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  • “自分ごと”の射程距離

    2013.09.01 雨時々曇 時折強風

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=ZmORcOP715I]

    Mountain Mocha Kilimanjaro – Don’t Touch, Just Watch Me でスタート。大好きやわ。スライやらファンク系が大好きだから、このナンバは自分的にはそこへ遡っていけそうで、脳髄が陶酔。

    土曜日、日曜日と午前中は仕事。午後からは読書や調べ物など。平日はせわしない、茫々と時間を失っていくので、まとめや気になっていることは週末にかためて事あたるときも。

    TwitterのリストやRSS、関連サイトを回る。素人へかみ砕いてセットしてくださるtweetなので、とてもありがたい。RTやリンク先のサイト、関連サイトは英語が混じっているから、目を通すのがきつい。わからん。ウェブ制作系のページはおおざっぱに読めても、それ以外は皆目。

    9年ほど前に遭遇したあるブログのおかげだ(師匠と勝手に思っている)。学ぶことをブログから教わっている。出来事を確かめる。何が起きているのか。追いかけ続ける一方で、師匠ほど多方面に関心を持てない、追いかける気持ちを維持できないことのほうがはるかに多い。

    関心を持てない自身へじれったがる時間はもう残されていない。自分が「しなければならない」と感じた事柄を追いかける。

    『被災地の今を知っていますか?』を視聴した。冒頭、釜石からの中継。先生がおっしゃった「想定にとらわれるな」が現地と重なって刻み込まれた。先生の隣で話してくださった女子高校生(当時中学生)に未来を強く期待した。旅館経営の女将さん(中継)と宮城県の方(スタジオ)の会話を見入った。記憶しなければならないと思った。

    “福島軍団”って言われた、とつぶやく女の子。親として子供を守りたい、とのお母さん。

    ぐらぐら揺さぶられるけれど、揺さぶられるのは後からでいいと言い聞かせて凝視した。時間がかかることとすぐできること。待ちきれない人々がいる現実。「もうどうしていいかわからん」。

    関西では報道が減っている(と思う)。阪神淡路大震災のときは、と振り返りながら、河北新報と福島民報、Twitterなどに目を通したとしても、もっともっと「ある」んだろうなぁと思う。

    もっと知りたい。自らも知りますから、これからもお願いします。

    果てない思いと尽きない考えがぱんぱんに詰められて出演なさり、制作していらっしゃると想像する。制作への思いの丈を上回る悩みに囚われたとしても、「いま」と「これから」を率直に放送してほしい。うまくいえないな。

    Facebookを使う人なら誰もが使ったことのある”いいね!”ボタン。クリック一つで共感を示すことは簡単ですが、本当にその課題について”自分ごと”として向き合っているのか、ハッとさせられますね。

    「いいね!」で人は救えない。もう一歩先のアクションを啓発するソーシャルキャンペーン | greenz.jp グリーンズ

    何もできない私と何かしたい私の間にある”自分ごと”の感覚。

    “自分ごと”の射程距離をのばす。ある事柄へ目を向ける。小さくて細い糸。その糸を発見して手元へたぐり寄せる。すぐに見つからない、すぐにたぐり寄せられない。師匠のブログを読み続けて、そう感じる。

    糸をたどって関わって係わるために手足を動かす。

    どれだけ書いても、”自分ごと”を表現できない。言い表す事柄ではないかもしれない。でも銘記する。

    被災地を知り、たぐり寄せられる小さくて細い糸を探す。たぐり寄せる行為に自分を満足させるんじゃなくて、誰かへできることを整えて行う。

    フリーランスになって痛切にわかった。続けることの難しさ。続けることはほんとにほんとうに難しい。この仕事は続けられないけれど、被災地を知り続けて、できることを少しずつやり続ける。被災地の方々から食べ物を買うのに加えてまだできることがある。

    続けるために、知らなければならない。触れなければならない。もっと知りたい、教えてほしい。先生がおっしゃっていた二つめの「風化」を私は知り続けたい。

  • 掘っていこうよ、水に辿りつくまで

    2013.08.03/04 晴れのち夕立

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=sT3IsHwUYno]

    indigo jam unit – Escape でスタート。インストが好き。で、indigo jam unit は珈琲。なくては困る、飲まないと頭がぼぉっとする。高い中毒性。Escape 聴きながら現実と空想を往来。いつかそうなるように願い、その距離と道筋を描く、大胆に繊細に。

