タグ: technology

  • 自分を棚上げしたいんだけど誰が棚にあげてくれるだろう?

    2012.08.03

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=k2W4-0qUdHY]

    今朝は USA for Africa – We Are The World でスタート。このプロジェクトのパフォーマンスほど理想と現実を直視させる歌ってないんじゃない? って思わせる、ような信仰と偽善の力をあわせもつ。

    午前中、M先生のサイト制作。あとトップページをデザインすれば、先生にご覧いただけるかな。イメージをつかんでいただくためのモックアップだけど、本番使用とかわりないつくり。まぁ、それにしてもPCとモバイルのどちらをウェブサイトの起点にするかの判断は悩ましい。

    運営者はPCを起点にしたくても、アクセスするユーザの半数以上がモバイルであれば、対応を迫られるし、コンテンツを見直さなくちゃいけない。モバイルの回線はまだまだ細い。LTEが普及するまでもう少しかかるから、LTEより3Gで閲覧できるコンテンツを優先配置しないとね。

    13:00前に出発。15:00からF先生と打ち合わせ。18:00まで。終盤、やや取り乱してしまった。自分の感情を押し出した感想を述べてしまった。客観的に観測した結果ではない。事実と推測をごちゃまぜにした感想にすぎない。そういった感想は議論を妨げるし、見苦しい。下品だ。沈黙のタイミングを身につけるようにもっと鍛錬しないと。

    移動して19:00からM先生のミーティングに参加。ミーティングの内容は口腔内写真の研修。診療が長引いたので遅めのスタート。20:10ごろに終了。

    「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」という。文字どおり言ったか知らないが、時代の濾過器をすり抜けていまも確かに残っている。それだけ多くの人がこの言葉を実践できないからフィルタリングを通過してきたんだろう。できない状況を目の当たりにしてこの金言を持ち出し納得する。この金言にふれた人のうち、2割の人が「できる」ようになったとしたら、それは修練の結果であり、金言ができるようにしたわけではない。残りの8割の人はできるようになりたいよりも言葉にふれて納得したいほうが強かったのだろう。

    空は変化しているけれど気づかない。ある日、空を見上げて、空の変化に気づく。自分の周りの環境は変わっているし、変えようとしても、自分は変わらない。見上げたから変わっていると認識できた。

    リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ (日本語版)WWFの警告は、自分の身を削られないディレンマを教えてくれる。卑近な例だと国会議員や地方議会の議員定数を減らす法案に賛同が集まらないし、自らの報酬を減らすことに賛成しづらい構図がそこかしこにある。

    自分をいったん棚上げして、物事の道理を吟味して適切な方法を導出するのはできるようでできない。できないから言葉だけが飛び交うのだろう。できないからこそ、「できた」または「できそうな」言葉がクローズアップされるのだろう。

    いまの生活水準を維持しようとすれば地球があと2,3個必要と警告する。人間の生活が視点の中心。でも、地球って制御可能だろうか、と専門家に質問してみたいし、もう少し踏み込めば、人口が減ればと思う。仮に100年後の日本の人口が現在の1/2以下になれば、エネルギー問題や食糧問題を解決する糸口は見つかると思う。そのまえにそんな人口だったら侵略される、属国になっている、とおっしゃる方々もいらっしゃるだろうけど。

    他人に自分を投影している間はできそうな感覚に包まれるが、それは幻想だ。その幻想を現実に交換できるのは自分の身体なんだなぁって近ごろ鳥を見ながら思う。

  • 人が人たるゆえんは次数をひとつ以上あげて考えられること

    2012.06.20 曇

    今朝は Cocco – 強く儚い者たちでスタート。「人は弱いもの」から「人は強いもの」へ転換していく、素敵。で、最後は強く儚いでしめくくる。よいなぁ。儚いのです。ほんの一瞬なんです、私の存在は。ほんの一瞬の一瞬なのに弱く脆く壊れてゆく。

    日曜日につくったカレーを冷蔵庫から取り出しごはんの上にのせる。真ん中に空洞をつくり生卵を落とす。カレーのまわりにチーズをトッピング。すべてがととのったらオーブントースターで熱をくわえる。焼きカレー。

    誰よりもはやく焼きカレーを思いついた人は、何をヒントにしたんだろうか。すばらしい×10乗以上に素晴らしい。下関ではじめて食し、衝撃を受け、家でも試したときに、なにゆえいままでやらなかったのか、深く深く自責の念にかられた。焼きカレーがラインナップに加わった今、カレー → カレーうどん or カレーパスタ → 焼きカレー の先発ローテンションが我が家に組み込まれている。最近では食パンにカレーをトッピングする中継ぎまであらわれた。

    iGoogleのトップ画面にamazon.co.jpベストセラーのガジェットを表示させている。おもしろい。新刊でもない本が突然1位に躍り出る。たいていはメディアで紹介された本であり、なかでもテレビの影響はいまもなお強い。

