事有ルベカラざルなり」とある。耳が痛い。あたりまえは、平均的なふるまいから少しずれた点に位置しているから難しい。

    自分を筆頭に人はこわい。二人でいるときとみんなでいるときでは言動が異なる(あたりまえなんだけど)。顔にでる。二人の時は笑顔で恐れ入り、みんなの前ではさげすむこともあったり(主観的な妄想なんだけど)。

    会計事務所でお世話になっていた頃、賢い人になった錯覚があって、いまからおもえばかなりえらぶっていた。いま、私がむかしの私に帳簿を依頼したらキレる、いまの首相が1年で辞任する予測よりも確実に当たる。

    知性の高い集団に所属したら自分に知性が備わっていなくても、知性が出力した情報をたくさん保存してある。情報を出し入れできるようなれたら自信がつく。そういう自信は、他者に害を与えないから持ってよいと思う。

    ただし自信といっしょについてくるのは、区別だ。区別は、頭の中で引いた境界線を顔に出力する。

  • 裏表

    2010.12.29 晴れ

    第六十五候、麋角解。さわしかのつのおつる。ヘラジカ、またはオオジカの角。春に生え始めた角が落ちる。日本で見られない動物が季節を表す。連日、目が覚めると部屋は寒い。急いで服を着込む。今日も何をしようか考える。贅沢。

    そうだ、『相棒 劇場版2』を観に行こうっと、ネットで調べて、09:15からだと1,300円で観賞できるみたいだし、急いで着替えて08:35すぎに出発、09:00前に到着、チケットを購入。

    相棒に出演している俳優は劇団出身が多い、いやいや相棒に限らず劇団出身の俳優さんを好んで観るのであって、そうですね、プロットよりも演技を観たいほうなんで、演技って、演技って、何でしょう、アンソニー・ホプキンスは役作りを否定すればロバート・デ・ニーロやアル・パチーノは作り込むし、なのに、どっちからアプローチしても「演技」には思えなくて、「素」ですよね、って尋ねたくなるほど、「現実」であり、ダスティン・ホフマンやブラッド・ピットはクレイジーな虚構を反転させて現実を表現して、アンジェリーナ・ジョリーはどの役でもアンジー、なのに引き込まれます、なにゆえでしょう、ジョニー・デップは汚らしい容姿から美しい容姿への幅が広すぎ、と驚きます。ああ、演技。演技なの。

    最近、過去の記憶を辿って記録している。だんだんわかってきた。認識しつつある。記憶と記録は異なる。記憶と記録の間には何か「空白」らしきものがある。記憶の事実から記録の事実へ変換するとき、記憶の事実は「空白」を通過して記録の事実として記述される。

    その空白の中で何が起きているか。事実は改変され編集される。記憶の事実と記録の事実は違うんだ。

    記憶は起こった出来事を正確に保存しているのかな。デジタルデータのビットのように。記憶の構造と認知言語学、僕の興味はこの二つ。ここからさらにもっともっと小さくて、でも確実に理解できる領域へ進んでいかなければならない。覚えていないと記憶していないは同定じゃないと思う(科学的な解釈じゃなく)。比喩的な感覚。記憶は「記憶できた事柄」を保存できている。保存しているデータを取り出せないから覚えていない。そうじゃないと思う。覚えていない、というのは記憶が「記憶できた事柄」を保存していない。その人にとってあたかも存在していない「事実」になったんじゃないだろうか。

    ああ、バカだな。ホントにバカ。もっとスマートにわかりやすく書けないのかな。もどかしい。

    だとしたら、夢に出てくる「知らない人」は誰? まったく知らない人が夢に出てくる。わりとある。街の中で出会った人をスキャンしてその画像が保存されていると僕は推測している。これは記憶?

    過去の記憶を辿って事実を取り出す。入力された記憶の「事実」は「空白」を通過して記録の「事実」に出力される。

    「空白」の中には感情がある。反省、後悔、批判、嫉妬、自慢、矜持、贖罪……。情動も含まれているかもしれない。

    そして、「空白」の中には時間がある。

    未来の自分が過去の自分を取り出し現在の自分へ託す。託された現在の自分は「空白」の中で改変と編集を繰り返す。未来の自分がいる。それは他者を投影した自分。今まで出会った他者にあこがれて新たな自分を未来へ描く。形にならない漠然とした、でも想像する未来の私。願望でもあり絶望でもあり欲望でもある。あるいは理想かもしれない。

    そんな未来の自分が過去の自分を取り出せば、「思うところ」をいくつも見つけるだろう。もどかしい。過去の自分の言動に対してではない。未来の自分がいますぐ「記録の事実」を出力できないからだ。時が来るまで待たなければならない。未来の自分は現在の自分に記録という作業を託すしかない。どれほどもどかしくても。

    現在の未来は未来の自分(それはたぶん他者だろう)に対して承認を受けたくて過去の自分と対峙する。過去の自分、それ自身を書き換えられない。だから記憶から取り出した「事実」を記録の「事実」に書き換える。

    過去の自分、現在の自分、未来の自分。記憶の「事実」と記録の「事実」と「空白」。それぞれが対になっているようだ。

    僕の中にある「空白」の感情と時間は直線だ。まだ直線。でも、これがいずれ円環へ変化していくかもしれない、と想像している。これもまた想像であり、願望であり、絶望であり、欲望でもある。

    一直線に進む生より円環を描く生。そしていつかその円環から脱出してほしいと眺める私がいる。じゃぁ、この私は誰ですか?