    土曜日、午前中サイト制作。形になってきた。検索にヒットしなければ役に立たないと言われる。サイトはマーケティングの風潮から距離を置く。「あそこがいいよ」と耳にした地域の人々は期待と不安を抱く。その中に固有名詞で検索する人。そのペルソナをイメージして作る。

    まだ訪れていない景色を感じてもらうには? 見えないものの感触を掴む。文字にすべきこと、写真で伝達すること。消しては入力の繰り返し。

    夕方、浜大津サマーフェスタへ。indigo jam unit の演奏を聴けるとあって、興奮の徒歩、浮き足立つ2km。17:45頃に到着、18:00スタートの1組目の演奏がすでにはじまっていた。アバウトな感じがすごくいい。

    18:40 すぎに indigo jam unit スタート。精神没入、身体振動。陶酔。めっさ楽しそうに演奏してるからこっちも負けじとトリップ。

    全9曲。イッタ。

    Ku:nel 2013年9月号

    “ku:nel (クウネル) 2013年 09月号 [雑誌]” マガジンハウスがおもしろい。特集もさることながら、「快復を祈るホスピタルアート 病院が、変わった」に見入る。ホスピタルアートに辿り着くまでの森口さんに焦点が当てられ、旧香川小児病院の児童思春期病棟にホスピタルアートを届けた記録。

    環境芸術の先進国スウェーデンでは、病院の建築費の1%をアートにかけることが義務になっているとあった。

    対して日本は? のフレーズを吐きたくない。そういうのは嫌い。日本のユニークなアートが広がってほしくなった。

    「生まれつきの障害でずっとここにいる子供たちは、自分のことを見たり触ったりしてほしいんです。ここにいるって知ってほしんですよ」P.52

    子供たちが殴る蹴るして開いた穴だらけの壁。重度心身障害児病棟。子供たちの心の叫び。自傷行為。その病棟に届けるアート。

    飾りっ気のない文、アートを見た看護師さんたちの言葉が迫った。

    時折、見聞する若い方々の活動。世代に囚われてはならないけれど、若い方々は新しい豊かさを追い求めているように感じる。その豊かさへの向き合い方が素敵だ。

    自分はあんまり悲観していない。予算は出すけど口は出さない政治へはやく移行してほしいとだけ願っている。各地にいらっしゃる現場の方々が、その土地にあった姿形を描かれると思っている。新しい豊かさを追い求めているこれからの感性を信じている。

    過去の栄華から離れる人々は現れている。未来へ引き継がれる豊かさを掘り続ける人々。そこにほんのわずかでもよいから端っこに立てるように頑張りたい。いっしょに新しい豊かな水を掘り出したい。

  • 丈夫ではなさそうやな

    2013.06.23 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=qFBEs3WQqEM]

    見田村千晴 – 雨と空言 でスタート。以前にも貼ったはず、たぶん。ラジオから聞こえてきて、冒頭の歌詞が頭の中で立ち止まって海馬からすり抜けようとしている。あわよくば長期記憶へ残りたがっているみたい。

    木曜日、痺れを診察してもらうため病院に行った。結果は経過観察。私の説明だとつじつまが合わない症状があるとのこと。先生は頭の可能性もあるとおっしゃっていたが、まだそこへ至る前にやることがあるような感じ。

    自分の体のことなんだけど、先生の話し方や症状を探っていくロジックなどを観察していて勉強になった。

    処方してもらった薬を飲んでいるが、いまこれを書いている時点も痺れは止まらない。ほんとにやっかいだ。加えて薬を服用したら頭がぼぉっとなる。2,3時間続く。ときどき頭痛が増す。膨張した頭の状態がさらに膨張していくみたいで気持ち悪い。

    先生が「丈夫ではなさそうやな」と微笑みながらおっしゃったので、つられて笑ってしまった。「元気がないって意味」と訂正されたが、他者からはそう見えるんだろうなぁ、と痛感した。世間的には壮年期。なのにバリバリ働いているようにはまったく見えない。やや高めのテンションで話すのも少ない。なるべく静かにゆっくり話すように心がけている。オーバーリアクションになりそうだ、と察知したら自制する。