    不安をぬぐうために読むんだろうなぁと思う。“こころの処方箋 (新潮文庫)” 河合 隼雄“幸福について―人生論 (新潮文庫)” ショーペンハウアー、あるいは“置かれた場所で咲きなさい” 渡辺 和子 など、迷い、憂い、心が綻んでいる人はたくさんいらっしゃる。綻んでいる人に限らず興味があるから読む人もいるだろうし。

    常時トップ10圏内のジャンルはダイエット系。人気がある。身体美容系も。少し前は骨盤とロングブレスと○○式ダンス系が人気で、最新ランキングでは糖質ダイエットがランクイン。

    すべてのダイエットを実行して成功したら標準体重を下回りやせ細った身体になるじゃないかしら、と思ったりしながら、痩せるという欲望の発生源が気になる。

    からだによいとうたわれる情報はテレビやラジオ、新聞、書籍、ネットのあらゆる媒体から届く。そのなかには国の指針が含まれる。健康である「基準」や「標準」が設定されている。メディアへアクセスする生活環境はそれらの情報と接触する。情報は私の意識へ侵襲する。

    僕は自分の身体を思いのままに制御していない。している、は錯覚だ。国家が推奨する基準に支配され身体を統治されている。からだによいとうたわれる情報の「基準」や「標準」は、僕のなかでだんだん強固になる。強固は倫理や二項のイメージを定着させ、「見方」に作用する。それらの情報は他人を判定するための材料として使われる。「基準」や「標準」からはずれた他人と接したとき、僕の反応はパターン化していく。からだによいとうたわれる情報による反応のオートメーション。

    数値が生成するイメージは日常生活のどこかに居座ってごくごく小さな脅迫観念を形成する。「〜しなければならない」というニュアンスで衣食住が語られる。「〜しなければならない」は時代の風潮にあわせて礼儀作法を書き換え、人々は他人を攻撃し、ひとは他者を労る。

    国家や医療機関はみずからの責務を果たしている。責務から僕は逃れられない。たとえありがた迷惑な支配と統治であったしても、それらを受け入れたうえで超えなければならない。

    受け入れて超えたいならば、「からだによいとされる情報」と向き合い考察する。情報は健康とリンクし、健康は生活とつながり、生活は人生へ昇華し、人生はやがて生へ変容して、生は裏側の死のコインとなってトスされくるくる回り、コインの落下を傍観しながら、ゆくえを見守れない。そんなふうにひとつひとつの次数をくりあげて向き合っていく。

    情報が健康とリンクしてひとつ繰り上がる次数について考察する要素はたくさんある。考察は膨大な時間と手間と仕方を要求する。時間と手間と仕方を認識したらあきらめたくなる。あきらめるかつきあっていくか。どちらでもよいし無関心でもかまわない。どれであれいかなるものであれ、時間の過ごし方は私に委ねられている。

    時間と手間と仕方に苦慮しながらゆったりむきあって次数の階段をのぼっていく様を自分だけの感想文として記述する。そのプロセスが“パンセ (中公文庫)” パスカル の考えることについて考える、かもしれないなぁとふとよぎった日々。

  • 口の尊厳死

    2012.04.25 晴れ

    今朝は、Beatles – Let It Be でスタート。死の実相が情感に語りかけてきたときに聴く。隣人が無に帰すれば有限から無限への交替は蠱惑的なまなざしをむけてくるのだろうか。その時の自分の足は空気に喰われている。

    Dr.Martensの手入れをしながらかかとを確かめる。外側へ向けてすり減っている。左右とも。ひどい蟹股で歩いているらしい。格好の悪い話。街ゆく人の歩く姿に目を奪われる。美しい立ち姿。「正しい」姿勢と「正しい」歩き方を知らない。ただ自分の感覚のスイッチが押されただけ。

    手入れをしながら100年後の自動車を想像する。登録された生体認証でしかエンジンは作動しない。一定時間ごとにハンドルから生体認証の信号を受信する。あるいはハンドルはなくなっているかもしれない。もし別人が運転していたら、AIは周囲の状況を計算して安全を確保してからエンジンを停止させる。走行中の車間距離制御は当然。生命体への衝突を完璧に回避する制御システム。

    もう少し先ならどうだろう。体内にインプラントしたIDは運転手の状況をワイヤレスで自動車のAIへ送信する。AIは乗車の是非を判断する。違うか。その頃になれば、もう「運転手」の定義は書き換えられている。運転しなくてよいかな。