    第二十八候、乃東枯。野山の木々の緑が深まっていく。緑の階調が増えていく。旬の魚は太刀魚とのこと。スーパでも見かける。銀白色に光って見惚れてしまう。買うのはためらう。桃を目にして驚いた。夏至が過ぎてしまったのも驚き、自分の中の時季と時機と時期はちぐはぐのまま流れる。

    旧大津公会堂

    13:00前に神戸へ出発。先生がレーザプリンタを購入されたので設定に。価格を耳にして嘆息。一昔前なら数十万では変えなかったような複合機がiPadより安い。恐ろしい。ひょっとしたら数年に一度買い替えた方がランニングコストの面でお得では?!とちらりとよぎった。

    どうしても紙を出力しなければならない業態はまだまだある。紙とタブレットの並走は続く。いずれ限りなく減っていくとはいえ、紙でなければならない、コトやモノって何だろう。ネガティブな問いではなく、特性を活用できるコトやモノは何か再考したくなった。

    06月23日のスーパームーン前日。帰りの車窓から霞んだ月が見える。大きさで最大14%、明るさで30%も違うスーパームーン。ただ、今回は地球から最も近くなる距離ではないらしい。「ほぼ」スーパームーンに見えるとのこと(23日は雲に覆われて見えなかったけど)。

    月を見ながら思い浮かべる。

    書かれていないこと、目にできていなかったこと、声になる少し前、を配慮できるようになりたい。何が書かれていなかったのかをちょっとでも考えられるように、見えているようで見ていなかったことを振り返られるように、声になりそうでならなかった気配を感じられるようになりたい。すごく難しいかも。どこかセンスが必要かもしれない。センスがなくてもなんとか踏みとどまりたい。

    沈黙しているから考えていないと臆断したくない。話題にしないから無関心ではない。なんとなく勝手に感じ取ってしまう世間の風潮は「はっきり」だ。はっきり言わなければ、はっきり聞かなければ、はっきり見なければ、「すっきり」しない。

    そんな領域からちょっとだけ離れた距離感を把持しときたい。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • 自立は折れる自律はたわむ

    2013.06.08 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=p1oC5NxzVdg]

    dorlis – 太陽のスキャットでスタート。音でウキウキ。楽しいような切ない気持ち? で歌詞を読む。音の中からすっと耳に入ってくる単語が心地よい。目一杯歌詞に耳を傾けず、耳がどの単語を拾うか楽しんでいる。

    麦秋至や芒種。麦を表現する時期、近江八幡での刈入れを読む。大阪では紫陽花を目にする。梅雨は本当か嘘かどちらでもかまわないのに雨露が乗っかった紫陽花がやっぱり紫陽花だと欲しがる。意識への刷り込み。

    営みのなかで人々は通り過ぎる。私も誰かの営みを通り過ぎる。通り過ぎる人の数は運と行動力に比例するが、立ち止まる人の滞在時間は運と命がけだろう。

    通り過ぎ立ち止まる。選んだ役割と委ねられた役割がある。前者を演じて後者をこばむ。反対の演技もある。両方とも演じられる才能を持つ人たちも。

    寝ている時をのぞいた時間。意識ある時間。演じるコトにはまりこみ、濃密な場所と演技がぴたりとあてはまる。演じているのかどうかわからなくなる。演技と「自分」のかすかなずれを感じて戸惑い、また場所へ向かう。場所からやすらぎの私空間へかえってきても演技の熱量はへらない。服を着たまま海へはいるみたいな違和感。

    我慢か鈍感か。ここで何度もふれている「ほんとう」への強い願い。ほんとう、への願いが演じるコトと自分のズレへ招待して舞台のほころびを指さす。

    ほんとう、への感覚を鈍くする。いつかたどりつくと我慢する。必ずあると信じて演技の質をさらに磨く。どの場所にいるときに演じて誰といるときに演じているかの組み合わせは果てしなくシャッフルされて、もうどうてもよくなったら「ほんとう」は扉の鍵をわたしてくれるはず。