    描く映像へ到達するまでの道のりは長い。究極の個人情報の提供や走行の「自由」を奪われかねないことへの抵抗は激しいだろう。技術と制度と知性の3つが大衆を説得するまで起こりうる事象は人から奪い続ける。

    少しずつ漸進していく様を静かに見守り、淡々と参加する。数年先の将来は悲観して数十年、数百年先の将来は楽観する。懐古趣味はない。昔を礼讃するほど昔を知らない。

    16:00過ぎに出発。大阪駅で下車。“感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)” 高橋 昌一郎 を購入。自宅から持ってきたコーヒーを飲みながら読書。その後、移動。目的地二つ手間の駅で下車。徒歩。

    歩きながら、複式簿記を考える。資産が身体、負債が心、資本は命としたら、収益と費用はなんだろう? 収益は脳への報酬として費用は何だろう。あるいは収益を脳への入力、費用は脳からの出力としたら、貸借対照表はどうしようか。いままでためてきた内部留保をこれから食いつぶしていくんだろうなぁ。

    資産の身体を駆使して負債の心を返済する。心の返済とは静謐と安定を保ち続けること。さっぱりした生活の糧。今の状況をB/S・PLで算出すると、身体を使って心の返済ができず借入が増えていそう。

    我ながら暇つぶしのテーマが浮かんで35分ほどの道のりもあっという間。もう汗ばむ気温でやや閉口。

    19:00からF先生のミーティングに参加。イメージしていたようなファシリテーションができなかったのでご迷惑をおかけした。そろそろシステムを完成させて運用に入らなければ。議論のテーマが拡散している。僕がカテゴリーを分類して、要点を抽出して高効率の議論の枠組を提示しなければならない。

    他方、議論の拡散がよいアイデアを生む。今回の一部もそれにあてはまる。だから杓子定規にファシリテーションしたら発想の萌芽を摘む。拡散が認識を更新する。個々と集合体の差異を言葉で表現できるようになる。言葉で表現できるようになれば、あとは方法を実装したら解決できる。実装は僕にまかせてもらえたらOK。

    21:00すぎに終了。その後、先生とK先生、Tさんで食事へ。23:00でお開き。つくづく思うのは時間。時間の軸、というかspan, view, perspective。時間の幅と視点をどれだけ広くとれるか、そして観点の変異をいくつもてるか。長く広い空間に身を置くと茫然自失の私と出会える。先生との食事は、その私との出会いを仲介してくれる。

    深謝。

  • 揶揄して揶揄されて終油

    2012.04.11 雨

    今朝は DEXY’S MIDNIGHT RUNNERS – COME ON EILEEN でスタート。いかにも80年代って知ったかしてますが何も知りません。不思議なのは、こういうテイストをどうして80年代って感じてしまうか、ですね。やっぱりパターンがあるのかなぁ。

    Twitterは140字でつぶやかなければならない。短いと感じるけど、いざTLの画面に向かうと自分の意見を140字にまとめてエッジを効かせるのは難しい。反面、他者のつぶやきはステキで羨ましく、なかには切れ味するどい140字にもお目にかかる。ほんとにすごい。

    ネットのおかげで他者の知性にアクセスできる場が飛躍的に増えてうれしい。もちろん罵詈雑言はある。意味不明なテキストもある(自分のブログが筆頭)。

    ネットを修養の空間としてとらえている。「成熟した公民」とは、端的に言えば、「不快な隣人の存在に耐えられる人間」のことである。とおり、不快な隣人の存在を認識する。そして僕が不快な隣人になっている。

    数年前から自分の専門領域以外のコトについては感情的な反射や批判をなるべく口にしない、文章に書かないと自戒している。やってみたらかなり難しい。想像していた以上に鍛錬しなければ、吐露してしまう。今でも脊髄反射して凹むし、便所の落書きみたいな批判を書いて赤面する。

    どうしてそう思うようになったかというと、ネットでそのような類のテキストを目にしたとき、格好が悪いと素直に感じたから。意見の表明をやめさせるような暴挙に出ないとしても、「あなたの意見はおかしいからまちがっている」みたいな訳が分からない文章を書くのに知識をこねくり回す。僕はそこに近づいてはいけない、って感じた。

    メタに眺めたらこの文章も脊髄反射で感情的な批判だから、格好が悪い。

    午前中、ついに右肩があがらなくなり、タイピングできなくなったので何もしなかった。4月にはいってからの身体の調子の変動と顎の不具合に難儀している。午後からF先生の資料を作成してメールに返信。環境の定義について私見を申し上げる。それらを書き終えた時点では右上半身がわずかに痺れてきたのでストップ。

    ハードウェアとソフトウェアにはタイムラグがある。iPadが登場したとき、アーリーアダプタをのぞけば普及するまで多少時間がかかった。それでもその「時間」はめちゃくちゃはやい。ソフトウェア、iPadならアプリが揃うまで、アーリーアダプタ以外のユーザは使いづらい。

    いまではiPadは様々な業種に波及している。先日、歯科で使うアプリを拝見して驚いた。誰かがやるだろうと思っていたけど、もう開発されていたのかと感心した。自分が想定している以上のスピードでプラットフォームが変化している。

    新しく発売されたiPadの解像度は2048×1536。実機を見たら圧倒的。ほんとにPCのディスプレイで写真を見る気がなくなる。動画もこれで充分じゃないかと思える。一方で、この解像度の「すばらしさ」をユーザに十全に体感させるアプリはまだ出そろっていない。ゲームはそろそろかな。これからだ。それらが出そろったとき、どんな変化がやってくるか今からとても楽しみ。

    たとえば写真を撮影して無線LAN機能付きSDからワイヤレスでファイルーサーバへ保存して、iPadからいつでもストレスフリーで写真を出し入れできるような画像管理アプリが開発されたら、写真に直接「情報」を書き込める。それが起点となってテキストを作成できたり、とか。プレゼン用、モデリングなどなど。たぶんFileMakerやBentoを使えばいますぐにでもできそうなんだけど、それを「業界用」にカスタマイズしたアプリがリリースされるかなぁ、と予測。

  • 前提

    2010.12.11 曇

    現代の中国に対する一般的な感情と裏腹に”古代”と冠詞がついた風習や言葉は生活の風景に現れる。カボチャを売るために冬至を知らせるポスターを目にした。二十四節気が記されていた。今は大雪。そして次候。熊蟄穴。くまあなにこもる。ちゃんとこもれるかな。

    金曜日にO先生とやりとりをしてサイトを修正。午後からWP制作。新規の制作はおもしろい。トレンドの技術と安定した枯れた技術の両方を使えるから。クライアントの中でもリニューアルしたいサイトはあるけれどこればかりはいかんともしがたい。時宜や成果とリンクしている。

    葉物野菜の価格が少し落ち着いてきたかなと思う。先日、福井のほうで畑を持っていらっしゃる方から里芋と大根と白菜を頂いた。たくさんくださろうとしてくれたんだけどそんなのもったいないからって伝えたら、「欲ないねえ」って福井のイントネーションで微笑まれた。ちゃんと保存したら3月ぐらいまで持つよって教わった。

    スーパーと冷蔵庫が頼りの生活の感覚で物事を解釈していたので驚いた。無知、この場合の知は情報や知識ではなく知恵に近いニュアンス、をさらけ出したようでとても恥ずかしかった。

    さっそく頂戴した里芋と大根と人参やらで煮物を作った。里芋を食べてほんとうに驚いた。ふだん食べている里芋はスーパー仕様だ….。僕はそんなふうに実感した。スーパーに卸している農家の方に失礼のないよう申し上げると、悪いわけじゃない。食べ頃が違ったり鮮度の度合いが関係しているかもしれない。

    前提がある。以前にも書いたが、今、野菜の直販市場が成長している。主に道の駅や道路に店舗を構えて農協や卸を仲介させずに流通させる。コンテンツは鮮度、だとしたらそれはあたりまえ。目利き。朝、買ってもらって昼や夜に食べたらウマイ野菜を見極める。その野菜を畑から引き抜く。それがコアコンピタンス。刹那の旬を見極めずにむやみやたらに引き抜けば、鮮度だけが売りでしかない。まあ、それでも圧倒的優位ですよね。

    前提だ。一般的に使われるインターネットが現れて15年。ドッグイヤーの速度を単純に適用しても許されるなら105年が経過している。1世紀。調査会社IDCによると、2006年に生み出されたデジタル情報量は161エクサバイトだったという。161エクサバイトの量は、これまでに執筆された書籍の情報量の約300万倍。これらの書籍を積み上げると、地球から太陽までの距離およそ1億5000万キロを超える高さの束が12束分となる。もう天文学的数字を超えて誰にもコントロールできない。S/N比を考慮しても爆発的な増加、という「爆発的」が陳腐に聞こえる。

    世界のインターネット利用者は2010年にも20億人を超えるとITUが報告した。世界人口の28%しかインターネットを利用していない。にもかかわらず。

    言葉が世界を切り分ける状況が進行する現在、これまでの前提をもとにした判断が最適であるかどうかを僕は問われていると思う。

    ミラーサイトを世界中に立ち上げているWikiLeaks, WikiLeaksの批判を考慮して競合サイトが立ち上げ準備に入っている。世界中の新聞やWebサイトなどの協力を求めてリーク文書のニュース価値を評価し、適正な形に編集加工してからリリースする OpenLeaks。