    グリーンファンダジア

    不断はだらしない。そう受けとめられる。煮え切らない。そのとおりだ。だけどひるがえって、断定しているコトをひたむきに睨みあったら、自分への納得がふくまれているはず。自分を納得させたい理由を探すための断定。

    わからないおぼろげな薄い膜が自分を覆う。不安。不安はいらだちとつながり、いたたまれない。「わからない」という席から立つ。

    自分を覆う膜を取り払い、すっきりした世界をみたい。あるいは相手から煮え切らない私と断定されたくない。そんな衒いを少しずつ減らす、ためらいといっしょに。

    自立は強く、自律はしなやかだ。自立は促されて、自律は促されない。自立の強さを支える心は折れる。自律を支える心はたわむ。折れた心をつなぎあわせる確信はないが、たわんだ心をまたひらたくしていける豊かさは身につけたい。

    たわみをすっと押し返してひらたくしていく作業に手をそえてくれる人。ひとりいれば充分だ。とても贅沢だと承知している。その一人の滞在時間が私の価値。

  • 毎日、鏡で顔を眺めてください

    2012.10.30 晴れ時々小雨

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=Vj99mKu8EGQ]

    今朝は 福原美穂 – 絶え間なく でスタート。「何度となく繰り返す人と人の言葉をあなたはどう思って見ているでしょう?」ってフレーズはステキだな。聴いている瞬間の情感があたまの感じ方を己に与えてくれる。いまの邦楽の歌詞は具体的な出来事、具体的な内容を歌詞にまとめている印象で、もう少しぼやかしてもよいのでは?って感じるときも。

    平日の昼間、近所を歩くとき意識する。こざっぱりした服装を着ているつもりで歩いても、誰かが僕を見た時、「時間」「年齢」「空間」×「不安」「疑心」「伝聞」が僕の印象を査定する。子供が前から近づいてくると神経をとがらせる。寂しいと察するが両立する。親御さんの立場を想像すれば、世間が自分を見る眺望点へ近づける。

    こういうとき、ひとりで仕事をするようになってよかったと感じる。一般的なサラリーマンを続けていたら、近づけなかった眺望点だ。ライブへ行くバンドのギターリストの方は、東京で職務質問を頻繁に受けるとブログに書き、ライブのMCでしゃべる。それがおかしい。身体感覚で理解できるから爆笑してしまう。

    身体にはよくないと思いつつなるべく外出しないようにしたら、外で目にするポイントが変わる。変化を感じ取れるようになってきた。といってもわずかに感じ取れるだけ。元来の鈍感が劇的に改善されるわけではない。この間まで、と思うことがしばしば。大阪駅周辺の変貌に毎度驚く。

    「この顔、結構気に入ってるんですよ。見慣れると可愛いんです。50年間も同じような顔を見てきたんですが、この何週間かは別の顔を見ているわけで・・・・・・。『お、ちょっと愛嬌があっていいじゃねぇか』って。皆さんも毎日、鏡で顔を眺めてください。必ず(体調の)変化に気づくはずです。健康であってください」

    落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」 | スポーツ | 現代スポーツ | 現代ビジネス [講談社]

    あらためて見ているかなと思う。僕の中ではこの文章と “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ の自己マスタリーがリンクする。

    「みんな企業に入るときは、頭が冴え、学問があり、活力にあふれている。人とちがうところを見せてやろうとやる気満々だ。でも三〇歳になるころには、わずかの人間が、”出世コース”に乗り、残りの者は週末に好きなことをするために、”勤務時間を適当に過ごす”。熱意も使命感も、新人のころの覇気も消えてしまう。仕事に注ぐエネルギーはほんのわずか、やる気なんてないも同然だ」

    “最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か” ピーター・M. センゲ P.15

    私の顔貌を見ているか。私に対して適当に過ごしている。自分に固着して、自分に執着して、私を練り上げていく覇気を失っている。そんなふうに己を眺める。もっと私を自分から切り離して己を冷静に分析したい。

    己を分析する手本(“死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策)に出会い、「死を忘れた幸福感」の一節を読む。世間と己に寛容でなければ己を冷静に分析できない。