    国家や法体系、統治システム、秩序、エネルギー、情報……抽象的で思考できなくて何から手をつけて吟味すればよいか途方にくれる。

    批判してもよいと思う。それも「自由」だ。括弧つきで書くのは自由と書けば、WikiLeaksの言論の自由と我々の批判の自由は違うと反論があるだろうから括弧つきにした。

    WikiLeaksは単に一例にすぎない。僕は批判するより今何が起きているのかを吟味したい。受け入れるとか受け入れない、あるいは賛成や反対といった立場に立たない。異なった解釈を模索したい。

    急激に変わるわけない。教育や医療、法律といったシステムの根幹を構成するインフラは数年や数十年の時間軸でとっかえひっかえしてはいけないという意見もある。熟考された指摘だ。同じ時がかかるとしたら30,40世紀ぐらいの人が、「21世紀前半、人類は世界とインターネットのあり方について岐路に立っていた」と考察されるような理路をたどっていきたい。

  • 七倍

    2010.11.24 晴れ

    曇り空が続いたので今朝のおだやかな天気は心地よかった。柔らかくて明るいひかりが差し込んでくる。東の方向へ躰を向けて浴びているって実感。ガジュマルといっしょにあびる。このひかりが一日の始まりを教えてくれる大切な儀式みたいでおもしろい。

    F社のサイト制作。担当しているウェブサイトはそれぞれの課題を抱えている。F社はファインダビリティからアクションまでのプロセスが課題。サイトのボリュームは多い。反面、最適なナビゲーションを僕が制作できていないから見つけにくい。ファウンダビリティが低下すると目的のコンテンツへ到達できない。次のアクションへ接続されない。特に検索エンジンから見つけやすくしないと。順位を上げるのは必要条件だけど十分条件じゃない(たぶん使い方は間違っている)。

    ユーザは検索したとき探したいコンテンツと検索結果が近ければクリックする。

    今、「歯科 増患」と入力したら Google は約32,100件を表示した。では「自費」と加えて「歯科 増患 自費」だと約3,590件、「歯科 増患 定期検診(一般的用法)」は約2,010件。

    これが「インプラント」だけなら約10,100,000件。月間の検索回数が多い単語だけを入力して目的のサイトにたどり着くのは難しくなった。サイト運営者も順位を上げにくい。インプラントだけでGoogleの1ページ目に表示されたいなら専門家へ依頼したほうが早いと思う(注意は必要だけど)。いかに組み合わせるか。

    検索のキーワードは文章じゃない。たいていは「単語」を使う。ひとつの単語で検索するか複数を組み合わせる。ただし金言や有名なフレーズは文章で検索する。

    ユーザは文脈を持っている。何かしらの文脈だ。文脈を想定して仮説を立てる。ユーザは探したいコンテンツをイメージで抱えているか、知らないから調べるか、それとも体系的に情報を収集する途中か、などそれぞれの文脈があって、ユーザは自身の文脈からキーワードを抜き取っている。

    手前味噌ですが検索で驚かれることがしばしばある。どうやってそんなサイトにたどり着いたと尋ねられる。キーワードを伝達するとみなさん吃驚される。そんな単語を思いつかなかったみたいだ。同類のコンテンツを探すにしても入力するキーワードは異なるなあって痛感。

    キーワードを入力して検索結果に表示される文言が自分の検索したキーワードと近いとクリックする。「歯科 増患 自費」と検索してどこをクリックしたでしょうか?

    ところがその先は違う。それから先に表示されるテーマが一致しなければ直帰する。検索結果に表示された「歯科 増患 自費」のページをクリックして読む。すでに知っている内容だったりむちゃくちゃな事を書いていたり、自分の思考と合致しない内容だと「戻る」ボタンを押す。あるいは閉じる。

    検索結果の表示とテーマの一致を高めなければならない。順位の向上は技巧的な要素でテーマは中身の要素です。前者と後者は対立や別個の関係ではなく円環するようにしないと。

    先日、あるトピックがソーシャルブックマークに現れた。7月にYahoo! JapanとGoogleが検索エンジンの提携を発表した。それから動きはなかったが、先日、Yahoo! JapanとGoogleの検索結果がどうも一致したらしいとの記事がアップされてこの話題で盛り上がった。あくまで一部のサイトらしいしネット界隈は裏をとれていない。まだ確定した事実ではないだろうし正確な情報が出そろっていない。これから分析がはじまると思います。

    僕はSEOやSEMの専門家ではない。昨今のウェブマーケティングというかウェブに関連した業務は細分化されているから一人で全方向をカバーできない。不可能だ。ドッグイヤーは陳腐だって感じるスピードで進化するから、自分の今日の知識は昨日になれば古くなっていると自戒して取り組んでいる。

    だから揺るぎないコアを求めて右往左往しているんだろうな。情けないけれど。

  • 充実

    2010.10.28 雨

    朝から雨。寒い。一日のなかに寒暖の差が ある。金曜日からは気温が平年並みに戻るので周期的な寒暖の差がある。身体は寒暖のネスティングに順応しないからつらい。

    道路に面して植えてある樹を見た。窓から見える樹が短い。短くなっている。以前はマンションの3階建て駐車場の2階天井まで達していたが今見ると剪定したように思う。マンションの樹なので業者の方が剪定したのだろう。剪定したように思う、という程度で正確に何cm短くなったかわからない。気づかない。毎朝眺めている風景の変化に気づかなかった。自分の鈍感をひどく驚く。なぜ気づいたのか尋ねた。枝の尖端が不自然な形をしていたからだという。視力1.5なら見えるのか。僕は0.2,0.3ぐらいなので見えない。でも、見えたとしても気づいてない方に賭け金を置いてよさそうだ。

    前日に続いてサーバートラブルを復旧。ローカル環境でのテストは完了したので本番へ。新しいサーバーを申し込み設定する。設定が完了するまでの間に、本番用の手順書を作成してMECEでチェックしてシミュレーションを繰り返す。結局、13:00すぎにデータの95%程度まで復旧した。なんとかうまくいけそうだ。

    復旧までの作業内容と今後のお願いを書いて先方へメール。すぐに返信してくださったので、次の作業にとりかかった。この分だと金曜日に全作業が完了するだろう。充実感と安堵感。今夜のシングルモルトはとても美味しいはずだ。16:00頃からワクワクしていた。

    新型MacBook Airのレビューを見る。自分の認識は間違えていた。レスポンスがよい。とても充実したラップトップである。バッテリーが心許ない点を妥協できれば、フルサイズのキーボードを必要な人にはとてもよいかもね。

    ただ孫正義社長の極論「ノートPCを持ち歩くのは恥ずかしい、Netbookは隠さなければならない、極論だが、そんな時代が来る」に僕は賛成できる。あくまで前提を明確にした使い方としてだけど。藤井先生のツイートを読んで、「ああ、そうか、そういう認識に変わっていくな」と実感できた。

    だから iPad へ移行するか MacBook AIr か悩む。両方とも買う余裕はない。iPadと MBA を比較するなんてナンセンス。承知しているのに自分はなんだかよくわからないまま比較対象にしてしまった。外出してバリバリ文章を書かないし、外出先でも常時オンラインで YouTube や USTREAMを視聴したりFacebookを更新する、こともない。こんな具合であれこれ悩む間に次の iPad がリリースされるかもしれないな。

    3年前、 iPad を想定できても Netbook を駆逐するような勢いまで思わなかったし棲み分けるだろうと思っていた。でも、日経メディカルの記事を読んで iPad が医療現場で使われるシーンを具体的にイメージできたしすでに開発はさらに進んでいるだろう。そこへ Android 端末が参戦してきたから パッド系のデバイスはカンブリア紀に突入した。それにあわせてプラットフォームが充実してネットのライフスタイルがまた進化する。

    パッド系、MacBook Air系、そしてスマートフォン系、今、これらが分岐している最中だ。進化論的な系図を書いて、プラットフォームがどうなるか考えているだけどとてもおもしろい。ワクワク。

  • 過激

    2010.10.19 曇

    10/14, 10/15と開催された(はず)枚岡祭を検索してくる人が増えた。このエントリーがヒットしている。5年前のエントリー。懐かしい。左の写真は15歳、右の写真18,19歳か。髪の毛があるなぁ。朝、水やりをしてラベンダーのつぼみに気づいた。そろそろ咲くのか。とても楽しみ。反してガジュマルの葉につやがなくなってきた。少し心配。

    O先生のイラスト制作。今日でおおまかなポイントを描き終えられそう。描けたら毎度同じく寝かせる。数日後にもう一度ファイルを開く。その時のポイントは自分の状態だ。自分の状態をどれだけ真っ新な状態へ近づけるか。自分で描いたファイルをあたかも他人のオブジェクトのように観察しようとしてファイルを開かなければ寝かせても成果はでない。

    『COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2010年 11月号 [雑誌]』 講談社 がおもしろい。TEDの記事が掲載されていたので書店で見かけてすぐに買った。TEDの動画をよく視る。日本語訳が更新されるとアクセスして視る。ビル・ゲイツ曰く「5年以内に最上の教育はウェブからもたらされるようになる」 らしく、茂木健一郎先生はTwitterでTEDを「次の時代のハーバード」と評していた。そんな意見に対して米国の大学は価値を提供しようと、iTunes UやYouTubeに無償で講義を公開している。講義を動画で提供するにはコストがかかっている。では米国の大学はそのコストをどう捻出しているかを11月号は掲載している。専業主婦が「先生の講座のおかげで興味を失わず、むしろ拡げることができます」といい、スペインに住む元投資銀行家は、「大学時代に物理学の学位を目指すべきでした」とメールを大学へ送る。メキシコ、イラク、韓国、中国などから大学へファンメールが届く。