    近代産業の生産過程は、高能率という一点に集中される。生産過程の基礎をなすのは、つねに高能率を保つ健康なる機械である。その意味で、近代における生産機構は、つねに、健康である。健康で、フルの能率で活動していることを常態とする。そこで働く人々は、機械と同じように、最高の能率で働きうることが、前提とされる。(中略) 近代社会は、このような近代的生産機構の歯車の回転にピッチをあわせ、形成されている。近代社会は、性格上、健康な人間だけを標準にしてでき上がっている社会である。このような社会が、健康だというのではない。そこに参与することを許される人々は、すべて、能率のよい健康者に限る社会だということである。

    “死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)” 岸本 英夫, 稲垣 行一郎, 亀倉 雄策 P.139

    分業は思考の断片化と部分化をもたらした。いまは「あるひとつの仕事の全体」をひとりですべてまかなえるのはめずらしい。かぎられた人かかぎられた職にだけ「あるひとつの仕事の全体」があるとしても、ほとんどは分業組織になっている。「あるひとつの仕事の全体」を分けたとしても、それに取り組んでいるときは、「全体を眺める」はずが、いつしか目の前の分業が全体になった。いったい「全体」はどこにあるかわからなくなり、思考が断片化・部分化していく。

    平日の昼間、スーツで歩く男性は「健康」であり、二、三日剃らないひげ面で私服を着て歩く人は「不健康」かもしれないと断片化される。たぶん、逆転する土地もあるはずだ。平日の昼間にスーツで歩いていたら奇異に映り耳目を集めるような場所。だからどちらが正しいとかではなく、どちらかに所属しているかだけなんだけど、断片化された片側はもう片側に対して寛容でなくなり、感情の一線が越えると攻撃する。言葉でなら簡単に攻撃できるから、数百キロ離れた土地で起きた出来事に腹を立て、電話や書き込んだりして誹謗中傷する。身体を動かしてその場へ赴き感じることを咀嚼する時間を持たず、遠い「出来事」に触れた瞬間に身体から言葉が乖離して、言葉が闊歩して、言葉に触れた人が言葉に精神を揺さぶられ、言葉で切り返す。

    そっとしておく、というもっとも冷徹で残酷であり優しいふるまいをさりげなくできたらよいな。

  • 目をみて嘘をつく、なぜなら…..

    2012.07.10 晴れ

    http://www.youtube.com/watch?v=vyf1dyFuDn4

    今朝は THE MODS – 激しい雨が でスタート。ウィンブルドン 2012でロジャー・フェデラーが7度目の優勝を果たしました。A・マリーは英国男子としては1936年のフレッド・ペリー以来となる76年ぶりの優勝はならず。フレッド・ペリーがテニスウェアをデザイン(当時のゆったりしたウエアからぴったりしたシルエットへ)して売れに売れ、やがてフレッド・ペリーのブランドが確立されモッズへと発展。モッズはいいですなぁ。

    第三十一候、温風至。梅雨空の雲間から注ぐ陽射しは強く風は熱を帯び、突出しは鱧、本格的な夏の到来。梅雨明けまであと少し。ししとうがうまそうだ。美味とともにロシアンルーレット(といえば不謹慎か)のような辛さのスリルを味わう。あたれば悲鳴。ビタミンAの含有量はピーマンより多いとのこと。

    “顔は口ほどに嘘をつく” ポール・エクマン“森の旅人 (角川21世紀叢書)” ジェーン グドール, フィリップ バーマン が届く。ポール・エクマン – Wikipediaの書籍を読んでみたかった。まずはこれを読んでからもっと知りたくなったら “表情分析入門―表情に隠された意味をさぐる” P. エクマン, W.V. フリーセン を購入したい。

    “想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎“人間とは何か――チンパンジー研究から見えてきたこと” 松沢 哲郎 を読み、ジェーン・グドールを知りたくなった。ジェーン・グドール: 類人猿とヒトを分かつもの | Video on TED.com を視聴たとき超然とした口調のプレゼンに感銘を受けた。

    ポール・エクマンはドラマLie to Meのライトマン博士のモデル。ティム・ロス演じるライトマン博士のエキセントリックぶりがおもしろい。Season 1では各エピソードに著名人の「表情」がフラッシュバックで挿入される。クリントンやO・J・シンプソンの有名なシーンと表情。俳優はそれらと似た表情を浮かべる。ライトマン博士は視聴者向け解説よろしく指さしながら表情や仕草から読みとった「嘘」を暴く。解説と暴くプロセスに興奮。

    現実世界の嘘をドラマのごとくあざやかに暴けたら「真実」は哲学の俎上に載せられることなく、またシニカルに構えられることもないかもね。ライトマン博士に記者会見を視てもらいたいな。

    家族が子供を守る。それに甘えていないか? かつて企業は終身雇用をもってして基礎的生活コストを支給して擬似的な家族扶養制度を構築した。構築したというよりさせられた。そして家族は子供を守る。いままでそうやってきた、そして成功したから美化された。江戸時代や戦前の、といった「感じ」だけで切り取った「伝統」や「風習」を賛美する。

    社会が子供を守るシステムは? ひとりひとりの固有名詞の子供を守ることと同時に「子供」という存在そのものを守る大人の意志は?

    冷静に静謐に議論できる場をつくり、社会が子供を守る意志とシステムを構築できないだろうか。関係者の方々にそれらを望むのは酷だと思う。

    事件が起きる。報道が「集団」か「瑕疵ある組織」を任意に選び非難する。構図を決める。固定した構図と非難を視聴した人、読んだ人が非難を増幅させる。識者はテレビの前で「コメント」を残す。いまだとネットで固有名詞が掲載され一瞬で拡散して固有名詞は検索結果に永久保存される、が「プロセス」に加わった。喧噪がつづき月日が流れて沈静したら、残された人々は崩壊した現場を修復しはじめる。

    はじまりから喧噪がさっていくまでのプロセスがひとつの「テンプレート」として保存される。まるでブームのように非難の報道と一般人の増幅と識者の3点「同定」が現れて消えてゆく。

    僕もこの文章を書きながらこれらの「テンプレート」に加わる。どうしたらよいのかさっぱりわからない。

  • 四人席の三人は就職活動中でした

    2012.02.27 晴れ

    今朝は、DadaD “Go Around”でスタート。Feist – 1234 – YouTube にテイストが似ているなぁって勝手に思っていまして、こういうテイストって大好きです。

    05:00前に目が覚める。寒い。夜明け前であるが日の出の時間がはやくなっていること、日が長くなっていることを実感。春に近づいている。ときおりみせる陽射しがやわらかい。温度よりも空と陽射しで季節を体感する。

    午前中、M先生のミーティングの議事録とアジェンダを作成して送信。議事録を作成するようになると、記録を残す「行為」の重要性を強く認識する。さらに書き手は記録を残す「仕方」の重要性を理解する。フォーマットとコンテンツ。フォーマットが安定して議論のコンテンツを抽出する。それをしないと、ただ記録するだけなら音声録音で充分である。文字情報の保存から現場へのフィードバックさせる循環システムを確立できてこそ「記録」は効果を発揮する。

    雑務をいくつか片付けてから11:00前に出発。大阪駅で途中下車。立ち食いうどんを食す。美味い。身体がぽかぽか。30代の前半まであったかい飲み物は選択肢になかった。冬でもレーコー。お茶は365日コンビニでコールド。ホットは100%あえりえない。なのに数年前から夏でもホットを注文するようになった。お茶はホット。自分の行動変容が不思議でしょうがない。頭より身体が冷たい飲み物を選ばない。身体が冷える「感覚」を気にかけるようになった自覚はある。

    目的地の最寄り駅二つ前の駅で下車。徒歩約35分。13:30からF先生のミーティング。テーマは予約システム。私にとってとてもよい機会だった。人がシステムへ近づくか、システムが人に近づくか、人とシステムの折り合いをつける点は「動詞」で交通整理しなければならない。

    人は言葉で思考する、といって「言葉」に頼るのは危険だ。人の行動を促すアイデアは環境に埋め込めなければならない。環境構築の源泉は言葉である、と反論される。御意。委細承知。「言葉」に頼ると「言葉」で解決して「言葉」に満足する。名言をコレクションする行為に似ている。

    アイデアが環境に埋め込まれると、人は無意識に環境の意図に従って動く。ユーザを「観察」して「動詞で考えろ」とIDEOはデザインの発想を説く。意味をいくぶん理解できた。F先生のミーティングで議論していて、「動詞」で考えて環境に埋め込むアイデアを練る入口に立った感じ。終了後、PCの不具合をチェックして代替案を講じて失礼する。京都へ移動。用事をすませて帰宅。