    体系的に学ぶことは難しいかもしれないが、学びたいと思えば日本にいても世界中の講義へアクセスできる機会が増えた。ほんとうに感謝したい。僕の障壁は英語。言い訳にしない。学びたいものが英語で提供されているならしょうがない。

    最近視聴した動画 デレク・シヴァーズ 「目標は人に言わずにおこう」 | Video on TED.com がお気に入り。時間は3分18秒。3分間スピーチ で素晴らしいコンテンツを表現できる。否、反対。3分で表現できるデレク・シヴァーズの着想と着眼と技術がコンテンツなんだ。最小の語彙と最適な表現、そして映像をうまくコントロールすれば3分で伝達できる。1分間で話す字数は日本語は平均約400字。英語だといくつだろう。

    TEDのひとつのプレゼンは原則18分内と定められている。この18分の意味を調べてみたいが、TEDのプレゼンを視ていると、10/14の日記に書いたAmazonの”Kindle Singles”とリンクする。アイデアを伝えるために1万~3万語(約30ページから90ページ)程度が最適化されたボリュームだとAmazonは説明する。

    TEDの動画は相互理解や説得ではない。アイデアを的確に伝達している。そのボリュームが18分。理解は聴衆の側にあり、舞台の上の人は理解をコントロールできない。そう解釈すると90-120分程度のプレゼンの伝達効率は低下するだろう。それよりもまず時間をクリアすることが目的となりかねない。そうなれば必要ない要素が組み込まれてしまう可能性が高い。結果、プレゼン全体がぼやけてしまう。

    舞台の上の人は過激だ。自分の研究結果に自信を持っているからだろうか。コンテンツを紡ぎ出せた人の考えや言葉の選択は過激であっても洗練されている。賛成と反対、どちらであっても反応したくなる。そう、身体を動かしたくなるコンテンツだ。村上春樹がパスタを作るシーンを書けばパスタを食べたくなるように。

    パッチワークの作品はすばらしいアートだし機能的である。様々な大きさや色の布片が多様で変化に富む模様を作り出す。僕はあれを見るたびに思う。素材が布片だとアートだ、でも素材が言説ならばパッチワーク手法と言われる。

    パッチワークの目的は何だろう? つなぎ合わせが目的だろうか? 違うはずだ。じゃぁオフライン・オンラインの至る所で見つけられるフレーズをつなぎあわせたパッチワークの目的は何? 自分の頭の中で再生される映像や思考を表現すること。だけどそのコンテンツは過激じゃない。つなぎあわせることが目的になっているからだ。上品に言えば「編集の仕方」の技量がいつしか目的と変わっている。

  • 書体

    2010.08.09 曇時々晴れ

    08/06(金)にM先生と食事してから帰宅途中、びわ湖花火大会の宴の後を見ながら帰った。浜大津駅付近はゴミ屋敷の惨状を呈していて00:20頃の街の粘性は高く、躰にまとわりつく空気はひどく人工的で気持ち悪かった。職人が丹精を尽くして造った花火は華美な装飾で天上を彩るけれど地上の面倒までは見てくれない。

    O先生のページ制作。歯周病とインプラントのラフページを終了。このページを見ながら先生と細部をつめてゆく。

    Macでページを制作していているとひとつの事実を忘れてしまう。フォント。スティーブ・ジョブズとMacでは必ず引き合い出されるフォントのエピソード。

    「僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした」とスタンフォード大学卒業式でスピーチしたとおり、ジョブスはフォントに心血をそそいだ。その執着は異常と評され病的なまでにフォントの美しさを設計した。

    その美しいフォント機能が搭載されたMacのブラウザに慣れていると、時折、Windowsのフォントに吃驚する。ページを制作しながらIE6-8の表示を確認する。今更だし改めて感情を露呈する事態でないはずなのに、MacとWindowsのフォント表示の違いに戸惑う。Windowsの可読性は自分が想定した目盛りをずいぶん下げなければならない。

    自分の 表のサイト をIE6で確認したたら想像どおりだったので吃驚しなかったけど代わりにがっかりした。しょうがないとはいえ、想定していたとおりとはいえ、読みづらい。本来ならハックを使ってブラウザごとに仕訳してフォントを調整すれば解決できる。自分のサイトではそこまでしようと思わない。