    京都への移動中、車中の四人席に座ると周りの三人は就職活動中の学生だった。全員、他人。三人は別々に乗り合わせてたまたま四人席に座っただけ。三人は一斉にiPhone 4(s)を取り出し一心不乱に画面をチェック。就職活動関係のアプリを起動させているか、あるいはSNS系で企業情報を収集しているんだろうなぁと想像する、たぶん。ホントにたいへんそう。

    私の時もそうだった。バブルがはじけて氷河期やら、日本の金融機関が破綻したやらの騒ぎの時でした。紺色のスーツを着て同じような髪型にして集団で就職活動するなんておかしいといまは感じる。やっているときはおかしさに疑問を抱かず、ただ就職したい一心でやっていた。大学教授のつぶやき に賛成。だからといって企業の説明会や面接を同時多発的に一斉にやったらよいと私は思わない。「就職活動」がある一定の期間に一つしかないシステムである点が心配である。

    データとシステムが一つに集中するとき、もっとも危険である。システム構築にたずさわっているとそんな危惧を抱く。データとシステムが一つに集中すれば効率が向上して管理しやすい。が、(いわずもがな)クラッシュしたら復旧に時間を要しダメージは甚大。フェイルセーフを設計してバックアップシステムを用意しておかなければならない。

    生き残るためにシステムは多様化されていて多少の無駄を残しておかなければならない(と思う、矛盾しているけれど)。一つがクラッシュしても別のシステムを稼働させて現場を迅速に復旧する。効率と無駄のマネジメントがシステム構築の肝なんだって歯科医院のミーティングに参加していて理解した。

  • 第九番

    2012.02.22 晴れのち曇から雨

    今朝はひいらぎ “今、このとき。” でスタート。若い、とはそれだけで特権だなぁと失いつつある私は思います。衒いなくストレートに放擲できる感情はすばらしいです。そのすばらしい放物線をかき消すのはいつのときも「かたく」なった人々。

    早朝、祖父母の宅から引き上げてきたCDを聴く。

    祖父母の宅にあったクラシックのCDに目が回った。こ、これを全部整理するのか…..。引っ越し先では聴かないから置いていった。持って帰っていいよ、と言われたのでまずは数枚だけもらってきた。といってもクラシックを聴く習慣はない。なにを選べばよいか。見当がつけられなかった。

    とりあえずモーツアルトとベートーヴェンをもらった。ベートーヴェンだけでもわけがわからんほどの枚数がある。曲名?!を見たところでさっぱり。”第九番”と記された朝比奈隆氏の大阪フィルハーモニー交響楽団の全集をかばんに入れた。ベタであってもそれぐらいしか知らん。

    で、第九番を聴く。

    “あの”歓喜の節はどこなんってわずかにイラっとしながらヘッドホンに集中する。”あの”年末恒例が やってきた。刹那、目頭が熱くなった。なぜかわからない。第九番が涙腺をゆるめたわけじゃない、と思う。祖父はこういうのを聴いてるのかとよぎった。

    CDを整理して処分する。家族はそう決めた。が、それはいけないかもと思い始めた。かといってあれだけの枚数を引き取れない。祖父が心血注いで金銭を投じて収集した「物語」があった。第九番を聴きながらそう感じた。収集を目の当たりにしていないから各人が収集の痕跡を胸のうちに収納して好きな時に頭のなかで「物語」を想像すればよいと思う。

    片方でそれでよいと思いつつ片方で「装置」がないと物語を想像できないかもしれないと反論する。その装置がCDである、と。唯物信仰か。否、物に執着していないと抗う。しかし、装置のない物語の再生は喪失感が忍び込む。そういうためらいが物を捨てさせないのか。声だけを思い出すより写真があれば声を思い出せる情感が増幅する。

    午前中に決算書と確定申告書を作成したので午後から税務署へ。歩いて向かう。約30分後、税務署の近辺がひっそりしているのでおかしいと思ったら看板に移転のお知らせ。ええぇ。移転場所を確認して引き返す。JR大津駅の方面へ。提出完了。申告の相談に多数の列。

    往復の最中、25日以降「衆院の一票の格差」が違憲状態になるという報道を思い出す。意味がわからない。読んでも理解できない。違憲を理解しただけである。私にとっては些末である。違憲状態に陥っても即日私の周辺に異変が生じないだろう。極めて短期的狭窄的視野である。長期的巨視的視野に立てるならば深刻なのでしょう。

    なにかに似ている。あっ、そうか、パンのシールを剥がして持って帰る現象だ。パンを購入せずにシールだけ万引きする人がいるらしい。だから製造会社はシールではなく袋に印字するようになった。袋から切り取るという「一手間」が加わった。違憲とパン祭りのシールの構造が似ているな、私のなかでは。パンのシールも私には些末な現象である。そんなこと知らなかった。

    一般人が写真をネットにアップロードして、写真を見た一般人が端っこの車のフロントガラスに反射された映像から自宅付近を突き止められる環境である。知らず知らずそういう環境がつくられているなかでソーシャルネットワーキングサービスの囲いがあれば写真をアップロードする。不思議なことだが、個人情報を公開するほどに、安全性は高まる(バリ島すちゃらか日記 (内田樹の研究室)) という意見に賛成である。そう思うが非公開へ傾いている。

    綻び壊れていく現象とはもっとも「遠い」ところから始まり、認識したときにはもっとも近い自分の身に降りかかるのかなぁと感じながら歩いていたらまた車にひかれそうになった。ドライバの方、すみませんでした。

  • 和気藹々と沈みゆく

    2011.12.24 晴れ

    今朝はMIHO FUKUHARAから”Get Up! feat. AKIKO WADA”でお目覚め。パワフルな歌声で寒さを吹き飛ばす。

    第三は至る所にある。気づかない。たまたま見なくなったから第三の眺望点に立った。他のコトについては、「範囲」の中に立っている。だから第一か第二かで物事を判別する。調子がよいと周りに感謝する。調子がわるいと愚痴をもらす。調子の「範囲」からよいかわるいかを判定する。

    第三の視点は、素直と天の邪鬼のグラデーションかもしれない。そんなふうに感じる。物事を素直に観察する。観察と分析と論理が導き出した事実に対して、ひねくれた解釈を加えて近未来を予測する。

    素直な観察と天の邪鬼の予測がユニークな視点をもたらす。

    iPadの環境を熱心に構築している。Twitter, Facebook, RSS, ブログ、メール、読書(一部)、文書作成、マインドマップなどをもうiPadでやってしまおうかと。ほんとに便利だ。

    外出中はiPadからVPNで自宅のMacかWindowsにアクセスしてファイルを操作できる。サーバのちょっとしたメンテやログをチェックする。

    こういうときの自分をなるべく意識して観察する。もう一人の自分を背後につくって眺めるとういやつだ。「環境構築」が好きなんだな。道具を使って身の回りの環境をスタイルに合わせて最適化していく「作業」を楽しんでいる。

    環境が安定したら、新しい環境を受け入れにくくなる。Mac OS X (10..6.8)から10.7.2へのアップグレードをなるべく遅らせたかった。億劫だった。安定している環境が、アップグレードによって不安定になるかもしれない。不安で面倒。

    まるで「自分」のよう。

    アップグレードしたら個々のアプリ-ケーションにエラーが発生する。前にできたことができなくなった。そんな不具合をひとつひとつ対処して解決していかなければならない。

    安定した環境から新しい環境へ自分を導く。新しい環境は自分のなかにいくつものエラーを発生させる。そのエラーの「問題」を発見して、対策を実行して、安定をめざす。紆余曲折試行錯誤。

    安定したOSと使い慣れたアプリケーションは、和気藹々として扱いやすい。効率が多少わるくても目をつぶればやっていける。だけど、OSやアプリ-ケーションのサポートはいつか終わる。

    新しいOSは革新的な機能を持っている。使いこなせるようになるまで時間がかかる。つらい。だけど使いこなせるようになったとき漸進したライフスタイルが待っている。

    サポートが切れるまで使う。判断である。Mac OS X Server 10.5.8を使っていて感じる。

    和気藹々と沈みゆく。