    Macが優れていてWindowsが劣っているという問題ではなく、両者の指向性の違いだと自分は認識している。

    大学をドロップアウトしてカリグラフィのクラスに寄り道したジョブスが微妙なアートの要素を含んだフォントの世界に出会った。そこで何かを学んだ。それから10年後、Macintoshに何かが搭載された。

    指向性の違いを承知して強く希望すると、MacやWindowsを問わず、そろそろウェブサイトの世界は可読性を追求してもよいと思う。

    HTML5の可能性を肯定すればウェブサイトの動画の道は開かれている(コストの問題を解決しなければならないが)。楽観的な立場をとれば、動画はウェブサイトを進化させる。

    動画の道が開かれて技術が進歩すれば、ウェブサイトはインターネットの外側にあるメディアを統合していく役割を担うと思う。長い年月をかけて統合していく。

    本や雑誌の中で動く映像を見られないけれど、ウェブサイトではそれを実現できる。それがウェブサイトの可能性だと思う。その時、テキストの可読性が改善されなければ、いつまでたっても紙か電子書籍かといった議論が続く。

    PC(あるいは各種デバイス)のローカル環境に保存されたフォントを表示する技術的制限を解決しなければならない。クラウドにフォントがあってそれを読み出すような仕様に変更されたら、各設計者が想定したとおりの可読性を維持できるサイトを実現できる。そうなればWikipediaのヨハネス・グーテンベルクの関連項目にウェブサイトのフォントが記載されてもよいなぁって思う。

  • 検索

    2010.07.27 晴れ

    琵琶湖の水位は-19cm。少しずつ下がっている。毎日、琵琶湖の水位を確認していると変動のcmは日々変わる。水位が1cm下がる日や3cm下がる日もある。

    琵琶湖の水位が1cm変動すると、変化する水量は、約680万㎢(琵琶湖の面積) × 1cm = 約680万㎥ で、琵琶湖の水位1cmが増減すると、大阪ドーム約6個分の水量が変化する。ちなみに京都市の面積(610㎢)と琵琶湖の北湖の面積(614㎢)はほぼ同じ。

    午前中、S社のページを修正してアップ。S社のページ制作も7月で終了。あとは新しい業者さんへ移行するのでその業務を後方支援して完了。5年間。長い間お世話になって深謝。

    午後からWP制作。WordPressが便利になっていく。これからはもうWordPressを中心に制作していたきたいところ。

    Google Japan Blog: Yahoo! JAPAN のより良い検索と広告サービスのために とGoogleが発表した。GoogleがYahoo! JAPANと提携して検索エンジンを提供する。Yahoo!JAPANはGoogleの検索エンジンを再び使う。検索エンジンをアウトソーシングして広告業務やオークション、知恵袋などのサービスへ資源を集中させるのだろう。

    今回の提携によって、日本の検索市場はGoogleとMSのBingに二分されるが、ユーザ数の比率を勘案すれば事実上Googleの独占状態だと思う。広告市場は別問題であって、あくまで検索エンジン(ユーザーが検索してページを表示する部分)の状態だ。

    サービスが提供されてからでないと確認できないが、SEOの負担は少し減るかもと期待している。Yahoo! JAPAN対策の負担が減ってくれると自分はありがたい。Googleは検索エンジンの指標を公開してツールを提供しているので、積極的にアプローチできるし書籍やウェブから情報を収集しやすい。

    Googleに関してであれば、コンテンツの表現, サイト構造の設計, HTMLのマークアップの3つの観点からSEOをアプローチしてトップページから2ページ目以内、絞り込めば1ページ目へ表示できる成果は出せる。もちろん、SEOとSEMを専門的に請け負っている方々の足元にまでは及ばない。言わずもがな、表示されてもクリックされなければだし、クリックされてアクセスしてもらってもアクションがなければ…….であるけれど。

    情報量と意思決定の精度の間には逆U字型の相関関係を示すという研究成果成果がある(参照)。情報過多になるとマリファナよりも集中の妨げになるらしい。

    無秩序で不規則な生活を送っているように見えるが、人は普段の習慣を頼りにする。選ばないことを選ぶという不思議な行為。初めて耳にするブランドよりよく知っているブランドを信頼する。知人の真似をする。

    遊んでいても決定を迫られる。ならば仕事や教育、育児…….いわんやだ。決めなければならない。こちら側からアクセスする情報より流れてくる情報が圧倒的に多い。それを仕訳するときですら”決め”なければならない。

    プルをあきらめてプッシュを甘んじて受け入れる。それが情報の大海から逃れる方法だから。でも、プルしようとする人たちはいる。自ら選択したい欲望を持つ人たちへ針山から針を探す(藁山だとすぐに見つかる)一助となるようなサイトを設計したい。